U 私は貴女を知りたい
クロユリを街に送り届けた次の日、太陽がほぼ真上に来る時間。アタシはただひたすらに川で魚を獲っていた。一昨日、毒で眠っていたアタシが目を覚ました場所だ。
左手で獲った魚を入れる籠を持ち、右手で泳いでいる魚を鷲掴みにする。
昔、リッチに教えてもらった気配を消す魔法のおかげで、私が川の中を騒がしく進んでも魚が逃げることはない。私が簡単に習った程度では魔物や、恐らく人間に対しても効果は薄いのだが、魚や獣に対しては効果がある。
これでは狩りの腕も、野生の感が鈍ってしまうのも当たり前だなと。そう思ったところで、アタシが何かを改善するとかそういう事はなかった。
今ので何匹目だろう。かなりの数の魚を籠に入れた気がする。
昨日、家に帰ったアタシはひたすら睡眠を貪り、腹が減れば保存用の干し魚を食べるという怠惰な一日を過ごした。保存用だった干し魚を大量に消費してしまったものだから、その補充もかねて幾ら獲っても困ることはない……のではあるが、あまりに獲りすぎてしまっては良くないとリッチが――
「っ!?」
突然現れた人間の気配にはっとして振り向く。
「また、会いましたね。レアさん」
そこにいたのは長く白い髪が目立つ女。
「……また来たんだな。クロユリ」
「はい。ご迷惑でしたか?」
クロユリは満面の笑みをアタシに向けてくる。
この人間はアタシが怖くないのだろうか。あの程度の罠で死にかけるアタシの事が、小動物のように見えているのか。それとも単純に、アタシを気に入ったのか。
「いや、別に迷惑なんかじゃない」
そう言ってクロユリに背を向け、また魚を一匹鷲掴みにして籠に入れる。これで最後にしよう。
「レアさんは、魚を食べるんですか?」
もう一度振り向いて見ると、クロユリは木陰に腰を下ろしていた。アタシは彼女に近づいて目の前に立つ。それから腰を曲げてクロユリの耳元に顔を近づけて、唸るように低い声で囁いた。
「いいや、人間の肉も食べるかもしれないぞ?」
だが、脅しのようなアタシの言葉にクロユリは、
「私を食べるんですか?」
顔色一つ変えずに笑顔で言い返してきた。
そんなにアタシが怖くなかったのかと少し落ち込みそうになったが、顔には出さない。そして、アタシはクロユリから顔を離して魚の入った籠を前に出した。
「冗談だよ。アタシは魚が好きなんだ。今からこれを焼くけれど、アンタも食べるかい?」
「はい。是非、食べたいです。――ところで、私も昼ごはんにと思って持ってきたものがあるんです。パンと干し肉ですけど。食べますか?」
「……あぁ、せっかくだから貰っておこう」
その言葉を聞くとクロユリは腰に巻いてあった鞄を開けようとする。
「いや、待ってくれ。火は家でしか使えないんだ。アタシの家で食べないか」
☆
焼き上げた魚をクロユリに差し出す。アタシの作る焼き魚が人間の口に合うか、少し心配だったが、
「美味しいです」
笑顔で返すクロユリを見て、気に入ってくれたようでよかったと。そう安心した。
二人でアタシが獲って焼いた魚を一匹ずつ平らげると、次はクロユリが持ってきた干し肉とパンを机に広げた。
真っ先に薄く切り分けられている干し肉へと手を伸ばし、一切れつまんで口に放り込む。
懐かしい味が口の中に広がった。思い返せば、肉なんていつぶりだろう。もう何年も食べていなかった気がする。
「肉って、美味いんだな。あぁ、肉派になってしまいそうだ」
しかし、人間であるクロユリを家に上げて、昼食を一緒に食べている。これ以上彼女と親しくなっていいのだろうか。
正直、良くないと思う。
仲間がこの土地を去った今、このあたりに住まう魔物は知りうる限りではアタシだけ。男を手に入れた仲間達は別の場所に行ったはずだ。理由は中立であり、いつ反魔物を掲げるかわからないクロッカスの街の近くに住まう理由がないからだ。クロユリが親魔物の思想を強く持てば教団とやらに粛清されてしまうかもしれない。
それに、クロユリがアタシと長く接していれば魔物化する危険性だってある……はずだ。そういう事には詳しくないから、よくはわからないが、たぶん。
「肉派になっても、私の事は食べないで下さいよ?」
こっちが心配しているというのに、彼女はアタシを信頼しているのか、魔物の事に関して無知なのか。無垢な笑みをこちらに向けてくる。
「食べないよ。それに、人間の肉なんて好む魔物はそうそういないさ」
「そうなんですか?」
