貧乏画家と黒の淑女
貧乏画家と黒い淑女
『……もう少し……もう少しで……ゴホッ……』
パリス市の貧民街の小さなアトリエで、痩せこけた1人の男がカンバスに向かい合っていた。
絵描の名前をローラン・ルルーと言う。
歳の頃は30代中頃で、伸び放題の黒い髪を後ろに麻紐で纏め、顔には無精髭を生やしている。貧困に喘ぎ、弱々しく見えるも、眼だけはギラギラと輝いていた。
そうして描き続けること3日。
また一枚の絵が完成した。
暗い礼拝堂の中で、聖者の像の前に跪き、手を合わせ、祈るシスターの絵だ。その顔は安らぎと慈しみに満ちている。黒を基調とした暗い絵の中で彼女の顔と祈る手、奥に描かれたステンドグラスが神秘的に浮かび上がっている。
『……いい出来たが……これじゃない。ガホ……ゴホッ……』
ローランは描き終わった印象絵画を見て、そう一言呟くと絵にニスを適当に塗り、終わるとアトリエの隅に追いやった。彼のアトリエにはそういった絵が至る所に乱雑に置かれている。
そこの壁に立て掛けてある絵は、雨の日のパリスの街を描いたものだ。
散らかった机の上に放って置かれている埃を薄く被った小さな絵は、物乞いの少女の清い表情を良く表現している。
窓に吊り下げてニスを乾かしている最中の絵には葬式の列が描れていた。神父の持つ金色の杖と人々が一輪づつ持つ赤い薔薇の花だけが鮮やかに描かれ、重く悲しい雰囲気が伝わってくる。
そこにある数々の絵は繊細な筆使いで見事に描かれているが、色が少なく、暗い絵ばかりだ。絵の具が高くて買えないのである。
ローランは金と名声に無頓着な典型的な芸術家で、商売の為に絵を描く事を嫌っていた。彼は小売業を営む貧しい商人の次男坊で、15の時に家を出てからほぼ独学で絵を勉強した。物心ついた頃から絵を描くのが好きで好きで、ただそれだけで絵を極めてきた。初めは道端や公園で似顔絵を描いて日銭を稼いでいた。それから僅かなお金を貯めてアトリエとは名ばかりの貧民街の粗末なこのあばら家を買い、以後絵に没頭した。
しかし、どんなに素晴らしい絵を描いても誰も認めてはくれない。閉鎖的で貴族主義的なファラン共和国の芸術界は、著名な画家に絵を習うでも有名な美術大学で学ぶでもなかったローラン・ルルーの絵を無視し続けた。
悪い事に似顔絵で得ていた僅かな稼ぎも最近普及したカメラよって無くなってしまった。
ローランはそれでも絵を描き続け、その結果、貧乏に喘いでいる。
ただ、幸運な事に何処の界隈にも変わり者は居るもので、ローランの絵を気に入っている人物が1人いた。友人と呼べる人物かどうかはローラン自身にも良く分からないが、彼にとってそれに一番近い意味を成すその変わり者は、ひと月に何回か訪れ、アトリエに乱雑に置かれた幾つかの絵画を適当に選び、画廊商に行き、二足三文の端金にしてくれている。その金でなんとか貧乏絵描きをしながら暮らせているのだ。
『ゲホッ……』
ローランは出来上がった絵にニスを掛け、絵の具の付着した筆をボロ布で拭い、散らかった机の上に画材を置いた。そして彼は倒れるように暫く眠り、腹の虫が鳴き声を上げるままに起き、ニスの匂いが立ち込めたアトリエの中を彷徨うように歩いた。そうして見つかったのは、安い飲みかけのワインと萎びたリンゴと、いつからあるか分からない肉の塩漬け、それから絵に使う 木炭を消す為の未使用の白パンが一欠片。
ローランは萎びたリンゴを一口食べて、ワインを一口飲むとパンでも買いに行こうとコートを羽織り、キャスケット帽を被ると油絵の具とニスの匂いが立ち込めたアトリエを出た。
花の都パリスは貧民街のすぐ隣に金持ち達の華やかな街並みが広がっている。物価が高く、貧乏人はその日を生きるので精一杯だ。ローランがそれでもパリスで暮らすのは、数々の歴史的な建造物や、古い西方主神教の教会、世界中からかき集めた芸術品を展示する美術館、世界一のオペラ座に、オーケストラがあるからだ。
彼は気が向いた時や、絵の題材に困った時など教会で聖歌を聴き、美術館やオペラ座やコンサートホールに潜り込んで芸術や音楽に触れた。
貧乏はしていても、絵が認められなくても彼はこの街と芸術を愛していた。
街を歩き、市場に向かう途中でローランは黒い喪服を着た美しい女を見た。ルビーだろうか?小さな紅い石の首飾りを着けている。物憂げで今にも泣きそうな顔をしている。
『美しい……』
もし、ローランに金があったのなら、彼女に絵のモデルを頼んでいただろうが、その日のパンにも事欠くような貧乏画家にはそんな金はない。
時間にして数秒。喪服の女に心を奪われたローランがせめてその姿を忘れない様にじっと見つめる。すると女と目が合った。
