中
中
『お母さま〜!お母さま〜!』
若草が香る木漏れ日の庭で10歳くらいの男の子が母親を呼んでいる。可愛らしい栗毛に緑の優しい目を持ったその子は手に大事そうに何かを持っていた。
『わたしの愛しい坊や、どうしたの?』
すると、白いローブと頭にベールを纏った蒼い肌の女性が庭に出て男の子を迎える。
『お母さま、小鳥さんが……小鳥さんが……』
男の子が手を開くと、そこには青い小鳥がいた。動かない小鳥を見てお母さまと呼ばれた悪魔が首を横に振ると、男の子の目から澄んだ雫が落ち、その頬を濡らした。
『ノーマン……命には終わりがあるの。だから、お前と母で神様の国へ送り出してあげましょう……』
そう言うと母エルザはノーマンの頬をその手で優しく拭った。
『はい。お母さま……』
『この小鳥は幸運ね……お前に祈ってもらえるのだから……』
ノーマンは木の陰に小鳥をそっと埋めてお祈りをした。
『天にまします主神さま……天の王さま。あなたの広い手で小鳥さんの魂をお救いください。あなたの側にお導きください。ねがわくばあなたの深い愛で小鳥さんに祝福をお与えください。……そうあれかし…』
堅く握った手を解き、目を開けるとノーマンはエルザの胸に飛び込んだ。エルザはノーマンの頭を優しく撫でて抱きしめると、手を取り導くように家の中へと連れ帰った。
ある夜……
2人はリビングでソファーに腰掛けて聖典を開いていた。舌足らずな声でノーマンが読み上げている。
『愛はかんよーであり、愛はしんせつです。また人をねたみません。愛はじまんせず、おごりません。れいぎに反することをせず、自分の利益を求めず、いらだたず……ふ…ふ?』
『不義を喜ばず……』
『んー……ふぎを…?ふぎってなぁに?』
『そうさね……ノーマン……例えば、お前がお友達に嘘をついたり、裏切ったり……そういった悪い事よ。』
『僕そんな事しないよ!』
『そうだね……お前は良い子だから。さぁ、続きを読みなさい……』
『はい、お母さま…。あー……ふぎをよろこばず、真実だけを喜びます。』
ノーマンは聖典を置いてふーっ……とため息をついた。
『……では、この章で1番大事なことはどこか?そこを呼んでみなさい。』
ノーマンは少し考えてからこの章の1番最後を読む事にした。
『えっと……いつまでも、この世のおわりまであるのは、信仰と…希望と…愛です。その中でもっとも大いなるものは……愛です……』
『よくできました。えらいわ……』
微笑んだエルザは優しくノーマンの頭を撫でた。愛しい坊やは嬉しそうに目を細めた。
『さぁ、眠いであろう……もう、おやすみなさいな……明日はきっと優しいから……』
『はい。おやすみなさい、お母さま。』
ノーマンはエルザの頬にキスをすると、リビングを出て行った。
エルザはため息をひとつ吐くと
『……覗きとは趣味があまり良いとは言えないわね……』
と呟いた
すると、部屋の空気が歪んでそこから大きな蝙蝠羽を持った美しい女性が出てきた。エルザと同じく蒼い肌に頭には角が生えている。エルザと違い、燃えるような赤い髪は短く切りそろえられ、露出の高い軽装鎧を身につけて、腰には黒い剣が下げられていた。
『これは失礼。お久ぶりねエルザ。』
『お久しぶりねミエル……そうさね、ざっと11年ぶりかしらね?今年の審問官はあなた?』
『そうだ。今年は私だ。11年か……君が魔界最高裁判所から刑執行の為に出て、それが最後だったからそれくらいね。』
ミエルはテーブルに置いてある聖典に目をむけると
『……しかし、君はなぜ彼に聖典を?主神が祝福を施した使徒や預言者と呼ばれる憐れな人間に書かせた聖典を読ませるんだい?』
と言った。エルザは目をつぶり、ゆっくりとミエルに口を開いた。
『可笑しいかも知れないけど、私は主神を愛している……いえ、信じていると言った方が正確かね……笑いたかったら笑ってくれて構わない。』
『私の友、聖堂の悪魔エルザ。他の誰が君を笑おうとも、他の誰が君を蔑もうとも、私はあなたを笑わない。主神へのアガーパスか……』
『そうよ……だから私は私の愛しい坊やに、ノーマンにもう一度、愛する事を……聖典が本当に伝えたい事を学んで欲しいと思っているの。馬鹿にしないでくれてありがとう、ミエル。』
『そうか。エルザ……君は本当にノーマンを愛しているんだね。』
『そうよ。愛している。私が持つ全ての愛を彼に注いでいる……』
エルザは穏やかな笑顔をミエルに向ける。その目にはノーマンへの深く強い愛情が表れていた。
『…そうか……君の考えは良くわかった。だけどね!』
ミエルはスラリと腰の剣を抜いてエルザに向けた。
『もし、仮に君の“愛しい坊や”が道を外した時や、主神が直接手を出して来たその時は……』
『えぇ……喜んでノーマンと一緒にパンデモニウムに永久に閉じ込められてあげる。』
『わかっているなら良いんだ……。エルザ、君の“慈愛”も結構だが、最高執行官たる我々ウォッチャーズの仕事を忘れないで。』
『……人間に武器の造り方を教え、争いを与えたあなたに言われるまでもないわ。』
