閉鎖システムの余談
【閉鎖システムの余談】
校長室。
向き合う二人の女性は、唾を飛ばさんばかりの剣幕で怒鳴り合っていた。
「教師にしてくれって頼みこんできたから仕方なく採用したら生徒に手を出すってどんだけビッチよこのクソ女!」
「うっせぇババァ!こっちがいい男ひっ捕まえたから羨ましいだけだろーでしょーが!どんなに欲しがってもやらんぞ!私の男だからな!」
「な!?そんなわけないでしょ!まさかそれで教師勤まると思ってんの!解雇するわよ解雇!」
「知らないわよそんなこと!こっちだって突っ込んだりなんやかんやを我慢して健全な生活してたのよ!性欲全開で男とやってたアンタがそんくらいで騒ぐんじゃないっつーの!」
「やたら偏見に満ちた物言いはやめなさい!とにかく!彼を離して!話はそれからよ!」
「嫌よ!こちとら跨られたり首輪付けたり既にされてんのよ!離れられない宿命なのよ!」
「なっ!?この女は健全な生活だの言っていた傍から!」
騒ぐ二人の傍。片方の女性に抱えられていた青年。
その掌が。
衝撃波を発するのではないかという勢いでテーブルへ叩きつけられた。
二人の剣幕がぴたりと停止する。
少年、もしくは青年と呼ばれる年齢の彼がソファーから立ちあがり、同時にその拳を振りかぶっていた。
「え?」
若い女性の脳天に拳が突き刺さった。衝撃に額をテーブルへ打ち付けた彼女の沈黙を確認し、青年は座り直した。
「少し、別の話をしても?」
「え、えぇ」
中肉中背、細目に短髪。これといった外見的特徴のない青年。
「貴方も、魔物で?」
ともすれば病院に相談されかねない単語を前に、校長という役職のイメージに反した若々しい女性が溜め息を吐く。
「そうよ」
春。
始まったばかりの高校生活は、既に安穏たる日々から離れていきつつあった。
人気のない放課後の図書室。
白い肌、結い上げて束ねた銀に近い灰色の髪、身長は180cm前後、体重は頭一つ分小さい隣の青年と同じ程か、それ以上はあるだろう。
「それで、何故そんな本を?」
「・・・今更、口調を取り繕ってないか、お前」
塊、そうとしか表現のしようのない不定形の物体が視界の端で揺れる。胸部の微かな縦揺れに青年の脳内で危険信号が発され、情動やら性欲やらと呼ばれるシグナルが強制停止される。
童貞だから童貞だし童貞なものだからとしか表現のしようもない青年は、深い溜め息と共にバイト雑誌を閉じた。
細目に墨色の短髪、凡百の外見でありながら妙に達観した雰囲気を備えた男子高校生こと杵島 法一(きしま ほういち)。
異国の風貌が眩しい妙齢の美女ことドラゴン種、巽・カンジナバル・夜子(たつみ かんじなばる やこ)。
「それで、カンジナバル、なんでこんな所に?」
場所ではなく時間軸と世界を意味する短い単語。
彼女はこの世界とは違う世界の軸で生を受け、本来ならこの場に居るはずもない存在である。
同時、彼もまた本来であれば三年後の世界の存在でありながら、記憶を持ちえたまま三年前の身体の中へ、異能を持ちえたまま落ち着いている。
彼らの出会いを語るには三年後にして時空という定義からかけ離れた説明にすら困るシステム化された殺し合いについて述べる必要が発生するが、それらは既に事象の彼方である。彼らであれ、あれが何であったかを説明する術はない。
「まぁ、すっげぇめんどクサい事言うけど、つっこまないでね?」
「解った。約束しよう」
同意した法一は、懐から取り出した近隣スーパーのチラシにマークしていく。卵29円に丸く円を描いていると、その頭をカンジナバルが掴んだ。
「ざ、く、ろ、に、なりたい、のかなー?」
「痛い。マジで痛い。かなり痛い」
溜め息。カンジナバルが手を放す。
「ホウイチ、明るくなったよね」
「まぁ、合法的に人生がやりなおせたからな。正直に言えば心が軽くなった」
チラシを懐にしまった法一は、気の抜けた様子でふらふらと手を振る。
「アルタイレフの箱庭。ボードの名で呼ばれていた世界の名前」
