読切小説
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不良農民と森の乙女
【不良農民と森の乙女】

 父が死んだ。葬儀は村の規模に見合ったつつましいもので、残された兄と二人、木製の棺桶を見る。
 父の故郷の風習である火葬を長に頼んではみた。
『肉の焼ける匂いに魔物が寄る』
世知辛い。
 その次の日。
『このまま村に残るなんて御免だ』
そう言い残し、兄は父の遺品である槍を手に、街の自警団へ志願する事を言い残し、村を出て行った。
 本当に世知辛い。
 残された自分は、家名であるタクラと乾いた畑を継ぎ、ヤマ・タクラの名前と共に、村へ残る事にした。
 寂寥感はある。だがしかし。
 自分がいなければ、父の墓、母の墓は荒れるだろう。
 自分がいなければ、兄は帰る家を無くすだろう。
「今日も無事に眠れますように」
 父と母に願う。神はとうの昔に捨てた。母も救ってくれなかったからだ。
 並ぶ二つの墓へ花を供え、俺は立ち上がった。



 風来坊。父にしろ、兄にしろ、自分にしろ、そういった言葉で語った方がしっくりくる。父は元冒険者で旅人、兄は兄で、年の半分を旅で過ごすような人間であった。かくいう自分も、農作業より森での伐採や採集の方が性に合っていた。
 二人と自分の違いがあるとすれば、人生の伴侶に『本』は選んだ事だろう。
 知識が欲しければ人に請わず街の古い蔵書を探し、技術が欲しければ本を片手に森へ踏み行った。
 幸いにも、父は学識と呼べるほどの知恵はなかったが識字が可能であった。共通語を覚えれば、農業に熱心でない父に手伝いを頼まれる事もなかったので、街の老人へ教えを請い、退役軍人に過去の遍歴を尋ねた。話を聞く、という行為も、存外に嫌いではなかった。
 その結果。生前の父には。
『お前は説教臭く育ったなぁ』
と愚痴られ。
 兄には。
『お前は逆子だったな』
と不意に漏らされた。真意は問わなかった。
 要するに少しばかり偏屈になってしまったのだ。
「これで・・・」
擂り鉢で擦っていた硝石と硫黄を丹念に混ぜ、竈に残っていた炭も粉末状にして加える。
 最近、土地の乾きに違和感があった。畑は雨が降らなければあと三日ともたないだろう。
 その原因を探りに森の奥、水源となる山裾へ向かおうと思っていたら、獣道が二抱えはありそうな落石に塞がれていた。運命とやらは、そんなに人を飢え死にさせたいのだろうか。
 家畜のいない貧乏農民の悲哀に溜め息を吐きながら、残り少ない粉で練ったパンを齧る。かちかちと歯に触れる硬い感触に辟易しながら、ついに保存食があと数日分しかない事を思い出す。
「増えたのは独り言だけか」
溜め息と幸運はどこにでも漏れていく。
 父の遺品である槍、はもうないので、古びた直刀(攻撃力+12)を腰に帯びる。得手は手斧であるが、その刃にも皹が入った。
 鍛冶屋は先月死に、跡を継ぐ為に息子が帰ってきている途中らしい。故に研ぎにも出せない。街へ行くという手段があっても旅費はない。
 このままだと自分も父と鍛冶屋の仲間入りだろう。
「世知辛い」
父の残した酒を一口含むと、喉を濡らすように嚥下した。水までもうない。
「行くか」
作業をしていた粉末を幾つかに分けて布で包み、油にひたしておいた麻縄を縛り口から覗かせた形で縛る。
 本が一冊、残りの保存食、果物の醗酵酒が一瓶、小さな荷物が幾つか。
 かくして。
 自分は、仮初の冒険者とならねばならなくなっていた。


 森とは深淵である。
 生い茂る樹木、潜む獣、蠢く魔物。
 最近では魔物の女性化という現象が起きてもいるようだが、さほどいい噂は聞かない。
 女性化、言い換えれば知性化とも変換できるが、結局は魔物である。性根というものは変わるものではないだろう。
 魔性というものだ。
「・・・っはー」
 青臭い思考の間にも、汗は滝のように流れる。緑に覆われた湿度の高い森の中は、ひたすらに人を拒むようだ。
 かれこれ半時間。防御力にて現わすのであれば+12程度の革のジャケットの隠し、持っていた懐中時計の盤面を確認する。この洒落たものは、母の形見である。
 古くは良家の子女であったとも言われる母であるが、今となっては自身の祖父母となる人を探す事も叶わないだろう。
 十数年を経て錆1つない時計を胸にしまう。兄も、母の形見である首飾りをまだ大事にしてくれているのだろうか。
 兄が懐中時計を欲しがらなかった理由は何だったか。
 樹の蔦を頼りに斜面を下っている間に考える。
「あぁ、そうだった」
ふらふらと時計を振る幼い兄。
『これ、何?』
・・・兄が時計という存在を知るのは、その数年後であった。
 過酷ではあるものの、落石によって塞がれた山裾へ踏み込む為の唯一である道。
 迷わず布袋を岩の側面へ設置し、火打ち石を鳴らした。
 逃走。
 爆発という巨大な音。
 バランスを崩し、転げ落ちていく岩を横目に、耳の痛みを堪えて頭上を確かめる。
「よし」
第一関門はなんとか突破したようだ。
 先を急いだ。


 森に入り、山裾へ行くにあたり、目的を2つほど考えていた。
 1。食糧を探す。
 2。水源、もしくはその支流を探し、土地へ安定的に水を供給できる方法を探る。
 以上。
 難易度もそれぞれだが、正直、細かい問題を考える事について放棄していた。
 理由は簡単である。
「最悪だ」
眼の前に、おそらく記憶する中で最大の猪が鼻息荒く突貫の構えを見せているからだ。
 通常の倍近い大きさのある猪。肉。
 食べ物。
「一週間、いや二週間は・・・」
直刀を抜いた時に何か、具体的には殺気を感じたのか、猪が姿勢を低くした。
「干し肉、燻製なら」
距離をゆっくりと詰める。狙うなら額、もしくは転がして前足の後ろを叩き斬る。
 猪が動く。
 速い。
 しかし、生への欲望が勝った。もしくは食欲が。
 避けると同時に全力で直刀を振り、下から跳ね上げる。鼻先より下、牙の届かぬ低空からの逆袈裟が前足の付け根を捉える。
「どっ」
農民の数少ない特技。
「せい!」
耕す動作そのままの掬い上げで転がし、前足の後ろ、つまりは心臓を狙って刃を振り下ろした。
 森へ響き渡る猪の断末魔。
 一日目。
 食糧の確保に成功した。
 自身の三倍以上の猪を背負い、帰り道、ほんの小さな支流だが小川も発見した。革袋の水筒へ水も汲む。
 明日はもっと奥へ進めるだろう。


 肉と引き換えに村の川下を使って猪の解体をさせてもらった。この川も、村1つ支える水源としては心許ないものなので、村の外延部に住む人間は大抵が自身で山から水を引いているという事情もある。
 解体に数時間。荷車へ解体した肉、毛皮、骨を積み、代価として支払う分と、村へ分ける量の肉を村長へ渡し、家へ戻る。
 晩は腸や腸で鍋だ。
「待て」
 そのまま帰る途中、黒い服装、おそらくは東方移民と思しき男に呼び止められた。 
 旅人と思しき格好だが、手にした黒い鉄の棒といい、妙な圧迫感を感じる。
「肉と、骨を、少し分けて欲しい」
「それはいいが、家へ戻ってからになると言っておく」
「手伝おう」
男は「シェロウ」と名乗った。やや小柄な体躯に似合わぬ力強さで、荷車を軽々と引いていく。


 1人だという男へ鍋を振る舞った。野菜も少なく、肉の脂で濁った鍋であったが、男の持っていた香辛料で非常に美味なものとなった。
 石組みの竈の中で燻製を作りながら、取り分けた肉と骨を渡す。口の中で小さく呟いたかと思うと、乾いた風が男の手の中に集まっていく。
 水気の抜けた肉を眼にした事で、彼が魔術を使ったものだと遅れて気付いた。
「魔術を?」
「ごく弱いものだが」
おそらく家畜や人へまじないを頼まれないように予防線を張っているのだろう。そんなつもりもない自分は、洗っていた骨を削り、簡素な刃物の作成を始めた。
「家族は?」
「父は先日死んだ。兄は街へ。今は1人だ」
短く告げる。そうか、1人になっていたのだと、ぼんやりと思った。
「代価は、本当に塩や胡椒だけで?」
「とりあえずは」
自分もだが、相手も多弁ではないらしい。沈黙の中、火を焚く音ばかりが続いていく。
「そこの手斧は?」
小さな皹の入った一対の手斧を男が示す。
「俺の手斧だ。皹割れて使えない」
「借りても?」
「借りるだけであれば」
鉈よりも大きい片手斧を手の中に、仔細に見る男。
 もしやと思った瞬間、彼の周囲を、光輝が揺らいだように錯覚した。
 魔術。
 指先が皹をなぞっていくと、皹が薄れ、鉄が揺らぎ、刃は正しき姿へ戻っていく。
 さすがに驚くも、一対の斧は元へ戻され、革の鞘へ音も無く戻された。
「礼だ」
「・・・助かった。とても」
「そうか」
無愛想な旅人だと思った。旅立つという西北の街道への道を尋ねられ、答えた。
「ありがとう。そちらは、また、森へ?」
「明日には」
「毒消しもよければ」
「助かる」
 直された手斧。買えば半月分の食費が飛ぶ金額の薬。
 明日はもっといい日になるようで気分がよかった。


 二日目。前回までの道のりを短縮する方法を編み出した。
 まず縄を用意する。落石のあった場所近くの大木へ結ぶ。そしてその端を矢に固定する。
 矢を弩に装填する。
「・・・父は本当に冒険者だったのか?」
凶悪な武装についての疑問はさておき。
 背筋でなんとか弦を引き絞り、固定すると、巨大な弩を脇に抱える。膝立ち姿勢から狙いを定めた。
 目標は獣道の傍、昨日、強度も確認している大木の幹。
 照準を定め、引き金を引いた。
 風を切る短い音。
 射出された矢は外れた。
「よし次」
縄を引いて矢を取り戻す。挫けず繰り返したところ、五回目でなんとか当たった。
 自分は冒険者にはなれないと少し落ち込んだ。