『…………』
ミエルは遣る瀬無い思いと共に溜め息を一つつくとカチャリ……と音を立て、剣を鞘に収めた。
『……見たところ君の“愛しい坊や”は優しい良い子に育ってる様だね。』
『そうね……』
『旧友としての精いっぱいの忠告はしたわ。エルザ……私の言葉を忘れないで。もしもの時は……』
『大丈夫。私が導いてみせる。絶対に……』
ミエルはエルザの中の愛情と決意と、様々な思いが力となって溢れているのを感じた。
『……エルザとその息子ノーマンに限りない祝福と実りがありますように。』
そう言うとミエルは空気を歪めて消える様に去っていった。ありがとう……とエルザが誰もいないリビングでひとり呟いた。
魔界最高裁判所 最高執行官 の義務……
歴史的な意味を持つ極めて重要な裁判での公平なジャッジ
最高刑を受けた罪人の保護と刑の執行
世界の監視と魔王への報告
世界と歴史の公平な証人になる事
それが私たちが“ウォッチャーズ”と呼ばれる所以である。
私は世界を見続けてきた。ノーマンを産んでからも、産む前もずっとずっと
ここ数年でいろいろな事が起きた。
オランジュ独立戦争はイスパール主神教国がオランジュ公爵の占領領地を国と認める事で終結した。オランジュ公国領周辺の敬虔な西方主神教信者の多くはランドル・ファラン王国に近いイスパール教国領地のベルモット地方に流れた。幾つかの小競り合いの後、正式に国境線を設定し、和解にいたる。
オランジュ公国は公爵の意向により現在は中立国となっている。彼は、宗教や政治などに寛容であり、芸術を愛し、それらの文化を大切にしている。西方主神教会と福音主義派に関わりなく主神教における芸術や建築様式などの人間文化の保護、発展の為の処置であり、人間と魔物娘の双方に配慮した近年稀に見る英断の結果である。経済活動、貿易の自由、宗教の自由が認められ、移住に関しても双方に制限の違いはない。心理面の問題に関しても、徐々に解決してる。中立国ではあるが事実上は主神教福音主義教会国教の親魔物国家である。
一方、イスパール教国は長い戦乱が終わり今は少し大人しくなったが、以前として厳格な主神教国には変わりない。貧富の差が激しく今もなお特権階級による収奪が横行している。
あの、貧民街の男の子や女の子や子供達、見捨てられた農村の老人達をすぐに助けることは出来なかった。下手に手を出すと、今度こそ聖戦軍が起こりかねない。魔王軍がオランジュ独立戦争に介入して聖戦軍が起こらなかったのは単にタイミングの問題だ。
当時の西の大陸では戦争の影響による経済危機に加え、黒死病と飢饉が猛威を振るっていて、他国はとても戦争どころではなかった。ランドル・ファラン王国は黒死病だけで何十万人もの死者をだした。
そんな時に、ある魔王の娘リリムの1人が
『人の容姿に近い魔物娘……ダンピールとか?……を偵察に送り込んで、早急に保護が必要な人々の調査、及び規模を把握。それから催眠魔法でもなんでも使って、一箇所に集めて時空間魔法で親魔物国家や魔界やパンデモニウムに転送する。そうね……古い手だけど、神隠しとか主神の奇跡とかなんとか言って触れ回るの。彼らは主神の力や奇跡を否定できないから。時空間魔法発動はかなりの魔力を必要とするから人選が重要ね。誰がやる?なんなら私がやるけど!?』
と、単純かつ、現実的かつ、論理的かつ、合理的かつ、素っ頓狂かつ、能天気な作戦が考案され早急に実行された。そのリリムはカルミナと言う名前だった。
戦場跡には死者の国の使者が来て、未練のある者や、さまよえる魂を使者がアンデットの魔物娘に変えて死者の国へ連れて帰っていった。
こうして、私たちは彼らを救い出す事が出来た。今では皆んな幸せに暮らしている。
とは言ったものの、主神教国家全体に言える事だが、国とは何か?宗教とは何か?人民とは何か?と言う疑問に対して、彼らの意識の根底を変えるには残念ながら少なくとも後2〜3百年の時間が必要だろう。
西方主神教会が腐敗を始め、主神教国同士の内乱が起き、副音主義派が起こり、弾圧があり、農民や市民の反乱が起こり、黒死病が猛威を振るい、飢饉が起き、戦争が起き、戦って、戦って、戦って……終わる頃には西の大陸は真っ赤になっていた。約30年と、人間には長い長い戦乱だった。
いや、たった30年で済んだと言うべきか……?
歴史が動く度に、歴史は血を求め、人間は血を流す。それをいとわない。
もし、それが主神の意思ならば、きっと愚かな人間を生み出した事を後悔しているのかもしれない。
旧時代の聖典の時代、主神は空を落とし、世界を一度滅ぼした。その時に助けた方舟の聖者に虹を掛け交わした誓いにより、自らは手を下せないので、魔物を創り人間と争わせたり、人間同士を争わせたりしたのだろうか?
預言者や使徒や勇者と呼ばれる者達に祝福と力を与えるのは主神に忠実な者を選定する為だけかもしれない。
魔王が代替わりし、新時代となって全ての魔物が魔物娘になって、もしかしたらそこで初めて世界は主神の手のひらから出たのではないだろうか?
