連載小説
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地平線
 話を始めた時は明るかったはずの赤い空はいつの間にか、端の方から現れた紺色に包まれていた。

 父さんの脇にある笊に入っていた生のミョウガの山は全て焼き終わっていた。焦げ目のついた味噌をまとって反対側の大皿に乗せられている。
 
 僕は、ただ父さんの方を見ていることしかできなかった。
きっと口に出すのも嫌な記憶だったのではないだろうか。叔父さんの強姦の事実は知っていたけど、その二文字の上だけでは感じられなかった衝撃が頭の奥に深く突き刺さる。

 
 「…次に気づいたときには、病院のベッドで寝かされていた。
家族や近所の人が心配になって探してくれたらしい。見つけられたときは…俺達二人とも森の中で震えながらうずくまっていた」

 ここからは後日談とばかりに父さんはそう呟くと、口元が寂しいのか焼いたミョウガを口の中に一つ放り込む。
 でも、焼いたミョウガは父さんの語り終わって疲れた喉を労わることはなかった。味噌の中に残った砂糖の塊が、逆に父さんをむせ返らされた。

「…それから退院後、俺は逃げるようにすぐ都会に面接に向かい、脇目もふらずに就職まで突き進んだ。あいつの見舞いも全くしなかったよ。顔を合わせるのが怖かった。助けなかったことを責められるかと思ったんだ」

少しくぐもった声を出した後に父さんは言葉を繋げる。

 僕は父さんが叔父さんの名前をあまり呼ばない理由がなんとなく分かったような気がした。きっとこのことをずっと気に病んできたのだろう。
 

僕は何か、父さんに声をかけたくて口を開く。
「でも、それだけのことがあって…なんでこの島に戻ろうと思ったの?」

 口から出てきた言葉は聞きたかったこととは何か違うような気もしたが、それも確かに気になっていたことではあった。

 
 父さんは少し悩むような素振りの後、首に手を当てて返事をする。
「…時間が経ったんだろうな。実際、お袋はもう俺たちに面倒をみられるような状態だ。あいつ一人じゃ大変だからな。人間10年20年なんて時間が経つとな、大概の過去にはこだわってはいられなくなるものさ」

 最後の方は妙に早口だった。きっと、多分、嘘だと思う。

余程ため込んでいたのか、父さんの言葉は止まらない。

「今の都会の俺の家でお前が生まれた時、そのことを親父に報告したら帰って顔を見せろといわれて…それで一度この家に戻ってきたのがきっかけだった。
 俺が家を出たのが18歳だからもう俺もあいつも働いていたからもう時効だと思えた。
…久々に会ったあいつは何も変わってなかった。立ち振る舞いは何一つとして昔のままだった。あいつが理解できなかった。まるであんなことがなかったみたいだ。ポーカーフェイスって言うのかね?ああいうのは」
 
 無理矢理茶化した喋り方をしているものの、すぐに父さんの言葉は抑揚を失っていく。

「…その後改めてあの日のことを聞こうとしても、やはりはぐらかされた。
後に喰人鬼と未だ関わり続けていることを知って更に問い詰めた。それでも…あいつは、ただの一つも!何も言ってはくれない!」

 怒号。殴りつけるかのごとく、父さんの声は響き渡り、そして山の方へと空しく吸収されていった。

「あいつの状況はもうわかっているんだ。何を秘密にする必要がある?俺はあいつの口から聞くだけで…それだけで十分なのに、そのために毎年ここに来ているのに…いつになったらあいつは…俺に話してくれるんだ?」


 そういうと静かに父さんは視線を下におろしたまま静止してしまった。
父のそのうなだれた姿が、僕には直視しづらかった。

…ん?

