夜闇の奉仕者
「いっ、痛たたた……」
見習い騎士のウィルは、ボロボロの体を引きずって帰路についている。
彼の自宅は川沿いにある粗末な小屋で、罅割れた壁を修復するだけの余裕は彼には無い。
家も家なら持ち主も持ち主と言うべきか、ウィルの全身は涙と暴行により赤く腫れており、事情を知らない人間が彼の素肌を見たら疫病と誤解するだろう。
痣だらけの惨めな姿はほとんど到底騎士には見えず、むしろ奴隷と見紛う程だった。
だが顔にだけは傷がない事から加害者が人間、それも狡猾な人物だということが分かる。
「レイクの奴……すぐに僕に当たりやがって」
彼を毎日のように痛めつけるのは、彼の所属する小隊の隊長にあたる騎士レイクだ。
騎士レイクと言えば下卑た人物として騎士団の中では有名で、部下の手柄の横取りに始まり制圧した地での略奪や強姦、気に入らなければ部下を殴って発散する。
他にも彼の非道は枚挙に暇がない。
生真面目なウィルはレイクの標的となった様で、現在の騎士ウィルの小隊での位置は専らサンドバッグである。
「……うぐっ!」
唐突に体が揺らいで、土がむき出しの地面に膝をつく。
多くの腫れ物がある足はまるで捻じ曲がっている様で、この足でまともに歩けていただけで賞賛に値すべき事である。
それに鎧が重いせいもあったかもしれない、整備されていない道を歩くのには無理があったのだ。
「い、痛っ……うん?」
軟らかい土ながら地面に思い切りぶつけた膝の痛みに呻きながら起き上がると、彼は両手に違和感を感じた。
帰路に着く前になけなしの金を使い、落とさないように大切に持っていたものが、無い。
「ど、何処に……あぁ!」
起き上がって辺りを見渡すと、緩やかに流れる川に飲み込まれていく彼の夕食になるはずだった鳥肉が見えた。
もう随分と沈んでしまっている、鎧を着たままでは溺れてしまうし、鎧を脱いでいる間に川底に消えてしまうだろう。
結局、ウィルは口にすることの無かった鳥肉が川に食べられてしまう光景を眺めることしか出来なかった。
今晩、夕食は諦めよう。
口に入れることの無かった鳥肉の味は考えないようにして、自宅の小屋までたどり着く。
「ただいま。 ……はぁ、僕の晩御飯が……水ももう殆ど無いし」
ため息をつきながら自宅のドアを開いた。
装備を脱ぎ捨てて軋んだベッドに身を投げ、繕いだらけの毛布に包まるが、安らぎというものはまるで感じられない。
逆に、粗悪な毛布は傷口を撫で上げて却ってウィルを苛む。
「いけない、泣いちゃ駄目だ……こんな姿、誰にも見せられないよ」
空腹で更に惨めな気分になる前に眠りに付いてしまおう。
そう思った彼は、そのままベッドで目を閉じた。
人々が寝静まった夜。
漆黒の帳を隠れ蓑にして、怪異が蠢き出す。
例えば緩やかな川の水面。
朧な月光に弱々しくも照らされた夜の中、この川だけは光を吸収しているかのような漆黒。
例えば川の流れ。
普段は見習い騎士の住む小屋の方向から王都へと水を運んでいるこの川が、この時間に限り自らの使命に反逆するかのように上流へ流れていく。
例えば川底。
川底が有機的に蠢動し、投げ込まれていた鳥の肉を咥え、大小様々な歯が肉を引き千切る。
最後に分解された肉を飲み込むように川底がうねり、川底の食事は終了した。
例えば水面。
川から空中に滴るように、まるで重力が真逆に働いているように黒い液体が水面から湧き出て、更に先端に球体を形作っていく。
球体が青年の握り拳程の大きさになると先端の球体から黒い液体が退き、内部の白い球体が露出した。
白い球体には黒い模様が付いており、ギョロギョロと黒い模様を彼方此方に向け、傷だらけの小屋を向いた途端に動きを止めた。
川から滴った目玉が睨む先にいるのは獲物か、敵か……それはこの怪異にしか分からない。