それでも、人間は魔物娘や人間同士で争い続ける。血を流し続ける。歴史は以前として血を求め続ける。
愚かな私たちはもう主神に愛されてはないのかもしれない。彼は沈黙を続ける。
『我、其を知ろうとも、其は砂よりも夜の星よりも多し。我、其を知ろうと試みるも、其を知らぬ事を知る。今、我は主神の中にこそ在らん。』
沈黙が答えであり、それとも沈黙の中に答えがあるのだろうか?それこそ神のみぞ知るのであろう。
それでも、私は人間と神を愛している。
ノーマンを愛している。
それを否定してしまわないように。
自分の中の1番大事なものを手放してしまわないように……
寝室のドアを静かにあけて中に入ると愛しい坊やが穏やかな寝息を立てている。罪のない無垢そのもののよう。まるで……
『天使のようね……』
優しく頭を撫でる。髪が分かれると額には星の紋章が刻まれている。これはこの子が私のものと言う証。私がこの子のものと言う証。私がこの子を愛している証。
アミカ・メア……
私の愛……
気が遠くなる程昔のこと、私は天使だった。主神から人間と世界を見守るようにと言われていて、そのようにしていた。私たち天使は観測者と呼ばれた。天使は人間を見ているうちに
不完全な事に
成長する事に
感情がある事に
その美しさに憧れた。
私たちは
感情も必要なく
完全で……
故に成長も衰退もしない。
だから、私たち天使の一団“観測者”は主神に逆らい、人間界へと下った。
ある者は、人間の成長する力に憧れて
ある者は、人間の様々な感情に憧れて
ある者は、人間の持つ美しさに憧れて
そして私は、人間の持つ慈愛に憧れて
観測者は天界から様々なものを持ち出した。
人間達に武器の作り方を教え、星々や太陽や月の占いや未来の秘密、文字や顔料インクの作り方、化粧の仕方、魔術や護符の知識を教え、神の言葉と絶対の秘密である主神の名を教えた。
私は天文学と詩を人間にもたらしてしまった。
私達は主神の怒りに触れ堕天した。主神に逆らう者として永遠の呪いを受け、その罪に応じて皆異形となった。
観測者達は堕天使となり、様々な感情を手に入れた。怒り、憎しみ、悲しみ、慈しみ、喜び、そして愛。皮肉な事に、私は主神への愛、信仰……その本質を堕天し、感情を手に入れてから始めて知る事となった。
やがて堕天使がもたらした知識により、地上は罪で溢れてしまった。主神は嘆き、空を落し、人間を滅ぼそうとした。
私は主神にお考えを変えるように申し出た。しかし、主神の決定を覆すことはできなかった。私は恐ろしさから逃げ出した。他の者、特に武器や人間の女に化粧を教えた堕天使への罰は厳しく、一部の者を除いて地の底に封じられてしまった。
そして、主神は空を落して世界を滅ぼした。
箱舟を造らせ、それに乗り逃れるように命じた聖者とその家族と全ての地に生きる動物のひと番い以外は全てを無に帰した。
私は捕らえられた観測者の脱出を手伝い、その後は隠者のようになった。誰にも関わらず、ただ祈り、必要が無くなった仕事……世界の観測を続けてそれを書き記した本を作った。
聖者の子孫が星の数程になった頃、私達は人間から悪魔と呼ばれるようになった。
長い長い、気の遠くなるような長い間、世界を見てきた。
いくつもの戦争が起き
歴史が動き
国が生まれて
そして滅びて
ひと時の安寧が訪れ
また戦争が起き……
繰り返し、繰り返し、世界は螺旋に回る。
魔王も何代も何代も変わっていった。
私は自身の罪を懺悔し続け、主神に祈り続けた。
祈る私を見た者が、私のことを聖堂の悪魔と呼んだ。
今代の人間と平和を望む魔王になりこの身が変わっても、世界を観測し続けてきた。
その変わり者の魔王が、私の協力を求めてきた。
世界を争いと憎しみから解き放ちたい……
その目的の為に、今代の魔王は観測者である私を……堕天使達を求めた。彼女は私達を裁判官や執行官にした。
そこには数千年かぶりに会う旧友もいた。
私達は魔王の下、世界を観測し裁く者になった。
私は今代の魔王を信じてみる事にした。彼女の美しすぎる真っ直ぐな理想を……
それからまた、長い時間が流れた。
ある時、ある人間の神父が目に入った。彼は主神と人間に裏切られ、全てを諦めているような目をしていた。
かつての私自身を見ているようだった。
それから二十年が過ぎる頃、彼は大罪を犯し私の下に来た。直接会い、ひと目見た時に今まで感じた事のない感情が私に芽生えた。
もしかしたら、私はこの子に会うためだけに存在したのかもしれない。
『ヴォス・エティス・ルクス・メァ……』
『……お母さま…?』
寝間着姿のノーマンが私を呼んだ。
『おや……起こしてしまったね。』
『ん……お母さま、寝むりますか?』
『そうね……』
ノーマンは毛布をめくり、私を招き入れた。ノーマンが転生してからずっと一緒にベッドに入っている。寝る時だけではなく、湯浴みもご飯を食べるときも、ずっと一緒。私がベッドに入ると、キュッと抱き付いてきてくれる。
私の胸に頬をすり寄せる愛しい坊やはすぐに夢の中へと戻っていった。
例えようのない、ふわふわと心地よい気持ちになる。慈愛とも、母性愛とも違うとても幸せな気持ちになる。とても幸せで、幸せで、幸せで……
おそらくそれは、異性を愛する性愛というものだろう。
ノーマンの額にキスをして、背中をさする。それから、私も緩やかな一日の終わりに微睡んでいく。
それから、歌のように月日は流れた。
エルザはノーマンに聖典だけではなく、神の言葉や数学や天文学や詩を教えた。ノーマンは飲み込みが早く、直ぐに覚えていった。特に神の言葉は、教わって数ヶ月で何不自由なく喋り、読み、書く事が出来るようになった。それらの学問をエルザから教わった事もあるが、魂の根源からそう言った学問に対する適性があるようだっだ。
また、夜寝る時、湯あみの時にノーマンはエルザにあまりくっつかなくなった。
彼が精通を迎えたのと、母エルザの事を女性として意識しての事だった。
エルザは少し寂しく思うもそれを喜んだ。と同時に、元のノーマンの記憶の処置について悩み始めた。
転生前も、転生後もノーマンは聖典と共に生きていた。エルザの愛情によりノーマンは誰よりも優しく、誰よりも無垢で心の綺麗な子に育った。聖典や神の言葉への解釈、本質的な理解は転生前と転生後で余りにも違うが、盲目的に信じているという意味では同じだった。