突然の言葉。思わず顔を上げる。
「大昔の王様が悪神を封じる為に造り出したものだったらしいけどね」
最初期のシステムは、英雄と呼ばれる存在が、封じられた悪神を少しずつ削り、いつか討ち倒す為の檻だった。
魔力の供給は当初、その王が一人で行っていたらしい。
小国の主でありながら数々の遺物を残し、一部の者からは称賛と畏怖をこめて名を呼ばれていたらしい王、その名をアルタイレフ。
その後、誰も発見できなかった王の墳墓が山そのものの崩壊によって見つかる。崩壊の引き金となったのは一人の東方移民。
崩壊した土砂の中から、幾つかの遺物が発見された。
その一つがアルタイレフの箱庭だったという。
「それからとある異端審問会が処刑具に改造したのが、このシステムの始まり。たった半年で300人が死亡、その異端審問会の人間も取り込まれた」
「リミッターが外れてしまったと?」
「おそらくね。雑な技術で改造したから、歪みができたんでしょうね。そして最後は魔力全てを還元して、誰かが自分の欲望を叶えた」
「誰が?」
「あなたよ。じゃなけりゃ、あんな都合のいいハッピーエンドになったと思う?ありえないでしょうさすがにあれはー」
驚き。
次いで、腑に落ちたとばかりに納得。
テレビ。
映っていたのは自分の望みでしかなかった。
「それにしても、魔力ってのはそんな簡単に制御できるものなのか?」
「そりゃ、あの世界に居たのは貴方だけだったじゃない。命令する存在が単一だから、何の支障もなかったわけ。悪神も下手すりゃ次元の狭間行きのあんな状況で、よく帰ってこれたわね」
「んー、まぁ、叶うならば」
苦く笑う。
「お前の本当の姿とやらを、見てみたかったと思った」
カンジナバルの顔が真っ赤になった。
「・・・なんかもう、こっ・・・・ぱずかしい!」
「なんかなぁ。龍だった頃の記憶が真新しくて、あんま女って感じがしないんだよな。話をしているだけだと」
「あぁもうそんなぶっきらぼうなところも抱きしめたいし抱きしめるしほんと好き。愛してる」
「誤解されそうだなぁ。そういった直接的な台詞」
ほとんど胸の谷間に埋まるような格好でにやけそうな顔をしかめる法一。突然身体を放したカンジナバルは、ポケットから携帯を取り出した。振動している。
「・・・はい、もしもし」
そろそろ帰っていいかなぁ。などと考え、こっそり図書室を後にしようとしていた法一は、その肩を掴まれた。
「わかった『集会』ね。一人、ゲストが居てもいい?」
拳を黒くする。その力は禁忌(ギャザ)と呼ばれる異能。こんな力を持ちえたまま元の場所へ戻るとは想像していなかったが、こんな場面で使わなくてならないと思った理由はなんだろう?
「家族を紹介するわ」
「順序がわかんねぇ!?」
突然の精神攻撃を前に、法一はこんらんした。
広い会議室には資料が散乱している。
パソコンの画面に表示されたグラフなどと兼ね合わせ、会話は次々と進んでいく。
「秋葉原の自由な通行に関して」
「あちらは管轄および介入はしない」
「個別の交流に関して規制するような真似は慎むべきだ。今後も黙認を継続」
「前年に開始された世界同士の貿易はどんな感じ?」
「大々的な物流ルートが確保できない。今後も、販路を広げないままを予定しています」
「では、技術交流に関してはどうなっている?」
「マグネタイトとアルミニウムの合金を開発中です。今後は宇宙事業への展望も見込み、かなりの利益が期待されています」
「カヌクイの各分家が管理しているゲートの現状は?」
「常時機能しているゲートは三つ、どれも正常な接続を継続中」
「では、この間に強姦罪で捕まったボブゴブリンの案件は?」
「不介入。こちらの法に則って処分。それは秋葉原の方でも同じね。大きな事例に発展しない限りは手を出さないまま」
「それでは、情報交換も無事に済んだところで、会合はお開きとしましょう。皆さん、お疲れさまでした」