 荷車用の滑車を使い、前回の地点まで到着。滑車を鞄へしまうと、手斧(攻撃力+24)の入った革製の鞘を確認する。
 そして森の奥への探索を開始した。
「ルートとかチャート表示で出ればいいのだが」
ぼそりと呟く。過去に読んだ古本の言葉だが、意味はよくわからない。
 その小説だと道順の表示される機械があったらしい。同様のシステムに『フラグ』なるものが存在するとも。
「うぅ、持病の癪が」
天国(もしくは地獄の父)よ。あまりにベタ過ぎないだろうかと思う今日この頃。
 森の最奥へ至る道の途中で、なにやら下半身を古びたロングドレスに隠した女性が病を患っておりました。
 この場に人が訪れるまで毎日待機している魔物。
 ベリーショートの髪にこびり付いた泥。
 そういった事を想像した瞬間、涙が零れた。
「・・・焼いたお肉を差し上げるので、この近辺の事を教えてくれないか魔物の人」
「既にバレてる!?」
とりあえずゴブリン(戦闘時Lv8推奨)のお嬢さんに問題点を教え、ついでに近辺の事情を質問。
「お肉。調理されたお肉」
はらはらと涙を流しながら焼いた肉を貪るゴブリン嬢が食べ終わるまで待つと、水の入った水筒を渡す。
「それで、この近辺で水源を知らないだろうか?」
「・・・肉如きで素直にげふっ」
言葉の途中でゲップをされたようだ。非常に行儀が悪い。
「・・・肉如きで、説明しないっての。ばーか」
学習したらしく、一度言葉を区切り、言い易い言葉に置き換えたらしい。
 しかし、話を聞かなければならない。
「捌くぞ女」
「いきなり脅迫された!?」
しかし屠殺に使う直刀は家だと遅れて思い至る。
「1つ謝罪するとすれば、得物が手斧なので意識がなくなるまで時間がかかりそうだ」
「お話しますから捌くの前提で話を進めないでくださいませお願いします!」
ゴブリンはこうふくした。
「それで、水源は」
手斧を腰の鞘へ戻しながら問う。
「はい。山の中腹に岩の裂け目から噴き出す大きな滝があり、そこから幾つもの川へ水が流れているのだと知ってるくらいですのまして」
敬語は下手ではあったものの、内容は伝わった。
「それでは失礼させてもらいます大変ご迷惑かけましてすみませんですた」
逃げようとしたのでおもむろに本を取り出し、しおりを挟んだページを開く。
「捕らえよ魔法の鎖《マジックチェーン》」
「魔術まで使いくさった!?」
「状態異常の初歩しか使えないが、捌く間なら十分だろう」
「なんか物騒なこと言ってる!?Sだ!?」
その後、聞きたい情報を聞きだし、ゴブリンを解放した。逃げ去る背中を見送り、もう出現しない約束を信用する事にした。
 これで山から1人魔物が減った(確信犯)。
 しばらく歩いているうち、呼吸も乱れる。戦闘以外の要素の方が、よほど体力を削れる。
 そのうちに山の裾野から中腹の状態も、少しずつ理解はできたが。
 魔物の数は少なくないようだが、密集率、誰かが『エンカウント率』と呼ばれていた遭遇確率は高くない。
 おそらく、それぞれの縄張りと、生態による違いだろう。
 昔、富豪の屋敷に侵入し、何冊か本を窃盗した時を思い出したが、あの時も、それぞれの職務範囲から外れない執事やメイド達の隙を狙って移動した。
 あの時とそう変わらないのだろう。
 ちなみに要点を模写した後で返した。証拠は残していない。だから私は悪くない。
 悪いのは蔵書を秘匿している富豪の馬鹿だ。家を焼き打ちしなかっただけありがたいと思って欲しい(←問題発言)。
 過去を振り返っていた最中、身の危険を感じて樹の陰へ身体を隠した。
「それで隠れたつもり?」
 重なる幾人もの笑い声。背筋が僅かに冷たくなる。
 二度目の魔物に遭遇。空を舞う十体近いホーネットを前に構えた。既に臨戦体勢である事を知り、迷わず鞄へ手を伸ばす。
「ふん」
瓶から嫌忌剤を取り出すと、迷わず服へかぶった。
「うわ、最低!チキンめ!」
ホーネットはてったいした。
「・・・・・」
危機は去ったが、男の誇りと嫌忌剤は減った。若干泣きたくなったが、魔物の寄ってこないうちに先へ進んだ。


 昼を過ぎた。懐中時計で時間を確認した後、未だ嫌忌剤による柑橘系と鉄錆の混じったかの異臭を漂わせながら、昼食休憩をとる事にした。
 覚悟はしていたが、魔物の数は増えた。
 今まで遭遇した事そのものが少なかったのだが、午前中だけでゴブリンとホーネットに遭遇。
『森の奥にはかなり強い魔物が居るそうです。レベルでいったら中盤のボスクラスです!』
などという非常に参考になるゴブリンが既に懐かしいが、干し肉と皮を剥いた樹の根を齧り、水を飲む。
 森の奥という環境は心細くもある。去り際のゴブリンに残りの干し肉をいくらか渡したので、食糧も今晩と明日の朝が精々だという問題もあったが。
 ぼんやり考えてしまう。こんな行為に意味があるのかと。
 それでも、畑が枯れるのも嫌だったので立ち上がった。
 麦の穂の揺れる畑が、唯一母の面影を思い出せる場所という理由もある。
 活力を奮い立たせる。欲望を1つずつ思い出そうと勤めて。
 美味い飯が食いたい。昼寝したい。本が読みたい。恋人が欲しい。
「・・・大して欲望もない」
器の小ささに泣きそうになった。大望の1つも思い付けばいいものを。
 道順の樹木には、嫌忌剤の含ませた布を巻いているので、おそらく帰れるとは思うが、急ぐに越したことはない。
 既に森の中独特の湿気だけでなく、肌に冷たい水気も感じ始めている。
 足を進ませ、木々を抜けると、目の前が一気に開けた。
 息を飲む。
 巨岩を二つに割り、勢いよく水が噴き出す光景を見上げ、陽光を反射する滝の飛沫に見惚れた。
 しかし、それを共有する相手などいない。
 共有できる相手などは、何処にもいないのだ。
「あ」
 膝を着く。
「ああ」
 父の背中。
 兄の背中。
 顔の思い出せない母の姿が過る。
「あああ」
何かが噴き出した。1人きりである事を今更に理解した。今まで認識できなかった事が溢れた。
「・・・!」
泣いた。他人がいない山の中、森の中である事を感謝した。やるせなくなり、寂しくなり、どうしょうもなく哀しかった。
 思い付いたように森へ踏み行った理由にも気付いた。単なる現実逃避だ。
 何をやっていようと同じなのだ。悲しみが背中へ追いついていた。
 父は死んでしまった。流行病だ。誰が悪いわけではない。兄だって、家を残す事でなんとか私が食い繋げるようにと願って、家を出たのだろう。
 あの痩せた土地だけが財産であった事など、自分でさえ知っていたのだから。
 家族がいない。知識は感情に劣る。何もない。
 どうしようもない感情だけが溢れて、自分は泣き続けるだけだった。
「人間が、何のつもり?」
圧迫感と共に涙が止まった。生存本能が背中を叩く。真っ赤な眼を見開き、腰へ手を伸ばした。
 川の上を歩く白い蹄。眼の前に立つ敵意を前に、鋭く呼吸を吸う。
 狩られる側に立つという経験は初めてだった。
「森は獣、そして魔物の領域と知って?」
高圧的、攻撃的。ゴブリンに問いたい。私は必要あってのSだったが、生粋はあちらのような相手だと。
 白銀の髪には花飾りとヴェール。その下、青銅色の瞳は鋭く、引き結ばれた唇と共に、感じ取る事に大きな威圧を感じるほどの敵意を秘めていた。
 そして、白く美しい馬の半身を腰より下に備えた存在。
 ユニコーン。
 熟練の冒険者でも滅多に眼にしない相手。僅かながら死を覚悟する。
 魔物の価値観が単純である事は理解している。意思疎通がとれる以前のものを。
 犯すか、殺すか、喰うか。
 リザードマンなどの戦いそのものに意義を求める種族などでなければ、殺す、という単語に躊躇もないだろう。
 少なくとも、眼の前の存在が自分をどう思っているかは伝わってくる。
「何か見覚えのない獣が鳴いているかと思えば、人間とは」
見下している。もしくは嫌悪している。少なくとも好意的ではない。ユニコーン本来の性格は解らないが、あの個体は明らかに何かが違う。
「何が目的かくらいは聞こうかしら。次が来るようであれば、道を塞いでおく必要もあるでしょうから」
口調こそ穏やかだが、あれは脅迫だ。掌に収束する魔力の気配は素人にでも解る。それだけ強力なのだろう。
 逃げることも出来ない現実に絶望こそしないものの、多少の八つ当たりくらいはするつもりで手斧を抜いた。
「畑が枯れていく理由、水の流れがどうなっているかを調べている。問題があるなら水をひきいれたい」
「人間の事情など知るはずがないでしょう。邪魔だから殺します」
あまりに無慈悲だ。これが現実というなら理不尽と言い換えてもいい。
 鋭く息を噴き出す。目元を伝っていた涙の跡を拭う。唯一、唯一といっていいが、希望は1つくらいある。
「生憎と、喧嘩で負けた事はない」
無論、その対象は兄が精々なのだが。その兄も、最近では冒険者紛いの仕事をする程度には強かった。
「殺せるものならやってみろ」
気迫だけなら負けるつもりはなかった。 数瞬前の位置へ光の球体が突き刺さり、閃光と共にその場を抉る光景を横目に、敵を殺す事だけを考え走りだしていた。
「a.ruta-to,a,rata-to」
言葉とは呼べない音の連なり。認識した時には背後が吹き飛び、衝撃と共に泥が降り注いでいた。
「逃げよう」
即決した。即座に背を向けた。殺すことなど秒で諦めた。
 盛大に浴びた泥によって判断力は戻っており、あんな相手に勝てる道理がないと頭は弾き出していた。。
 斧を鞘へ戻すと、鞄のベルトを締め直す。森を全力で走り、一気に斜面を駆け降りた。
「なっ!?」
驚く声すら置き去りに逃げる。蹄が宙を蹴り、樹の幹を蹴って空を翔ける蹄の音より早く、木々の根を跳び草を蹴倒し全力で走る。
「卑怯者が!逃げるか!?」
「何を吠えるかと思えば」
背を向けたまま鞄へ指先を伸ばす。鞄の蓋が外れると同時、火打ち石が片手で擦られていた。
「隙があれば無論殺す。馬鹿め」
肘から先の力だけで投げた布袋の先で、導火線に火。
「・・・っ!?」
 ユニコーンが構えるより先に至近で爆発した。
真っ黒な爆煙を煙幕代わりに再び背を向けた。
「だが、単なる農民には荷が重い。逃げよう」
立ち止まる事なく木々の影へ去っていく。しかし、どこからか「普通の農民が爆破物を使う!?」という声が聞こえたようにも思えたが。
 これといった痛痒も感じなかったので、さっさと撤退した。


 土の渇きに不安を感じながらも、Lv10前後(当社比)の農民ではどう頑張っても勝てない相手(中盤のボスクラス)に悩む。
 仕方ないので帰宅したのだが、家の傍に破れた麻袋を思わす格好の旅人が座り込んでいた。虚ろな眼で見上げて来た相手を前に溜め息。
「食事は?」
「・・・頼む」
斧の恩もある。仕方なく家の中へ引き摺って行った。
 晩飯の鍋を振る舞うと、男、確かシェロウと名乗っていた旅人も回復したようだ。
「一体どうした?」
「・・・少々、ダンジョンで、失敗を」
 この近辺にダンジョンがあると聞いた覚えがないが、確かに、以前立ち寄った時には持っていなかった巨大な麻袋を担いでいる。
 ふと、この男なら何かいい知恵がないものかと、今日の相談をぶつける事にした。
「ユニコーンをぶっ飛ばしたいのだが何かいい方法はないか?」
「ふむ」
引き寄せた麻袋を探るシェロウ。何か、青く丸い人影が脳を過った気がした。誰だろうか?
「アルラウネの蜜壺」
「ネーミングセンスにそこはかとない悪意を感じるアイテムなので他はないだろうか?」
「そうか」
再び麻袋を探るシェロウ。長くなりそうなので、古い水の処分も兼ねて鍋を洗う事にした。
「スキュラの壺」
何か動いている。封が破れそうになっている。
「もっと危険だ。引っ込めてくれ」
「ふむ」
壺ばかりなのは何故かは問うまい。怪我をしそうだ。
「これは?」
薄汚れた古書が取り出される。装丁を見て若干たじろぐ。古書には珍しくないが、人の皮をなめしたものだ。
「ムゲンザハン」
「ストップ。そちらはさすがに」
「・・・失礼、確か魂の契約書だ。ダンジョンの魔物はそう言っていた」
「魂の契約書?」
「この本を使うと、自身の血脈に属す眷属を召喚できるそうだ」
意味がよく解らないが、とりあえず本を開く。ありがたい事に、古代とはいえ共用語で記されていた。言い回しや文体に癖があるが、辛うじて今の人間にも読める。
「当時の年代記まである。面白い」
「内容については必要な部分のみ模写した。二度、邪魔をしたな」
「いや、助けられた、礼を言う」
男が立ち上がった。既に日は落ちているのだが。
「行くのか?」
「女を」
口が止まる。何かを躊躇うような様子のあったものの、抑えた声で言葉を続けた。
「女を待たせている。急がなければならない」
格好がいいと思った。成程、これが男前と呼ぶべき言葉であろうか。
 代価としては甚だ不足しているが、干し肉をいくらか渡すと男は礼を述べた。
「こちらこそ、助けられた」
その言葉の真意は解らない。ただ、彼の人生もまたこれから続くのであろう事は想像に難くない。その道のりが自分より余程困難である事も。
 彼がこの家で過ごした時間は、思慮にたる休憩であったのだろうか?
 どこか納得できてしまった。親も亡くし、1人となっても、世界には人が溢れており、何も終わっておらず、何かは続いているのだと。
 張りつめていた琴線がぷつりと、柔らかい音と共に途切れた。
 去りゆく背中を見送ると、また寂しくはなった。
 だが、不思議と孤独感はなかったのは彼のおかげだろう。
 本を手に、夜を過ごそうと思うと、目次において奇妙な項目を発見した。
 何度か頭の中で文章を繰り返し、今の言葉へ整理した結果、それが『周辺魔物との闘争における援助者』という項目があった。
 年号を整理しようとするが、文字が掠れて読めない。紙の状態からかなりの年数は経過しているようだが、故意によるものだったのか。
 確か『ダンジョンの魔物はそう言っていた』とシェロウは口にしていたが、もしやこの本は魔物によって保管されていたものだったのか?
 しかし、年号だけ擦って文字を消した理由は何だったのか?
 一番それらしい理由は特定の文節を消したかったが、年号しか判読できなかった。
 しかし、年号が解っているのに文章が解らなかったというと、その魔物は女性化していないのか?
 スライムなどの知能が比較的低い部類という話も想像できたが、何故、ここまで気になったのかを説明できない。
 ユニコーンも。
 ゴブリンと蜂は元々この土地の魔物ではなさそうだったが、もしや。
 とにかく、先を読む事とした。


