発見されることのなかった手記
私が思うに、人間にとって最大の幸福は無知なことではないだろうか。
知ってはならない領域を知ってしまった人間に憩いは永久に訪れず、意識のあるときは幻覚を通して、意識のないときは夢を通して、絶えず深遠と破滅が手招きをするのである。
その点、主神でも魔王でもない、偉大なる古きものの存在が公にされていないのは、主神の、または魔王の最大の加護なのかもしれない。
私は今、崩れつつある精神を麻薬と酒に支えられながらこの手記を書いている。
女の命とも言える髪はくしゃくしゃに乱れ、かつての美しい髪を束ねていた髪留めも酒欲しさに手放した。
そうまでして得た酒や薬も、ほとんど全て飲み干してしまった。
今や私にとっては、机の上にある最後の一本が唯一の命綱になるため、飲み尽くす前にこの手記を書き上げなければならない。
よって、走り書きとなってしまうことには目を瞑って貰いたい。
また、書き終わり次第毒を飲んで苦悩から解放される手筈のため、これを読んでいる貴君の質問に答えることもできない。
この手記を発見した貴君は、この手記を公表する前に、この手記の一部を破り捨てて灰にすべきである。
この手記の内容はあらゆる言語に訳されて、世界中の全ての人々への警鐘となる必要があるが、手記を読んだ人間が私の二の舞にならないために、有害な情報は削除されなければならない。
炎に放り込む部分は、貴君の、または貴君が最も信頼する人間や組織の良心に一任しよう。
私がこの手記を書くにあたり、まずは私自身について書き記さねばならないだろう。
私はしがない傭兵で、要人警護や治安維持を行う組織に所属していた。
両親を早くに亡くし孤児となった私は、ある冒険者に拾われて育てられたのだ。
彼こそが私の所属する組織の構成員であり、私も組織の一員となるのはごく自然なことだったに違いない。
最も、学のない私は、その男に会わずとも遅かれ早かれ武力を生業にしていただろうが。
傭兵稼業は死と隣り合わせだったが、元より幼子の内に野垂れ死にするはずだった私は、特段生への執着など無かった。どうせ失うはずだった命なのだから。
それ故に死を恐れなかった私は、いつしか組織の中で有数の戦士となっていった。
……これを読んでいる貴君は、この手記に書かれている勇猛な戦士と、この手記を書いたであろう乞食じみた哀れな女との間に関係性を見出せないかもしれない。
くれぐれも、酒と薬に溺れた哀れな気違いの妄想だと思い込まないで頂きたい。
私の過去の証明として、机の引き出しに、私が国王より授かった勲章を入れておく。
私が全てを失った日。
あの日の事を忘れたことは一時たりとも無く、現在でも鮮明に思い出せる。
……というと若干語弊があるか。
どれだけ酒に溺れても薬漬けになっても、あの日のことは忘れたくても忘れることができないのである。
その日は、護衛を依頼してきた男と共に、洞窟探索を行っていた。
男の言う事を全て信じるならば、外世界からの来訪者が欲しがっている鉱物がその洞窟にあるのだという。
その来訪者とやらと諍いを起こせば確実に王国は壊滅するので、帰っていただくための手土産を採取する、とのことだ。
その言葉が真実かはともかく──今の私は、その言葉に一切の偽りが無いと知ってしまったのだが──私は、自慢の大剣とランタンを手に、洞窟へ赴いたのである。
今までにも、地質調査や鉱脈探索の護衛任務で何箇所もの洞窟に行ったことがあるので、洞窟探索はお手の物だった。
だが、その日向かった洞窟は、私の知る洞窟とは何もかもが違っていた。
通常、空気の篭りやすい洞窟内部では臭いで獣の位置を割り出すことができる。
だがその洞窟には、私が今まで嗅いだ事の無い、耐え難い異臭が充満しており、獣の類は、臭いから逃げるように、洞窟の出口付近にしか棲息していなかった。
その臭いは大きく分けて二種類あり、一つは岩を溶かしたような、溶岩の臭いが微かに感じられる。
そしてもう一つは、洞窟という環境では絶対に有り得ない、醜悪な魚の臭いだった。