立ち上がるスーツやドレス姿の面々達。各人が常人であれば兼ね備えていない器官。角、虫の手足、毛皮、鱗などを露出していたが、身に付けたアクセサリーを触っただけで誰もが見目麗しい美女となっていた。
数少ない男性の中、中肉中背、黒いスーツ姿の青年が立ち上がった。
「おつかれ。どうだった?」
「正直、本気で驚いた。自分の住んでいた世界にこんな裏側があったとは」
「そうじゃなければあんな簡単に箱庭へ放り込まれたり、私がこの世界に来れるわけないでしょ」
「それもそうか」
彼女の説明によると、彼女達の住まう異世界と地球とを繋ぐゲートは、人間の一族、カヌクイと呼ばれる家柄の人間によって管理されているらしい。
次元を透過し、彼方にあるジパングとこの日本を繋いでいるゲート。立地や環境、レイラインの環境などによるものか、比較的に安定している為、こういった魔物の組合からも重視されていると。
「そこを通って、私も来たのよ。まー、交通の便が悪くてね。ジパングに行くまでも飛べなければ諦めたくらいに遠かった」
その後、山間部の地方都市へゲートを通って到着。この街へ来たのは今年の2月であったという。
「時間軸がずれているようだが」
「そんなの、あの世界が異常だったのよ。それよりご飯いこうよー。おなか減った―」
まるで離れると何処かへ消えてしまうのではないかと危惧するかのカンジナバル。ばたばたと手を振ったカンジナバルが、法一の手を握る。
「こうやって触ると、けっこうごつごつしてたんだなーって思う」
「そうか?」
「なんか興奮ー。こう、教え子をかどわかしている感じが」
「・・・学校で似たような台詞言ったらしばくからな」
手を邪険に振り払い、法一が部屋を出る。消え去った三年間の記憶の恩恵によって結べたネクタイを緩めると、シャツのボタンを一つ外す。
「あ、その仕草セクシー」
「・・・魔物ってのは、みんなこんな脳回路なのか?」
基本的にはその通りです。
「それで、家族とやらは?」
エレベータで一階へ。20階建てのビル全てが、この『組合』が所有しているらしい。
「んー、それがね、妹がこちらに来ているはずなんだけど、不参加だったみたい。かえろかえろ」
「・・・そんな適当でいいのか?」
「生きてりゃそのうち会えるわよ。たかだか1日や2日で死ぬわけでもないし」
「大雑把にも程がある」
「まー、寿命に比例して気が長いもんよ?けど、その中で最良の恋人ができるかは運次第だけどね」
「まぁ確かに運だろうな。俺も彼女が欲しい」
「あれ!?私が恋人でいいじゃん!?なんで認めてないのかな!?」」
「え?本気だったのか?」
真顔での問いに、カンジナバルの顔が再び真っ赤になる。
「うん、あの、そうよ、待って、こくはくとか、どうやるんだか・・・」
しどろもどろ、言葉を続ける。
「いや、やっぱ、なし、ちょい待ち、まだ心の準備が。なんか、どう言ったらいいのか、わかんないし」
指先が髪へ触れる。
「待つよ」
高い位置にあるカンジナバルの頭を撫でる法一。
これといった緊張もなく、ただこの関係を楽しむように笑う。
「どんな答えを出してくれるか、俺は待つよ。恋愛なんざ俺も経験がないから解らないが、もし、よければ」
茫然とするカンジナバルの頭から手を放す。
「これからも一緒に過ごそう。龍だった時みたいに」
元18歳は、今までの経験か、これが素の反応なのか、真摯に言葉を選び、カンジナバルに喋った。
「・・・あー、なんか泣きそう・・・・ありがと」
「どういたしまして」
夜の街へ歩き出す二人。
始まりは唐突で。
再会も唐突で。
関係も特別だった。
そんな一人と一人が、同じ歩調で歩く。
こそばゆそうに、カンジナバルが強張った掌で法一の手を握った。
自分より少しだけ冷たいカンジナバルの手を握り返し、法一は溜め息を吐く。
「中学生カップルみたいだな」
「うっさい!こっちはいっぱいいっぱいなのよ!何でかものすんごい緊張すんのよ!すっごいドキドキしてんのよ!」
