友人 A
友人 A
ホームルームが終わり、鐘の音の響く中を慌ただしく学友達が駈け出して行く。
恋にオシャレの相談をする女子、男子の少々品を欠いた笑い声。ため息混じりにこんな所でいつまでも溜まってるんじゃないと少し鬱陶しそうな先生の声。
これから友達と遊ぶ約束があるのだろうか。
あるいは、塾へと出掛けて更なる知識を頭に詰め込もうと急いでいるに違いない。
それとも文化、スポーツの倶楽部活動へと赴き、若い情熱を燃やしに行くのだろう。
先生は明日にでもやる小テストの問題を作るのだろうか?復習をしておこう。
おそらくそれは全てで、またどれでも無いのかもしれない。
騒がしいのは苦手な性分で、人が居なくなるまでの少しの時間を毎日こうして学友達の背中を見て、或いは窓に映る雲を眺めて過ごしている。
この高校は進学校だから授業は7限までびっしりで、わたしが席を立つ頃には太陽はもう西に傾き掛けていた。
4時を少し過ぎた頃、まだ図書室が閉まるまで小一時間ある。人気の少ない廊下を歩いて図書室で本を漁り、そうして手元に残った何冊かの本を持ち、文学部の部室に向かう。
今日は吹奏楽部の練習が無い日だろうか?夕焼けになりかけた山吹色の光の中で、遠く離れた音楽室から美しいバッハの旋律が聴こえてくる。
たしかゴールドブルク変奏曲のアリアだっただろうか?ひどく美しく、そしてどこかノスタルジックで儚い午後の学校にピアノの音が輪郭を描くようだ。
良い。実に良い。
この様な景色に出会う度に、この様な気持ちになる度に、十年か二十年後の未来の自分が学生である現在のわたし自身を振り返った時に、始まりも終わりも定かではないけれど、確かにこの時こそ青春だったと……きっとそう思うに違いない。
青春……か……。
わたしはこんな青春はごめんだと少しわたし自身を笑った。
廊下を渡り、階段を降りて、歩いた先に文学部の部室(とは名ばかりの倉庫)がある。
少し躊躇って扉をガラリと開けると、そこにはいつもの通り先客がいるのだ。
1人しかいない文学部の部室のわたしの机の上の粗末なプレートには
【 文学部 部長 】
と書かれている。
彼はわたしの机の前で何処からか持ち込んだイスに座って本を読みながらいつも通りわたしを待ち構えていた。
『こんにちは、クレアさん。』
" わたし " をファーストネームで呼ぶ目の前の彼は和木野・善人(ワキノ・ヨシヒト)である。
『今日も、作戦会議をしましょう。』
そう言うと彼は頭を下げた。
事の発端は少し前に遡る。
わたしの名前はクレア・グレイ。文学部に所属する高校2年生。魔物娘のドッペルゲンガーで異世界留学生。将来の夢は劇作家になる事。
趣味は読書と音楽、舞台、映画の鑑賞。
特技は……特に無し。
それはそれとして……
わたしの家、グレイ・ファミリーは代々芸術一家である。作曲家のひいお爺ちゃんダニエル・グレイを筆頭にその妻のアンナひいおばあちゃんは教会オルガニスト。その娘のアリアおばあちゃんはソプラノ歌手。お婿さんのラルゴットおお叔父さんは有名なバス歌手で音楽教授。アリアおばあちゃんの一回り歳下で大叔母のダニエラおばさんはオーケストラのビオラ奏者。お婿さんで義理の大叔父のゴーシュ兄さん(ショタ)はチェリスト。お母さんの4つ歳上のクララおばさんは室内楽のフルート奏者で、お婿さんのカナタ叔父さま(ダンディ)もフルート奏者。お母さんのアンジェリカはピアニスト。パパのレナードはオーボエ奏者。上の従姉妹のメリルはハープとヴァイオリンの英才教育。そんな一家だ。
わたし?