上でも述べたとおり、臭いは強力かつ不快極まるもので、奥に進むにつれて、悪臭は意識すら揺さぶる程になっていた。
その強烈な臭いが私達にもたらした影響は大きく、私は大剣を杖代わりにしてやっと歩けるまでに気力を奪われていた。
男の方はもっと深刻で、異臭で頭をやられてしまったらしく、持参していた鉄製の円筒状のものと一人で会話をしだしたのである。
男が円筒を友人として紹介してくれたが、男の頭の中では、円筒の中には友人の頭が入っていて、男とは一種の催眠術を用いて意思疎通を行うのだという。
男の戯言──少なくとも当時はそう思っていた──には耳を貸さずに歩き続けていくと、洞窟の異常性は臭いだけではない事が判明した。
洞窟の壁の四方八方には丁度人間が一人通れる程度の穴が無数に穿たれ、光の届かないところへ続いている。
穴の淵は溶かされた様な跡になっており、これが岩を溶かした臭いの発生源であることは疑いようがない。
しかし、この一帯の穴は焼ききられてから時間が経って全て冷え切っており、まだ岩を溶かした臭いがするということは、高熱を用いた穿孔が未だに行われていることの証明でもある。
また、その穴の中に光をかざすと、複数の道に分岐しているものがほとんどで、どうやらこの洞窟は蟻の巣のような複雑な住居になっているようだ。
更に不可解なことに、臭いが強力になって立ち入る人間が居そうも無いところになってから、多くの冒険者の遺品が発見されたのである。
そのどれもが戦った痕跡がなく、兜などの頭部装備ばかり発見されるため、犠牲者は奇襲で頭部を切断されたのではないか、と推測できた。
魔王が変わってから魔物は人間を殺傷することはほぼ無くなったため、旧魔王世代の産物なのかと思うと、装備の彫刻から、つい最近作られているであろう装備も多くあった。
転がる無数の兜に、断頭台を想像しながら洞窟の中を進んでいくと、ふと壁に何かが彫られていることを発見した。
王国で使われている言語ではなかったので、学の無い私にはそれが言語なのか、暗号なのか、ただの落書きなのかの区別はつかない。
だが、男の方は理解できたようで、壁に彫られているものを目にするや否や、壁に張り付くように解読を始めた。
洞窟には鉱石の採取に来たはずなのだが、まさか熱心に壁を睨んでいる依頼人を引っ張っていく訳にもいかないので、地面に腰を下ろして体を休めることにした。
身体は疲労を訴えていたいたが、悪臭のため眠りにつけるはずもなくただただ男が壁の文字を解読しているのを眺めていた時に、異変は起こった。
自身の背中を預けていた壁、そのすぐ隣が熱を帯びたと思ったら一瞬にして溶け落ちて、中から女とも、烏賊ともつかぬ名状しがたい存在が現れたのである。
彼女の体には粘液を滴らせた触手が巻き付いており、触手が身じろぎする度にぐちゅぐちゅと水音が響く。
足と呼べる部位は見当たらず、代わりに膜が張った複数の触手を動かして、じっくりとこちらに近寄ってくる。
私は、咄嗟の襲撃に対して身動き一つ取れなかった。
彼女──恐らくは、魔王に仕える魔物娘達とは根本的に異なる存在──がこちらの頬を撫で回せるような場所に来るまで、指一本動かすことができなかったのである。
動くことのできない私を嘲るように、ゆっくりと触手が四肢に絡み付いていく。
体を締め付けられる恐怖の中、私の耳には、未知の脅威が訪れた事にも気づかない、狂気に沈んだ男の声が響く。
「マインドフレイア……地を穿つ魔……Shudde-M'ellに率いられ……G'Harneより……テレパシーで犠牲者を誘導し……」
※注釈:無意味な羅列と思わしきものは、発音を聞いたまま表記している
男の解読した文章は、無意味としか思えない音の羅列がいくつも並んでいたが、一つだけ私にも理解できた部分があった。
テレパシー。
恐らくは、気づかない内に彼女に精神に干渉されて、ここまでおびき寄せられてきたのだろう。
私が操られていたのはいつからだ?兜を発見したところか?穴を見つけたところか?
あるいは、洞窟に入るずっと前から?私だけではなく、この男もか?