「んー。そうか」
赤い顔のまま、俯いて早足になるカンジナバル。
長い脚の歩幅に合わせ、僅かに大股で歩く法一。
不思議なくらい呼吸は合っていた。
昼休みの教室。
入学式から数日。ぽつぽつとグループも出来る中、法一は春子と弁当を食べていた。
「不思議なもんねぇ。高校の教室で、あんたとご飯食べるなんて」
「いんじゃないのか?俺も人付き合いが下手だし、正直孤立しないだけ助かるよ」
「・・・なんか泣けてきたからミートボールあげる。ともだちひゃくにんできるといいわね」
「そうだなー、お前さんだけでもなんぼか嬉しいが、努力はしとこうかね」
軽口と適当な相槌。
気張らない雰囲気を二人とも楽しんでいるし、春子が喋り、法一が聞き役という関係がまとまっていた。
「んで?あのドラゴンとは?」
「まぁ、ぼちぼち。鱗のない格好で会うと、全裸みたいで恥ずかしいらしい」
「そりゃ、あの全身鎧みたいな鱗と比べりゃそうだろうけど、日向のワーバットじゃあるまいし」
「・・・そういう『異世界あるある』みたいなネタ、俺は解らんからな」
「あー、うん、気が緩むとついねー、駄目だなー」
紙パックのお茶をすすり、法一は欠伸をする。
「こうも日常が楽しいとは思わなかったな。いいなー、なんもない日々」
「じじくさいわね」
そんな時に校内放送が鳴った。
『1年A組、杵島君、職員室で巽先生がお呼びです。1年A組、杵島君、職員室で巽先生がお呼びです。』
まだ慣れていない放送部2年の放送に、法一は顔を上げた。
「・・・巽先生って誰?」」
「カンジナバルの名字だって」
「巽ね。またおもしろい名前をチョイスしたことで」
離席した法一は、面倒そうに教室を後にした。
職員室。
雑多な喧騒の中、顔を出した生徒の一人が教師と向き合う。
「はい、これ」
手渡された用紙を一瞥し、法一が顔を挙げる。
「これが?」
「フルコンタクトの空手と一緒に、雑多な技術も教えているから」
「雑多な?」
「まぁ、口に出すのは憚られる類の技術」
「そうですか。ありがとうございます」
折り目正しく、規則正しく、一礼して職員室を出た法一に、カンジナバルは身悶えした。
「・・・もうたまんないわねマジで。抱きしめたかった」
どういった脳回路になっているのかと言えば「○○○したい」と答えそうなので、これでも自重しているのだろう。
「あー、マジSEXしたい。あの馬鹿と」
おいこらせっかく伏字してたのになめてんのか。
小声なのでたまたま聞こえていなかったようだが、職員室でなんという事を呟くのか。
先行きが若干不安になる一幕であった。
武術。その歴史は古い。日本においては大陸から伝わった・・・
要約、相手を効率的に仕留める動作の総称。
「っだ!」
道着の帯が揺れ、踏み込む一歩が板張りの床を強く蹴る。
低い姿勢からの中段突き。そこから服の襟を掴もうとした手を、鋭く払った手で叩き落とされた。
半ば全身で突っ込むように距離を詰める。しかし今度は足払いから側頭の肘打ちによる迎撃が加えられる。
激痛。咄嗟に首を捩じるも、鋭角な肘が途中でたたまれていなければ頭蓋が砕けていたであろう衝撃が突き抜けた。脳髄がぐらぐらと揺れる。
吐き気、酩酊感。
頭痛と共に膝から崩れ落ちる。
「今日はこれまで」
「あ、ありがとうござ・・・・!」
途中で我慢できなくなったのか、這い回る格好でバケツまで辿り着く。残っていた胃液をしこたま吐き出すと、床の上に倒れた。
息が荒い。呼吸が辛い。意識が乱れる。
「二日目にしてはよくできた方。次の鍛練は明後日。打撃痕が痛んだらよく冷やすこと」
「は、い」
息絶える寸前のような格好だが、数度の深呼吸、放置されていた数分で身体は回復し、立ち上がれるまでに覚醒する。
よろつく身体を道場の壁へ預けると、ぼんやりとした眼を自分の身体へ向けた。
脂肪より多少マシなだけの筋肉、緩んだ神経、未発達な骨格。18歳の時より遥かに劣るのは、人を追いつめる計画を実行する為、ひたすらに走った時間が差し引かれているから。