なにかが僕の胸で引っかかった。何かがおかしい気がする。
背後に誰かがいるような背中のソワソワとした感覚。
だけどその正体がつかめない。


「継。お前はあの化け物、どう思う?」
「…えっ?」

 急に向けられた視線を前に、僕は言葉が詰まる。曖昧だが確信を得た質問のようで僕はすぐには答えられなかった。

 次々と現れるタガネの実態を知るも、僕は全く彼女の本性が捉えられていなかった。

 昨日から今朝、精を搾り取られる化け物と思えたのに、そのあと普通の女性のように会話をして、彼女と家族の人間関係を知り、今またしても彼女の魔物だということを再認識した。


何が本当の彼女なのか、知っても知っても分からなかった。


 叔父さんに関してもそうだ。あの時、叔父さんを殴り飛ばしていたら、僕はきっと自分を許せなかっただろう。何様だと。
 
 そして、今聞いたばかりの話、父さんには異常なくらい情報を漏らさない行為の意味は何なのか?僕は叔父さんのことなど何一つ知ってはいなかった。

 わかるのは自分がいかに狭い視野で物事を見ていたかという事実。
それだけがくっきりと僕の胸に入れ墨のように刻まれている。

僕は長く間を置いたあとに、ゆっくりと答えた。

「僕は…叔父さんを、タ…喰人鬼のことをもっと知りたい。彼女が何者なのか、ただ精を吸うだけの死体なのか、叔父さんが何を隠しているか。知らないけど…僕も全部、知らないと気が済まない」

僕は首を垂れた父さんをまっすぐ見つめながらそう答える。

「…そうか。昔の俺みたいだな」

 顔を上げた父さんは何か諦めたような、光のない目でつぶやいた。


「…ミョウガ、全部焼いたから。台所に持っていってくれ」
父さんから差し出された大皿に僕はゆっくり手を添える。僕はそのまま腰を上げて父さんの横を通り過ぎる。

それ以降、交わす言葉はなかった。
何を言えばいいかわからなかったし、何かを言う必要も感じなかった。

ただ胸の奥に釣り針のようにひっかかる何かを除いて。

―――――

 
 母さんのいる台所に戻ろうと玄関を開けようとすると、家の前の坂道の方から車が一台ゆっくりとバックで入ってきた。
 
 見覚えのある車、それは今日の昼間の遠い方の墓場で見た叔父さんのものだった。
 僕は自然と背筋がピンと伸びる。身体が緊張しているのがわかる。しかし、その緊張は昼間までの怒りによるものではなかった。
 叔父さんの過去を知った今、僕はどんな風に叔父さんを見ればいいのかわからなかった。

 墓場で叔父さんを殴らなくても、そういう子供じみた感情を持ってしまったという事実を、情けなさを拭いたくなる。僕はがむしゃらに胸元を掻きむしりたくなった。 

玄関の入口近くまで着た頃に、車は後退をやめて叔父さんが運転席から降りてくる。

こんな時間に一体何をしに出かけていたのだろう?

「やぁ、継か」
「うん…うん、おかえり」
 思っていた以上の気さくな声。『いつもの叔父さんの顔』に僕は、目が落ち着かないままそう答える。

「どこ、行ってたの?」
「いや、刺身とか、ちょっと足りないお酒とかをね。フグの塩漬けなんかもあるよ」

 叔父さんは穏やかに笑うと、軽く車の後部座席に手をかける。どうやらこの夕飯兼晩酌のためにおかずや酒の追加などの仕入れをしていたようだった。
 
 父さんがすでにビールを飲んでいることを見越して買ったのだろう。さっきも母さんがビールを買い足したばかりなのに一体どれだけ飲む気なのだろう。

「…兄さんと、話していたのかい?」
僕の落ち着かなさを察したのか、叔父さんは荷物を下ろしながら、少し声のトーンを下げて声をかけてきた。

「うん、父さんが島から出て都会で就職する前の話。…叔父さんとタガネのこと、無理やり…されたことも、聞いた。」

「そうか…」
 目を細めながら、叔父さんはぼそりと答える。もしかしたら叔父さんもあまり知られたくなかったのかもしれない。胸の隅が罪悪感でヒリヒリと痛む。掻きむしりたかった。
「そうか、うん。いい判断だ。」


 なんとなく言葉の選択にどうにも違和感がある気がした。まるでちゃんとした答えがあるような感じだ。

「扶美さんには?あ、そうか台所か」
 
 叔父さんは後部座席にある荷物を下ろし終えると、車のドアを閉める。そのまま引き戸式の玄関に入ると4〜50p位の木の段差が二段あるうちの一段目に中年男性らしくよいしょと声を出して腰掛ける。

