連載小説
[TOP][目次]
盗掘屋と龍姫 後篇 ―やさぐれ英雄譚―
 刀が振り抜かれる。切っ先が霞むほどの速度で銀光が薄暗い空間を翔け、続け様に立ち塞がる何かを斬った。
 呵責もない、加減もない、なにより、躊躇いが無かった。
 銀光に裂かれた人型の粘土塊が崩れ落ち、その機能を失う。
 地より深く、煉獄より遠いこの空間で、東方移民の血へ連なる男はその業を以て駆けていく。
 後方、新たに出現した人型の粘土塊は、指先を組んで形作る印と、短い呟きによって発現した仙術によって動きを止められる。
 抜かれた儀礼剣が閃く。
 胴を両断された粘土塊もまた、大きく傾ぎ、崩れ落ちた。
 薄暗い闇に光は無い。ただ、煌々と男の眼が輝くのだ。魔術的な光を宿した瞳は、次々と立ち上がる人型の粘土塊の傍を擦り抜けていく。
 男、齢を二十代の始め、小柄な体躯の上、髪と瞳を黒とし、暗い表情が印象的である。東方の装束に、外套、背には鉄棍、腰には長柄の刀と儀礼剣を下げて奔った。
 名を、シェロウと名乗り、ヒトツゴと呼ばれる特異体質者、東方において英雄と呼ばれる血族の末裔に属す。
 二刀が閃き敵を斬る。
 その仕事を今、果たそうとしていた。

 ――――――――――――――――――――――――

 神域。または龍の棲まう御所。神社の在る場所とは層を別とする異界。
 深淵たる空間の中、まるで大海を漂う小島のように、庵は小さい。東方の床、畳と呼ばれるものに換算して約四畳と半。その庵の中央には、一抱えもある水晶球が安置されていた。
 囲む者は三人。白髪に咥え煙管、頑健そうな老人。手足を蜥蜴のそれとし、人とは違えた外見をした種族、龍の女。最後は銀髪の美女。無機質な美貌、陶磁器に近い純白の肌を東方衣を元にしたスカートとシャツで隠し、腕には碑文を思わす古代の文字が刻まれた石版が飾られた機械腕を備えたゴーレムと呼ばれる魔物。
 それぞれ、老人はヤクモ、竜人は姫、ゴーレムはアレシア、そう呼ばれる。
 彼女等が囲む水晶球には、あのシェロウという男の姿が見えている。薄闇の中、人型をした蠢く粘土塊を斬り払い、躊躇いなく先を進む。
「彼の者に、責任などない」
龍の姫は、ぽつりと呟きを洩らす。意味を持たぬ言葉。だが、呟かずいられなかった。
「それ以上は言うもんじゃねぇ。年寄の愚痴なんぞ、あまりに興が冷める」
ぼやく老人に、刺すような視線が向けられた。
「しゃあねぇもんはしゃあねぇだろうがよ。人の世だ。理不尽なんぞ腐るほどある」
「………貴様ももう黙れ」
二人に反応する事もなく、ゴーレムは水晶球を凝視している。
 シェロウが足掻く、煉獄に程近い世界を。

 ――――――――――――――――――――――――

 乱れた呼吸を必死で整える。
 冷や汗と脂汗の混じった全身を濡らすほどの発汗を無視し、百を超える粘土塊を超えて階下へ降りていく。
 最奥まで十層にもなる地下の封鎖領域、本来の名さえ伏せられ、ただ『奈落』とだけ呼ばれる異貌の者しか存在し得ぬ場。三千世界において禁忌として葬られ、秘す事を守り抜かれた稀なる異境。その内部を知る者は皆無に等しい。
 階層と階層の間。石造りの階段が下へ続く回廊の途中で座り込み、短い休憩に身体を預けた。
 階層と階層の間は、混沌に支配された奈落の中、唯一人の安全が保障された場所。未だ、封じたものの意思が残る結界の効果が及んでいる。さすがに階層を繋ぐ回廊まで魔境と化せば、下る事もままならぬと解っていたからだろう。
 シェロウは痙攣するほど酷使した掌をゆっくりと開き、握っていた刀を鞘へ戻した。未だ先は見えず、ただ一階層を降りたのみ。
 未だ、魔術も仙術も大規模な行使はしていないものの、肉体疲労が辛い。
「……………」
長い呼吸。
 繰り返されるゆっくりとした呼吸に合わせ、周囲の空気が揺らいだ。魔力とは違う、独自の流れが、彼の周囲から何かが集まる。
 清廉さの残る外気から活力を取り込む仙術。その中でも一般には『内気功《ナイキコウ》』と呼ばれる技で、東方武術である空手《カラテ》においては息吹などにも共通の要素を含み、内側より体調を整える。
 シェロウが使う仙術は、より極東寄り、ジパング側に近いもので、天狗道や道術にも通じる。
 教えたのは、あの龍姫。彼女自身も、高名な先達から習った始祖に近い術であるという。
 調伏法に召鬼法、童子法などの使役術、身体操作の明視・重身術、移動に術を利用する縮地法などのある仙術の中、シェロウが会得しているものはそう多くない。元来、全てを覚えるには人が不老となってから更に数十、数百の年月をかけても足らぬと言われており、たかが15、6で幾つか会得するだけでも驚嘆に値するのだが。
 シェロウが会得にまで達しているのは多くないが、他にも、過去にダークエルフに教わったという魔術や、一時は学術公国領で学んだ錬金術の知識まである。隠し玉を幾つ持っているかは本人を除いて誰にも把握できていないだろう。
 更には、秘奥、使う事さえ躊躇う術式もある。
 これは禁忌として封じてこそいるものの、場合によっては幾度か使った事がある。余談だが、一度だけその秘術の一端を教えたこともある。
 それらは、今回に限っては絶対に必要となるだろう。
 幾分回復したのか、シェロウがゆっくりと動き出す。
 今度は刀ではなく鉄棍を構え直し、冷たい石段を下っていく。