そして、先端に眼球を持ったひも状の液体は蛇のようにうねり、川から小屋へと向かっていく。
……理解してはならない怪異、幸いにもそれを目にした者はいなかった。
「殴られた跡が痛い……喉も渇いた……み、水……」
結局、痛みと空腹と渇きの三重苦に眠りを妨害されてしまった。
家に残っている水はあと僅か。
だが川の水は綺麗なものではないし、浄水する手段もない。
結局、残りの水を使ってしまうと明日に支障が出る事を分かりながらも、体が勝手に水を求めてしまう。
硬いベッドから起き上がりふらふらと、ねじれた足がもつれない様に水の入った壷へ向かっていく。
最悪、壷をひっくり返してでも水を出そうと考えていたのだが、ウィルの目には予想に反したものが映った。
「あれ、水がある……それもこんなに沢山……?」
前日までに水を使い果たしてほとんど空っぽになっているはずの壷は、溢れる寸前までの水が満ちていたのである。
頭を捻りながらも、水で傷口を冷やし喉を潤す。
水はとても冷たくて痣の痛みは瞬く間に消えて行き、飲んでみるといつまでも喉に留まっているように錯覚するほど美味しかった。
空腹はどうにもならなかったが、痛みとも渇きとも無縁になったウィルは安心しきってベッドに向かい、再び夢の世界へ旅立つ。
この時のウィルはまさに幸福そのもので、それは彼の視界の狭さも含まれている。
もし彼の意識がはっきりしていたならば、ずっと続く視線と濡れた窓に気づいたのかもしれない。
いつの間にか壷に入っていた水は、とても効果のあるものだったらしい。
目が覚めると腫れ物と痛みは完全に消えていて、ねじれていた足は本来のしなやかな姿を取り戻していた。
怪我だけではなく、この不思議な水の効能はウィルの精神にも効果があったようだ。
普段のウィルの意識は、目覚めと同時に暴行への恐怖を呼び起こす。
だがこの日に限っては不幸な事など一つも頭に浮かぶことはなく、むしろ幸福感に包まれている。
「この水は凄いな、くれた人に会ったら御礼しなくちゃ」
そう思いながら、壷から汲んだ水を喉を鳴らしながら飲む。
食材切れの為に朝食は水だけだが、ここまで贅沢な食事は無かった。
その日は何事も上手く行った。
王都の全騎士を束ねる騎士団長が視察に来ていたおかげでレイクも蛮行を行わなかったし、自分の剣捌きを見て騎士団長が見込みがあると褒めてくれた。
今日は運勢も良いし、今度こそ鳥肉を買っても落とさないはずだ。
「……そうだ、水をくれた人にも御礼に鳥肉を食べてもらおう。 有難う、って言って渡そう」
良い事を思いついた、善は急げ、だ。
そう思って昨日より大きい鳥肉を購入し、籠に入れて帰路に着く。
このお肉にあの水、素晴らしい夕食になるに違いない。
鼻歌を歌いながら、暗い夜道を歩く。
今日は最高の一日だ、悪い事は起きる筈が無い。
「……よぉウィル、このレイク様に今日一日分殴らせろよ」
ウィルの考えは、暴力と共に刻まれている下種の声にかき消された。
……その後の蛮行の嵐を見た者はいない。
ただ一つ、水面に滴る眼球一つ以外は。
「あれ、ここ……は……?」
レイクの暴行を受けて気を失った後、ウィルは自宅で目を覚ました。
あのレイクがわざわざ自宅まで運ぶわけも無いし、他に誰か自分を助けてくれた人が居るのだろう。
自分の恩人を探して周囲に視界を向けると、彼の家にないはずのものに気がついた。
「何だ、このベッド? こんな良い物じゃなかったはずなのに……」
ウィルが寝ているベッドが前まであった硬い粗悪品ではなく、柔らかくて暖かい如何にも質の良い物に代わっている。
それだけでも奇妙なことではあったが、彼にはもう一つの事に気づく。
いつもは寝室に置いたりしない壷がベッドの真横に置いてあり、その上壷の中を覗くと中身が半分にまで減っていた。
全身の傷を冷やそうと、壷を近くに持ってきたのだろうか?