わたしは音楽家ではなく、劇作家を目指している。有り体に言えば物書きである。……わたしの楽器や歌の腕前はどうか聞かないでほしい。
そんな一家の変わり者のわたしだけど、小さい頃のある日、舞台を見て劇作家になりたいと話したら、ダニエルひいお爺ちゃんから異世界に行って世の中を色んな角度から見ておいでと言われて、そう言う訳で西暦世界の日本の学校に留学している。
そう。わたしは物書きだ。
物書きだから草案や物語を彩るキャラクターのモデルになりそうな人なぞを纏めたノート。いわゆるネタ帳。若しくは黒ノート。そう言うものを持っている。
つまりはとびきりの秘密。
しかしながら、ヒトの秘密と言うものはちょっとした出来事が原因で破られてしまうのが世の常だ。
あれは2年生になって間もない頃だった。
スランプ中(実は今もだが)のわたしはあーでもない、こーでもないと行き詰まって、徹夜をして寝不足で学校に来てしまった。
何とかその日の最後の歴史の授業を乗り切って。
『はい。ではノートの提出をお願いします。』
歴史のノートの提出を求められた。同回生の嫌そうな声を他所にふらふらとノートをその日の日直に手渡して、机に戻った所でわたしは睡魔に負けて突っ伏してしまった。
『……はっ!……うぇ?』
目を擦って時計を見るともうすぐ5時。だいぶ寝てしまった。ホームルームの記憶が無い。
『おはよう。クレアさん。』
『えっと……ワキノくん?』
くしゃくしゃの黒髪。特別イケメンでも不細工でもない普通の顔。身長はそこそこで中肉中背。制服は着崩したりしないで身綺麗でしゃんとしている読書が趣味のメガネ男子。ちなみに彼はメガネを少なくとも3つは持っていて今日は黒縁のウェリントン。
学校の成績は上の中(学年126人中24位)。いつも幼馴染2人と一緒いる。スクールカーストはたぶんサイドキック(ちなみにわたしはフローターではないだろうか?)。
そんな彼を一言で言うと友人A。
これを読んでいるキミたちは映画やミュージカルは見たことがあるだろうか?小説や漫画でも良い。
友人A……つまり主人公の友人、若しくは親友、さもなくば主人公に好意的なライバルで総じて善人。それが彼、和木野・善人 だ。
この手の人物は大抵、アクション映画だったら主人公と一緒に戦ったり、人(視聴者に)知れず陰で主人公を助けたり、オペラやミュージカルだったら主人公を助ける為に代わりに死んだり殺されたり、美味しいところは主人公に持っていかれたりと損で報われない役回りが多い。
『悪いけど、歴史のノートをお願いできる?古川先生から頼まれたんだ。』
『……へっ?』
見るとワキノくんは手にわたしの黒ノートを持っていた。
寝覚めの呆けた頭が急激に覚めていく。あの時間違えて歴史のノートでは無く、黒ノートを渡していた。
『そ、それ……中身……読んだの?』
『……つい。』
冗談では無い。……それには物語の草案は勿論、学校の様々な人物の人間考察やら秘密やらなんやらかんやらが書いてある。ぶっちゃけてしまうとかなりキモいノートだ。こんなものを皆んなに知られたら、平穏無事な学校生活を棒に降ってしまう。
『えぇと……なかなか面白いノートだね。僕の事も書いてあった。……確か、物語りに登場する友人A……だっけ?』
……この時、善人君は確かにわたしの学校でのわたしの人権を握っていた。
『読んじゃってごめん。これ……返した方がいいよね?』
わたしはゆっくりと首を縦に振ったら、彼はあっさりとノートを返してくれた。
そして
『クレアさん……お願いがある。』
『……え?』
『ノート……。クレアさんは、たぶん小説家とか目指しているんだろ?』
『え、っと?げ、劇作家だけど?』
『どっちでも構わない。小説家でも劇作家でもクレアさんは話を作るプロだ。だから教えてほしい。』
『ち、ちょっ!……え?教える?なにを??』
『友人Aが恋で主人公に勝つ方法を……』
かくして友人Aの報われない恋物語が始まってしまった。
と言うと少し大袈裟かもしれないが話しは単純だ。彼のお願いは恋路の手伝い……もとい、ラブストーリーのシナリオを作る事。
ヨシヒトくんが恋する相手は幼馴染の1人、美菜月 愛子(ミナヅキ アイコ)。明るくて可愛らしいくて、裏表が無く誰にでも愛される性格で、少しドシなおっとりした女子(人間)。クラスの人気者。胸が大きい(目測E)。スクールカーストはプリンセス。
そしてヨシヒトくんの恋敵が幼馴染で親友の陽色 光(ヒイロ ヒカル)。高身長の爽やかイケメン。スポーツクラスのボクシング部(ミドル級)。県大会準優勝。性格も良く努力家で学業も卒なくこなす完璧超人(ホントに人間だろうか?)。スクールカーストのてっぺんに君臨している(コイツはスクールカーストとかそう言うの認識しているのだろうか?)。
まぁ、はっきりと言ってしまえば無理難題だ。
わたしは一応物書きだけどラブストーリーなんか一度も書いた事無いし、まだ駆け出してもいないひょっこだ。
それに……