 ――――――――――――――――――――――――

 逃げた過去への負い目。背負う必要のない重荷。
 だが、その重荷だけが、顔も知らぬ両親との繋がりだったのは不幸だろうか。
 否。
 言外にそう断じている事を、その場の誰もが、水晶越しに感じ取っていた。
 そして、決断する物も居た。
「staymode off。行動を開始します」
立ち上がるアレシア。静かにその動きを制す龍姫の手を無視し、足を踏み出す。
「待たぬか」
呼びとめると同時、不可視の力が彼女を捉えようと渦を巻く。
 しかし、その瞬間に、アクチュエータを高出力で稼働させ、アレシアは不可視の力の範囲外へ一歩逃れている。
「奈落には、ヒトツゴの血族を除き、入る事は叶わぬ」
「道具ならば可能と算出。私は『人』の範疇ではありません」
次の瞬間、床を踏み砕いた衝撃波と共にアレシアが消える。追おうと腰を浮かした龍姫を制したのは、打ち鳴らされた煙管の音。
「よしな。野暮ってもんだ」
制したヤクモは、やれやれとばかりに手の中で灰を握りつぶす。粉として宙へ散った灰の代わりに、新たな煙草の葉を煙管へ捻じ込む。
「しかし」
「それとも何か?行かせたくない理由でもあると?」
挑発するかのヤクモの笑みに、龍姫は逡巡の様子さえ見せた。
 その眦が細められ、背筋を伸ばして座ったままのヤクモを睥睨する。
「是と答えよう。あの女は少しばかり」
裾が翻り、えもしれぬ芳香が漂う。
「癪だ」
旋風が舞う。風の中、霞んだ龍姫がそのまま消えると、1人残されたヤクモが笑みを苦いものへと変える。
「女ったらしめ」
誰へでもない呟きを紫煙と共に吐き出したヤクモは、再び水晶を注視し、推移の程を傍観する事に勤めた。

 ――――――――――――――――――――――――

 長い階段。
 奈落へ下る階層の移動。降りていく暗闇へ、幻灯機が照らすよう、ちらちらと霞む炎の如く幻影が投影される。
 絣の着物、裾の長い巫女服の裾。転がる毬。どれもが、不鮮明な映像、古い記憶の残滓として視界を過っては消えていく。
 ついにはシェロウも、とうの昔に忘れたはずの唄を口ずさんでいた。
「りゅうのひめさまおやしろごもりー………」
 里で毬つき唄として知られるもの。東方移民特有の球遊びの際に歌われるそれは、子供に里を守護する龍の血族が意味を教える為のもの。
「りゅうのひめさまいでてはならぬー・・・」
長い階段は、まるで醒めぬ夢のように続く。どこまでも下り、本当の奈落に届くのではないかとさえ危惧させる。
「りゅうのひめさまあしきをはらうー………」
光。灯った明かり。
 口を閉じたシェロウが棍を構え直すと同時、階段が消え、新たな階層へと辿り着く。
 前後どころか上下も定かでない深い霧。ぼう、と、夢幻の続きを思わす唐突さで何者かが姿を現す。
 人影かと思うも、あまりに不安定過ぎる。
 ローブをまとった人影と思っていたものは、次第に輪郭を歪め、瞬く間に斬りを覆うほどの大きさへ広がっていく。
 ぞくり。
「……………!?」
一瞬。ほんの瞬く間の時間、人影だったもの六つ手の巨人とも、八つ手の軟体生物ともとれぬ揺らぎの中から、形容し難い圧力を放つ。
 それが単なる「視線」であり、その一瞬とは、単なるまばたきに等しいものであると感じた時、対する相手の巨大さに度肝を抜かれる。
 敵。
 ただ、それだけを本能で察する。
 死の予感と絶望の予兆を前に、心臓は今にも弾け、呼吸は意思に関係なく途切れてしまいそうな錯覚に囚われる。
 目の前のものは『死』と同義。
 悪意もない、敵意もない。ただ、その場に存在するだけで、他の全て、世界という軸も、この世という定義も、なにもかもが否定されてしまう独自の律を、呼吸ほど自然なものとして備えた存在。
 傍に居るだけで全身の自由が奪われる。ただ、恐怖だけが自分の中で膨れ上がり、このままでは、立つ事さえままならず、思考さえ、許容できない感情の渦に奪われていく。
 何を考えていたのか思い出せない。考えるという行為も、感情という事実も、次第に意識から乖離していく。
 何もしていない相手を前に、徐々に生体機能が失せていく。
英雄の血脈という付加価値も、莫大な空間や時間という概念的なエネルギーを消費して、やっと呼吸するほどの代謝に似たものへ変換している相手に対し、即死しないだけの効果しか発揮していない。
 終わる。
 形にならない暴力が、そのまま人という不定形の容器をを崩す。精神も、身体も、平等に磨り潰される。
「た………すけて………!」 
そこから逃れる為の足掻き。
 縋る。
 頼る。
 祈る。
 棍を握り締めようとするだけで、だた涙が零れた。それに耐え、意識をより高い次元へ昇華させていき、必死に維持していた正気を、もっと純然たる明鏡止水に等しい境地へ、統一していく。。
 棍の傷、棍の歪み、棍の手触り、棍の仔細な変化。
 万回の鍛錬。
 万回の暴力。
 万回の殺意。
 万回の謝意。
 万回の悲哀。
 それらを全て、この棍に込めてきた事を、ゆっくりと思い出していく。
 抵抗が拮抗へ。
 拮抗が包括へと変わる。
 思念の乱流、とりとめのない思考の最奥で見えた意識の根源。
 それが、女の姿。龍姫であり、ダークエルフであり、アレシアである事。
 そこへ思い至った時、悟りとは呼べぬ、もっと混沌としていながら、ある意味での極地へ到達していた。
 両目の奥に燃え上がる真っ青な輝き。
 横一文字。振り払われた棍は霧も薄闇も薙ぎ払い、増大を続けようとした影を裂く。
 影は消えた。
 それが幻影、この場にかつて居た敵の残滓だと気付くまでの数秒。彼は間違いなく悪鬼の形相を以て影と相対していた。
 覚悟の象徴として現れた貌は、呼吸と共に深く抑え込まれる。
「………刺し違えても、とは言わない」
低く、喉の奥をひりつかせるような声。
「貴様だけ死ね」
怨嗟とは違う、憤怒の心。その意味を、彼以外に知るものは。
 おそらく、彼女だけだろう。