確かに、気絶するほどレイクに殴られたはずなのに今は痛みを感じない。
ウィルはこの奇異な状況についてあれこれ考えを巡らせて見たが、先に体が音を上げた。
「……喉、渇いたな」
どうやら自分は思っていたよりも長い時間眠っていたようで、意識がはっきりするのに比例して強い渇きを覚えているのが分かる。
丁度壷もすぐ傍にある事だしまずは喉を潤そう、そう思ったウィルは水を掬おうと壷に手を伸ばす。
……その時、手にヒヤリとしたものが触れた。
不意に来た冷たさに驚き、手が触れたものに視線を向ける。
それは奇怪にも黒い粘液を滴らせた一本の触手の姿をしており、部屋の扉を開けて部屋中央の壷に触れているのだから相当な長さがあるようだ。
だが、触手の先端にはゲイザーのような巨大な瞳が忙しなく蠢いていて、更に触手の途中には卵を飲み込んだ蛇のような、巨大な球体がある。
その触手と「目が合う」と、触手は驚いたのか内部の球体を全て吐き出して部屋の外へと逃げてしまった。
触手が吐き出した液体の一部が手にかかる。
手にかかった液体はとても冷たくて、舌で舐めるといつまでも喉に留まっているように錯覚するほど美味しかった。
その時、ウィルは壷に水を満たしてくれた存在を知った。
その次の日には怪我は完治しており、すぐに歩くことが出来た。
小屋の床には黒い粘液が残されており、玄関から出て川の方向にまで粘液は続いていた。
恐らくは、あの触手は川から来たのだろう。
レイクの闇討ちを受けて寝込んだ後、ウィルはすぐ小隊へ戻ることが出来た。
どうやら3日ほど寝たきりだったようだが、後遺症はおろか傷跡すらまるで無いとはあの水の効果は魔法染みている。
訓練が始まる前に、騎士レイクが死亡したと知らされた。
首を切り落とされて、彼の右手に握られた長剣と彼の首には黒い粘液がべったり纏わり付いていたという。
争った後こそあれど彼の長剣には一切の血が付着していなかった事から、戦闘より一方的な処刑に近かったのだろう。
当然彼の死を悲しむ者はおらず、むしろ暴虐が終わったことに感謝するものが大半だったのは想像に難くない。
レイクの次代の小隊長にはウィルが選ばれたようだ。
王都へと期間途中だった騎士団長が戻ってきて、格式に従ってウィルに部隊が与えられる式が執り行われた。
訓練を終えて家に帰ると、そこには昨日とは別の世界があった。
ベッドだけではなく家全ての家具が新品になっており、壁の罅割れもすっかり見当たらない。
当然、床の粘液は念入りに消されている。
「ご主人様、お帰りなさいませ」
そして、一番の違いは彼女だ。
扉を開けた途端、見知らぬ女性が箒を持ってゴミを集めていていたら誰だって驚くだろう。
「あなたは?」
「私は小隊長ウィル様にお仕えしている、リリと申します」
ウィルの質問に、リリと名乗る女性は笑顔を崩さないまま答える。
昨日までの彼はメイドを雇う金銭も無かったし、雇った記憶もないのだが……。
「どうして僕に仕えるの?」
「……美味しい鳥肉を下さったではありませんか」
その言葉でウィルは全てを察した。
さっきのリリの言葉の、お仕え『している』の意味も含めて、リリとの出会いも全てを思い出す。
「そっか、じゃあまず二人で鳥肉を食べよう……有難う、リリ」
そう言って、レイクの通り魔で当日に食べられなかった鳥肉を机に置く。
ウィルの言葉にリリは呆気に取られていたが、すぐに満面の笑みをウィルに見せた。
「ふふふ、どういたしまして。 ……ご主人様は良い人ですね。 私が誰かの首を真っ黒にする事は、あれで最後になるでしょう」
見習い騎士のウィルは、ボロボロの体を引きずって帰路についている。
彼の自宅は川沿いにある粗末な小屋で、罅割れた壁を修復するだけの余裕は彼には無い。
