連載小説
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紅白の鬼
――私は納得して死んだ筈。
 喜んで、笑って、悲しみ、怒り、妬んで、悔やみ、人生においての酸いも甘いも噛み分けた。全ての感情を十二分に満喫して、悔いなく命を終えた筈。

 どうして、私の身体は今だ動いている。どうして私の意識はここに残っている。
 どうして、私は人から力を奪ってまで生きなければならない。

 どうして、私はあの人たちと共に生きられない。

考えるまでもない。

 私がもう死んでいるからだ。
 私が既に「私が知っている昔の私」じゃないからだ。
あの人たちと幸せに過ごしたあの時間は、もう死んだのだ。
 
 あの頃の私は死んでしまった。終わってしまった。
ならば、今の私は一体何者になってしまったのだろう――



 どれだけ目をつぶっていただろうか。
 轟音とともに船の前方から持続的に吹き抜ける生暖かい風の集団。むせ返るような潮気がそれに乗って飛んで来る。それが実に不快で煩わしい。
 僕は目覚めの悪い中、ぼんやりと目を半開きにして、じわじわと思考が安定していくのを待つ。目の奥の重みが少し薄くなっている感覚がして、靄がかかった視界がうっすらと開けていく。 

 どうやらほんの少しの間だけ、意識が飛んでいたみたいだった。
座っていたベンチは艦橋から伸びる影の中にあったので汗はそんなにかいてはいない。
 でも塩気の含んだ空気をずっと浴びていたせいか、顔の周りや鼻の中に少しまとわりつく感覚が残る。

 どれくらい寝てたのだろう?
 
 僕は時間を確認しようとズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
楓香と会う前から計算すると、15分程度の寝落ちだったようだ。
 と同時に、携帯電話の右上の明かりがちかちかと点滅をしていることにも気づく。
 メールが一件受信した合図。差出人は、母さんからだった。

『もーすぐ始まる!(*^-^*)戻ってこいこーい☆』

 四十過ぎたおばさんの書いたとは思えないその文章に、思わず「うへぇ」と口がへの字に曲がる。
 メールを受信した時間は今よりも5分ほど前を示していた。

しまった…この感じじゃあ、もう始まっているかもしれない。

 久しぶりに小さい頃に見た母さんの鬼太鼓を見てみたかったのだが、これでは間に合うかが心配だ。
 母さんは大分年齢がいっているのだから、この先体力を使う鬼役をまた見れることなんて無いかもしれない。

 それに、ここのところ楓香や叔父さん、父さん、タガネといった身内の気の滅入ることばかり続いたせいか、すこぶる精神的健康が損なわれている。
 少しは何か別のことで気を紛らわしてしまいたいと思ってしまうのも仕方がなかった。

 あと、今年は彼女も…。

 僕は素早くメールで一言『了解』と打ち込んで送信すると、携帯電話を元の位置にねじ込むと同時に素早く立ち上がり、先ほど楓香の通った階段を目指す。
 とにかく演舞の披露されるイベントプラザへと急がないと。

 プラザの位置はわかりやすく、丁度僕のいたお気に入りプレイスの真下に配置されているので全く迷う心配はなかった。

 白い塗装が剥がれかけた階段を降り切ったところにある入口の鉛色の扉を開くと、そこはもうプラザ内になっていた。
 灰色のビニール床の上には、カフェやコンビニによくあるような白いプラ製のイスと丸テーブルが何セットも不規則に並べられている。
 上を見上げると、2階席からも見えるようにぽっかりと大きく吹き抜けになっていて、その下には一段高く作られた茶色いステージが7m×5mほどで備え付けてある。
 ステージの中心には、勾玉を三つ組み合わせた文様の描かれた大きな和太鼓が真ん中に設置されていた。太鼓には祭りのやぐらのような木の台と共に何らかの植物が飾り付けられていた。

「継っ〜!」

 僕がプラザに入ってすぐ、無駄に黄色い声がステージの方から響いてきた。
 恥ずかしいのでこういう所で大きい声を出すのはやめてほしい。他のお客の妙なものを見る視線が痛い。

 違うんです。あれは母なんです。そういうのではないんです。

 声も容姿も至って女子大生のような母さん(42才)は、ブロンドの髪を後ろで縛っていて衣装もほぼ全て身に着けている。額の上にある口赤い鬼の仮面を顔まで下ろせば、それでもう準備万端の状態だ。
 母さんの周りでは、青っぽい半被をまとった中年のおじさん達がステージの太鼓や獅子舞、手に持った提灯の最終メンテナンスを行っていた。