 ――――――――――――――――――――――――

 底までに歩むべき階層。それは既に、かつて縛られていた1人の男によって砕かれていく。
 憎しみ、恐怖、悲しみ、行き場のない幾重にも絡み合った感情。鬱屈し、今まで彼と言う器の中に押し込められていた全てが、油のように
全てへ火を点す。泥人形は階層の土壌ごと踏み荒らされ、一際巨大だった土塊は、半ば、壁ごと突き崩されていた。どうやってやったのかも
検討がつかない。
 叫び、叫び、叫び。
 絶えず燃え上がる憤怒は、どこから生じているというのか。
 泳ぐように走る龍姫。歩幅の乱れぬアレシアの走り。
轍より深く刻まれた踏み込みの跡は、遠い過去よりずっと大きくなっていた。
『遊べんの、つまらんよ』
脹れっ面で裾を握る幼子など何処にもいない。
『こんなの!どうしろっていうんだよ!?どうすれば終わる!?』
泣き喚いた少年などここにはいない。掴みかかった指先は、その年に似合わず分厚い皮に覆われていながら、あまりに弱々しかった。
『陸呂《リクロ》』
今となっては村に知る者など少なくなった名。それを呼ぶ声は男となっていた。
『アレシアを頼む』
ほんの数刻前、何の躊躇も無く発された言葉。
 しかし。
 彼の言う『頼む』の意味を理解した時、龍姫としてではない私は、何を言おうとしたのか。
 今となっては皆目見当もつかない。
 第一、あの男は彼女を選んだのではないか?
 龍姫の視線がやや後方を一瞬も乱れる事なく追走する機械の女を捉える。
 種族をゴーレム、遥か過去より産み落とされた人でない人の形。
 もっとも、龍と呼ばれる自分にしろ、人に似た異形なのだが。
 しかし、彼は何故に戻ってきた?
「………役目を」
果たすつもりとでもいうのか?
 血族のしがらみを嫌っていた人間が戻ってくる。
 そこに、どんなきっかけがあったというのか?
 全てが解らないまま、彼の後を追っている。否、全てが解らなかったからこそ、彼女の道程に付き合っているのだろう。
 最も広大な初層を抜ける。ここで屍となった者も珍しくない。
 長い螺旋階段は、闇の底へと延々続く。
 階段に抜けると同時、アレシアの足が加速した。
「疲れぬか」
「機械ですから」
金属の身体がアクチュエータを軋ませ、機構と模造人体が激しく脈動する。
 龍姫が追う背中は、更に速度を上げていく。

 ――――――――――――――――――――――――

突き動かすものを説明するには一瞬で済む。
 それは執着で。
 それは敬意で。
 それは『愛』と呼ぶものだろう。
 少なくともアレシアはそう信じている。
 プログラムという言葉では割り切れないと。
 少なくともアレシアはそう信じている。