それでも。
再び歩き出すには、十分だった。重たいものを腹に抱えてもいない。
「はい」
「あ、すいま、せん」
手渡されたコップ。カルキ臭い水道水でも十分だった。
「ん、まい」
やっと呼吸が整う。胸の奥、肺に詰まっていた空気が抜けていく。
「それで、ここを紹介してもらった理由は?」
「はぁ、一身上の都合としか、説明のしようが」
強くなりたいという願望。発露した力の捌け口。そういった理由は否めない。
しかし最も大きな理由は。
「好きな相手より弱いのが我慢ならなかっただけです」
「・・・なるほど。最近にしては珍しく素直な子ね。ひねくれてない」
「そう見えますか?」
捻くれていようと360度回転すればまともに見えるのかもしれないと思った。
あと、最近の子供はひねくれていないわけではなく、ひねくれて見えないだけである。
そう心中で呟くと、二日続けて半殺しにされた師へ一礼した。両膝と指の位置を不器用に定め、深々と頭を下へ。
「ありがとう、ございました」
「はい、よくできました」
龍鱗に比べれば鱗のサイズが一回り小さい緑のそれを備えた女性は、微笑みと共に礼を返した。
鍛練の後の家路が果てしなく遠い。
まだ二日目。もう二日目。
自分がなんでこんな選択肢を選んだのかを理解できていない。
それでも自分は進む。
気分の問題なのだろうと法一は腕を挙げる。バスの停車ボタンを押すことさえ辛かった。
降りる。
定期を見せ、千鳥足に近い格好で歩き出す。
夜空。
冷たい風に揺れるジャケット。道着に比べれば軽いが、今はひたすらに重たい。
どうせ。
誰かが。
そう言って諦めなかった自分というのを、見て見たかったのかもしれない。
「カンジナバルのおかげか」
知らない世界があった。
知らない世界に住む人間と、一緒にいようと思った。
そんな時、自分がどれだけ頼りないかが解り、何故かみじめに感じた。
知って努力しようと思ったのだから、及第点だろう。
「ホウイチ」
「あいよ」
夜風の中、部屋着のカンジナバルが立っていた。
「ご飯、食べる?」
「いや、無理」
笑う法一の顔にカンジナバルの顔が青くなる。
「血、まだ止まってないし」
切れた口の中では、血の混じった唾液が溜まっていた。
法一の住むアパートにおける自室。
細身のスウェットにセーターという部屋着のカンジナバルが徘徊できるのには理由がある。
「はい、湿布」
「悪い。救急箱なんて用意してなかったもんで」
「こんくらい貸すって。隣から持ってくるだけだから、そんなに手間もないし」
つまり、彼と彼女は隣人であった。
「それにしても、見事に顔だけは攻撃されてないわね」
「学校で騒がれないよう、顔に当てる時も寸剄にしてもらっている。その所為で立てなくもなるけど」
渋面のカンジナバルが重たい溜め息を吐く。
「・・・あの女、真面目に教えてる?」
「師匠?強いし、非道ではないから別にいいよ。月3000円なのが申し訳ないくらいだな。けど、柔道の授業もあってないのに道着に血の染みができたことがちょっとショックだったけど」
「ものすごく反応に困る表現よねぇ。それ」
ゼリー状栄養食を呑み干した法一は、ポッドから直接ウーロン茶を注いだ。
「あっつ、いった」
「そこで熱々ウーロン茶をチョイスしたのに驚いたわよ」
「好きなんだけどなぁ」
「そういや聞く?箱庭の話、その続き」
「そういえば、あれは今何処に?」
「あのアヌビス女、セルケが壊れた箱庭を回収したってさ。もう二度と騒がれることはなくなるでしょうね」
「そうか」
終わればそれだけ。
諸行無常にしみじみと茶を啜っていると、それが熱いウーロン茶であることを忘れていた法一が顔をしかめる。
「意外と馬鹿よねー」
「二つのことを一緒にできるほど器用じゃないんだ」
立ち上がり、口の中を水ですすぐ。血と唾液の絡まったものが唇から流れ落ち、幾分口の中がすっきりした。