『…………』
女の目は夜空のようで、その瞳から星粒のような涙が一つ落ちた。ローランは何か申し訳ない気持ちになり、キャスケット帽を深く被り直して市場へと急いだ。
ローランは食べる為の安い黒パンと画材にする白パン、それから安いワインと出来損ないのチーズを買い、アトリエに戻ると再び絵を描く為にカンバスをスタンドに置いた。
『あの瞳が忘れられない。』
そうしてまた絵を描き始めた。
それから3日後の夜中……
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
アトリエの戸を叩く音がローランの創作活動を邪魔して来た。大方、あの変わり者だろうと彼は渋々扉を開けた。
『……君は……この前街で……』
そこにいたのは変わり者の友人ではなく、あの時の紅い首飾りを着けた喪服の女だった。
『ゲホ……うだつの上がらない貧乏画家のアトリエに、こんな綺麗な女がこんな夜更けにいったい何の用だ?』
『……………。』
ローランが尋ねても女はその白い頬に涙を落とすだけだ。
霧の大陸で作られた陶器のような白い肌、愁い秘めた夜の瞳、人形の様に整った顔立ちは儚げで、見れば見る程に美しい女だとローランは思った。と、同時に目の前の存在に対して何処かひどく現実味がない事を感じた。
『……もしかしたら、僕は死ぬのか?』
なぜそんな事を聞いたのかはローランにもわからない。ただ、直感がそう告げていた。
その問いに対して、ローランの目の前の女はゆっくりと首を縦に振った。
『そうか……。』
一瞬彼は息を詰まらせ、表情を強張らせたが、自身の死を告げる女の答にローランはさして驚かなかった。
彼は暫く前から病気を患っていた。日に日に悪くなる身体の気怠さ、咳と熱。しかし、その日暮らしの貧乏画家に医者にかかるだけの金は無く、きちんとした治療を受けていなかった。
もし金があったとしても、絵の具や筆、カンバスやニスにつぎ込んでいただろう。
勝手に家を飛び出し、家族にも見捨てられたローランには自身が死んだとしても涙を流す者はいない。
彼はそう思っていた。
『教えてくれ……あとどれくらい僕は生きられる?』
女はそっと、その白魚のような手を出すと指を3本立てた。
『3日か……?そうか。……いや、それだけあれば十分だ。僕は君が魂を取りに来た悪魔でも、地獄に連れに来た死の天使でも構わない。……最後に絵が描きたい。僕の絵のモデルをやってくれ。頼む。』
女は一瞬驚いた様に目を見開くと、少し間を置いて首を縦に振った。
『ありがとう。』
ローランは礼の言葉もほどほどに、女をアトリエに招き入れ、机を乱暴にどかし、モデルを立たせる為のスペースを確保すると早速、女を窓の側に立たせ、木炭と紙を取り出してラフ(練習、下書き)を取り始めた。
『まず、正面を…………少し顎を引いて……遠くを見る様に……』
シュッ……シュッ……カカッ
女は言われた通りにポーズを取った。
パラッ……パラ……
『今度は横を向いて……君から見て右側……そう……5歩先の床を見て……えっと、体は正面のまま……そう……いいね……美しい……君は……本当に……美しい……』
そうして、床には木炭で描かれた女の絵が次々と木の葉の様に落ちていった。
木炭と紙が擦れる音を聴きながら女は自身の過去を思い出していた。
女は死を彷徨い歩く
死は誰にでも平等に与えられる
数限りなく女はそれを見て来た
死に惹かれ、悲しみと共に女は彷徨った
まるで篝火に誘われる羽虫のように
死から死へ
涙から涙へ
祈りから祈りへ
憐れみ
愛おしみ
寄り添う
祈りと祈りと涙の果てに、死に行く者が安らかであるようにと願いながら
ひとつの死を見届けてはまた彷徨い歩く
永遠に続く旅……
それがバンシーという魔物娘
どうかこの絵描きの死も甘く安らかでありますように……
そう思い、気付けば女の頬に一筋の光がつたっていた。
ゴトッ……
『………………。』
美しい……
思わず木炭を落とし、彼の時間が数秒止まった。すると急にカンバスと絵の具を用意して絵を描き始めた。
ローランは絵に没頭した。
下地を塗り
絵の具を重ね
空間をカンバスの中に閉じ込めていく
女の目の前の男は何かに取り憑かれた様に
生きた証を残そうと
命を火にくべ、燃やしながら絵を描いていく
ローランは倒れては絵を描き、また倒れては絵を描きを繰り返した。自分の命が残り少ないと知り、また自覚しているのだ。女は絵のモデルをする時以外はローランの世話をした。
そして、その時は唐突に訪れた。
絵を描き始めて3日目の夕暮れ
『ゴホッ!ゴホッ!……ガフッ!?』
ビチャッ……!!
