錬金術師とメイド retry
諸王領。小国が乱立した大陸中央より西にある幾つもの領地を総称した名前である。
今でも戦乱に燻る危険地域としても知られるが、その中において、外交の巧みさと地下資源の豊かさを武器に、恒久中立を謡う場所、学術公国領が存在していた。学術都市を首都とした研究と学問の聖地は、今日もまた多くの学徒が集っている。
そんな公国領首都の南地区、まるで迷宮を思わす巨大な建築物が象徴的な研究機関。
錬金術師統合院。そこでは、世界最高峰の英知が集うのだが。
「ふむ。それにしても困ったな」
「そ、それ、それだけ? この状況の、か、感想が」
そんな場所、研究室の並ぶ区画に、1人の女性と1人の男が立っていた。
メイド服姿の女性は、一見して人ではない。目元を隠した艶やかな髪、両腕は皮膜に覆われた翼、頭部に突き出た耳朶は深く、蝙蝠の特性をもった魔物、ワーバットと呼ばれる存在だった。しかし、凶暴とされる性格は明るい環境の所為で霧散し、居住まいに品のある楚々とした動作には、怯えを含んだ羞恥が混じる。
要するに、恥ずかしがりな女性。
対して男の方は人であるものの異貌。
中肉中背、両腕には純銀の籠手、顔には丸い眼鏡、嘲笑にも似た酷薄な笑顔が張り付いた顔に、銀の刺繍がジクザグな模様刻んだベストは黒、衣服全て黒と、まさに錬金術師、という胡散くさい二十代後半の男。
「まぁ、そうだな。旅行にでも行くかね? ロゼッタ」
「ろ、ろん、論点は、そこじゃない、と思うの。ハーロット」
荒涼たる研究室、つまりは瓦礫の重なった光景を見て、ロゼッタは顔を隠しながら嘆息する。
「こ、こんなに、壊れちゃったのよ?」
「仕方がないのだ」
やれやれと首を左右に振ったハーロットは、何処からともなく一抱えほどの黒いトランクを取り出し、同じよう一抱えほどの白いトランクもどこからともなく取り出す。
「さて、何処へ行こうか。この季節だと南方領か司法領か」
「ま、まままま待って、待って」
「いっそ盲目領もよいかもしれない」
半倒壊した研究棟の原因となった彼は、さも軽い足取りで逃亡に移っていた。
後日、その光景を学園関係者は『またか』と声を揃えたことは別の話。
銀拳のハーロットことハーロット・ムスターファ。
学内で黒い天使と呼ばれるワーバットことロゼッタ。
こうして、彼と彼女の短い旅行は始まった。
馬車で逃亡、ではなく、旅行に出て数時間。目的地までは目と鼻の距離だった。
司法領。その名の通り『法』という一種異様な制度を掲げ、湖に隣接する形で領土を構えているこの場所は、公国領にとってかつての仇敵にあたる。
大図書館や工業街の他に法規警邏組織『イアルの手』という最大にして最強の国内戦力を有し、その走狗と呼ばれる事もある『法規警邏官《ハイドマン》』は、過去において諸王領でも最大勢力であった司法領と公国領の戦争において、錬金術師達との熾烈な闘争を繰り広げた。
彼等の特徴であり、最大の武器である『銀の銃』は、今尚畏怖の象徴である。
「で、初見の感想はどうだね?」
「さ、さむ、さむい」
「ふむ。そうかね?」
震えるロゼッタはダッフルコートを身にまとっていたが、それでも尚震えている。黒のインパネスコートのハーロットは、むしろ不思議そうに首を傾げる。
時節は秋に差し掛かったばかりであるが、確かに暗く立ち込めた曇り空といい、やや気温は低かった。
司法領は水源でもある湖に隣接している為、湿度が常に高い。故に霧の発生率なども多く、この時期などは狭霧の都市などとも表現されたこともある。