「くそまっずい」
「治そうか?そのくらいなら簡易術式で」
「いいよ。このくらいなら我慢する」
座り直し、テレビのチャンネルを代える法一。切り替わったバラエティ番組では、地方の激安スーパー特集をやっていた。
「あ、白菜安い。羨ましい」
「三年一人暮らしやってて、家事スキル上がったわけか、へー」
他愛無い会話と共に時間を潰す。時刻が九時前になる頃に、法一が立ち上がった。
「ちょっと風呂入ってくる。シャワーは浴びてきたから、すぐに済むと思うが」
「え、あ、いいわよ!もちろんよ!」
「・・・まさかとは思うが、覗くなよ?」
「んな!?そんなわけないじゃない“むしろ風呂上がりの臭い”だけでごちそうさまよ!?」
「・・・お前もう帰れ」
幾分疲れた顔の法一が風呂場へ向かう足取りは重かった。
「あと」
「ふぉぉぉ!?」
脱衣所から顔を出した法一に、慌ててタンスからカンジナバルが離れる。
「・・・妙な悪戯したらすぐに解るからな」
「シナイヨ!?」
渋面の法一が眉間に皺を寄せる。
「カンジナバル」
「にゃ!?にゃんですかね!?」
「人の形に戻ってから節操がなくなったな」
法一が顔を引っ込める。
絶望。落胆。もしくは打ちのめされた様子。
カンジナバルは、たった一言で両膝を床に着き項垂れた。
「ふ、不覚。そう思われないように振舞ってきたのに・・・」
それは失敗している。
入学式から1週間が経過した。
順調に孤立していた法一に転機が訪れる。
「柔道部?なんで?」
両手を合わせて頼み込む格好の春子に法一が茫然と問い返す。
「習っているんでしょ格闘技」
「つっても、こっちは金的眼潰し肘膝投げ落としに、倒れてからの攻撃までありだから、高校の柔道とは迎合する点が一個もないけど」
「それはそれでちょっとヒいたけど、人数合わせくらいのつもりでいいから」
「・・・なんかメリットあるの?」
「お好み焼き奢ったげる。割引券貰ったから豚玉とかタダだし」
「お好み焼きねぇ」
考え込む法一。
「おねがいー。中学時代の先輩に頼まれたのよ。今日の放課後までに男でも女でもいいから連れて来いって」
「は?ちょっと待て。相手は?」
春子がわざとらしく笑みを浮かべた。
「女子格闘技研究会」
事情を聞いたところ。
立ち上がったばかりの格闘技研究会が武道場の使用権を交渉。
柔道部と五試合の練習試合を行い、勝率、及び勝負の内容に応じて武道場の使用権を生徒会が認めると公言したらしい。
しかし、問題が発生。
「インフルエンザで男女合わせて20人近くいる柔道部部員がノックアウトしちゃったのよ」
「・・・それで部外者って」
「だって他の部活の人間連れてきたら不平等じゃない」
春子の解るようで解らない解説と共に、法一は武道場へ案内された。
「悪いわねぇ。女子柔道部の巫(かんなぎ)です」
額には冷却シート、厚手のコート姿の女生徒が咳き込む。顔には見慣れぬ刺青があるが、尋ねる前に。
「あぁ、母の故郷の習慣なの。驚かないでね?」
釘を刺されてしまった。肌の色がチョコレートを彷彿とさせる褐色であるのも気にはなったが、あまり追及しない事にした。
法一の勘が妙な危険信号を発している。
「春子、お好み焼きチャラでいいから帰っていい?」
「駄目。今日はクラスの子も応援にくるのよ。我慢して」
「・・・なんか、すごく嫌な予感がするんだがな」
しぶしぶ着替えてきた法一を見た瞬間、春子が微妙な表情をする。
赤黒い染みとよれた生地、堅く結ばれた帯。
武道場に形容のし難い雰囲気が流れた。
「山籠りしてきた?」
「え?月謝3000円の道場だけど?」
春子の突っ込みを素で流す法一。武道場のざわめきは、女子格闘技研究会の入場と共に大きくなる。
何時の間にか二階の観覧用スペースに人が溢れている。比較的に男子の比率が多い。
「・・・なぁ、もしかしてと思うけど、春子の同類?」
「まぁ、広い区分で言えば、多分ね」
頭に『角の飾り』がある大柄で乳のでかい女子。