「あぁ。オスは夫候補だし、メスは魔物化すれば仲間だ。殺す理由なんて何処にもない」
「夫……候補。ですか」
「知っているかもしれないが、魔物はメスしかいない。だから子孫を残すためには人間の男が必要なんだよ。それに、好きな男の精液が最高の食料なんだと。昔一緒に暮らしていた仲間も男を見つけて出て行ったよ。今頃は毎日、夫とズッコンバッコンして幸せに暮らしてるんだろう」
「せっ……ずっこんばっこん……へ、へぇ、そうだったんですね。知りませんでした……」
クロユリは目を丸くして、口を引きつらせていた。
「一緒に住んでったリッチに聞いた話で、アタシもよくは理解していないがな」
リッチも、人間はこういう性的な話題は苦手とか言ってたかな。もう少し言葉を選ぶべきだったのかもしれないと、少し反省する。
「一緒に住んでいた魔物がいたんですね」
「そうだよ。魚の焼き方を教えてくれたのも仲間の一人でね。さっきも言ったが、アタシ以外の魔物は皆愛する相手を見つけて、とっくにこの地域からは立ち去ってるはずだ。北の山を越えれば魔物領もある。そっちのほうが安全だし、何かと便利だろうからな」
「レアさんはどうしてここに住み続けているんですか?」
どうしてか。そう聞かれても、アタシ自身にも明確な理由はわかっていない。
元々、皆がここに住み始めた理由も、魔物が少ないから男を捕まえる時のライバルも少ないという理由だった。
男を探さないアタシがこの場所に留まる理由は一体何だ。
「……アタシはこの場所が気に入ってるんだ。男にも、あまり興味がなくてな。仲間にも、魔物らしくないとよく言われたよ」
「女好き?」
「馬鹿っ。男に興味がないからって女好きと決めつけるんじゃない」
そういって、まだ残っている干し肉をつまんでで口に放り込む。クロユリもパンを口に入れていた。
この日は、日が暮れ始めるまでクロユリの質問に答えていたような気がする。
☆
「今日は暗くなる前にクロッカスに帰ります」
そう言ってレアの家を後にして、日が落ちる前に街までたどり着けた。このまま教団の支部へ向かい、用意された客室で報告書を書くことになっている。
今日の調査で、ヘルハウンドのレアが私に敵意を抱いていないと、それどころか好いてくれているのだと確信できた。私の質問全てに答えてくれたし、縄張り……いや、自宅にまで招いてくれたのだから私を敵視している事はないと推測できる。
魔物についても、今まで聞いていた凶暴で人の肉を食べると言う事が全て間違っている、という事実を知ることができた。クロッカスの魔物の情報が間違っていたのは、昔から魔物と接点がなかった事が影響しているのだろう。レアの言っている事を信じるなら、ではあるが。
レアは隙だらけだ。毒を盛るとか、後ろからナイフで刺すとか、教団の兵士にレアの場所を教えて待ち伏せさせるとか、どのような方法も取っても成功しそうで、殺そうと思えばいつでも殺せる。そういう風に思えた。
……いや、ナイフや毒で死なない可能性も高いから結局は何とも言えないのか。
「はぁ……」
これを、教団にはどう報告すればいいものか。
ヘルハウンドは腑抜けだと。嘘偽りなく報告すれば、明日明後日にでもレアは教団に討伐されてしまうだろう。
だが、レアと一日を過ごした私は彼女を殺せない。殺したくはないと思ってしまった。
仲間が結婚して出て行ってしまって、今は一人。静かな日常が好きで、種族的には肉食のはずなのに仲間と食べていた魚の味を好む。人間の私を無警戒で家に上げる。嘘ばかりついている私を疑いもせず、笑顔で魚をふるまってくれた。私が食べる前に干し肉を口にした彼女は、毒が盛られている可能性だって考えもしなかったのだろう。
――本当に魔物は人間を害する存在なのだろうか。
「ようやく帰ってきたのか。クロユリ」
支部のエントランスに入って手続きを済ませると、声をかけられた。声の主はあの腰巾着だった。別に怒っている様子もないし、私を探していたわけでもなさそうだ。ただ、見かけたから声をかけたというように見えた。
「……何だ。その目は」
この前の時は一段高いところから見下ろされていて気づかなかったが、私のほうが背が高いらしい。その事に気づいた私は、それを隠すことなく口にする。
「いや、あなたって私より背が低かったのね。と思って」
「ぐっ!? 無礼だぞ……」
彼も背の事に関しては気にしていたのだろう。だが、私に暴力を振るうわけでもなかった。昨日に比べて冷静にはなったと言う事だろう。私については司祭に何か考えがあるのかもしれないし、それを聞かされて大人しくなった可能性もある。