「夏であれば湖での遊泳の解禁などもあったが、この時期だと収穫祭があってだな。外延部の村落から多くの野菜が出回り、多くの屋台が通りを埋め尽くす盛大なものがあるそうだ。今年は今週末のようでな」
「は、はくが、博学ですね」
「いや、この間尋ねてきた東方移民の男、シェロウというの覚えているか? あれがここにしばらく住んでいたことがあるそうでな。その知り合いとやらにも挨拶するつもりなのだが」
「そ、そうなの、ですか」
「しかし、そういった瑣末事に拘るのも楽しくはないな。この秋祭りはウコバク古墳という土地である司法領でも最大の祭りの前夜祭に近いものでな、冬前では一番賑やかなものであるらしい」
「な、なる、なるほど」
「なので、君と愉しんでみたいと思う。迷惑かね?」
にこりと、殊更に楽しそうに笑うハーロットの顔に、真っ赤な顔をして俯くロゼッタがしきりに頷く。
喧騒は次第に増していき、既に露天や旅芸人が自らの仕事を始めている。
祭りの前の最も楽しい時間。浮き足立つ市民達の中で、二人の旅行者は、これが始めてのデートだということに気付いてもいないまま浮かれていた。
煩いほどに掻き鳴らされるヴァイオリンの音に合わせ、気の早い若者達が円を描いて踊っている。
赤々と燃える松明には既に火が点され、まるで万華鏡のように吊るされたランプもまた明るく点っている。
秋祭の喧騒の中、ベンチに座るハーロットは知らず溜め息を吐き出していた。
楽しいし、面白い。
心は確かに浮かれてもいるようであったが、かといって、喧騒の中に飛び込めない奇妙な一線があった。
祭りの定番である蜂蜜パンを買いに行ったロゼッタの姿が消え数分。奇妙な孤独感と共にハーロットは街の明かりを眺める。
がしゃりと、手に纏うガントレットがまるで錘のように装甲の掠れ合う音を響かせ、ベストとして服の内側に隠された機械人形にして動力甲冑、マーカスもまた、所在なさげにしているようだった。
姿格好であればすぐそこの通りでは半裸に近い格好でリザードマンの女性が踊っているし、色鮮やかな飾り羽で全身を包んだセイレーンが綺麗な歌声で音律を奏でる。
黒い服装も、司法領ではそう珍しいものではないし、違うことといえば、やはり気分だろうか?
「1人で過ごしているだけだというのに」
独白は短く小さい。
黒髪を揺らした風は、祭りの熱気の中に消えていく。
人の合唱や打ち鳴らされる踵の音。
香ばしく鉄板で爆ぜる油の音。
喧騒の中で長く連なる笑い声。
それらがまるで、窓硝子越しの景色のようで。
ハーロットはぼんやりと、何をする気にもなれず座っていた。
油紙に包まれた熱々のパンを紙袋に押し込み、ロゼッタが駆ける。
喧騒と雑多な人込みの中、容姿のみならず楚々とした可憐な身のこなしに声をかけようとする男も居たが、不意に紙袋を咥えたかと思いきや、両腕の皮膜を使い飛翔した彼女に肩透かしをくらったようだ。
風を裂いて飛翔する。
人々の頭上より高い位置、しかも高速で過ぎ去る事で注目を集めることなく人込みを回避したロゼッタは、着地と同時にハーロットの待つ広場へと足を急がせた。
その動きが広場を前にして不意に止まる。
どこからか聞こえる手回しオルガンの音がやけに大きく聞こえる中。
ベンチに腰掛けたハーロットを見た時、彼女はたまらない気持ちと共に抱えた紙袋を抱き締めていた。
それは逸れた子供のようで、あまりにも切なく。
ただ、淡い微笑みと共に家族連れの様子を眺める彼に、胸が締め付けられるように痛かった。
憧れ、そして求めてやまぬ羨望。
彼の目は、まさにそうとしか言い様のないものを見知らぬ華族へ向けていた。