……その考えの結論は出なかった。
私の思考を中断するように、目の前の魔物は耳元まで顔を近づけて、こう囁き掛けてくる。
「永久に横たわれるものは死せずして、奇異なる永劫のもとには死すら死滅せん」
彼女から告げられた謎めいた一文。
しかし、私がこの一文を正常な脳で思考することは永久になかった。
彼女が掲げた両手に追従するように伸びた触手が、私に向かってきたのである。
魔物のテレパシーによる金縛りで身動きができない中、私はこの触手に首を千切られると思い死を覚悟した。
普段は死ぬことに対する恐怖など微塵も無いのに、この瞬間に限っては、思わず目を瞑ってしまう。
……今思い返すと、あの時に恐れていたのは死ではなく、魔物娘の……マインドフレイアの手中に落ちることを恐れていたのかもしれない。
全く未知の相手に対して、こいつの手に落ちるよりは死の方が救いがあると思ったのである。
だが、私の予想に反して触手は首を掠りもせず、私の頬を這うようにして……耳に向かってきた。
ひっ、という私の悲鳴が、ちゃんと口から出たのかは分からない。
マインドフレイアの術中にあったのだから、多分声は出せなかったのだろう。
触手は耳まで来ると、一気に耳の穴に潜りこんで来た。
想像していたような苦痛は感じず、ただただ恐怖と不快感が増幅していく。
粘液を滴らせて、鼓膜まで近づく触手のぞわぞわした感触に背筋を凍らせてると、マインドフレイアは笑みを浮かべて触手を一度停止させ……。
一気に突き刺した。
耳を突き破った触手が脳に軽く触れるだけで、凄まじい感触が襲ってくる。
ただし、不快感は一切感じない。
一切消えうせた不快感の代わりに、脳を触手が撫で上げる度に、今度は意識が溶ける様な快楽が生まれる。
左右の耳から脳に到達した触手の先端が軽く動くだけで身体がびくんと跳ねて、口から叫び声と唾液が溢れる。
触手の先端が2,3往復すると、味わった事の無い快楽と同時に、両足に温かい感触を感じた。
……それが失禁していたことに気づいたのは後に思い返した時になるのだが。
そのまま程なくしてガクガクと足が震えて、力なく地面に座り込む。
私がケダモノのように四肢を地面に付けた後も、触手は脳を愛撫し続け、その度に私の口からは獣の絶叫が上がる。
抗いようのない快楽に対して、脳は即座に絶頂を示した。
思考が眩み、全身の身体が一気に抜けて倒れ伏してもねちっこい触手は休むことなく耳を犯し続ける。
絶頂を繰り返す内に平常時と絶頂の区別すらできなくなり、両手は私の意識を離れて身体を慰めに……。
その狂宴は、いつまでも、私の意識が途切れても続いた。
散々脳をこねくり回された私の意識が再び覚醒した時、全ては霧のように無くなっていた。
私を弄び続けたマインドフレイアも、依頼人の男も、壁の彫刻も存在しなかった。
落ちたままの大剣を拾い上げて、杖代わりにして立ち上がった時に、誰も居るはずの無い空間で、頭に声が聞こえてきた。
「お嬢さん、お嬢さん。ここですよ、円筒です」
荒い吐息を整えながら地面を見回すと、確かに男が持っていた円筒が転がっていた。
耳からは音は聞こえてこない。男の言葉通り、テレパシーや催眠術の類で意思疎通をしているようだ。
どうやら、前の持ち主が居なくなったので次の会話相手に私を選んだらしい。
そこまで考えると、あの円筒は私が気絶した後や男の行方を知っているかもしれない、と思い、声に出して尋ねてみる。
すると、円筒はこう返答してきた。
「莫迦め、あの男は死んだわ」
実際のところ、そこからの詳しい記憶は無い。
ただ、円筒を踏みつけて破壊し、洞窟の中を彷徨いながら、臭いの弱い方を目指して逃げ出したということは朧ながら覚えている。
しかし、洞窟から逃げ帰っても私への脅威は終わったわけではなく、むしろそこからが真の苦痛だった。
洞窟でマインドフレイアから受けた人外の快楽を知ってしまった身体は疼き続け、愛液は垂れ流しに近い状態にまで成り果てた。
それだけに留まらず、組織の構成員の若い男を見るだけで理性は抑圧されてしまうようになった。
そして、気が付いた時には、私を孤児から戦士に育て上げた恩師の男の上で私は腰を振っていた。
私は組織に居場所を失い、罪の意識と身を焦がす肉欲を忘れるために私は酒と薬に溺れ、私の財産は全て、マインドフレイアに埋め込まれた魔物じみた性を誤魔化す一時凌ぎに消えていった。
そして……マインドフレイアが私に植え付けたものがもう一つある。
それは、醜悪な神を初めとする、この世界の真理。
主神でも、魔王でもない、邪神という曖昧な言葉に慈悲深くも隠された、知った者を狂わせずにはおかない、余りにも残酷な真実。
それを知ってしまった私には、無知という薄いヴェールを剥がしてしまった私にはこの世界の目に映るもの全てが有害なものとなってしまう。
それさえ無ければ、知る事さえなければ!
