ハイドマン・トーク
【ハイドマン・トーク】
前を開かれたアルスターコートが揺れる。重々しい生地の下、シャツにスラックス姿の胸元には巨大な鉄の塊が革のホルスターでぶら下げられていた。大柄な身体と、背中から発される存在感による威圧から、まるで天まで聳える巨人が目の前に立ち塞がっているような錯覚に魔術師は息を呑む。
「法規警邏官《ハイドマン》だ。手を挙げる、挙げないは任せる」
小国の乱立する諸王領の中、司法領には世界にその手を伸ばす巨大な組織がある。その名を法規警邏組織『イアルの手』。略称を規警と呼ばれる彼等は、どんな領地も越えて法の名の下に罪人の捕縛や処罰を行う権利を有する。今まで王権を除き、知られていなかった大いなる権限、『法律』と呼ばれる統合的な理を広めていた。
人は裁かれる。それは王でもなければ階級でもない。定められた権利によって。
そこに、魔物を始めとしたいかなる種族についても例外はない。
「時間、場所、種族を問わず、我々は法の名を知らしめる。略式で悪いが、抵抗は無駄だ」
そして、法の使者こそが『法規警邏官《ハイドマン》』。雷管と火薬によって弾丸を撃ち出す拳銃を帯び、魔に抗い、聖すら裁く。
正義ではない。ましてや、善人などではありえない存在。
「銀であれ鉛であれ、弾丸というものは痛いぞ」
腰にはブロードソード、胸元に拳銃。
巨躯の男、ノクト・ラーマ・グロックオーこと俺は、今日もまた規警の証、銀の逆五芒星のエンブレムを掲げ、罪人へ拳銃を向けようとしていた。
この事件さえ終われば、久しぶりの酒が呑めそうだと笑いながら。
――――――――――――――――――――――――
そうだな。酒の肴として面白くもなんともないが、聞きたいと言われれば話そう。俺に残る最初の記憶は、石を額に受けた場面だ。村のクソ餓鬼どもが、同じ歳の俺にぶつけてきやがった。その時の台詞はいつもこうだ。「獣臭い」の一言。ワーウルフと人間の混血は、餓鬼の輪にも混じれず寂しい時代を送るハメになっていたとさ。運悪く、そこは反魔を掲げ、魔物を嫌う場所だったのも最悪な思い出だ。
母親は早くに病死、父もそう長くは生きていなかった。元々は学者だったという父の言葉に従い、俺は親魔物領であった司法領まで旅をしてきた。公国領から錬金術師の一団の馬車に相乗りさせてもらい、その道すがらに話を聞いたのは面白かったな。確か、アンダラという爺さんだったが、偏屈な癖に面倒見は良くて、別れる時は大泣きした。笑うな。まだ十年も生きていなかった頃の話だ。
爺さんの紹介で、司法領内の学院へ十歳の時に編入させてもらった。『イアルの手』への勤務を前提にした司法庁付属学院で六年。終わった頃には、16になっていた。色々あったが、まぁいい思い出と言っておこう。ハイドマン見習いとして首都保安部に配属され、街の中を駈けずりまわっては倒れるように眠る日々。三食に不自由しないだけで極楽ではあるが、残念ながら未だに恩人には挨拶に行けないまま時間は過ぎていった。
それから五年。21になった俺は、諸王領全てを対象とした広域警邏組織、領外公安一課へ配属された。人員の不足から、鼻の鋭さで騒がれていた俺がスカウトという形でな。お前も知っているだろうが、その頃に発生していた南海領と南方領の戦争に加担しようとした諸王領の一部の所為で、国家間の摩擦が広がっていた頃の話だ。領外一課は、戦乱の巻き添えとなって某国の罪人集団をとり逃し、結果、所属していた人員の四割を失う。
更に三年後、戦争は一時的な停戦によって終結を見たものの、本格的な休戦には至らなかった。つい二ヶ月前に発表された南海領側からの交渉によって南方領側に有利な形で休戦になるなど、あの頃は想像もできなかった。まさか、狂戦士一人が司令官を倒すとは世界も広かったな。
話が逸れたが、21歳の時から三年が過ぎ、俺が24の時。あの殺人鬼が現れた。
――――――――――――――――――――――――
始末書と報告書を書き上げ、空のデスクへ落としていく。上司はとっくに帰っていたし、領外一課には誰もいなかった。支給されてから使い続けている黒いアルスターコートを羽織ると、凍える空気の中、冬の空の下に俺は出た。司法庁は司法領の中心、巨大なクフ湖の南端に浮かんでいる。湖と、湖に繋がる水路によって形成された司法領の首都において、街の北に位置する湖側には、歴史のある建物や重要な施設が並んでいるのは周知の事。
冷えた朝には、湖から流れてくる霧によって街は眠るように包まれていく。この光景には未だに慣れない。
石畳を革靴の踵が叩き、コツコツと乾いた音を響かせる。初冬の夜、暗い夜空を照らすガス灯が揺れる。ガラスの中の輝きを見上げ、今日は呑んで帰るかと酒場へ爪先を向けた。
悲鳴が聞こえた。
驚きより速く両足が地面を蹴った。人の臭いを鼻で探り、鉄錆臭さに足を速める。到着した路地に佇む異形を前に、警告に先んじで特別製のブロードソードを抜いていた。
「ハイドマンだ。手を挙げろよ」
刃渡りが標準より小型のブロードソードは、扱い易く適度な重さがある。慣れれば、ヒルトの端、まぁこの場合は柄頭や刃との境にある鍔のあたりだが、そこで攻撃をいなしたり、剣撃に打撃を組み込んだりもできる。他にも、柄の中に小物を隠したりもできるのだが、この時はそんな小細工の用意一つできず、視線を逸らせなかった。
立ち塞がる男が手にしていた長剣は血に濡れ、褐色の肌には、黒い血飛沫が張り付いていた。
ガス灯の下で奴は笑う。
褐色の肌に異国の装束。革の全身鎧に、緩く肌を隠すローブ。腰には数本の大振りなナイフ。どこか空虚で、猫を思わす眼をした男は、片刃の長剣を手に、ゆらゆらと距離を詰めてくる。歩幅どころか、気配も定まらない相手に対し、ブロードソードの先端が左右にブレる。背筋が泡立つ緊張を抑え込み、目を閉じた。血と鋼の臭いを探り、下から跳ね上がる剣先を、寸でで身を傾け避ける。
通り抜け様に剣を一閃。浅く皮を裂く感触に舌打ちするも、振り返り様の薙ぎ払いを幅広の剣身で受ける。勢いに押されながら一歩退きつつ、両手で長い柄を支える。間合いも斬り合いの技量も違い過ぎる。しかし、銃の間合いまで退けず、小技を使う隙もない。焦る俺を救ったのは、背後から放たれた突き。黒い鉄の棒を使った杖術のような技だった。
連撃を前に男が一歩退く。割って入った男もまた、異国の服、東方装束姿の青年だった。外套の下から片刃の剣を取り出し、続け様に薙ぎ払う。棒と剣の攻撃を前に、男は即座に去っていった。
手の中、既に薬室への装填とハンマーを下ろしての発砲準備までを終えた銃を、ゆっくりと下ろした。臭いは既に嗅ぎ取れないほど遠い。
疲れた身体から力を抜き、口元に紙巻煙草を咥えた。短く呪文を唱え、指先を鳴らす。途端に煙草の先端へ火が点っていた。この程度の芸当ならハイドマンの誰もができる。喫煙を嫌う同僚の場合だと、指先を鳴らした瞬間、こちらの煙草を全て灰にしてしまうのが難点だが。
鉄の棒、後で聞いたが、彼はこれを棍と呼んでいたんだが、それを肩に乗せた東方装束の青年が振り向いた。
矮躯ながら薄く筋肉の張り巡らされた身体。東方独特の黒髪黒眼。そしてその瞳に宿した薄暗い輝きこそ、彼を表現する時、もっとも重要な特徴だ。不細工でもなければ美男でもないのに、その瞳だけはやけに記憶に残る十代半ばから二十代前半と思しき餓鬼。
シェロウ。それが司法領殺人鬼、通称を『宵闇《ベルベット》』と名付けられた男を一緒に追った男の名だ。一度は本名を名乗ってもくれたが、難しくて覚えていない。東方の発音は癖があってな。お前だって無理だと思うぞ。まるで詩の一節のようだった。
話は逸れたが、その時に殺された女は首筋を一撃。即死だった。中央図書館司書の一人だったその女は、今もこの街の墓地で眠っている。俺は怒りと同時にやるせなさに打ちのめされた、何もできなかった自分の不甲斐なさ、そう、あと一手、奴の懐に踏み込めなかった心の弱さに。
助けてもらったシェロウに礼を言い、その場は別れたのだが、次の日にまた遭遇した。アイツが言うには、昨日の男を見逃すつもりにはなれず、一人で探っていたらしい。暇潰し、と言葉を濁していたが、やはり、あの遺体を眼にして何かを感じたのだろう。シェロウと視線を合わせた俺は、決意と共に協力を要請した。あの時の自分を乗り越える為には、彼の力がどうしても必要だった。コートの内側に隠したままだった銃すら使えていない実力では、もしあの殺人鬼、宵闇と向き合った時、自分一人では相打ちもままならないだろうから。
その日から捜査が始まったのだが、これがまた色々とあってな・・・何?詳しく聞きたいだと?まったく、面倒だな・・・解ったから黙れ。煩い。
つまり、旅人だったシェロウは俺の部屋に居候し、俺は俺で、一時的に領外一課から首都保安部一課へ出向させてもらい、その日から殺人鬼の追跡が始まったわけだ。
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ここで言っておきたい事がある。俺は、ある意味で魔物が嫌いだ。まぁ、同じくらいに人間も嫌いだがな。あ?まぁ、お前も例外ではないな。理由はさっき言った村での話もあるが、司法領でも忘れられない思い出がある。あれはまだ、俺が首都保安部に居た頃の話だ。酒の味を覚え始めたのも、同じ時期なんだが、通いの酒場ができていた。理由も簡単で、そこに好きになった女がいたんだよ。まったくマセた餓鬼だったとは思う。
女の名はクレールと言ってな。灰色の髪を結い上げ、鳶色の眼をした年上の女だった。今となっては、俺も彼女より年上になってしまったが。まぁ、そこは勘弁してくれ・・・まだ制服も着慣れない自分は、いつか告白してやろうと毎晩通っていた。それでもきっかけがなかったんだが、課の先輩に連れられて大酒を呑んだ帰り道、気の大きくなった俺は酔った勢いで酒場に乗り込んだ。もう閉めようとしていた店主を押しのけて中に入ると、女に向かって好きだと叫んだ。
酔っていた俺は、唖然としたクレールの顔を見ているうちに頭が冷えていった。酔いも醒め、今にも踵を返しそうになった俺に、彼女はこう言ったんだ。「私なんかでいいなら」ってな。
俺は大喜びで帰った。明後日、酒場が休みだから出掛けようと約束して。
その約束は果たされなかった。まったく、今でも少しばかり悲しい。
その日の晩、帰ってすぐに女は自殺した。理由はワーウルフの女に噛まれ、魔物になる事に絶望して、だ。
理不尽さに涙も出なかった。そのワーウルフを殺してやろうと剣を手にした時には、そのワーウルフも既に処分されていた。情けなさに涙が出て、悔しさと寂しさで、喉の奥でいつまでも唸っていた。それから知った事だが、ワーウルフは裏通りで娼婦をやらされていたらしい。奴隷同然の扱いで、殺される前から、片目と右足に障害があったそうだ。
もう、どこへ怒ればいいかも解らなくなった。残っていた有給を使って一週間休み、中央図書館で本ばかり読み続けたな。
結局、その時に初めて解った気がした。自分の職業と、死ぬまで戦い続けるであろう闘争の相手を。
この職業とは殺戮者に他ならない。法でしか裁けない輩を、法の名で罰し続けていく。
そして闘争の相手とは、不義であり、外道であり、この世の理不尽そのものだ。人々の幸福を阻害するもの全て。
読破した本が分厚い壁になった頃、ようやく踏ん切りもついて、保安部に戻った。先輩は何も言わなかったが、その態度から、同じ道を通ったのだとは解った。人死に慣れ、それでも人と相対して生きなければならないという職業として生きて、この歳まで生きられるとは想像していなかったが。
話は戻るが、シェロウと共に宵闇を追い始めた。理由は、まぁ、今まで話してきたのが理由なわけだ。奴の場合はもう一つあったが。同じ部屋で寝起きして、朝から晩まで街を走る日々。それが三日程続き、不自然な点に気付いた。あれだけの異貌でありながら、街で誰一人として彼の姿を見ていないという。
その間に起きた殺人は二回。殺された人数は二人。どちらも街中であるのに、目撃証言も、目撃して始末された人間もいない。確かに司法領の首都である以上、人口も少なくないが、三日間も聞き込みを続け、嗅ぎ回っても尻尾一つ掴めないのは確かに妙だと思った。今まで鼻に頼りきりだった事を思い知らされもしたが、シェロウのおかげで、新たな展開があった。
「囮捜査?」
男臭い部屋の中、チェス盤に向かい合って言葉を交わす。
「この三日、いや、始まってから四日。そのうちに殺された人間の数は?」
白いポーンを動かし、難しい顔のシェロウは盤面を眺める。
「最初から数えて三人だな」
黒いルークを動かし、シェロウの白いポーンを蹴散らす。さすがに、ルールを覚えたばかりの初心者には負けるつもりがなかった。
「共通点については?」
まるで動揺する様子もなくナイト(白)が動いた。ルーク(黒)の倒せるみえみえの位置なのは、初心者にありがちな配置だ。
「性別は女、男、女、職業は、宝石店店主、陶器職人、召使、年齢は20代、30代、10代。ここまでバラバラだと、逆に意図は感じるが」
クィーン(黒)を動かし、ナイト(白)を牽制する。さて、シェロウが失敗すればそろそろチェックメイトだ。
「他にも、思い浮かぶ共通点がある」
牽制していたはずのナイト(白)ではなく、後ろに控えていたシェロウのクィーン(白)がルーク(黒)の背後、こちらのビショップを倒してしまった。まさかと思いながら盤面を眺めると、こちらのクィーン(黒)が動いてしまった間隙を突き、あちらのクィーン(白)が滑り込んでいる
咥えていた煙草を口から離す。白い煙の向こう、巧い一手で不意を突いたシェロウの表情は変わらない。
「出身の地区、生活のリズム、あとは血筋。その中で共通していた点があった」
こちらの陣地に踏み込ませぬよう、盤面を注視し、キング(黒)を退かせる。防御もまた、戦略の要。
「それは何だ?」
一挙一動。そこに潜む勘のようなものを感じ取る。シェロウは何の変哲もないポーンを握り、その先で棚の上を指した。
「ごく最近、中央図書館に行っている」
棚の上、思わず振り返った視線bの先には、借りてきたばかりの本の横腹に、中央図書館の刻印が入っていた。慌てて振り向くと、置かれたポーン(白)の斜め前には、逃げたはずのキング(黒)が存在していた。
「チェックメイト」
