先輩と一日
「私は処女だ」
「ぶほっ」
慌てて口元を手で抑えながら、机の対面に座る先輩から目を逸らす。
こういうときの先輩の表情はよーく知ってる。羊角の下にニヤニヤと意地の悪い表情を浮かべて、じっとこっちを見つめてくるのがいつもの先輩だ。
「親しい女性が誰かのお手つきではないというだけで、君としても嬉しいことだろう?」
「……知りませんよ」
烏龍茶の入ったペットボトルの蓋を閉め、まだ気管支に残っているものを追いだそうと咳をする。
部室内の時計に目をやり、昼休みが終わるには遠いことを確認。弁当の中身も空っぽとは言えない。
今日はどれくらい先輩にセクハラされるんだろうか。食事している最中くらいは待っててほしいけど、言っても先輩は聞いてくれなかった。
「私は快楽主義に生きていたい。でもね、男女仲に関しては清廉な女性でありたいとも思うんだ。初めては全部、一生を共にする人に捧げたいとね」
「そんなもんじゃないですか、女子って」
「そうだね。男性も同じだろう。ところで君は童貞だな」
「ぐほっ」
「わかりやすいんだよ君は」
恥じることではないのに、と苦笑気味の先輩を睨みつつ、変なことを言われる前に急いで飯をかきこむ。
先輩は懐からワインの瓶を取り出して、どかりと机の上に置いた。ラベルは貼られていない。それから席を立ち、先輩が部室の棚の中に隠してあるグラスを取り出そうとして、こちらに振り向く。
「君も飲むか?」
「酒は弱いので」
「残念だな。その断り文句も聞き飽きた。いつになったら強くなってくれるかな」
「学校の外なら強くなるかもしれませんね」
「覚えておこう。補導されない程度に」
微笑みながら机に戻り、卓上にワイングラスを一つだけ置く先輩。それから手慣れた仕草でコルクを抜き、音を立てて注いでいく。部室内にワインのいい匂いが広がっていくのは、正直に言って好きだ。
赤いワインを一口飲んで、先輩は満足に息を吐いた。
「今日もいい天気だな。快晴の日に友達と外で遊んだりはしないのか、後輩」
「先輩が昼休み終わるまでに逃がしてくれるなら」
「はは、それはダメだな。酒のつまみに逃げられたらワインも美味しくなくなるよ」
「でしょうね」
それに、逃げたとしてもサテュロス特有の俊足で即座に捕まえられるだけ。逆関節の有蹄足でどうしてあんなに足が速いのか、本当に不思議だ。
「さて……童貞の男性と処女の女性が密室でふたりきり、そして女性は飲酒して酔っている……となれば、もうやることは一つしかないな」
「会話ですね」
「もしかしてインポテンツなのか?私が病院に付き添ってやれば勃起治療を格安でしてもらえるそうだが」
「……先輩は至ってシラフなので、この部屋に酔ってる女性なんていません」
「おっと、失敬。ワインだけで酔うには瓶一本じゃ足りなくなるからね、それは確かだ。もっとも、君に酔ってるからアルコールはいらないんだが」
そう言ってもう一口、グラスを傾ける先輩。美味しそうに酒を飲む姿にかけては、恐らく先輩に勝る女性はいないと思う。普段の出で立ちからしても気品に溢れていて、昼の光を浴びる先輩の栗色の髪は綺麗なんて言葉を百回重ねてなお足りない。
ヘビードランカーでセクハラ大好き、なんておっさんみたいな性格じゃなければ、もっと人望厚かったかもしれない。
「酔うといえば、以前近くの居酒屋で独りで晩酌していた時にナンパされたよ。中々の美丈夫で人の良さが窺えたし、今までナンパされた男の中ではそれなりに上位のいい男だったな」
「はあ。応じてあげればよかったじゃないですか」
「私にも好き嫌いはあるし、その場の気分というものだってあるさ。てきとーに二言三言話して追い払った。独り晩酌は気安い女に見えるらしい」
グラスの中身を飲み干して、手を休めずにワインを注ぐ先輩。なみなみとワインで満たされたグラスをこちらに掲げ、それに、と言葉を続ける。
「それに、毎日毎日と目の前にいい男が居てくれるからね。その辺の男じゃ満足できないさ」
「……そりゃ、よかったですね」
してやったり顔で優雅にワインを飲む先輩を直視することはできなかった。といっても、片手で顔を覆っただけだけど。照れてる表情を見たら先輩はますます調子に乗るもんな。
――
弁当を片付け、流し台で洗う。調理準備室の水道は校内の他の水道と比べて非常に綺麗だ。掃除を念入りに行う人間がいるおかげで。
「家政夫になりたいなら、私は君を養えるよう良い会社に務めなくてはならなくなるがな」
「調理士志望ですって……」
「そんなもんか。私は好きな人に自分の料理を振る舞いたいから料理部に入ったんだが、後輩は意識が高いな」
現在の部員数は十名ほどで、ほとんどが女性。その誰もが恋人持ちだ。だからか、昼休みに調理準備室を利用するのは先輩と自分しかいない。そして先輩は大雑把でてきとーな人なので、自然と準備室を清掃するのは自分の担当になる。