人間としては無理でも、せめて魔物娘として生きられたものを!
あの時のマインドフレイアの謎めいた言葉も、今なら意味が分かるような気がする。
……そろそろ酒が切れる。この手記も書き上げなければならない。
ここ数日、ずっと同じ夢を見る。私が洞窟に再び赴き、マインドフレイアに脳を弄られる夢だ。
夢の中では悪臭を不快とは思わず、むしろ母の胎を想起させる安心感があった。
臭いが強くなってくると、妨げにならぬように兜を脱ぎ捨てて、彼女達に脳を弄ばれる事を待ち望みながら、更に奥へと進んでいく。
夢の中で会ったマインドフレイアは、私を温かく迎え入れた。
私は彼女達と同じ存在に生まれ変わり、偉大なる『C』を讃え、洞窟の壁を溶かして人間をテレパシーで呼び込み……。
いや、私の夢はもういいだろう。
……幻聴がする。ぬらぬらと粘液をまとわりつかせた触手で床を歩く音が。
洞窟に住んでいるシュド=メルの娘達が、こんな宿にくる筈が無い。
……ま、窓から!窓から!
そんな、まさか!この魚の臭いは……!
「……お母様、帰って来ない子が居たので、こちらから迎えに行ってきましたわ」
「……それはもう、大喜びでしたわ。あの子、もう夫を手篭めにしてましたわ」
「……ええ。 彼女の手記、全て暖炉に放り込みました」
「分かっています、まだ星辰は正しくない。それまで人間達にも、他の魔物達にも知られるわけにはいかない」
「当然、私達の悲願が叶った世界にはユゴスからの外来者なんて必要ない」
「……全ては、偉大なる古きもののために、大いなる『C』のために、ですよね?お母様」
知ってはならない領域を知ってしまった人間に憩いは永久に訪れず、意識のあるときは幻覚を通して、意識のないときは夢を通して、絶えず深遠と破滅が手招きをするのである。
その点、主神でも魔王でもない、偉大なる古きものの存在が公にされていないのは、主神の、または魔王の最大の加護なのかもしれない。
私は今、崩れつつある精神を麻薬と酒に支えられながらこの手記を書いている。
女の命とも言える髪はくしゃくしゃに乱れ、かつての美しい髪を束ねていた髪留めも酒欲しさに手放した。
そうまでして得た酒や薬も、ほとんど全て飲み干してしまった。
今や私にとっては、机の上にある最後の一本が唯一の命綱になるため、飲み尽くす前にこの手記を書き上げなければならない。
よって、走り書きとなってしまうことには目を瞑って貰いたい。
また、書き終わり次第毒を飲んで苦悩から解放される手筈のため、これを読んでいる貴君の質問に答えることもできない。
この手記を発見した貴君は、この手記を公表する前に、この手記の一部を破り捨てて灰にすべきである。
この手記の内容はあらゆる言語に訳されて、世界中の全ての人々への警鐘となる必要があるが、手記を読んだ人間が私の二の舞にならないために、有害な情報は削除されなければならない。
炎に放り込む部分は、貴君の、または貴君が最も信頼する人間や組織の良心に一任しよう。
私がこの手記を書くにあたり、まずは私自身について書き記さねばならないだろう。
私はしがない傭兵で、要人警護や治安維持を行う組織に所属していた。
両親を早くに亡くし孤児となった私は、ある冒険者に拾われて育てられたのだ。
彼こそが私の所属する組織の構成員であり、私も組織の一員となるのはごく自然なことだったに違いない。
最も、学のない私は、その男に会わずとも遅かれ早かれ武力を生業にしていただろうが。
傭兵稼業は死と隣り合わせだったが、元より幼子の内に野垂れ死にするはずだった私は、特段生への執着など無かった。どうせ失うはずだった命なのだから。
それ故に死を恐れなかった私は、いつしか組織の中で有数の戦士となっていった。
……これを読んでいる貴君は、この手記に書かれている勇猛な戦士と、この手記を書いたであろう乞食じみた哀れな女との間に関係性を見出せないかもしれない。
くれぐれも、酒と薬に溺れた哀れな気違いの妄想だと思い込まないで頂きたい。