自身の望みを、力や知識というものに対して向けたように過去には語っていたが、本当はもっと別の方向に向いていることをロゼッタは知っている。
孤児院の恩人である老錬金術師の為に立ち回り、そして、他ならぬ私へ、どこか縋るように恋したあの夜。
『誰か』への渇望と失望。
それが今までの彼を孤独たらしめていた所以であり、今、自分と共に居る彼が抱えた小さな闇だ。
誰かと一緒に居たい。だが、何時までも一緒にいられるはずもない。
そういった望みと諦観が混じった感情こそが、彼の生きていた今までの人生を象徴しているような気がしてならなかった。
孤児として過ごし、一時は希望を見出した魔術にも失敗し、そして辿り着いた錬金術師としての道。
それまでの苦労が報われた形ではあったが、そこまでの課程で失ったものが取り戻せたわけでもない。
失い続け、手から零れ落ちていく無数の希望。
そこに救いをもたらしたのは、自分が『魔物』だったからかもしれないと、最近は思う。
彼は私より先に死ぬ。
そして私さえ望めば、その瞬間まで一緒の時間を過ごせる。
ロゼッタが彼を追ったあの時もまた、魔物の性質に対して新たな展望を望んでいたが故に錬金術師である彼と接触したかったからだ。
そのあと、まぁ、何故か、あまり好んでいてなかったはずの、身体の親密な付き合いを、その彼と行うとは思ってもいなかったが。
夜の。
薄暗い中の蠢動。
シーツに背中が触れた瞬間を思い出そうとするだけで、日向の下に放り出された時よりも強烈な羞恥心に襲われる。どうしてあぁも彼に対し、あんな、あられもない格好をしてしまったのかと身悶えするしかない。
けど。
だから。
心臓が爆発するような決意と共に、一歩を踏み出す。
顔など既に火が出るように赤く染まっているだろう。顔を上げた彼が、ぽかんと、眼鏡の奥に、驚いたような表情を貼り付けていることからもそれが解っている。
しかし躊躇しない。
「な、何かね?」
驚く彼の手を引いて、潰れた蜂蜜パンを抱き締めて。
ロゼッタは、宿への道を走った。
表通りから一つ挟んだ小奇麗な宿の一室。薄くないはずの壁が震動するほどの勢いで扉は閉じられていた。
華美なものも散財も好まぬ点では、非常に息の合う二人が一目で気に入った白いベッドの上、たたらを踏むように腰掛けてしまったハーロットは、状況の唐突さに目を白黒させていた。
「一体どうしたのだ? ロゼッタ」
ずれた眼鏡の奥の動揺。それがまた、何かに油を注いでいた。
「だ」
「だ?」
「だい、だい」
怖い。
けど同時に、興奮しているのだと、ロゼッタは自覚する。
深呼吸を一度。
紙袋をテーブルへ置くと、震える唇を静かに開いた。
「抱いて」
言ってしまったという後悔はある。
言ってしまえたという開放感もある。
そのまま沈黙の時は流れ、絞られたランプ一つが明かりとして置かれた部屋で、緊張の時間は流れていく。
「まさか、女性からそういったお誘いを受けるとはな」
嘆息。そして短い含み笑い。
コートをソファーに投げ捨てると、両腕のガントレットががしゃりと床へ捨てられた。
「さて、これで私は、両腕が巧く使えなくなってしまったわけだが」
とんとんと、シャツのボタンを傷だらけの指先が叩く。
「脱がせて、くれないか?」
それは受託の言葉。
ロゼッタは、喉を鳴らさないよう唾を嚥下し、自身の服へと指をかけた。
覚悟を決める。震える心を従わせる。
皮膜に覆われた両手がもどかしい。爪の先に引っ掛けるようにしてコートの大きなボタンを一つ、また一つと外し、両腕から滑り落とす。