まさに囮。ビショップ(黒)を狙ったクィーンが陽動だった。あそこで強い存在を印象付け、地味に動かしていたポーン(白)の前にまでキングを誘き寄せていたのだ。つい数日前まで素人だったとは思えない陰険さには驚く。
「・・・接点が見えたんなら、動かないとな」
「その通り」
小さなポーンに突き飛ばされ、豪奢なキングは軽い音と共に倒れてしまった。
まったく、生意気な奴だ。
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司法領中央図書館。最奥に封書指定書庫を内包し、大陸随一の蔵書量を誇る場所だ。危険、広大、静謐、誰もが圧倒される知識の泉がそこには存在している。一度は行ってみるといい。まず間違いなく書物という物の価値を身体で理解する事になる。肌が強張るほどに硬い空気に満たされているからな。
さて、司法領でハイドマンとなって以降、古い冒険小説を見つけてから通っているのだが、人の人生を三度繰り返しても読みつくせない本は、司法庁より広い地上三階、地下二階の巨大な建築物の中に保管されている。司書の数は数百人を越えるらしいが、その人数でも内部を把握できているのか不安になる。地下は立ち入り禁止なうえ、ハイドマンの立ち入れる地上三階、立法関連書物も存在する階でさえ、司書の案内無しには移動すらできない迷宮である。
「あら?ノクトじゃない。紋章付きでどうしたの?」
気安い口調でカウンターから声をかけてきてくれたのは、一般書籍小説区分担当の一人、ワーキャットのアーレイン。眼鏡の奥、縦長な瞳孔を揺らし、楽しげに尻尾を振っている。しなやかで肉感的な身体を、ゴシックドレスを思わす司書制服で隠しているが、その所為で余計に色気が発散されていた。
「ハイドマンの仕事でな。悪いが、使用者のリストを見せて欲しい。この三人なんだが」
「色気がないわねぇ。もう少し面白い話をしてくれればいいのに」
良く言えば常に明るく、悪く言えば享楽的過ぎるアーレインは、隣のシェロウに流し目を送りながらも、手早く保管してある名簿を調べる。昔は男を手玉にとる悪女だったらしいが、今は若くして有能な司書の一人。水晶端末と伝声管でのやりとりを幾度かやっただけで、周囲の司書から簡単に名簿が集まってきた。
「早いな」
「だって、遅くなると呑みに行けないでしょ?」
苦笑いと共に、手早く書き写された名簿からの抜粋を見る。三人分の貸し出し履歴を確認していると、奇妙な一致が発見できた。
「この、ダニッチ事件簿って本、何か解るか?」
「えーっとそれはー・・・」
「数百年前に書かれた怪異についての手記だ。以前に読んだ事がある」
意外に博識なシェロウに驚くも、手早く粗筋が説明される。
遥か過去、人口の減った僻地の町で、怪異による事件が起きた。異形の死体、家畜の変異、魔の眷属についての噂。
困惑と嫌悪、そして恐慌に包まれていく町に三人の男が訪れ、怪異の原因を魔術を用いて払ったというのが話の大筋である。
過去、焚書にされた経緯もあるが、たまたま伝染病と本の発売が前後していた所為であるという。
「そんな本が、何か事件と関係があるの?」
「さて、どうだか」
煙草を口に運ぼうとして周囲の視線に気付く。しまった、ここは書物に溢れる場所なのを忘れていた。
「・・・この本の利用者については?」
煙草を紙箱に戻し、しぶしぶ言葉を続ける。
「本を持ってくればすぐ解ると思うわよぉ?ちょっと待って」
伝声管で呼びかけると、すぐに反応が帰ってきた。しかし、途端にアーレインの顔が曇る。
「その本、棚の何処にも無いらしいわよ」
シェロウと思わず顔を見合わせた。あの時は、そんな阿呆くさい本に振り回されるのかとほとほと困ったもんだ。
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その夜、手がかりも無くしたまま部屋に帰った俺達は、それぞれの寝床に倒れこんだ。動くのも面倒だったし、酷く疲れていた。もうこの件は課にいる他の奴に任せようとまで考えていた。正直、これほど鼻が利かない事件と遭遇したのは始めてで、そろそろ精神的にも疲れ始めていた。
「なぁ、この事件が終わったら、お前はどうするんだ?」
そういった考えもあってか、ソファーに寝そべるシェロウへ問いかけた。互いに酒場で買った葡萄酒を抱え、瓶から直接呑みながら。
「・・・出て行く、だろうな。この街に留まる理由もない」
「そうか」
なんとなく、そう、なんとなくだが、そんな言い方をするのではないかと予想していた。奴の旅が何を目的にしているのかも知らないが、この風来坊には、求めてやまない財宝に似たものがありそうに思えていたんだ。
「それで、この件に手を貸したのは何故だ?」
これもまた、鼻が臭いを嗅ぎつけたからかもしれない。奴の抱え込んだ、『寂寥感』みたいなものに・・・笑うなよ。やつが何かしらのしがらみを隠していたのは本当だろうから。
「失恋、してな」
予想もしていなかった。まったくの不意打ちだよ。
「動いていれば、少しでも気が紛れる」
つい、壁際に置かれたソファーへ視線を動かす。クッションも効かない安いソファーへ寝転ぶ餓鬼は、まだ十代半ばを過ぎたばかりにしか見えない。それでいて、どこか老いぼれても見えるのは、失恋の痛手だけではなく、どっかに巨大な問題を抱えているからだと鼻は教えてくれる。
しかし失恋か。いつも仕事で街を走り回っている俺にしてみれば、涙が出そうな単語だ。正式な勤め人になって以降、出会いなんざ、数える事すら無駄な毎日だ。精々か、アーレインとか、同僚とかが、ぎりぎり相手にしてくれそうではあるが、わざわざ声をかける元気も無い。
そんな不思議な同居人に一瞥を向けると、飲み干された瓶で視界が塞がれた。
「おっと」
投げられた瓶を受け止め、床に置く。再び視線を上げた時には、外套を被ったシェロウの後頭部だけが見えた。
「すまない。忘れてくれ」
つい、口を滑らせた。そんな反応も意外だった。随分と気を許されたものだと、少しばかり嬉しくもあった。
弟が居れば、こんな感じかもしれない。
馬鹿馬鹿しくも、歳の離れたダチに、俺はそんな事を考えていたわけだ。
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部屋の外、咥えた煙草から紫煙を吐き出す。非常階段へ腰を下ろした俺は、夜空に浮かぶ半月を見上げ、物思いにふけっていた。
眠っていても、不意に眼を覚ましては隣に誰もいない事を確認するシェロウが、どこか寂しそうみえたせいもあるが、やはり解決の糸口も見えない事件への焦りがあった。
その所為で眠りがあさかったのだろう。
寝酒でも呑んでくるかと、コートも羽織らずブロードソードだけ腰にして部屋を出ると、馴染みとは違う、安酒ばかりが並ぶ場所へ歩いた。
そんな時、嗅ぎ慣れた本と日向の匂いがする女を夜の街で見つけ、思わず顔を上げていた。
「あれ?にょクト?」
帰り道らしい。酒の臭いを漂わすアーレインが、楽しげに笑いかけてきた。
「きぐーね。わちゃしは今かえるとこにゃんだけど」
ざらざらの舌で口元を舐め、縦長の瞳孔を細めるワーキャットは、本来の奔放な面が顔を出している。
呂律がまわっていないのは、本来的にワーキャットは酒とまたたびに弱いからだ。
それでも、アーレインなどは強いはずなのだが。少なくとも深酒して酔い潰れるのは俺が先だ。
「えーとにぇー、酒場で呑み比べしてちゃら、つい呑み過ぎちゃっらー」
詳細を聞くと、同僚連中と酒場に行き、何がきっかけか呑み比べを始めたらしい。
ハイネの瓶を、同僚達と合わせて20本以上は開けたと聞いた時はさすがに仰天した。
ハイネとは俺も好んで呑む、司法領ではそう珍しくもない酒ではある。その度数は安いエール酒と比べれば数十倍の強さ。
喉と臓腑の焦げるような感触と、鼻に抜ける水飴のような強い香りが特徴だが、4人で20本、よく急性アルコール中毒で死ななかったものだと感心さえする。
軽く一人5本は開けている計算だ。
「私は、ちょっつ呑んらだけだけどー、エンデュラとかバネッサとか、瓶を直に呑むにょよー」
改めて魔物だと思ったが、その二人はラミアとエキドナ、どちらも蛇の系譜に連なる魔物らしい。
やはり、人とは細かな点が違うものだと、少しばかり不思議な感慨がある。
それよりもと、足元のおぼつかないアーレインを支える。けらけらと笑う彼女であるが、こちらの鼻が痛むほどの酒気を漂わせており、尋常じゃない酒量だった。
「んふふふー、なんか火薬くさーい」
「ハイドマンだからな」
司法の狗を相手に、アーレインは躊躇いもなく抱きついてくる。猫特有のしなやかな身体がひょいと跳び乗ると、頭を両腕で抱えて髪へ頬擦りしていた。
「こっちはいいにおいー」
「馬鹿、嗅ぐな」
自由で、そして闊達。
やはり猫だなと笑う。
「にょクトー、すきー」
「そうか。」
結局、そのまま寝てしまったアーレインを抱え、俺は自分のベッドを明け渡す事になったが。
自分の人の良さに呆れもするが、男にこうも簡単に甘えるアーレインが心配でもあった。
いや、別に、それが気にくわないというわけでもなく・・・。
もういい。掘り返すな。話を進めるぞ。うるさい、わざわざ心理描写までしてやるわけなかろう。
――――――――――――――――――――――――
さて、気の短い奴なら、そろそろ話の真相を急かす所だが・・・解った。このまま流れの通りに話すぞ。だが、そうすると盃から空なのはどうかと・・・悪いな、酒を奢るよう仕向けたみたいで。では、続きを話すとするがね。
二人で街を歩き回っていると、いきなり背後から声をかけられた。何かと思って振り向くと、そこにはアーレインが立っていた。
「有給貰ったから、付き合うわよ」
ふりふり尻尾が揺れている。そうか、そんなに楽しいか。
単に面白がって追ってきたのだろうが、やれやれ、厄介な奴を抱え込んだと嘆息を一つ。
その日も聞きこみをやっていたのだが、アーレインの所為で何度も横道に逸れてしまった。
宝石店へ聞きこみに入れば、店主と小一時間も立ち話。あんまりに退屈なもんで、シェロウと宝石の値段当てを始めた。
次に盗品のバイヤーへ渡りをつければ、シェロウを交えての競りを始めやがった。結局、古文書の切れ端をシェロウが銀貨一枚で競り落としてから、次の聞き込み先へ移動した。
そうこうしているうちに昼になり、結局は、アーレインに押し切られる形で昼飯となった。
「なーんの発見もないわね。つまんない」
「それはお前の所為だろうが」
「うっわ、ノクトちゃんってば つーめーたーいー」
「うるさい。もう黙れ」
不機嫌に煙草を吸うと、鼻腔の中に薫りが満ちる。この感覚が好きで、どうしても止められない。
「だが、何か街が騒がしいな」
余所者のシェロウの言葉に、今更に冬至が近い事を思い出す。なら、騒がしいはずだ。
「あ、もうすぐお祭りがあるのよ。昔、この周辺を統治していた王様を称えるお祭りで、近くの丘で二日間は音楽が続くわ」
「それは、凄いな」
珍しくシェロウが興味を示している。昨夜に続き、餓鬼らしい反応だ。
普通なら、もっと我儘を言うもんだとも思うが。こんな性格になっちまったら、仕方ないのだろうな。
まったく、親はどういう教育してたんだか。
ひとしきり憤っている間にも、シェロウとアーレインの間で話が進んでいたらしい。既に、お祭りに行く事は決まっていた。
「それじゃ、二日目に決定ね。うちの綺麗どころも引っ張っていくから、楽しいわよー」
「・・・いや、普通に知り合いだけの方が、気が楽なんだが」
「もう、人見知りが激しいわねー。そういう子が好きなヤツも居るから、もう即座にベッドへゴーよ」
「待て。人の同居人を危ない道へ誘おうとするな」
「あ、やーねー。一人だけイイ人ぶって。保護者気取り?アンタだってこの歳には女の尻を追ってたのに」
「その話はやめてくれ!」
結局、この日もろくな情報を得る事はできなかった。
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懐が空なのを気付く。煙草がきれていた。外していたホルスターとコートを纏うと、靴紐を結び直す。
「どうした?」
本を片手にソファーへ腰掛けていたシェロウへ「煙草。ついでに酒でも呑んでくる」とだけ告げると、自室から出る。
普段なら気にしない寒さに苛立つ。あの殺人鬼が今日もうろついているのかと思うと、胸クソ悪くて仕方ない。
それでも、どうしようもない憤懣を紛らわそうと通い慣れた酒場へ顔を出した。
「おう、ノクトじゃねぇか。久しぶりだな」
口髭を伸ばした五十代の店主が挨拶を返してくる。
ここは、好きだったあの女が居た酒場。昔は近寄りたくもなかったが、あのまま忘れるのも寂しくてな。結局、今では常連だ。
悲しい気分の時は、どうしてもあの女を思い出すから近寄らないが、苛ついてる時なんかは絶対にここだ。何故なら強い酒があるから。
「コアントローを3カートン。あと、ハイネを一杯頼む」
「あいよ」
愛する銘柄の詰め込まれた紙袋を受け取り、一杯分の蒸留酒の料金と共に金を払う。出されたの酒は強いものだが、喉の焼ける感触が心地よかった。
「同じものをもう一杯」
「あいよ」
今度は一気には呑まない。一口、一口と、舌の上で転がすように味わうと、僅かな酔いの感覚と共に、買ったばかりの紙巻煙草へ火を点した。
「マスター、私にはヴィオネ、もらえるかな?」
「はい」
隣に座る女、アーレインを一瞥する。この女と酒場で会うのは珍しくないが、こんな夜更けに一人なのは初めてだった。
「どうした?独りか?」
「そうよ。たまにはのんびり呑むつもりだったんだけど、辛気臭い匂いがしたんで、わざわざ声をかけてあげたってのに」
「そりゃ邪魔したな」
そんな気遣いができるのかとも思ったがな。その時は素直に感謝したよ・・・悪いか?俺が感謝するのは。
とにかく、一緒に飲む事にした。時間も時間で、酒場には冒険者も居なければ常連も俺達しかいなかった。静かだったのは覚えている。
「あの子は?」
「シェロウなら部屋だ。どうにも進展が無いもんでな、少しばかり酒でも呑んで気を紛らわせたかったんだ」
「ま、変な事件みたいだしね。手伝える事があるなら、手を貸してもいいけど」
透明で鮮烈な俺の酒とは違い、琥珀色に熟成した彼女の蒸留酒は、まろみのある液体としてグラスの中で揺れている。
