四畳一間でゾンビな彼女といちゃつく
彼女の死因は頸動脈への外傷による出血多量だったんだなぁ、なんて昼下がりどきに特有の呆けた思考を巡らせながら、僕は他の人よりも体温が低くなってしまった彼女を温めてあげるために抱きしめていました。彼女の白くて細い首筋に入った一筋の切れ込みに心が惹かれる理由は、ミロのヴィーナスが腕を失ってもなお美しい理由と同じだと思うんです。
彼女は手懐けられた獣みたいに甘える声を発しながら、すりすりと頬をこちらの首にこすりつけてきます。生前からふわふわにパーマがかかっていた焦げ茶の髪はいまでも可愛らしく健在で、毛先がこちらの肌をさらさらとこすれるのが少しくすぐったいです。
窓の外から聞こえる喧しいセミの声もいまは遠くに感じられて、四畳ばかりの小さな部屋が僕らの聖域と化していました。あらゆるしがらみから率先して解放されていった彼女と、そんな彼女さえいればいい僕。紛れも無い幸せの形がここにありました。
四畳一間で僕と彼女以外にはふとんしかない寂しい部屋ですが、住めば都というものです。そもそも、大好きな彼女と触れ合っているだけで半日は平気で過ぎていきますし。
「大好きだよ」
「だー……？ だー、すきー」
「ふふふ」
彼女も大好きっていいたいのにうまく呂律が回らなくて、それなのにちゃんとすきって言葉だけは伝えられる。健気な彼女と相思相愛でいられることが僕にとってはたまらなく嬉しくて、ついつい強く抱き締めてしまいます。
彼女は一切抵抗せず、うすぼんやりとした動きで抱きしめ返してくれさえします。彼女の呼吸音や鼓動が聞こえないのは少し残念ですが、彼女がゆるゆるとこちらにスキンシップを返してくれるだけでも僕にとっては最高です。もはや僕には彼女しかいませんし、彼女しかいりません。
きゅ、と彼女が喉から掠れた声を出したのに気づくと、僕は深呼吸してから彼女の唇に唇を重ねて、息を吹き込んであげます。ゾンビとなってから呼吸を忘れてしまった彼女は、ときどきこうして息を分けてあげないと発声もできません。彼女には僕しかいませんから、当然僕が息を分けてあげます。
すると彼女はほとんどの機能を欠落させている表情筋をせいいっぱい動かして、拙い微笑みを見せてくれました。
「あぃがと」
「どういたしまして」
なにに対しての感謝かはわからないけど、ときどきこうして微笑みながらありがとうと言ってくれます。たぶん、このありがとうにはいろいろな意味が込められているはずですが、僕は察しが良い人間ではないので推し量ることはできません。彼女が嬉しそうならそれでいいかな、として深く考えることもしません。
外の太陽は頂点と日没との中間ほどで、動ける夜までにはまだまだ時間があります。この幸せな時間が止まったらいいのにとか、幸せな日がずっとぐるぐる続けばいいのに、なんて考えることはしょっちゅうです。だけどそんな超能力みたいなことはありえませんし、起こらないからこそ彼女との甘くて幸せな時間を大事にできているわけでもあります。
とにかくポジティブシンキング、とは生前の彼女の口癖でした。ふと、これまでの彼女との繋がりを思い出してしまい、小さく笑いを漏らしてしまいました。不思議そうに小首を傾げてこちらの瞳を覗き込んでくる彼女を見つめながら、少しだけ問いかけてみることにしました。
「覚えてる？小学生の頃の夏の話だけどさ」
「おー？」
「ほら、いつもの仲良しグループで近くの神社の森のなかに秘密基地を作ってたよね」
「んーんー……」
「忘れちゃったかなー」
彼女は僕の膝の上で体を揺らしながら、話の続きを待っているみたいでした。話の内容の一割も理解できてなさそうな彼女を相手に、それでも話を続けようとする僕は、寝る前に子どもをあやすための絵本を読んであげている母親の心境です。
彼女の良い髪をくしゃくしゃにしないように気をつけながら頭を撫でてあげて、それに目を細めて喜ぶ彼女の姿に微笑み、思い出したことを彼女へ教えてあげます。
「あの秘密基地、段ボールとか廃材をてきとうに集めてきただけのボロい作りなのに、ゴーちゃんがぐっすり寝てたときあったよね。二人で両親に連れられて市民プール行った後ちょっと遊び足りなくて秘密基地行ってみたら、ってやつ。おぼえてないかなー」