 よかった、どうやら間に合ったようだ。
 ほっと一安心をしつつ、僕は演舞を見るために空いている席を探す。
父さんがきっと席を取っておいてくれているはずだと思うのだけれど。

 だけど一階に父さんの姿はなく、テーブルやイスも大体が埋まってしまっていて一番海側に近いイスしか空いていなかった。もちろんそんな遠くからでは見づらいので、そこを選択するなんてことはしない。
 
仕方ない、2階席に行くか。父さんもひょっとしてそっちかもしれない。

 僕は白いテーブル群のすぐ後ろに立つと母さんに手を挙げて、人差し指を立てる。すると母さんは本当の女子学生みたいに屈託ない笑顔でにこにこと答える。
 このプラザ内の普通の若い男性の何人かは今のでころっと射抜かれるんじゃないかなと、僕は半ば呆れるような感じで口から軽く苦笑を漏らす。

 小さい頃から何度も思ったけど、やっぱり母さんのその線の細い容姿からは、とても演舞の出来そうな雰囲気がない。そもそもまともに運動できるのかと聞かれそうだ。
 母さんのことを全く知らない人から見ると、外国の留学生のお譲さんのような雰囲気の女性が、和太鼓と同じ勾玉の文様の侍と忍者の中間みたいな厳つい恰好をしているのである。
 そんな人が本当にこれから鬼の仮面を被って空手のようなキレのある演舞を披露する人だと誰が信じられるだろうか。
 答えの見えていることをボヤリと考えていると、またもや真上から声がする。今度は男性の太くて低い声だった。

「継。こっちだ、もうはじまるぞ」
 
 2階席から顔を出した父さんが僕に向かって呼びかけていた。
僕は軽く頷くと一度鉛の扉から外に出て、さっきの階段を一階分だけ上って扉を開ける。
 そこにある凹状の形の床の真ん中のテーブル席に父さんだけが腰を下ろしていた。僕は父さんのそばにある椅子に深く座りながら口を開く。

「またいつもの雑用?」

「ああ、今回は助っ人が母さんだけだからな。荷物番くらいしかやれることがない」

 隣のテーブルやイスに乗せられた鞄を軽く小突くと、父さんはテーブルに置かれたコーラに口をつける。横にある鞄には母さんの着ていた服や鞄、日焼け防止グッズ等がまとめて仕舞ってあるのがわかる。

 そういえば、父さんとこうして鬼太鼓を見るのは初めてかもしれない。

 昔は楓香の実家や家族に預けられたり、楓香と一緒に過ごすことが多かったせいだろう。その上、最近は僕自身がこのイベントを避けていたのもある。
 
 母さんからの又聞きだけど、普段は父さんも鬼太鼓のスタッフと参加しているそうだ。もちろん保存会の人ではないので演舞そのものには参加しない。
 主に演舞の場所の提供をしてくれた商店街などの施設のスタッフと一緒にお客の誘導、その他諸々…要は雑用ボランティアだ。

 だけど、今回は船の上で小さなイベント。誘導するほど多くの人が何度も移動するわけでもないし、そもそも急遽参加した身である。

「まぁ仕方ないな。俺らは付き添いだし、俺らは大人しくしているのが無難だな」

 僕は頷くと、辺りを少し見まわしてみる。
父さん以外のテーブルにもいくつか荷物は置かれていた。
その持ち主は保存会の人たちで、数人の同じ荷物番役が近くに座っている。大した量ではないが、下のお客さんの席をふさがないように狭い2階席にまとめているのだろう。

 そのせいか、この階には僕ら以外にお客がいない。
「…なぁ、継」

 多少バツが悪そうに、僕の方を窺いながらそう父さんは口を開く。

「なに?」

「…あの子とは、話したのか?」

 あの子とは、きっとステージの奥の方に立ったもう一人の鬼役のことだ。
 母さんとは色違いの衣装を着こんだ白い鬼の仮面の少女。糸井楓香が額の仮面をいじっている。さっきのリハーサルの時点で仮面や細かい衣装以外は大体着ていたので、なんとなく察していた。

 (そうか、今年は楓香が鬼役をやるんだな…。)

 僕は彼女が演舞をするところを見るのは初めてだ。記憶の隅にある小さな楓香が、今こうして大人用の鬼の装束を袖も余らずに着ているのは何度見ても不思議だ。

 彼女も僕に気付いたんだろう。僕の方をちらりとみる。
だが彼女は少し目を合わせただけで、そのまま衣装のチェックに戻る。実際、そういう態度の方がありがたかった。あんな話をした後にのほほんと声をかける気は起きない。