家も家なら持ち主も持ち主と言うべきか、ウィルの全身は涙と暴行により赤く腫れており、事情を知らない人間が彼の素肌を見たら疫病と誤解するだろう。
痣だらけの惨めな姿はほとんど到底騎士には見えず、むしろ奴隷と見紛う程だった。
だが顔にだけは傷がない事から加害者が人間、それも狡猾な人物だということが分かる。
「レイクの奴……すぐに僕に当たりやがって」
彼を毎日のように痛めつけるのは、彼の所属する小隊の隊長にあたる騎士レイクだ。
騎士レイクと言えば下卑た人物として騎士団の中では有名で、部下の手柄の横取りに始まり制圧した地での略奪や強姦、気に入らなければ部下を殴って発散する。
他にも彼の非道は枚挙に暇がない。
生真面目なウィルはレイクの標的となった様で、現在の騎士ウィルの小隊での位置は専らサンドバッグである。
「……うぐっ!」
唐突に体が揺らいで、土がむき出しの地面に膝をつく。
多くの腫れ物がある足はまるで捻じ曲がっている様で、この足でまともに歩けていただけで賞賛に値すべき事である。
それに鎧が重いせいもあったかもしれない、整備されていない道を歩くのには無理があったのだ。
「い、痛っ……うん?」
軟らかい土ながら地面に思い切りぶつけた膝の痛みに呻きながら起き上がると、彼は両手に違和感を感じた。
帰路に着く前になけなしの金を使い、落とさないように大切に持っていたものが、無い。
「ど、何処に……あぁ!」
起き上がって辺りを見渡すと、緩やかに流れる川に飲み込まれていく彼の夕食になるはずだった鳥肉が見えた。
もう随分と沈んでしまっている、鎧を着たままでは溺れてしまうし、鎧を脱いでいる間に川底に消えてしまうだろう。
結局、ウィルは口にすることの無かった鳥肉が川に食べられてしまう光景を眺めることしか出来なかった。
今晩、夕食は諦めよう。
口に入れることの無かった鳥肉の味は考えないようにして、自宅の小屋までたどり着く。
「ただいま。 ……はぁ、僕の晩御飯が……水ももう殆ど無いし」
ため息をつきながら自宅のドアを開いた。
装備を脱ぎ捨てて軋んだベッドに身を投げ、繕いだらけの毛布に包まるが、安らぎというものはまるで感じられない。
逆に、粗悪な毛布は傷口を撫で上げて却ってウィルを苛む。
「いけない、泣いちゃ駄目だ……こんな姿、誰にも見せられないよ」
空腹で更に惨めな気分になる前に眠りに付いてしまおう。
そう思った彼は、そのままベッドで目を閉じた。
人々が寝静まった夜。
漆黒の帳を隠れ蓑にして、怪異が蠢き出す。
例えば緩やかな川の水面。
朧な月光に弱々しくも照らされた夜の中、この川だけは光を吸収しているかのような漆黒。
例えば川の流れ。
普段は見習い騎士の住む小屋の方向から王都へと水を運んでいるこの川が、この時間に限り自らの使命に反逆するかのように上流へ流れていく。
例えば川底。
川底が有機的に蠢動し、投げ込まれていた鳥の肉を咥え、大小様々な歯が肉を引き千切る。
最後に分解された肉を飲み込むように川底がうねり、川底の食事は終了した。
例えば水面。
川から空中に滴るように、まるで重力が真逆に働いているように黒い液体が水面から湧き出て、更に先端に球体を形作っていく。
球体が青年の握り拳程の大きさになると先端の球体から黒い液体が退き、内部の白い球体が露出した。
白い球体には黒い模様が付いており、ギョロギョロと黒い模様を彼方此方に向け、傷だらけの小屋を向いた途端に動きを止めた。
川から滴った目玉が睨む先にいるのは獲物か、敵か……それはこの怪異にしか分からない。
そして、先端に眼球を持ったひも状の液体は蛇のようにうねり、川から小屋へと向かっていく。