そして僅かに汗に濡れた肌に張り付くようなシャツの紐を解くと、皮膜を傷付けぬよう、大きく開いた袖口から引き抜く。
自身の着ていたロングスカートの留め具を弾く。
すとんと、まるで重さも感じさせずに下半身が露出されていた。
下着姿のロゼッタは、羞恥に耐えるよう皮膜で身体を隠さぬまま、一歩、また一歩と、ベッドに座るハーロットへ近寄る。
レース越しに肌の色が透ける様子が次第に近くなり、白い生地を押し上げる胸元や、汗に濡れた肌へ張り付く前髪、そして濡れた瞳が、彼の傍へと迫ってくる。
短いキス。
そのままベッドへ倒れたハーロットの唇をなぶるように舌が這うと、首筋へと舌が蠢き、そのままシャツのボタンをついばむよう下りていく。
唇の奥、白く小さな歯がシャツのボタンを外す。
ぷつり、ぷつりと赤い唇によって開かれていたシャツが剥がれ、長い牙が肩へ戻ったかと思うと、ずり落とされるよう口に咥えられたまま脱がされる。
下着姿のロゼッタと、半裸となったハーロットが絡み合うようベッドを這うと、どさりと、ハーロットの上へロゼッタが倒れこむ。
細く柔らかい肉の重み、ぴたりと張り付くような肌の熱さ、骨同士の触れ合う硬い感触、皮膜が肌を覆い、さらさらと流れていく。
触れ合った額。
髪の甘い匂いがハーロットの鼻腔をくすぐり、暖かい呼吸が首筋へ当たる。
動きの鈍い指先が彼女の背を這うと、その傷の凹凸の感触に震えたロゼッタの体から、胸元を覆う下着が脱がされていく。
羞恥に身をよじる。
細く、肉付きの薄い身体だが、女の匂いが肌から色香として漂っている。汗に濡れた柔らかい曲線に、ハーロットの脳裏を情動が蠢く。
たまらずに動いた彼によって上下が入れ替わった。
互いの呼吸が交換される。相手の顔を見詰め合う距離。
腕自体で乱暴にズボンを下ろしたハーロットが腰を浮かせる瞬間、びくりとロゼッタの身体が震える。
硬く強張った熱が、ロゼッタの内部へ突き込まれる。肉の弾力と閉じた入り口の抵抗も、強く動かされた腰によって僅かずつ開かれていく
肉の感触、濡れた艶かしい温度と圧力にハーロットの背筋が強張り、押し広げる高温にして硬い感触にロゼッタも唇を噛み締める。
互いの快楽に身をよじる中、荒い息のハーロットは行為を続けていく。
声は漏れない。
羞恥や情動、そして愛の中にあるあまりに強い快楽の為に言葉を失ったロゼッタとハーロットは、ただ無心に貪る。
かきだされる愛液にシーツが次第に濡れ、身体から立ち上る熱気は部屋の空気を隠微な匂いに塗り込めていく。
全身を混ぜ合うような衝動。
やがて身体が強張り、灼熱が彼女の身体の奥に広がる。
足の指先までひきつりそうな快感に頭の奥が真っ白になった。
真っ白なまま、ひたすらに繰り返した。
正気を失い、その先は覚えていない。
ただ、二人が眼を覚ました時には、抱き合ったまま動けなくなり、生々しい事後の気配が濃厚となった部屋が、まるで二人の巣のようにしか思えなくなっていた。
それだけの間を、互いの為に過ごしていたのだった。
朝の時間。
寄り添うように座る二人は、同じコップから水を飲み、冷たい感触に生き返った気分になった。
「………すまない」
「いいえ」
それが起きて最初に交わした言葉だった。
換気の為に開いた窓からは冷たい風が吹き込み、二人の髪を荒らしていく。
くしゃくしゃになった髪の間から視線を覗かせたロゼッタは、くすくすと愉しげに笑った。
「ハーロット」
「ん?」
「すきです」
その言葉に首筋まで真っ赤にした男は、ぎこちなく、彼女の爪へ掌を寄せる。
傷だらけの手と皮膜の先が重なり、あたたかさが伝わった。