ホワイトとブラウン。樽という揺りかごの有無だけでも、これだけ違う。それは自分と彼女の違いとも言える。
激しく喉や胃を焦がす強い酒を選ぶのは、殺しを追う日々に鈍化しがちな感性を補うためのようにも思える。悲しみや怒りが磨耗しきってしまわないように。
それとは違い、彼女の琥珀色は、ゆったりと空気すら楽しめる落ち着きが見てとれた。彼女の安定感が、時に羨ましくさえあった。
「一口ちょうだい」
そう言い、こちらの蒸留酒を失敬した猫女。安くない一口に憮然とするも、睨む相手の口元へ視線が動いた。
酒に濡れた艶やかな唇に。
「返せ。まったく、高い酒を」
奪い返し、残っていた酒を口に運ぶ。その感触さえ、どこかぼやけてしまいそうになっている。
自分の喉が鳴ったのは、失った酒の所為だけではないだろう。
柔らかそうな四肢。それは誘うように尾を揺らす腰から、女性的に突き出した胸元までが扇情的で。
酒よりも濃い女の匂いを今更に自覚し、俺は、痺れるように口を開きそうになる。
「アーレイン・・・」
無意識の言葉にはっとした。
咄嗟に、グラスを口元へ運んだ。下ろしたグラスには、あと少ししか酒は残っていない。
口から滑りそうな軽口を酒と共に呑み込む。昼の事もあってか、どうかしていたようだ。俺と彼女は、そういった関係ではない。
「ノクト、どうかした?」
「いや、なんでもない」
残る酒を嚥下した。熱く胸の奥を焼く感触に深く呼吸を漏らし、席を立ち上がる。脇に紙袋を抱えて歩き出そうとすると、ぐらりと、足元が揺らいでいた。
「う・・・」
身体が熱い。慣れた酒であるはずなのに、どうも今日は調子が悪いようだ。
「ちょっと、大丈夫ー?マスター、私も帰るから」
アーレインに肩を借り、よろよろと酒場を出た。肩越しに振り返った店内では、店主が俺のグラスを手にして、眉間に皴を寄せて眺めていた。
アンタが悪いんじゃない。ちょっと調子が悪かっただけだ。
そう言い残したかったが、頭が痛み、手を振るだけで限界だった。吐き気はないが、身体がどうにも重たい。
近くの公園までアーレインの肩を借りて移動する頃には、吸っていたコアントローの火が消えていた。
残った吸殻を手の中で揉み潰すと、小声で魔術式を呟く。炎が暗闇を照らし、灰すら残さず燃やし尽くした。
重たい身体をベンチへ預けていると、隣へアーレインが座る。
「もう大丈夫だ。夜風で幾分酔いも醒めた。迷惑かけたな」
「・・・・・・のよ」
何か、その時は聞き間違いとも思ったんだが、あれは確かに「それじゃ困るのよ」と言っていたな。後で聞いたんだが、店主がグラスを嗅いだ時、嗅ぎ慣れない甘い匂いがしたそうだ。思い出したのは後日になってそうだが、それはまさに『アルラウネの蜜』だったらしい。
さて、つまり何なのかと言うと。
「私の家に来なさいよ。このままほっておけるわけないじゃない」
「いや、気にしなくとも、しばらくすれば」
「私が嫌なのよ。さっさと立って!」
「おい、俺は」
半ば強引に立たされ、力の入らない身体を引っ張られていく。抗議こそするものの、強い語調のアーレインに突っぱねられ、部屋にまで連れこまれていた。
脱がれたままのドレス、放り出される上着。そんなベッドに、俺は放り出されていた。
長い爪を供えた彼女の指先が襟に伸び、ボタンも、ホルスターも外された。コートに至っては既に身体の下。
自分より一回りは小柄な身体に組み伏せられ、何時の間にか上半身がほとんど脱がされていた。
「・・・アーレイン、どうした?」
「どうした、ですって?」
アーレインの瞳に楽しげな光が宿る。嗜虐的な輝きに、思わず、顔から血の気が引いた。
「我慢できないのよ。昼間からそんないい身体が視界をふらふらしてて、酒まで入ったら堪えきれないにきまってるでしょ」
嬉々として上着を剥ぎ取っていく彼女を前に、今更ながら出会いを思い出す自分が居た。ほとんど現実逃避である。
初めての出会いは古い冒険小説のシリーズのうち、何冊かが解らなかった時。
探して欲しいとカウンターに頼んだのだが、それに応対したのがアーレインだったわけだ。
軽快な喋りに、多彩な本の説明。思わず話し込んでしまった次の日から、今度は彼女から話しかけてくれるようになっていた。
おりしも、告白した女が死んでから日が経っておらず、落ち込んで、同僚にも頼れない心境。あの頃に気を遣ってくれたのが、何の事情も知らない彼女だけだった。
今更な気もした。
それから何年も経ったこの時でも、自分は人付き合いのいい女友達のつもりでいたんだが。
「一つ、いいか?」
ベルトの留め金へ指を滑らせていたアーレインの動きが止まる。
「何故、俺なんだ?」
酒の酔いも、性的な興奮も冷め、次第にアーレインの顔色が戻っていく。ごついだけの胸板に身体を預け、ベルトを両手で掴んでいた彼女と、間近で向かい合う事になる。
見詰め合うアーレインの動きが止まり、呆れ顔を見せる。
「何を今更」
独り言なのか、それとも、答えだったのか。感覚を取り戻した片腕を上げ、アーレインの肩を掴んだ。
「忘れたわよ。最初の理由なんて。一緒に居て楽しいと思える相手なら、少しくら気になるものじゃない?それを・・・私がどれだけアプローチしたか気付いてもなかったクセに」
寝耳に水。とかいう東方の諺を思い出した。この間、シェロウが言っていた言葉である。
「あったか?そんなの?」
「鈍いにも程があるでしょう!部屋へ呑みに誘っても深酒して朝まで寝てるし、さりげなく気持ちを伝えようとしても肝心な時にはいなくなってるし!」
「そうなのか?」
残念ながら一つとして思い当たる事がない。あの女への告白以降に、女と付き合った事はないし、精々が商売女と寝たくらいだ。そんな中、あからさまなアプローチがあれば気付くと思うのだが。
それに。
「何故、もっときちんとした形で、告白、は、してくれなかったんだ?」
少しばかり自分の不甲斐無さが情けなくもなったが、黙っておく事もできず、そのまま尋ねてしまう。ここまで来た以上、言葉を濁して終れるはずがない。
「だって」
顔が、少しだけ伏せられる。何を考えてか、人を脱がせていた時より頬が赤い。
「馬鹿みたいじゃない。四六時中ずっと、貴方の事を考えてますって。真顔でそんな事って言える?あたしは処女かと思ったわよ」
自分の不甲斐無さに頭を抱えたくなった。
「はぁ」
疲れた様子でごろりと顔を胸板の上へ預けてくる。今までの独白で疲れたのか、動きに精細がない。
「ほんと、馬鹿みたい」
「かもしれん」
友人として騒いで、恋人になろうと騒いで。
結局、何も変わらない。人を枕代わりに天井を見上げるアーレインもまた、どこか力の抜けた様子で問いかけてくる。
「続き、していい?」
「俺でいいのか?」
「他が嫌なの」
解かれた掌を彼女の背に回すまで、しばらく時間がかかった。
痺れる手の中に細い肩を抱くと、今まで自分を追い詰めていた困惑や拒絶らしき感情は溶ける様に霧散していく。
ゆっくりと体の上下を入れ替えると、押さえ込むように低く囁く。
「痛かったら言え」
「ん、え?」
唇を奪いながら、緩んだベルトを勢い良く外した。
――――――――――――――――――――――――
ざらざらした舌が這うたびにぞくりと背筋が泡立つ。
組み伏せた身体は意外なほど細く、まるで蹂躙しているようで興奮している自分が居た。
耳や首筋を獣のように甘噛みし、鼻先を胸元へ埋める。そのたびに甲高い猫のような声が漏れる。
肉ごと吸うように口を滑らせる。柔らかい感触が、指先の中でぐにゃりと形を変えた。
揺れる尻尾の根元ごと掌で掴み、そのまま。
全身が溶け、一箇所に神経が密集していく。高まりと共に細い身体が折れそうに揺れる。
重たい衝撃が爆ぜた。
それだけが、砕けそうな腰で理解できていた。
――――――――――――――――――――――――
「ねぇ?」
「なんだ?」
「なんで抱いたの?」
「お前が、誘ったからだろうが」
「そう?それだけで抱くような男だっけ?」
「・・・そうだ」
「あ、なんか隠した」
「知るか」
「んふー、にゃにかにゃー?」
「なんだその眼は?瞳孔を細めるな。そのふざけた口調をやめろ」
「ねぇ」
「だから、なんだ?」
「あのさ、好き。子供とかさ、つくろうよ。お嫁さんとかやってみたいし」
「そうだな」
「あ、また誤魔化したしー」
「うるさい」
「結構かわいいよねー、ノクトも」
「・・・・・」
「あ、もう。そんな」
「うるさい」
――――――――――――――――――――――――
こんな事を聞くな。非常に話し辛い内容だ。何故、そこまで覚えているのかだと?
・・・解っていて聞くな。くそ、面白くない。からかうな。
結局、次の日は休んだらしいから、少々やりすぎた点に関しては謝らなければならないだろう。半日近くあんな真似をしていれば、まず立てなくなるという事を後になって知った。ワーキャットは意外に華奢らしい。
首筋や鎖骨の下、それに胸にも痣が付いたのも聞いた。まったく、自分がどうしようもない獣だという事については思い知らされたよ。
それ以降も、友人なのか恋人なのか判断に困る付き合いは続くわけだが、あまり態度が変わらなかったのはアーレインだからなのかもしれないな。
付け加えておくなら。
馬鹿猫は人の酒に一服盛りやがった事を、後になって店主に聞いた。だから、自業自得ってヤツだろうな。
――――――――――――――――――――――――
朝帰りから数日。
足取り不明な罪人、消えてしまった証拠、こうまで難航すると、さすがに頭にきてな。
そのまま気晴らしに、シェロウとアーレインの三人で酒を呑みに行った。
酒の席ともなれば、今みたいに身の上話を話したり話されたりもするわけだ。アーレインが面白おかしく珍道中を話せば、シェロウが最近の失恋話を語り、俺は解決した奇妙な事件を聞かせもした。アーレインの話に酒場の全員が大笑いすれば、シェロウとダークエルフとの恋愛に一喜一憂、俺の事件話には息を呑んだってな感じで。その時に話した話は今度にするが、酒場全体が俺達を中心に大騒ぎになる頃、ふと、客の一人がおかしな事を言い出したわけだ。
「そういえば、最近、変な事があったな」
そんな言葉を皮切りに、そうだそうだと言葉が繋がる。
非番の衛兵がクフ湖沿いにある農業実験場で家畜が変死した事を口走れば、新聞屋の青年が最近検挙された過激派宗教内での異常な内紛を話す。すると今度はパン屋の店主が、川から流れてきたという、奇妙な魔物の遺体を語る。どれも、諸王領ではよくある話であるが、事件と事件の間隔が、殺人事件の日時と前後していた。
事件のあらましと日付をメモした俺は、二人と共に酒場を移った。少しばかり値は張るが、静かで音の漏れない場所でテーブルを囲む。
「整理すると、家畜の変死から場所の教団の内紛、奇妙な遺体の発見までが、ここ一週間に集中しているけど、場所はバラバラ、犯人に結びつける手がかりには今ひとつじゃない?」
アーレインが卓上に広げた小さめの羊皮紙、そこには司法領首都が細かに描かれていた。
「だ、そうだが?」
静かに果実酒を飲んでいたシェロウへ問う。すると、チェスの時同様、どこか達観したかの暗い瞳が地図を眺める。
「ダニッチ事件と同じ異常が起こっているすれば、残りは謎の炎だけのはずだが」
「謎の炎?」
「深夜、遺跡で起こるという不可思議な炎の話だ」
ぴくりとアーレインの片眉が動く。同じように、俺も反応していただろう。
「首都から西の丘にウコバク古墳という場所があるわよね。古代の王が眠る小さな墳墓だけど、明後日からがお祭りだから、今日から準備が始まるはずよ」
椅子を蹴飛ばして立ち上がった。手早く貨幣を支払うと、頭の中で距離と時間を試算していく。
「半刻って所か。文字盤の半分を、長い針が動くまでにはどうにか着けるはずだ」
「貴方、移動魔法は使えなかったっけ?」
「短距離ならまだしも、長距離は無理だ。この時間だと湖からの寒風で馬車が横転する事もあるってのに」
「なら、行けるぞ」
焦る俺達を他所に、今もまたシェロウは静かな眼で夜空を見上げていた。
「着地に失敗すれば、どうなるか解らないが」
――――――――――――――――――――――――
正直、あれは恐怖だったな。もう命の危険とかいう前に、ともかく落ち着かなかった。なにせ、暴風に吹き飛ばされ、夜空に舞い上がるなんざ初めての経験だ。強風の中で身体が軽くなり、風の中でコートが暴れる。さすがに半ばからは諦めると、同じように風に舞っていたアーレインが肩に掴まってきた。痛い。尻尾が顔に当たって痛い。
「驚きよね。まさに東洋の神秘」
「・・・まったくだな」
手馴れた動作で煙草を口に運ぶ。奥歯で先端を噛み締めると指先から放った術式で火を点す。
近く、というより、すぐ傍で飛ぶシェロウは、何かを口ずさみながら、鉄棍を肩に自然体を崩さない。
「センジュツってのは、魔術とは違うみたいだな」
「みたいね」
尻尾の先の毛繕いを始めたアーレイン。コイツも早々にこんな環境に慣れている。
「しかし、その本に関係する犯人ってのはどんな奴なのか」
「さぁ?人間なら異常者だけど、人間でないなら、魔物ですらないものね」
「根拠は?」
「私達が殺すなら、もっと解りやすいもん」
「成る程」
魔物の行動原理についてそう知られているわけではないが、私怨で動くという点については人間と変わらない。むしろ、人間のような異常者の数は圧倒的に少ない。皮肉なもので、魔物より繁茂しているはずの人間は、精神的にはあまりにも未熟過ぎるのだろう。
「降りるぞ」
「へっ?」
風が消える。暴風の中から放り出された三人が一気に高高度から落下していく。スカートの裾を押さえるアーレインを庇いながら、咄嗟に魔術の詠唱を構えた。
しかし、それも徒労だったらしい。
激突寸前、もう肉眼で月に照らされた地表を確認できる距離になった時、詠唱に先んじで衝撃波が吹き上がった。地表を這うように広がる衝撃波に受け止められ、三人分の身体は、どうにか無事に着地する事ができていた。
「し、死ぬかと思った」
「すまない」
簡素な謝罪に、青い顔のアーレインがこくこくと頷く。倒れそうな表情で俺に縋って立っているものの、何度か深呼吸しただけで立ち直った。
「立ち直りが早いな」
「・・・貴方みたいにタフじゃないの」
ハイドマンとは頑丈で短気だと相場が決まっている。この程度では驚きこそすれ、精神の均衡が乱れるものではない。
「あれか」