……理解してはならない怪異、幸いにもそれを目にした者はいなかった。
「殴られた跡が痛い……喉も渇いた……み、水……」
結局、痛みと空腹と渇きの三重苦に眠りを妨害されてしまった。
家に残っている水はあと僅か。
だが川の水は綺麗なものではないし、浄水する手段もない。
結局、残りの水を使ってしまうと明日に支障が出る事を分かりながらも、体が勝手に水を求めてしまう。
硬いベッドから起き上がりふらふらと、ねじれた足がもつれない様に水の入った壷へ向かっていく。
最悪、壷をひっくり返してでも水を出そうと考えていたのだが、ウィルの目には予想に反したものが映った。
「あれ、水がある……それもこんなに沢山……?」
前日までに水を使い果たしてほとんど空っぽになっているはずの壷は、溢れる寸前までの水が満ちていたのである。
頭を捻りながらも、水で傷口を冷やし喉を潤す。
水はとても冷たくて痣の痛みは瞬く間に消えて行き、飲んでみるといつまでも喉に留まっているように錯覚するほど美味しかった。
空腹はどうにもならなかったが、痛みとも渇きとも無縁になったウィルは安心しきってベッドに向かい、再び夢の世界へ旅立つ。
この時のウィルはまさに幸福そのもので、それは彼の視界の狭さも含まれている。
もし彼の意識がはっきりしていたならば、ずっと続く視線と濡れた窓に気づいたのかもしれない。
いつの間にか壷に入っていた水は、とても効果のあるものだったらしい。
目が覚めると腫れ物と痛みは完全に消えていて、ねじれていた足は本来のしなやかな姿を取り戻していた。
怪我だけではなく、この不思議な水の効能はウィルの精神にも効果があったようだ。
普段のウィルの意識は、目覚めと同時に暴行への恐怖を呼び起こす。
だがこの日に限っては不幸な事など一つも頭に浮かぶことはなく、むしろ幸福感に包まれている。
「この水は凄いな、くれた人に会ったら御礼しなくちゃ」
そう思いながら、壷から汲んだ水を喉を鳴らしながら飲む。
食材切れの為に朝食は水だけだが、ここまで贅沢な食事は無かった。
その日は何事も上手く行った。
王都の全騎士を束ねる騎士団長が視察に来ていたおかげでレイクも蛮行を行わなかったし、自分の剣捌きを見て騎士団長が見込みがあると褒めてくれた。
今日は運勢も良いし、今度こそ鳥肉を買っても落とさないはずだ。
「……そうだ、水をくれた人にも御礼に鳥肉を食べてもらおう。 有難う、って言って渡そう」
良い事を思いついた、善は急げ、だ。
そう思って昨日より大きい鳥肉を購入し、籠に入れて帰路に着く。
このお肉にあの水、素晴らしい夕食になるに違いない。
鼻歌を歌いながら、暗い夜道を歩く。
今日は最高の一日だ、悪い事は起きる筈が無い。
「……よぉウィル、このレイク様に今日一日分殴らせろよ」
ウィルの考えは、暴力と共に刻まれている下種の声にかき消された。
……その後の蛮行の嵐を見た者はいない。
ただ一つ、水面に滴る眼球一つ以外は。
「あれ、ここ……は……?」
レイクの暴行を受けて気を失った後、ウィルは自宅で目を覚ました。
あのレイクがわざわざ自宅まで運ぶわけも無いし、他に誰か自分を助けてくれた人が居るのだろう。
自分の恩人を探して周囲に視界を向けると、彼の家にないはずのものに気がついた。
「何だ、このベッド? こんな良い物じゃなかったはずなのに……」
ウィルが寝ているベッドが前まであった硬い粗悪品ではなく、柔らかくて暖かい如何にも質の良い物に代わっている。
それだけでも奇妙なことではあったが、彼にはもう一つの事に気づく。
いつもは寝室に置いたりしない壷がベッドの真横に置いてあり、その上壷の中を覗くと中身が半分にまで減っていた。
全身の傷を冷やそうと、壷を近くに持ってきたのだろうか?