 ――――――――――――――――――――――――

 ついに、最下層に近付きつつある。漆黒でない、視覚できない渦のような黒は、それを示すものだった。
 どれだけ歩いただろうか?
 ただ1人、その場に放置されたかのシェロウが身を強張らせる。
 鈍い頭痛と共に何か別のチャンネルが開かれた。
 眼球の中で何度か閃光が弾けたように感じた次の瞬間、世界が、夜空のような黒で安定した。
『風神たるH、背神のA、そして名を呼べぬ大神C』
 澄んだ女性の声が何重にも響きながら聞こえた。
 地面もない奇妙な空間の頭上に、青白い光を放つ満月が出現していた。
 その光に照らされ、闇から舞い降りてくる人影。
 白夜に等しい白銀の髪。真っ赤な瞳には白い部分はなく、微笑む唇は厚みを感じない。
 簡素なワンピースを思わす衣装を鎖のような帯で幾重にも締める姿は、どこか官能的ですらある。
 それはまるで、幻影か何かとしか思えない美女だった。
「貴方は、誰だ?」
乾いた喉で誰何する。傷付き、肩の砕けた腕とは反対、唯一無事な手は、既に拳を握っている。
『この場に残された者、そう呼んでもらってもいい』
その口調は、楽しんでいるようですらあった。掌をこちらへ差し出す。それだけの動作で、豪風が巻き起こった。
 警戒に全身を強張らせるシェロウ。
 しかし、その身体が不意に軽くなると、全身の傷は消え失せていた。
『風神たる   の名を預けられた者。名を長臑 紫焔《ナガスネ シエン》、それともシェロウ、と呼ぶべきか』
「………シェロウで、頼む」
『応じよう。ではシェロウ、我を何だと思う?』
その言葉と共に、この空間そのものが変容したと感じた。影は龍、闇は魍魎、月光は刃。
 それらのざわめきを余所に、自然体のままシェロウは応じる。
『奈落に居た『大神』とやらの同族か?』
躊躇いのないその言葉に、美女は喉を潰すような声で嗤う。
『そう指摘されるとは面白い。だが、残念ながら否だ』
「成程」
空気が鎮まる。圧倒的な存在感が薄らぎ、景色が戻った。
『最初に語っただろう? 我は、この場に残された者だ」
溶岩。吐き出す言葉だけで、それだけの脅威を連想させる。
 じわじわと蝕むような恐怖。それと同時、どこかでも堕落させられそうな甘美さ。
 もし、一歩でも踏み込めば、人間性が解けてしまいそうになる。
 己を御す。
 ただ深呼吸を繰り返し、心臓も、魂も、手放さぬように意識で繋ぎとめた。
『ほう。さすが外神《ソトツカミ》と戦おうと決断したものだけはある』
「俺が」
短い呼吸と共に、吐き出す。
「引き受ければ、助かるものもある」
淀んだように暗い眼の奥で光が揺れる。それだけで、同じ闇に近似した色でも、黒真珠のような存在へ変わる。
『それを決断したのは女の為だったのだろう?』
美女の背後に、三つの炎が蠢いた。
炎の中、誰かが映る。
1つは鱗持つ龍の眷属、姫君を映す。
1つは褐色の肌を持つ長耳の種族たる女性を映す。
1つは陶磁の肌、機械の乙女を映す。
『最初の1人は、旅を決断させるに至った理由』
姫君を映した炎が消える。
『次なる1人は、外神との闘争を決断させるに至った理由』
長耳の女性を映した炎が消える。
『そして、最後の1人は、英雄となる道を決断させるに至った理由』
乙女の女性を映した炎が消える。
『だが、誰一人手に入らない』
冷たい声。何者も認めない口調に、シェロウは顔を強張らせた。
『得た力はこの世界に干渉する外神を倒すに足る。極めて限定的にしか影響しないとはいえ、神の力をも砕くに足る業の代償とは何だと?』
「永劫の闘争。私は次の命も英雄であり、未来永劫何者とも闘い続ける英雄の運命に縛られた」
『では、私は』
冷たく体温を奪い取る陶磁器を思わす指が頬を撫でる。
『その言葉に、力を貸すとしよう』
呼吸が出来ない。
 足掻き、幾度となく喉を鳴らしても空気は肺へ届かなかった。
 まるで氷。指先が触れた場所から体温も、感覚も消える。
 やがてその指先が、「ずぶり」と額より差し込まれた瞬間、脳裏で雷光が炸裂したのではないかとシェロウは痙攣した。
 記憶。
 並ぶ。
 それは繋がれた数珠。1つ1つの数珠の中で記憶という光が反射し、明滅し、その存在を示すものを、自分に何かを『宿そう』ようとしている。
 まるで数珠を幾つか抜き取られるのではないかという恐怖と共に視線を動かすと、眼球に投影されるかの違和感と共に何かが再生されていく。
 遠い地。
 低く暗く重たい空気に包まれた廃墟に等しい社。
 それは。奉じてきた、神の御神体を祀った、古の地。
 巨大な影が、その手の先を、伸ばそうとした瞬間。
「ぐっ!?」
女の指が抜けた。記憶の配列に変化はない。しかし、見覚えのないものが付け加えられた違和感があった。
 ちかちかと目の中に揺れる幻影を前に問う。
「お前は、誰だ?」
女は何も言わない。ただ一度、額のあたりを指で指示した後、虚空へと消えた。
『さよなら、英雄』
それが最期に残された言葉だった。
 あの女は。
「残された、者、か」
 遠き日に死んだ、自身の祖先やもしれぬ相手。この地下に満ちた、英霊達の、最後の願い。
 目の前、全ての幻影が消えた場所には、何も遮るもののない最深部への階段。
 そう。
 今から挑むは神殺し。
 そう知っていながら、自分は歩を進める。
 その神との因縁、歴史との邂逅を、ここで終わらせる為に。

 ――――――――――――――――――――――――

 今の世界が生まれるより前。世界の元素が別の形で構築されていた頃。
 星に神あり、地に人ならざる者で溢れていた。
 そういった伝説が伝わる数少ない場所、それがこの東方移民達が集うこの村、この隠れ里である。
 神は遠い過去、その僅かばかりの縁《ヨスガ》が、その神の似姿となった。
 それだけの存在、神の爪先、たかだか残り香程度のものに、人は幾度となく滅びの日を迎えては生き延びた。
 そこに英雄が存在したが為に。
 英雄は石の剣で空を裂き、その祈りを以て地面を裂いた。
 最期には血によってその神を封じ、地の底で息絶えるまで戦い続けて。
 既に、その始まりは定かでない。
 その初期より続き、今も戦う者達の名を、彼等の故郷では様々な名で呼んだ。
 その地に残った名だと、『太陽を射抜く者』や『鬼に等しき者』などが、数多の変遷と共に、自身達の時代や場所にあった理《コトワリ》を奉じて生きているという。
 シェロウ、または長臑 紫焔の名で呼ばれる彼も、その血族の一人であるという。今となっては彼しかいない、『長臑』の名を継いだ最期の。
 そして彼は、間違いなく英雄となってしまっていた。
 盗掘屋、そんな名で呼ばれる事すら厭わず。
 望んだ未来も捨て。
 ここまでを共にした女も捨て。
 そういった過去全てを捨て、この場に立つ事を選んだ。
 シェロウは前を見たまま、背中より鬼気と殺気を漲らせていく。
 歩いているうちに思い出すことはそう多くない。
 親のいない日々を嘆いた時間。
 祖父に等しいヤクモに泣かされながらも、喧嘩と、鍛錬を行ってきた期間。
 龍姫に慰められ、癒され、母の面影を見た時間。
 そして、知らされた真実に抗おうと、新たな手段を求め、大陸へ旅立ったあの瞬間。
 自身の住んでいた『街』が、単なる村の規模であったのを知っただけでも驚いた頃も、今では遠い昔だろう。
 様々な苦労はあった。
 助けられた事もあった。
 辺境で出会った初めての相手は、結局別れの言葉も不確かなうちにいなくなり、旅の悲しみを知り。
 昔は不得意だった小太刀術だって、本の解体での使用や危機に立ち向かう日々で磨かれた。
 古代の遺跡を探り当て、雪山で過ごした時間の中で。
 アレシアにも出会った。
 そういった事を、これからも続けていきたい。その為の努力を、今、この日の為に積み重ねてきたのだ。