『わかってはいたけど、やっぱりヒカルは凄い奴だよ。』
彼の手には地元の新聞が握られている。見出しの内容はボクシングの大会予選でヒイロがKO勝利を上げている写真がデカデカと乗っていた。
『それで、ヨシヒトくんはどうするの?正直言って顔でもスポーツでも勝てない。勉強だけはキミの方が成績良いけど、それでも特に秀でたものでは無い。唯一の救いはミナヅキさんが恐らくまだキミたちのどちらにも恋愛感情を持っていない事だけど……』
『わかってます。ヒカルは僕が太刀打ち出来ない凄い奴って事も、自分には何も無いって事も。でも……それでも何としても勝ちたいんだ!』
そうだよね。そうじゃなければ、わざわざこんな地味で暗い女の所になんか来ない。本当にずっと好きだったんだろう。
『……わかった。じゃあ、出来る限り協力しよう。』
作戦は至ってシンプルだ。とにかくターゲット(ミナヅキさん)と接点を持つ事。なるべくわたしも可能な限りでサポート&フォローする。
一緒に帰るように促したり、さりげなく勉強会をセッティングしたり、なるべく2人でいる機会を作った。高校2年生と言えば青春学園物の定番。つまりイベントは盛りだくさんだ。
体育祭、林間学校、校外学習、夏祭り、文化祭などなど……
が……主人公補正が掛かっているのか、重要(?)なイベントで恋敵のヒイロくんが絶妙なタイミングで乱入して美味しい所をさらってくる(本当になんなんだろうか?)。
けど、そうして手助けしているうちにノートには書かれていないヨシヒトくんの事がだんだんと分かってきた。
先ず彼は名前の通り善人だ。
主体性に欠けるけど、他人からの信頼には全力で応えようとするし、自分に非があれば素直に謝る。争い事が嫌いで静でささやかな平和を好む。しかし、夏祭りでミナズキさんが不良に絡まれた時とか、いざとなると身をもって大切なものを護ろうとする(すぐ後に主人公乱入)。
そして何より卑怯な事は絶対にしない。
ノートもあっさり返してくれたし、秘密は守られている。その件でわたしを脅迫して協力を強制することも出来たろうにそれもしない。あくまでも律儀にお願いと言うスタンスを取っている。
自分より相手の立場や感情を優先してしまう気があり、敵に塩を無担保無利子で送ってしまえば、恋敵にも平気で手を貸してしまう。
つくづく損な性格をしている。
暇さえあれば本を読んでいて、図書館で読んだ本も返す時は必ず元の場所に戻す。図書館員より本の種類や場所に詳しい。彼の書いた復習用のノート(通称ワキノート)は教科書より見やすくてわかりやすいと評判で、わたしも何度か助けられた。
身綺麗でしゃんとしていて、ワイシャツのボタンは第一ボタンまできっちり閉める。体育着や着替える時は脱いだ服を丁寧に畳む(アイロンも自分でかけてるらしい)。何処となく品があって、お弁当を食べる時の箸の持ち方が綺麗だ。
本人は気付いていないかも知れないけど、実は結構女子から人気がある。ミナヅキさんに(変に)拘らなければそこそこモテていただろう。
今までわたしは特定の人間(と魔物娘)と深く関わろうとしなかった。そもそも人付き合いが苦手だし、そう言う事は劇作家を目指しているわたしには必要は無いし、意味も無いと思っていたからだ。
でもヨシヒトくんに会って、その周りの人達と関わって、彼の人と也を見て、あぁ、報われてほしいなと……素直にそう思う自分がいる。
種族柄、地味で暗くて、人の心に漬け込む事を良しとする卑怯なドッペルゲンガーのわたしとは違って、ヨシヒトくんは正々堂々と全身全霊で恋をしているんだ。誰の為じゃなくて、必死に人生の主人公になろうとしている。
それが眩しくて、うらやましい。
そして今日も冬の寒い廊下を渡り、階段を降りて、歩いた先の部室の扉をガラリと開ける。
『こんにちは、クレアさん。』
そこにはいつもの通り先客がいるのだ。
『今日も、作戦会議をしましょう。』
このいつものやり取りがいつの間にか毎日の楽しみになっている事は彼には内緒だ。
ずっと今が続けば良いのに……。
それでも時は流れるし、朝が来れば夜が来る。
現実はいつも無常である。
そう……無常なのだ。
今、ヨシヒトくんは真冬の早朝、浜辺で膝をついて声を上げまいと必死に堪えながら泣いている。
わたしはヨシヒトくんの恋路を助ける為に殆ど全てのイベントを陰ながら見守っている(ストーカーでは無い)。ヨシヒトくんはヒイロくんのボクシングのインターハイ全国大会決勝をミナズキさんと2人で見に行った。
それからだった。ヨシヒトくんが時折り諦めたような、寂しさと嬉しさと喜びや悲しみをない混ぜにしたようなそんな表情をするようになったのは。
何時しか文学部の部室にも顔を出さなくなった。
ヨシヒトくんが顔を出さなくなってしばらく経った3学期の最後の日。
『5時半の早朝に、海岸に朝日を見に行こう。』
ホームルームの後で、彼はヒイロくんとミナズキさんにそう話した。ヒイロくんは少し嫌がって、でもミナズキさんが『青春っぽくて素敵じゃない!』と言うと少し照れながらはにかんで笑った。