「しかし、昼食に弁当を食べるのはいいとしても、それを毎日か。母親に作ってもらってるというわけでもないだろう」
「自分で全部作ってます。朝起きて弁当作ってご飯食べて、って感じですね」
「見上げた精神じゃないか。明日から私の弁当も作ってくれるなんて、いい後輩を持ったものだ」
「一言も言ってませんよ」
「ハートの田麩を白米の上に乗せて、刻み海苔で"先輩LOVE"って書くのも忘れるなよ」
「男女逆じゃないですかそれ」
蛇口を閉めて日向に濡れた弁当を置いて、タオルで手を拭う。最初はこうしている間もずーっと先輩にじろじろ見られて落ち着かなかったけど、慣れてからは気にしなくなった。
机に頬杖をついて半笑いのまま視線を向けてくる先輩は、それだけでも絵になる存在感なのが困る。
「しかし男子学生というものは、朝は寝坊して幼馴染に起こされ、ついでに胸を揉むものじゃないのか」
「探せばどっかにいるんじゃないですか、テンプレなんだし」
「ちなみに私の胸はEカップだ。トップとアンダーの差は二十一センチ」
「……前にも聞きました」
「覚えててくれて嬉しいな。だが反復学習は大事だ。何度でも言ってやろう。実際に触ってみるともっと覚えやすいかもしれない」
「はいはい、遠慮しときます」
わざわざブレザーをルーズに着て、ワイシャツを押し上げる胸を強調するスタイルが先輩の普段の格好だ。視線が誘導されそうになるけど、それが先輩の狙いなのは明白だった。
「ときどき本気で心配になるんだが、君はインポじゃないんだよな」
「ノーコメントで」
「この前部室でうたた寝している時に確かめたから、勃起は問題ないはずなんだよな。私も保証する」
「え、あの」
「ああ、触れてはいない。せっかくいいモノ持ってるんだから使わないと勿体無いだろうにな」
「余計なお世話ですよ……」
汗が一気に吹き出す。あのときは本当に迂闊だった。もう二度と部室で昼寝なんかしない。
「となると私の容姿が問題か。私は美少女だと自負しているんだが、やはり山羊足が問題かな」
「……別にそれは、気にしてないです。いいと思います」
「じゃあ本当になんなんだ。貧乳派なのか?サバト方面なのか?」
「ノーコメントで……」
「やれやれ。白蛇やマインドフレイアの性質が理解できそうになるよ。私は彼女たちが苦手だが、その有り様は納得できるしな」
ため息を吐く先輩。ワインボトルはもう空のようだった。
「サテュロスって、ああいう無理やり惚れさせるようなのはないんですか」
「ある。使わないだけだ」
「ああ……」
「結局は私のワガママだな。こちらが清い付き合いをしたいと思ってる相手に使うようなものでもないんだ」
ペットボトルを落っことしそうになって慌ててもう片方の手でキャッチし、先輩の方に振り向く。彼女はただ微笑むだけだった。
「……人をからかうのは楽しそうですね」
「すごく楽しいな。君のおかげで、ここ一年の生活は最高に満ちているよ。それまでは恋愛沙汰なんて一欠片もなかったんだ」
感慨深げな表情の先輩。もう先輩は三年で、自分は二年だ。もし同い年だったら違う出会い方をしていたんだろうか。
「とはいえ、購買のパンの味はもう飽きた。そこだけだな。昼食がマンネリなのはクオリティオブライフに関わってくると思わないか」
「作ったらいいじゃないですか、弁当」
「君は私が早起きできると思うのか?」
「知りません」
「なら、一緒のベッドで寝て確かめるのがベストだろう。ああ、でもそうすると君も寝坊してしまうかな」
遠慮しときます、とだけ伝えてバッグから料理雑誌を取り出す。同時に筆箱も取り出して、あとで使うために予め蛍光マーカーを置いておく。
「思うに、私より君が部長を務めるべきじゃないかな。雑事は嫌いなんだよ」
「そうはいっても、先輩バリバリこなすじゃないですか。年度初めの新入生向け部活紹介とか、生徒会に提出する諸々とか」
「嫌いだからね。あんなもの、さっさと終わらせて解放されたいに決まってるだろう。あれなら君の尻に指を突っ込むほうがマシだ」
聞く話によれば、先輩は成績もテストも優秀だそうだ。文武両道才色兼備、だけど性格がこれだもんな。欠点のないものはないってことがよくわかる。
「君が望むなら逆アナルだって構わないんだが」
「絶交しますよ」
「ま、そうだろうな。私だってアナルを責めるよりアナルに責められたいさ」
「……」
「今のうちに拡張しておくべきかな。受け入れるには難儀しそうなサイズだったし」
「漏らしやすくなったらどうするんですか」
「介護してもらおうかな……なんて、冗談だよ。そもそも括約筋はそんな貧弱なものじゃない。筋トレと同じで、筋肉は切れた分だけ超回復する。お腹が緩くなるなんてことはない」
「詳しいですね」
「エロ本に書いてあった」