「なー」
「ふふふ」
僕の語尾を真似して発音した彼女がとっても可愛らしくて、思わず顔が綻んでしまいます。まあそれもいつものことで、彼女の傍にいるときの僕の表情はいつもゆるゆるにニヤけています。誰かに見られたら赤面必至ってくらいのニヤけ面です。
なんてったって、幸せですから。彼女と共にいられるこの至福の時間でだけは、そんな顔をしていても許されると思うんです。誰が花を愛でたとしても、それを責める権利は誰にもありません。僕がこの生気を失った花を愛でるのだって、どんな人にも誰にも何にも否定はできません。否定されようとも続けますから他人から思われることなんてどうでもいいっちゃそうなんですが。
それに花と違って、彼女の方から僕を愛でてこようとする時だってあります。
「なー……め」
「わ。どうしたの？嬉しいけど」
彼女は膝立ちになってこちらの頭を胸に抱え込んできました。生前からあまり肉感的ではない彼女でしたが、しかし男性と違って女性は誰しも柔らかさを持ち得ています。それに、とてもいい香りがします。
ありがとうと言ってくれるのと同様に、こうしてなんの前触れもなくこちらの頭を抱き締めてくれることもあります。ここ最近はどちらも頻度があがってきて、一日に数回だってされることも。僕がことごとく喜んでいるから、彼女も嬉しくなってついついやっちゃうんでしょうか。なんだか犬の躾みたいだなぁ、と少しだけ複雑な気分です。
「なーちゃ」
「ふふ、なにかな」
「めー」
「そっかー」
なにひとつわかっていない返事ですが、彼女から話しかけられることだってすごく嬉しいです。コミュニケーションが成立するのは花にはできないことですし、彼女にそっぽを向かれたらめちゃくちゃへこみますし。
そろそろ僕の名前を呼んでみてくれないかなーとか愛してるまでステップアップしないかなーとか高望みしちゃいますが、こうして彼女との幸せな時間を過ごしていればいずれはそれもあるでしょう。そのときがいまから楽しみです。
「うー」
「ちょ、わぷ」
頭を抱くのをやめてくれたと思ったら、両手で頬をごしごしと若干乱暴に撫でてきました。彼女の行動の原理は基本的に僕と触れ合うか遊ぶかってくらいらしく、この場合は僕で遊んでいることになるんでしょうか。しばらくすりすりと両手を動かしたと思ったら、急にそれもやめて僕の膝の上に座り直します。
ぽやっとした表情から次はどんな行動をしてくるのかが読めなくて、だけどその行動に込められた僕への愛情にいちいちときめいてしまいます。ただ、濡れた手を拭うのに僕のシャツを使うのはやめてほしいところなんですが、それもご愛嬌ということですっぱり諦めます。
苦笑気味に息を一つ吐いて、それから彼女の表情を伺ってみると、今度はじっと目を逸らさずにこちらを見つめてきていることに気づきました。それはもう、穴が開きそうなほどに。彼女は美人で可愛いですし、そんな子に凝視されるとなんだか気恥ずかしさが出てきます。
とはいえ、互いは相思相愛の仲。僕だってもう子どもじゃないので、見つめ返すこともできます。交錯する視線。目を合わせて、彼女の血色のない顔に見入ります。
彼女の生前の性格は、どんな人でも彼女の顔を見ただけでだいたい察することができる程度には単純さがありました。丸っこさを持ちながらも意思の強い瞳に、シュッとしたシャープな輪郭。薄く小さな唇とあまり目立たない小鼻は彼女の女性らしさを表していたはずですが、だいたい彼女が大いに笑う時は男子のように品がありませんでした。それも彼女の魅力でした。
男勝りな性格ながらも女の子らしいところは少なからず持ち合わせていて、喋らずに遠目から見ていれば美人な性格。それがだいたいの人の評価でしたし、自分もそれに異存はありません。礼儀正しく親しみやすくて友達止まり、そういう人物でした。
こうして彼女を見つめつつも懐かしく生前の彼女を想っていると、やおら目を伏せて肩を落としながらこちらに力なく寄りかかってきました。
「どうしたの？」
「どー」
こういうときにちゃんとしたコミュニケーションができないのは困りものですが、彼女の仕草を観察していれば自ずと見えてくるものだとなんとなくわかります。といっても、なんでもわかるってわけではありません。