褐色の肌に刺青のある目の青い女子。
道着の下が全て包帯に包まれた女子。
残り二人は小柄な身体に角飾りを備えた双子だった。
「いやマジ本気で帰りたくなったんだけど」
「諦めて」
「・・・よし、負けよう」
結局。
彼は巴投げと裏投げで二人抜きし、何故か帯が千切れるという不可解な理由で途中棄権した。
その形相は必至であったという。
「・・・ずりおろされそうになった」
「し、試合中じゃなくってよかったわね」
その後、柔道部の予備から帯を一本貰い、法一はお好み焼きを奢ってもらった。
余談だが、鬼気迫る真剣さに、観戦していた同級生からの評判は上々だったようである。
悪夢を見る。
親に殴られ、見知らぬ誰かに唾を吐かれ、しきりに殴られる。
痛い。痛い。痛いと、どれだけ泣き叫ぼうとうすら笑いすら浮かべて誰かが殴っている。
犯罪者。
人殺し。
暗い檻の中、何度も、何度も繰り返えした謝罪も、許される事はなかった。
何もない人生、暗い目で見つめている壁。
やがて、薄暗い絞首台で。
「・・・・っ!」
全身の冷や汗と共に身体を起こした。
悪寒と寒気。全身がずっしりと重い。
抜けきっていない練習の疲れもあるが、なにより、悪夢で強張った全身が辛かった。
それが本来の姿である。
あの子は死に、法一はあの子を殺し。
・・・誰が悪かったというのだろうか。
その答えは出ない。その罪が赦されることもない。
そんな罪は起きなかったのだ。
クラスで仲良く笑い合う二人の顔を思い出し、カンジナバルの笑顔を思い出し、次第に心が落ち着いていく。
幸せという言葉。
それが空虚である事は知っている。同時に、逃れられない理想である事も。
ゆっくりとベッドに身体を落とす。そんなタイミングを見計らったように、壁越しに、誰かがベッドを蹴飛ばす音がした。
「・・・寝相が悪いんだな」
声もなく笑った法一は、そのまま眠りについた。
あったかいにおいがした。
重たかった身体が嘘のように動く。身体を起こすと、今日が土曜日であることを思い出した。
道場は休み。冷蔵庫には何もない。
「腹、減ったな」
ぼそりと呟く。どこからか漂う白米の匂いと、ごま油の香ばしさ。
思い出したのはほんの数日間の体験。
騒がしかった三人での食事。
まるで幻想に縋るよう台所へ顔を出した途端、そこには誰かが立っていた。
「カンジナバル?」
答えはない。
普段からは想像もできない静謐な横顔。
その美しさに言葉が詰まる。
「・・・焦げたぁ」
泣きそうな顔に変わったカンジナバルの手元では、きんぴらごぼうから煙が出ていた。
惣菜と少しだけの料理。
「焦げたな」
「うん」
「くさいな」
「うん」
「かたいな」
「うん」
「カンジナバル」
「うん?」
「ありがとう」
「・・・うん」
ぽろりと言葉を零す二人。
「あの時さ」
「あの時?」
「これ、くれた時」
「あ」
ステンレス製の武骨な腕時計。
「なんか、言いたいことがいっぱいあったけど、なんにも言えなかった」
「そうか」
繋がったままのたくわん。崩れた目玉焼き。
「けど」
「ん?」
「多分、もっと簡単な言葉が、今なら解る」
「それは?」
深呼吸。
既に耳まで赤いカンジナバルは、何度も深呼吸を繰り返す。
物々しい雰囲気に何を考えているのかも解らない。
「すき」
法一が顔を背けた。
カンジナバルの顔が強張る。
「・・・歯に海苔が付いてる」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
飯時の告白はやめましょうという話。
洗濯、風呂掃除、物干し。
その間も、盛り上がった布団は動かない。
「カンジナバルー」
布団から出てこない。
だが、声に反応したのか若干動いた。
「・・・年上なのに」
布団からのくぐもった声。
「は?」
「年上なのに、なんかなんにもできてない」
「そりゃ、人間の寿命なら2倍近いのある意味ドのつくシニアだろうけど」