「ところで司祭様は? もうお休みになられたのかしら」
「司祭様は常々忙しいお方なのだ。それゆえ、貴様の書いた報告書を後で読まれる。部屋に報告書を置いておくから、それに書いて出せと伝えていただろう」
「お忙しい、ね。まぁ、わかってるわよ。今からそれを書きに部屋に戻るところだったのだもの」
「それだったら早く戻るといい。引き留めて悪かったな」
そういって、腰巾着は私に背を向けた。が、歩き出さずに止まっている。一体どうしたのかと思ったが、すぐに腰巾着は私に問を投げてきた。
「……貴様に、ヘルハウンドは殺せそうか?」
私は間髪入れずに即答する。
「わからない。難しい相手だわ」
腰巾着がこれをどう受け取ったかは知らないが、嘘をついたほうがいい場面で私は珍しく本心を口にした。
レアが聞いていた通りに凶暴で人の肉を好むような魔物だったのなら、いくらでもやりようはあった。しかし、少なくとも彼女は人間に害なす存在ではないし、そのレアを知りもせず殺せと言う人間のほうがよっぽど悪だ。
だから、私にレアを殺すことは難しい。
私の言葉を聞いたと思われる腰巾着は言葉を返さずに立ち去った。
何故本心を口にしてしまったのだろう。思わず口にしてしまったようにも感じられた。これは、私が本気でレアを殺したくないと思っている証拠なのかもしれない。
部屋に戻った私はまっすぐに机に向かいペンを手に取った。そして――
―報告書―
警戒心の強いヘルハウンドは再び罠の囮に使った干し肉に手を付ける気配もなく、悠々と森を闊している。
私も無理に近づくことはかなわず、魔法で遠距離からの観察を続けるのが精いっぱいであった。
凶暴なヘルハウンドの存在ゆえか他の魔物が潜んでいる身を潜めている可能性も――
―――
報告書に嘘八百を書き並べた。
『……アタシはこの場所が気に入ってるんだ』
ふと、レアの言葉を思い出した。
あの時が、一番悲しげな表情を見せていたような気がする。
私のように平気で嘘をつくような人間よりも、あの悲しげな表情を見せる魔物のほうがよっぽど人として出来ている。そのように思えてならなかった。
左手で獲った魚を入れる籠を持ち、右手で泳いでいる魚を鷲掴みにする。
昔、リッチに教えてもらった気配を消す魔法のおかげで、私が川の中を騒がしく進んでも魚が逃げることはない。私が簡単に習った程度では魔物や、恐らく人間に対しても効果は薄いのだが、魚や獣に対しては効果がある。
これでは狩りの腕も、野生の感が鈍ってしまうのも当たり前だなと。そう思ったところで、アタシが何かを改善するとかそういう事はなかった。
今ので何匹目だろう。かなりの数の魚を籠に入れた気がする。
昨日、家に帰ったアタシはひたすら睡眠を貪り、腹が減れば保存用の干し魚を食べるという怠惰な一日を過ごした。保存用だった干し魚を大量に消費してしまったものだから、その補充もかねて幾ら獲っても困ることはない……のではあるが、あまりに獲りすぎてしまっては良くないとリッチが――
「っ!?」
突然現れた人間の気配にはっとして振り向く。
「また、会いましたね。レアさん」
そこにいたのは長く白い髪が目立つ女。
「……また来たんだな。クロユリ」
「はい。ご迷惑でしたか?」
クロユリは満面の笑みをアタシに向けてくる。
この人間はアタシが怖くないのだろうか。あの程度の罠で死にかけるアタシの事が、小動物のように見えているのか。それとも単純に、アタシを気に入ったのか。
「いや、別に迷惑なんかじゃない」
そう言ってクロユリに背を向け、また魚を一匹鷲掴みにして籠に入れる。これで最後にしよう。
「レアさんは、魚を食べるんですか?」
もう一度振り向いて見ると、クロユリは木陰に腰を下ろしていた。アタシは彼女に近づいて目の前に立つ。それから腰を曲げてクロユリの耳元に顔を近づけて、唸るように低い声で囁いた。
「いいや、人間の肉も食べるかもしれないぞ?」
だが、脅しのようなアタシの言葉にクロユリは、
「私を食べるんですか?」
顔色一つ変えずに笑顔で言い返してきた。
そんなにアタシが怖くなかったのかと少し落ち込みそうになったが、顔には出さない。そして、アタシはクロユリから顔を離して魚の入った籠を前に出した。
「冗談だよ。アタシは魚が好きなんだ。今からこれを焼くけれど、アンタも食べるかい?」