そして至る今。
ヨシヒトくんは待ち合わせには行かずに少し離れた所から彼らを見ていた。ヒイロくんとミナズキさんはヨシヒトくんを待っていたけど、しばらくすると海辺へ向かった。
朝焼けを待つ彼らの距離は遠く近く、何も言えずに寄せては引くさざ波だけが時を刻んで。
そして水平線が紅く染まる頃に、ヒイロくんはミナズキさんの手を取って『キミが好きだ』と大きな声で叫んだ。ミナズキさんは驚くような嬉しいような仕草をするとそっと目を閉じたのだ。
それを遠くから見ていたヨシヒトくんは、『おめでとう』と一言呟くと崩れ落ちた。
多分ヨシヒトくんはインターハイの時にヒイロくんとミナズキさんとの気持ちに覆せない決定的な何かがあったのだろう。
辛かったろう。悔しかったろう。悲しかったろう。
でもヨシヒトくんは自分の幸せよりミナズキさんの幸せを選んだ。
ミナズキさんの恋を叶える為に。お膳立てまでして。
朝がやって来て、2人はぎこちなく手を繋いで帰って行く。
残されたのは必死に声を殺して泣くヨシヒトくんだけだ。
『……ヨシくん。』
わたしはミナズキさんに変身して彼を後ろからそっと抱きしめた。
『へっ?……アイちゃん?』
わたしは何なのだろうか?と自分でも思う事がある。初めは秘密をバラされたくないから。あわよくば文章の肥やしにでもなれば儲けものだと思った。
でも彼の事を見ている内に、恋路を手伝っている内に幸せになってほしい。報われて欲しいとそう願うようになった。
そしてそれは、ヨシヒトくんがミナズキさんにそうしたように、わたしもヨシヒトくんの選んだ道に少しばかり責任を持ちたくなったのだ。
多分、他人の人生に関わる事ってこう言う事だと思う。
『頑張ったんだね。』
彼は腫れた目でわたしを見る。
『……うん……』
少し間があって……
『辛かったね。ごめんね……。』
わたしは彼を抱き寄せて……
『うん……』
彼の手がわたしの背中に回った……
『……ワタシの事好きになってくれてありがとね。』
『う"ん"っ"!』
ヨシヒトくんは何もかも全部分かっている。その上でわたしの胸で泣いてくれている。泣き続けてくれる。
他人は笑うかも知れない。友人Aが高望みするんじゃないと。でもわたしはヨシヒトくんを笑わない。
人気のない終点のような朝の海辺で、太陽の光だけが妙に清々しくて。
それから春休みが終わり、わたし達は3年生になった。
始業式にきっちり時間通りに到着した(5分前行動)わたしは、皆んなと一緒に寒い体育館に整列すると校長先生やらPTAの偉い人(たぶん語尾はザマス)の挨拶と長くて有り難いお話しが始まる。
それから生活指導のやたらガタイの良いラグビー部の顧問(ステロイドドーピングでもしているのだろうか?)の校則や学校生活についてのあまり有り難くないお話し聞かされて、少々うんざりした頃には、1人か2人貧血女子が倒れる様式美を堪能した。
始業式が終わり、その後のホームルームも終わり、鐘の音の響く中を慌ただしく学友達が駈け出して行く。
クラス分けに早くも馴染もうと社交に貪欲な女子、カラオケに行こうぜと誰彼構わず誘う男子の笑い声。ため息混じりにお前ら問題起こすんじゃないぞと少し呆れた先生の声。
これから友達と遊ぶ約束があるのだろうか。
あるいは、塾へと出掛けて更なる知識を頭に詰め込もうと急いでいるに違いない。
それとも文化、スポーツの倶楽部活動へと赴き、若い情熱を燃やしに行くのだろう。
先生はこの後職員会議かも知れない。胃薬を飲んでいた。
おそらくそれは全てで、またどれでも無いのかもしれない。
わたしは例によって例のごとく、騒がしいのは苦手な性分(最近いくらかマシになった)で、人が居なくなるまでの少しの時間を学友達の背中を見て、或いは窓に映る雲を眺めて過ごした。
人気の少ない廊下を歩いて先生に頼んで図書室で本を漁り、そうして手元に残った何冊かの本を持ち、文学部の部室に向かう。
今日は吹奏楽部の練習が聴こえる。開けっ放しの窓から入り混んだであろう散り残った桜が舞う廊下に、遠く離れた音楽室から金管楽器や木管楽器の音が聴こえてくる。
少々騒がしくて、そしてどこか不恰好だけど、未来への希望が溢れる青々とした若葉のような音は、始まりの季節の学校に春色の絵の具をのせるようだ。
良い。実に良い。
この様な景色に出会う度に、この様な気持ちになる度に、十年か二十年後の未来の自分が学生である現在のわたし自身を振り返った時に、始まりも終わりも定かではないけれど、確かにこの時こそ青春だったと……きっとそう思うに違いない。
青春……か……。
少し……少しだけ毎日が楽しみでもある。
廊下を渡り、階段を降りて、歩いた先に文学部の部室の扉を少し躊躇ってガラリと開けると、そこには久々に先客がいた。
『こんにちは、クレアさん。』
彼の机の上の粗末なプレートには
【 文学部 副部長 】
と、そう書かれていた。
わたしが変身魔法を使えなくなったのは少しだけ先の事だ。
fin.