 ――――――――――――――――――――――――
 
「ここが」
 門。
 澱にして檻。
 奈落の底。
 そして神殿。
 この場の意味を理解するには『深淵』という言葉の、もっと、もっと原初的な意味が最適だろうか?
 それとも。
 端的に『寝床』と評してしまえばいいのか。
 今となってはどうでもいいことなのかもしれない。
 神殿の門が、開く。
 途端、溢れ出た肉の管が億千に等しき数でシェロウを襲う。
 地面に打ち付けられた棍より迸る神通力。襲撃を阻まれた肉の管は、血飛沫と腑汁、そして腐った粘液を撒き散らしながら方々へ弾き飛ばされた。
 殺し合い、喰い合い、滅ぼし合い。
 戦争という言葉ですら生温い範疇の中、シェロウが首にかけていた勾玉の紐を引きちぎった。
「荒覇吐神《アラハバキ》よ! 我は長臑を継ぐ者なり! 咎と! そしてその名を奉じた一族の血に依りて、その御霊より力を振るいたまへ!」
空間を破砕し、次元のタガが緩む。
 およそ人の歴史に等しき時代を
 突如として漆黒の空間から出現したのは巨大なる影。その影が肉を得て、血を得て、時を経て、古き器を取り戻し、古代よりこの地へ顕現しようとしていた。
 陶器の鎧を身に纏った巨大なる神、その全身が、天に果てなく無限と広がる神殿の中に直立した。
 陶器の仮面に現された表情はない。無機質な、ともすれば機械的な二つの丸い目の造詣の奥、細い覗き穴より見える、夜よりも暗い光景を移した瞳は、突如として血走った。 
『阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿ぁぁぁぁぁ!!!!!!』
言語ではない。どころか、音と認識できなくなる巨大な喊声、
 その息吹だけで肉の管が四散し、そのまま樹幹のような、根元の部位までが吹き散らされてしまった。
 四つん這いに屈み、仮面より白い息をを漏らす神。
 顕現し、その権威を振るう古代において抹消されたという神は、その片腕をゆっくりと上げた。
 掌で、宙を握りしめる。
 途端、中空から生じ、更には爆散した火球の着弾地点より蜘蛛の巣のよう広がった煌々たる火柱により、闇に包まれていた神殿の中が、照らし出されていた。
 そこには。
「う、えぇぇ」
見ただけ。
 たったそれだけで血の混じった吐瀉物を吐く。臓器がまとめて押しつぶされたような衝撃は、ただそこに『在る』だけで、敵とした者より与えられた苦痛。
 有に人間の10倍近い大きさの荒覇吐神と比しても、なおも巨大、まるで空が動くようだと思うほど巨大な肉の塊が、人に似た形をして、大地を玉座と鎮座していた。
 肉と、粘液と、そして、海洋生物を思わす、弾力ある質感の皮膚。
 その全てが蠢動し、己を喰い、己を吐き、己を増殖させ、人に似た手や足や目や口や臓器を生み出しては腐らせ、腐らせては飲み込んでいく。
 これは生き物ではない。
 どころか、神と呼ぶことすら、的外れな存在。
 『遠き星に座す神の影』。
 そう呼ばわれる存在は、ただ、意識をシェロウと荒覇吐神へ向けた。
 大地が砕ける。
 暴力的な乱気流に、陶器の鎧が削られた。
 敵とすら呼べない。
 蟻と人より、尚も距離の開いた在り方。
 だが、深い呼吸を経て、シェロウが棍の先を『影』へ向けた。
「荒覇吐神よ!」 
神が応え、シェロウの言葉に従った。そう見えるだけかもしれないが、間違いなく、彼を同属と見做し、同胞として扱っていた。
 雷が迸る。なにもない空中から降り注ぐ雷の嵐が肉を削り、触手を吹き飛ばす。
 のみならず、轟音と共に跳躍した荒覇吐神が、天空を引き裂き、その拳を『影』へ向けて放つ。
 もう音とは言えない衝撃波の乱気流。打撃痕は海溝が如く『影』を穿ち、振り下ろされるたびに肉がぐしゃりと押し潰されていく。
 振り下ろし、振り回す。
 一撃が国を呑み込みかねない台風が如き打撃だったが、陥没した肉の隙間から肉が湧き、ぶつぶつと泡立った断面から触手が無数に出現していく。
 束ねられ、触腕と変化したものが荒覇吐神を打ち据え、喰い剥がす。
 陶器の鎧ごと肉を食んだ『影』は、腕に似た肉の塊を伸ばし、その表面から吹き出した赤、蕩けかけの肉で造り上げた網を浴びせようと広げた。
「禁!」
神の助力と神通力により、強固な結界を張ったシェロウ。しかし、僅かに浴びた傷口を喰われた荒覇吐神の肩が、えもしれぬ悪臭と共に腐り落ちていく。
 神の残影、垢や体液程度のものでしかない相手が、ただ一瞥を注ぎ、シェロウへ視線を注ぐ。
 それだけで肉が沸騰し皮が爛れた。結界で防いですら、傷を受けた。
 臓腑を直接掻きまわされたかの激痛に、全身が軋む。
 勝てないだけではない。この場に居るだけで、存在ごと否定され、塵芥とされそうだった。
「じゃあ、最後は、この、数年間、全てだ」 
今まで握り続け、信じ、縋ってさえいた棍を。
 今。
 床へ、捨てた。
 構えと共に瞼を閉じる。両手を広げ、掌に握っていたのは、左に儀礼剣、右に刀だった。
 生きてきた時間。
 選んできた時間。
 いつかの、願い。
 崩落の刹那、馬鹿げた会話。
『アレシア』
『嫌です。私は幸せでした。初めての人が、最後まで一緒の人です』
『浮気をするかもしれない』
『貴方を殺します。私も死にます』
『いつかは老いて先に死ぬぞ』
『それまで一緒に居ましょう。それからだってあるかもしれません』
『アレシア』
『嫌です。置いていきません』
そして。
「唇、借りる、だったか」
嗤う。そして、笑う。
 あんな言葉を吐き、覚悟すらした。それでも俺は生きていた。あの刹那、俺は信じてさえいた。
 彼女を。
 そして『さだめ』というものを、初めて信じた。
 そう振り返ったシェロウは、最後のチップを賭けに乗せた。
「イア、イア」
今となっては昔の話だが、この言葉を、とある狩人、部族の少年に教えた。
 彼はどうなっただろうか。
「イア!イア!」
漆黒に包まれていた天空に赤い波紋が広がった。
 暗い水面が如き天空より姿を現すは、赤い、灼熱した球体。遥か遠く、次元を隔てた惑星と同一にして別次元の形。 
「赤い星よ、雄牛の心臓よ、幸運の星よ」
 一族に伝わる文言を唱え、言葉を尽くし、次元を震わす。
天空には赤い星。闇を照らす太陽でなきもの。儀礼剣が震え、媒体とせし刀が音もなく風化していく。
「ハスタア!ハスタア!クフアヤク!ブルグトム!」
儀仗剣がついには砕けた。次いで、握っていた左腕が吹き飛ぶ。
 そして、血に染まった左腕の断面より、再び何かが現れようとしていた
「ハ、スタア!ハスタアァ!クフアヤク!ブルグトムッ!」
神経が千切られ、脳髄に熱した鉛を注ぎこまれるより酷い激痛。
 鱗に覆われ、骨を備えぬ謎の物体。それが花のように指先を躍らせ、空中へ図形を描きだした。