―おわり―
今でも戦乱に燻る危険地域としても知られるが、その中において、外交の巧みさと地下資源の豊かさを武器に、恒久中立を謡う場所、学術公国領が存在していた。学術都市を首都とした研究と学問の聖地は、今日もまた多くの学徒が集っている。
そんな公国領首都の南地区、まるで迷宮を思わす巨大な建築物が象徴的な研究機関。
錬金術師統合院。そこでは、世界最高峰の英知が集うのだが。
「ふむ。それにしても困ったな」
「そ、それ、それだけ? この状況の、か、感想が」
そんな場所、研究室の並ぶ区画に、1人の女性と1人の男が立っていた。
メイド服姿の女性は、一見して人ではない。目元を隠した艶やかな髪、両腕は皮膜に覆われた翼、頭部に突き出た耳朶は深く、蝙蝠の特性をもった魔物、ワーバットと呼ばれる存在だった。しかし、凶暴とされる性格は明るい環境の所為で霧散し、居住まいに品のある楚々とした動作には、怯えを含んだ羞恥が混じる。
要するに、恥ずかしがりな女性。
対して男の方は人であるものの異貌。
中肉中背、両腕には純銀の籠手、顔には丸い眼鏡、嘲笑にも似た酷薄な笑顔が張り付いた顔に、銀の刺繍がジクザグな模様刻んだベストは黒、衣服全て黒と、まさに錬金術師、という胡散くさい二十代後半の男。
「まぁ、そうだな。旅行にでも行くかね? ロゼッタ」
「ろ、ろん、論点は、そこじゃない、と思うの。ハーロット」
荒涼たる研究室、つまりは瓦礫の重なった光景を見て、ロゼッタは顔を隠しながら嘆息する。
「こ、こんなに、壊れちゃったのよ?」
「仕方がないのだ」
やれやれと首を左右に振ったハーロットは、何処からともなく一抱えほどの黒いトランクを取り出し、同じよう一抱えほどの白いトランクもどこからともなく取り出す。
「さて、何処へ行こうか。この季節だと南方領か司法領か」
「ま、まままま待って、待って」
「いっそ盲目領もよいかもしれない」
半倒壊した研究棟の原因となった彼は、さも軽い足取りで逃亡に移っていた。
後日、その光景を学園関係者は『またか』と声を揃えたことは別の話。
銀拳のハーロットことハーロット・ムスターファ。
学内で黒い天使と呼ばれるワーバットことロゼッタ。
こうして、彼と彼女の短い旅行は始まった。
馬車で逃亡、ではなく、旅行に出て数時間。目的地までは目と鼻の距離だった。
司法領。その名の通り『法』という一種異様な制度を掲げ、湖に隣接する形で領土を構えているこの場所は、公国領にとってかつての仇敵にあたる。
大図書館や工業街の他に法規警邏組織『イアルの手』という最大にして最強の国内戦力を有し、その走狗と呼ばれる事もある『法規警邏官《ハイドマン》』は、過去において諸王領でも最大勢力であった司法領と公国領の戦争において、錬金術師達との熾烈な闘争を繰り広げた。
彼等の特徴であり、最大の武器である『銀の銃』は、今尚畏怖の象徴である。
「で、初見の感想はどうだね?」
「さ、さむ、さむい」
「ふむ。そうかね?」
震えるロゼッタはダッフルコートを身にまとっていたが、それでも尚震えている。黒のインパネスコートのハーロットは、むしろ不思議そうに首を傾げる。
時節は秋に差し掛かったばかりであるが、確かに暗く立ち込めた曇り空といい、やや気温は低かった。
司法領は水源でもある湖に隣接している為、湿度が常に高い。故に霧の発生率なども多く、この時期などは狭霧の都市などとも表現されたこともある。
「夏であれば湖での遊泳の解禁などもあったが、この時期だと収穫祭があってだな。外延部の村落から多くの野菜が出回り、多くの屋台が通りを埋め尽くす盛大なものがあるそうだ。今年は今週末のようでな」