ノーマンは胎牢の刑により悪魔であるエルザの胎から産まれ、彼女の乳で育ち、彼女の愛情を一身に受けて育った。当然、もうすでに男性の魔物であるインキュバスになってしまっている。
彼に記憶を戻した時、ノーマン・ビショップの記憶がその事実を……自身がインキュバスになってしまったその事実を受け入れられるかどうか?転生してからこれまでの事り受け入れられるのか?なにより、それらの理由でノーマンが自分の元から離れてしまわないか。
そう言う理由から、ノーマンの記憶をもどすか、破棄するかエルザは悩んでいた。
その頃はノーマンの13歳の転生誕生日の10カ月ほど前であった。
ある日、エルザは葡萄酒を飲み、酔って寝てしまった。それを見たノーマンは酩酊している彼女を寝室に運んだ。ノーマンがエルザの為に水を持って来ようと台所まで行こうとしたところ、エルザはノーマンの手を握って離さなかった。
『私の愛しい坊や……私の愛しい坊や……どうか、私を置いて行かないで……』
どうやら、辛い夢を見ている。母親のこのような姿を初めて見て、そう思ったノーマンは、母エルザがいつも自身にしている様に、彼女の頭を優しく撫で、手を握りかえした。
『お母さま、あなたの子はここに居て、何処にも行きません……。ずっと、ずっと一緒です……。あぁ、神様。今だけ……今だけ僕を天使にして下さい。』
ノーマンはエルザの額と頬に祝福のキスをして、エルザが寝る時に歌ってくれた歌を優しい静かな声で歌った。
セレスティス・コンセッドミニ・トゥーネ・タァム・パータァム
私に求めさせて下さい
コンソラーリ・クァム・コンソラーレ
慰められることよりも慰めることを
インテラージ・クァム・インテラージレ
理解されることよりも理解することを
アマリ・クァム・アマーレ
愛されることよりも愛することを
セレスティス・コンセッドミニ・トゥーネ・タァム・パータァム
私に求めさせて下さい
クァム・ニカム・ヴォレンターテム
私のたった一つの願い
ノーマンの歌を聴くとエルザは安らかに夢の中へと旅立っていった。
『お母さま……僕の幸せは、あなたの幸せなんですよ?だから……』
ちゅ……
ノーマンはエルザの額にキスをして彼女を抱き寄せて眠った。
それから、あの夜の事が嘘のようにいつも通りの日常に戻った。
僕とお母さまは、いつも通り一緒に朝起きて、いつも通り一緒にご飯をたべて、いつも通り一緒に勉強して、いつも通り一緒にお風呂に入って、いつも通り一緒にお祈りをして、いつも通り一緒に眠る。
表面上はいつも通りの日常だ。ただ、いつも通りじゃないこともある。
お母さまは時々悲しそうな顔をする。夜は前以上に僕にくっついてくる……嬉しいけど、心臓が破裂しそうになる。それから僕に何かを隠しているような、そんな感じがする。
僕は、お母さまのことを考えてみた。
わからない……
僕はこんなに長くお母さまと一緒にいるのに、産まれてからずっと一緒にいるのに、お母さまの事がわからない。知らない事が多すぎる。
それに、今考えるまで当たり前だと思っていたけど、僕はお母さま以外の魔物娘や人間に会った事がない。それどころか、僕はこの家と小さな森しか知らない。出た事がない。当たり前過ぎて考えた事がなかった。
家には畑があって、野菜を育てている。でも、お肉やパンはそれらを作っている人がいるはずで……でも、その人達に会った事がない。同じように家の本棚の本を書いた人もいるはずだ……。
森に入って遊んでも、少し遠くへ行くと霧に包まれて、いつの間にか家の近くにいる。
聖典や本には広大な世界が広がっているけど、僕がいる世界はなんて小さいんだろう。
疑問は尽きない。次々と何故?が出てくる。
聖典にも、子は父と母を敬わなければならないと書いてある。でも僕にはお母さまだけしかいない。しかも、僕は人間で……でも、お母さまはデーモンという魔物娘で……お父さまもいない……そもそも魔物娘と人間では魔物娘しか生まれない。ずっと昔にお父様はどこ?……と聞いた事があったけど
『もう少し大きくなったら教えてあげる。』
と言われたきりだ。
不安が頭をよぎる。もし、不安が的中したとしたら……
僕はいったい
何者なんだろう……
どうしても悪い方向に考えてしまう。
もしかしたら、
もしかしたら、
僕は……
お母さまの本当の子では無いのかもしれない……
『うぷ……!!??』
不安が頭を過ぎった瞬間、酷い目眩と吐き気が襲いかかってきた。
ビチャ、ビチャ
胃の中身が逆流してくる。
頭が……割れ……そう……
レヴォースクェ・クァーエルソ・アド・メ
私に還りなさい
歌……?なに……これ?
『坊や……!!?』
お母さま……
駆け寄ってくるお母さまを目の端で薄っらと見ながら、僕の意識は真っ白になっていった。
気がつくと、天井とお母さまの心配そうな顔が見えた。
『お母さま……』
『いきなり倒れたから心配したよ……どうしたんだい?』
『ちょっと、気分が悪くなっただけです……心配ありません。』
僕はお母さまに笑顔を向けるけど、お母さまの表情は暗いままだ。不安で仕方ない、でも、全てを見すかすような目で僕を見つめると
『……隠し事はよくありません。正直にお母さまに話してごらん?』
潤んだ優しい赤い瞳。この目で見つめられると、頭がとろんとして逆らう事が出来ない。
『……最近、お母さまがときどき哀しそうな顔をしていて、なんでだろうと考えたんだ。でも、わからなくて……。そしたら気づいたんだ……僕がお母さまの事、ずっと一緒にいるのにわからない事だらけだって……』
あれ?……話したくないのに……
『ええ……』
あぁ……お母さま……悲しまないで……
『それでね……それから今までずっと当たり前に思ってたことが不思議で……僕はこの家と森から出た事なくて、お母さま以外の人間や魔物娘に会ったことなくて……それから……お母さまは魔物娘で……でも僕は人間で……お父さまはいなくて………僕は……お母さまの……お母さまの子じゃないのかめ知れない……僕は……誰なんだろうって……』
お母さま……泣かないで……
僕が話し終わると、お母さまは僕をぎゅっと抱きしめて
『ごめんね……心配をかけてお前を悲しませてしまった。……でも、今はまだ話せない。お前が1週間後に13歳を迎えるまでは……でも、これだけは信じておくれ……私の愛しい坊や……お前は私が胎を痛めて産んだ私の子……私の子!!』