確かに、気絶するほどレイクに殴られたはずなのに今は痛みを感じない。
ウィルはこの奇異な状況についてあれこれ考えを巡らせて見たが、先に体が音を上げた。
「……喉、渇いたな」
どうやら自分は思っていたよりも長い時間眠っていたようで、意識がはっきりするのに比例して強い渇きを覚えているのが分かる。
丁度壷もすぐ傍にある事だしまずは喉を潤そう、そう思ったウィルは水を掬おうと壷に手を伸ばす。
……その時、手にヒヤリとしたものが触れた。
不意に来た冷たさに驚き、手が触れたものに視線を向ける。
それは奇怪にも黒い粘液を滴らせた一本の触手の姿をしており、部屋の扉を開けて部屋中央の壷に触れているのだから相当な長さがあるようだ。
だが、触手の先端にはゲイザーのような巨大な瞳が忙しなく蠢いていて、更に触手の途中には卵を飲み込んだ蛇のような、巨大な球体がある。
その触手と「目が合う」と、触手は驚いたのか内部の球体を全て吐き出して部屋の外へと逃げてしまった。
触手が吐き出した液体の一部が手にかかる。
手にかかった液体はとても冷たくて、舌で舐めるといつまでも喉に留まっているように錯覚するほど美味しかった。
その時、ウィルは壷に水を満たしてくれた存在を知った。
その次の日には怪我は完治しており、すぐに歩くことが出来た。
小屋の床には黒い粘液が残されており、玄関から出て川の方向にまで粘液は続いていた。
恐らくは、あの触手は川から来たのだろう。
レイクの闇討ちを受けて寝込んだ後、ウィルはすぐ小隊へ戻ることが出来た。
どうやら3日ほど寝たきりだったようだが、後遺症はおろか傷跡すらまるで無いとはあの水の効果は魔法染みている。
訓練が始まる前に、騎士レイクが死亡したと知らされた。
首を切り落とされて、彼の右手に握られた長剣と彼の首には黒い粘液がべったり纏わり付いていたという。
争った後こそあれど彼の長剣には一切の血が付着していなかった事から、戦闘より一方的な処刑に近かったのだろう。
当然彼の死を悲しむ者はおらず、むしろ暴虐が終わったことに感謝するものが大半だったのは想像に難くない。
レイクの次代の小隊長にはウィルが選ばれたようだ。
王都へと期間途中だった騎士団長が戻ってきて、格式に従ってウィルに部隊が与えられる式が執り行われた。
訓練を終えて家に帰ると、そこには昨日とは別の世界があった。
ベッドだけではなく家全ての家具が新品になっており、壁の罅割れもすっかり見当たらない。
当然、床の粘液は念入りに消されている。
「ご主人様、お帰りなさいませ」
そして、一番の違いは彼女だ。
扉を開けた途端、見知らぬ女性が箒を持ってゴミを集めていていたら誰だって驚くだろう。
「あなたは?」
「私は小隊長ウィル様にお仕えしている、リリと申します」
ウィルの質問に、リリと名乗る女性は笑顔を崩さないまま答える。
昨日までの彼はメイドを雇う金銭も無かったし、雇った記憶もないのだが……。
「どうして僕に仕えるの?」
「……美味しい鳥肉を下さったではありませんか」
その言葉でウィルは全てを察した。
さっきのリリの言葉の、お仕え『している』の意味も含めて、リリとの出会いも全てを思い出す。
「そっか、じゃあまず二人で鳥肉を食べよう……有難う、リリ」
そう言って、レイクの通り魔で当日に食べられなかった鳥肉を机に置く。
ウィルの言葉にリリは呆気に取られていたが、すぐに満面の笑みをウィルに見せた。
「ふふふ、どういたしまして。 ……ご主人様は良い人ですね。 私が誰かの首を真っ黒にする事は、あれで最後になるでしょう」
18/09/20 17:56更新 / ナコタス