めちゃくちゃ信憑性なくなったな……。
「それに何より、魔物の身体は強靭だ。人間の体よりも二回りくらいは頑丈なもんさ」
「体育でも分けられるくらいですからね」
「そう。心配ご無用ってね。精神的な方面では人間より打たれ弱いかな」
「そうですか?それこそ嘘くさいんですが」
「……所詮は魔物だよ。優れてるところがあれば、欠点も存在する。私も強くありたいんだけど、最近はなかなか打たれ弱くなったなと感じてしまうばかりだ」
「というと、やっぱり進路ですか」
「はあ……本気で嫌になるね」
目を伏せて深く嘆息する先輩。言われてみれば、最近はため息を吐く回数が増えてるような気がする。
「でも先輩ならどこでもいけるんじゃないですか?」
「……まあ、君がそう思うならそれでいいよ。そういう君こそ、進路は定まってるか疑問だけど」
「一応は。東京に行って専門学校で勉強して、調理士免許取ったらすぐにどこかで働こうかなと」
「ふむふむ……奇遇だな、私も東京で独立するつもりだ。ひとまずは安心した」
「俺だって、ちゃんと考えてますよ。いろいろと」
「ん?……ああ、うん。それならよかった。君を置いていくのは心残りだからな。別に一年遊んでから東京に行ってもいいんだが」
この人はとんでもないことをさらりと言う。珍しくきょとんと疑問符を浮かべていたのがちょっと引っかかったけど、またなにか考えてたのかな。
「心残りと言えば、東京に行く前に処女を卒業しておきたいところだけれども」
「先輩ならすぐにでもできるんじゃないですか……」
「君は本当に野暮だな……先輩に冷たいと思わないのか?そんな冷淡でガツガツいかないようじゃ、この先も彼女できないぞ」
「先輩が身も蓋もないとこうなっちゃうんですよ」
「酒の神バッカスはこう言った。"酒に酔い、全てをさらけ出した状態こそがあるべき姿である"。ああ、脱いだほうがいいかな」
「ただの痴女になるんでやめてください」
「露出の一つや二つくらいは気軽いさ。君が望むなら、ね」
ぷちぷち、とワイシャツの第二ボタン第三ボタンを外して露骨に谷間を見せつけてくる先輩。雑誌を立てて視線ガードする。
「なぜだ。ノーブラなのは知ってるだろう。女性のおっぱいを見るくらいならいいじゃないか、減るものじゃないんだぞ」
「いいからしまってください」
「朴念仁め……」
朴念仁じゃない、と思う。全部わかってるつもりだ。
「そうやって私のハラスメントを回避しようとしてるだけで、私のことを意識してくれている、ということはよくわかる。はあ、なんで君はそう真面目すぎるのかな」
「奔放すぎるだけでしょ、先輩が」
「じゃあ聞くが、君の理想の恋愛像はなんなんだ?一年ほど君を見てきたが、未だによくわからない」
「言ったら先輩、変な感じになると思いますよ」
「君の言葉だけでブレるほど、私の芯は弱くない。安心して言うといい」
「だから、言うと先輩が変わるから言いません」
「……どういうことだ?恥ずかしいってわけでもあるまいに……こういうときだけ君は謎なんだよな。聞き分けの悪い後輩でもないしな……」
だって、それは今の関係ですなんて言ったら、先輩は意識してしまうだろうから。
☆
「残り150日だ」
「え?なにがですか?」
部活動後の調理室の掃除をしながら、不意に話しかけてきた先輩の方を見る。先輩は先ほど作ったばかりのチョコマフィンを手にとって眺めているだけだった。
先輩が座る調理台の上には、先輩と自分が作ったマフィンがいくつか。冷める前に全部食べきるのは無理そうだ。
「私の登校日数だよ。150日。これを多いと見るか、それとも少ないと見るか」
「けっこうある……って思いますけど」
「まあ、うん……そう思うならそれでもいいかもしれないが……」
珍しく歯切れ悪く、先輩は難しい顔をしていた。夕焼けに照らされる先輩もまた、すごく綺麗だ。
「光陰矢のごとし。私はあと150日しか君に会うことができない、と思ってる。高校生活は一度きりしか味わえないから」
「定時制は高校って感じしなさそうですもんね」
「……真面目に言ってるんだぞ」
くしゃり、と先輩はマフィンを握り潰した。こっちを睨んでくる先輩の表情は、見たこともないほど怒気が込められていて、同時に強い寂寥感を漂わせていた。
動揺して何も言えないうちに、先輩は肩を怒らせてこちらの眼前まで歩いてくる。
「いいか、私は人生で初めて学校での生活が楽しいと思えてる。今日の部活も楽しかった。全部君のおかげだ。一年前からそうだ。君のおかげで、永遠に続いてほしいと思ってしまうほどにだぞ。だから君には感謝してる」
「え、と……」
「私は君から離れたくない。そばにいたい。今まで君にしてきたことで君が不愉快に思ったことがあるなら、私は全部謝罪する。どんな復讐だって、私は全て受け入れよう。君が私を嫌っても仕方ないと思ってる」