私の過去の証明として、机の引き出しに、私が国王より授かった勲章を入れておく。
私が全てを失った日。
あの日の事を忘れたことは一時たりとも無く、現在でも鮮明に思い出せる。
……というと若干語弊があるか。
どれだけ酒に溺れても薬漬けになっても、あの日のことは忘れたくても忘れることができないのである。
その日は、護衛を依頼してきた男と共に、洞窟探索を行っていた。
男の言う事を全て信じるならば、外世界からの来訪者が欲しがっている鉱物がその洞窟にあるのだという。
その来訪者とやらと諍いを起こせば確実に王国は壊滅するので、帰っていただくための手土産を採取する、とのことだ。
その言葉が真実かはともかく──今の私は、その言葉に一切の偽りが無いと知ってしまったのだが──私は、自慢の大剣とランタンを手に、洞窟へ赴いたのである。
今までにも、地質調査や鉱脈探索の護衛任務で何箇所もの洞窟に行ったことがあるので、洞窟探索はお手の物だった。
だが、その日向かった洞窟は、私の知る洞窟とは何もかもが違っていた。
通常、空気の篭りやすい洞窟内部では臭いで獣の位置を割り出すことができる。
だがその洞窟には、私が今まで嗅いだ事の無い、耐え難い異臭が充満しており、獣の類は、臭いから逃げるように、洞窟の出口付近にしか棲息していなかった。
その臭いは大きく分けて二種類あり、一つは岩を溶かしたような、溶岩の臭いが微かに感じられる。
そしてもう一つは、洞窟という環境では絶対に有り得ない、醜悪な魚の臭いだった。
上でも述べたとおり、臭いは強力かつ不快極まるもので、奥に進むにつれて、悪臭は意識すら揺さぶる程になっていた。
その強烈な臭いが私達にもたらした影響は大きく、私は大剣を杖代わりにしてやっと歩けるまでに気力を奪われていた。
男の方はもっと深刻で、異臭で頭をやられてしまったらしく、持参していた鉄製の円筒状のものと一人で会話をしだしたのである。
男が円筒を友人として紹介してくれたが、男の頭の中では、円筒の中には友人の頭が入っていて、男とは一種の催眠術を用いて意思疎通を行うのだという。
男の戯言──少なくとも当時はそう思っていた──には耳を貸さずに歩き続けていくと、洞窟の異常性は臭いだけではない事が判明した。
洞窟の壁の四方八方には丁度人間が一人通れる程度の穴が無数に穿たれ、光の届かないところへ続いている。
穴の淵は溶かされた様な跡になっており、これが岩を溶かした臭いの発生源であることは疑いようがない。
しかし、この一帯の穴は焼ききられてから時間が経って全て冷え切っており、まだ岩を溶かした臭いがするということは、高熱を用いた穿孔が未だに行われていることの証明でもある。
また、その穴の中に光をかざすと、複数の道に分岐しているものがほとんどで、どうやらこの洞窟は蟻の巣のような複雑な住居になっているようだ。
更に不可解なことに、臭いが強力になって立ち入る人間が居そうも無いところになってから、多くの冒険者の遺品が発見されたのである。
そのどれもが戦った痕跡がなく、兜などの頭部装備ばかり発見されるため、犠牲者は奇襲で頭部を切断されたのではないか、と推測できた。
魔王が変わってから魔物は人間を殺傷することはほぼ無くなったため、旧魔王世代の産物なのかと思うと、装備の彫刻から、つい最近作られているであろう装備も多くあった。
転がる無数の兜に、断頭台を想像しながら洞窟の中を進んでいくと、ふと壁に何かが彫られていることを発見した。
王国で使われている言語ではなかったので、学の無い私にはそれが言語なのか、暗号なのか、ただの落書きなのかの区別はつかない。
だが、男の方は理解できたようで、壁に彫られているものを目にするや否や、壁に張り付くように解読を始めた。
洞窟には鉱石の採取に来たはずなのだが、まさか熱心に壁を睨んでいる依頼人を引っ張っていく訳にもいかないので、地面に腰を下ろして体を休めることにした。
身体は疲労を訴えていたいたが、悪臭のため眠りにつけるはずもなくただただ男が壁の文字を解読しているのを眺めていた時に、異変は起こった。