 読めない、どころか、視覚で認識できない図形の羅列。
 辛うじて白い光を伴う円の形を認識した刹那、空間が『削り』とられた。
 時空の鳴動による存在の蹂躙。一瞬でも『形を失った空間』に触れれば、魂どころかこの世に存在した情報そのものが喰い散らかされ、二度と生まれ変わる事すらできなくなる。
 荒覇吐神に庇われたまま、激痛を堪えるシェロウ。
 その間にも、浸食を始めた謎の腕を雷撃で吹き飛ばす。
 残った傷口を強引に布で塞ぎ、固定し、再び棍を拾った。
 同じ頃、『影』すら黙らせる『片鱗』もまた、この世界に顕現していた。
「盗掘、屋を、始めたのも、無駄じゃなかった」
魂が削られ、肉体が損耗していく。元々が人の関わるべきでない戦いだ。生きてこの場に立つことすら奇跡に近い戦い。
 自分がこの場に至った理由。それは。
「貴様のような存在が、居ていい場所など、この世界にはもうない」
憤怒と決意。
 犠牲となった親への贖罪。
 救えなかった祖先への祈り。
 彼らによって繋がれた命への誇り。
 そして、魔物と、人との戦が終わり、女性化という現象を経て、まだ始まったばかりの世界への希望。
 関わった人々を守りたい、それが魔物であろうと、人であろうと。 
「恨みも、哀しみも、悲劇も」
赤い星から噴き出した金色の煙。
「この穴の底だけで十分だ」
何かが姿を得て、構築されていく。何かがこの場で犠牲となった英霊達の魂を糧に、ただ、嗤おうとしている。
「だから」
煙が集まる。金色の光の奥、降り立ったのは、黄衣を纏った王の姿。
「お前はここで朽ち果てろ」
それが、突如として弾ける。黄衣の裾が万倍に広がり、その場には触手にまみれた巨大なる蜥蜴、顔の代わりに触手と肉の泡で溢れた表層を備えた何かが、触手にまみれた片腕を揺らす。
 それだけで行為は終わっていた。
 庇い、吠える荒覇吐神。血と共に祖が伝えた神による守護により、余波によって滅ぼされることを辛うじて逃れる。
 しかし、庇われていようと、失った魂も、削られた精神も尽き果て、息絶えようとするシェロウ。
 その時。
 黒く濁った風が神殿を満たし。全てを呑み込み。
 無となり。有を失い。
 世界が。
 終わりを、迎えた。

 ――――――――――――――――――――――――

 混沌に満たされ、黒い次元の境界面に遮られた場所。
 そこを目指し、終わっていない戦いがある。
 名も知らぬ巨大な神性が吼え、龍の女が、その力の全てを奮う。
「清姫に問う、乙姫に問う、母たる犀龍に問う。汝が祈り託せし者は何処や」
膨大な魔力の奔流が、何処ともない漆黒に吸い込まれる中、ただ、存在しえぬセンサーを見開き、アレシアもまた己の機能全てを凶悪な空間へと晒した。
 ゴーレムは多様な機械であり、多彩な人工生命体である。石や泥を媒介とした魔術の結晶は、何時の日にか意思をもつように変化した。
 それは生産段階の影響であるとも、魔王の交代によるプログラムへの影響とも言われているが、真偽の程は定かでない。
 現在、最も偉大とされている魔物図鑑の著者は、精液の搾取、つまりは、人間の遺伝子を採取するモデルなどを主として追及しているが、それだけに留まらず、ゴーレムそのものの特徴や機能についても事細かに記載している。
 それは、ルーンによって制御された己のプログラムに干渉し、最も好ましく思った対象の名前を刻み、所有権、及び、メインユーザー登録を委譲してしまう事や、性格や特性を、ルーンの代替によって変更してしまう事についてだ。
 そのルーンについてだが、ここに、一つのイレギュラーケースがある。
 起動の呪文すら破損していた石版、その繊細な部位を、人の手によって、起動可能なレベルまで修復されてしまったゴーレムが。
 本来的にはありえない。命に匹敵する『生命の文字』を失ったゴーレムが、どうやって形が維持されていたというのか。
 一度は魔力を失った身体に、再び命が宿った理由。
「そこに、奇跡を求めても、間違いではないはずです」
決意と共に、機体各部からコードを伸ばす。
 求めるのは、ただ『プログラムそのものに込められた想い』をセンサで探すという作業。
 この文字も、この腕も、この心も。
 あの人に貰ったから、動いている。
 ならばそれは、あの人の存在しえぬ世界においては、動く事すら叶わぬはずと、深く信じる。
 彼が、欲しい。
 欲望、劣情、願い、祈り。
 どんな感情なのかは、ゴーレムであるアレシアにも解らない。
 だが、諦めるつもりにはなれなかった。