ガタン……
ローランが血を吐いて倒れた。女は慌てて駆け寄る。血を拭い、震える背中をさすった。
『ぜぇ……ぜぇ……まだだ……まだ、死ぬわけには……い、いかない。完成していない……』
女がカンバスを見ると、そこにあったのは白と黒の世界に浮かぶ自分自身だった。
白と黒の絵の具のみを使って描かれたそれは、無駄な物を一切排除したシンプルな構図で、悲しげな女の雰囲気と空間とその美しさを見事に表現して見せた素晴らしい絵画だった。しかし、ローランは満足していない。
『はぁ……ゴホッ……。もう……白と……黒の絵の具しか……ぜぇ……無いんだ。ガフっ……ゲボッ……でもどうしても……君の……首飾りの……色を……』
するとローランは女の首飾りを見てから自分の手を見た。
『……そうか……ここに……』
ローランは右手で筆を取ると、血のついた左手に筆を付け、絵画に運ぶ。
『……くっ……ぜぇ……』
霞む目、震える指……
寄り添う女はローランの手をそっと支えた。
最後の力を振り絞って絵画の中の女の首飾りへと筆を運び色を付けた。
窓から差し込む沈み行く太陽の光が絵画を照らす。
白と黒ばかりの世界で悲しみと愁い、慈しみに満ちた女の顔。身に着けた首飾りには紅い石が僅かな光を放っている。
絵画が命を得た瞬間だった。
ローランは儚く微笑む。
『……間違い……無く……僕の絵で……さ……最高の……絵だ…………』
女はローランを床に寝かせると、彼の手をぎゅっと握りしめる。その目には涙が溢れて、雫を彼の胸に落とした。
『ははは……ゲホッ……はぁ……しかし……本物の……方が……美しい……』
ローランの手が女の頬に手を触れた。女に消え行く命の温もりを微かに感じさせた。
『時間……みたい……だ…………もっと……君と……早く出会って……い、いたら……』
ヴェストゥーリ レリンクゥエス プリムス
(先に行きし君よ)
サトゥトゥム クァーエルソ ヴィアム ドミニ
(主の道を整えよ)
女は震える声で美しい鎮魂歌を歌った。長い長い彼女の旅で、いつしか覚えた歌。彼女たちバンシーの歌声は苦しみや痛みを遠ざける。死を看取る時に必ず歌う歌だった。
『ありがとう……名も知らない……君よ……』
イン タントゥム フィニス ターティウム
(遥かなる時の果てに)
女の頬に触れていたローランの手がゆっくりと落ちていく。
テストル コンチタータ アド レベルランドゥム
(再開を誓いましょう)
歌を聴いたローランは安らかな顔になっていった。
女は歌う。歌い続ける。
そして……
太陽が西の空に沈んだ。
ローランは安らかな顔で眠っている。
アトリエの中には彼女の泣く声だけが響いていた。
バンシーは死に寄添い、その死が終われば次の死へ旅立つ。しかし、女はローランの胸に顔を埋めたまま動く事が出来なかった。
彼女の長い長い旅の中で、死を告げに来た不吉な自分を追い出す事もせずに必要としてくれたのはローランだけだった。
女はローランに恋をしてしまった。
彼女は失ってから初めて愛という感情を理解した。
悲しみを本当の意味で理解した。
女は泣き続けた。
そうして涙が女の首飾りに落ちると、紅い石から優しい光が漏れ出し、文字を作るとひとつの詩になった。
書かれていたのは知らない字、知らない歌だった。
しかし、彼女にはそれがどういう意味か理解できた。
スィ……エト ヴィレス リザレクト
(そう……おまえは甦る)
ディンデ リリクゥォス クゥァルム チネリク
(わが塵よ 僅かな憩いの後に)
エクストゥラネ ルゥディス エトゥ モルディス
(死とは無縁の 生を)
ダトゥム ヴォカントゥム ホミネゥム ァ ヴォビス
(おまえを呼びし者から 与えられよう)
その歌は愛する者に掛ける死して終われない不死の呪いであると同時に、死の女神から与えられた愛する者に施す死して終わらない愛に満ちた祝福の歌
淡い光が漏れ出し女の身体を包む
女は歩き出す
愛となって奏でる様に
旅立ったローランの魂を連れ戻すために
手を伸ばして必死に追いかけた
暗闇の中でローランは独りぼっちで遥か先を目指して歩いていた。なんの為かわからない。しかしその先は天国か地獄であろう。すると彼の耳に彼の名前を呼ぶ女の声が聞こえて来た。
"ローラン……ローラン……"
"僕を呼ぶのはだれだ?"
"ローラン……ローラン!!"
女は泣きながらローランの手を掴んだ。
"君は……そうか……こんな所まで来てくれたのか……"
"はい……必死に追いかけてきました……"
"……なぜ、こんな僕の為に?"
"愛しているからです。……私は、あなたを愛しています。"
女はローランに抱き着き、口付けをすると、真っ暗な世界がひび割れて、何かに引き寄せられる様に堕ちていった。
気づくとローランは元居たアトリエで女に抱き抱えられていた。女は戻りつつある命の温もりに喜びの涙を流している。
『あぁ……ぅ……ぅ…………』
ローランはぼやけた思考と頭で目を虚ろにしていた。彼は何かを求める様に手を伸ばし、女はその手をそっと取り自身の胸に当てた。
『愛する方……この身はあなたへの供物。どうか私を求めて下さい。』
女は喪服を脱ぐと、その絹の様な白い肌を晒す。哀しみを溜め込んだような豊満な胸、曲線を描く腰、まろい尻、美しいライン。
ローランはその美しい裸婦から忽ちに目が離せなくなった。
くちゃ……くちゃ……❤