「…うん、少しだけね。」

「大丈夫だったか?」

 父さんは心配そうに声をかけてくれる。もちろん父さんは僕と彼女の小学校の時の情事のことを知らない。ただ僕が保存会と関わるのをやめた原因が彼女であることは話しているので、恐らく仲違いだと思っているのだろう。
 それでも、気にかけてくれた以上はしっかりと応える。

「全然だよ。もう、昔のことだしね」

父さんはそうか、と呟くと椅子の背もたれに寄りかかる。

「…昔のこと、か。お前もそういうことを言う年になったんだなぁ」

 ふいに頭に昨日の父さんから聞いた話がよぎると僕はハッとなり、そして唇を噛む。
 父さんにとって、25年前の叔父さんとタガネの件は僕の場合よりもずっとずっと『昔のこと』だ。それをずっと抱えて続けて生きてきた父さんに、今の言葉は一体どんな風に届くだろう。

「いや…別に、大したじゃないよ」

 配慮の足りない発言に胸元に罪悪感を覚え、取り繕うように言葉をつけ加えた。

「そういうな。お前も色々考えていたんだろ?」

「そんなこと…ない、と思う」
 
 罪悪感は膨らみながら僕の胸中を渦巻く。 
 父さん、それはきっと違うと思う。
僕は考えたくなかったから、逃げ出したんだ。
 「昔のことだから」なんてノスタルジィに浸れるほど悩みもあがきもせず、都合が悪くなって記憶の彼方に葬って忘れてしまったのだから。
 
「いいんだ。無理に考えなくていいこともあるさ」

「…父さん」

 その優しさがうれしい反面、申し訳なくて。

お互いに言葉を交わさずにいると、しばらくして1階から明るい声の演舞開始のアナウンスが聞こえてくる。
その声は実に平坦で、僕らのことなどどうでもいいとでもいっているような気がした。
「お、始まるみたいだぞ」

 父さんがそう答えると、僕は下の階のステージの方を見る。
母さんや楓香はすでに準備はできているようだった。
 
 二人の顔はもう既に見えない。額にあった仮面、ライオンのような白い髪を生やして口をぽっかりと開いた白い顔の鬼を装着していた。身に纏う侍装束には赤と白の三角の幾何学模様が描かれている。
 対して、母さんは口を閉じた黒髪の赤い顔の鬼の仮面、そして白と緑の三角模様の衣装である。格闘ゲームの2Pカラーみたいな感じだ。

 静かにステージの真ん中へと歩み始める母さんと、太鼓の傍で瞑想のように静かに佇んでいる楓香。
 普段からよく知る彼女とおぼろげに記憶の隅に浮かぶ彼女、そのどちらも僕の知るその二人とは全くの別人のようだった。

 母さん、赤鬼がステージの真ん中、つまり太鼓の前に立っている。
軽くうつむいたまま、すぅっと両腕を地面と平行に前へと突き出す。その手には二本の小さな太鼓のバチが握られている。

 ……そろそろ始まる。 

お客さんの拍手が一しきり鳴り終わった後、黒い装束のおじさん達が後ろから和太鼓を叩き鳴らす。


ダンタタ…ダッダ、ダンタタ…ダッダ―――


 和太鼓の音がプラザ中に響き渡る。ざわついた会場も徐々に収まっていき、視線の群れが赤鬼に集中する。

 赤鬼はその手をたおやかに揺れる水面のように、太鼓の音に合わせて上下させていく。
最初はゆっくりと穏やかに。やがて、少しずつ、その波は大きくなっていく。

ダンタタ…ダッダ、ダンタタ…ダッダ―――

 太鼓の音と共に腕の動きが激しくなっていくにつれて、赤鬼の足も動き出す。そして、太鼓の周りにいる提灯を持った男達もそれに合わせるようにオウオウと声を張り上げる。

 赤鬼は脇腹まで太ももを持ち上げながら右へ、左へと両腕の波と共に揺れ動く。
右、左、右、左と赤鬼の身体がゆらりゆらり、と波打つ。
 その動きを何度か繰り返すと、ふと赤鬼は腕を伸ばしてピタッと止まり、振り返る。 
 そのまま文字通り鬼の形相を素早く正面に向けて、左腕を背中に当てて右腕を鞭のように振り回す。 
 何度か飛び跳ねた後、赤鬼は猫足立ちで静止してゆっくりと空気を撫でるように、それでいて切り裂くような力強さを秘めたまま両腕を広げる。