 ――――――――――――――――――――――――

 天地はない。そもそも世界がないのだから、何一つとして定まったものはない。
 それなら意識も有り得ないはずであるが、何かを認識している『自分』までは消え失せていない。  
 だから視える。聞こえるのだ。
 遠く、遥かに遠い、星より遠い光景。
 茜空の下、毬で遊んでいた童女が不意に空を見上げる。
 前髪を風が撫で、小さな角が覗く。
 そのまま風が過ぎると、遠く、母の呼ぶ声が聞こえた。
 夜の帳、家々の明かり。
 夕餉の匂いに子供達が家々へ戻っていく。百姓仕事に精を出していた男達が家へ戻り、人でない嫁と、晩酌を交わしては笑っている。
 それは守られた場所だ。
 救われなかった自分の、救うことのできた場所。
 母もなく、父もなく、残ったのは因習じみた生業のみ。
 家の名も、自身の名も捨て、ただシェロウと名乗り、生き、足掻いた。
 結果、女と出会い、別離し。
 そしてまた女と出会い、捨てられ。
 三度目に、また、出会った。
 伝えられなかった二度の想いもあれば、せめて自身が死ぬまで、嫌われるまで、もしくは、親に縋るゴーレムとしてではなく、一人の魔物として自律してしまうまで、付き合おうと思ったこともあった。
 だが、それらは全てもうない。
 自分が呑まれたのは、時空の境がない場だ。死はないが、生もない。
 意識すら、いずれ狂うか、いずれ消失するだろう。
 それでもいい。
 意外にも満足していた。もう、残された世界、分岐した可能性の先、救われた世界を見て、抱えていた恨みも消え、哀しみに沈むこともなくなった。
 ただし。
 少しだけの罪悪感と、少しだけの寂しさ。
 それもまた、結局は残ってしまっていた。  

 ――――――――――――――――――――――――

 センサが弾けた。
 黒い空間、失われた場所が、無へ収束しきる前の『境界線』らしき場所を維持していた神性が、力尽きようとしている。
 龍の姫は、血涙を化粧に未だ力を奮うが、それもまた、魂を削る行為だ。
 アレシアもまた、命を注ぎ、意思を注ぎ、幾千ものコードを空間の内部へ殺到させる。
 生成と射出、本来であれば連続してできるはずもないコードの異常な使用方法に加え、在り得ないものを探す為に駆使されるセンサ類もまた、過負荷に悲鳴を上げている。
 それでも続ける。
 まだ、諦めるつもりにはなれなかった。

 ――――――――――――――――――――――――

 恩ばかりを受け、巣立ったあの日まで、とても大切に想い、育んでくれたた大事な人、彼女に言えなかった言葉がある。
 出会いは唐突で、ただ、偶然のように恋人となり、そのまま捨てられてしまった相手へ、伝えられなかった言葉もある。
 そして。
 今、別れすら告げずに、残してきてしまった相手にもまた、噤んでしまった言葉がある。
 けれど、全ては永劫の彼方。
 救いはない代わりに、悲劇もまたない。
 なにもない。
 ただ、遺物として残されたシェロウの意識が、たゆたうように思考を巡らせるのみの空間。
 『片鱗』も『影』も、別の次元へと隔たれたことだろう。また再び出会うまで、それだけの話だが。
 その時は、別の誰かが苦しみながらも、また、救ってくれるはずだ。
 眠りはないが、そろそろ、意識が自由を手放そうとしていた。
 再び想いを巡らすことはあるのか。
 そのはずが。

 ――――――――――――――――――――――――

 手を。
 いや、手などなかったはずの、自分という存在の形骸が。
 何者かによって、この世の果てより遠い世界から、救い上げられようとしていた。
 誰に?
 何故?
 どうやって?
『収束率計算、reload、reload、reload、reload』
世界が激変する。暗い空間、手を保持していたのは、ケーブルの束。
『演算効率マイナス0.27尚も増加、過負荷によるオーバーフローが発生、機能維持付加、限定的に領域を確保し作業を継続』
現実に還る。現世に戻る。
 徐々に輪郭を取り戻し、五感を取り戻し、全てが、誰かの『認識』に基づいて再現されていく。
 矮躯に欠けた箇所なく、髪は常と同じく乱雑で、黒く汚れた東方移民の格好も、そして愛用の黒い棍もまた、何一つ変わらず。
 一揃え、一まとめ。
 地下とを繋ぐ石の階段の途中、暗い奈落の間際、漆黒の境界面のみが残っていた場所に、シェロウは、降り立つ。
 呆気なく。
 信じられない想いで手を見る。右だけでなく左も揃っていた。一度は消失、どころか、存在の形容すら失っていた自分が、損壊の痕もなく、蘇っていたのだ。
 驚くどころではない。これが現実だという確証すらもてなかった。
 意識消滅の間際で見た、嘘の光景であるのだと、必死に希望を振り払った程である。
「シェロウ」
全身の機械部位を露出し、コードや端末全てを境界面へ侵入、接続という行為を行っていたアレシア。そんな機能を、有していたなど、あまりに出来過ぎではないか?
 やはり、夢では。
「アレシア、シリーズは、目的の遂行に、成功、しまぢhさhrsた」
しかし、様子がおかしい。ネジが外れ、否、むしろ、嵌ってしまい、ゴーレムとしての普遍さを取り戻してしまったような、形だけの微笑み。
 頭蓋の隙間から放出された白い蒸気。焦げ臭く、肉の焼ける臭い。
「ばい、ばい」
「ア」
叱咤も、抗議も、礼すら、出来ないまま。
「アレ、シア?」
気付けば、近くではあの龍姫が、何故か血を吐きながら昏倒していた。
 全てが解らない。だが、代価を、自分以外が払ったことだけを理解した瞬間。
 アレシアが停止した。