ぐったりともたれかかってくる彼女の背中をさすってあげながら、名前を呼んでどうしたのか伺ってみます。彼女は言葉にならない言葉を返すのみで、あとは不動。どうしたんでしょう。さっぱり理由が思い当たりません。
ゾンビとして動き回るための精の供給についてはこうして触れ合ってるだけでも成り立ちますし、まだその時間じゃありません。単純に精神的にがっかりしてる、というのだったらお手上げです。だけど別に彼女にフラれたという様子でもないですし、本当わけがわかりません。
「なんか悪いことしちゃった？」
「ごー……め、ぇ」
また声が掠れだしたので、息を吹き込んでみます。彼女は無抵抗で唇を委ねてくれるので、やっぱりフラれたわけじゃないのは確実みたいでした。まず一安心ですね。
しかしお手上げなのは変わりません。彼女の胸中でいったいなにがあったのか、それは彼女にしか知り得ないことです。
「んー……」
「ごめんね、わかってあげられなくて」
「もー……」
きっと彼女もいっぱい喋りたいことがあるのでしょうが、言葉の伝達方法が声にしかない僕たちには難しい話でした。もごもごと回らない舌を口の中で転がしながら発声を諦める彼女を見ると、自分の不甲斐なさに申し訳なく思ってしまいます。
だけど彼女はそれでも僕を抱き締めることを止めません。互いに思ってることの根っこの部分は、二人とも共通だと信じたいです。
「大好きだよ」
「だーすき」
「愛してる」
「あー……る？」
舌っ足らずな死人の恋人として、彼女がしっかり愛してると言えるようになるまでは彼女を放っておくことはできそうにありません。なんて思いながらこっちの方から抱き締めてる辺り、僕のほうが彼女に依存してる部分もありますが。
とにかくポジティブシンキング。
「なんとかなるよね」
「ん」
わかってなさそうな表情で頷いてくれる彼女は、ちょっとずつでも確かに知性を取り戻しつつありました。死後二ヶ月の引きこもり生活は無駄ではありませんでした。
そうさ、なんとかなるもんさ。ケセラセラっていうしね。
とりあえず手近な魔界を目指してみよう。その後のことはその後で考える。
僕には彼女さえいればいい。彼女には僕しかいない。それが何より勇気になる。
窓の外を見ると、ちょうどお月様が微笑んでるところだった。
彼女は手懐けられた獣みたいに甘える声を発しながら、すりすりと頬をこちらの首にこすりつけてきます。生前からふわふわにパーマがかかっていた焦げ茶の髪はいまでも可愛らしく健在で、毛先がこちらの肌をさらさらとこすれるのが少しくすぐったいです。
窓の外から聞こえる喧しいセミの声もいまは遠くに感じられて、四畳ばかりの小さな部屋が僕らの聖域と化していました。あらゆるしがらみから率先して解放されていった彼女と、そんな彼女さえいればいい僕。紛れも無い幸せの形がここにありました。
四畳一間で僕と彼女以外にはふとんしかない寂しい部屋ですが、住めば都というものです。そもそも、大好きな彼女と触れ合っているだけで半日は平気で過ぎていきますし。
「大好きだよ」
「だー……？ だー、すきー」
「ふふふ」
彼女も大好きっていいたいのにうまく呂律が回らなくて、それなのにちゃんとすきって言葉だけは伝えられる。健気な彼女と相思相愛でいられることが僕にとってはたまらなく嬉しくて、ついつい強く抱き締めてしまいます。
彼女は一切抵抗せず、うすぼんやりとした動きで抱きしめ返してくれさえします。彼女の呼吸音や鼓動が聞こえないのは少し残念ですが、彼女がゆるゆるとこちらにスキンシップを返してくれるだけでも僕にとっては最高です。もはや僕には彼女しかいませんし、彼女しかいりません。
きゅ、と彼女が喉から掠れた声を出したのに気づくと、僕は深呼吸してから彼女の唇に唇を重ねて、息を吹き込んであげます。ゾンビとなってから呼吸を忘れてしまった彼女は、ときどきこうして息を分けてあげないと発声もできません。彼女には僕しかいませんから、当然僕が息を分けてあげます。
すると彼女はほとんどの機能を欠落させている表情筋をせいいっぱい動かして、拙い微笑みを見せてくれました。
「あぃがと」
「どういたしまして」