「は、はくが、博学ですね」
「いや、この間尋ねてきた東方移民の男、シェロウというの覚えているか? あれがここにしばらく住んでいたことがあるそうでな。その知り合いとやらにも挨拶するつもりなのだが」
「そ、そうなの、ですか」
「しかし、そういった瑣末事に拘るのも楽しくはないな。この秋祭りはウコバク古墳という土地である司法領でも最大の祭りの前夜祭に近いものでな、冬前では一番賑やかなものであるらしい」
「な、なる、なるほど」
「なので、君と愉しんでみたいと思う。迷惑かね?」
にこりと、殊更に楽しそうに笑うハーロットの顔に、真っ赤な顔をして俯くロゼッタがしきりに頷く。
喧騒は次第に増していき、既に露天や旅芸人が自らの仕事を始めている。
祭りの前の最も楽しい時間。浮き足立つ市民達の中で、二人の旅行者は、これが始めてのデートだということに気付いてもいないまま浮かれていた。
煩いほどに掻き鳴らされるヴァイオリンの音に合わせ、気の早い若者達が円を描いて踊っている。
赤々と燃える松明には既に火が点され、まるで万華鏡のように吊るされたランプもまた明るく点っている。
秋祭の喧騒の中、ベンチに座るハーロットは知らず溜め息を吐き出していた。
楽しいし、面白い。
心は確かに浮かれてもいるようであったが、かといって、喧騒の中に飛び込めない奇妙な一線があった。
祭りの定番である蜂蜜パンを買いに行ったロゼッタの姿が消え数分。奇妙な孤独感と共にハーロットは街の明かりを眺める。
がしゃりと、手に纏うガントレットがまるで錘のように装甲の掠れ合う音を響かせ、ベストとして服の内側に隠された機械人形にして動力甲冑、マーカスもまた、所在なさげにしているようだった。
姿格好であればすぐそこの通りでは半裸に近い格好でリザードマンの女性が踊っているし、色鮮やかな飾り羽で全身を包んだセイレーンが綺麗な歌声で音律を奏でる。
黒い服装も、司法領ではそう珍しいものではないし、違うことといえば、やはり気分だろうか?
「1人で過ごしているだけだというのに」
独白は短く小さい。
黒髪を揺らした風は、祭りの熱気の中に消えていく。
人の合唱や打ち鳴らされる踵の音。
香ばしく鉄板で爆ぜる油の音。
喧騒の中で長く連なる笑い声。
それらがまるで、窓硝子越しの景色のようで。
ハーロットはぼんやりと、何をする気にもなれず座っていた。
油紙に包まれた熱々のパンを紙袋に押し込み、ロゼッタが駆ける。
喧騒と雑多な人込みの中、容姿のみならず楚々とした可憐な身のこなしに声をかけようとする男も居たが、不意に紙袋を咥えたかと思いきや、両腕の皮膜を使い飛翔した彼女に肩透かしをくらったようだ。
風を裂いて飛翔する。
人々の頭上より高い位置、しかも高速で過ぎ去る事で注目を集めることなく人込みを回避したロゼッタは、着地と同時にハーロットの待つ広場へと足を急がせた。
その動きが広場を前にして不意に止まる。
どこからか聞こえる手回しオルガンの音がやけに大きく聞こえる中。
ベンチに腰掛けたハーロットを見た時、彼女はたまらない気持ちと共に抱えた紙袋を抱き締めていた。
それは逸れた子供のようで、あまりにも切なく。
ただ、淡い微笑みと共に家族連れの様子を眺める彼に、胸が締め付けられるように痛かった。
憧れ、そして求めてやまぬ羨望。
彼の目は、まさにそうとしか言い様のないものを見知らぬ華族へ向けていた。