ホームルームが終わり、鐘の音の響く中を慌ただしく学友達が駈け出して行く。
恋にオシャレの相談をする女子、男子の少々品を欠いた笑い声。ため息混じりにこんな所でいつまでも溜まってるんじゃないと少し鬱陶しそうな先生の声。
これから友達と遊ぶ約束があるのだろうか。
あるいは、塾へと出掛けて更なる知識を頭に詰め込もうと急いでいるに違いない。
それとも文化、スポーツの倶楽部活動へと赴き、若い情熱を燃やしに行くのだろう。
先生は明日にでもやる小テストの問題を作るのだろうか?復習をしておこう。
おそらくそれは全てで、またどれでも無いのかもしれない。
騒がしいのは苦手な性分で、人が居なくなるまでの少しの時間を毎日こうして学友達の背中を見て、或いは窓に映る雲を眺めて過ごしている。
この高校は進学校だから授業は7限までびっしりで、わたしが席を立つ頃には太陽はもう西に傾き掛けていた。
4時を少し過ぎた頃、まだ図書室が閉まるまで小一時間ある。人気の少ない廊下を歩いて図書室で本を漁り、そうして手元に残った何冊かの本を持ち、文学部の部室に向かう。
今日は吹奏楽部の練習が無い日だろうか?夕焼けになりかけた山吹色の光の中で、遠く離れた音楽室から美しいバッハの旋律が聴こえてくる。
たしかゴールドブルク変奏曲のアリアだっただろうか?ひどく美しく、そしてどこかノスタルジックで儚い午後の学校にピアノの音が輪郭を描くようだ。
良い。実に良い。
この様な景色に出会う度に、この様な気持ちになる度に、十年か二十年後の未来の自分が学生である現在のわたし自身を振り返った時に、始まりも終わりも定かではないけれど、確かにこの時こそ青春だったと……きっとそう思うに違いない。
青春……か……。
わたしはこんな青春はごめんだと少しわたし自身を笑った。
廊下を渡り、階段を降りて、歩いた先に文学部の部室(とは名ばかりの倉庫)がある。
少し躊躇って扉をガラリと開けると、そこにはいつもの通り先客がいるのだ。
1人しかいない文学部の部室のわたしの机の上の粗末なプレートには
【 文学部 部長 】
と書かれている。
彼はわたしの机の前で何処からか持ち込んだイスに座って本を読みながらいつも通りわたしを待ち構えていた。
『こんにちは、クレアさん。』
" わたし " をファーストネームで呼ぶ目の前の彼は和木野・善人(ワキノ・ヨシヒト)である。
『今日も、作戦会議をしましょう。』
そう言うと彼は頭を下げた。
事の発端は少し前に遡る。
わたしの名前はクレア・グレイ。文学部に所属する高校2年生。魔物娘のドッペルゲンガーで異世界留学生。将来の夢は劇作家になる事。
趣味は読書と音楽、舞台、映画の鑑賞。
特技は……特に無し。
それはそれとして……
わたしの家、グレイ・ファミリーは代々芸術一家である。作曲家のひいお爺ちゃんダニエル・グレイを筆頭にその妻のアンナひいおばあちゃんは教会オルガニスト。その娘のアリアおばあちゃんはソプラノ歌手。お婿さんのラルゴットおお叔父さんは有名なバス歌手で音楽教授。アリアおばあちゃんの一回り歳下で大叔母のダニエラおばさんはオーケストラのビオラ奏者。お婿さんで義理の大叔父のゴーシュ兄さん(ショタ)はチェリスト。お母さんの4つ歳上のクララおばさんは室内楽のフルート奏者で、お婿さんのカナタ叔父さま(ダンディ)もフルート奏者。お母さんのアンジェリカはピアニスト。パパのレナードはオーボエ奏者。上の従姉妹のメリルはハープとヴァイオリンの英才教育。そんな一家だ。
わたし?