『お母さま……お母さま……』
お母さまは、涙で濡れた僕の頬を優しく拭うと頬にキスをしてくれた。
『さあ、もうお休み……』
『お母さま……倒れる時に……綺麗な……歌が聴こえて……きて……』
『え……?』
『レヴォースクェ…クァーエルソ……アド……メ…………』
『それは……』
僕は眠気に耐えきれなくなって意識を手放してしまった。
私の愛しい坊や……出来るならお前の記憶を戻したくない……でも、それはお前を裏切ることになるのだろう……お前が聴いた歌は、お前が生まれ変わる時に私の魔力が奏でた歌……おそらく、残留思念で過去のお前自身が今のお前に聴かせたのだろう……
だから、私は……
お母さま……僕は何者でも、お母さまが本当のお母さまで無くとも構いません。あなたから貰った愛は本物で、それは真実です。だから、どんな事があっても、どんな秘密がお母さまにあっても、僕はあなたの息子なんです。悲しまないでください。その涙で胸が痛むのですから……
だから、僕は……
こうして2人は運命の日、ノーマンの13歳の転生誕生日を迎える事になった。
『お母さま〜!お母さま〜!』
若草が香る木漏れ日の庭で10歳くらいの男の子が母親を呼んでいる。可愛らしい栗毛に緑の優しい目を持ったその子は手に大事そうに何かを持っていた。
『わたしの愛しい坊や、どうしたの?』
すると、白いローブと頭にベールを纏った蒼い肌の女性が庭に出て男の子を迎える。
『お母さま、小鳥さんが……小鳥さんが……』
男の子が手を開くと、そこには青い小鳥がいた。動かない小鳥を見てお母さまと呼ばれた悪魔が首を横に振ると、男の子の目から澄んだ雫が落ち、その頬を濡らした。
『ノーマン……命には終わりがあるの。だから、お前と母で神様の国へ送り出してあげましょう……』
そう言うと母エルザはノーマンの頬をその手で優しく拭った。
『はい。お母さま……』
『この小鳥は幸運ね……お前に祈ってもらえるのだから……』
ノーマンは木の陰に小鳥をそっと埋めてお祈りをした。
『天にまします主神さま……天の王さま。あなたの広い手で小鳥さんの魂をお救いください。あなたの側にお導きください。ねがわくばあなたの深い愛で小鳥さんに祝福をお与えください。……そうあれかし…』
堅く握った手を解き、目を開けるとノーマンはエルザの胸に飛び込んだ。エルザはノーマンの頭を優しく撫でて抱きしめると、手を取り導くように家の中へと連れ帰った。
ある夜……
2人はリビングでソファーに腰掛けて聖典を開いていた。舌足らずな声でノーマンが読み上げている。
『愛はかんよーであり、愛はしんせつです。また人をねたみません。愛はじまんせず、おごりません。れいぎに反することをせず、自分の利益を求めず、いらだたず……ふ…ふ?』
『不義を喜ばず……』
『んー……ふぎを…?ふぎってなぁに?』
『そうさね……ノーマン……例えば、お前がお友達に嘘をついたり、裏切ったり……そういった悪い事よ。』
『僕そんな事しないよ!』
『そうだね……お前は良い子だから。さぁ、続きを読みなさい……』
『はい、お母さま…。あー……ふぎをよろこばず、真実だけを喜びます。』
ノーマンは聖典を置いてふーっ……とため息をついた。
『……では、この章で1番大事なことはどこか?そこを呼んでみなさい。』
ノーマンは少し考えてからこの章の1番最後を読む事にした。
『えっと……いつまでも、この世のおわりまであるのは、信仰と…希望と…愛です。その中でもっとも大いなるものは……愛です……』
『よくできました。えらいわ……』
微笑んだエルザは優しくノーマンの頭を撫でた。愛しい坊やは嬉しそうに目を細めた。
『さぁ、眠いであろう……もう、おやすみなさいな……明日はきっと優しいから……』
『はい。おやすみなさい、お母さま。』
ノーマンはエルザの頬にキスをすると、リビングを出て行った。
エルザはため息をひとつ吐くと
『……覗きとは趣味があまり良いとは言えないわね……』
と呟いた
すると、部屋の空気が歪んでそこから大きな蝙蝠羽を持った美しい女性が出てきた。エルザと同じく蒼い肌に頭には角が生えている。エルザと違い、燃えるような赤い髪は短く切りそろえられ、露出の高い軽装鎧を身につけて、腰には黒い剣が下げられていた。
『これは失礼。お久ぶりねエルザ。』
『お久しぶりねミエル……そうさね、ざっと11年ぶりかしらね?今年の審問官はあなた?』
『そうだ。今年は私だ。11年か……君が魔界最高裁判所から刑執行の為に出て、それが最後だったからそれくらいね。』
ミエルはテーブルに置いてある聖典に目をむけると
『……しかし、君はなぜ彼に聖典を?主神が祝福を施した使徒や預言者と呼ばれる憐れな人間に書かせた聖典を読ませるんだい?』
と言った。エルザは目をつぶり、ゆっくりとミエルに口を開いた。
『可笑しいかも知れないけど、私は主神を愛している……いえ、信じていると言った方が正確かね……笑いたかったら笑ってくれて構わない。』
『私の友、聖堂の悪魔エルザ。他の誰が君を笑おうとも、他の誰が君を蔑もうとも、私はあなたを笑わない。主神へのアガーパスか……』
『そうよ……だから私は私の愛しい坊やに、ノーマンにもう一度、愛する事を……聖典が本当に伝えたい事を学んで欲しいと思っているの。馬鹿にしないでくれてありがとう、ミエル。』
『そうか。エルザ……君は本当にノーマンを愛しているんだね。』
『そうよ。愛している。私が持つ全ての愛を彼に注いでいる……』
エルザは穏やかな笑顔をミエルに向ける。その目にはノーマンへの深く強い愛情が表れていた。
『…そうか……君の考えは良くわかった。だけどね!』
ミエルはスラリと腰の剣を抜いてエルザに向けた。
『もし、仮に君の“愛しい坊や”が道を外した時や、主神が直接手を出して来たその時は……』
『えぇ……喜んでノーマンと一緒にパンデモニウムに永久に閉じ込められてあげる。』
『わかっているなら良いんだ……。エルザ、君の“慈愛”も結構だが、最高執行官たる我々ウォッチャーズの仕事を忘れないで。』
『……人間に武器の造り方を教え、争いを与えたあなたに言われるまでもないわ。』
『…………』
ミエルは遣る瀬無い思いと共に溜め息を一つつくとカチャリ……と音を立て、剣を鞘に収めた。