なにに対しての感謝かはわからないけど、ときどきこうして微笑みながらありがとうと言ってくれます。たぶん、このありがとうにはいろいろな意味が込められているはずですが、僕は察しが良い人間ではないので推し量ることはできません。彼女が嬉しそうならそれでいいかな、として深く考えることもしません。
外の太陽は頂点と日没との中間ほどで、動ける夜までにはまだまだ時間があります。この幸せな時間が止まったらいいのにとか、幸せな日がずっとぐるぐる続けばいいのに、なんて考えることはしょっちゅうです。だけどそんな超能力みたいなことはありえませんし、起こらないからこそ彼女との甘くて幸せな時間を大事にできているわけでもあります。
とにかくポジティブシンキング、とは生前の彼女の口癖でした。ふと、これまでの彼女との繋がりを思い出してしまい、小さく笑いを漏らしてしまいました。不思議そうに小首を傾げてこちらの瞳を覗き込んでくる彼女を見つめながら、少しだけ問いかけてみることにしました。
「覚えてる？小学生の頃の夏の話だけどさ」
「おー？」
「ほら、いつもの仲良しグループで近くの神社の森のなかに秘密基地を作ってたよね」
「んーんー……」
「忘れちゃったかなー」
彼女は僕の膝の上で体を揺らしながら、話の続きを待っているみたいでした。話の内容の一割も理解できてなさそうな彼女を相手に、それでも話を続けようとする僕は、寝る前に子どもをあやすための絵本を読んであげている母親の心境です。
彼女の良い髪をくしゃくしゃにしないように気をつけながら頭を撫でてあげて、それに目を細めて喜ぶ彼女の姿に微笑み、思い出したことを彼女へ教えてあげます。
「あの秘密基地、段ボールとか廃材をてきとうに集めてきただけのボロい作りなのに、ゴーちゃんがぐっすり寝てたときあったよね。二人で両親に連れられて市民プール行った後ちょっと遊び足りなくて秘密基地行ってみたら、ってやつ。おぼえてないかなー」
「なー」
「ふふふ」
僕の語尾を真似して発音した彼女がとっても可愛らしくて、思わず顔が綻んでしまいます。まあそれもいつものことで、彼女の傍にいるときの僕の表情はいつもゆるゆるにニヤけています。誰かに見られたら赤面必至ってくらいのニヤけ面です。
なんてったって、幸せですから。彼女と共にいられるこの至福の時間でだけは、そんな顔をしていても許されると思うんです。誰が花を愛でたとしても、それを責める権利は誰にもありません。僕がこの生気を失った花を愛でるのだって、どんな人にも誰にも何にも否定はできません。否定されようとも続けますから他人から思われることなんてどうでもいいっちゃそうなんですが。
それに花と違って、彼女の方から僕を愛でてこようとする時だってあります。
「なー……め」
「わ。どうしたの？嬉しいけど」
彼女は膝立ちになってこちらの頭を胸に抱え込んできました。生前からあまり肉感的ではない彼女でしたが、しかし男性と違って女性は誰しも柔らかさを持ち得ています。それに、とてもいい香りがします。
ありがとうと言ってくれるのと同様に、こうしてなんの前触れもなくこちらの頭を抱き締めてくれることもあります。ここ最近はどちらも頻度があがってきて、一日に数回だってされることも。僕がことごとく喜んでいるから、彼女も嬉しくなってついついやっちゃうんでしょうか。なんだか犬の躾みたいだなぁ、と少しだけ複雑な気分です。
「なーちゃ」
「ふふ、なにかな」
「めー」
「そっかー」
なにひとつわかっていない返事ですが、彼女から話しかけられることだってすごく嬉しいです。コミュニケーションが成立するのは花にはできないことですし、彼女にそっぽを向かれたらめちゃくちゃへこみますし。
そろそろ僕の名前を呼んでみてくれないかなーとか愛してるまでステップアップしないかなーとか高望みしちゃいますが、こうして彼女との幸せな時間を過ごしていればいずれはそれもあるでしょう。そのときがいまから楽しみです。
「うー」
「ちょ、わぷ」
頭を抱くのをやめてくれたと思ったら、両手で頬をごしごしと若干乱暴に撫でてきました。彼女の行動の原理は基本的に僕と触れ合うか遊ぶかってくらいらしく、この場合は僕で遊んでいることになるんでしょうか。しばらくすりすりと両手を動かしたと思ったら、急にそれもやめて僕の膝の上に座り直します。