 このあたりの動きは空手の型みたいだ。
 まるで空気の中にある目に見えない何かと戦って、それを捕らえて制そうとしているようにも感じられる。
 ふいに、赤鬼は太鼓の方向を振り向く。そして片膝を更に高く抱え上げて更に太鼓に向かって反対側に飛び跳ねて、そしてまた静止をして、構える。

ダンタタ…ダッダ、ダンタタ…ダッダ―――

 その何かを太鼓の方に追いやっていくように、何度も何度も、赤鬼は太鼓との距離を縮めながら飛び跳ねて、流麗に舞い、雄渾と構えて、華麗に飛び跳ね、緩やかに滑り、機敏に向き直る。

 やがて和太鼓の近くまできた赤鬼は、手に持ったバチで飛びながらドンと軽く叩き、太鼓に対して対角線上に跳ぶ。
 赤鬼が跳び跳ねる度に、飾りである草の葉が赤鬼の身体を霞めて、ざん、ざんと妙に心地いい音を立てる。

 繰り返されるその緩急の激しい演舞は本当に見ていて惹き込まれていくようだった。
 太鼓の音も次第にリズムが激しくなっていくが、赤鬼は動きを全く動きが鈍くなる様子はない。
 中身の人間が40を過ぎているとは思えないほどの力強さを持った赤鬼はイベントプラザ内の空気を完全に制していた。
 
 赤鬼は休む間もなく川の石から石へ飛び移るように右へ左へ、両腕を振り回しながら跳ね舞う。
 太鼓の音は先ほどよりも、疾走感あふれた力強いものに変化していた。


赤い鬼。


赤い、喰人鬼。


――タガネ。


僕の頭の隅には不思議と彼女の姿が浮かんでくる。


 顔ではなく両腕と脚が真っ赤に染まった姿、湿った土のように黒い肌に白く長い髪。そして身体から漂う緑の草木の香り。

 どことなく異質な雰囲気といくつかの共通点があるせいか、僕は段々と踊っている赤鬼がタガネに似ているような気がしてきた。見た目のカラーリングもなんだか対照的なものであるせいだろう。
 タガネがもしこの島の出身の人間なら、その昔にこの鬼太鼓を踊ったり見ていたのかもしれない。

 タガネと話がしたいな。喰人鬼も叔父さんも関係なく、もっと他愛ない日常を話してみたかった。
 もちろん、昨日の夜の失態がそれを簡単に許してくれるとは思わないけれども。

 僕は椅子の背もたれに寄りかかりながら、深く息を吐く。

 そういえば…今までタガネや楓香のことでほとんど考えてこなかったのだけれど、一つ気になることがあった。

 なぜ母さんが演舞に鬼役として参加することになったのだろう?

 鬼役の人が急に腹痛で倒れたと聞いていたが、それがどうにも腑に落ちない。休まずに舞い続ける鬼はとても体力のいる役だ。通常は楓香のような若手に任されるもののはずなのに、一体どうしてなのか。一人くらい保存会の中のスタッフで代役がきかなかったのだろうか。

 太鼓役のおじさん達だって全く鬼役ができないという人はいないわけではないだろう。緊急ならそこから誰かを引っ張ってきてもいいはずだ。
 そもそも母さんだってもう年が年だ。参加するのだって年に一回だ。踊りをするのももう一苦労なはずなのだ。

 何か理由があってわざわざ遠い都会から来ている母さんをこうやって船に呼び寄せているのではないか。今になって僕はそんな疑問を感じ始めていた。  
 母さんの裏にいったい何があるんだ。それが、もしかして叔父さんのいっていた母さんの隠し事なのではないだろうか。


……。
 
 いや、だめだ。
 僕は思考を無理やり停止させようと自分の頬を右手で引っ張る。
どうもここ2、3日の出来事のせいで何に対しても疑いやすく、気にしすぎになっている。 
 隠し事というものは、見て良いものでないから隠すのだ。
 例え母さんが何かを隠していたからと言って、下手に首を突っ込んで嫌な思いをするのは自分だと叔父さんの件で学ばなかったのか。
 
 僕は心の中で首を左右に振って、演舞の方に集中することにした。

―――その疑念がその直後に思わぬ形で的中するとは、思いもしなかった。


 演舞ではいつの間にか前半の部が終了するようだった。
赤鬼は和太鼓を背に振り返ると腕を組んで軽く礼をする。
 
 わぁっとお客さんの拍手が飛び交う中で赤鬼と入れ替わるように楓香、白鬼が太鼓の台の下から、するりと姿を現す。

 それから少し遅れて、太鼓の下から2匹の獅子舞がうねり歯をガチガチと噛み合わせて登場する。
 獅子舞は対立するように白鬼を取り囲む。結果、白鬼は太鼓と獅子舞に挟まれる形になる。