『……見たところ君の“愛しい坊や”は優しい良い子に育ってる様だね。』
『そうね……』
『旧友としての精いっぱいの忠告はしたわ。エルザ……私の言葉を忘れないで。もしもの時は……』
『大丈夫。私が導いてみせる。絶対に……』
ミエルはエルザの中の愛情と決意と、様々な思いが力となって溢れているのを感じた。
『……エルザとその息子ノーマンに限りない祝福と実りがありますように。』
そう言うとミエルは空気を歪めて消える様に去っていった。ありがとう……とエルザが誰もいないリビングでひとり呟いた。
魔界最高裁判所 最高執行官 の義務……
歴史的な意味を持つ極めて重要な裁判での公平なジャッジ
最高刑を受けた罪人の保護と刑の執行
世界の監視と魔王への報告
世界と歴史の公平な証人になる事
それが私たちが“ウォッチャーズ”と呼ばれる所以である。
私は世界を見続けてきた。ノーマンを産んでからも、産む前もずっとずっと
ここ数年でいろいろな事が起きた。
オランジュ独立戦争はイスパール主神教国がオランジュ公爵の占領領地を国と認める事で終結した。オランジュ公国領周辺の敬虔な西方主神教信者の多くはランドル・ファラン王国に近いイスパール教国領地のベルモット地方に流れた。幾つかの小競り合いの後、正式に国境線を設定し、和解にいたる。
オランジュ公国は公爵の意向により現在は中立国となっている。彼は、宗教や政治などに寛容であり、芸術を愛し、それらの文化を大切にしている。西方主神教会と福音主義派に関わりなく主神教における芸術や建築様式などの人間文化の保護、発展の為の処置であり、人間と魔物娘の双方に配慮した近年稀に見る英断の結果である。経済活動、貿易の自由、宗教の自由が認められ、移住に関しても双方に制限の違いはない。心理面の問題に関しても、徐々に解決してる。中立国ではあるが事実上は主神教福音主義教会国教の親魔物国家である。
一方、イスパール教国は長い戦乱が終わり今は少し大人しくなったが、以前として厳格な主神教国には変わりない。貧富の差が激しく今もなお特権階級による収奪が横行している。
あの、貧民街の男の子や女の子や子供達、見捨てられた農村の老人達をすぐに助けることは出来なかった。下手に手を出すと、今度こそ聖戦軍が起こりかねない。魔王軍がオランジュ独立戦争に介入して聖戦軍が起こらなかったのは単にタイミングの問題だ。
当時の西の大陸では戦争の影響による経済危機に加え、黒死病と飢饉が猛威を振るっていて、他国はとても戦争どころではなかった。ランドル・ファラン王国は黒死病だけで何十万人もの死者をだした。
そんな時に、ある魔王の娘リリムの1人が
『人の容姿に近い魔物娘……ダンピールとか?……を偵察に送り込んで、早急に保護が必要な人々の調査、及び規模を把握。それから催眠魔法でもなんでも使って、一箇所に集めて時空間魔法で親魔物国家や魔界やパンデモニウムに転送する。そうね……古い手だけど、神隠しとか主神の奇跡とかなんとか言って触れ回るの。彼らは主神の力や奇跡を否定できないから。時空間魔法発動はかなりの魔力を必要とするから人選が重要ね。誰がやる?なんなら私がやるけど!?』
と、単純かつ、現実的かつ、論理的かつ、合理的かつ、素っ頓狂かつ、能天気な作戦が考案され早急に実行された。そのリリムはカルミナと言う名前だった。
戦場跡には死者の国の使者が来て、未練のある者や、さまよえる魂を使者がアンデットの魔物娘に変えて死者の国へ連れて帰っていった。
こうして、私たちは彼らを救い出す事が出来た。今では皆んな幸せに暮らしている。
とは言ったものの、主神教国家全体に言える事だが、国とは何か?宗教とは何か?人民とは何か?と言う疑問に対して、彼らの意識の根底を変えるには残念ながら少なくとも後2〜3百年の時間が必要だろう。
西方主神教会が腐敗を始め、主神教国同士の内乱が起き、副音主義派が起こり、弾圧があり、農民や市民の反乱が起こり、黒死病が猛威を振るい、飢饉が起き、戦争が起き、戦って、戦って、戦って……終わる頃には西の大陸は真っ赤になっていた。約30年と、人間には長い長い戦乱だった。
いや、たった30年で済んだと言うべきか……?
歴史が動く度に、歴史は血を求め、人間は血を流す。それをいとわない。
もし、それが主神の意思ならば、きっと愚かな人間を生み出した事を後悔しているのかもしれない。
旧時代の聖典の時代、主神は空を落とし、世界を一度滅ぼした。その時に助けた方舟の聖者に虹を掛け交わした誓いにより、自らは手を下せないので、魔物を創り人間と争わせたり、人間同士を争わせたりしたのだろうか?
預言者や使徒や勇者と呼ばれる者達に祝福と力を与えるのは主神に忠実な者を選定する為だけかもしれない。
魔王が代替わりし、新時代となって全ての魔物が魔物娘になって、もしかしたらそこで初めて世界は主神の手のひらから出たのではないだろうか?
それでも、人間は魔物娘や人間同士で争い続ける。血を流し続ける。歴史は以前として血を求め続ける。
愚かな私たちはもう主神に愛されてはないのかもしれない。彼は沈黙を続ける。
『我、其を知ろうとも、其は砂よりも夜の星よりも多し。我、其を知ろうと試みるも、其を知らぬ事を知る。今、我は主神の中にこそ在らん。』
沈黙が答えであり、それとも沈黙の中に答えがあるのだろうか?それこそ神のみぞ知るのであろう。
それでも、私は人間と神を愛している。
ノーマンを愛している。
それを否定してしまわないように。
自分の中の1番大事なものを手放してしまわないように……
寝室のドアを静かにあけて中に入ると愛しい坊やが穏やかな寝息を立てている。罪のない無垢そのもののよう。まるで……
『天使のようね……』
優しく頭を撫でる。髪が分かれると額には星の紋章が刻まれている。これはこの子が私のものと言う証。私がこの子のものと言う証。私がこの子を愛している証。
アミカ・メア……
私の愛……
気が遠くなる程昔のこと、私は天使だった。主神から人間と世界を見守るようにと言われていて、そのようにしていた。私たち天使は観測者と呼ばれた。天使は人間を見ているうちに
不完全な事に
成長する事に
感情がある事に
その美しさに憧れた。
私たちは
感情も必要なく
完全で……
故に成長も衰退もしない。