シェロウの言葉に三人が上を向く。道の続く丘の上、煌々と松明が燃えていた。
「あれ?なんか、松明にしては火が大きいような」
アーレインの言葉に三人が緊張する。素早く駆け出した三人が丘へ駆け上がった時、石柱が墓標の如く乱立する廃墟では、目を塞ぎたくなるほど壮絶な光景が広がっていた。
「あ、あ、あ」
下半身を血に濡らした女が、腿に刻まれた深い傷を必死で押さえている。
「た、たすけ、たすけ、て」
震える声で懇願する男の右腕は遠く離れた場所で炭の塊となっていた。
「うぁぁ」
呻き声だけを漏らし、虚空を見る老人は、両腕が形容し難い何かに変質していた。例えるなら、鱗に覆われた蛸の足。
ここまでを見るに至って、アーレインは吐いた。ついさっきに語り合った楽しい空間から隔離された場所は、まさに地獄の臭いと景色に満たされている。
「フンgurunaxixixiix///アーbeーtueizeらー」
音とも声とも判断のできない反響が耳に届く。知らず、俺はコートの内側に手を隠し、シェロウは鉄棍を低く構える。
祭壇の如く燃え上がる遺跡の中央、何か、透明で粘液質な塊が伸び上がっていた。単細胞生物が分裂に身動ぎするような動作は、自然でありながら怖ろしく不気味に見える。その粘液の塊に、次第と色が発生してくる。粘液が肉となり、粘液が血液となる。形作る端からボロボロと崩れる造形は、死体から蛆が生まれる光景を連想させる。
「ふんぐるなxiふnぐrunあ///パッpえ//paッペ」
肉が固まり、血が噴出から循環に変わる。その何かを、最も速く理解したのは、先程まで吐いていたアーレインだった。
「あれがおそらく・・・罪人の、正体よ。本来なら本の中に潜むだけの、小さな魔力の集合体が、何の因果か召還術式に繋がったのよ」
罪人の正体とは、本そのものだった。
古書の中、血を混ぜたインクによって記された文字の配列に潜み、次なる悲劇を待ちわびていたらしい。正直、信じられない話だった。
今まで見た中で、あれほどおぞましいものを見た事はない。想像できないかもしれないが、俺にしてみれば、想像できないお前達が羨ましい。
俺の脳裏には、今も『あれ』が居る。
あの時が最初で最後だと願いたい。魔物ではない、原初の闇というものに剣を交えるのは。畏怖と嫌悪、そして絶望的なまでの恐怖を浴びながら戦ったあの瞬間は、今も思い出すたびに死ななかった事に安堵し、死ねなかった事に恐怖を抱いている。
咄嗟だった。まだ形成されていないはずの肉塊から、棘を供えた触手がアーレインを狙った時には、銃を抜いていた。
弾丸の尻を小さなハンマーが叩き、火花が散る。そこから引火した火薬が衝撃を放ち、銃から弾丸を飛翔させる。
理屈では解っていたが、撃ったと自覚したのは硝煙の香りを嗅いだ時だった。既に手の中では、白く煙を吐くシルバーの銃口が吐息として弾丸を吐き出し、敵の触手を撃ち砕いていた。
半ば本能的、鍛錬から筋肉が動き、神経が意識を置き去りに行動を促す。
続け様に撃ち出される銀の弾丸。刻印された魔術式が弾を爆裂させ、聖魔違わず駆逐を行う。原初レベルでの破壊の波動をばら撒き、触手の根元、本体の右上までが抉れている。
「どうやって逮捕すりゃいいもんか」
頬を冷や汗が流れた。よく解らないものに、よく解らないまま戦いを挑まなければならない現状に吐き気がする。
薬莢を捨て、手早く装弾する。今では呼吸より素早く行える動作の間にも、肉塊が肉塊でないものに変化を続けていく。
表現が難しい。人の形に肉の色をした粘土を捻って、それを何度も潰しては整形していくような過程。ぶちん、ぶちんと、大きく胎動するだけで、筋肉の繊維が千切れていくのだ。
気を失えたならどれだけ気分が楽になるか解らないものの、このまま死ねばあれに喰われるだろう。
それだけは絶対に嫌だ。
「・・・シェロウ、頭は無事か?」
「辛うじて」
辛うじてという割にははっきりとした口調をしている。精神がよっぽど頑丈なのか、精神の鍛錬もまた、センジュツに必要だったのか。
とにかく、こいつも戦えるなら、何故か勝てそうな気がした。
「あ、あば、ば」
呻き声と共に、肉が一つ何かを放り出した。その表面の肉片が剥げ落ちると、俺達の出会いを生んだ、あの男が立ち上がる。
「あれも、あの化け物の一部ってわけか」
「正確には、一部とされてしまった誰かだろう」
男が老いる。皴だらけの老人となって尚、その闘気は溢れ出ていく。世界の法則を乱す異形に、思わず吐き気がした。
「シェロウ、アーレインとあのジジィを頼めるか?」
「報酬は?」
まったく、いい肝の据わり方をしてやがる。
「女と酒、他には何がいる?」
「十分だ」
同時に走った。鉄棍を構えたシェロウが老人に襲い掛かり、俺は肉塊へ銃を向ける。
「連弾と陽光の牙よ穿て!」
手の中で魔術式を編む。火属性魔術『陽光の牙《ダグラニクト》』が、指先から炎の刃として飛翔していく。五指から放たれた刃が喰い込むも、媒体、魔力の総量、収束、どれもが不足している。肉塊が蠢くだけで、焼け爛れた部位が再生していく。このままだと消耗戦どころか、召還術式が完成してしまうわけか。
「おぉぉぉ!」
どこからか、光の矢が老人の脇へ突き刺さると同時、勝敗は決した。
咆哮と共に血飛沫が舞う。鉄棍を盾に紙一重で双剣を受け流すと同時、外套に隠れていた刃渡りの短い刀が、老人の首を刎ねていた。
同時に掌から魔術による炎が吹き上がる。肉片一つ残さず灰にする業火の収束より速く、今度は掌へ空気か収束していく。欠乏した酸素を吸気するように一気に。
「まさか」
思わす声が漏れる。
魔術的に説明するなら、相反する術式を続けて、効果を倍増するという技術だ。炎によって酸素が減り、大気圧が減れば、風はその空隙を埋める為に収束する。その収束に合わせて術式を発動させれば、同様の術式で倍化させられる。
額で何かが光ってすらいるようであった。それほど強く眦に力が在る。手の中で膨れ上がる風の術式によって集められた風の元素は、出口のないまま術式によって固められていく。
足止めに『陽光の牙』を放っていた俺へ、切羽詰った声が届く。
「ノクト!」
「アーレイン!無事か!」
「なんとかね!」
どうやら、光の矢による狙撃は彼女の手によるものらしい。
「どうするの!?だんだん大きく膨れてビキビキに反り立ってきてるけど!」
「わざわざ卑猥な言葉を選ぶな!」
「だって想像するでしょ!あれを見れば!」
こんな時でさえ口喧嘩できるんだから最高の女だな。
「一応、用意はできたが」
風の要素を凝縮し、オーラで緑に輝く球体だったものが、蠢き、何か不定形の生物のような存在として腕全体を這い回る。
その凝縮された魔力とも、新たに構築された生物とも解らないものを手に纏ったシェロウが、隣にまで歩いてきていた。反動によってか、腕が跳ねまわるように動いている。
もしくは、腕が侵蝕されるほどにおぞましい何かなのか。
「何か手でもあるのか?」
シェロウは青い顔のまま頷く。既に仙術とやらも限界らしい。顔から血の気は失せ、焦点が定まっていない。
「瞬間的にあの肉塊の構成を破砕する。その瞬間、核となっている本を狙えれば、あるいは」
「私も援護しようかな。あんまり役にはたたないだろうけど」
「分の悪い賭けだな」
銀の拳銃。撃鉄をゆっくり下ろす。
「最高じゃない?」
三人で笑う。もう誰もが、覚悟を決めていた。
「女と酒を奢れ」
「いくらでも」
「ベッドイン」
「そんな約束はせんぞ」
「馬鹿」
肉塊から、筋肉の束が射出された。人を狙う触手として、幾重にも絡んでいく。
真っ先に突進したシェロウへ多くが殺到するも、アーレインが薙ぎ払った光の剣によって、多くが焼失していく。
その間にも距離が詰まる。
アーレインの再詠唱より速く肉から第二陣が放たれる。硬く重たい筋肉の束が鞭のようにしなり、一撃ごとに地面を抉っていく。
放った銃弾がシェロウをカバーし、僅かだが道を開いた。
目前。そして矮躯が跳ねた。
魔術の束縛から解放された不定形が緑の槍へ変化し、一気に肉を抉り潰し、貫いていく。
「ノクトォォォ!」
不完全な制御から皮膚や肉の千切られるシェロウの怒声。そう焦るな。必ず当てる。
呼吸を止め、視線、腕、拳銃、全てが直線とし、乱れる射線がどこへ着弾するかを想像、予測。ぴたりと定める。
それらは、風の臭いを嗅ぎ分ける自分だけの技。
脳裏に浮かぶ想像のラインが、槍の抉った穴の先、見事に晒された本の中央へと伸びていく。
「いい腕だ。相棒」
銀の弾丸が螺旋を描き、宙を貫き、風を泳ぎ、空間を穿つ。
本に、弾丸が潰れ、衝撃が弾ける。
原初レベルの破壊波動が、原初の闇を駆逐した瞬間だった。
肉が飛び散り、蒸発し、霧散し、遂には、光の粒子と消える。彷徨う光の粒子が星空へ登っていき、やがては夜空へ消えた。
「れ、あ、れ?あれ?」
「うで、私の腕が」
驚きと戸惑いの声が、そこかしこから聞こえる。
人々の傷が消えていく。鱗や触手がぐずぐずの肉片として剥がれていき、それも光の粒子と消えた。不完全であったのが幸いし、この世界の理屈に従って正常な在り様に戻ったというわけだ。
「ねぇ!ノクト!ヤバい!」
「何がだ?痕跡も無くなり、本もこの通りだ」
穴の開いた本を片手に、俺は得意満面だ。実際に凄いだろ。
「シェロウが息してない!」
「何だと!?」
まぁ、最後まで騒ぎだったわけだが。
結論から言えば、シェロウは熱烈なアーレインの人工呼吸で息を吹き返した。どうも意識はあったそうだから、そのうち自発的に取り戻せたようであったが、結果オーライって事で。
事件はなんとか終結した。
――――――――――――――――――――――――
冬至の祝祭。司法領の数少ない祭事の中、人々は大いに飲み、楽しんでいた。両腕を包帯で覆われたシェロウと、俺は酒を酌み交わす。
「・・・旨い」
「だろう?今年一番の当たりだ」
高い葡萄酒を盃へ注ぎ、互いに飲む。これが別れの酒であるのは寂しくもあったが、奴も、次の目的地を見つけたらしい。
「盗品市で買った古文書を、錬金術師の総本山、統合院という所で解読して貰おうと思う」
シェロウの推測によると、それは発見されていない遺跡についての記述らしい。
「怪我が治るまでは居ろ。まだ女も紹介していない」
つい、そう言ってしまった。少しばかり別れが惜しいらしい。
「いや、今回は遠慮しておこう。これだけ報酬も貰ったんだ。さすがにもう甘えられない」
今回の案件を解決した褒賞の八割を、俺はシェロウへ渡した。しばらくは旅費に困る事はないだろう。
「そうか」
これ以上は無理強いになると、口を閉じ、酒を嚥下する。甘みの中に強い酒の香りが漂い、胸の奥まで熱くなるいい酒だった。
「縁があれば、また会う。司法領に寄る時は、必ず声をかける」
「必ずな」
そんな別れであっても、笑顔でいられたのは、互いにこれが最後とは思えなかったからだろう。陽気な音楽と共に踊る輪からアーレインが飛び出し、いきなり俺の腕をとった。
「踊れるでしょ?いこ!」
「ちょ、待て。俺はまだ話が」
「行って来い」
「ほらほら!」
シェロウを残し、強引に踊りの輪へ加えられる。
少しばかり気にはなったが、もう奴は人の波の外、座る姿は見えなかった。
「ありがとう」
そんな声も聞こえたが、まさかあのシェロウがそんな言葉を使うはずもないしな。
乱暴で荒っぽい独特のリズムに合わせて踊る。周囲の歓声で調子に乗った馬鹿猫が、ひときわスカートを派手に動かしてこけそうになる。
まるで羽のように鮮やかだが、揺れる尻尾がどうにも面白い。
「にゃによ?」
相当に酔っているのだろう。呂律が回っていない。
「私だってにゃー、話したい事があるにょよー」
ふらふらと踊りの輪から外れる。酔っ払い猫は足もおぼつかない様子のまま、荒い鼻息でベンチへ腰掛けた。踊りの輪から随分と離れたせいで、周囲は静かになっていた。
「あのにゃー、私はにゃー、にょくとの事が好きにゃんにゃよー」
要約。あのねー、私はねー、ノクトの事が好きだったんだよー。
沈黙。
「・・・本気だろうな?」
思わず聞き返していた。途端にアーレインの耳が激しく揺れた。
「そうにゃのよー。それで、どうにゃのー?」
言葉に詰まる。即座に答えないのは、自分の口が悪い事を自覚しているからだ。
「じゃなけりゃ、あんなヤバい場所から即座ににげるにぇしょー?」
「それはそう思うが」と言いかけたが、黙って掌を額へ当てた。
「正気の時に話せ」
そうでなければ、こちらとて本気の言葉を返せないだろうが。
互いに不器用なのだろうな、そう、理解した瞬間でもあった。
ぶつぶつと呟くと同時、彼女の身体が崩れ落ちた。魔術式で強制睡眠。本来は捕縛に使うのだが、今回は例外。
こういう話が素面の時じゃねえと失敗するってのは、実体験で知っている。
「まったく、順序もクソもねぇな」
少しばかり愉快になった俺は、アーレインを背負ったままシェロウの所に戻った。
戻ったが。
その時にはもう、シェロウはいなかった。
――――――――――――――――――――――――
いや、今更謝られても困るがな。どちらにしろ、あの夜にはいなくなっていたと思う。別れが辛いってのは、誰にだって言える事らしい。シェロウでさえな。
部屋には片付けられたソファーと共に、あの時に呑んだ銘柄と同じ葡萄酒が置かれていた。封もきらないまま、な。
あの馬鹿なりのメッセージだったんだろう。
今もあの酒は呑んでいないし、また会った時に開けようと思う。
話はこんな所だな。後半からは知ってただろうが。この酔っ払い猫。
結局は部屋に運んだ後、なし崩しであのまま居座りやがって。まったく、限度を知らない女だな。
・・・ベッドを二人で使っているから、まだソファーは空いてるって?
いい加減にしろ。あの野郎にそんな台詞ほざいたら叩き出すぞ。
それに、どうしてこんな時間に酒場に居るかだって?
少しは頭を使え。
ほら、これを見ても解らないか?
そうだ。今説明したばかりだろ?こんないい酒、呑まないでいるのは少しばかり難しかったが。
ほら、この足音のない気配で気付かないか?
まったく何年待たせやがったのか。何時の間にかグラスがもう一つ必要らしいな。
さて、それじゃ今度はお前の話を聞こうか。
俺とこいつの話?それは今度にしよう。長くなるからな。うるさい、茶化すな馬鹿猫。何が恥ずかしいか言ってみろ。
ふん。まぁ呑め。
それより、そっちの美人との出会いなんか、いい肴とは思わないか?