「はい。是非、食べたいです。――ところで、私も昼ごはんにと思って持ってきたものがあるんです。パンと干し肉ですけど。食べますか?」
「……あぁ、せっかくだから貰っておこう」
その言葉を聞くとクロユリは腰に巻いてあった鞄を開けようとする。
「いや、待ってくれ。火は家でしか使えないんだ。アタシの家で食べないか」
☆
焼き上げた魚をクロユリに差し出す。アタシの作る焼き魚が人間の口に合うか、少し心配だったが、
「美味しいです」
笑顔で返すクロユリを見て、気に入ってくれたようでよかったと。そう安心した。
二人でアタシが獲って焼いた魚を一匹ずつ平らげると、次はクロユリが持ってきた干し肉とパンを机に広げた。
真っ先に薄く切り分けられている干し肉へと手を伸ばし、一切れつまんで口に放り込む。
懐かしい味が口の中に広がった。思い返せば、肉なんていつぶりだろう。もう何年も食べていなかった気がする。
「肉って、美味いんだな。あぁ、肉派になってしまいそうだ」
しかし、人間であるクロユリを家に上げて、昼食を一緒に食べている。これ以上彼女と親しくなっていいのだろうか。
正直、良くないと思う。
仲間がこの土地を去った今、このあたりに住まう魔物は知りうる限りではアタシだけ。男を手に入れた仲間達は別の場所に行ったはずだ。理由は中立であり、いつ反魔物を掲げるかわからないクロッカスの街の近くに住まう理由がないからだ。クロユリが親魔物の思想を強く持てば教団とやらに粛清されてしまうかもしれない。
それに、クロユリがアタシと長く接していれば魔物化する危険性だってある……はずだ。そういう事には詳しくないから、よくはわからないが、たぶん。
「肉派になっても、私の事は食べないで下さいよ?」
こっちが心配しているというのに、彼女はアタシを信頼しているのか、魔物の事に関して無知なのか。無垢な笑みをこちらに向けてくる。
「食べないよ。それに、人間の肉なんて好む魔物はそうそういないさ」
「そうなんですか?」
「あぁ。オスは夫候補だし、メスは魔物化すれば仲間だ。殺す理由なんて何処にもない」
「夫……候補。ですか」
「知っているかもしれないが、魔物はメスしかいない。だから子孫を残すためには人間の男が必要なんだよ。それに、好きな男の精液が最高の食料なんだと。昔一緒に暮らしていた仲間も男を見つけて出て行ったよ。今頃は毎日、夫とズッコンバッコンして幸せに暮らしてるんだろう」
「せっ……ずっこんばっこん……へ、へぇ、そうだったんですね。知りませんでした……」
クロユリは目を丸くして、口を引きつらせていた。
「一緒に住んでったリッチに聞いた話で、アタシもよくは理解していないがな」
リッチも、人間はこういう性的な話題は苦手とか言ってたかな。もう少し言葉を選ぶべきだったのかもしれないと、少し反省する。
「一緒に住んでいた魔物がいたんですね」
「そうだよ。魚の焼き方を教えてくれたのも仲間の一人でね。さっきも言ったが、アタシ以外の魔物は皆愛する相手を見つけて、とっくにこの地域からは立ち去ってるはずだ。北の山を越えれば魔物領もある。そっちのほうが安全だし、何かと便利だろうからな」
「レアさんはどうしてここに住み続けているんですか?」
どうしてか。そう聞かれても、アタシ自身にも明確な理由はわかっていない。
元々、皆がここに住み始めた理由も、魔物が少ないから男を捕まえる時のライバルも少ないという理由だった。
男を探さないアタシがこの場所に留まる理由は一体何だ。
「……アタシはこの場所が気に入ってるんだ。男にも、あまり興味がなくてな。仲間にも、魔物らしくないとよく言われたよ」
「女好き?」
「馬鹿っ。男に興味がないからって女好きと決めつけるんじゃない」
そういって、まだ残っている干し肉をつまんでで口に放り込む。クロユリもパンを口に入れていた。
この日は、日が暮れ始めるまでクロユリの質問に答えていたような気がする。
☆
「今日は暗くなる前にクロッカスに帰ります」
そう言ってレアの家を後にして、日が落ちる前に街までたどり着けた。このまま教団の支部へ向かい、用意された客室で報告書を書くことになっている。
今日の調査で、ヘルハウンドのレアが私に敵意を抱いていないと、それどころか好いてくれているのだと確信できた。私の質問全てに答えてくれたし、縄張り……いや、自宅にまで招いてくれたのだから私を敵視している事はないと推測できる。