「そんなこと、」
「だけどな、私は君の全てを気に入った。大好きなんだ。愛してるんだよ。君は知らなかったかもしれないがな」
先輩に胸ぐらを掴まれながら、一息に告白された。
息が苦しくて、実際に言われてしまった言葉に返す言葉が思いつかない。
重い沈黙が数秒流れて、先輩は手を離す。
「……頭に血が上っていた。今のは違う、嘘だと思ってくれ」
「……知ってましたよ」
「は?」
「わかっててやってたん、じゃないんですか」
「何をだ」
「普段の、こう……接し方です。実力行使に出ないのはそういうことだと。言ってたですし」
はてな、と頭を傾げる先輩。本気で言葉の理解ができていないのか、しばらく思考を回転させ続けて。
「――待て。摺り合わせをしよう。君は私に恋愛感情を持ってるのか?」
「えーと……はい。大好きです」
「あーあーあーあー!聞こえなかった!おっと黙れ、男に二言はないぞ」
「使い方間違ってますよ……」
「どうでもいいことだ。じゃあ、私が部活で作ったものをいつも食べてくれるのは?」
「先輩が喜ぶなら、と思って」
「イヤ、だったわけじゃ」
「ないです。先輩は料理上手で――」
「うるさい、次。いつもいつも私と昼を共にしてくれるのはどういうつもりだったんだ」
「だって先輩、俺がいないときは退屈そうに昼飯食べてるって聞きま――」
「どいつだ!そんなこと言ったの!」
「しゅ、守秘義務です」
「ああもう!くそ、いつからだ。いつから、す――あー、そう思ってた」
「そう思うって……ああ。ええと」
先輩と出会ってからのことを思い出し、
「先輩と話し始めて三日くらいですかね」
「即オチじゃないかふざけるな……」
机に手をついて頭を抱える先輩。先輩の耳が赤く見えるのは、夕焼けのせいじゃないらしい。
「……うー、あー。くそ……私は馬鹿か……ありえない……」
「先輩?」
「もういい、よくわかった。お前も、あれ……その、あれなんだろう。それはよくわかった。しかも私の、こういうあれをわかってて……ああしてたわけだ」
「抽象的すぎてボケた爺さんみたいになってますよ」
「うるさいな。ていうか、こういう時の男子は朴念仁じゃないのか?童貞特有の妄想だって考えたりしないのか?」
「だって先輩、やたら露骨にアピールしてきたじゃないですか」
「え、そんなに?セックスアピールはしたつもりはあったが」
「すごいわかりやすかったので、隠してるわけじゃないと思ってました」
絶句し、頭を抱え、うううと唸り声を上げる先輩。今日の先輩は怒ったり焦ったり照れたり、珍しい。
「後輩……今日のことは、全部忘れろ。なにもかもだ、なにもかも」
「それ、先輩のほうじゃないですかね」
「そうだ……私も全部忘れてしまいたい。トラックが突っ込んできて都合よく今日の記憶消してくれないかな……」
「そんな都合のいいトラックなんかないですから」
掃除を終えて、先輩のマフィンを一つ頬張る。美味しい。
「人がとっても動揺してるときに、のんきだな君は……」
「いつものんきしてる呑兵衛に言われたくないですよ。そもそも、残り150日しか会えないって言っても登校日だけなんでしょ。休みの日も会えばいいじゃないですか」
「え……そ、そういうのは付き合ってからというか……」
「なんで急に乙女になるんですか……」
呆れつつ、残りのマフィンをラップで包む。持って帰って食べよう。
「私は……君がワインを飲んでくれたら、言おうと思ってた。魔界産の、恋人同士になれるって評判のワインだ。匂いを嗅ぐだけで互いに惹かれ合うって曰くつきの」
「……それって、つまり」
「ああ。とっくに……ってことなんだろう。確かに君は匂いを嗅いでもそういう素振りなかったよな……。くそ……もうやだ死にたい……」
ラベルがいつもなかったのは、ラベルから意味を理解されたくなかったってことか。机に突っ伏した先輩の表情は伺えないけど、見たら怒られる顔だろうな。
「……なあ、後輩」
「なんですか」
「酒の神バッカスに誓って、明日からもいつものように接する。……だけど、その……、これからは休みの日に……」
「遊びますか?予め連絡しておいてくれれば大丈夫ですよ」
「本当か!よし……そうと決まれば、こうしちゃいられないな。私は先に帰る、あとはよろしく頼む」
「いつもみたいに一緒に帰らないんですか」
「い、いいだろ、たまには。女性はいろいろと忙しいんだよ、いろいろと」
鞄を乱暴に拾い上げ、ドアへと歩いていく先輩を見送る。普段よりも覇気がないことに、ちょっとした罪悪感を覚えつつ。
「それじゃ、また明日会おう」
「はい、また」
「それとだ、後輩!」
「なんです」
「これから本気で口説いてくぞ。覚悟しておけ」
「期待してます」
先輩との高校生活最後の一年は、本当に楽しくなりそうだった。
「ぶほっ」