「うん…これから夕飯だし…」 
「そうか、そうだよね。ならいいんだ。きっと彼女も話が長くなる。明日にするといいよ」
 突然の母の名前。だが予期していなかったわけではなかった。叔父さんや父さんのようにきっと何かしら隠していることがあっても不思議ではない。


「…夕飯の後じゃダメなの?」
「それでもいいけどね、今日は色々回って疲れただろうからさ、継も…そうだろう?」
 叔父さんにそう諭すようにいわれると、どうにも逆らう気が失せてしまう。演技だと分かっていても調子が狂う。僕は静かに頷くしかなかった。

「それと、墓場でのこと…気にしているかい?」
 ふいに叔父さんは目を逸らし、玄関の隅を見つめながらぼやくように続ける。

 その先には、ボウリングのボールくらいの大きさの綺麗な赤い色をした石が靴棚に飾られている。
 どこかで掘り出された石をそのまま艶が出るまで磨いたような歪な形。自然のものとは思えないくらいはっきりと主張された赤色のところどころに白っぽい筋のようなものが入っている。爺ちゃん曰く、この石はこの島でしかとれない貴重なものらしい。

「継や彼女には嫌なところを見せたかもしれない。でも、俺には俺の人生があるんだ。例え何を犠牲にしてでも譲れないものだって、ある。」

 海辺の墓場で見せたあの歪みが嘘のようにしおらしい叔父さん、いつもどおりのはずなのにやはり違和感を覚える。しかし、この妙な裏表の違いこそが本来の叔父さんなのかもしれない。父さんの話を聞いた後だとなおさらそう思えた。

「継にも自分の人生がある。そして…タガネもね」

「タガネの人生…」

 

 多分、僕はそこで初めて、タガネが『元人間である』ということをはっきりと認識した。

タガネがあの姿になる前はいったいどんな人だったのだろう?
何を考えて、何をして、いつ誰と共に生きていたのだろう?

 そして、今、何を思って暗い山に一人取り残されているのだろう。
まるで、想像もつかない―――遠い遠い海の向こうのような、目を凝らしても見えはしない彼女の「過去」の人生。

「継。人生で本当に何かを為したいのなら、何を犠牲にしてでもやらなきゃいけないよ。中途半端な努力は、自分の首を絞めるだけだ。」

 海に錨を投げ落とすような、頭が非常に重たくなったような叔父さんの言葉。記憶にある叔父さんの歪みきった笑顔が仮面のように縁どられて叔父さんの顔から浮き上がるイメージが頭によぎる。

 叔父さんは玄関の隅の赤い石を見つめ続けている。ツルツルとした石の端には明らかに加工した後に割れたことが分かる欠けた跡がついていた。その部分だけは明らかに艶がなかった。
 
 それは誰かが落としたのか、はたまた不良品なのか。
あるいはこの石の傷跡一つさえもだれかしらの「過去」として刻まれているのかもしれない。


「墓場ではああいったけど、彼女をどう扱うかは君の判断に任せるよ。このまま介護の老人のように付き添ってもいいし、唾液の効果は一日しか続かないからこのまま一切彼女の元に顔を出さないって手もある。…ミョウガ。一個貰うよ継。」

「あ」

叔父さんは急に振り向くとひょいとミョウガをつまみ、口の中に放り込む。
「うーん。うまい」
さっきと打って変わって可愛げのある声を上げる叔父さんの姿は、父さんにそっくりだった。

「…残りは後でね。ミョウガ持っていくから」

僕はそう言い残すと、玄関を上がって左へ曲がり、居間の前の廊下を台所まで歩いていく。

 中途半端な努力、か。
 
 受験勉強も手につかないくらいの日和見で高校人生を過ごしてきた僕にとっては視野の狭さを指摘されるようで耳の痛くなる言葉だった。
 
 今回の家族の秘密も結局、興味本位で首を突っ込んだあげく、ただ話してもらうままに話してもらって勝手に怒ってショックを受けて、無様に無知を晒しているだけ。

情けない限りだ。


自虐的な感情に身を任せながら、僕は何となくタガネのことを考える。


今、彼女は何をしているんだろうか?
15/05/08 01:07更新 / とげまる
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■作者メッセージ
何とか夏までには書き終えたいと思います。お目汚しすいません。

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