だから、私たち天使の一団“観測者”は主神に逆らい、人間界へと下った。
ある者は、人間の成長する力に憧れて
ある者は、人間の様々な感情に憧れて
ある者は、人間の持つ美しさに憧れて
そして私は、人間の持つ慈愛に憧れて
観測者は天界から様々なものを持ち出した。
人間達に武器の作り方を教え、星々や太陽や月の占いや未来の秘密、文字や顔料インクの作り方、化粧の仕方、魔術や護符の知識を教え、神の言葉と絶対の秘密である主神の名を教えた。
私は天文学と詩を人間にもたらしてしまった。
私達は主神の怒りに触れ堕天した。主神に逆らう者として永遠の呪いを受け、その罪に応じて皆異形となった。
観測者達は堕天使となり、様々な感情を手に入れた。怒り、憎しみ、悲しみ、慈しみ、喜び、そして愛。皮肉な事に、私は主神への愛、信仰……その本質を堕天し、感情を手に入れてから始めて知る事となった。
やがて堕天使がもたらした知識により、地上は罪で溢れてしまった。主神は嘆き、空を落し、人間を滅ぼそうとした。
私は主神にお考えを変えるように申し出た。しかし、主神の決定を覆すことはできなかった。私は恐ろしさから逃げ出した。他の者、特に武器や人間の女に化粧を教えた堕天使への罰は厳しく、一部の者を除いて地の底に封じられてしまった。
そして、主神は空を落して世界を滅ぼした。
箱舟を造らせ、それに乗り逃れるように命じた聖者とその家族と全ての地に生きる動物のひと番い以外は全てを無に帰した。
私は捕らえられた観測者の脱出を手伝い、その後は隠者のようになった。誰にも関わらず、ただ祈り、必要が無くなった仕事……世界の観測を続けてそれを書き記した本を作った。
聖者の子孫が星の数程になった頃、私達は人間から悪魔と呼ばれるようになった。
長い長い、気の遠くなるような長い間、世界を見てきた。
いくつもの戦争が起き
歴史が動き
国が生まれて
そして滅びて
ひと時の安寧が訪れ
また戦争が起き……
繰り返し、繰り返し、世界は螺旋に回る。
魔王も何代も何代も変わっていった。
私は自身の罪を懺悔し続け、主神に祈り続けた。
祈る私を見た者が、私のことを聖堂の悪魔と呼んだ。
今代の人間と平和を望む魔王になりこの身が変わっても、世界を観測し続けてきた。
その変わり者の魔王が、私の協力を求めてきた。
世界を争いと憎しみから解き放ちたい……
その目的の為に、今代の魔王は観測者である私を……堕天使達を求めた。彼女は私達を裁判官や執行官にした。
そこには数千年かぶりに会う旧友もいた。
私達は魔王の下、世界を観測し裁く者になった。
私は今代の魔王を信じてみる事にした。彼女の美しすぎる真っ直ぐな理想を……
それからまた、長い時間が流れた。
ある時、ある人間の神父が目に入った。彼は主神と人間に裏切られ、全てを諦めているような目をしていた。
かつての私自身を見ているようだった。
それから二十年が過ぎる頃、彼は大罪を犯し私の下に来た。直接会い、ひと目見た時に今まで感じた事のない感情が私に芽生えた。
もしかしたら、私はこの子に会うためだけに存在したのかもしれない。
『ヴォス・エティス・ルクス・メァ……』
『……お母さま…?』
寝間着姿のノーマンが私を呼んだ。
『おや……起こしてしまったね。』
『ん……お母さま、寝むりますか?』
『そうね……』
ノーマンは毛布をめくり、私を招き入れた。ノーマンが転生してからずっと一緒にベッドに入っている。寝る時だけではなく、湯浴みもご飯を食べるときも、ずっと一緒。私がベッドに入ると、キュッと抱き付いてきてくれる。
私の胸に頬をすり寄せる愛しい坊やはすぐに夢の中へと戻っていった。
例えようのない、ふわふわと心地よい気持ちになる。慈愛とも、母性愛とも違うとても幸せな気持ちになる。とても幸せで、幸せで、幸せで……
おそらくそれは、異性を愛する性愛というものだろう。
ノーマンの額にキスをして、背中をさする。それから、私も緩やかな一日の終わりに微睡んでいく。
それから、歌のように月日は流れた。
エルザはノーマンに聖典だけではなく、神の言葉や数学や天文学や詩を教えた。ノーマンは飲み込みが早く、直ぐに覚えていった。特に神の言葉は、教わって数ヶ月で何不自由なく喋り、読み、書く事が出来るようになった。それらの学問をエルザから教わった事もあるが、魂の根源からそう言った学問に対する適性があるようだっだ。
また、夜寝る時、湯あみの時にノーマンはエルザにあまりくっつかなくなった。
彼が精通を迎えたのと、母エルザの事を女性として意識しての事だった。
エルザは少し寂しく思うもそれを喜んだ。と同時に、元のノーマンの記憶の処置について悩み始めた。
転生前も、転生後もノーマンは聖典と共に生きていた。エルザの愛情によりノーマンは誰よりも優しく、誰よりも無垢で心の綺麗な子に育った。聖典や神の言葉への解釈、本質的な理解は転生前と転生後で余りにも違うが、盲目的に信じているという意味では同じだった。
ノーマンは胎牢の刑により悪魔であるエルザの胎から産まれ、彼女の乳で育ち、彼女の愛情を一身に受けて育った。当然、もうすでに男性の魔物であるインキュバスになってしまっている。
彼に記憶を戻した時、ノーマン・ビショップの記憶がその事実を……自身がインキュバスになってしまったその事実を受け入れられるかどうか?転生してからこれまでの事り受け入れられるのか?なにより、それらの理由でノーマンが自分の元から離れてしまわないか。
そう言う理由から、ノーマンの記憶をもどすか、破棄するかエルザは悩んでいた。
その頃はノーマンの13歳の転生誕生日の10カ月ほど前であった。
ある日、エルザは葡萄酒を飲み、酔って寝てしまった。それを見たノーマンは酩酊している彼女を寝室に運んだ。ノーマンがエルザの為に水を持って来ようと台所まで行こうとしたところ、エルザはノーマンの手を握って離さなかった。
『私の愛しい坊や……私の愛しい坊や……どうか、私を置いて行かないで……』
どうやら、辛い夢を見ている。母親のこのような姿を初めて見て、そう思ったノーマンは、母エルザがいつも自身にしている様に、彼女の頭を優しく撫で、手を握りかえした。
『お母さま、あなたの子はここに居て、何処にも行きません……。ずっと、ずっと一緒です……。あぁ、神様。今だけ……今だけ僕を天使にして下さい。』