ぽやっとした表情から次はどんな行動をしてくるのかが読めなくて、だけどその行動に込められた僕への愛情にいちいちときめいてしまいます。ただ、濡れた手を拭うのに僕のシャツを使うのはやめてほしいところなんですが、それもご愛嬌ということですっぱり諦めます。
苦笑気味に息を一つ吐いて、それから彼女の表情を伺ってみると、今度はじっと目を逸らさずにこちらを見つめてきていることに気づきました。それはもう、穴が開きそうなほどに。彼女は美人で可愛いですし、そんな子に凝視されるとなんだか気恥ずかしさが出てきます。
とはいえ、互いは相思相愛の仲。僕だってもう子どもじゃないので、見つめ返すこともできます。交錯する視線。目を合わせて、彼女の血色のない顔に見入ります。
彼女の生前の性格は、どんな人でも彼女の顔を見ただけでだいたい察することができる程度には単純さがありました。丸っこさを持ちながらも意思の強い瞳に、シュッとしたシャープな輪郭。薄く小さな唇とあまり目立たない小鼻は彼女の女性らしさを表していたはずですが、だいたい彼女が大いに笑う時は男子のように品がありませんでした。それも彼女の魅力でした。
男勝りな性格ながらも女の子らしいところは少なからず持ち合わせていて、喋らずに遠目から見ていれば美人な性格。それがだいたいの人の評価でしたし、自分もそれに異存はありません。礼儀正しく親しみやすくて友達止まり、そういう人物でした。
こうして彼女を見つめつつも懐かしく生前の彼女を想っていると、やおら目を伏せて肩を落としながらこちらに力なく寄りかかってきました。
「どうしたの？」
「どー」
こういうときにちゃんとしたコミュニケーションができないのは困りものですが、彼女の仕草を観察していれば自ずと見えてくるものだとなんとなくわかります。といっても、なんでもわかるってわけではありません。
ぐったりともたれかかってくる彼女の背中をさすってあげながら、名前を呼んでどうしたのか伺ってみます。彼女は言葉にならない言葉を返すのみで、あとは不動。どうしたんでしょう。さっぱり理由が思い当たりません。
ゾンビとして動き回るための精の供給についてはこうして触れ合ってるだけでも成り立ちますし、まだその時間じゃありません。単純に精神的にがっかりしてる、というのだったらお手上げです。だけど別に彼女にフラれたという様子でもないですし、本当わけがわかりません。
「なんか悪いことしちゃった？」
「ごー……め、ぇ」
また声が掠れだしたので、息を吹き込んでみます。彼女は無抵抗で唇を委ねてくれるので、やっぱりフラれたわけじゃないのは確実みたいでした。まず一安心ですね。
しかしお手上げなのは変わりません。彼女の胸中でいったいなにがあったのか、それは彼女にしか知り得ないことです。
「んー……」
「ごめんね、わかってあげられなくて」
「もー……」
きっと彼女もいっぱい喋りたいことがあるのでしょうが、言葉の伝達方法が声にしかない僕たちには難しい話でした。もごもごと回らない舌を口の中で転がしながら発声を諦める彼女を見ると、自分の不甲斐なさに申し訳なく思ってしまいます。
だけど彼女はそれでも僕を抱き締めることを止めません。互いに思ってることの根っこの部分は、二人とも共通だと信じたいです。
「大好きだよ」
「だーすき」
「愛してる」
「あー……る？」
舌っ足らずな死人の恋人として、彼女がしっかり愛してると言えるようになるまでは彼女を放っておくことはできそうにありません。なんて思いながらこっちの方から抱き締めてる辺り、僕のほうが彼女に依存してる部分もありますが。
とにかくポジティブシンキング。
「なんとかなるよね」
「ん」
わかってなさそうな表情で頷いてくれる彼女は、ちょっとずつでも確かに知性を取り戻しつつありました。死後二ヶ月の引きこもり生活は無駄ではありませんでした。
そうさ、なんとかなるもんさ。ケセラセラっていうしね。
とりあえず手近な魔界を目指してみよう。その後のことはその後で考える。
僕には彼女さえいればいい。彼女には僕しかいない。それが何より勇気になる。
窓の外を見ると、ちょうどお月様が微笑んでるところだった。
16/01/08 17:01更新 / 鍵山白煙