 説明文は抒情的で非常に読み辛いので省いた。
 曰く。
 過去に魔物とのいくさごとあり。
 流行病重なり人少なく、子も女も蹂躙の憂き目となる。
 当代が領主、決死を覚悟し、敵が群れを1人にて防ごうと剣を抜いた。
 その姿に感銘を受けたユニコーンなる種族、その力を貸して魔物の群れの撃退に尽力す。
 ユニコーンなる種族の乙女、その貞淑なる振る舞いは御殿の姫君が如し。
 恋心を抱いた若き領主、求愛を経て、その乙女と結ばれん。
 しかして。
 領主、魔物を娶るとは不実なりと親族によりて謀殺さるる。
 乙女、狂いて娘を連れて森へ去り、その土地はかの者が呪いにより、流行病残る。
 土地の者、死に耐えかねぬ危機を経て、東方よりの旅人が齎した祈祷により僅かに救われた。
 しかして、呪いに侵された土地は次第に命の息吹を失い、その領地は不毛と化していく。
 その後、土地を守る士族と、幾人かの農民に任を与えて残すと同時、領主の立ち寄らぬ禁忌の山が残った。危機は去ったが、ユニコーンが行方は知れず。
 追う者もまた無かった。


 その娘の子供なのか、もしかするとその娘自身か。
 どれだけの苦悩の末に、あの森へ今も棲まうのか。
 その姿を想像する。
「くだらん」
一言で済んでしまった。他の感想が浮かばない。
 何がくだらないかといえば、領主も、ユニコーンも、親族もだろう。
 愛し合った二人であれば、偏見は在ってしかるべきと思わなかったのか。どれだけの努力を周囲に行ったというのか。
 親族も親族で、たかだが偏見1つで優秀な領主1人を謀殺したとしても、親族連中の気が済んだが精々だろう。
「・・・くだらん」
そして、その遺恨に振り回されている自分自身の惰弱さもくだらなく感じた。
 その全てを粉砕する為の集団。
 手にしていた本へ、再び視線を落とす。
 おそらく、開けてはいけないページを開こうとしているのだろう。本来の歴史書であった本を、
 別のページ、他とは一線を画すほどに、黒く固められたページを開いた。
 何を塗られているのかも解らない。血と蜜蝋で固めたようにも思え、酷く手触りがなめらかな事が余計に嫌悪を感じた。
 黒く固められたページの上を削られ、白い油絵の具のようなもので文字が描かれている。独特な筆記体ではあるが、意味は伝わる。
 呪文一字を視線だなぞるだけで背筋が痛む。緊張で脂汗が額に浮かんだ。
 音律を辛うじて認識できた一文。おそらくは、呪文の発動に必要な一言を脳へ届けるだけで、身体は疲労に動かなくなっていた。
 まるで深い水の底へ潜ったかの感覚に覆われた全身。
 これが本来の『魔術』であるのかと、初歩を齧っただけであった自分でさえ、本質の一端を感じ取る。
 恐ろしい。
 そして、その力を使わなければ、殺されるというのも。
 すでに畑は、乾燥で土が乾ききっている。
 このままだと、明日にも・・・
 硝石と炭を砕くと、必死で混ぜた。
 水路が詰まった場所か、新たな川さえ見つければ。活路もあるだろう。
 あまりに楽天的でもあるかもしれないが、他に手立ても思い浮かばなかった。


 場合によっては殺させねばならない。割り切れるが、どうにも憂鬱ではあった。
 その悩みが天にでも伝わったのか、まるで神の采配のようなタイミングで雨は降っていた。
「まさか・・・」
茫然と窓から空を見る。曇り空にひやりとする空気。雨期が近いのかと、遅く思い出した。
 全身から力が抜ける。無駄な思考が削ぎ落とされ、ただ今だけは架空の高位存在であるらしい『神』という運命のカタチに祈りを捧げた。
「さて」
 これなら水源からでなくとも探せるのではないかと喜ぶ。鞄を下げ、外套を身に纏うと、留め金を留めた。
「・・・・・」
 鞄の中に、あの本を詰めて。
 おそらく、チャンスがあるとすればこれが最後だろう。対面せずに済む形での。
 フードを被り、山道へ踏み込んだ。
 昨日と同じロープで道程を短縮する。
 ぬかるんでいるが悪くは無い。湿度で服が張り付き、不快感こそあるものの、雨のおかげで魔物が寄ってこず、普段より早いくらいであった。
 周囲を見る。水の匂いを鼻では追えないが、斜面の傾斜によって流れる水を追える。その収束する場所さえ探せれば、滝のある水源にまで行かずともよいのだ。
 荒い呼吸で周囲を見る。なにやら、ちょうどいい足場を踏み締めると。
「ぶっ!?」
そのまま水溜りを跳んで着地する。
「誰よ人の背中踏んだのは!?」
そう言って泥の中から出現したのは、蠍の半身を持ったまだ歳若く見える美女、ギルタブリル。通常なら砂漠に住む魔物だ。
 この山の生態環境を問いたい。責任者は誰だ。
「失礼した。では、先を急ぐので」
逃げる。ほぼ同時に長い尾が立っていた場所へ突き立っていた。
「へぇ。見た目より骨があるみたい」
「・・・生憎とスライムではないものでな」
この時ばかりは雨を悔やむ。炸薬が一切使えない。
 ほとんど一足飛びでその場を離れると、木々の隙間を音もなく擦り抜けて追ってくる。
「待ってってばー。弄んで楽しみ終わったら食べてあげるからぁ」
「だが断る」 
野生の魔物とは少しばかり感性が合わないようだ。
 下半身だけ残し、頭から貪り喰われる情景を想像して思わず気分が悪くなる。カマキリと違って下半身だけになれば使い物にならないと断っておく。
「えー?じゃあ毒で麻痺させた後は、生かしたまましばらく遊ぶからぁ」
どちらであれ最悪だ。喰われると解ってて手が出せるか。
 斜面を滑り下りる。どうせ足の数でも速度でも負けている以上、そう簡単には引き離せない。
 ちらりと腰の鞄を見た。本はある。
 しかし、それより先に川に気付いた事は幸運だったのか不運だったのか。
「あ」
泥に足をとられて転ぶ。それが演技だと観察するより、獲物を捉える瞬間の昂揚が勝ったらしい。
 一瞬で間合いを詰めたギルタブリルは、そのまま尾と、手の中の白刃をそれぞれ振りかぶっていた。
「っしょぉ!」
 尾を避け、胴体を掴む。足払いで四本のうち一本を浮かした。
 そのまま半ば抱きつく体勢のまま跳ぶと、腰を捻りながら着地し、体勢を崩したギルタブリルを小川へ引き落とした。
 派手な水音と共に、バランスを崩した魔物の姿が消える。
「増水してるぅぅぅ!?」
どこかの下流住民に迷惑をかけるかもしれない事を詫び、なるべくなら溺れないかなぁと誰かに祈った。父よ、教えられた躯体術は役に立ちました。
 しかし、その小川、逃走中に見つけた水源にはたと視線を向ける。
「これ、使えるか?」
逃げた距離と畑までの距離を計算し、炸薬の設置場所を考えながら、その日は川沿いに森を抜けた。


 濡れ鼠。なにやら昨日よりよっぽど酷い状態で1人の男が家の前に倒れていた。シェロウである。
 何が哀しくて男の服を脱がさねばならぬのかとは思いながら、家の中へ担ぎこんだ男から、重たくなった上着を土間に脱ぎ捨てさせる。代えの下着を貸し、竈に火を入れると、次第に古くさい家が温まって行った。
 竈の上に鍋を置き、残り少なくなった肉と野菜を煮る。猪肉は硬いので、調味料も食材も少ない現状では鍋以外に選択肢がないだけだが。
 気付け代わりに酒を出す。嫌そうに鼻を近付けたものの、元々が少量だ。一気に飲み干すと、人心地ついたのか様子が安定する。
「今日も遺跡か何処かに?」
「最下層まで。無茶が過ぎた」
「人の家を宿屋代わりにされても困るが・・・」
そうは言うものの、若干の諦めと共に、孤独にならなかった安堵もあった。
 鍋を振る舞い、硬く湿ったパンを二人で分け合って齧る。
 今日も物品を盗掘してきたのか、麻袋は大きく膨れていた。
「目的のものは?」
「残念ながら。仕方ないので金にはなるものを」
盗掘稼業に馴れているのか、持ち帰った物品にも傷1つない。黄金より価値のあるものが無造作に広げられる。
「それで、何が欲しかったと?」
「自動人形生産記録」
「自動人形生産記録?」
頭の中で今まで読んだ文字から何かが引っ掛かる。
 思い当たる節があった。自室の本棚から模写した資料の一部を引っ張り出すと、古い木板の束を取り出した。羊皮紙と紙は高く、用意できなかった為に模写にはこちらを使
用したのだが、こちらの方が頑丈で目減りしないので重宝している。
「これだ。街の金満豚が持っている死蔵本の目録」
本への執着は、この時ばかりは褒めて欲しい。
 やはり、そこに今述べられた題名が存在した。
「あった」
「何だと・・・!?」
初めて、感情らしい感情を男が見せた。やや驚きを覚えたものの、素直に板を見せる。
 街の名前と所有する成金の名前を教えた途端、即座に立ち上がろうとするシェロウ。
 しかし、連日の遺跡、ダンジョン探索で身体は酷使され続けていたらしく、立ち上がるだけでも脂汗が浮かんでいた。
「明日行け。どうせ雨だ。泊まるといい」
「すま、ない」
倒れ込んだ男が眠っているだけという事に安堵すると、崩れ落ちた男を父のベッドに放り込む。
 父の部屋には、もう匂いも残っていないように感じたが、それでもどこか心が痛む。
 慌てて部屋を飛び出すと、テーブルには秘宝やその類いが放り出されたまま。
 美術品にしろ魔術の道具にしろ、どれだけの価値があるのかも判然としないものを眺める。
 不思議と欲しい、とは思わなかった。むしろ、何か危機感のようなもので背中の筋がちりちりと痛む。
 仕方なくそれぞれを麻袋へ放り込んでいると、指に鈍い痛みが奔った。
「っ・・・!?」
指へ、何時の間にか指輪が喰い込んでいた。
 色褪せ、鈍く光る指輪には、古い金属特有の光沢はあったが、これといった装飾はない。
 しかし、その表面に刻まれた文字が、古代語、それも神秘文字らしき言葉で記述されている事を感じ取った瞬間、胃の奥がじわりと痛んだ。ストレス。
「・・・世知辛い」
ヤマはのろわれてしまった。
 何故か『ちゃらららー』どこからともなく変な音が聞こえた気がした。管楽器を乱暴に叩いたような音だった。
 それが『効果音』と呼ばれているのは別の世界の話。