自身の望みを、力や知識というものに対して向けたように過去には語っていたが、本当はもっと別の方向に向いていることをロゼッタは知っている。
孤児院の恩人である老錬金術師の為に立ち回り、そして、他ならぬ私へ、どこか縋るように恋したあの夜。
『誰か』への渇望と失望。
それが今までの彼を孤独たらしめていた所以であり、今、自分と共に居る彼が抱えた小さな闇だ。
誰かと一緒に居たい。だが、何時までも一緒にいられるはずもない。
そういった望みと諦観が混じった感情こそが、彼の生きていた今までの人生を象徴しているような気がしてならなかった。
孤児として過ごし、一時は希望を見出した魔術にも失敗し、そして辿り着いた錬金術師としての道。
それまでの苦労が報われた形ではあったが、そこまでの課程で失ったものが取り戻せたわけでもない。
失い続け、手から零れ落ちていく無数の希望。
そこに救いをもたらしたのは、自分が『魔物』だったからかもしれないと、最近は思う。
彼は私より先に死ぬ。
そして私さえ望めば、その瞬間まで一緒の時間を過ごせる。
ロゼッタが彼を追ったあの時もまた、魔物の性質に対して新たな展望を望んでいたが故に錬金術師である彼と接触したかったからだ。
そのあと、まぁ、何故か、あまり好んでいてなかったはずの、身体の親密な付き合いを、その彼と行うとは思ってもいなかったが。
夜の。
薄暗い中の蠢動。
シーツに背中が触れた瞬間を思い出そうとするだけで、日向の下に放り出された時よりも強烈な羞恥心に襲われる。どうしてあぁも彼に対し、あんな、あられもない格好をしてしまったのかと身悶えするしかない。
けど。
だから。
心臓が爆発するような決意と共に、一歩を踏み出す。
顔など既に火が出るように赤く染まっているだろう。顔を上げた彼が、ぽかんと、眼鏡の奥に、驚いたような表情を貼り付けていることからもそれが解っている。
しかし躊躇しない。
「な、何かね?」
驚く彼の手を引いて、潰れた蜂蜜パンを抱き締めて。
ロゼッタは、宿への道を走った。
表通りから一つ挟んだ小奇麗な宿の一室。薄くないはずの壁が震動するほどの勢いで扉は閉じられていた。
華美なものも散財も好まぬ点では、非常に息の合う二人が一目で気に入った白いベッドの上、たたらを踏むように腰掛けてしまったハーロットは、状況の唐突さに目を白黒させていた。
「一体どうしたのだ? ロゼッタ」
ずれた眼鏡の奥の動揺。それがまた、何かに油を注いでいた。
「だ」
「だ?」
「だい、だい」
怖い。
けど同時に、興奮しているのだと、ロゼッタは自覚する。
深呼吸を一度。
紙袋をテーブルへ置くと、震える唇を静かに開いた。
「抱いて」
言ってしまったという後悔はある。
言ってしまえたという開放感もある。
そのまま沈黙の時は流れ、絞られたランプ一つが明かりとして置かれた部屋で、緊張の時間は流れていく。
「まさか、女性からそういったお誘いを受けるとはな」
嘆息。そして短い含み笑い。
コートをソファーに投げ捨てると、両腕のガントレットががしゃりと床へ捨てられた。
「さて、これで私は、両腕が巧く使えなくなってしまったわけだが」
とんとんと、シャツのボタンを傷だらけの指先が叩く。
「脱がせて、くれないか?」
それは受託の言葉。
ロゼッタは、喉を鳴らさないよう唾を嚥下し、自身の服へと指をかけた。
覚悟を決める。震える心を従わせる。
皮膜に覆われた両手がもどかしい。爪の先に引っ掛けるようにしてコートの大きなボタンを一つ、また一つと外し、両腕から滑り落とす。
そして僅かに汗に濡れた肌に張り付くようなシャツの紐を解くと、皮膜を傷付けぬよう、大きく開いた袖口から引き抜く。