ノーマンはエルザの額と頬に祝福のキスをして、エルザが寝る時に歌ってくれた歌を優しい静かな声で歌った。
セレスティス・コンセッドミニ・トゥーネ・タァム・パータァム
私に求めさせて下さい
コンソラーリ・クァム・コンソラーレ
慰められることよりも慰めることを
インテラージ・クァム・インテラージレ
理解されることよりも理解することを
アマリ・クァム・アマーレ
愛されることよりも愛することを
セレスティス・コンセッドミニ・トゥーネ・タァム・パータァム
私に求めさせて下さい
クァム・ニカム・ヴォレンターテム
私のたった一つの願い
ノーマンの歌を聴くとエルザは安らかに夢の中へと旅立っていった。
『お母さま……僕の幸せは、あなたの幸せなんですよ?だから……』
ちゅ……
ノーマンはエルザの額にキスをして彼女を抱き寄せて眠った。
それから、あの夜の事が嘘のようにいつも通りの日常に戻った。
僕とお母さまは、いつも通り一緒に朝起きて、いつも通り一緒にご飯をたべて、いつも通り一緒に勉強して、いつも通り一緒にお風呂に入って、いつも通り一緒にお祈りをして、いつも通り一緒に眠る。
表面上はいつも通りの日常だ。ただ、いつも通りじゃないこともある。
お母さまは時々悲しそうな顔をする。夜は前以上に僕にくっついてくる……嬉しいけど、心臓が破裂しそうになる。それから僕に何かを隠しているような、そんな感じがする。
僕は、お母さまのことを考えてみた。
わからない……
僕はこんなに長くお母さまと一緒にいるのに、産まれてからずっと一緒にいるのに、お母さまの事がわからない。知らない事が多すぎる。
それに、今考えるまで当たり前だと思っていたけど、僕はお母さま以外の魔物娘や人間に会った事がない。それどころか、僕はこの家と小さな森しか知らない。出た事がない。当たり前過ぎて考えた事がなかった。
家には畑があって、野菜を育てている。でも、お肉やパンはそれらを作っている人がいるはずで……でも、その人達に会った事がない。同じように家の本棚の本を書いた人もいるはずだ……。
森に入って遊んでも、少し遠くへ行くと霧に包まれて、いつの間にか家の近くにいる。
聖典や本には広大な世界が広がっているけど、僕がいる世界はなんて小さいんだろう。
疑問は尽きない。次々と何故?が出てくる。
聖典にも、子は父と母を敬わなければならないと書いてある。でも僕にはお母さまだけしかいない。しかも、僕は人間で……でも、お母さまはデーモンという魔物娘で……お父さまもいない……そもそも魔物娘と人間では魔物娘しか生まれない。ずっと昔にお父様はどこ?……と聞いた事があったけど
『もう少し大きくなったら教えてあげる。』
と言われたきりだ。
不安が頭をよぎる。もし、不安が的中したとしたら……
僕はいったい
何者なんだろう……
どうしても悪い方向に考えてしまう。
もしかしたら、
もしかしたら、
僕は……
お母さまの本当の子では無いのかもしれない……
『うぷ……!!??』
不安が頭を過ぎった瞬間、酷い目眩と吐き気が襲いかかってきた。
ビチャ、ビチャ
胃の中身が逆流してくる。
頭が……割れ……そう……
レヴォースクェ・クァーエルソ・アド・メ
私に還りなさい
歌……?なに……これ?
『坊や……!!?』
お母さま……
駆け寄ってくるお母さまを目の端で薄っらと見ながら、僕の意識は真っ白になっていった。
気がつくと、天井とお母さまの心配そうな顔が見えた。
『お母さま……』
『いきなり倒れたから心配したよ……どうしたんだい?』
『ちょっと、気分が悪くなっただけです……心配ありません。』
僕はお母さまに笑顔を向けるけど、お母さまの表情は暗いままだ。不安で仕方ない、でも、全てを見すかすような目で僕を見つめると
『……隠し事はよくありません。正直にお母さまに話してごらん?』
潤んだ優しい赤い瞳。この目で見つめられると、頭がとろんとして逆らう事が出来ない。
『……最近、お母さまがときどき哀しそうな顔をしていて、なんでだろうと考えたんだ。でも、わからなくて……。そしたら気づいたんだ……僕がお母さまの事、ずっと一緒にいるのにわからない事だらけだって……』
あれ?……話したくないのに……
『ええ……』
あぁ……お母さま……悲しまないで……
『それでね……それから今までずっと当たり前に思ってたことが不思議で……僕はこの家と森から出た事なくて、お母さま以外の人間や魔物娘に会ったことなくて……それから……お母さまは魔物娘で……でも僕は人間で……お父さまはいなくて………僕は……お母さまの……お母さまの子じゃないのかめ知れない……僕は……誰なんだろうって……』
お母さま……泣かないで……
僕が話し終わると、お母さまは僕をぎゅっと抱きしめて
『ごめんね……心配をかけてお前を悲しませてしまった。……でも、今はまだ話せない。お前が1週間後に13歳を迎えるまでは……でも、これだけは信じておくれ……私の愛しい坊や……お前は私が胎を痛めて産んだ私の子……私の子!!』
『お母さま……お母さま……』
お母さまは、涙で濡れた僕の頬を優しく拭うと頬にキスをしてくれた。
『さあ、もうお休み……』
『お母さま……倒れる時に……綺麗な……歌が聴こえて……きて……』
『え……?』
『レヴォースクェ…クァーエルソ……アド……メ…………』
『それは……』
僕は眠気に耐えきれなくなって意識を手放してしまった。
私の愛しい坊や……出来るならお前の記憶を戻したくない……でも、それはお前を裏切ることになるのだろう……お前が聴いた歌は、お前が生まれ変わる時に私の魔力が奏でた歌……おそらく、残留思念で過去のお前自身が今のお前に聴かせたのだろう……
だから、私は……
お母さま……僕は何者でも、お母さまが本当のお母さまで無くとも構いません。あなたから貰った愛は本物で、それは真実です。だから、どんな事があっても、どんな秘密がお母さまにあっても、僕はあなたの息子なんです。悲しまないでください。その涙で胸が痛むのですから……
だから、僕は……
こうして2人は運命の日、ノーマンの13歳の転生誕生日を迎える事になった。
17/05/30 07:18更新 / francois
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