 東方装束の旅装を纏い、重たい身体で歩く男。朝飯を振る舞い、指を見せて謝罪する。肉へ棘を突き刺したように離れない指輪は、間違いなく呪われていた。
「・・・すまない。解呪は」
「だろうな」
重く溜息を吐く。無表情でこそあったものの、若干気の毒そうに「それは譲ろう」と同情してくれたが、何の足しにもならなかった。
「この指輪の効果は?」
「鑑定士に見せなければ、なんとも。予測はできるが」
「予測では?」
「沈黙系の状態異常呪文の行使に用いる魔術具。魔術名なのか元の所有者なのか『ハイパンス』と」
おそらく『ハイパンス』という単語。
 それを聞いただけで、猛烈な寒気で全身が震えた。発したシェロウもまた、喉を押さえている。
 心臓の痛みを堪え、互いに大きく息を吐きだすと、辛うじて正常な呼吸を吐きだせた。
「どうやら、発音を間違えたらしい。無事だ」
「今、のは?」
「知らない方がいい。神でない神の名だ。英雄の血族でもない限り、巻き込まれれば命を失う知識であるし、おそらく今の発音でも術式は反応する」
「今の発音でも心臓が止まるかと思ったが」
「一度目に耐えられれば、死にはしない」
酷く物騒な知識を披露する相手が、本当に誰なのか解らなくなる。彼は一体、何者だったのだろうか。
「いや、もしやお前も」
じっと見据える眼が、一瞬憐憫とも驚きともとれぬものへ変化した。
 何かを発しようとした口元は、別の言葉を発する。
「世話になった。これを」
麻袋から妙なものが取り出される。一抱えほどの宝石。
「これは」
「持っておけ。いずれ必要になる。」
嫌な言葉だと思った。まるで何かを確信しているような。
 朝食を終え、家を出るシェロウ。見送るために背を追った。
「では」
「あぁ」
 彼は笑った。自分も笑っていると思う。
 ほんの数歩の距離で、彼は立ち止まる。詠唱が聞こえた。
 ずっと先で、また会うかもしれない。そう思っていると暴風が顔を叩いた。あまりの砂煙に瞼を閉じると、次に見た風景の中に彼はいなかった。
「行ったか」
少なくとも、彼とは友になれた。そんな気がした。勇気づけられた。そんな気がした。
 新たな一歩を踏み出せると、何故か活力が湧いた。そんな別れなど、生まれて初めてだった。


 掘る。ではなく、爆砕した。土地の勾配を観察し、川の曲がる地点を狙い、ラインを予測して炸薬を使った。
 昨日発見した小川から、一本の支流が出来た。木々の根や地形の凹みを水は流れていく。
 慌てて水の流れを追った。斜面を駆けた。
 ここ数日で馴れた山道の疾走。筋肉痛も感じないのは、危機的状況の連続で、一部の神経が断絶しているのだろう。
 新たな支流沿いに下った先、まさかと思い、本当に出来たのかと眼を疑う。
 過去に父が掘り、使わずに放置していた溜め池に、水が満ちようとしていた。
 繋がった。そんな感覚に再び涙しそうになる。自分が、これほど弱っていたとは思わなかった。
 私は、父の道、冒険者を捨て、家族の為に農民となったその背中を、やっと継げたのではないかと。
 涙が流れなかったのはシェロウと演じた日常のおかげか。
 周囲が池から溢れ、周囲が水浸しになる前に支流の続きを作る。
 斜面を流れ、泥に吸われ、そのうちに溢れた水はどこかに消える。
 今まで、父は山から水を運び、田に撒いていた。
 それを愚かしいとは言うまい。私はそんな朴訥な父のおかげで、炸薬を作る知識を得るだけの時間ができた。
 そうやって人間は繋がっていくと、今、経験できた。
 また泣きそうになる。
 居なくなっても、何かが残るのだと。
 同時に。
 それが恨みも含まれると、誰かの姿が浮かんだ。
 あのユニコーンは、何時まで世と人を呪い、何時まで悲しみのまま人を憎むのか。
「くだらん」
 まったくだ。
 こんな事を考える自分が。
 自分は満たされた、そこで終わらせてもよかったはずだ。ただ一度、会っただけの相手に、どんな意味がある?
 理由などない。
「ん?」
しかし、そこで思い付いてしまった。何故、この土地が枯れていくのかを。
「あ」
本をしかめっ面で眺める。理由など見たままきちんと書いてあった。
「・・・あぁ、くそ」
奇しくも、自分が否定した行動を、建前が出来てしまい現実が背を押してくる。あの女のところに出向けと、自分の内側が囁いた。
「意味など、ない」
 自らの迷いを、自らによって捨てる。
 鞄をぶら下げ、手斧を腰にした自身が。 