―――― fin ――――
前を開かれたアルスターコートが揺れる。重々しい生地の下、シャツにスラックス姿の胸元には巨大な鉄の塊が革のホルスターでぶら下げられていた。大柄な身体と、背中から発される存在感による威圧から、まるで天まで聳える巨人が目の前に立ち塞がっているような錯覚に魔術師は息を呑む。
「法規警邏官《ハイドマン》だ。手を挙げる、挙げないは任せる」
小国の乱立する諸王領の中、司法領には世界にその手を伸ばす巨大な組織がある。その名を法規警邏組織『イアルの手』。略称を規警と呼ばれる彼等は、どんな領地も越えて法の名の下に罪人の捕縛や処罰を行う権利を有する。今まで王権を除き、知られていなかった大いなる権限、『法律』と呼ばれる統合的な理を広めていた。
人は裁かれる。それは王でもなければ階級でもない。定められた権利によって。
そこに、魔物を始めとしたいかなる種族についても例外はない。
「時間、場所、種族を問わず、我々は法の名を知らしめる。略式で悪いが、抵抗は無駄だ」
そして、法の使者こそが『法規警邏官《ハイドマン》』。雷管と火薬によって弾丸を撃ち出す拳銃を帯び、魔に抗い、聖すら裁く。
正義ではない。ましてや、善人などではありえない存在。
「銀であれ鉛であれ、弾丸というものは痛いぞ」
腰にはブロードソード、胸元に拳銃。
巨躯の男、ノクト・ラーマ・グロックオーこと俺は、今日もまた規警の証、銀の逆五芒星のエンブレムを掲げ、罪人へ拳銃を向けようとしていた。
この事件さえ終われば、久しぶりの酒が呑めそうだと笑いながら。
――――――――――――――――――――――――
そうだな。酒の肴として面白くもなんともないが、聞きたいと言われれば話そう。俺に残る最初の記憶は、石を額に受けた場面だ。村のクソ餓鬼どもが、同じ歳の俺にぶつけてきやがった。その時の台詞はいつもこうだ。「獣臭い」の一言。ワーウルフと人間の混血は、餓鬼の輪にも混じれず寂しい時代を送るハメになっていたとさ。運悪く、そこは反魔を掲げ、魔物を嫌う場所だったのも最悪な思い出だ。
母親は早くに病死、父もそう長くは生きていなかった。元々は学者だったという父の言葉に従い、俺は親魔物領であった司法領まで旅をしてきた。公国領から錬金術師の一団の馬車に相乗りさせてもらい、その道すがらに話を聞いたのは面白かったな。確か、アンダラという爺さんだったが、偏屈な癖に面倒見は良くて、別れる時は大泣きした。笑うな。まだ十年も生きていなかった頃の話だ。
爺さんの紹介で、司法領内の学院へ十歳の時に編入させてもらった。『イアルの手』への勤務を前提にした司法庁付属学院で六年。終わった頃には、16になっていた。色々あったが、まぁいい思い出と言っておこう。ハイドマン見習いとして首都保安部に配属され、街の中を駈けずりまわっては倒れるように眠る日々。三食に不自由しないだけで極楽ではあるが、残念ながら未だに恩人には挨拶に行けないまま時間は過ぎていった。
それから五年。21になった俺は、諸王領全てを対象とした広域警邏組織、領外公安一課へ配属された。人員の不足から、鼻の鋭さで騒がれていた俺がスカウトという形でな。お前も知っているだろうが、その頃に発生していた南海領と南方領の戦争に加担しようとした諸王領の一部の所為で、国家間の摩擦が広がっていた頃の話だ。領外一課は、戦乱の巻き添えとなって某国の罪人集団をとり逃し、結果、所属していた人員の四割を失う。
更に三年後、戦争は一時的な停戦によって終結を見たものの、本格的な休戦には至らなかった。つい二ヶ月前に発表された南海領側からの交渉によって南方領側に有利な形で休戦になるなど、あの頃は想像もできなかった。まさか、狂戦士一人が司令官を倒すとは世界も広かったな。
話が逸れたが、21歳の時から三年が過ぎ、俺が24の時。あの殺人鬼が現れた。
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始末書と報告書を書き上げ、空のデスクへ落としていく。上司はとっくに帰っていたし、領外一課には誰もいなかった。支給されてから使い続けている黒いアルスターコートを羽織ると、凍える空気の中、冬の空の下に俺は出た。司法庁は司法領の中心、巨大なクフ湖の南端に浮かんでいる。湖と、湖に繋がる水路によって形成された司法領の首都において、街の北に位置する湖側には、歴史のある建物や重要な施設が並んでいるのは周知の事。
冷えた朝には、湖から流れてくる霧によって街は眠るように包まれていく。この光景には未だに慣れない。
石畳を革靴の踵が叩き、コツコツと乾いた音を響かせる。初冬の夜、暗い夜空を照らすガス灯が揺れる。ガラスの中の輝きを見上げ、今日は呑んで帰るかと酒場へ爪先を向けた。
悲鳴が聞こえた。
驚きより速く両足が地面を蹴った。人の臭いを鼻で探り、鉄錆臭さに足を速める。到着した路地に佇む異形を前に、警告に先んじで特別製のブロードソードを抜いていた。
「ハイドマンだ。手を挙げろよ」
刃渡りが標準より小型のブロードソードは、扱い易く適度な重さがある。慣れれば、ヒルトの端、まぁこの場合は柄頭や刃との境にある鍔のあたりだが、そこで攻撃をいなしたり、剣撃に打撃を組み込んだりもできる。他にも、柄の中に小物を隠したりもできるのだが、この時はそんな小細工の用意一つできず、視線を逸らせなかった。
立ち塞がる男が手にしていた長剣は血に濡れ、褐色の肌には、黒い血飛沫が張り付いていた。
ガス灯の下で奴は笑う。
褐色の肌に異国の装束。革の全身鎧に、緩く肌を隠すローブ。腰には数本の大振りなナイフ。どこか空虚で、猫を思わす眼をした男は、片刃の長剣を手に、ゆらゆらと距離を詰めてくる。歩幅どころか、気配も定まらない相手に対し、ブロードソードの先端が左右にブレる。背筋が泡立つ緊張を抑え込み、目を閉じた。血と鋼の臭いを探り、下から跳ね上がる剣先を、寸でで身を傾け避ける。
通り抜け様に剣を一閃。浅く皮を裂く感触に舌打ちするも、振り返り様の薙ぎ払いを幅広の剣身で受ける。勢いに押されながら一歩退きつつ、両手で長い柄を支える。間合いも斬り合いの技量も違い過ぎる。しかし、銃の間合いまで退けず、小技を使う隙もない。焦る俺を救ったのは、背後から放たれた突き。黒い鉄の棒を使った杖術のような技だった。
連撃を前に男が一歩退く。割って入った男もまた、異国の服、東方装束姿の青年だった。外套の下から片刃の剣を取り出し、続け様に薙ぎ払う。棒と剣の攻撃を前に、男は即座に去っていった。
手の中、既に薬室への装填とハンマーを下ろしての発砲準備までを終えた銃を、ゆっくりと下ろした。臭いは既に嗅ぎ取れないほど遠い。
疲れた身体から力を抜き、口元に紙巻煙草を咥えた。短く呪文を唱え、指先を鳴らす。途端に煙草の先端へ火が点っていた。この程度の芸当ならハイドマンの誰もができる。喫煙を嫌う同僚の場合だと、指先を鳴らした瞬間、こちらの煙草を全て灰にしてしまうのが難点だが。
鉄の棒、後で聞いたが、彼はこれを棍と呼んでいたんだが、それを肩に乗せた東方装束の青年が振り向いた。
矮躯ながら薄く筋肉の張り巡らされた身体。東方独特の黒髪黒眼。そしてその瞳に宿した薄暗い輝きこそ、彼を表現する時、もっとも重要な特徴だ。不細工でもなければ美男でもないのに、その瞳だけはやけに記憶に残る十代半ばから二十代前半と思しき餓鬼。
シェロウ。それが司法領殺人鬼、通称を『宵闇《ベルベット》』と名付けられた男を一緒に追った男の名だ。一度は本名を名乗ってもくれたが、難しくて覚えていない。東方の発音は癖があってな。お前だって無理だと思うぞ。まるで詩の一節のようだった。
話は逸れたが、その時に殺された女は首筋を一撃。即死だった。中央図書館司書の一人だったその女は、今もこの街の墓地で眠っている。俺は怒りと同時にやるせなさに打ちのめされた、何もできなかった自分の不甲斐なさ、そう、あと一手、奴の懐に踏み込めなかった心の弱さに。
助けてもらったシェロウに礼を言い、その場は別れたのだが、次の日にまた遭遇した。アイツが言うには、昨日の男を見逃すつもりにはなれず、一人で探っていたらしい。暇潰し、と言葉を濁していたが、やはり、あの遺体を眼にして何かを感じたのだろう。シェロウと視線を合わせた俺は、決意と共に協力を要請した。あの時の自分を乗り越える為には、彼の力がどうしても必要だった。コートの内側に隠したままだった銃すら使えていない実力では、もしあの殺人鬼、宵闇と向き合った時、自分一人では相打ちもままならないだろうから。
その日から捜査が始まったのだが、これがまた色々とあってな・・・何?詳しく聞きたいだと?まったく、面倒だな・・・解ったから黙れ。煩い。
つまり、旅人だったシェロウは俺の部屋に居候し、俺は俺で、一時的に領外一課から首都保安部一課へ出向させてもらい、その日から殺人鬼の追跡が始まったわけだ。
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ここで言っておきたい事がある。俺は、ある意味で魔物が嫌いだ。まぁ、同じくらいに人間も嫌いだがな。あ?まぁ、お前も例外ではないな。理由はさっき言った村での話もあるが、司法領でも忘れられない思い出がある。あれはまだ、俺が首都保安部に居た頃の話だ。酒の味を覚え始めたのも、同じ時期なんだが、通いの酒場ができていた。理由も簡単で、そこに好きになった女がいたんだよ。まったくマセた餓鬼だったとは思う。
女の名はクレールと言ってな。灰色の髪を結い上げ、鳶色の眼をした年上の女だった。今となっては、俺も彼女より年上になってしまったが。まぁ、そこは勘弁してくれ・・・まだ制服も着慣れない自分は、いつか告白してやろうと毎晩通っていた。それでもきっかけがなかったんだが、課の先輩に連れられて大酒を呑んだ帰り道、気の大きくなった俺は酔った勢いで酒場に乗り込んだ。もう閉めようとしていた店主を押しのけて中に入ると、女に向かって好きだと叫んだ。
酔っていた俺は、唖然としたクレールの顔を見ているうちに頭が冷えていった。酔いも醒め、今にも踵を返しそうになった俺に、彼女はこう言ったんだ。「私なんかでいいなら」ってな。
俺は大喜びで帰った。明後日、酒場が休みだから出掛けようと約束して。
その約束は果たされなかった。まったく、今でも少しばかり悲しい。
その日の晩、帰ってすぐに女は自殺した。理由はワーウルフの女に噛まれ、魔物になる事に絶望して、だ。
理不尽さに涙も出なかった。そのワーウルフを殺してやろうと剣を手にした時には、そのワーウルフも既に処分されていた。情けなさに涙が出て、悔しさと寂しさで、喉の奥でいつまでも唸っていた。それから知った事だが、ワーウルフは裏通りで娼婦をやらされていたらしい。奴隷同然の扱いで、殺される前から、片目と右足に障害があったそうだ。
もう、どこへ怒ればいいかも解らなくなった。残っていた有給を使って一週間休み、中央図書館で本ばかり読み続けたな。
結局、その時に初めて解った気がした。自分の職業と、死ぬまで戦い続けるであろう闘争の相手を。
この職業とは殺戮者に他ならない。法でしか裁けない輩を、法の名で罰し続けていく。
そして闘争の相手とは、不義であり、外道であり、この世の理不尽そのものだ。人々の幸福を阻害するもの全て。
読破した本が分厚い壁になった頃、ようやく踏ん切りもついて、保安部に戻った。先輩は何も言わなかったが、その態度から、同じ道を通ったのだとは解った。人死に慣れ、それでも人と相対して生きなければならないという職業として生きて、この歳まで生きられるとは想像していなかったが。
話は戻るが、シェロウと共に宵闇を追い始めた。理由は、まぁ、今まで話してきたのが理由なわけだ。奴の場合はもう一つあったが。同じ部屋で寝起きして、朝から晩まで街を走る日々。それが三日程続き、不自然な点に気付いた。あれだけの異貌でありながら、街で誰一人として彼の姿を見ていないという。
その間に起きた殺人は二回。殺された人数は二人。どちらも街中であるのに、目撃証言も、目撃して始末された人間もいない。確かに司法領の首都である以上、人口も少なくないが、三日間も聞き込みを続け、嗅ぎ回っても尻尾一つ掴めないのは確かに妙だと思った。今まで鼻に頼りきりだった事を思い知らされもしたが、シェロウのおかげで、新たな展開があった。
「囮捜査?」
男臭い部屋の中、チェス盤に向かい合って言葉を交わす。
「この三日、いや、始まってから四日。そのうちに殺された人間の数は?」
白いポーンを動かし、難しい顔のシェロウは盤面を眺める。
「最初から数えて三人だな」
黒いルークを動かし、シェロウの白いポーンを蹴散らす。さすがに、ルールを覚えたばかりの初心者には負けるつもりがなかった。
「共通点については?」
まるで動揺する様子もなくナイト(白)が動いた。ルーク(黒)の倒せるみえみえの位置なのは、初心者にありがちな配置だ。
「性別は女、男、女、職業は、宝石店店主、陶器職人、召使、年齢は20代、30代、10代。ここまでバラバラだと、逆に意図は感じるが」
クィーン(黒)を動かし、ナイト(白)を牽制する。さて、シェロウが失敗すればそろそろチェックメイトだ。
「他にも、思い浮かぶ共通点がある」
牽制していたはずのナイト(白)ではなく、後ろに控えていたシェロウのクィーン(白)がルーク(黒)の背後、こちらのビショップを倒してしまった。まさかと思いながら盤面を眺めると、こちらのクィーン(黒)が動いてしまった間隙を突き、あちらのクィーン(白)が滑り込んでいる
咥えていた煙草を口から離す。白い煙の向こう、巧い一手で不意を突いたシェロウの表情は変わらない。
「出身の地区、生活のリズム、あとは血筋。その中で共通していた点があった」
こちらの陣地に踏み込ませぬよう、盤面を注視し、キング(黒)を退かせる。防御もまた、戦略の要。
「それは何だ?」
一挙一動。そこに潜む勘のようなものを感じ取る。シェロウは何の変哲もないポーンを握り、その先で棚の上を指した。
「ごく最近、中央図書館に行っている」
棚の上、思わず振り返った視線bの先には、借りてきたばかりの本の横腹に、中央図書館の刻印が入っていた。慌てて振り向くと、置かれたポーン(白)の斜め前には、逃げたはずのキング(黒)が存在していた。
「チェックメイト」