慌てて口元を手で抑えながら、机の対面に座る先輩から目を逸らす。
こういうときの先輩の表情はよーく知ってる。羊角の下にニヤニヤと意地の悪い表情を浮かべて、じっとこっちを見つめてくるのがいつもの先輩だ。
「親しい女性が誰かのお手つきではないというだけで、君としても嬉しいことだろう?」
「……知りませんよ」
烏龍茶の入ったペットボトルの蓋を閉め、まだ気管支に残っているものを追いだそうと咳をする。
部室内の時計に目をやり、昼休みが終わるには遠いことを確認。弁当の中身も空っぽとは言えない。
今日はどれくらい先輩にセクハラされるんだろうか。食事している最中くらいは待っててほしいけど、言っても先輩は聞いてくれなかった。
「私は快楽主義に生きていたい。でもね、男女仲に関しては清廉な女性でありたいとも思うんだ。初めては全部、一生を共にする人に捧げたいとね」
「そんなもんじゃないですか、女子って」
「そうだね。男性も同じだろう。ところで君は童貞だな」
「ぐほっ」
「わかりやすいんだよ君は」
恥じることではないのに、と苦笑気味の先輩を睨みつつ、変なことを言われる前に急いで飯をかきこむ。
先輩は懐からワインの瓶を取り出して、どかりと机の上に置いた。ラベルは貼られていない。それから席を立ち、先輩が部室の棚の中に隠してあるグラスを取り出そうとして、こちらに振り向く。
「君も飲むか?」
「酒は弱いので」
「残念だな。その断り文句も聞き飽きた。いつになったら強くなってくれるかな」
「学校の外なら強くなるかもしれませんね」
「覚えておこう。補導されない程度に」
微笑みながら机に戻り、卓上にワイングラスを一つだけ置く先輩。それから手慣れた仕草でコルクを抜き、音を立てて注いでいく。部室内にワインのいい匂いが広がっていくのは、正直に言って好きだ。
赤いワインを一口飲んで、先輩は満足に息を吐いた。
「今日もいい天気だな。快晴の日に友達と外で遊んだりはしないのか、後輩」
「先輩が昼休み終わるまでに逃がしてくれるなら」
「はは、それはダメだな。酒のつまみに逃げられたらワインも美味しくなくなるよ」
「でしょうね」
それに、逃げたとしてもサテュロス特有の俊足で即座に捕まえられるだけ。逆関節の有蹄足でどうしてあんなに足が速いのか、本当に不思議だ。
「さて……童貞の男性と処女の女性が密室でふたりきり、そして女性は飲酒して酔っている……となれば、もうやることは一つしかないな」
「会話ですね」
「もしかしてインポテンツなのか?私が病院に付き添ってやれば勃起治療を格安でしてもらえるそうだが」
「……先輩は至ってシラフなので、この部屋に酔ってる女性なんていません」
「おっと、失敬。ワインだけで酔うには瓶一本じゃ足りなくなるからね、それは確かだ。もっとも、君に酔ってるからアルコールはいらないんだが」
そう言ってもう一口、グラスを傾ける先輩。美味しそうに酒を飲む姿にかけては、恐らく先輩に勝る女性はいないと思う。普段の出で立ちからしても気品に溢れていて、昼の光を浴びる先輩の栗色の髪は綺麗なんて言葉を百回重ねてなお足りない。
ヘビードランカーでセクハラ大好き、なんておっさんみたいな性格じゃなければ、もっと人望厚かったかもしれない。
「酔うといえば、以前近くの居酒屋で独りで晩酌していた時にナンパされたよ。中々の美丈夫で人の良さが窺えたし、今までナンパされた男の中ではそれなりに上位のいい男だったな」
「はあ。応じてあげればよかったじゃないですか」
「私にも好き嫌いはあるし、その場の気分というものだってあるさ。てきとーに二言三言話して追い払った。独り晩酌は気安い女に見えるらしい」
グラスの中身を飲み干して、手を休めずにワインを注ぐ先輩。なみなみとワインで満たされたグラスをこちらに掲げ、それに、と言葉を続ける。
「それに、毎日毎日と目の前にいい男が居てくれるからね。その辺の男じゃ満足できないさ」
「……そりゃ、よかったですね」
してやったり顔で優雅にワインを飲む先輩を直視することはできなかった。といっても、片手で顔を覆っただけだけど。照れてる表情を見たら先輩はますます調子に乗るもんな。
――
弁当を片付け、流し台で洗う。調理準備室の水道は校内の他の水道と比べて非常に綺麗だ。掃除を念入りに行う人間がいるおかげで。
「家政夫になりたいなら、私は君を養えるよう良い会社に務めなくてはならなくなるがな」
「調理士志望ですって……」
「そんなもんか。私は好きな人に自分の料理を振る舞いたいから料理部に入ったんだが、後輩は意識が高いな」
現在の部員数は十名ほどで、ほとんどが女性。その誰もが恋人持ちだ。だからか、昼休みに調理準備室を利用するのは先輩と自分しかいない。そして先輩は大雑把でてきとーな人なので、自然と準備室を清掃するのは自分の担当になる。