 
 何故に赴いたのか。自身でも定かではない。
 一種の決別の儀式、独り立ちの象徴として彼女への勝利を利用したいのかもしれない。
 古書に書かれた文字に、多少ではない憤りを感じ、この女を殴らねばならない気がしたのかもしれない。
 それとも、自分は、もっと別の何かを行いたいのか。
 何一つ解らなかった。
「・・・何を、しているのかしら?」
滝壺から少し距離のある水辺でスコップを手にした自分は、無表情に彼女を見返しているだろう。
「穴に落っこちたところに、拳骨を浴びせようかと」
至極当然とばかりに言葉を告げる。
「・・・人間とは、こんなに思慮の浅い存在?」
足首までしかない穴を幾つも掘っていた私への感想らしい。実に的を射ていた。タイミングがあまりに悪かったと弁解したい。
「深く掘る前なだけだ。決して失敗したわけでない。まだなだけだからな?」
何度か念を押し、言葉を続ける。
「少し待っていろ。用意する」
「赦すとでも?」
声が冷える。呆れが消えた。
 仕方なくスコップを投げ捨てると、無手のまま真っ直ぐに立った。
 両手は垂らし、構えはとらないが、同時に重心は落としている。
「死にたいというなら殺していいけど?」
「母の敵でなくとも、既に人という種族そのものが憎いか?」
劇的な空気の硬化。ユニコーンの美女は、息すら止めてこちらを見据えていた。
「・・・まさか、領主の末か?」
「いや。読書が趣味の、単なる農民だ」
鞄を開き、本を見せる。人間の皮で装丁された事を除けば、ごくごく普通の書物。
「当時の話が書いてあった」
「そう・・・。それで?」
殺意がその眼に宿る。どうやら、全てが彼女に該当したらしい。
「仮説がある。お前が・・・この土地の呪いを、継いでしまったな?」
「それが?」
肯定の言葉に、何一つ感情が籠らない。上を滑り、あまりに硬い心の壁が、彼女を遮る。
 乾いた、乾いた土地を思い出し、土の弱った畑を思いだす。
 おそらく父と同じような、経験と努力で土地の状態を保つような真似はできない。残念ながら父の手伝いには消極的だった。
 その点の技術はなく、このままだといずれ水があろうと土地は荒れて何も育たなくなるだろう。
 その原因が眼の前にある。
「なら、解いてくれ。頼む」
頭を下げた。言葉だけは尽しておきたいと思った。父の教えた礼儀であり、兄と繰り返した喧嘩の末に悟った礼儀である。
「無駄、断る。土地など腐れば?」
無慈悲。強張った顔。
 憎しみの消えぬ表情。ユニコーンという種族の心さえ歪め、彼女の唯一の拠り所となった絶望とはどれだけ暗いものなのだろう?
 単なる文章では、それを察する事はできない。
 解らないし、もう、駄目ではないかと諦めてしまう。
「・・・ヒロインではなく、宿敵だったか」
どうやら、この話を自伝として書き起こすとすれば、愛に満ちたロマンスなどではなく、血生臭く哀しい、1人のユニコーンの最期である。
 それがたまらなくやるせなかった。こんな筋書きを想像した誰かをたまらなく殴りたい。神か?それとも悪魔か?
「だが」
中指で宙を薙ぐ。指輪から放たれた光輝が、ゆらゆらと宙へ光球を生み出していく。
「退けも、しない」
 重く、息を吐きだした。
 自分にも守るべき『家』があるのだから。
 息を吸って、耐える為に身体を強張らせる。
 既にユニコーンも、殺意ばかりの滾る瞳で、こちらに目標を定めていた。
「『ハイバンス』」
心臓の痛みと共に、光球が弾け、光の鞭となってユニコーンを叩いた。
 衝撃にたたらを踏むユニコーンであるが同時に、空中へ展開していた魔術式が霧散する。
 短い詠唱が、こちらに聞こえないほどに高速で繰り返されたようだが、一度として発動はしない。
 効果の確かさに腰から鞘を外した。指を鳴らし、拳を握って、強張った手を開く。
「さて、どうする?」
ユニコーンを睨む。単なる農民の眼に、ユニコーンもまた、奇妙な圧迫感を感じる。
 それをどろりと淀んだ、腐肉に似た感情が抗い、その蹄を鳴らした。
「死ね」
何の躊躇も無く吐き出された言葉。突然の疾駆に加速し、強く四足は地面を蹴飛ばしていた。
 慌てて身を翻そうとした瞬間、衝撃波が身体を貫き、収束されない力の奔流が身体を突き飛ばしていた。
「っぉ!?」
息が詰まり、大きく咳き込む。何が起きたいかもわからないまま、地面を転がり距離をとった。、
「・・・死ね。死ね。死ね。崩れて潰れてその本ごと消えてしまえばいい。お前のような人間に、母の事を知られていると思うだけで汚らわしい」
殺意が増している。正直、また逃げようかと脳内で計算が始まっている。
 いや、元々が利益を考えて動いたわけでもなかった。
「女に見せる背中、二度も三度も安売りはできない」
童貞だから。とは言わない。惚れた女に背にしろ胸にしろ貸すのはやぶさかではないが、殺されると解って背を向ける阿呆ではない。
「死ね。いや」
口調が僅かに変わる。苛立ちを混ぜながら。
「殺す」
即座にでも逃げたい。しかし逃げない。
 二律反にも程がある。自分が何を考えているかも皆目見当がつかない。
「あの手癖の悪い悪女に苛立っているのだけは確かだが」
鞄も投げる。完全に無手になり、そして構える。両の平手を相手に向けるように構えた。
 先程の衝撃に際し、こちらに相手の身体は当たっていない。ならば、何かこちらへ投擲されている。
 それを捌くつもりで両手を構え、緩く膝を動かす歩法を使い、前へ進んだ。
 どうにかする。私が。
 兄より随分と強そうな女を前に、小さなプライドを奮い立たせながら。
 突進するユニコーンを見る。剣呑な瞳から動作を探り、振り抜かれようとしていた腕を見た。
 前傾のまま右足を軸に側面へ回る。
 躱した無形の衝撃波。術式によって変換されていない魔力そのものを放出した攻撃だと、肌で感じた。
 桁の違う魔力を備えたユニコーンによる力技。 収束されていないものの、単純な打撃を大きく上回る。
 それでもユニコーンの離脱より疾く動けた。
 前足の脛を蹴飛ばし、ぐらついたところを全身を使って突き飛ばす。
 姿勢を崩した横腹を前に、突き飛ばした反動によってしゃがみながら引き絞られていた拳。
 革袋を平手で叩いたような鋭い打撃音に重なり、横転するように転がる轟音が続く。 
 追撃より先にユニコーンが浮く。同じく魔力そのものを使った浮遊であり、詠唱を行っていない限り無効化はされない。
 打ち込んだ拳に鈍い痛みを感じる。肉体の強靭さは鍛えた農民程度では並ぶことも難しい。
 拳をほどき、軽く手を振る。手刀、もしくは掌底打ちを行う為、再び構える。
 苛立たしげにこちらを一瞥するユニコーンは、射殺すようにその敵意を視線へ乗せている。
「まぁ、今更だ」
馴れたわけではないが耐えられる。威圧には屈せず、ただ真っ直ぐに歩み寄った。
 衝撃波は放たれるものの、腕の振りが見えれば流れが解る。何かが投擲されるイメージを頼りに、一気に前転した。
 両腕の振りに合わせて側面へ回り込む。腕の屈伸で地面を突き飛ばし、立ち上がる勢いで二発目の衝撃波を躱す。
 振り回した腕を叩きつけ、バランスを崩した相手の横腹へ膝を叩きこんだ。
「ぐぅ・・・!」
呑みこまれた呻きを無視し、離れようとしたユニコーンの後ろ足へ足先を引っ掛ける。
 残り三本の脚でバランスを保つものの、一瞬の間隙に滑りこみ、脛に蹴りを叩きこむ。
「・・・っ!?・・・っ!?」
悶絶するユニコーンの人体を掴む。
「よし」
胴体へ腕を絡ませて背後へ回し、馬体に跨る格好で躊躇いなく首へ腕を回した。
 頸動脈を狙って締める。
「呪い、解くか?」
「・・・無理」
その単語に何か奇妙な印象を受ける。
「無理?」
頸動脈から僅かに腕を動かした。
「あんなものに、どうやっても勝てるはずがない」
 ガラスの壁が砕けるような感覚。
 絶望に呟くユニコーンから視線を動かすと、岸壁を砕き、何かが現出しようと体躯をくねらせる。
 ふらふらと距離をとろうとするユニコーンの背中から下りた。全身が恐怖に揺り動かされるという奇妙な感覚を、生まれて初めて体験する。
「なんだ。あれは・・・!?」
 頭の中で現状と認識が一致しない。何か、自身の抱いている概念とは明らかに違い過ぎる現象。
 魔力の気配は衝撃波の時に肌で感じたものと類似している。しかし、それを核に、もっと異質な何かによって補強されている。
 呪い。
 ユニコーンが一代の命を賭して紡いだそれは、既に新たな形を得ようとしていた。
 ぶくぶくと泡に似た爛れに覆われた臓器を、そのまま鬼のカタチに練り上げたような異形。
 臓器を糸として、肉片を布地として、まるで縫い合わせて結合させたような歪な存在感。
 腐臭。生肉を押し潰すような不快な音が繰り返し、繰り返し、人のカタチをした何かが動くたびに、にちゃり、にちゃりとおぞましく響く。
 本能が理解する。これが、死への冒涜であると。
「レギオン・・・!?」
魔物とはまったく違う存在。グールやゾンビ、スケルトンにもなれなかった淀んだ残留思念の蓄積。魔とも呼ばれる悪霊の集いは、まるで岸壁がそのまま動きだしたかの大きさで、人間の軽く四倍近い体躯を揺らがせていた。
 甘く饐えた腐臭。臓器の奥で醗酵したかのずるずると濁った気配を前に、猪を捌いた時とは比べ物にならない嫌悪を覚えた。
 敬意を感じない死の気配。
 まるで悪夢。
 ぎょろりと、その瞳があるはずの場所で、肉の襞が瞼のように蠢動する。ゼリーに似たゲル状の何かと共に、人と同じ大きさをした眼球が、ぼろぼろと毀れ落ちてくる。
 吐き気がして胸の奥が詰まる。気色悪いどころではなく、生理的な嫌悪だけで、鳥肌と体温の低下という肉体が変調するということを初めて知った。
 山から村のある場所までの地形を脳裏で概算する。逃げた場合の意味も。
「・・・現出した理由は、土地の変化と同じものか」
自分が動き出した理由、急激な土地の荒廃。
 その原因が、眼の前の存在が活性した事であるとするなら、辻褄は合っていた。
「下がれ」
茫然自失のままだったユニコーンを軽く突き飛ばす。荷物から黒く乾燥させた木筒を取り出し、嫌悪と苛立ちと怒りの全てを溜め息に乗せて吐きだしながら。
「まさか、お前」
驚愕の表情は少しばかり小気味よかった。指先に火打石を握り、腕を振り上げた巨大な肉塊をヒトガタに練り上げたかのレギオンを見上げる。
「全弾数えて28発。臓物でもぶち撒け」
「なっ・・・!?」
 眼を見開くユニコーンを無視して、炸薬の詰まった木筒を点火と同時に投擲した。
 投げる。放る。投擲する。肉として形成された呪詛の濁りを前に、必死で腕を振り回す。
 炸裂し、黒煙越しに吠える悪霊。呪いという媒体を好機とばかりに寄り集まり、おそらくは周辺の罪なき霊すら取り込んで肥大した悪心の顕現。
 10を投げ。
 20を投げ。
 ついには残り二発を手に絶望する。
 半身を崩壊させながらも、レギオンは起立の姿勢を崩そうとはしていなかった。
 ごぼごぼと赤黒い血液が傷口から噴き出し、黄色い皮下脂肪を垂れ流しながら再び呪詛を肉として構築していく。
 その異様な光景は全身を再構築するまで止まらず、徐々に元の姿へと構築は続けられていく。
 その過程で。
「っ・・・!?」
 肉の破片、腐った粘液に触れただけで、肌から肉が削げ落ちる。
「っぐ、っあ・・・!?」
 焦げた肉の痛みを堪えながらも、絶望を自覚する。
 勝てない、どころか、存在だけが害悪。
 眼の前に立つだけで、全てが虚無へ還る恐怖に、全身が震えた。
 痛みと混乱に涙が滲む。喉の奥がひきつるように痛んだ。
 ひきつけのように背筋が痙攣する。
 眼の前の肉塊に怯え、呼吸にすら迷う。
 息を吸い込めない。
「・・・・・・!」
 心臓を必死で叩きつけ、深く喉を鳴らした。
 飲み込む。我慢する。
 やはりこの世界に信ずるべき神はいないと溜め息。諦観。それでも足掻く。
 父と違って、自分はまだ生きているのだからと、苦笑い混じりに。
 半ばやけっぱちの気分のまま、荷物から本を取り出す。
「よし、最期の手段」
言っていてどうかとも思うが、非常に虚しい。
 縋るもなにも、これが何なのかも解らない。
 そういった悩みもまた、1人の男を信じる事で取り敢えずは忘れる事とした。
 仕方ない。
 こんな何かも解らない人の皮張りのゴミ屑が如き古本しか選択肢がないのだから。
 本の価値を否定するつもりはないが、この本の有用性は何も証明されていない。
 手に輝く指輪よりよほどに曲者。
 それに、鈍重な動きとはいえ、レギオンは、再びこちらを捕捉しようとしていた。
 やりきれない感情を顔に浮かべながらも、唇を噛み締めて動こうとしないユニコーンの尻を蹴り飛ばすと、ユニコーンは悪鬼の形相で叫ぶ。
「っ!?いい加減にしろこのクソ餓鬼が!」
「走らないと殺される」
「・・・もういい・・・!どうでもいい・・・!」
投げやり。
 あまりに簡単で、縋り心地のいい絶望。
同じ諦めとはいえ、こちらは生への渇望を抱くだけの希望がないらしい。
 あまりの潔さに反吐が出た。
「何だ貴様は。自分より弱い相手を苛めて喜んだと思えば、自分より強い敵が出てくれば諦めるのか。お前の母親はさぞや喜んでいるのだろう」
なめらかに口から滑り出る敵意を前に、ユニコーンが鋭い眼光で睨みつけてくる。だが、それはその様子に怯える要素はない。弱い。
 これでは、まるで、駄目だと、彼女を責める。
「貴様らが殺した癖に!よくもそんな事を!」
「黙れ。ユニコーン」
憤りが口から溢れる。マグマを凌駕して熱く滾る。
 眼の前のレギオンをその瞬間だけは間違いなく無視し、喉の奥から雑言を吐きだした。
「いいから失せろユニコーン。喚くなユニコーン。尻尾を巻いて逃げろユニコーン。貴様の誇りはその程度だユニコーン。反吐が出るんだユニコーン。貴様如きはそれがお似
合いだユニコーン」
「私の名はフィンメル!ユニコーンと易く呼ぶな!」
「そうか。俺はヤマ・タクラだ。人間などと一括りにして都合のいい敵に仕立てるな」
その瞬間。
ユニコーン、いやフィンメルは私を忌避した。否、その言葉の意味に恐怖したのだ。
 青ざめた顔のまま、唇を噛み締めるフィンメル。
「お前の敵など、既に何処にもいない。とっくに老衰なりでこの世を去ったであろう事は理解できるだろう?」
「や、めろ」
「憎むべき対象などいない。偶然眼の前に現れた人間を仕立て上げない限りはな。肉親が残したのは眼の前の呪いだけかもしれないお前に、何があるのか考えてみろ」
斬る。
 慰めることなどできない。それを望んでもいない。
 しかして、自身の渇望が彼女の死を拒んでいた。
「やめろ、やめて、やめて、やめて!」
懇願のように喚くフィンメルへ言葉を浴びせる。その間にも、手の中では本が『蠢いて』いた。
「お前はとうに孤独という名の自由を手に入れ、隠遁という形での平穏に縋ったんだ。時が流れるままに仇を任せ、自身への憐憫を繰り返し続けて」
言葉は、鉈のように柔らかく緩んだ部分を叩き潰す。
「私怨ではない。貴様の行動は復讐ですらなかったのだ。それは」
言葉は牙を露わにし、相手を突き殺す。
「くたばった母親をまだ煩わせるか?『ママ、私、寂しいのぉ』と」
瞬間。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
見開かれた眼、恐怖と悔恨の感情が止まらない。感情が同期するように、魔力がそのまま全身から放出されていく。
 陽炎のように景色は揺らぐ。
 フィンメルは、喉が裂けるのではないかというほどの叫びを絶望のままに迸らせた。
 同時に、ページをはためかせていた本が、その『蠢動』を停止させる。
 手の中の気配が変わった。
 何かが変化し。
「・・・!?」
フィンメルが無言のまま眼を見開き、膝から崩れ落ちた。四本の足が次々と地面へ付く。
 手の中の書物は、いまや、何がしかの意思をもって活動していた。
『汝よ、太古よ。砂漠の者よ。その腕を以て、幾つかを掠め取れ』
「な・・・!?」
本が囀る。
 それはまるで、朗々たる荒涼の地を思わせる男とも女とも解らぬ声であった。
 ただ、イメージが脳へ叩きつけられる。
 長い腕。
 黒衣。
 それを召喚しようとする隠者が如く薄汚れた外套を纏った者。
 そのイメージ全てが、脳髄を抉り、神経を侵し、脳内に新たな神経伝達経路を埋め込んだ。
 呪いと呼ぶのがしっくりくる感触と同時。
 本が吸気したフィンメルの魔力が、インクのように本に描かれた魔方陣を高域稼働させた。 
『出でて盗め。低俗たる魔の精霊《シャイターン》よ』
 あまりに膨大な流出に度肝を抜かれた。
 大蛇の骨の先に巨大な掌の骨を接続したような真っ白な手の群れを率い、黒い布で全身を縛りつけた格好をした精霊が、小さな身体で本より舞い上がる。
 遠い砂漠の国の伝承が謡う《精霊》ならざるもの。
 それこそがこの《シャイターン》だと、唐突に『理解させられた』自分が、苦い痛みを味わう。
 痺れるような甘い痛み。誘うような香りもまた、シャイターンの引き連れてきた、地獄の気配というものだろう。
『そら、奪ってしまえ』
着易い言葉1つで腕がレギオンへ殺到した。
 肉を奪い、魂を奪い、簒奪を続ける。尊厳を、意識を、そして魔力を。
 あまりの生残さに顔をしかめるが、レギオンの瞳、いや、そう見える部位が濁った光を宿した瞬間。
 身の危険を感じて飛び退く。
 寸でのタイミングで肉の塊が元居た場所に落下し、一瞬にして不定形の存在となった肉の破片が、蠢きながら本体へ帰属しようと戻っていく。
 単純な攻撃では破壊できないらしい。
 悩む間も惜しみ、本の魔方陣から失われていく魔力を横目に意識の曖昧なフィンメルの手を引いて離脱を測る。
 これ以上の交戦は無理だと判断した。迷わず逃げる。
 しかし、こんな状況で逃げ切れるのかと周囲を見回していると、見覚えのある短い髪の少女を捕捉する。
 まるで不幸になる事が決定されたかの絶望的な表情、台車を引くゴブリンと眼が合う。
 瞬間的に火事場の馬鹿力を発揮し、ゴブリンが逃げようとするより先に荷台へフィンメルを放り込む。自身の底力を褒めたいが、そんな状況ではない。
「手近に隠れられるところまで」
「速攻で荷馬車扱いされた!?」
悲鳴を上げるゴブリンから手元の本へ眼を戻すと、淡い光と共にシャイターンの姿が消えようとしていた。
「あ、魔力きれた」
「なんかこっちをバケモノが見てる!?」
「普通の魔物であれば、とうに避難しているくらいには危険だな」
「なんか走れと急かされてる!?」
「よし、隠れられる場所へ案内しろ」
「こんちくしょー!」
茫然自失のフィンメルを積んだまま、ゴブリン特有の素早さで荷馬車は森の斜面を駆け降りていく。
 レギオンは追いつけない。
 だが、移動速度から考えても、そう長い猶予とは思えなかった。