まさに囮。ビショップ(黒)を狙ったクィーンが陽動だった。あそこで強い存在を印象付け、地味に動かしていたポーン(白)の前にまでキングを誘き寄せていたのだ。つい数日前まで素人だったとは思えない陰険さには驚く。
「・・・接点が見えたんなら、動かないとな」
「その通り」
小さなポーンに突き飛ばされ、豪奢なキングは軽い音と共に倒れてしまった。
まったく、生意気な奴だ。
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司法領中央図書館。最奥に封書指定書庫を内包し、大陸随一の蔵書量を誇る場所だ。危険、広大、静謐、誰もが圧倒される知識の泉がそこには存在している。一度は行ってみるといい。まず間違いなく書物という物の価値を身体で理解する事になる。肌が強張るほどに硬い空気に満たされているからな。
さて、司法領でハイドマンとなって以降、古い冒険小説を見つけてから通っているのだが、人の人生を三度繰り返しても読みつくせない本は、司法庁より広い地上三階、地下二階の巨大な建築物の中に保管されている。司書の数は数百人を越えるらしいが、その人数でも内部を把握できているのか不安になる。地下は立ち入り禁止なうえ、ハイドマンの立ち入れる地上三階、立法関連書物も存在する階でさえ、司書の案内無しには移動すらできない迷宮である。
「あら?ノクトじゃない。紋章付きでどうしたの?」
気安い口調でカウンターから声をかけてきてくれたのは、一般書籍小説区分担当の一人、ワーキャットのアーレイン。眼鏡の奥、縦長な瞳孔を揺らし、楽しげに尻尾を振っている。しなやかで肉感的な身体を、ゴシックドレスを思わす司書制服で隠しているが、その所為で余計に色気が発散されていた。
「ハイドマンの仕事でな。悪いが、使用者のリストを見せて欲しい。この三人なんだが」
「色気がないわねぇ。もう少し面白い話をしてくれればいいのに」
良く言えば常に明るく、悪く言えば享楽的過ぎるアーレインは、隣のシェロウに流し目を送りながらも、手早く保管してある名簿を調べる。昔は男を手玉にとる悪女だったらしいが、今は若くして有能な司書の一人。水晶端末と伝声管でのやりとりを幾度かやっただけで、周囲の司書から簡単に名簿が集まってきた。
「早いな」
「だって、遅くなると呑みに行けないでしょ?」
苦笑いと共に、手早く書き写された名簿からの抜粋を見る。三人分の貸し出し履歴を確認していると、奇妙な一致が発見できた。
「この、ダニッチ事件簿って本、何か解るか?」
「えーっとそれはー・・・」
「数百年前に書かれた怪異についての手記だ。以前に読んだ事がある」
意外に博識なシェロウに驚くも、手早く粗筋が説明される。
遥か過去、人口の減った僻地の町で、怪異による事件が起きた。異形の死体、家畜の変異、魔の眷属についての噂。
困惑と嫌悪、そして恐慌に包まれていく町に三人の男が訪れ、怪異の原因を魔術を用いて払ったというのが話の大筋である。
過去、焚書にされた経緯もあるが、たまたま伝染病と本の発売が前後していた所為であるという。
「そんな本が、何か事件と関係があるの?」
「さて、どうだか」
煙草を口に運ぼうとして周囲の視線に気付く。しまった、ここは書物に溢れる場所なのを忘れていた。
「・・・この本の利用者については?」
煙草を紙箱に戻し、しぶしぶ言葉を続ける。
「本を持ってくればすぐ解ると思うわよぉ?ちょっと待って」
伝声管で呼びかけると、すぐに反応が帰ってきた。しかし、途端にアーレインの顔が曇る。
「その本、棚の何処にも無いらしいわよ」
シェロウと思わず顔を見合わせた。あの時は、そんな阿呆くさい本に振り回されるのかとほとほと困ったもんだ。
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その夜、手がかりも無くしたまま部屋に帰った俺達は、それぞれの寝床に倒れこんだ。動くのも面倒だったし、酷く疲れていた。もうこの件は課にいる他の奴に任せようとまで考えていた。正直、これほど鼻が利かない事件と遭遇したのは始めてで、そろそろ精神的にも疲れ始めていた。
「なぁ、この事件が終わったら、お前はどうするんだ?」
そういった考えもあってか、ソファーに寝そべるシェロウへ問いかけた。互いに酒場で買った葡萄酒を抱え、瓶から直接呑みながら。
「・・・出て行く、だろうな。この街に留まる理由もない」
「そうか」
なんとなく、そう、なんとなくだが、そんな言い方をするのではないかと予想していた。奴の旅が何を目的にしているのかも知らないが、この風来坊には、求めてやまない財宝に似たものがありそうに思えていたんだ。
「それで、この件に手を貸したのは何故だ?」
これもまた、鼻が臭いを嗅ぎつけたからかもしれない。奴の抱え込んだ、『寂寥感』みたいなものに・・・笑うなよ。やつが何かしらのしがらみを隠していたのは本当だろうから。
「失恋、してな」
予想もしていなかった。まったくの不意打ちだよ。
「動いていれば、少しでも気が紛れる」
つい、壁際に置かれたソファーへ視線を動かす。クッションも効かない安いソファーへ寝転ぶ餓鬼は、まだ十代半ばを過ぎたばかりにしか見えない。それでいて、どこか老いぼれても見えるのは、失恋の痛手だけではなく、どっかに巨大な問題を抱えているからだと鼻は教えてくれる。
しかし失恋か。いつも仕事で街を走り回っている俺にしてみれば、涙が出そうな単語だ。正式な勤め人になって以降、出会いなんざ、数える事すら無駄な毎日だ。精々か、アーレインとか、同僚とかが、ぎりぎり相手にしてくれそうではあるが、わざわざ声をかける元気も無い。
そんな不思議な同居人に一瞥を向けると、飲み干された瓶で視界が塞がれた。
「おっと」
投げられた瓶を受け止め、床に置く。再び視線を上げた時には、外套を被ったシェロウの後頭部だけが見えた。
「すまない。忘れてくれ」
つい、口を滑らせた。そんな反応も意外だった。随分と気を許されたものだと、少しばかり嬉しくもあった。
弟が居れば、こんな感じかもしれない。
馬鹿馬鹿しくも、歳の離れたダチに、俺はそんな事を考えていたわけだ。
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部屋の外、咥えた煙草から紫煙を吐き出す。非常階段へ腰を下ろした俺は、夜空に浮かぶ半月を見上げ、物思いにふけっていた。
眠っていても、不意に眼を覚ましては隣に誰もいない事を確認するシェロウが、どこか寂しそうみえたせいもあるが、やはり解決の糸口も見えない事件への焦りがあった。
その所為で眠りがあさかったのだろう。
寝酒でも呑んでくるかと、コートも羽織らずブロードソードだけ腰にして部屋を出ると、馴染みとは違う、安酒ばかりが並ぶ場所へ歩いた。
そんな時、嗅ぎ慣れた本と日向の匂いがする女を夜の街で見つけ、思わず顔を上げていた。
「あれ?にょクト?」
帰り道らしい。酒の臭いを漂わすアーレインが、楽しげに笑いかけてきた。
「きぐーね。わちゃしは今かえるとこにゃんだけど」
ざらざらの舌で口元を舐め、縦長の瞳孔を細めるワーキャットは、本来の奔放な面が顔を出している。
呂律がまわっていないのは、本来的にワーキャットは酒とまたたびに弱いからだ。
それでも、アーレインなどは強いはずなのだが。少なくとも深酒して酔い潰れるのは俺が先だ。
「えーとにぇー、酒場で呑み比べしてちゃら、つい呑み過ぎちゃっらー」
詳細を聞くと、同僚連中と酒場に行き、何がきっかけか呑み比べを始めたらしい。
ハイネの瓶を、同僚達と合わせて20本以上は開けたと聞いた時はさすがに仰天した。
ハイネとは俺も好んで呑む、司法領ではそう珍しくもない酒ではある。その度数は安いエール酒と比べれば数十倍の強さ。
喉と臓腑の焦げるような感触と、鼻に抜ける水飴のような強い香りが特徴だが、4人で20本、よく急性アルコール中毒で死ななかったものだと感心さえする。
軽く一人5本は開けている計算だ。
「私は、ちょっつ呑んらだけだけどー、エンデュラとかバネッサとか、瓶を直に呑むにょよー」
改めて魔物だと思ったが、その二人はラミアとエキドナ、どちらも蛇の系譜に連なる魔物らしい。
やはり、人とは細かな点が違うものだと、少しばかり不思議な感慨がある。
それよりもと、足元のおぼつかないアーレインを支える。けらけらと笑う彼女であるが、こちらの鼻が痛むほどの酒気を漂わせており、尋常じゃない酒量だった。
「んふふふー、なんか火薬くさーい」
「ハイドマンだからな」
司法の狗を相手に、アーレインは躊躇いもなく抱きついてくる。猫特有のしなやかな身体がひょいと跳び乗ると、頭を両腕で抱えて髪へ頬擦りしていた。
「こっちはいいにおいー」
「馬鹿、嗅ぐな」
自由で、そして闊達。
やはり猫だなと笑う。
「にょクトー、すきー」
「そうか。」
結局、そのまま寝てしまったアーレインを抱え、俺は自分のベッドを明け渡す事になったが。
自分の人の良さに呆れもするが、男にこうも簡単に甘えるアーレインが心配でもあった。
いや、別に、それが気にくわないというわけでもなく・・・。
もういい。掘り返すな。話を進めるぞ。うるさい、わざわざ心理描写までしてやるわけなかろう。
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さて、気の短い奴なら、そろそろ話の真相を急かす所だが・・・解った。このまま流れの通りに話すぞ。だが、そうすると盃から空なのはどうかと・・・悪いな、酒を奢るよう仕向けたみたいで。では、続きを話すとするがね。
二人で街を歩き回っていると、いきなり背後から声をかけられた。何かと思って振り向くと、そこにはアーレインが立っていた。
「有給貰ったから、付き合うわよ」
ふりふり尻尾が揺れている。そうか、そんなに楽しいか。
単に面白がって追ってきたのだろうが、やれやれ、厄介な奴を抱え込んだと嘆息を一つ。
その日も聞きこみをやっていたのだが、アーレインの所為で何度も横道に逸れてしまった。
宝石店へ聞きこみに入れば、店主と小一時間も立ち話。あんまりに退屈なもんで、シェロウと宝石の値段当てを始めた。
次に盗品のバイヤーへ渡りをつければ、シェロウを交えての競りを始めやがった。結局、古文書の切れ端をシェロウが銀貨一枚で競り落としてから、次の聞き込み先へ移動した。
そうこうしているうちに昼になり、結局は、アーレインに押し切られる形で昼飯となった。
「なーんの発見もないわね。つまんない」
「それはお前の所為だろうが」
「うっわ、ノクトちゃんってば つーめーたーいー」
「うるさい。もう黙れ」
不機嫌に煙草を吸うと、鼻腔の中に薫りが満ちる。この感覚が好きで、どうしても止められない。
「だが、何か街が騒がしいな」
余所者のシェロウの言葉に、今更に冬至が近い事を思い出す。なら、騒がしいはずだ。
「あ、もうすぐお祭りがあるのよ。昔、この周辺を統治していた王様を称えるお祭りで、近くの丘で二日間は音楽が続くわ」
「それは、凄いな」
珍しくシェロウが興味を示している。昨夜に続き、餓鬼らしい反応だ。
普通なら、もっと我儘を言うもんだとも思うが。こんな性格になっちまったら、仕方ないのだろうな。
まったく、親はどういう教育してたんだか。
ひとしきり憤っている間にも、シェロウとアーレインの間で話が進んでいたらしい。既に、お祭りに行く事は決まっていた。
「それじゃ、二日目に決定ね。うちの綺麗どころも引っ張っていくから、楽しいわよー」
「・・・いや、普通に知り合いだけの方が、気が楽なんだが」
「もう、人見知りが激しいわねー。そういう子が好きなヤツも居るから、もう即座にベッドへゴーよ」
「待て。人の同居人を危ない道へ誘おうとするな」
「あ、やーねー。一人だけイイ人ぶって。保護者気取り?アンタだってこの歳には女の尻を追ってたのに」
「その話はやめてくれ!」
結局、この日もろくな情報を得る事はできなかった。
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懐が空なのを気付く。煙草がきれていた。外していたホルスターとコートを纏うと、靴紐を結び直す。
「どうした?」
本を片手にソファーへ腰掛けていたシェロウへ「煙草。ついでに酒でも呑んでくる」とだけ告げると、自室から出る。
普段なら気にしない寒さに苛立つ。あの殺人鬼が今日もうろついているのかと思うと、胸クソ悪くて仕方ない。
それでも、どうしようもない憤懣を紛らわそうと通い慣れた酒場へ顔を出した。
「おう、ノクトじゃねぇか。久しぶりだな」
口髭を伸ばした五十代の店主が挨拶を返してくる。
ここは、好きだったあの女が居た酒場。昔は近寄りたくもなかったが、あのまま忘れるのも寂しくてな。結局、今では常連だ。
悲しい気分の時は、どうしてもあの女を思い出すから近寄らないが、苛ついてる時なんかは絶対にここだ。何故なら強い酒があるから。
「コアントローを3カートン。あと、ハイネを一杯頼む」
「あいよ」
愛する銘柄の詰め込まれた紙袋を受け取り、一杯分の蒸留酒の料金と共に金を払う。出されたの酒は強いものだが、喉の焼ける感触が心地よかった。
「同じものをもう一杯」
「あいよ」
今度は一気には呑まない。一口、一口と、舌の上で転がすように味わうと、僅かな酔いの感覚と共に、買ったばかりの紙巻煙草へ火を点した。
「マスター、私にはヴィオネ、もらえるかな?」
「はい」
隣に座る女、アーレインを一瞥する。この女と酒場で会うのは珍しくないが、こんな夜更けに一人なのは初めてだった。
「どうした?独りか?」
「そうよ。たまにはのんびり呑むつもりだったんだけど、辛気臭い匂いがしたんで、わざわざ声をかけてあげたってのに」
「そりゃ邪魔したな」
そんな気遣いができるのかとも思ったがな。その時は素直に感謝したよ・・・悪いか?俺が感謝するのは。
とにかく、一緒に飲む事にした。時間も時間で、酒場には冒険者も居なければ常連も俺達しかいなかった。静かだったのは覚えている。
「あの子は?」
「シェロウなら部屋だ。どうにも進展が無いもんでな、少しばかり酒でも呑んで気を紛らわせたかったんだ」
「ま、変な事件みたいだしね。手伝える事があるなら、手を貸してもいいけど」
透明で鮮烈な俺の酒とは違い、琥珀色に熟成した彼女の蒸留酒は、まろみのある液体としてグラスの中で揺れている。