「しかし、昼食に弁当を食べるのはいいとしても、それを毎日か。母親に作ってもらってるというわけでもないだろう」
「自分で全部作ってます。朝起きて弁当作ってご飯食べて、って感じですね」
「見上げた精神じゃないか。明日から私の弁当も作ってくれるなんて、いい後輩を持ったものだ」
「一言も言ってませんよ」
「ハートの田麩を白米の上に乗せて、刻み海苔で"先輩LOVE"って書くのも忘れるなよ」
「男女逆じゃないですかそれ」
蛇口を閉めて日向に濡れた弁当を置いて、タオルで手を拭う。最初はこうしている間もずーっと先輩にじろじろ見られて落ち着かなかったけど、慣れてからは気にしなくなった。
机に頬杖をついて半笑いのまま視線を向けてくる先輩は、それだけでも絵になる存在感なのが困る。
「しかし男子学生というものは、朝は寝坊して幼馴染に起こされ、ついでに胸を揉むものじゃないのか」
「探せばどっかにいるんじゃないですか、テンプレなんだし」
「ちなみに私の胸はEカップだ。トップとアンダーの差は二十一センチ」
「……前にも聞きました」
「覚えててくれて嬉しいな。だが反復学習は大事だ。何度でも言ってやろう。実際に触ってみるともっと覚えやすいかもしれない」
「はいはい、遠慮しときます」
わざわざブレザーをルーズに着て、ワイシャツを押し上げる胸を強調するスタイルが先輩の普段の格好だ。視線が誘導されそうになるけど、それが先輩の狙いなのは明白だった。
「ときどき本気で心配になるんだが、君はインポじゃないんだよな」
「ノーコメントで」
「この前部室でうたた寝している時に確かめたから、勃起は問題ないはずなんだよな。私も保証する」
「え、あの」
「ああ、触れてはいない。せっかくいいモノ持ってるんだから使わないと勿体無いだろうにな」
「余計なお世話ですよ……」
汗が一気に吹き出す。あのときは本当に迂闊だった。もう二度と部室で昼寝なんかしない。
「となると私の容姿が問題か。私は美少女だと自負しているんだが、やはり山羊足が問題かな」
「……別にそれは、気にしてないです。いいと思います」
「じゃあ本当になんなんだ。貧乳派なのか?サバト方面なのか?」
「ノーコメントで……」
「やれやれ。白蛇やマインドフレイアの性質が理解できそうになるよ。私は彼女たちが苦手だが、その有り様は納得できるしな」
ため息を吐く先輩。ワインボトルはもう空のようだった。
「サテュロスって、ああいう無理やり惚れさせるようなのはないんですか」
「ある。使わないだけだ」
「ああ……」
「結局は私のワガママだな。こちらが清い付き合いをしたいと思ってる相手に使うようなものでもないんだ」
ペットボトルを落っことしそうになって慌ててもう片方の手でキャッチし、先輩の方に振り向く。彼女はただ微笑むだけだった。
「……人をからかうのは楽しそうですね」
「すごく楽しいな。君のおかげで、ここ一年の生活は最高に満ちているよ。それまでは恋愛沙汰なんて一欠片もなかったんだ」
感慨深げな表情の先輩。もう先輩は三年で、自分は二年だ。もし同い年だったら違う出会い方をしていたんだろうか。
「とはいえ、購買のパンの味はもう飽きた。そこだけだな。昼食がマンネリなのはクオリティオブライフに関わってくると思わないか」
「作ったらいいじゃないですか、弁当」
「君は私が早起きできると思うのか?」
「知りません」
「なら、一緒のベッドで寝て確かめるのがベストだろう。ああ、でもそうすると君も寝坊してしまうかな」
遠慮しときます、とだけ伝えてバッグから料理雑誌を取り出す。同時に筆箱も取り出して、あとで使うために予め蛍光マーカーを置いておく。
「思うに、私より君が部長を務めるべきじゃないかな。雑事は嫌いなんだよ」
「そうはいっても、先輩バリバリこなすじゃないですか。年度初めの新入生向け部活紹介とか、生徒会に提出する諸々とか」
「嫌いだからね。あんなもの、さっさと終わらせて解放されたいに決まってるだろう。あれなら君の尻に指を突っ込むほうがマシだ」
聞く話によれば、先輩は成績もテストも優秀だそうだ。文武両道才色兼備、だけど性格がこれだもんな。欠点のないものはないってことがよくわかる。
「君が望むなら逆アナルだって構わないんだが」
「絶交しますよ」
「ま、そうだろうな。私だってアナルを責めるよりアナルに責められたいさ」
「……」
「今のうちに拡張しておくべきかな。受け入れるには難儀しそうなサイズだったし」
「漏らしやすくなったらどうするんですか」
「介護してもらおうかな……なんて、冗談だよ。そもそも括約筋はそんな貧弱なものじゃない。筋トレと同じで、筋肉は切れた分だけ超回復する。お腹が緩くなるなんてことはない」
「詳しいですね」
「エロ本に書いてあった」
めちゃくちゃ信憑性なくなったな……。