 洞窟。荷造りされた荷物と共に、岩のテーブルの上に倒れ伏すゴブリン。ここまで全力疾走できた健脚は素直に褒めたい。
 腕に包帯を巻き付け、傷薬で治癒を促した。
「水、飲むか?」
「ひとんちで好き勝手に・・・ごくごく」
喉を鳴らして飲むゴブリンを横目に、顔を伏せたユニコーンを一瞥する。暗い顔のまま、向き合ってしまった現実から必死に意識を逸らそうとしているのだろう。
 父の死んだ時、兄が似たような表情を浮かべた事を覚えている。
「で?あれ何?レギオンみたいだったけど」
ベリーショートに髪を整えたゴブリンに問われる。
「ところで何故、引っ越しの用意を?」
「あ・ん・た・が!この土地から離れろって言ったんじゃない!だから引っ越ししてたのよモンクあるそれよりアレは何!?」
怒涛の言葉を前に、状況を整理。
「・・・あれは、母の織り込んだ呪いだったものよ」
ぼそぼそと喋るフィンメルに、ゴブリンと私は視線を向けた。
「やはりか。この近辺に流行病と土地の荒廃の残る理由。それが、今も続く理由は理解した」
レギオンは呪いを核として動く。故に、呪いを保つ。
 呪いはレギオンによって維持されている。故に、レギオンを離散させない。
「供給と需要。商人のいう物の動く仕組み」
重く溜息を吐き出す。今度はユニコーンではなく、レギオンが目標物となった。
 黙りこみ、視線を逸らしたフィンメルを一瞥し、遠く響く足音を耳に悩む。
「それで、まさかあの化け物を倒そうとか思ってるわけ?」
「当たり前だろう?馬鹿なのか?」
「さらっと罵倒された!?うわーん!」
泣き喚くゴブリンへ、そういえばと思い出す。
「名は、何だったか・・・?」
「名乗ってないわよ聞かれてないわよアンタ最悪ね私の名はナブンよ!」
「普通」
「名前まで罵倒できる貴方は何様よコンチクショウ!」
既に泣き笑いの表情へ至り、がくがくと自分を揺さぶるナブン。しばらく泣きながら揺さぶり満足したのか、けろりとした表情で言葉を紡いだ。
「それで、あんなバケモノと何で戦うの?」
「あぁ、私は農民だからな。このまま土地が死ぬと困る」
「農民だったの!?」
心底驚かれた。そろそろ殴ってもよいのではと思う。殴った。
「痛った!?女にグーでぱんちって!?」
「結婚しよう」
「え、嘘!?マジなの!?」
「嘘だ」
「ドちくしょー!!」
少しばかりナブンで遊んだおかげで気が晴れる。しかし、あんなバケモノが、今まで気付かれなかったのは何故なのか。
「フィンメル」
「・・・気安く、呼ぶな」
未だ敵愾心を剥き出しなユニコーンに、冷静な声で問う。
「レギオンが凶悪化したのはつい最近だろう?」
「何故そう思う?」
その問いが既に応えなのだが、問う理由もまた解る。
「あれだけ大きくなるまで気付かれなかった理由は、動かなかったか、誰かが隠していたのだろう。恐らくお前が。理由も想像がつくが」
殺意の溶け込んだ視線。暗く妬みに満ちた気配がフィンメルから伝わる。
「土地の荒廃より呪いに混じる母の気配に救いを求めたのだろう?先程の反応からも、母親に縋って引き籠っていた事くらいは想像できる」
「・・・・・」
顔を背けるフィンメルから視線を外す。言葉の刃を口にする事に、怒りよりも疲れを感じ始めた。
 それでも抉る。手酷く。汚く。現実からの逃避など赦さない為に。
「その関係のまま、自己完結できれば誰にも気付かれなかったろうな。だが、土地の荒廃が加速した事で私が辿り着いた」
その原因がこんあ相手だったとは、想像もしていなかったが。
「私のような農民が容易く辿り着けるのならば、次は必ず来るだろう。その苛立ちと、思い通りにならない呪いへの怒りをこちらへぶつけた」
「・・・その通りだったら、この子ってどんだけなのかしらね」
「煩い。それだって人げ」
「人間の所為にするな。逃げるな。私は人間だがお前の仇ではない」
「・・・もう、いい」
過ちを自覚している。それでもだろう。
 よほどに母を愛し。
 よほどに人間が憎いというのか。
 馬鹿馬鹿しいと断じると同時、それもまた自分の与り知らぬ問題だと捨てる。
 自分もまた、彼女が憎い。
「ナブン、世話をかけた。私はもう行く」
「っと、ちょっと。この女どうするのよ?気まずいっての」
「感知しない。少なくとも、ここなら簡単には死なんだろう。あとは好きにすればいい」
「つまり、この女のことを助けるの?」
驚きを隠そうともせずナブンが叫ぶ。
「違う」
深い怒り。しかし、その怒りを彼女へ向けるというのも無意味である事もわかる。
 それでも、許せるわけでもなかった。
「つい先日、私の父も流行り病で死んだ。呪いの影響かどうかは確かめようもないが、その魂をあのレギオンが取り込んだとすれば活性化もするだろうな」
 ナブンは萎縮する。
 フィンメルも眼を見開く。
 人間一人の魂。その全て。
 それも、過去とはいえ武勇に優れた冒険者とくれば。 
 レギオンの活性化の一因となりえるだろう。
「父は、あの中にいるのだろう」
歯を噛み締める。父は、死した。その後も、安らに召されぬまま。
 それが辛い。そして憎い。
 ただ私怨に胸を焦がし、フィンメルを睨みつけた瞬間、ナブン、そしてフィンメルも、たった一人の人間を前に怯えていた。
 それほど、自分は恐ろしい顔をしているのかもしれない。
「貴様は生きて苦しめ。足掻け。自殺できるほどの度胸もないだろうからな」
本を手に握り、洞窟から出る。
「ねぇ、ちょっと!」
 その背へ、ナブンの声をかけた。
「本当に行くの?なんか奥の手とかあるの?」
「なくはない」
手の中の本と指輪が一つ。なんとも頼りない奥の手だが。
「けど、死ぬかもしれないのに?逃げればいいのに」
焦った様子で止めようと言葉を続けるナブン。その言葉が、少しだけありがたかった。
「ナブン」
立ち止り、振り返った。
「な。なによ?」
「遅れた事を詫びよう。私の名はヤマ・タクラ。ゴブリンのナブン、止めてくれた事を感謝する。好意には、敬意を以って答えたい」
礼儀を尽し、礼の姿勢をとる。
 慌ててナブンが赤い顔を左右に振った。
「べ、別に、そんなつもり」
「いや、そう思う事にしようと思う。この世に未練の一つや二つないと、最後に諦めるかもしれない」
「それは、まさか、死ぬ、つもりだから?」
怯えたような表情。彼女へ、笑いかけてみようかと思ったが、頬がひくついただけだった。
「可能性は当然ある。それでも止まるわけにもいかない」
深く息を吐き、意識を奮い立たせる。
 遠く、呻きに似た咆哮が聞こえた。
「あの女と同じ道は選ばない。例え、孤独であれ、死すものであれ、名を、汚したくはない。誇り高くありたい」
空を見上げる。今度こそ、父を母の元へ送ろう。
「親の背に学んだ、数少ない教えだからな」
洞窟の奥からも気配はする。おそらく届いただろう。
 私は、再び斜面を歩き始めた。


『さて、そろそろいいか?』
一人になった途端に本から声。山道、獣どころか魔物の気配すら乏しい状況で、本が喋る。
「あぁ」
なんとなく返事はしたものの、そういえば喋っていた事を返事をした後で思い出す。
『我が名は魂の書、銘をハスフォード家封刻書』
言葉を紡ぐ本。まるで人の皮で作った装丁の皺が、蠢いているようにも見えた。
「人生も序盤で随分と出会いの多い日だ」
『そう嘆くな』
本に慰められるとは。
『先程の話から察するに、あのレギオンを倒さねばならんのだな?』
本が事情を察するとは。
『まぁこれも縁だ。手を貸そう』
本が凄い人格者!?
「と、とにかく、助力願えるなら是非に」
『うむ。では私の能力説明だが』
「あ、あぁ、正確にはどんな能力なんだ?」
『魂の記述から最もロスの少ない召喚を行う。つまりは、どんな魔力の少ない人間でも、私さえ使いこなせば一流の召喚師になれる』
「便利だ」
『レアアイテムだからな。私の安置されていたのはダンジョンの最下層。ボス部屋の後ろだ』
いささか聞いてはいけない単語が乱発された気もするも、途中で無視する。
『お前の魂は主属性を闇、融和性のある属性を金、対抗属性を光輝。先程のシャイターンの場合は、だいたい総魔力の5%くらいか』
「私は魔術師ではないが、まだ使えそうか?」
『レアアイテムを舐めてもらっては困るな。それに、比較的に魔術的才能は多いはずだ。初級なら幾つか使えるだろう?』
「まぁ、状態異常と、ごくごく限定的な補助術式を」
『ならば十分だ。素養もある、私が居る、まだ歳若い』
歳若い?
『なぁに、寿命の半分ほど削れば、魔王にだって手傷を負わせられるぞ』
「・・・レギオンを倒せるだけでいい。頼む」
砂を蹴る。
 背の高い木を軽く駆け登ると、遠く、地響きと共に行進する亡霊の巨人が視認できた。
『あれに勝つか。ふむ』
「作戦はある。あとは、決定打になり得る攻撃だ」
本を出す前に爆薬で攻撃した事を説明する。唸る本は何かを探るようにぱたぱたとページをはためかせる。何時の間にか本が勝手に浮いている。
『力、力、力、地霊では力は及ばず干渉も不完全・・・ならば・・・やはり・・・闇・・・そして、指輪?』
本が、手の周囲を飛び回る。浮力がどこから発生しているかも解らない。
『この指輪。体系外か』
「体系外?」
『詳しい説明は省くが、命を賭けるだけの覚悟は?』
その瞬間に一瞬だけ呼吸が止める。
 自分は、本当にあんな存在と戦う為に、命が賭けられるのか。
 答え。
 答えは。
「あぁ、賭けるぞ。あの呪いには我慢ならん。娘を不幸にして何が親だ」
子の運命を狂わせ、人へ悪意を撒き散らした呪い。そんなものを許せるはずもない。
「親の仇が眼の前だ。手酷く殴って極楽に送ってやる」
そして、斜面を駆け降りる。
 ここ数日で庭の如くなった山を、今度は戦場とする為に。