口付けをしながら、ローランのシャツとズボンは取り払われていた。
女はローランを抱き寄せ後ろに倒れると、ローランは誘蛾灯に囚われた羽虫のように誘われるがままに彼女と共に床に堕ちた。
『さぁ……』
そうして女はローランを神秘の中に導いた。
『あぁっ❤』
ゆっくりと、肉を掻き分けていく。2人の吐息がほのかに熱を帯びる。女は愛する男を最奥まで迎え入れて優しく包み込むように愛撫をする。密着させたままローランは身体も心も余すところ無く女の温もりに包まれて溺れている。ローランは頬を摺り寄せ、豊満な彼女の双丘に舌を這わせる。女は静かに愛する男とひとつになれた歓喜の声を上げる。
くちゃり……と愛液が溢れて卑猥な音を奏で、子宮口と鈴口が口付けを交わす。女の中が蠢き、ローランに未だ虚ろな存在の彼に輪郭を与える。
『愛する方……愛する方……あなたは永遠に……私のもの……❤』
『うぅ……あぁ……』
ゆっくりとお互いを貪りあう長い交わり。それは激しいものではなく、ぬるま湯のような快楽でローランの存在をゆっくりと……しかし確実に魔物娘の魔力で染め上げていく。
『愛する方……エレンは愛しております。』
『エ……レ……ン…………』
『そうです……私はエレン。愛する方……エレンは此処に居ます。エレンはお側にいます。エレンは愛しております。』
『エレン……エレン!!』
親鳥が雛にそうするように、エレンは何度も繰り返しローランに自身の名前、愛情、快楽を刷り込んでいった。ローランは彼女に、彼女の愛に、彼女が与える快楽に依存していく。
ちゅ...ちゅ...くちゅ…んぁ…………
啄むようなキスからお互いの粘膜を交換する深い口付けへ。
2人は愛の底無し沼に頭の先から爪先までドップリと漬かり、さらに深くへと沈む。ローランとエレンはお互いにしがみ付くように抱き合った。
そしてその時は唐突に訪れる。
『エレ……ン……!!ぁぁぁぁぁ…………』
『ローランきて……ローラン……ローラン❤❤❤』
ローランの腰がビクン震えて、トクトクと心臓に合わせて漏れ出す様に精が吐き出される。長い交わりに比例した長い長い緩やかな絶頂。
安心感と充足感。緩やかに痙攣する身体。満たされていく女の独占欲。
エレンの膣は吐き出された精を逃すまいとポンプの様に蠢き、更にローランと深く繋がろうと子宮口をぽっかりと開けて精を飲み込んでいる。
ローランは長い長い吐精が終わると繋がったまま彼女の胸に倒れ付した。エレンの心臓の音を聞いて安心している。
『このまま……このまま……寝てしまって下さい。……お側にいます。エレンは愛する方のお側にいます。……愛しい方……愛しい方……。』
ローランは耳元で囁かれる愛の呪いと鼓動の音を聞いてエレンと供に闇へと溶けるように堕ちて行った。
そして、アトリエには誰も居なくなった。
翌朝
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
ローランのアトリエに下品なノックの音が響く。
『ボンジュール!ムッシュー・ルルー!!……寝てるのか!?』
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
一向に返事が無い。男は溜め息を吐くとその場で大声で話し出した。
『凄いぞ!!やったぞ!?聞いて驚ろくなよ!?昨日、画廊にロンド美術館の偉いさんが来て、それでお前さんの絵をパッと見て、目の色変えたと思ったら凄い金を出して買って行った!!……おかしいと思ったんだ。そしたら、何ヶ月か前にお前さんの作品をブリトニア連合王国の絵画コンテストに勝手に送ったのを思い出した。悪いと思ったが、あんまり良い絵だったから……つい。たしか貧民街の花売り娘の絵だ。そのコンテストで優勝して絵が有名になったらしい!!詳しく話すよ。頼むから起きてくれ!!』
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
『おーい!……鍵開いてる?不用心だなぁ。……入りますよ!?』
ガチャ……キィ……
とうとう男は痺れを切らしてアトリエの中に勝手に入ってしまった。鍵もせずに不用心だと思ったが、あの気難しいズボラな貧乏絵描きの事だとさして気にしなかった。
しかし、不思議な事に何時ものように乱雑に絵がそこかしこにあるアトリエの中は人気は全く感じられない。
『おーい……入ったぞ!?いつ来てもこの匂いには慣れないなぁ…………ん?…………なんだこれは…………』
男が見たものは描かれてから間も無い白と黒ばかりの絵だった。喪服に身を包んだ美しい女。その悲しみと慈しみのなんとも言えない表情。そして白と黒の世界に異質な胸元の紅い宝石。まるですぐそこに涙に暮れる女がいるようだった。
男は思わず心を奪われた。
『はっ……!ローラン……ムッシュ!!いるんだろう!?』
けれども返事は無かった。仕方ないので、その日は帰る事にした。
それから男は毎日アトリエを訪ねた。例の絵はそのままスタンドに置いたままになっていたので、男は勝手にニス掛けを施した。しかし、ローランに会う事は無かった。3ヶ月ばかり経った頃には、失踪したローランにもう会う事は出来ないと、そう確信していた。
『……勝手だが、私はあなたの絵を歴史に残こそうと思う。もし人生に意味があるとするならば、君にとってそれは絵を描く事で、私にとってそれは君の絵を残す事かもしれない。』