わたしは音楽家ではなく、劇作家を目指している。有り体に言えば物書きである。……わたしの楽器や歌の腕前はどうか聞かないでほしい。
そんな一家の変わり者のわたしだけど、小さい頃のある日、舞台を見て劇作家になりたいと話したら、ダニエルひいお爺ちゃんから異世界に行って世の中を色んな角度から見ておいでと言われて、そう言う訳で西暦世界の日本の学校に留学している。
そう。わたしは物書きだ。
物書きだから草案や物語を彩るキャラクターのモデルになりそうな人なぞを纏めたノート。いわゆるネタ帳。若しくは黒ノート。そう言うものを持っている。
つまりはとびきりの秘密。
しかしながら、ヒトの秘密と言うものはちょっとした出来事が原因で破られてしまうのが世の常だ。
あれは2年生になって間もない頃だった。
スランプ中(実は今もだが)のわたしはあーでもない、こーでもないと行き詰まって、徹夜をして寝不足で学校に来てしまった。
何とかその日の最後の歴史の授業を乗り切って。
『はい。ではノートの提出をお願いします。』
歴史のノートの提出を求められた。同回生の嫌そうな声を他所にふらふらとノートをその日の日直に手渡して、机に戻った所でわたしは睡魔に負けて突っ伏してしまった。
『……はっ!……うぇ?』
目を擦って時計を見るともうすぐ5時。だいぶ寝てしまった。ホームルームの記憶が無い。
『おはよう。クレアさん。』
『えっと……ワキノくん?』
くしゃくしゃの黒髪。特別イケメンでも不細工でもない普通の顔。身長はそこそこで中肉中背。制服は着崩したりしないで身綺麗でしゃんとしている読書が趣味のメガネ男子。ちなみに彼はメガネを少なくとも3つは持っていて今日は黒縁のウェリントン。
学校の成績は上の中(学年126人中24位)。いつも幼馴染2人と一緒いる。スクールカーストはたぶんサイドキック(ちなみにわたしはフローターではないだろうか?)。
そんな彼を一言で言うと友人A。
これを読んでいるキミたちは映画やミュージカルは見たことがあるだろうか?小説や漫画でも良い。
友人A……つまり主人公の友人、若しくは親友、さもなくば主人公に好意的なライバルで総じて善人。それが彼、和木野・善人 だ。
この手の人物は大抵、アクション映画だったら主人公と一緒に戦ったり、人(視聴者に)知れず陰で主人公を助けたり、オペラやミュージカルだったら主人公を助ける為に代わりに死んだり殺されたり、美味しいところは主人公に持っていかれたりと損で報われない役回りが多い。
『悪いけど、歴史のノートをお願いできる?古川先生から頼まれたんだ。』
『……へっ?』
見るとワキノくんは手にわたしの黒ノートを持っていた。
寝覚めの呆けた頭が急激に覚めていく。あの時間違えて歴史のノートでは無く、黒ノートを渡していた。
『そ、それ……中身……読んだの?』
『……つい。』
冗談では無い。……それには物語の草案は勿論、学校の様々な人物の人間考察やら秘密やらなんやらかんやらが書いてある。ぶっちゃけてしまうとかなりキモいノートだ。こんなものを皆んなに知られたら、平穏無事な学校生活を棒に降ってしまう。
『えぇと……なかなか面白いノートだね。僕の事も書いてあった。……確か、物語りに登場する友人A……だっけ?』
……この時、善人君は確かにわたしの学校でのわたしの人権を握っていた。
『読んじゃってごめん。これ……返した方がいいよね?』
わたしはゆっくりと首を縦に振ったら、彼はあっさりとノートを返してくれた。
そして
『クレアさん……お願いがある。』
『……え?』
『ノート……。クレアさんは、たぶん小説家とか目指しているんだろ?』
『え、っと?げ、劇作家だけど?』
『どっちでも構わない。小説家でも劇作家でもクレアさんは話を作るプロだ。だから教えてほしい。』
『ち、ちょっ!……え?教える?なにを??』
『友人Aが恋で主人公に勝つ方法を……』
かくして友人Aの報われない恋物語が始まってしまった。
と言うと少し大袈裟かもしれないが話しは単純だ。彼のお願いは恋路の手伝い……もとい、ラブストーリーのシナリオを作る事。
ヨシヒトくんが恋する相手は幼馴染の1人、美菜月 愛子(ミナヅキ アイコ)。明るくて可愛らしいくて、裏表が無く誰にでも愛される性格で、少しドシなおっとりした女子(人間)。クラスの人気者。胸が大きい(目測E)。スクールカーストはプリンセス。
そしてヨシヒトくんの恋敵が幼馴染で親友の陽色 光(ヒイロ ヒカル)。高身長の爽やかイケメン。スポーツクラスのボクシング部(ミドル級)。県大会準優勝。性格も良く努力家で学業も卒なくこなす完璧超人(ホントに人間だろうか?)。スクールカーストのてっぺんに君臨している(コイツはスクールカーストとかそう言うの認識しているのだろうか?)。
まぁ、はっきりと言ってしまえば無理難題だ。
わたしは一応物書きだけどラブストーリーなんか一度も書いた事無いし、まだ駆け出してもいないひょっこだ。
それに……
『わかってはいたけど、やっぱりヒカルは凄い奴だよ。』