「それに何より、魔物の身体は強靭だ。人間の体よりも二回りくらいは頑丈なもんさ」
「体育でも分けられるくらいですからね」
「そう。心配ご無用ってね。精神的な方面では人間より打たれ弱いかな」
「そうですか?それこそ嘘くさいんですが」
「……所詮は魔物だよ。優れてるところがあれば、欠点も存在する。私も強くありたいんだけど、最近はなかなか打たれ弱くなったなと感じてしまうばかりだ」
「というと、やっぱり進路ですか」
「はあ……本気で嫌になるね」
目を伏せて深く嘆息する先輩。言われてみれば、最近はため息を吐く回数が増えてるような気がする。
「でも先輩ならどこでもいけるんじゃないですか?」
「……まあ、君がそう思うならそれでいいよ。そういう君こそ、進路は定まってるか疑問だけど」
「一応は。東京に行って専門学校で勉強して、調理士免許取ったらすぐにどこかで働こうかなと」
「ふむふむ……奇遇だな、私も東京で独立するつもりだ。ひとまずは安心した」
「俺だって、ちゃんと考えてますよ。いろいろと」
「ん?……ああ、うん。それならよかった。君を置いていくのは心残りだからな。別に一年遊んでから東京に行ってもいいんだが」
この人はとんでもないことをさらりと言う。珍しくきょとんと疑問符を浮かべていたのがちょっと引っかかったけど、またなにか考えてたのかな。
「心残りと言えば、東京に行く前に処女を卒業しておきたいところだけれども」
「先輩ならすぐにでもできるんじゃないですか……」
「君は本当に野暮だな……先輩に冷たいと思わないのか?そんな冷淡でガツガツいかないようじゃ、この先も彼女できないぞ」
「先輩が身も蓋もないとこうなっちゃうんですよ」
「酒の神バッカスはこう言った。"酒に酔い、全てをさらけ出した状態こそがあるべき姿である"。ああ、脱いだほうがいいかな」
「ただの痴女になるんでやめてください」
「露出の一つや二つくらいは気軽いさ。君が望むなら、ね」
ぷちぷち、とワイシャツの第二ボタン第三ボタンを外して露骨に谷間を見せつけてくる先輩。雑誌を立てて視線ガードする。
「なぜだ。ノーブラなのは知ってるだろう。女性のおっぱいを見るくらいならいいじゃないか、減るものじゃないんだぞ」
「いいからしまってください」
「朴念仁め……」
朴念仁じゃない、と思う。全部わかってるつもりだ。
「そうやって私のハラスメントを回避しようとしてるだけで、私のことを意識してくれている、ということはよくわかる。はあ、なんで君はそう真面目すぎるのかな」
「奔放すぎるだけでしょ、先輩が」
「じゃあ聞くが、君の理想の恋愛像はなんなんだ?一年ほど君を見てきたが、未だによくわからない」
「言ったら先輩、変な感じになると思いますよ」
「君の言葉だけでブレるほど、私の芯は弱くない。安心して言うといい」
「だから、言うと先輩が変わるから言いません」
「……どういうことだ?恥ずかしいってわけでもあるまいに……こういうときだけ君は謎なんだよな。聞き分けの悪い後輩でもないしな……」
だって、それは今の関係ですなんて言ったら、先輩は意識してしまうだろうから。
☆
「残り150日だ」
「え?なにがですか?」
部活動後の調理室の掃除をしながら、不意に話しかけてきた先輩の方を見る。先輩は先ほど作ったばかりのチョコマフィンを手にとって眺めているだけだった。
先輩が座る調理台の上には、先輩と自分が作ったマフィンがいくつか。冷める前に全部食べきるのは無理そうだ。
「私の登校日数だよ。150日。これを多いと見るか、それとも少ないと見るか」
「けっこうある……って思いますけど」
「まあ、うん……そう思うならそれでもいいかもしれないが……」
珍しく歯切れ悪く、先輩は難しい顔をしていた。夕焼けに照らされる先輩もまた、すごく綺麗だ。
「光陰矢のごとし。私はあと150日しか君に会うことができない、と思ってる。高校生活は一度きりしか味わえないから」
「定時制は高校って感じしなさそうですもんね」
「……真面目に言ってるんだぞ」
くしゃり、と先輩はマフィンを握り潰した。こっちを睨んでくる先輩の表情は、見たこともないほど怒気が込められていて、同時に強い寂寥感を漂わせていた。
動揺して何も言えないうちに、先輩は肩を怒らせてこちらの眼前まで歩いてくる。
「いいか、私は人生で初めて学校での生活が楽しいと思えてる。今日の部活も楽しかった。全部君のおかげだ。一年前からそうだ。君のおかげで、永遠に続いてほしいと思ってしまうほどにだぞ。だから君には感謝してる」
「え、と……」
「私は君から離れたくない。そばにいたい。今まで君にしてきたことで君が不愉快に思ったことがあるなら、私は全部謝罪する。どんな復讐だって、私は全て受け入れよう。君が私を嫌っても仕方ないと思ってる」
「そんなこと、」