自身の背中を預けていた壁、そのすぐ隣が熱を帯びたと思ったら一瞬にして溶け落ちて、中から女とも、烏賊ともつかぬ名状しがたい存在が現れたのである。
彼女の体には粘液を滴らせた触手が巻き付いており、触手が身じろぎする度にぐちゅぐちゅと水音が響く。
足と呼べる部位は見当たらず、代わりに膜が張った複数の触手を動かして、じっくりとこちらに近寄ってくる。
私は、咄嗟の襲撃に対して身動き一つ取れなかった。
彼女──恐らくは、魔王に仕える魔物娘達とは根本的に異なる存在──がこちらの頬を撫で回せるような場所に来るまで、指一本動かすことができなかったのである。
動くことのできない私を嘲るように、ゆっくりと触手が四肢に絡み付いていく。
体を締め付けられる恐怖の中、私の耳には、未知の脅威が訪れた事にも気づかない、狂気に沈んだ男の声が響く。
「マインドフレイア……地を穿つ魔……Shudde-M'ellに率いられ……G'Harneより……テレパシーで犠牲者を誘導し……」
※注釈:無意味な羅列と思わしきものは、発音を聞いたまま表記している
男の解読した文章は、無意味としか思えない音の羅列がいくつも並んでいたが、一つだけ私にも理解できた部分があった。
テレパシー。
恐らくは、気づかない内に彼女に精神に干渉されて、ここまでおびき寄せられてきたのだろう。
私が操られていたのはいつからだ?兜を発見したところか?穴を見つけたところか?
あるいは、洞窟に入るずっと前から?私だけではなく、この男もか?
……その考えの結論は出なかった。
私の思考を中断するように、目の前の魔物は耳元まで顔を近づけて、こう囁き掛けてくる。
「永久に横たわれるものは死せずして、奇異なる永劫のもとには死すら死滅せん」
彼女から告げられた謎めいた一文。
しかし、私がこの一文を正常な脳で思考することは永久になかった。
彼女が掲げた両手に追従するように伸びた触手が、私に向かってきたのである。
魔物のテレパシーによる金縛りで身動きができない中、私はこの触手に首を千切られると思い死を覚悟した。
普段は死ぬことに対する恐怖など微塵も無いのに、この瞬間に限っては、思わず目を瞑ってしまう。
……今思い返すと、あの時に恐れていたのは死ではなく、魔物娘の……マインドフレイアの手中に落ちることを恐れていたのかもしれない。
全く未知の相手に対して、こいつの手に落ちるよりは死の方が救いがあると思ったのである。
だが、私の予想に反して触手は首を掠りもせず、私の頬を這うようにして……耳に向かってきた。
ひっ、という私の悲鳴が、ちゃんと口から出たのかは分からない。
マインドフレイアの術中にあったのだから、多分声は出せなかったのだろう。
触手は耳まで来ると、一気に耳の穴に潜りこんで来た。
想像していたような苦痛は感じず、ただただ恐怖と不快感が増幅していく。
粘液を滴らせて、鼓膜まで近づく触手のぞわぞわした感触に背筋を凍らせてると、マインドフレイアは笑みを浮かべて触手を一度停止させ……。
一気に突き刺した。
耳を突き破った触手が脳に軽く触れるだけで、凄まじい感触が襲ってくる。
ただし、不快感は一切感じない。
一切消えうせた不快感の代わりに、脳を触手が撫で上げる度に、今度は意識が溶ける様な快楽が生まれる。
左右の耳から脳に到達した触手の先端が軽く動くだけで身体がびくんと跳ねて、口から叫び声と唾液が溢れる。
触手の先端が2,3往復すると、味わった事の無い快楽と同時に、両足に温かい感触を感じた。
……それが失禁していたことに気づいたのは後に思い返した時になるのだが。
そのまま程なくしてガクガクと足が震えて、力なく地面に座り込む。
私がケダモノのように四肢を地面に付けた後も、触手は脳を愛撫し続け、その度に私の口からは獣の絶叫が上がる。
抗いようのない快楽に対して、脳は即座に絶頂を示した。
思考が眩み、全身の身体が一気に抜けて倒れ伏してもねちっこい触手は休むことなく耳を犯し続ける。