散らかったアトリエ。スタンドに置きっ放しの絵の前で男はワインをグラスに注いだ。
『君の絵に……。』
男はワインを飲み干した。
それから100年後……
ランドル・ファラン共和国のパリスの街。
〜ルーヴェル美術館〜
ある絵をじっと見つめる男女の姿があった。黒いハットに黒い燕尾服の男と、黒いドレスを着た美しい女だ。
『……"黒い淑女" か。彼らしい。』
ローランは絵の前で少し嬉しそうに呟いた。
その絵を見ながらローランは当時、自分の絵を認めてくれた唯一の人物を思い出した。この絵以外にもブリトニアのロンド美術館やジパングの帝都美術館など、世界中の著名な美術館や資料館にローランの作品が飾られている。
無名の貧乏画家の自分の作品を残すのにどれだけ苦労しただろうか?友達と言うのがわからないが、もし友達と呼べる人物が居るとすれば、きっと彼こそは親友だと……そう思った。
『また絵を描きたくなったのですか?』
『いや……自分でも分かる。もうこれ以上の物は描けない。それに……』
不意にローランはエレンの方に顔を向けた。エレンは不思議そうな顔をしている。
『僕には君がいる。』
『はい……』
エレンは嬉しそうに、でも少し残念そうに儚く微笑むとローランの手にそっと自分の手を重ねた。
『……ありがとう。友よ。』
貧乏画家と黒い淑女は絵の前から消えるように去った。
『……もう少し……もう少しで……ゴホッ……』
パリス市の貧民街の小さなアトリエで、痩せこけた1人の男がカンバスに向かい合っていた。
絵描の名前をローラン・ルルーと言う。
歳の頃は30代中頃で、伸び放題の黒い髪を後ろに麻紐で纏め、顔には無精髭を生やしている。貧困に喘ぎ、弱々しく見えるも、眼だけはギラギラと輝いていた。
そうして描き続けること3日。
また一枚の絵が完成した。
暗い礼拝堂の中で、聖者の像の前に跪き、手を合わせ、祈るシスターの絵だ。その顔は安らぎと慈しみに満ちている。黒を基調とした暗い絵の中で彼女の顔と祈る手、奥に描かれたステンドグラスが神秘的に浮かび上がっている。
『……いい出来たが……これじゃない。ガホ……ゴホッ……』
ローランは描き終わった印象絵画を見て、そう一言呟くと絵にニスを適当に塗り、終わるとアトリエの隅に追いやった。彼のアトリエにはそういった絵が至る所に乱雑に置かれている。
そこの壁に立て掛けてある絵は、雨の日のパリスの街を描いたものだ。
散らかった机の上に放って置かれている埃を薄く被った小さな絵は、物乞いの少女の清い表情を良く表現している。
窓に吊り下げてニスを乾かしている最中の絵には葬式の列が描れていた。神父の持つ金色の杖と人々が一輪づつ持つ赤い薔薇の花だけが鮮やかに描かれ、重く悲しい雰囲気が伝わってくる。
そこにある数々の絵は繊細な筆使いで見事に描かれているが、色が少なく、暗い絵ばかりだ。絵の具が高くて買えないのである。
ローランは金と名声に無頓着な典型的な芸術家で、商売の為に絵を描く事を嫌っていた。彼は小売業を営む貧しい商人の次男坊で、15の時に家を出てからほぼ独学で絵を勉強した。物心ついた頃から絵を描くのが好きで好きで、ただそれだけで絵を極めてきた。初めは道端や公園で似顔絵を描いて日銭を稼いでいた。それから僅かなお金を貯めてアトリエとは名ばかりの貧民街の粗末なこのあばら家を買い、以後絵に没頭した。
しかし、どんなに素晴らしい絵を描いても誰も認めてはくれない。閉鎖的で貴族主義的なファラン共和国の芸術界は、著名な画家に絵を習うでも有名な美術大学で学ぶでもなかったローラン・ルルーの絵を無視し続けた。
悪い事に似顔絵で得ていた僅かな稼ぎも最近普及したカメラよって無くなってしまった。
ローランはそれでも絵を描き続け、その結果、貧乏に喘いでいる。
ただ、幸運な事に何処の界隈にも変わり者は居るもので、ローランの絵を気に入っている人物が1人いた。友人と呼べる人物かどうかはローラン自身にも良く分からないが、彼にとってそれに一番近い意味を成すその変わり者は、ひと月に何回か訪れ、アトリエに乱雑に置かれた幾つかの絵画を適当に選び、画廊商に行き、二足三文の端金にしてくれている。その金でなんとか貧乏絵描きをしながら暮らせているのだ。
『ゲホッ……』
ローランは出来上がった絵にニスを掛け、絵の具の付着した筆をボロ布で拭い、散らかった机の上に画材を置いた。そして彼は倒れるように暫く眠り、腹の虫が鳴き声を上げるままに起き、ニスの匂いが立ち込めたアトリエの中を彷徨うように歩いた。そうして見つかったのは、安い飲みかけのワインと萎びたリンゴと、いつからあるか分からない肉の塩漬け、それから絵に使う 木炭を消す為の未使用の白パンが一欠片。
ローランは萎びたリンゴを一口食べて、ワインを一口飲むとパンでも買いに行こうとコートを羽織り、キャスケット帽を被ると油絵の具とニスの匂いが立ち込めたアトリエを出た。
花の都パリスは貧民街のすぐ隣に金持ち達の華やかな街並みが広がっている。物価が高く、貧乏人はその日を生きるので精一杯だ。ローランがそれでもパリスで暮らすのは、数々の歴史的な建造物や、古い西方主神教の教会、世界中からかき集めた芸術品を展示する美術館、世界一のオペラ座に、オーケストラがあるからだ。