「だけどな、私は君の全てを気に入った。大好きなんだ。愛してるんだよ。君は知らなかったかもしれないがな」
先輩に胸ぐらを掴まれながら、一息に告白された。
息が苦しくて、実際に言われてしまった言葉に返す言葉が思いつかない。
重い沈黙が数秒流れて、先輩は手を離す。
「……頭に血が上っていた。今のは違う、嘘だと思ってくれ」
「……知ってましたよ」
「は?」
「わかっててやってたん、じゃないんですか」
「何をだ」
「普段の、こう……接し方です。実力行使に出ないのはそういうことだと。言ってたですし」
はてな、と頭を傾げる先輩。本気で言葉の理解ができていないのか、しばらく思考を回転させ続けて。
「――待て。摺り合わせをしよう。君は私に恋愛感情を持ってるのか?」
「えーと……はい。大好きです」
「あーあーあーあー!聞こえなかった!おっと黙れ、男に二言はないぞ」
「使い方間違ってますよ……」
「どうでもいいことだ。じゃあ、私が部活で作ったものをいつも食べてくれるのは?」
「先輩が喜ぶなら、と思って」
「イヤ、だったわけじゃ」
「ないです。先輩は料理上手で――」
「うるさい、次。いつもいつも私と昼を共にしてくれるのはどういうつもりだったんだ」
「だって先輩、俺がいないときは退屈そうに昼飯食べてるって聞きま――」
「どいつだ!そんなこと言ったの!」
「しゅ、守秘義務です」
「ああもう!くそ、いつからだ。いつから、す――あー、そう思ってた」
「そう思うって……ああ。ええと」
先輩と出会ってからのことを思い出し、
「先輩と話し始めて三日くらいですかね」
「即オチじゃないかふざけるな……」
机に手をついて頭を抱える先輩。先輩の耳が赤く見えるのは、夕焼けのせいじゃないらしい。
「……うー、あー。くそ……私は馬鹿か……ありえない……」
「先輩?」
「もういい、よくわかった。お前も、あれ……その、あれなんだろう。それはよくわかった。しかも私の、こういうあれをわかってて……ああしてたわけだ」
「抽象的すぎてボケた爺さんみたいになってますよ」
「うるさいな。ていうか、こういう時の男子は朴念仁じゃないのか?童貞特有の妄想だって考えたりしないのか?」
「だって先輩、やたら露骨にアピールしてきたじゃないですか」
「え、そんなに?セックスアピールはしたつもりはあったが」
「すごいわかりやすかったので、隠してるわけじゃないと思ってました」
絶句し、頭を抱え、うううと唸り声を上げる先輩。今日の先輩は怒ったり焦ったり照れたり、珍しい。
「後輩……今日のことは、全部忘れろ。なにもかもだ、なにもかも」
「それ、先輩のほうじゃないですかね」
「そうだ……私も全部忘れてしまいたい。トラックが突っ込んできて都合よく今日の記憶消してくれないかな……」
「そんな都合のいいトラックなんかないですから」
掃除を終えて、先輩のマフィンを一つ頬張る。美味しい。
「人がとっても動揺してるときに、のんきだな君は……」
「いつものんきしてる呑兵衛に言われたくないですよ。そもそも、残り150日しか会えないって言っても登校日だけなんでしょ。休みの日も会えばいいじゃないですか」
「え……そ、そういうのは付き合ってからというか……」
「なんで急に乙女になるんですか……」
呆れつつ、残りのマフィンをラップで包む。持って帰って食べよう。
「私は……君がワインを飲んでくれたら、言おうと思ってた。魔界産の、恋人同士になれるって評判のワインだ。匂いを嗅ぐだけで互いに惹かれ合うって曰くつきの」
「……それって、つまり」
「ああ。とっくに……ってことなんだろう。確かに君は匂いを嗅いでもそういう素振りなかったよな……。くそ……もうやだ死にたい……」
ラベルがいつもなかったのは、ラベルから意味を理解されたくなかったってことか。机に突っ伏した先輩の表情は伺えないけど、見たら怒られる顔だろうな。
「……なあ、後輩」
「なんですか」
「酒の神バッカスに誓って、明日からもいつものように接する。……だけど、その……、これからは休みの日に……」
「遊びますか?予め連絡しておいてくれれば大丈夫ですよ」
「本当か!よし……そうと決まれば、こうしちゃいられないな。私は先に帰る、あとはよろしく頼む」
「いつもみたいに一緒に帰らないんですか」
「い、いいだろ、たまには。女性はいろいろと忙しいんだよ、いろいろと」
鞄を乱暴に拾い上げ、ドアへと歩いていく先輩を見送る。普段よりも覇気がないことに、ちょっとした罪悪感を覚えつつ。
「それじゃ、また明日会おう」
「はい、また」
「それとだ、後輩!」
「なんです」
「これから本気で口説いてくぞ。覚悟しておけ」
「期待してます」
先輩との高校生活最後の一年は、本当に楽しくなりそうだった。
16/03/21 21:51更新 / 鍵山白煙