ホワイトとブラウン。樽という揺りかごの有無だけでも、これだけ違う。それは自分と彼女の違いとも言える。
激しく喉や胃を焦がす強い酒を選ぶのは、殺しを追う日々に鈍化しがちな感性を補うためのようにも思える。悲しみや怒りが磨耗しきってしまわないように。
それとは違い、彼女の琥珀色は、ゆったりと空気すら楽しめる落ち着きが見てとれた。彼女の安定感が、時に羨ましくさえあった。
「一口ちょうだい」
そう言い、こちらの蒸留酒を失敬した猫女。安くない一口に憮然とするも、睨む相手の口元へ視線が動いた。
酒に濡れた艶やかな唇に。
「返せ。まったく、高い酒を」
奪い返し、残っていた酒を口に運ぶ。その感触さえ、どこかぼやけてしまいそうになっている。
自分の喉が鳴ったのは、失った酒の所為だけではないだろう。
柔らかそうな四肢。それは誘うように尾を揺らす腰から、女性的に突き出した胸元までが扇情的で。
酒よりも濃い女の匂いを今更に自覚し、俺は、痺れるように口を開きそうになる。
「アーレイン・・・」
無意識の言葉にはっとした。
咄嗟に、グラスを口元へ運んだ。下ろしたグラスには、あと少ししか酒は残っていない。
口から滑りそうな軽口を酒と共に呑み込む。昼の事もあってか、どうかしていたようだ。俺と彼女は、そういった関係ではない。
「ノクト、どうかした?」
「いや、なんでもない」
残る酒を嚥下した。熱く胸の奥を焼く感触に深く呼吸を漏らし、席を立ち上がる。脇に紙袋を抱えて歩き出そうとすると、ぐらりと、足元が揺らいでいた。
「う・・・」
身体が熱い。慣れた酒であるはずなのに、どうも今日は調子が悪いようだ。
「ちょっと、大丈夫ー?マスター、私も帰るから」
アーレインに肩を借り、よろよろと酒場を出た。肩越しに振り返った店内では、店主が俺のグラスを手にして、眉間に皴を寄せて眺めていた。
アンタが悪いんじゃない。ちょっと調子が悪かっただけだ。
そう言い残したかったが、頭が痛み、手を振るだけで限界だった。吐き気はないが、身体がどうにも重たい。
近くの公園までアーレインの肩を借りて移動する頃には、吸っていたコアントローの火が消えていた。
残った吸殻を手の中で揉み潰すと、小声で魔術式を呟く。炎が暗闇を照らし、灰すら残さず燃やし尽くした。
重たい身体をベンチへ預けていると、隣へアーレインが座る。
「もう大丈夫だ。夜風で幾分酔いも醒めた。迷惑かけたな」
「・・・・・・のよ」
何か、その時は聞き間違いとも思ったんだが、あれは確かに「それじゃ困るのよ」と言っていたな。後で聞いたんだが、店主がグラスを嗅いだ時、嗅ぎ慣れない甘い匂いがしたそうだ。思い出したのは後日になってそうだが、それはまさに『アルラウネの蜜』だったらしい。
さて、つまり何なのかと言うと。
「私の家に来なさいよ。このままほっておけるわけないじゃない」
「いや、気にしなくとも、しばらくすれば」
「私が嫌なのよ。さっさと立って!」
「おい、俺は」
半ば強引に立たされ、力の入らない身体を引っ張られていく。抗議こそするものの、強い語調のアーレインに突っぱねられ、部屋にまで連れこまれていた。
脱がれたままのドレス、放り出される上着。そんなベッドに、俺は放り出されていた。
長い爪を供えた彼女の指先が襟に伸び、ボタンも、ホルスターも外された。コートに至っては既に身体の下。
自分より一回りは小柄な身体に組み伏せられ、何時の間にか上半身がほとんど脱がされていた。
「・・・アーレイン、どうした?」
「どうした、ですって?」
アーレインの瞳に楽しげな光が宿る。嗜虐的な輝きに、思わず、顔から血の気が引いた。
「我慢できないのよ。昼間からそんないい身体が視界をふらふらしてて、酒まで入ったら堪えきれないにきまってるでしょ」
嬉々として上着を剥ぎ取っていく彼女を前に、今更ながら出会いを思い出す自分が居た。ほとんど現実逃避である。
初めての出会いは古い冒険小説のシリーズのうち、何冊かが解らなかった時。
探して欲しいとカウンターに頼んだのだが、それに応対したのがアーレインだったわけだ。
軽快な喋りに、多彩な本の説明。思わず話し込んでしまった次の日から、今度は彼女から話しかけてくれるようになっていた。
おりしも、告白した女が死んでから日が経っておらず、落ち込んで、同僚にも頼れない心境。あの頃に気を遣ってくれたのが、何の事情も知らない彼女だけだった。
今更な気もした。
それから何年も経ったこの時でも、自分は人付き合いのいい女友達のつもりでいたんだが。
「一つ、いいか?」
ベルトの留め金へ指を滑らせていたアーレインの動きが止まる。
「何故、俺なんだ?」
酒の酔いも、性的な興奮も冷め、次第にアーレインの顔色が戻っていく。ごついだけの胸板に身体を預け、ベルトを両手で掴んでいた彼女と、間近で向かい合う事になる。
見詰め合うアーレインの動きが止まり、呆れ顔を見せる。
「何を今更」
独り言なのか、それとも、答えだったのか。感覚を取り戻した片腕を上げ、アーレインの肩を掴んだ。
「忘れたわよ。最初の理由なんて。一緒に居て楽しいと思える相手なら、少しくら気になるものじゃない?それを・・・私がどれだけアプローチしたか気付いてもなかったクセに」
寝耳に水。とかいう東方の諺を思い出した。この間、シェロウが言っていた言葉である。
「あったか?そんなの?」
「鈍いにも程があるでしょう!部屋へ呑みに誘っても深酒して朝まで寝てるし、さりげなく気持ちを伝えようとしても肝心な時にはいなくなってるし!」
「そうなのか?」
残念ながら一つとして思い当たる事がない。あの女への告白以降に、女と付き合った事はないし、精々が商売女と寝たくらいだ。そんな中、あからさまなアプローチがあれば気付くと思うのだが。
それに。
「何故、もっときちんとした形で、告白、は、してくれなかったんだ?」
少しばかり自分の不甲斐無さが情けなくもなったが、黙っておく事もできず、そのまま尋ねてしまう。ここまで来た以上、言葉を濁して終れるはずがない。
「だって」
顔が、少しだけ伏せられる。何を考えてか、人を脱がせていた時より頬が赤い。
「馬鹿みたいじゃない。四六時中ずっと、貴方の事を考えてますって。真顔でそんな事って言える?あたしは処女かと思ったわよ」
自分の不甲斐無さに頭を抱えたくなった。
「はぁ」
疲れた様子でごろりと顔を胸板の上へ預けてくる。今までの独白で疲れたのか、動きに精細がない。
「ほんと、馬鹿みたい」
「かもしれん」
友人として騒いで、恋人になろうと騒いで。
結局、何も変わらない。人を枕代わりに天井を見上げるアーレインもまた、どこか力の抜けた様子で問いかけてくる。
「続き、していい?」
「俺でいいのか?」
「他が嫌なの」
解かれた掌を彼女の背に回すまで、しばらく時間がかかった。
痺れる手の中に細い肩を抱くと、今まで自分を追い詰めていた困惑や拒絶らしき感情は溶ける様に霧散していく。
ゆっくりと体の上下を入れ替えると、押さえ込むように低く囁く。
「痛かったら言え」
「ん、え?」
唇を奪いながら、緩んだベルトを勢い良く外した。
――――――――――――――――――――――――
ざらざらした舌が這うたびにぞくりと背筋が泡立つ。
組み伏せた身体は意外なほど細く、まるで蹂躙しているようで興奮している自分が居た。
耳や首筋を獣のように甘噛みし、鼻先を胸元へ埋める。そのたびに甲高い猫のような声が漏れる。
肉ごと吸うように口を滑らせる。柔らかい感触が、指先の中でぐにゃりと形を変えた。
揺れる尻尾の根元ごと掌で掴み、そのまま。
全身が溶け、一箇所に神経が密集していく。高まりと共に細い身体が折れそうに揺れる。
重たい衝撃が爆ぜた。
それだけが、砕けそうな腰で理解できていた。
――――――――――――――――――――――――
「ねぇ?」
「なんだ?」
「なんで抱いたの?」
「お前が、誘ったからだろうが」
「そう?それだけで抱くような男だっけ?」
「・・・そうだ」
「あ、なんか隠した」
「知るか」
「んふー、にゃにかにゃー?」
「なんだその眼は?瞳孔を細めるな。そのふざけた口調をやめろ」
「ねぇ」
「だから、なんだ?」
「あのさ、好き。子供とかさ、つくろうよ。お嫁さんとかやってみたいし」
「そうだな」
「あ、また誤魔化したしー」
「うるさい」
「結構かわいいよねー、ノクトも」
「・・・・・」
「あ、もう。そんな」
「うるさい」
――――――――――――――――――――――――
こんな事を聞くな。非常に話し辛い内容だ。何故、そこまで覚えているのかだと?
・・・解っていて聞くな。くそ、面白くない。からかうな。
結局、次の日は休んだらしいから、少々やりすぎた点に関しては謝らなければならないだろう。半日近くあんな真似をしていれば、まず立てなくなるという事を後になって知った。ワーキャットは意外に華奢らしい。
首筋や鎖骨の下、それに胸にも痣が付いたのも聞いた。まったく、自分がどうしようもない獣だという事については思い知らされたよ。
それ以降も、友人なのか恋人なのか判断に困る付き合いは続くわけだが、あまり態度が変わらなかったのはアーレインだからなのかもしれないな。
付け加えておくなら。
馬鹿猫は人の酒に一服盛りやがった事を、後になって店主に聞いた。だから、自業自得ってヤツだろうな。
――――――――――――――――――――――――
朝帰りから数日。
足取り不明な罪人、消えてしまった証拠、こうまで難航すると、さすがに頭にきてな。
そのまま気晴らしに、シェロウとアーレインの三人で酒を呑みに行った。
酒の席ともなれば、今みたいに身の上話を話したり話されたりもするわけだ。アーレインが面白おかしく珍道中を話せば、シェロウが最近の失恋話を語り、俺は解決した奇妙な事件を聞かせもした。アーレインの話に酒場の全員が大笑いすれば、シェロウとダークエルフとの恋愛に一喜一憂、俺の事件話には息を呑んだってな感じで。その時に話した話は今度にするが、酒場全体が俺達を中心に大騒ぎになる頃、ふと、客の一人がおかしな事を言い出したわけだ。
「そういえば、最近、変な事があったな」
そんな言葉を皮切りに、そうだそうだと言葉が繋がる。
非番の衛兵がクフ湖沿いにある農業実験場で家畜が変死した事を口走れば、新聞屋の青年が最近検挙された過激派宗教内での異常な内紛を話す。すると今度はパン屋の店主が、川から流れてきたという、奇妙な魔物の遺体を語る。どれも、諸王領ではよくある話であるが、事件と事件の間隔が、殺人事件の日時と前後していた。
事件のあらましと日付をメモした俺は、二人と共に酒場を移った。少しばかり値は張るが、静かで音の漏れない場所でテーブルを囲む。
「整理すると、家畜の変死から場所の教団の内紛、奇妙な遺体の発見までが、ここ一週間に集中しているけど、場所はバラバラ、犯人に結びつける手がかりには今ひとつじゃない?」
アーレインが卓上に広げた小さめの羊皮紙、そこには司法領首都が細かに描かれていた。
「だ、そうだが?」
静かに果実酒を飲んでいたシェロウへ問う。すると、チェスの時同様、どこか達観したかの暗い瞳が地図を眺める。
「ダニッチ事件と同じ異常が起こっているすれば、残りは謎の炎だけのはずだが」
「謎の炎?」
「深夜、遺跡で起こるという不可思議な炎の話だ」
ぴくりとアーレインの片眉が動く。同じように、俺も反応していただろう。
「首都から西の丘にウコバク古墳という場所があるわよね。古代の王が眠る小さな墳墓だけど、明後日からがお祭りだから、今日から準備が始まるはずよ」
椅子を蹴飛ばして立ち上がった。手早く貨幣を支払うと、頭の中で距離と時間を試算していく。
「半刻って所か。文字盤の半分を、長い針が動くまでにはどうにか着けるはずだ」
「貴方、移動魔法は使えなかったっけ?」
「短距離ならまだしも、長距離は無理だ。この時間だと湖からの寒風で馬車が横転する事もあるってのに」
「なら、行けるぞ」
焦る俺達を他所に、今もまたシェロウは静かな眼で夜空を見上げていた。
「着地に失敗すれば、どうなるか解らないが」
――――――――――――――――――――――――
正直、あれは恐怖だったな。もう命の危険とかいう前に、ともかく落ち着かなかった。なにせ、暴風に吹き飛ばされ、夜空に舞い上がるなんざ初めての経験だ。強風の中で身体が軽くなり、風の中でコートが暴れる。さすがに半ばからは諦めると、同じように風に舞っていたアーレインが肩に掴まってきた。痛い。尻尾が顔に当たって痛い。
「驚きよね。まさに東洋の神秘」
「・・・まったくだな」
手馴れた動作で煙草を口に運ぶ。奥歯で先端を噛み締めると指先から放った術式で火を点す。
近く、というより、すぐ傍で飛ぶシェロウは、何かを口ずさみながら、鉄棍を肩に自然体を崩さない。
「センジュツってのは、魔術とは違うみたいだな」
「みたいね」
尻尾の先の毛繕いを始めたアーレイン。コイツも早々にこんな環境に慣れている。
「しかし、その本に関係する犯人ってのはどんな奴なのか」
「さぁ?人間なら異常者だけど、人間でないなら、魔物ですらないものね」
「根拠は?」
「私達が殺すなら、もっと解りやすいもん」
「成る程」
魔物の行動原理についてそう知られているわけではないが、私怨で動くという点については人間と変わらない。むしろ、人間のような異常者の数は圧倒的に少ない。皮肉なもので、魔物より繁茂しているはずの人間は、精神的にはあまりにも未熟過ぎるのだろう。
「降りるぞ」
「へっ?」
風が消える。暴風の中から放り出された三人が一気に高高度から落下していく。スカートの裾を押さえるアーレインを庇いながら、咄嗟に魔術の詠唱を構えた。
しかし、それも徒労だったらしい。
激突寸前、もう肉眼で月に照らされた地表を確認できる距離になった時、詠唱に先んじで衝撃波が吹き上がった。地表を這うように広がる衝撃波に受け止められ、三人分の身体は、どうにか無事に着地する事ができていた。
「し、死ぬかと思った」
「すまない」
簡素な謝罪に、青い顔のアーレインがこくこくと頷く。倒れそうな表情で俺に縋って立っているものの、何度か深呼吸しただけで立ち直った。
「立ち直りが早いな」
「・・・貴方みたいにタフじゃないの」
ハイドマンとは頑丈で短気だと相場が決まっている。この程度では驚きこそすれ、精神の均衡が乱れるものではない。
「あれか」
シェロウの言葉に三人が上を向く。道の続く丘の上、煌々と松明が燃えていた。