 ――――――――――――――――――――――――
 
 そして長臑が背負ってきた宿命の仕舞いと共に、彼らは、多くを手放す事となってしまった。
 およそ、不可能を可能としたのは、人に非ず、魔に属し、そして神に属す者達の激闘によって成し得たものだった。
 荒覇吐神。
 僅かとはいえ、現世と神殿の通用路とも言うべき次元の枠を残すという荒技を披露し、その後は黒い風に押し出される形で人の世とは別の場所へ戻ったという。
 その強大なる力、それでいて、一族を護った異形の神は、弾圧され、黙殺され、それでも尚、異郷においてすら信仰を失わなかった人々に、感謝の意を持っていたのだろうかとも思うものの、仔細は不明。  
 龍姫。 
 切り離されかけたシェロウの存在、その残滓を、龍として、力尽くで引き止めた。
 結果、魔術式を万発撃とうと平気なはずの、龍の、脳神経が、ところどころ崩れかけるほどに危険な状態に陥ったと思う。
「まぁ、龍ともあれば、脳であれいずれは治る」
そう評したものの、明らかに、ここ最近は動くことすら叶わない有様が続いていた。
 そして。 
「このままでは目覚める事はない」
 そう、シェロウは呟く。
 アレシア。
 薄い布団の上に寝かされたまま微動だにしない彼女。
 その顔からは駆動の熱も、発電の鼓動も、伸縮の震えも存在しない。
 手足はコードごと強制排除され、無事な胴体もまた、オーバーヒートの炎熱による火傷痕が残る。
 完全なる停止。人間であるならば死と定義されてしまう状況。
 それでいてシェロウの顔には絶望は浮かんでいない。歯噛みするように険しい表情を消し、深く深く息を吐き出す。
「神経系を神性に蹂躙される前、メインシステムが止まったようだ。おそらく、基盤が損傷する前に自己への防御が働いたの、だろう」
同じように傷だらけの掌が、石版、痛々しく、表面の抉れてしまった彼女の一部に触れる。
 その表面に刻まれていたはずの名は、既に存在しない。
「治す、手段は?」
「・・・幾つかの角度から探ってみようとは思う」
「宛ては、あるのか?」
「錬金術師の知り合いを訪ねてみようと思う。彼女にも一度会っているし、助言が、得られるとは思う。身体の修復についても、おそらく、彼ならば何か情報はあるだろう」
「そうか」
沈黙。あまりに重たい現状を前に、龍姫もまた、彼になんと言葉を繋げればよいのか解らぬまま時間は流れる。
 物音に、はっと顔を上げる。その時には既に、シェロウは歩き出していた。
「そう長く待たせるつもりではないが、しばらく彼女を、あの老体へ任せると伝えてくれ」
「待て」
「何だ?」
「私も」
おそらく、責任も感じたからだろう。
 だが、しかし。
 彼が、本当に選びとろうとしている選択肢を知りたかった。そして、再び手放すのは、やはり。
「私も行こう」
癪だった。
 この時、あのシェロウの顔から唖然という雰囲気が発せられる瞬間を彼女は見た。
「………断る」
「な、何故?」
「しばらくは、一人でもいい。また、盗掘屋に戻るだけだ。それに」
珍しく、シェロウが笑った。絶望をとうに乗り越え、尚も、突き進む為に。
「あれの寝ている間に、陸呂と、子供をこさえるわけにもいくまい。それは、卑怯だ」
 それが、彼なりの照れ隠しで、彼なりの線引きであることは龍姫にも解った。
 矮躯の背中が、やけに巨大に感じる。
 しかし、自分に対しても一応、どころか、少なくない想いがあることに、まんざらでもなかった。
「ぬしは、何を求めておる?」
だからこそ尋ねた。
 それはかつて旅立った彼に問えなかった言葉。同時に、この場から動けぬと、外の世界を嫌っていた自分が押し止めてしまった本当の言葉。
「元々は、自由が欲しかった。そして」
黒衣が風に揺れる。新たな一歩が、今から再び。
「これからは、未来だ。その為に、また旅をしよう」
頬へ一度、彼が触れた。乾いた唇の感触に思わず跳び退き、そのまま膝から崩れ落ちてしまった瞬間。
 シェロウは、何処にも居なかった。
「………馬鹿」
最初に出た時は、泣きながらで。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿」
なんとか帰ってきたのは、何年も経ってからで。
「………馬鹿ぁ」
そして再び旅立った時は、あまりにも唐突だった。
 風来坊。
 そう表現するしかない、捉え所のない男は、また、何処ともない場所へ歩いていく。
「・・・さて。里の平和が為に、どこぞの魔術師でも狩ってゆくか。手掛かりは確か、鳥の刺青鳥だったか」
まだ、彼の物語は終われない。



  ― 閉幕 ―

12/12/19 19:00更新 / ザイトウ
戻る 次へ

■作者メッセージ
後篇投稿。
ザイトウです。

いや、話の内容自体は結構昔に書いたものに加筆しただけなので、懐かしくすらありますね。
アレシア&シェロウに関しては、発表済みの一作目、今回の善後編の他に、あと一話が放置中だったりしたのですが、好評だったら今後も過去作を完成させてみようかとも思います。

感想もたくさんいただきありがとうございました。
さて、今後についてはイザナギもあと何話かで終了させ、再びシリアスorコメディーの新作にするつもりなので、そこらへんのご意見もいただければ参考にいたしますのでー。
では。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33