彼の手には地元の新聞が握られている。見出しの内容はボクシングの大会予選でヒイロがKO勝利を上げている写真がデカデカと乗っていた。
『それで、ヨシヒトくんはどうするの?正直言って顔でもスポーツでも勝てない。勉強だけはキミの方が成績良いけど、それでも特に秀でたものでは無い。唯一の救いはミナヅキさんが恐らくまだキミたちのどちらにも恋愛感情を持っていない事だけど……』
『わかってます。ヒカルは僕が太刀打ち出来ない凄い奴って事も、自分には何も無いって事も。でも……それでも何としても勝ちたいんだ!』
そうだよね。そうじゃなければ、わざわざこんな地味で暗い女の所になんか来ない。本当にずっと好きだったんだろう。
『……わかった。じゃあ、出来る限り協力しよう。』
作戦は至ってシンプルだ。とにかくターゲット(ミナヅキさん)と接点を持つ事。なるべくわたしも可能な限りでサポート&フォローする。
一緒に帰るように促したり、さりげなく勉強会をセッティングしたり、なるべく2人でいる機会を作った。高校2年生と言えば青春学園物の定番。つまりイベントは盛りだくさんだ。
体育祭、林間学校、校外学習、夏祭り、文化祭などなど……
が……主人公補正が掛かっているのか、重要(?)なイベントで恋敵のヒイロくんが絶妙なタイミングで乱入して美味しい所をさらってくる(本当になんなんだろうか?)。
けど、そうして手助けしているうちにノートには書かれていないヨシヒトくんの事がだんだんと分かってきた。
先ず彼は名前の通り善人だ。
主体性に欠けるけど、他人からの信頼には全力で応えようとするし、自分に非があれば素直に謝る。争い事が嫌いで静でささやかな平和を好む。しかし、夏祭りでミナズキさんが不良に絡まれた時とか、いざとなると身をもって大切なものを護ろうとする(すぐ後に主人公乱入)。
そして何より卑怯な事は絶対にしない。
ノートもあっさり返してくれたし、秘密は守られている。その件でわたしを脅迫して協力を強制することも出来たろうにそれもしない。あくまでも律儀にお願いと言うスタンスを取っている。
自分より相手の立場や感情を優先してしまう気があり、敵に塩を無担保無利子で送ってしまえば、恋敵にも平気で手を貸してしまう。
つくづく損な性格をしている。
暇さえあれば本を読んでいて、図書館で読んだ本も返す時は必ず元の場所に戻す。図書館員より本の種類や場所に詳しい。彼の書いた復習用のノート(通称ワキノート)は教科書より見やすくてわかりやすいと評判で、わたしも何度か助けられた。
身綺麗でしゃんとしていて、ワイシャツのボタンは第一ボタンまできっちり閉める。体育着や着替える時は脱いだ服を丁寧に畳む(アイロンも自分でかけてるらしい)。何処となく品があって、お弁当を食べる時の箸の持ち方が綺麗だ。
本人は気付いていないかも知れないけど、実は結構女子から人気がある。ミナヅキさんに(変に)拘らなければそこそこモテていただろう。
今までわたしは特定の人間(と魔物娘)と深く関わろうとしなかった。そもそも人付き合いが苦手だし、そう言う事は劇作家を目指しているわたしには必要は無いし、意味も無いと思っていたからだ。
でもヨシヒトくんに会って、その周りの人達と関わって、彼の人と也を見て、あぁ、報われてほしいなと……素直にそう思う自分がいる。
種族柄、地味で暗くて、人の心に漬け込む事を良しとする卑怯なドッペルゲンガーのわたしとは違って、ヨシヒトくんは正々堂々と全身全霊で恋をしているんだ。誰の為じゃなくて、必死に人生の主人公になろうとしている。
それが眩しくて、うらやましい。
そして今日も冬の寒い廊下を渡り、階段を降りて、歩いた先の部室の扉をガラリと開ける。
『こんにちは、クレアさん。』
そこにはいつもの通り先客がいるのだ。
『今日も、作戦会議をしましょう。』
このいつものやり取りがいつの間にか毎日の楽しみになっている事は彼には内緒だ。
ずっと今が続けば良いのに……。
それでも時は流れるし、朝が来れば夜が来る。
現実はいつも無常である。
そう……無常なのだ。
今、ヨシヒトくんは真冬の早朝、浜辺で膝をついて声を上げまいと必死に堪えながら泣いている。
わたしはヨシヒトくんの恋路を助ける為に殆ど全てのイベントを陰ながら見守っている(ストーカーでは無い)。ヨシヒトくんはヒイロくんのボクシングのインターハイ全国大会決勝をミナズキさんと2人で見に行った。
それからだった。ヨシヒトくんが時折り諦めたような、寂しさと嬉しさと喜びや悲しみをない混ぜにしたようなそんな表情をするようになったのは。
何時しか文学部の部室にも顔を出さなくなった。
ヨシヒトくんが顔を出さなくなってしばらく経った3学期の最後の日。
『5時半の早朝に、海岸に朝日を見に行こう。』
ホームルームの後で、彼はヒイロくんとミナズキさんにそう話した。ヒイロくんは少し嫌がって、でもミナズキさんが『青春っぽくて素敵じゃない!』と言うと少し照れながらはにかんで笑った。