絶頂を繰り返す内に平常時と絶頂の区別すらできなくなり、両手は私の意識を離れて身体を慰めに……。
その狂宴は、いつまでも、私の意識が途切れても続いた。
散々脳をこねくり回された私の意識が再び覚醒した時、全ては霧のように無くなっていた。
私を弄び続けたマインドフレイアも、依頼人の男も、壁の彫刻も存在しなかった。
落ちたままの大剣を拾い上げて、杖代わりにして立ち上がった時に、誰も居るはずの無い空間で、頭に声が聞こえてきた。
「お嬢さん、お嬢さん。ここですよ、円筒です」
荒い吐息を整えながら地面を見回すと、確かに男が持っていた円筒が転がっていた。
耳からは音は聞こえてこない。男の言葉通り、テレパシーや催眠術の類で意思疎通をしているようだ。
どうやら、前の持ち主が居なくなったので次の会話相手に私を選んだらしい。
そこまで考えると、あの円筒は私が気絶した後や男の行方を知っているかもしれない、と思い、声に出して尋ねてみる。
すると、円筒はこう返答してきた。
「莫迦め、あの男は死んだわ」
実際のところ、そこからの詳しい記憶は無い。
ただ、円筒を踏みつけて破壊し、洞窟の中を彷徨いながら、臭いの弱い方を目指して逃げ出したということは朧ながら覚えている。
しかし、洞窟から逃げ帰っても私への脅威は終わったわけではなく、むしろそこからが真の苦痛だった。
洞窟でマインドフレイアから受けた人外の快楽を知ってしまった身体は疼き続け、愛液は垂れ流しに近い状態にまで成り果てた。
それだけに留まらず、組織の構成員の若い男を見るだけで理性は抑圧されてしまうようになった。
そして、気が付いた時には、私を孤児から戦士に育て上げた恩師の男の上で私は腰を振っていた。
私は組織に居場所を失い、罪の意識と身を焦がす肉欲を忘れるために私は酒と薬に溺れ、私の財産は全て、マインドフレイアに埋め込まれた魔物じみた性を誤魔化す一時凌ぎに消えていった。
そして……マインドフレイアが私に植え付けたものがもう一つある。
それは、醜悪な神を初めとする、この世界の真理。
主神でも、魔王でもない、邪神という曖昧な言葉に慈悲深くも隠された、知った者を狂わせずにはおかない、余りにも残酷な真実。
それを知ってしまった私には、無知という薄いヴェールを剥がしてしまった私にはこの世界の目に映るもの全てが有害なものとなってしまう。
それさえ無ければ、知る事さえなければ!
人間としては無理でも、せめて魔物娘として生きられたものを!
あの時のマインドフレイアの謎めいた言葉も、今なら意味が分かるような気がする。
……そろそろ酒が切れる。この手記も書き上げなければならない。
ここ数日、ずっと同じ夢を見る。私が洞窟に再び赴き、マインドフレイアに脳を弄られる夢だ。
夢の中では悪臭を不快とは思わず、むしろ母の胎を想起させる安心感があった。
臭いが強くなってくると、妨げにならぬように兜を脱ぎ捨てて、彼女達に脳を弄ばれる事を待ち望みながら、更に奥へと進んでいく。
夢の中で会ったマインドフレイアは、私を温かく迎え入れた。
私は彼女達と同じ存在に生まれ変わり、偉大なる『C』を讃え、洞窟の壁を溶かして人間をテレパシーで呼び込み……。
いや、私の夢はもういいだろう。
……幻聴がする。ぬらぬらと粘液をまとわりつかせた触手で床を歩く音が。
洞窟に住んでいるシュド=メルの娘達が、こんな宿にくる筈が無い。
……ま、窓から!窓から!
そんな、まさか!この魚の臭いは……!
「……お母様、帰って来ない子が居たので、こちらから迎えに行ってきましたわ」
「……それはもう、大喜びでしたわ。あの子、もう夫を手篭めにしてましたわ」
「……ええ。 彼女の手記、全て暖炉に放り込みました」
「分かっています、まだ星辰は正しくない。それまで人間達にも、他の魔物達にも知られるわけにはいかない」
「当然、私達の悲願が叶った世界にはユゴスからの外来者なんて必要ない」
「……全ては、偉大なる古きもののために、大いなる『C』のために、ですよね?お母様」
17/08/10 01:46更新 / ナコタス