彼は気が向いた時や、絵の題材に困った時など教会で聖歌を聴き、美術館やオペラ座やコンサートホールに潜り込んで芸術や音楽に触れた。
貧乏はしていても、絵が認められなくても彼はこの街と芸術を愛していた。
街を歩き、市場に向かう途中でローランは黒い喪服を着た美しい女を見た。ルビーだろうか?小さな紅い石の首飾りを着けている。物憂げで今にも泣きそうな顔をしている。
『美しい……』
もし、ローランに金があったのなら、彼女に絵のモデルを頼んでいただろうが、その日のパンにも事欠くような貧乏画家にはそんな金はない。
時間にして数秒。喪服の女に心を奪われたローランがせめてその姿を忘れない様にじっと見つめる。すると女と目が合った。
『…………』
女の目は夜空のようで、その瞳から星粒のような涙が一つ落ちた。ローランは何か申し訳ない気持ちになり、キャスケット帽を深く被り直して市場へと急いだ。
ローランは食べる為の安い黒パンと画材にする白パン、それから安いワインと出来損ないのチーズを買い、アトリエに戻ると再び絵を描く為にカンバスをスタンドに置いた。
『あの瞳が忘れられない。』
そうしてまた絵を描き始めた。
それから3日後の夜中……
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
アトリエの戸を叩く音がローランの創作活動を邪魔して来た。大方、あの変わり者だろうと彼は渋々扉を開けた。
『……君は……この前街で……』
そこにいたのは変わり者の友人ではなく、あの時の紅い首飾りを着けた喪服の女だった。
『ゲホ……うだつの上がらない貧乏画家のアトリエに、こんな綺麗な女がこんな夜更けにいったい何の用だ?』
『……………。』
ローランが尋ねても女はその白い頬に涙を落とすだけだ。
霧の大陸で作られた陶器のような白い肌、愁い秘めた夜の瞳、人形の様に整った顔立ちは儚げで、見れば見る程に美しい女だとローランは思った。と、同時に目の前の存在に対して何処かひどく現実味がない事を感じた。
『……もしかしたら、僕は死ぬのか?』
なぜそんな事を聞いたのかはローランにもわからない。ただ、直感がそう告げていた。
その問いに対して、ローランの目の前の女はゆっくりと首を縦に振った。
『そうか……。』
一瞬彼は息を詰まらせ、表情を強張らせたが、自身の死を告げる女の答にローランはさして驚かなかった。
彼は暫く前から病気を患っていた。日に日に悪くなる身体の気怠さ、咳と熱。しかし、その日暮らしの貧乏画家に医者にかかるだけの金は無く、きちんとした治療を受けていなかった。
もし金があったとしても、絵の具や筆、カンバスやニスにつぎ込んでいただろう。
勝手に家を飛び出し、家族にも見捨てられたローランには自身が死んだとしても涙を流す者はいない。
彼はそう思っていた。
『教えてくれ……あとどれくらい僕は生きられる?』
女はそっと、その白魚のような手を出すと指を3本立てた。
『3日か……?そうか。……いや、それだけあれば十分だ。僕は君が魂を取りに来た悪魔でも、地獄に連れに来た死の天使でも構わない。……最後に絵が描きたい。僕の絵のモデルをやってくれ。頼む。』
女は一瞬驚いた様に目を見開くと、少し間を置いて首を縦に振った。
『ありがとう。』
ローランは礼の言葉もほどほどに、女をアトリエに招き入れ、机を乱暴にどかし、モデルを立たせる為のスペースを確保すると早速、女を窓の側に立たせ、木炭と紙を取り出してラフ(練習、下書き)を取り始めた。
『まず、正面を…………少し顎を引いて……遠くを見る様に……』
シュッ……シュッ……カカッ
女は言われた通りにポーズを取った。
パラッ……パラ……
『今度は横を向いて……君から見て右側……そう……5歩先の床を見て……えっと、体は正面のまま……そう……いいね……美しい……君は……本当に……美しい……』
そうして、床には木炭で描かれた女の絵が次々と木の葉の様に落ちていった。
木炭と紙が擦れる音を聴きながら女は自身の過去を思い出していた。
女は死を彷徨い歩く
死は誰にでも平等に与えられる
数限りなく女はそれを見て来た
死に惹かれ、悲しみと共に女は彷徨った
まるで篝火に誘われる羽虫のように
死から死へ
涙から涙へ
祈りから祈りへ
憐れみ
愛おしみ
寄り添う
祈りと祈りと涙の果てに、死に行く者が安らかであるようにと願いながら
ひとつの死を見届けてはまた彷徨い歩く
永遠に続く旅……
それがバンシーという魔物娘
どうかこの絵描きの死も甘く安らかでありますように……
そう思い、気付けば女の頬に一筋の光がつたっていた。
ゴトッ……
『………………。』
美しい……
思わず木炭を落とし、彼の時間が数秒止まった。すると急にカンバスと絵の具を用意して絵を描き始めた。
ローランは絵に没頭した。
下地を塗り
絵の具を重ね
空間をカンバスの中に閉じ込めていく
女の目の前の男は何かに取り憑かれた様に
生きた証を残そうと
命を火にくべ、燃やしながら絵を描いていく
ローランは倒れては絵を描き、また倒れては絵を描きを繰り返した。自分の命が残り少ないと知り、また自覚しているのだ。女は絵のモデルをする時以外はローランの世話をした。
そして、その時は唐突に訪れた。
絵を描き始めて3日目の夕暮れ
『ゴホッ!ゴホッ!……ガフッ!?』
ビチャッ……!!