魔物についても、今まで聞いていた凶暴で人の肉を食べると言う事が全て間違っている、という事実を知ることができた。クロッカスの魔物の情報が間違っていたのは、昔から魔物と接点がなかった事が影響しているのだろう。レアの言っている事を信じるなら、ではあるが。
レアは隙だらけだ。毒を盛るとか、後ろからナイフで刺すとか、教団の兵士にレアの場所を教えて待ち伏せさせるとか、どのような方法も取っても成功しそうで、殺そうと思えばいつでも殺せる。そういう風に思えた。
……いや、ナイフや毒で死なない可能性も高いから結局は何とも言えないのか。
「はぁ……」
これを、教団にはどう報告すればいいものか。
ヘルハウンドは腑抜けだと。嘘偽りなく報告すれば、明日明後日にでもレアは教団に討伐されてしまうだろう。
だが、レアと一日を過ごした私は彼女を殺せない。殺したくはないと思ってしまった。
仲間が結婚して出て行ってしまって、今は一人。静かな日常が好きで、種族的には肉食のはずなのに仲間と食べていた魚の味を好む。人間の私を無警戒で家に上げる。嘘ばかりついている私を疑いもせず、笑顔で魚をふるまってくれた。私が食べる前に干し肉を口にした彼女は、毒が盛られている可能性だって考えもしなかったのだろう。
――本当に魔物は人間を害する存在なのだろうか。
「ようやく帰ってきたのか。クロユリ」
支部のエントランスに入って手続きを済ませると、声をかけられた。声の主はあの腰巾着だった。別に怒っている様子もないし、私を探していたわけでもなさそうだ。ただ、見かけたから声をかけたというように見えた。
「……何だ。その目は」
この前の時は一段高いところから見下ろされていて気づかなかったが、私のほうが背が高いらしい。その事に気づいた私は、それを隠すことなく口にする。
「いや、あなたって私より背が低かったのね。と思って」
「ぐっ!? 無礼だぞ……」
彼も背の事に関しては気にしていたのだろう。だが、私に暴力を振るうわけでもなかった。昨日に比べて冷静にはなったと言う事だろう。私については司祭に何か考えがあるのかもしれないし、それを聞かされて大人しくなった可能性もある。
「ところで司祭様は? もうお休みになられたのかしら」
「司祭様は常々忙しいお方なのだ。それゆえ、貴様の書いた報告書を後で読まれる。部屋に報告書を置いておくから、それに書いて出せと伝えていただろう」
「お忙しい、ね。まぁ、わかってるわよ。今からそれを書きに部屋に戻るところだったのだもの」
「それだったら早く戻るといい。引き留めて悪かったな」
そういって、腰巾着は私に背を向けた。が、歩き出さずに止まっている。一体どうしたのかと思ったが、すぐに腰巾着は私に問を投げてきた。
「……貴様に、ヘルハウンドは殺せそうか?」
私は間髪入れずに即答する。
「わからない。難しい相手だわ」
腰巾着がこれをどう受け取ったかは知らないが、嘘をついたほうがいい場面で私は珍しく本心を口にした。
レアが聞いていた通りに凶暴で人の肉を好むような魔物だったのなら、いくらでもやりようはあった。しかし、少なくとも彼女は人間に害なす存在ではないし、そのレアを知りもせず殺せと言う人間のほうがよっぽど悪だ。
だから、私にレアを殺すことは難しい。
私の言葉を聞いたと思われる腰巾着は言葉を返さずに立ち去った。
何故本心を口にしてしまったのだろう。思わず口にしてしまったようにも感じられた。これは、私が本気でレアを殺したくないと思っている証拠なのかもしれない。
部屋に戻った私はまっすぐに机に向かいペンを手に取った。そして――
―報告書―
警戒心の強いヘルハウンドは再び罠の囮に使った干し肉に手を付ける気配もなく、悠々と森を闊している。
私も無理に近づくことはかなわず、魔法で遠距離からの観察を続けるのが精いっぱいであった。
凶暴なヘルハウンドの存在ゆえか他の魔物が潜んでいる身を潜めている可能性も――
―――
報告書に嘘八百を書き並べた。
『……アタシはこの場所が気に入ってるんだ』
ふと、レアの言葉を思い出した。
あの時が、一番悲しげな表情を見せていたような気がする。
私のように平気で嘘をつくような人間よりも、あの悲しげな表情を見せる魔物のほうがよっぽど人として出来ている。そのように思えてならなかった。
16/01/20 19:53更新 / YUKAnya
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