唯一にして通常の不死属性には効果のないアドバンテージ、状態異常の魔術式。その有用性をまさか本のおかげで知る事なるとは思わなかった。
「血煙《ブラッデッド》」
 効果、対象へ『混乱』の状態異常を付与。
 まるで靄を思わす不定形の煙が風の中に混じったかと思うと、巨体の動きが徐々に鈍り始める。
 状態異常の中でも、不死者の中で唯一、レギオンでなければ通じない状態異常。
 複数の魂が混乱すれば、動きに齟齬が出るのも頷ける。
『私のおかげだな』
「それは認める」
 レギオン。その名は古代の言葉で『軍団』とも。
 聖人により倒されたという逸話もあるが、この場に聳える肉の巨人とは意味がまた違う。
 怨嗟。
 そして悲嘆。
 何故この場に留められているのかも解らない魂や、ただ人を呪う悪意。
 その集合体に、確固たる意志はない。
 ただ、経験や、本能的な闘争だけが、肉を動かし、蠢き、生のあるものを妬む。
 統合すべきものの存在しない呪いの塊は、今もまた、人の気配を求めて彷徨う。
 それに対し。
「大きい・・・」
 あまりに矮小な自分が、どれだけの力を持ち得るというのだろう?
 相棒は本が一冊。
 レギオンは生の気配を感じ取ってはいるものの、こちらが何処に居るのかを把握できていならしい。
『相棒、お前に翼はない』
「そうだ」
『相棒、お前に牙はない』
「そうだ」
『相棒、お前に意思はあるか?』
「一応は」
『相棒、私を信じるか?』
「無論だ。私は本を信奉しているからな。人に悪はあろうと本に悪はない」
『・・・その思想も問題だと思うが、まぁいい』
本は舞う。
 私は指輪を構える。
『理論は簡単だ。お前との親和性を確認したその指輪を媒体に、一瞬であれ召喚に成功すればあの化け物を吹き飛ばせる術式を構築する』
「あぁ」
『行使に成功すれば我々は生き残る、行使に失敗すれば我らは滅び、あのバケモノによってこの近辺全てが蹂躙されるだろう』
「非常に解りやすい。そして、最期の一言は余計だ」
『失礼した。どうも、お前はプレッシャーに弱いようだ』
「そうはっきり言われると困る。自覚すると逃げたくなる」
溜め息混じりの声とはいえ、その語尾は微かに震えていた。
『謝罪する』
レギオンは酩酊したかのように視線を左右に彷徨わせる。
「しかし、普通は止めるものではないのか?」
『何をだ?』
「今から召喚するものを」
冷や汗と恐怖が心を蝕む。その所為で、思わず本へ尋ねていた。
『さて、失敗するとしても、この世界であれば然したる問題にもならないだろう』
「・・・そう願う」
 禁じ手。
 おそらく、知恵あるものの多くが忌避するものを、自分は何がしかの因果をもった自身の血に頼り、発現させようとしている。
「te-ke-ri,teke−ri-ri」
呼ぶ。呼応する。
ハイバンス。
否。
「名を、Hypnos《ヒュプノス》とする外神」
空間そのものが回廊へと捩じれる。
 脳を地面へ叩きつけられたかの衝撃。
「っぐ、おぃ」
強烈なインパクトに全身が圧壊するのではないかという痛みと軋みを与えられ、同時に、ただ圧倒的で膨大な魔力を感じる。
 物理法則が効果的な配列へと置換されていき、この世にはありえぬ次元の方程式が世界の『軸』を歪めていく。
 その存在が何かを理解するまでの数瞬で、今まで存在した概念とは別の、もっと不定形で曖昧な情報が脳の表面へ『印刷』されるように刷り込まれる。
 認識した概念を薄く硬いクッションとして、そこに実在するという事実だけで圧倒的な畏怖と恐怖を感じる何かが、その片鱗を露わそうとしていた。
 魔。
 違う。もっと原初的な力の象徴。
 渦。
 渦と、私には感じられた。
 その瞬間、脳に極大の牙が突き刺されたように感じた。
 情報が混濁する。
 自分という存在がぬるく熱い粘液に溶かされるようだった。熱い快感と緩慢な恐怖を前に、ただ意識が尖る。
 自分の内側が晒される。蹂躙される。強姦に等しい。
 その全てを噛み潰す。
 鋭く抉る指先、掻き分ける爪。利己的で害意に濁った自我こそが、なによりも強い本能を突き動かした。
 そして『何か』は自分と同じ顔をして直刀を手にする。
『死ね』
「断る」
 これは自分ではないと刹那に理解。
 自分は本当に危険な時に無手を選ぶ。
 腕を掴み関節を極めて叩き落とす。
 同時に低く這うように動かした足先を顔の上で落とした。
 乾いた靴底が、頭蓋を砕いた。
 『何か』が喜ぶ。
 己すら易く殺すのかと笑うのは、私と言うフィルターを得る事で、初めてこの世界を認識した存在。
 現出する片鱗。自分に類似していたものが溶ける。
 自分に類似した顔が歪み、莫大な何かに膨れ上がる。山より広大で、大陸の果てに等しい距離に聳える巨体。
 肉の巨人すら砂粒に等しい。
 その指先、否、粘液質な煙の先端、物理的に存在しないゲル状の白い靄が、全てを呑みこもうと広大な全身を揺らがせていた。
 詳細を観察しようとした瞬間、煙が眼を浸食した。
「あ、あぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!?」
肉が失われ、神経を剥き出しにしたかの苦痛。
 その中で神経ごと引き剥がされそうな刹那、本の声が脳の奥へ響く。
『耐えろ。干渉が終われば死にはしない』
あまりといえばあまりの言葉ではあるものの、対話という常識的な行為によって正気の喪失を免れる。
 感覚的なものだが、眼の前の存在とは大きな隔たりがあるようにも感じ、本質的なもの、根源の畏怖すべき本性には触れずに済んでいるようにも思える。
 世界の軸の位置が、あの存在の位置する軸とズレているのだろう。もっと近しい世界であるなら、この一瞬で狂死する可能性がある。 
 それでも気が狂いそうになる。 
 危機を乗り切ったのは運だったのか。それとも、もっと別の要素だったのか。
 眼の存在しない相手と視線が絡んだ感覚。極大の相手を前に、一瞬だけ自由になった自分。
 掠め取る、というより、何かが、共感によって与えられた感覚。
 その顔が聖人のそれに等しいのではないかと、ぞっとするような恐怖と共に認識する。
 右腕が痙攣する。瞼が引き攣り、全身に電気が流されたように感じた。
 筋繊維一本を手に入れた瞬間、その筋繊維は千の手を持つ不定形の束となり巨大な複眼を十と備えた異形として、自身と神経で繋がる。
 ここに。
『契約は成る』
 1呼吸に満たぬ時間。額に浮いた汗が、地面へ毀れ落ちるまでの間隙。
 魔術式より逃れ、身動ぎするように蠢いたレギオンの腕を、白く細い、ともすれば女のカタチをした無数の長大で大きな手が、肉の集合体たる腕を抉りとる。
『モルペウスの魔手』
 一瞬の現出を本が固定する。その力比類無き魔術書は、よるべなき異界の神を形とした。
 遥かな時代の流れの内側、別の系統に属す異形たる外神の名は、時に知られた神話の狭間に残った。
 子の名が1人に『モルペウス』。
 その子もまた、世と乖離した力を用いる。
 夢や空想に人間のイメージを送り、夢を形作ったり、夢に宿るものたちに形を与えたりする。
 その雛型が白い手であり、この世へ現出したヒュプノスが片鱗。 
 レギオンの悲鳴。レギオンの奇声。
 神経節で繋がった腕と腕。腕の数は千倍、指の数は億倍、それだけの神経が脳と同期する。
 それは自分の肉であり自分でない肉。
 白い肉と赤い肉。
 その隔たりは白い肉には『技術』と『司令塔』があった事だろう。
 三本の腕が足を払い、山ほどの巨体を浮かせ、四本の腕が片腕を掴み六本の腕が脇腹を叩く。
 重心の傾いた巨体を、残りの手が、濁流が如く殴り、地面へ叩きつけていた。
 制止されたレギオンへ、掌が殺到する。掴み、握り、抉り、千切り、溶かす。
 無数の手が繰り返すその動作を前に、レギオンの造形が崩れ、再生も間に合わず、徐々に形を失っていく。
 繰り返される略奪を前に、腕が束ねられてより巨大な腕となる。レギオンと同じほどの太さとなった腕が、レギオンを裂き、その胸を引き開いていく。
 心臓のあるはずの場所。 
 抉る。
 腕の神経が引き攣るように痛む。アンテナとしての役割を果たす腕は、皮膚が裂け、血管が負荷に傷つき、びちびちと肉が爆ぜようとしていた。
 肉の隙間から、目的のものが露出する。
 あまりに妄執じみた魔術式、呪いという1つの要素を維持する為の媒体は水晶の球体。
「や、めろ」 
一瞬だけの躊躇。
 父の肉声。否、肉声を真似たもの。
 僅かな後悔はあった。僅かな悲しみもあった。
「親父よ、もう、死んでいいのだから」
 だが、召喚の維持による負荷から血涙を滲ませながらも、無手だった左に残りの炸薬二本を握り、自分は走りだしていた。
 跳ぶ。肉の上を駆ける。
 靴が腐汁に焦げるのも無視し、指先に挟んだ火打ち石で炸薬二本に火を点けると同時に空高く投げる。
 手斧を抜き、水晶を渾身の力で叩く。
 皹の入った水晶から跳び離れると同時、白い手に掴まれ、一気に距離を離した。
 そこへ、炸薬は落ちる。
 爆裂する水晶と肉。解ける呪い。
 鮮烈な涼風と共に、肉と腐汁の全ては昇華された。
「・・・ごめんなさい」
まるで小さな頃のような、心細く弱い自分。
 吹き飛んだ斜面を腕に守られながら転がり落ちる最中、砕けた水晶の半分、なんの力ももたない水晶を、白い手が掴み取っていた。
 転がり落ちた崖の下、手の中の水晶を見る。
 これで、土地に活力は戻る。
 これで、流行病も減るだろう。
 それでも。
「・・・戦って、戦って、得たものがこれだけか」
虚しくてたまらなかった。
『主は、本当に戦うべきだったのか?』
 本からの質問もまた、今となっては答える事もできなかった。水が欲しくて、呪いが憎くて、あの馬鹿な馬女に我慢できなかった。
 ただそれだけ。
 茫洋と、空間に滲み、本の中へ消えていく腕と眼の異形。
 その細い指先は、顔を汚す血涙を拭いながら、この世を去る。
 腕が行った小さな善意に力無く笑うが、長く続かずに俯く。活力が失われた身体がなんとも恨めしい。
 鈍く弱った身体を前に、まるでお迎えのように白い馬を半身とする美女は、無言で佇んでいた。
 水晶、半分ほどになってしまった塊を投げ渡す。
 沈痛な面持ち、何かを耐えるように顔をしかめた女が膝をつく様子を眺めていると、やるせなさは余計に膨れ上がる。
「殺しにでも来たか?」
「殺されたいと?」
苦く笑う。
 この女の未練も禍根も断ち切ってしまった今、彼女が何を考えているのかも想像できなかった。
「それでもいいと思った」
その言葉に痛ましいといった顔を女はする。彼女は母の名残を失い、自分は自ら父を断ち切った。
 共感はできたのかもしれない。
 運命が違えば、彼女も清廉なるユニコーンとして生まれ育ったかもしれない。
「行け」
そう呟く自分も立ち上がる。
 しかして運命は世知辛かった。
 まるで呪いから解放され、鬱憤を晴らすように地面が揺れる。
 それは息吹の再開であり、どうしようもなく腐ってきた大地の震え。
 崖の上部が崩れて落石に晒される。
「本当に世知辛いな」
命の危機を前に、虚無感を生存本能が駆逐し、さっさと逃げようと弱った身体で立ち上がる。左右へ逃げまどっていた本を荷物として鞄へ放り込むと、落石から逃れつつ、そ
の場を離れようとする。
 だが。
 頭上に巨大な影。時間が引き延ばされるのも三度目となると、走馬灯が見える。
 子供の頃の喧嘩や、母の背中、読み続けた本。
 息を吐き出すより速く、一歩を踏み出し、茫然と頭上を見上げている女を突き飛ばした。
 何故。
 私はあんな女を庇ったのか。
 よく解らない。
「走れ。小娘」
背を叩き、勢いに負けたように馬蹄が土を蹴り、数歩遠ざかった背中を見送る。
 これでいいと思った。
 非常に馬鹿馬鹿しい反面、どこか誇らしくもあった。殺し合いよりよほど意義のある行為を行ったように感じた。
「お前の脚は二対もあるのだから」
 そこまで口にした言葉が、遺言となってしまうかもしれない。
 巨大な石は避ける。だが、同時に頭上から降り注ぐ多くの落石。崩壊した岩がどこかに当たり、自身の身体のひしゃげる音を聞いた。
「あ」
 吐血が、涎と混じって口元から垂れ落ちる。
 衝撃に足も萎えた。怪我もあり、既に立ち上がる事もできなくなっていた。
「這、う」
諦めずに片足で地面を蹴る。両手で地面を叩き、前転の勢いでその場を離れると、そのまま片足で跳ぶ事を繰り返す。
 その背中に岩が落ちた。
 胃液と血液を吐いた。もっと吐いた。背骨が軋む。
 死ぬらしい。
 轟音と誰かの叫びを前に、ふらふらと死ぬまでの一時だけでも、必死に、動いた。
 口の中は砂ばかりでザラザラと痛み、二人で食べた鍋の味を思い出そうとして挫ける。
 世知辛い。
 砂煙で視界が覆われようとした時、自分よりずっと小さな手が、一瞬で自分を担ぎあげる夢を見た。