ガタン……
ローランが血を吐いて倒れた。女は慌てて駆け寄る。血を拭い、震える背中をさすった。
『ぜぇ……ぜぇ……まだだ……まだ、死ぬわけには……い、いかない。完成していない……』
女がカンバスを見ると、そこにあったのは白と黒の世界に浮かぶ自分自身だった。
白と黒の絵の具のみを使って描かれたそれは、無駄な物を一切排除したシンプルな構図で、悲しげな女の雰囲気と空間とその美しさを見事に表現して見せた素晴らしい絵画だった。しかし、ローランは満足していない。
『はぁ……ゴホッ……。もう……白と……黒の絵の具しか……ぜぇ……無いんだ。ガフっ……ゲボッ……でもどうしても……君の……首飾りの……色を……』
するとローランは女の首飾りを見てから自分の手を見た。
『……そうか……ここに……』
ローランは右手で筆を取ると、血のついた左手に筆を付け、絵画に運ぶ。
『……くっ……ぜぇ……』
霞む目、震える指……
寄り添う女はローランの手をそっと支えた。
最後の力を振り絞って絵画の中の女の首飾りへと筆を運び色を付けた。
窓から差し込む沈み行く太陽の光が絵画を照らす。
白と黒ばかりの世界で悲しみと愁い、慈しみに満ちた女の顔。身に着けた首飾りには紅い石が僅かな光を放っている。
絵画が命を得た瞬間だった。
ローランは儚く微笑む。
『……間違い……無く……僕の絵で……さ……最高の……絵だ…………』
女はローランを床に寝かせると、彼の手をぎゅっと握りしめる。その目には涙が溢れて、雫を彼の胸に落とした。
『ははは……ゲホッ……はぁ……しかし……本物の……方が……美しい……』
ローランの手が女の頬に手を触れた。女に消え行く命の温もりを微かに感じさせた。
『時間……みたい……だ…………もっと……君と……早く出会って……い、いたら……』
ヴェストゥーリ レリンクゥエス プリムス
(先に行きし君よ)
サトゥトゥム クァーエルソ ヴィアム ドミニ
(主の道を整えよ)
女は震える声で美しい鎮魂歌を歌った。長い長い彼女の旅で、いつしか覚えた歌。彼女たちバンシーの歌声は苦しみや痛みを遠ざける。死を看取る時に必ず歌う歌だった。
『ありがとう……名も知らない……君よ……』
イン タントゥム フィニス ターティウム
(遥かなる時の果てに)
女の頬に触れていたローランの手がゆっくりと落ちていく。
テストル コンチタータ アド レベルランドゥム
(再開を誓いましょう)
歌を聴いたローランは安らかな顔になっていった。
女は歌う。歌い続ける。
そして……
太陽が西の空に沈んだ。
ローランは安らかな顔で眠っている。
アトリエの中には彼女の泣く声だけが響いていた。
バンシーは死に寄添い、その死が終われば次の死へ旅立つ。しかし、女はローランの胸に顔を埋めたまま動く事が出来なかった。
彼女の長い長い旅の中で、死を告げに来た不吉な自分を追い出す事もせずに必要としてくれたのはローランだけだった。
女はローランに恋をしてしまった。
彼女は失ってから初めて愛という感情を理解した。
悲しみを本当の意味で理解した。
女は泣き続けた。
そうして涙が女の首飾りに落ちると、紅い石から優しい光が漏れ出し、文字を作るとひとつの詩になった。
書かれていたのは知らない字、知らない歌だった。
しかし、彼女にはそれがどういう意味か理解できた。
スィ……エト ヴィレス リザレクト
(そう……おまえは甦る)
ディンデ リリクゥォス クゥァルム チネリク
(わが塵よ 僅かな憩いの後に)
エクストゥラネ ルゥディス エトゥ モルディス
(死とは無縁の 生を)
ダトゥム ヴォカントゥム ホミネゥム ァ ヴォビス
(おまえを呼びし者から 与えられよう)
その歌は愛する者に掛ける死して終われない不死の呪いであると同時に、死の女神から与えられた愛する者に施す死して終わらない愛に満ちた祝福の歌
淡い光が漏れ出し女の身体を包む
女は歩き出す
愛となって奏でる様に
旅立ったローランの魂を連れ戻すために
手を伸ばして必死に追いかけた
暗闇の中でローランは独りぼっちで遥か先を目指して歩いていた。なんの為かわからない。しかしその先は天国か地獄であろう。すると彼の耳に彼の名前を呼ぶ女の声が聞こえて来た。
"ローラン……ローラン……"
"僕を呼ぶのはだれだ?"
"ローラン……ローラン!!"
女は泣きながらローランの手を掴んだ。
"君は……そうか……こんな所まで来てくれたのか……"
"はい……必死に追いかけてきました……"
"……なぜ、こんな僕の為に?"
"愛しているからです。……私は、あなたを愛しています。"
女はローランに抱き着き、口付けをすると、真っ暗な世界がひび割れて、何かに引き寄せられる様に堕ちていった。
気づくとローランは元居たアトリエで女に抱き抱えられていた。女は戻りつつある命の温もりに喜びの涙を流している。
『あぁ……ぅ……ぅ…………』
ローランはぼやけた思考と頭で目を虚ろにしていた。彼は何かを求める様に手を伸ばし、女はその手をそっと取り自身の胸に当てた。
『愛する方……この身はあなたへの供物。どうか私を求めて下さい。』
女は喪服を脱ぐと、その絹の様な白い肌を晒す。哀しみを溜め込んだような豊満な胸、曲線を描く腰、まろい尻、美しいライン。
ローランはその美しい裸婦から忽ちに目が離せなくなった。
くちゃ……くちゃ……❤
口付けをしながら、ローランのシャツとズボンは取り払われていた。
女はローランを抱き寄せ後ろに倒れると、ローランは誘蛾灯に囚われた羽虫のように誘われるがままに彼女と共に床に堕ちた。
『さぁ……』
そうして女はローランを神秘の中に導いた。
『あぁっ❤』
ゆっくりと、肉を掻き分けていく。2人の吐息がほのかに熱を帯びる。女は愛する男を最奥まで迎え入れて優しく包み込むように愛撫をする。密着させたままローランは身体も心も余すところ無く女の温もりに包まれて溺れている。ローランは頬を摺り寄せ、豊満な彼女の双丘に舌を這わせる。女は静かに愛する男とひとつになれた歓喜の声を上げる。