自身の着ていたロングスカートの留め具を弾く。
すとんと、まるで重さも感じさせずに下半身が露出されていた。
下着姿のロゼッタは、羞恥に耐えるよう皮膜で身体を隠さぬまま、一歩、また一歩と、ベッドに座るハーロットへ近寄る。
レース越しに肌の色が透ける様子が次第に近くなり、白い生地を押し上げる胸元や、汗に濡れた肌へ張り付く前髪、そして濡れた瞳が、彼の傍へと迫ってくる。
短いキス。
そのままベッドへ倒れたハーロットの唇をなぶるように舌が這うと、首筋へと舌が蠢き、そのままシャツのボタンをついばむよう下りていく。
唇の奥、白く小さな歯がシャツのボタンを外す。
ぷつり、ぷつりと赤い唇によって開かれていたシャツが剥がれ、長い牙が肩へ戻ったかと思うと、ずり落とされるよう口に咥えられたまま脱がされる。
下着姿のロゼッタと、半裸となったハーロットが絡み合うようベッドを這うと、どさりと、ハーロットの上へロゼッタが倒れこむ。
細く柔らかい肉の重み、ぴたりと張り付くような肌の熱さ、骨同士の触れ合う硬い感触、皮膜が肌を覆い、さらさらと流れていく。
触れ合った額。
髪の甘い匂いがハーロットの鼻腔をくすぐり、暖かい呼吸が首筋へ当たる。
動きの鈍い指先が彼女の背を這うと、その傷の凹凸の感触に震えたロゼッタの体から、胸元を覆う下着が脱がされていく。
羞恥に身をよじる。
細く、肉付きの薄い身体だが、女の匂いが肌から色香として漂っている。汗に濡れた柔らかい曲線に、ハーロットの脳裏を情動が蠢く。
たまらずに動いた彼によって上下が入れ替わった。
互いの呼吸が交換される。相手の顔を見詰め合う距離。
腕自体で乱暴にズボンを下ろしたハーロットが腰を浮かせる瞬間、びくりとロゼッタの身体が震える。
硬く強張った熱が、ロゼッタの内部へ突き込まれる。肉の弾力と閉じた入り口の抵抗も、強く動かされた腰によって僅かずつ開かれていく
肉の感触、濡れた艶かしい温度と圧力にハーロットの背筋が強張り、押し広げる高温にして硬い感触にロゼッタも唇を噛み締める。
互いの快楽に身をよじる中、荒い息のハーロットは行為を続けていく。
声は漏れない。
羞恥や情動、そして愛の中にあるあまりに強い快楽の為に言葉を失ったロゼッタとハーロットは、ただ無心に貪る。
かきだされる愛液にシーツが次第に濡れ、身体から立ち上る熱気は部屋の空気を隠微な匂いに塗り込めていく。
全身を混ぜ合うような衝動。
やがて身体が強張り、灼熱が彼女の身体の奥に広がる。
足の指先までひきつりそうな快感に頭の奥が真っ白になった。
真っ白なまま、ひたすらに繰り返した。
正気を失い、その先は覚えていない。
ただ、二人が眼を覚ました時には、抱き合ったまま動けなくなり、生々しい事後の気配が濃厚となった部屋が、まるで二人の巣のようにしか思えなくなっていた。
それだけの間を、互いの為に過ごしていたのだった。
朝の時間。
寄り添うように座る二人は、同じコップから水を飲み、冷たい感触に生き返った気分になった。
「………すまない」
「いいえ」
それが起きて最初に交わした言葉だった。
換気の為に開いた窓からは冷たい風が吹き込み、二人の髪を荒らしていく。
くしゃくしゃになった髪の間から視線を覗かせたロゼッタは、くすくすと愉しげに笑った。
「ハーロット」
「ん?」
「すきです」
その言葉に首筋まで真っ赤にした男は、ぎこちなく、彼女の爪へ掌を寄せる。
傷だらけの手と皮膜の先が重なり、あたたかさが伝わった。
―おわり―
12/05/27 11:33更新 / ザイトウ