 荒波のように蠢く獅子舞の2匹の顔の前に白鬼はバチを持った右手を突き出して立ちはだかる。白鬼がその右腕をゆっくり上に持ちあげていくと、獅子舞はそれを追いかけるように顎を上にしゃくれさせる。

 獅子舞の緑色の身体が流線状を描き、山のようなシルエットが浮かび上がった。不意に白鬼がバチを手を引き、太鼓をたたく。
ドンという音と同時に、獅子舞は壁にぶつかった波しぶきのように左右へ飛んでいった。

 緑のしぶきが飛ぶたびに、1階のお客さんの方からは感嘆の声が聞こえてくる。

 うん、盛り上がってきたな。
せっかくの楓香の出番。集中するために僕は座りなおそうとした時。

――ここで、ようやく、僕は異変に気付いたのだ。



「ん……あ……」
 立てない。身体が、ピクリとも動かない。全く力が入らないのだ。
何かが起きている。身体の中のエネルギーが全て無くなった感覚。車のガソリンを全て吸いだされてエンプティ−のサインを出しているみたいに。僕は唸るような声しか出せなかった。
 
 なぜかは全く分からなかった。でもどこか覚えがある。なんだこの感覚は?

僕は何となく、それがタガネのそれに近いものではと直感した。

だけど、ここは海に浮かぶ船の上。直射日光の苦手なタガネがこんな所に来るわけがない。


 動けないなりに勘ぐってみるが、それ以上は考えられなかった。すぐにそれ以上の重大な現象によってすぐかき消されてしまった。

 なぜなら、僕以外にも同じように苦しんでいる者がいたからだ。





「…父さんっ!」

 父さんの口からは泡が吹き出し、顔の色が何度も変わっていく。
唸り声を上げながら首をかきむしるようにして椅子から転げ落ち、腹部を押さえながらその場でうずくまってしまった。
 そんな父さんの様子を僕はただ呆然と見下ろす。

なぜだ。僕はともかく、なぜ父さんが?

「少し離れて」

 後ろから声がした。
僕は思わず目の端で後ろを見るが、その方向にあるのは一階への吹き抜けの柵だけで人が立てるスペースはない。

「そこから早くどいて!」

 二度目の声でようやく声のする位置を正確に知った。
その声は柵の下から聞こえてきた。つまり声の主の主は一階にいる。

 訳もわからないまま僕はずるずると身体を引きづり、テーブルから離れる。
すると柵の向こうから何者かが飛んでくる。柵の手すりを掴み、さっき僕のいた位置にふわりと着地する。

 いやまて、この人は今…一階からジャンプしてきたのか?
一階からは10m近くはあるぞ。どう考えても普通の人間が越えられる高さではない。

「大丈夫、まかせて。」

 目の前に現れたのは、鬼。

その鬼は、淡々とした声音で言葉を繋いでいく。

「……糸井家の女性にはエネルギーみたいのを相手から吸いだしてしまう力があるのよ、だから鬼太鼓は男がやるの、普段はね」

 鬼はそう語りながら仮面を外す。
その下にある顔はいつも見覚えがある顔。しかし、いつもと違う所がある。

 その瞳は真っ赤に染まっていた。
そして、父さんの腕を掴み、鬼は大口を開く。

 その口の中には大きな牙が、二本。
そんなものは今まで一度たりとも見たことがなかった。

ご飯の時も、笑い合った時も、怒られた時も、一度たりとも。

「糸井家の女性はねー、普通の人間じゃないの」

 鬼は聞き覚えがあるその声でそう言い放つと父さんの腕にかぶりつく。

 囁き声のように、じゅるじゅるとすする音が2階席に響く。 
鬼の喉元がごくりと音を立てるたびにごちそうがきたぞと、歓喜の声を上げるように聞こえる。

どういうことだ。全く意味が分からない。


どうして、母さんが父さんの血を吸っている?

これじゃあ、まるで…

 血を吸い終わり、母さんは血の付いたその口を軽くぬぐい、そしていつもの緩やかな声でそれを言い放つ。


「糸井家は吸血鬼の家系。…私もその一人。

私は半人鬼(ダンピール)よ」

15/08/01 20:05更新 / とげまる
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■作者メッセージ
もう八月……だと?
鬼つながりで鬼太鼓をネタに使ってみたいと思っていたものの予想以上に僕が鬼太鼓のこと知りませんでした…。

※作中の登場人物、団体は実際のものとは尻の毛ほども関係ありません。
故にでたらめや、「おう、うちの地域と違うぞオラ」というお言葉もご容赦ください。 

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