「大人の女って言ってほしいわね・・・」
のそりと、顔だけを出す。乱れた髪の下、法一の布団から警戒するように見つめる。
「ごはんも巧く作れないし」
「練習すれば?」
「ずぼらだし」
「心配するな。その点は俺が直す」
「・・・口下手だし」
「俺に言うのか?それを」
髪の毛を乱暴に混ぜ、法一が伝法な口調で尋ねる。
「今日はどうした?朝から・・・そういえばどうやって入った?」
「魔術式で、ちょちょっと」
「・・・その点については後で話そう。それで?」
布団が跳ね上がる。
抱きしめられた法一が目を白黒とし、あやすように背中をたたく。
「楽しい?」
「・・・なんでかボタン一個ズレてる感じなのよねぇ」
脱力。
やっと普段の調子に戻ったように、カンジナバルが法一にもたれかかる。
「すきよ。返事は?」
「そうだな」
考え込む法一。
呟くように、一つずつ言葉を整理していく。
「俺は利己的で、小心者で、口煩い、それに、日常生活では役に立たないぞ」
暗に、あの日の幻想ではないかと問う。
「そうね。けど、ずっと考えていたから」
身体を離す。カンジナバルの顔が近い。睫毛が長い。
「それで、会った時に選んだの」
泣いたあの日。
「だから、貴方ならなんでもいいの。それだけ」
真剣な貌。虹彩も、肌の質感も、どこか人とは違う。人種が、種族が違う。
それでも。
「好き、かは解らないが、一緒にいたいと思う。いいか?」
人並み外れた腕力に身体が軋む。
悲鳴を上げなかったのは、顔の半ば以上を胸で塞がれていたからだろう。
いつか彼女より強くなる。
そうは考えるものの、この胸と腕力を前に、無理じゃないかなぁと正直思っていた。
犬歯が人より大きい。
灰色に近い銀の髪は艶があり長い。ブラッシングを欠かさない。
眼の色は鳶色。虹彩が縦長に近く、どこかネコ科動物のそれを連想させる。
箸を使う時に親指の位置を何度か迷う。
眠る時に抱き枕を使う。
からあげが好き。
化粧がないと年齢不詳。
「んー」
「んが?」
「鼻に胡麻が付いている」
「顔からとるまで気付くなよう!」
二人で居る時は肉体は本来のまま。
鱗のある頬に、紫色の髪。
たたまれた翼は肩甲骨の隙間に押し込まれ、キャミソールの下に隠される。
長い牙にはネギが刺さったままだった。
馬鹿な大人だと呆れはする。
「おそろいのセーター買わない?」
「・・・嫌だ」
訂正。
けれど、多分好きなのだと思う。言うつもりはしばらくない。
「えー、その、ここからが、次の式とを繋ぐ要点と・・・」
顔を上げない。生徒を見ない教師。顔は汗だくで赤い。
舌打ちが聞こえた。
「これでも駄目とかお前はどんだけ隠し事が下手なんだ?」
紙袋を被っていた生徒が立ち上がる。
「しょ、しょうがないでしょうが! ちょっと顔見るのが嬉し恥ずかしな状況なんだから察しなさいよ! そこらへん気を遣わないともてないわよ!?」
「………よし、それなら適度に脳細胞を減らしてやろう。そうすれば熱の伝導やらなんやらの効率でちっとは冷静になるだろうから。多分」
「え?なんでバットにタオル巻いてるの?え?」
「決まっているだろう?打撃痕から得物を特定されない為だ」
「社会不適合どころの話じゃないけど!?」
「はっはっは。照れるなぁ。思い切ってフルスィングしようか?」
「なんかついこのあいだの泣いたあとのこと思い出して恥ずくて顔上げられないだけじゃないの許してってば! 私が行動不審だからとか法一が気にしても既に多方面にバレてる気がしてごめん私の所為よね赦してぼげふぅ!」
「・・・このクラスめんどぅだなぁ」
脱力する春子が机に顔を突っ伏すのを余所に、打撃戦という物騒な形での交渉が行われていた。
テーマはおそらく「如何にデレないまま授業を進めるか」。
日常生活を魔物達に浸食されようとも、それなりに平平凡凡。
これもまた、倖せなのだろう。
― 閉鎖システムの余談 END ―
12/06/05 20:43更新 / ザイトウ