「あれ?なんか、松明にしては火が大きいような」
アーレインの言葉に三人が緊張する。素早く駆け出した三人が丘へ駆け上がった時、石柱が墓標の如く乱立する廃墟では、目を塞ぎたくなるほど壮絶な光景が広がっていた。
「あ、あ、あ」
下半身を血に濡らした女が、腿に刻まれた深い傷を必死で押さえている。
「た、たすけ、たすけ、て」
震える声で懇願する男の右腕は遠く離れた場所で炭の塊となっていた。
「うぁぁ」
呻き声だけを漏らし、虚空を見る老人は、両腕が形容し難い何かに変質していた。例えるなら、鱗に覆われた蛸の足。
ここまでを見るに至って、アーレインは吐いた。ついさっきに語り合った楽しい空間から隔離された場所は、まさに地獄の臭いと景色に満たされている。
「フンgurunaxixixiix///アーbeーtueizeらー」
音とも声とも判断のできない反響が耳に届く。知らず、俺はコートの内側に手を隠し、シェロウは鉄棍を低く構える。
祭壇の如く燃え上がる遺跡の中央、何か、透明で粘液質な塊が伸び上がっていた。単細胞生物が分裂に身動ぎするような動作は、自然でありながら怖ろしく不気味に見える。その粘液の塊に、次第と色が発生してくる。粘液が肉となり、粘液が血液となる。形作る端からボロボロと崩れる造形は、死体から蛆が生まれる光景を連想させる。
「ふんぐるなxiふnぐrunあ///パッpえ//paッペ」
肉が固まり、血が噴出から循環に変わる。その何かを、最も速く理解したのは、先程まで吐いていたアーレインだった。
「あれがおそらく・・・罪人の、正体よ。本来なら本の中に潜むだけの、小さな魔力の集合体が、何の因果か召還術式に繋がったのよ」
罪人の正体とは、本そのものだった。
古書の中、血を混ぜたインクによって記された文字の配列に潜み、次なる悲劇を待ちわびていたらしい。正直、信じられない話だった。
今まで見た中で、あれほどおぞましいものを見た事はない。想像できないかもしれないが、俺にしてみれば、想像できないお前達が羨ましい。
俺の脳裏には、今も『あれ』が居る。
あの時が最初で最後だと願いたい。魔物ではない、原初の闇というものに剣を交えるのは。畏怖と嫌悪、そして絶望的なまでの恐怖を浴びながら戦ったあの瞬間は、今も思い出すたびに死ななかった事に安堵し、死ねなかった事に恐怖を抱いている。
咄嗟だった。まだ形成されていないはずの肉塊から、棘を供えた触手がアーレインを狙った時には、銃を抜いていた。
弾丸の尻を小さなハンマーが叩き、火花が散る。そこから引火した火薬が衝撃を放ち、銃から弾丸を飛翔させる。
理屈では解っていたが、撃ったと自覚したのは硝煙の香りを嗅いだ時だった。既に手の中では、白く煙を吐くシルバーの銃口が吐息として弾丸を吐き出し、敵の触手を撃ち砕いていた。
半ば本能的、鍛錬から筋肉が動き、神経が意識を置き去りに行動を促す。
続け様に撃ち出される銀の弾丸。刻印された魔術式が弾を爆裂させ、聖魔違わず駆逐を行う。原初レベルでの破壊の波動をばら撒き、触手の根元、本体の右上までが抉れている。
「どうやって逮捕すりゃいいもんか」
頬を冷や汗が流れた。よく解らないものに、よく解らないまま戦いを挑まなければならない現状に吐き気がする。
薬莢を捨て、手早く装弾する。今では呼吸より素早く行える動作の間にも、肉塊が肉塊でないものに変化を続けていく。
表現が難しい。人の形に肉の色をした粘土を捻って、それを何度も潰しては整形していくような過程。ぶちん、ぶちんと、大きく胎動するだけで、筋肉の繊維が千切れていくのだ。
気を失えたならどれだけ気分が楽になるか解らないものの、このまま死ねばあれに喰われるだろう。
それだけは絶対に嫌だ。
「・・・シェロウ、頭は無事か?」
「辛うじて」
辛うじてという割にははっきりとした口調をしている。精神がよっぽど頑丈なのか、精神の鍛錬もまた、センジュツに必要だったのか。
とにかく、こいつも戦えるなら、何故か勝てそうな気がした。
「あ、あば、ば」
呻き声と共に、肉が一つ何かを放り出した。その表面の肉片が剥げ落ちると、俺達の出会いを生んだ、あの男が立ち上がる。
「あれも、あの化け物の一部ってわけか」
「正確には、一部とされてしまった誰かだろう」
男が老いる。皴だらけの老人となって尚、その闘気は溢れ出ていく。世界の法則を乱す異形に、思わず吐き気がした。
「シェロウ、アーレインとあのジジィを頼めるか?」
「報酬は?」
まったく、いい肝の据わり方をしてやがる。
「女と酒、他には何がいる?」
「十分だ」
同時に走った。鉄棍を構えたシェロウが老人に襲い掛かり、俺は肉塊へ銃を向ける。
「連弾と陽光の牙よ穿て!」
手の中で魔術式を編む。火属性魔術『陽光の牙《ダグラニクト》』が、指先から炎の刃として飛翔していく。五指から放たれた刃が喰い込むも、媒体、魔力の総量、収束、どれもが不足している。肉塊が蠢くだけで、焼け爛れた部位が再生していく。このままだと消耗戦どころか、召還術式が完成してしまうわけか。
「おぉぉぉ!」
どこからか、光の矢が老人の脇へ突き刺さると同時、勝敗は決した。
咆哮と共に血飛沫が舞う。鉄棍を盾に紙一重で双剣を受け流すと同時、外套に隠れていた刃渡りの短い刀が、老人の首を刎ねていた。
同時に掌から魔術による炎が吹き上がる。肉片一つ残さず灰にする業火の収束より速く、今度は掌へ空気か収束していく。欠乏した酸素を吸気するように一気に。
「まさか」
思わす声が漏れる。
魔術的に説明するなら、相反する術式を続けて、効果を倍増するという技術だ。炎によって酸素が減り、大気圧が減れば、風はその空隙を埋める為に収束する。その収束に合わせて術式を発動させれば、同様の術式で倍化させられる。
額で何かが光ってすらいるようであった。それほど強く眦に力が在る。手の中で膨れ上がる風の術式によって集められた風の元素は、出口のないまま術式によって固められていく。
足止めに『陽光の牙』を放っていた俺へ、切羽詰った声が届く。
「ノクト!」
「アーレイン!無事か!」
「なんとかね!」
どうやら、光の矢による狙撃は彼女の手によるものらしい。
「どうするの!?だんだん大きく膨れてビキビキに反り立ってきてるけど!」
「わざわざ卑猥な言葉を選ぶな!」
「だって想像するでしょ!あれを見れば!」
こんな時でさえ口喧嘩できるんだから最高の女だな。
「一応、用意はできたが」
風の要素を凝縮し、オーラで緑に輝く球体だったものが、蠢き、何か不定形の生物のような存在として腕全体を這い回る。
その凝縮された魔力とも、新たに構築された生物とも解らないものを手に纏ったシェロウが、隣にまで歩いてきていた。反動によってか、腕が跳ねまわるように動いている。
もしくは、腕が侵蝕されるほどにおぞましい何かなのか。
「何か手でもあるのか?」
シェロウは青い顔のまま頷く。既に仙術とやらも限界らしい。顔から血の気は失せ、焦点が定まっていない。
「瞬間的にあの肉塊の構成を破砕する。その瞬間、核となっている本を狙えれば、あるいは」
「私も援護しようかな。あんまり役にはたたないだろうけど」
「分の悪い賭けだな」
銀の拳銃。撃鉄をゆっくり下ろす。
「最高じゃない?」
三人で笑う。もう誰もが、覚悟を決めていた。
「女と酒を奢れ」
「いくらでも」
「ベッドイン」
「そんな約束はせんぞ」
「馬鹿」
肉塊から、筋肉の束が射出された。人を狙う触手として、幾重にも絡んでいく。
真っ先に突進したシェロウへ多くが殺到するも、アーレインが薙ぎ払った光の剣によって、多くが焼失していく。
その間にも距離が詰まる。
アーレインの再詠唱より速く肉から第二陣が放たれる。硬く重たい筋肉の束が鞭のようにしなり、一撃ごとに地面を抉っていく。
放った銃弾がシェロウをカバーし、僅かだが道を開いた。
目前。そして矮躯が跳ねた。
魔術の束縛から解放された不定形が緑の槍へ変化し、一気に肉を抉り潰し、貫いていく。
「ノクトォォォ!」
不完全な制御から皮膚や肉の千切られるシェロウの怒声。そう焦るな。必ず当てる。
呼吸を止め、視線、腕、拳銃、全てが直線とし、乱れる射線がどこへ着弾するかを想像、予測。ぴたりと定める。
それらは、風の臭いを嗅ぎ分ける自分だけの技。
脳裏に浮かぶ想像のラインが、槍の抉った穴の先、見事に晒された本の中央へと伸びていく。
「いい腕だ。相棒」
銀の弾丸が螺旋を描き、宙を貫き、風を泳ぎ、空間を穿つ。
本に、弾丸が潰れ、衝撃が弾ける。
原初レベルの破壊波動が、原初の闇を駆逐した瞬間だった。
肉が飛び散り、蒸発し、霧散し、遂には、光の粒子と消える。彷徨う光の粒子が星空へ登っていき、やがては夜空へ消えた。
「れ、あ、れ?あれ?」
「うで、私の腕が」
驚きと戸惑いの声が、そこかしこから聞こえる。
人々の傷が消えていく。鱗や触手がぐずぐずの肉片として剥がれていき、それも光の粒子と消えた。不完全であったのが幸いし、この世界の理屈に従って正常な在り様に戻ったというわけだ。
「ねぇ!ノクト!ヤバい!」
「何がだ?痕跡も無くなり、本もこの通りだ」
穴の開いた本を片手に、俺は得意満面だ。実際に凄いだろ。
「シェロウが息してない!」
「何だと!?」
まぁ、最後まで騒ぎだったわけだが。
結論から言えば、シェロウは熱烈なアーレインの人工呼吸で息を吹き返した。どうも意識はあったそうだから、そのうち自発的に取り戻せたようであったが、結果オーライって事で。
事件はなんとか終結した。
――――――――――――――――――――――――
冬至の祝祭。司法領の数少ない祭事の中、人々は大いに飲み、楽しんでいた。両腕を包帯で覆われたシェロウと、俺は酒を酌み交わす。
「・・・旨い」
「だろう?今年一番の当たりだ」
高い葡萄酒を盃へ注ぎ、互いに飲む。これが別れの酒であるのは寂しくもあったが、奴も、次の目的地を見つけたらしい。
「盗品市で買った古文書を、錬金術師の総本山、統合院という所で解読して貰おうと思う」
シェロウの推測によると、それは発見されていない遺跡についての記述らしい。
「怪我が治るまでは居ろ。まだ女も紹介していない」
つい、そう言ってしまった。少しばかり別れが惜しいらしい。
「いや、今回は遠慮しておこう。これだけ報酬も貰ったんだ。さすがにもう甘えられない」
今回の案件を解決した褒賞の八割を、俺はシェロウへ渡した。しばらくは旅費に困る事はないだろう。
「そうか」
これ以上は無理強いになると、口を閉じ、酒を嚥下する。甘みの中に強い酒の香りが漂い、胸の奥まで熱くなるいい酒だった。
「縁があれば、また会う。司法領に寄る時は、必ず声をかける」
「必ずな」
そんな別れであっても、笑顔でいられたのは、互いにこれが最後とは思えなかったからだろう。陽気な音楽と共に踊る輪からアーレインが飛び出し、いきなり俺の腕をとった。
「踊れるでしょ?いこ!」
「ちょ、待て。俺はまだ話が」
「行って来い」
「ほらほら!」
シェロウを残し、強引に踊りの輪へ加えられる。
少しばかり気にはなったが、もう奴は人の波の外、座る姿は見えなかった。
「ありがとう」
そんな声も聞こえたが、まさかあのシェロウがそんな言葉を使うはずもないしな。
乱暴で荒っぽい独特のリズムに合わせて踊る。周囲の歓声で調子に乗った馬鹿猫が、ひときわスカートを派手に動かしてこけそうになる。
まるで羽のように鮮やかだが、揺れる尻尾がどうにも面白い。
「にゃによ?」
相当に酔っているのだろう。呂律が回っていない。
「私だってにゃー、話したい事があるにょよー」
ふらふらと踊りの輪から外れる。酔っ払い猫は足もおぼつかない様子のまま、荒い鼻息でベンチへ腰掛けた。踊りの輪から随分と離れたせいで、周囲は静かになっていた。
「あのにゃー、私はにゃー、にょくとの事が好きにゃんにゃよー」
要約。あのねー、私はねー、ノクトの事が好きだったんだよー。
沈黙。
「・・・本気だろうな?」
思わず聞き返していた。途端にアーレインの耳が激しく揺れた。
「そうにゃのよー。それで、どうにゃのー?」
言葉に詰まる。即座に答えないのは、自分の口が悪い事を自覚しているからだ。
「じゃなけりゃ、あんなヤバい場所から即座ににげるにぇしょー?」
「それはそう思うが」と言いかけたが、黙って掌を額へ当てた。
「正気の時に話せ」
そうでなければ、こちらとて本気の言葉を返せないだろうが。
互いに不器用なのだろうな、そう、理解した瞬間でもあった。
ぶつぶつと呟くと同時、彼女の身体が崩れ落ちた。魔術式で強制睡眠。本来は捕縛に使うのだが、今回は例外。
こういう話が素面の時じゃねえと失敗するってのは、実体験で知っている。
「まったく、順序もクソもねぇな」
少しばかり愉快になった俺は、アーレインを背負ったままシェロウの所に戻った。
戻ったが。
その時にはもう、シェロウはいなかった。
――――――――――――――――――――――――
いや、今更謝られても困るがな。どちらにしろ、あの夜にはいなくなっていたと思う。別れが辛いってのは、誰にだって言える事らしい。シェロウでさえな。
部屋には片付けられたソファーと共に、あの時に呑んだ銘柄と同じ葡萄酒が置かれていた。封もきらないまま、な。
あの馬鹿なりのメッセージだったんだろう。
今もあの酒は呑んでいないし、また会った時に開けようと思う。
話はこんな所だな。後半からは知ってただろうが。この酔っ払い猫。
結局は部屋に運んだ後、なし崩しであのまま居座りやがって。まったく、限度を知らない女だな。
・・・ベッドを二人で使っているから、まだソファーは空いてるって?
いい加減にしろ。あの野郎にそんな台詞ほざいたら叩き出すぞ。
それに、どうしてこんな時間に酒場に居るかだって?
少しは頭を使え。
ほら、これを見ても解らないか?
そうだ。今説明したばかりだろ?こんないい酒、呑まないでいるのは少しばかり難しかったが。
ほら、この足音のない気配で気付かないか?
まったく何年待たせやがったのか。何時の間にかグラスがもう一つ必要らしいな。
さて、それじゃ今度はお前の話を聞こうか。
俺とこいつの話?それは今度にしよう。長くなるからな。うるさい、茶化すな馬鹿猫。何が恥ずかしいか言ってみろ。
ふん。まぁ呑め。
それより、そっちの美人との出会いなんか、いい肴とは思わないか?
―――― fin ――――
09/11/08 09:30更新 / ザイトウ