そして至る今。
ヨシヒトくんは待ち合わせには行かずに少し離れた所から彼らを見ていた。ヒイロくんとミナズキさんはヨシヒトくんを待っていたけど、しばらくすると海辺へ向かった。
朝焼けを待つ彼らの距離は遠く近く、何も言えずに寄せては引くさざ波だけが時を刻んで。
そして水平線が紅く染まる頃に、ヒイロくんはミナズキさんの手を取って『キミが好きだ』と大きな声で叫んだ。ミナズキさんは驚くような嬉しいような仕草をするとそっと目を閉じたのだ。
それを遠くから見ていたヨシヒトくんは、『おめでとう』と一言呟くと崩れ落ちた。
多分ヨシヒトくんはインターハイの時にヒイロくんとミナズキさんとの気持ちに覆せない決定的な何かがあったのだろう。
辛かったろう。悔しかったろう。悲しかったろう。
でもヨシヒトくんは自分の幸せよりミナズキさんの幸せを選んだ。
ミナズキさんの恋を叶える為に。お膳立てまでして。
朝がやって来て、2人はぎこちなく手を繋いで帰って行く。
残されたのは必死に声を殺して泣くヨシヒトくんだけだ。
『……ヨシくん。』
わたしはミナズキさんに変身して彼を後ろからそっと抱きしめた。
『へっ?……アイちゃん?』
わたしは何なのだろうか?と自分でも思う事がある。初めは秘密をバラされたくないから。あわよくば文章の肥やしにでもなれば儲けものだと思った。
でも彼の事を見ている内に、恋路を手伝っている内に幸せになってほしい。報われて欲しいとそう願うようになった。
そしてそれは、ヨシヒトくんがミナズキさんにそうしたように、わたしもヨシヒトくんの選んだ道に少しばかり責任を持ちたくなったのだ。
多分、他人の人生に関わる事ってこう言う事だと思う。
『頑張ったんだね。』
彼は腫れた目でわたしを見る。
『……うん……』
少し間があって……
『辛かったね。ごめんね……。』
わたしは彼を抱き寄せて……
『うん……』
彼の手がわたしの背中に回った……
『……ワタシの事好きになってくれてありがとね。』
『う"ん"っ"!』
ヨシヒトくんは何もかも全部分かっている。その上でわたしの胸で泣いてくれている。泣き続けてくれる。
他人は笑うかも知れない。友人Aが高望みするんじゃないと。でもわたしはヨシヒトくんを笑わない。
人気のない終点のような朝の海辺で、太陽の光だけが妙に清々しくて。
それから春休みが終わり、わたし達は3年生になった。
始業式にきっちり時間通りに到着した(5分前行動)わたしは、皆んなと一緒に寒い体育館に整列すると校長先生やらPTAの偉い人(たぶん語尾はザマス)の挨拶と長くて有り難いお話しが始まる。
それから生活指導のやたらガタイの良いラグビー部の顧問(ステロイドドーピングでもしているのだろうか?)の校則や学校生活についてのあまり有り難くないお話し聞かされて、少々うんざりした頃には、1人か2人貧血女子が倒れる様式美を堪能した。
始業式が終わり、その後のホームルームも終わり、鐘の音の響く中を慌ただしく学友達が駈け出して行く。
クラス分けに早くも馴染もうと社交に貪欲な女子、カラオケに行こうぜと誰彼構わず誘う男子の笑い声。ため息混じりにお前ら問題起こすんじゃないぞと少し呆れた先生の声。
これから友達と遊ぶ約束があるのだろうか。
あるいは、塾へと出掛けて更なる知識を頭に詰め込もうと急いでいるに違いない。
それとも文化、スポーツの倶楽部活動へと赴き、若い情熱を燃やしに行くのだろう。
先生はこの後職員会議かも知れない。胃薬を飲んでいた。
おそらくそれは全てで、またどれでも無いのかもしれない。
わたしは例によって例のごとく、騒がしいのは苦手な性分(最近いくらかマシになった)で、人が居なくなるまでの少しの時間を学友達の背中を見て、或いは窓に映る雲を眺めて過ごした。
人気の少ない廊下を歩いて先生に頼んで図書室で本を漁り、そうして手元に残った何冊かの本を持ち、文学部の部室に向かう。
今日は吹奏楽部の練習が聴こえる。開けっ放しの窓から入り混んだであろう散り残った桜が舞う廊下に、遠く離れた音楽室から金管楽器や木管楽器の音が聴こえてくる。
少々騒がしくて、そしてどこか不恰好だけど、未来への希望が溢れる青々とした若葉のような音は、始まりの季節の学校に春色の絵の具をのせるようだ。
良い。実に良い。
この様な景色に出会う度に、この様な気持ちになる度に、十年か二十年後の未来の自分が学生である現在のわたし自身を振り返った時に、始まりも終わりも定かではないけれど、確かにこの時こそ青春だったと……きっとそう思うに違いない。
青春……か……。
少し……少しだけ毎日が楽しみでもある。
廊下を渡り、階段を降りて、歩いた先に文学部の部室の扉を少し躊躇ってガラリと開けると、そこには久々に先客がいた。
『こんにちは、クレアさん。』
彼の机の上の粗末なプレートには
【 文学部 副部長 】
と、そう書かれていた。
わたしが変身魔法を使えなくなったのは少しだけ先の事だ。
fin.
23/03/08 18:51更新 / francois