 結論。生き残った。
 理屈としては実に簡単で、茫然自失だったユニコーンを追ってきた人の良いゴブリンが、死にかけた人間を助けたのである。
 とっぴんぱらりんのぷう。
 ついでにと家まで担いでいってくれと頼むと、気絶してしまった。既に限界だったらしい。
「ちょ!?死んだー!人の背中で死んだ―!って痛ったーい!?」
無意識のうちに腕が動き、頭蓋に肘打ちが叩きこまれたのは後から聞いた話。


 人生とは実に世知辛い。
「えー?生きてるからいいじゃん」
 家の中に吊ってあった干し肉を喰うゴブリン女ことナブン。人の家の食料を堂々と喰い漁るのは如何なものか。
「命よりは安くない?」
「今後の命の値段とは比較できない」
食糧が無くなれば普通に死ぬ。
 傷だらけ泥だらけ。
 背骨の圧し折れるのではないかという巨大な外傷は『誰か』の治療によって消えていたが、その他までは手が回らなかったらしく、全身が痛くてたまらない。
 足は靴から染み出した腐汁で何か所か焦げていたし、打ち身と擦り傷ならば数えるのが馬鹿馬鹿しくなる数がある。
『望まれぬ英雄とは、かくも泥くさいものか』
勝手に飛び回る本が戯言をほざく。叩き落とそうかと短く睨む。
『致命傷はない。明日には動ける』
「本気でどうでもよい」
溜め息混じりで包帯だらけの身体を眺める。
 けたけた笑っていたナブンの声が止まったかと思うと、寝室の戸口に、馬女が現れていた。
 雰囲気を察したのか、ナブンが本を掴み部屋を出ていく。彼女には改めて礼を言わねばならぬと思いながらも、今は、不穏なユニコーンことフィンメルを注視する。
 沈黙。この距離なら締め落とせるが、今の身体で動けるかも計算する。
 その必要がないとも解っていたが。
「貴様に・・・」
何を言いたいのかは解らない。だが、伝えたい事ならば解る気がした。
「ご」
顔がくしゃりと歪む。彼女が、自らの仮面を剥ぐ。
 心細かったのかもしれない。寂しかったのかもしれない。
 自分も、ほんの数日の孤独でも疲れたのだから。
「ごめんなさい」
彼女は泣きながら謝った。それはおそらく、私だけではない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ・・・」
掠れる声。繰り返される謝罪。
 それが終幕のブザーであるという事は、演劇を見た事のない田舎者にでも解った。
「少なくとも私は赦そう。泣け」
そう言わねばならない気がした。言うべきだという義務感があった。
 ベッドに縋りつき、泣き続けるフィンメルが眠るまで、無言で髪を撫で続けた。
 シーツが涙で濡れに濡れた頃、倒れるようにフィンメルは眠った。
 シーツは濡れてしまったので、箪笥から出した上着を肩にかけてやる。
 寝床を出て居間へと移動すると、散々に保存食を喰い荒したゴブリンが茶を啜っていた。
「やっぱり食後には緑茶」
「阿呆。散々に食べ散らかして」
ゴブリンの頭をひっぺたくとどこかで『金属質な音』がした。それがレベルがあがった時の音であるとは彼は知らない。異世界での常識なので。
 ともかく。
「色々とすまなかった。おかげで生きている」
「まー感謝して敬って。ほれほれ土下座して崇めなさい」
「待っていろ。ここなら直刀がある」
「捌かないで!?ごめんなさい!」
なんとも軽いノリであるが、彼女に救われたのは事実である。命も、そして心も。
「これから、どうする?」
「そーねぇ、またどっかで山賊ごっこやろうと思ったけど、ぶっちゃげゴブリンでレベル上げの犠牲的な位置じゃない?」
「レベル上げ?まぁ、経験の為に殺傷される役回りだとは理解できる」
「正直そういうのダルいし、どっかで商売でも始めようかと思ってたのよ」
「商売、か」
頭の中で閃くものがある。それが可能であるかを脳内で演算し、その方程式を弾き出す。
 多少の違法行為もあるが、この世には『勝てば官軍、負ければ賊軍』という単語が存在する事も思い出す。
 本を読むというのは素晴らしい。屁理屈も無数に出てくるのだから。
「なら提案があるのだが」
「なになに?」
生きるという事は存外に世知辛い。
 だが、それでも。
 ここ数日で、こうやって誰かと笑いながら話せるというだけでも人生も悪くはないと思えるようにはなっていた。
「・・・んぅ、らいばる・・・」
何かフィンメルの寝言というか怨嗟の声が聞こえたりもしたが、何故かは解らなかった。
 外では雨。
 まるでこの地の復活を尊ぶように、静かな雨は乾いた土を濡らした。


 
 シナ・タクラは、1年ぶりに故郷へと足を進めていた。
 自警団の入って早々、街の富豪を襲う事件が発生した。男は屋敷へ侵入後、書庫の扉を破壊し、書籍を物色、捕縛に動いた自警団員全てを薙ぎ倒して逃走。
 非番だった自分は助かったのだが、もしや弟ではと若干肝が冷えた。
 背格好から別人、東方装束の男であると解り安堵するも、半数以上を病院送りにされた為、残った人間は馬車馬よろしく死ぬのではないかという勢いで働かされた。
 結果、不眠不休で半月。その後、人員の復帰する頃には、自分は副隊長にまで押し上げられていた。
 責任逃れと実績の賜物であるが、裁量を任された結果、自警団員による巡回コースを複数設定して連携を密にする事を徹底させたり、新たな人員募集を行ったりを繰り返し、以前よりも団員は精鋭となった。その功績によって長期休暇を赦されたシナは、弟の暮らす実家へ戻る事とした。
 一度、街へ出て来た弟曰く、「土地も潤ってきたし、今はとても忙しい」という。
 森を探索している時に眼を悪くしたらしく、その顔は眼鏡に飾られていた。元々本を好む学者肌でもあった為、それも存外に似合っていた。
 森を越え、村が見える。逸る気持ちを抑え、丘を駆け上がる。
 何故か、心が打たれた。
 視界に広がる麦穂。黄金色の頭を垂れて、一面の麦畑は風に揺れていた。
 その美しさたるや、荒廃していた土地など何処にもなく、まるで黄金の海を思わせるほどであった。
 弟を探す為に歩き出す。畦道を駆け、薄汚れていたはずの家を目指して。 
 家の前、否、家のあった場所に広がる農園らしき巨大な建物を前に止まる。
 座り込み、豆の鞘を剥いていた白磁を思わせる肌をした美女がこちらを振り向く。髪を包むベールの下、青い瞳の鮮やかさは空のようであった。
「貴方は、ヤマの・・・」
弟の名に驚く。彼女が誰であるかを考えるより前に、急いて自身の名を告げた。
「ヤマの兄、シナです。シナ・タクラ」
「兄、どうりで」
驚きを咳払いで隠し、美女が立ち上がって姿勢を正す。その下半身が馬であった事に驚くが、ここは親魔物派の領域である。サイクロプスの鍛えた剣も、アラクネの糸も商品として流通し、富を生み出しているし、魔物に対する蔑視も少ない。領主からして、数代前から魔物との婚姻が続いているという。
 何かに緊張している様子の女性だったが、シナの方は弟の事が知りたかった。
「はじめまして。私は彼と同居させていただいているフィンメルという者です」
穏やかな笑みはまるで聖母を思わせた。これだけの美女と、弟はどうやって知り合ったというのか。
 無論、彼等が一度ならず殺し合ったなど知るよしもなかったが。
 同居という言葉に唖然とするも、鐘の音を契機に遠くから聞こえる騒がしい声に振り向く。
 長くうねる赤い癖っ毛をした小柄な女性と共に、眼鏡を除いて今までと何の変化も無い弟が歩いてきた。
「ナー、最近、干し肉のヘリが激しいんだが」
「え?そんなはずないじゃない。私だって肉欲くらい我慢できるわよ?」
「食欲と言え。誤解が発生する」
・・・なにか、不謹慎な会話があった気もするが、聞き間違えだろう。
 周囲に、少年や少女を引き連れ、弟は歩いてくる。
 年の頃をやっと幼児と呼ばなくなった年頃から、14、5の歳まで。鞄をたすき掛けにした子供達は、弟に挨拶して去っていく。
「せんせー!さよーならー!」
「畦道で転ぶなよ」
弟はやはり愛想の欠片もないが、その顔は微かに笑んでいる。丸くなったな、と、素直にそう思った。
 兄であるシナに気付いてか、魔物の少女に抱きつかれていたヤマは、その視線を兄へ向ける。
「おかえり」
ただ、その一言。
 それだけでシナは、ここが自分の家だと理解できて嬉しかった。


 包み隠す事なく全てを明かすヤマの言葉に、兄は苦渋とも呆れとも苦笑いともつかぬ顔で聞き入る。
 曰く、過去から今にかけて、弟は独学で多くを学んできたが、近隣の識字率の低さから学識の無さまでを不安に思っていた。
 その理由とは、自分の話を聞いてくれる人間が少ないという不満からだろうが。
「なので、領主を少しばかり脅し、学校の建造費と運営費をふんだくり、自分のへそくりを加えて経営を始めた」
脅しには少なからずフィンメルと名乗った子が関わっていたらしいが、あまりに悪辣な顔をしていたので、深く聞くのは兄から断った。
 ユニコーンである彼女を用いた理由は解らないが、非道に等しい真似をしたらしい。
 何か、聞くだけで後悔しそな予感がした。
 その後、学ぶ事のできなかった孤児まで引き取り、学校を始めたのだという。
 その姿はあまりに眩しく、兄は一晩を過ごした後、そのまま次の日には街へ戻る事とした。
「もう、行くのか?」
腕や肩にまとわりつく子供達を抱え、見送りのヤマは尋ねる。
「あぁ、また」
 彼に笑い掛け、シナは去る。
 不思議と、晴れやかな気分だった。自分はあの弟を残し、街へ逃げたのかもしれない。
 だが、そんな事など、弟はあまりに瑣末にしてしまった。
 振り返る。
「あ、こら。ヤマの頭に登るのはダメだってば」
 腕にまとわりつきながらも、子供達を躾ける赤い癖っ毛を波打たせた小柄な女性。
「ナブン、まずお前が離れろ」
「か、勘違いしないでよね!好きで抱きついていると思わないでよ!」
「何だその病気は」
「ツッコミ気質でツンデレなのは自覚してるわよ!」
「ボケだと思っていた」
「どちくしょー!」
「だめおんなー」
「だめー」
ナブンと呼ばれた女性の共にはしゃぐ魔物の少女や人間の少年達。
「ほら、急いで。朝の授業の用意しないと」
 その隣を歩く白馬の美女。
 麦穂の揺れる畑の間を歩くそれらは、まるで一枚の絵画を思わせた。
 彼は倖せなのだろう。
 風に、黄金の波が揺れた。
 広い広い畑の中、小さな学校。
 いずれ伴侶を得て、彼もまた、自らの子に勉強を教えるのだろうか?
 まだ見ぬ甥や姪を想像し、兄は笑った。







- the End -


 
 
10/08/04 23:09更新 / ザイトウ

■作者メッセージ
お久しぶりな投稿者、ザイトウです。
この話はここで終わりですが、ネタとしてはいろいろ考えたりしてます。
メッセージ歓迎です。
いろいろと頑張ったけど、相変わらず内容がよみにくいなーと反省。
今度はもっと短めにしようと思います。
 読んでいただきありがとうございましたー。

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