くちゃり……と愛液が溢れて卑猥な音を奏で、子宮口と鈴口が口付けを交わす。女の中が蠢き、ローランに未だ虚ろな存在の彼に輪郭を与える。
『愛する方……愛する方……あなたは永遠に……私のもの……❤』
『うぅ……あぁ……』
ゆっくりとお互いを貪りあう長い交わり。それは激しいものではなく、ぬるま湯のような快楽でローランの存在をゆっくりと……しかし確実に魔物娘の魔力で染め上げていく。
『愛する方……エレンは愛しております。』
『エ……レ……ン…………』
『そうです……私はエレン。愛する方……エレンは此処に居ます。エレンはお側にいます。エレンは愛しております。』
『エレン……エレン!!』
親鳥が雛にそうするように、エレンは何度も繰り返しローランに自身の名前、愛情、快楽を刷り込んでいった。ローランは彼女に、彼女の愛に、彼女が与える快楽に依存していく。
ちゅ...ちゅ...くちゅ…んぁ…………
啄むようなキスからお互いの粘膜を交換する深い口付けへ。
2人は愛の底無し沼に頭の先から爪先までドップリと漬かり、さらに深くへと沈む。ローランとエレンはお互いにしがみ付くように抱き合った。
そしてその時は唐突に訪れる。
『エレ……ン……!!ぁぁぁぁぁ…………』
『ローランきて……ローラン……ローラン❤❤❤』
ローランの腰がビクン震えて、トクトクと心臓に合わせて漏れ出す様に精が吐き出される。長い交わりに比例した長い長い緩やかな絶頂。
安心感と充足感。緩やかに痙攣する身体。満たされていく女の独占欲。
エレンの膣は吐き出された精を逃すまいとポンプの様に蠢き、更にローランと深く繋がろうと子宮口をぽっかりと開けて精を飲み込んでいる。
ローランは長い長い吐精が終わると繋がったまま彼女の胸に倒れ付した。エレンの心臓の音を聞いて安心している。
『このまま……このまま……寝てしまって下さい。……お側にいます。エレンは愛する方のお側にいます。……愛しい方……愛しい方……。』
ローランは耳元で囁かれる愛の呪いと鼓動の音を聞いてエレンと供に闇へと溶けるように堕ちて行った。
そして、アトリエには誰も居なくなった。
翌朝
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
ローランのアトリエに下品なノックの音が響く。
『ボンジュール!ムッシュー・ルルー!!……寝てるのか!?』
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
一向に返事が無い。男は溜め息を吐くとその場で大声で話し出した。
『凄いぞ!!やったぞ!?聞いて驚ろくなよ!?昨日、画廊にロンド美術館の偉いさんが来て、それでお前さんの絵をパッと見て、目の色変えたと思ったら凄い金を出して買って行った!!……おかしいと思ったんだ。そしたら、何ヶ月か前にお前さんの作品をブリトニア連合王国の絵画コンテストに勝手に送ったのを思い出した。悪いと思ったが、あんまり良い絵だったから……つい。たしか貧民街の花売り娘の絵だ。そのコンテストで優勝して絵が有名になったらしい!!詳しく話すよ。頼むから起きてくれ!!』
ドンドンドンドン……ドンドンドンドン……
『おーい!……鍵開いてる?不用心だなぁ。……入りますよ!?』
ガチャ……キィ……
とうとう男は痺れを切らしてアトリエの中に勝手に入ってしまった。鍵もせずに不用心だと思ったが、あの気難しいズボラな貧乏絵描きの事だとさして気にしなかった。
しかし、不思議な事に何時ものように乱雑に絵がそこかしこにあるアトリエの中は人気は全く感じられない。
『おーい……入ったぞ!?いつ来てもこの匂いには慣れないなぁ…………ん?…………なんだこれは…………』
男が見たものは描かれてから間も無い白と黒ばかりの絵だった。喪服に身を包んだ美しい女。その悲しみと慈しみのなんとも言えない表情。そして白と黒の世界に異質な胸元の紅い宝石。まるですぐそこに涙に暮れる女がいるようだった。
男は思わず心を奪われた。
『はっ……!ローラン……ムッシュ!!いるんだろう!?』
けれども返事は無かった。仕方ないので、その日は帰る事にした。
それから男は毎日アトリエを訪ねた。例の絵はそのままスタンドに置いたままになっていたので、男は勝手にニス掛けを施した。しかし、ローランに会う事は無かった。3ヶ月ばかり経った頃には、失踪したローランにもう会う事は出来ないと、そう確信していた。
『……勝手だが、私はあなたの絵を歴史に残こそうと思う。もし人生に意味があるとするならば、君にとってそれは絵を描く事で、私にとってそれは君の絵を残す事かもしれない。』
散らかったアトリエ。スタンドに置きっ放しの絵の前で男はワインをグラスに注いだ。
『君の絵に……。』
男はワインを飲み干した。
それから100年後……
ランドル・ファラン共和国のパリスの街。
〜ルーヴェル美術館〜
ある絵をじっと見つめる男女の姿があった。黒いハットに黒い燕尾服の男と、黒いドレスを着た美しい女だ。
『……"黒い淑女" か。彼らしい。』
ローランは絵の前で少し嬉しそうに呟いた。
その絵を見ながらローランは当時、自分の絵を認めてくれた唯一の人物を思い出した。この絵以外にもブリトニアのロンド美術館やジパングの帝都美術館など、世界中の著名な美術館や資料館にローランの作品が飾られている。
無名の貧乏画家の自分の作品を残すのにどれだけ苦労しただろうか?友達と言うのがわからないが、もし友達と呼べる人物が居るとすれば、きっと彼こそは親友だと……そう思った。
『また絵を描きたくなったのですか?』
『いや……自分でも分かる。もうこれ以上の物は描けない。それに……』
不意にローランはエレンの方に顔を向けた。エレンは不思議そうな顔をしている。
『僕には君がいる。』
『はい……』
エレンは嬉しそうに、でも少し残念そうに儚く微笑むとローランの手にそっと自分の手を重ねた。
『……ありがとう。友よ。』
貧乏画家と黒い淑女は絵の前から消えるように去った。
19/10/06 08:41更新 / francois