告白
「うふふっ…… へえ…… なにこれおかしくない? 」
築数十年経つ古ぼけたアパートの一室。楽しげに笑う女の声が響く。
室内は温かな色の明かりで満ちているが、外はすっかり夜の闇に包まれているのだろう。
一日を終え、帰りを急ぐ者たちの賑わいが聞こえてくる。
畳敷きの部屋に置かれている座卓には、男と女が向かい合わせで座っている。
女は座卓に置かれているノートパソコンの前でくつろいでいるが、男のほうは茶碗を手にして黙々とご飯を食べていた。
彼の目の前には色とりどりのおかずが並んでいる。
「わざわざ俺のパソコンでネットしなくてもいいと思うが…… 」
動画サイトで笑動画でも見ているのだろうか。
ネットに夢中になっている女に、男はため息交じりに声をかけた。
「何言ってるのよ。あたしがパソコン持ってないの知ってるでしょ? 」
女は男の方に不愉快そうな表情を向けた。
驚くほど整った顔立ちなのだが、それが余計にきつい印象を与える。
「でもスマホあるだろ? 」
「スマホの画面じゃ小さいからつまらないのっ。 」
「でも俺は飯を食っているんだ。飯を喰うときは誰にも邪魔されず自由で静かに…… 」
「は?あんたの食べているご飯は一体だれが用意したと思っているのよ! 」
なおもぶつぶつ言う男に女は強い声で言った。
女は毎日男の家を訪れて世話を焼く。今も仕事帰りの男の為に夕飯を作ったところだ。
「か、勘違いしないでよねっ!あんたみたいのは放っておくと飢え死にしそうだから可哀そうで見てられないだけよ! 」
と、いつもそんな憎まれ口を叩きながらも、腕によりをかけた料理をごちそうするのだ。
この日も男の好物でありながらも、同時に栄養面でも偏らない見事な献立だった。
「うん。今日も申し分ないよ。 」
真面目な様子でうなずく男に女は呆れた様な声を上げた。
「なにが申し分ないよ。美味しいなら美味しいって言いなさいよ。 」
「もちろん美味しいさ。 」
「でしょ!気合い入れて作っているんだもの。さ、後片付けもあるんだから早く食べちゃいなさい。でも落ち着いて良く噛んで食べるのよ。急ぐ事は無いから! 」
「その両立はなかなか難しいな…… 」
子供を相手にするような小言を言う女に、男は抗議するように呟いた。
女はそれを聞くと、じとっとした眼差しで見つめる。
男は女の視線を避けるように俯くと、目の前にあるお椀を手に取った。
まるで蛇みたいだ。鰹節のだしが効いた味噌汁を味わいながら男はそう思う。
さすがにそれを口にはしないが、まるで女に絡みつかれるように感じる事も多い。
だが、男にとって女に世話という名の拘束を受ける日々は慣れっこだった。
二人は幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた。
どことなく浮世離れしている男の事を、女はやれやれと言いながらも面倒を見てきた。
男は偏屈と呼ばれても仕方のない性格だったが、一応は社会に適応して生きてこられた。
これも女の献身的なフォローと、熱心なダメだしあっての事だろう。
男を世話する時、女は決まって先ほどの様なむすっとした上目遣いでこう言うのだった。
「ほんとにもう…… いつも助けてあげるてんだからありがたく思いなさいよねっ! 」
一見したところ不機嫌そうだが、その裏にある思いやりを男はよく知っていた。
時には重く感じる女の優しさだが、彼にとっては何よりかけがいの無いものだった。
互いに言う事も無くしたのだろう、男はご飯を食べ女は動画を見続ける。
二人の間に訪れる沈黙。ときおり女の笑い声が聞こえるだけ。
だが気心の知れた彼らにとって、それもまた心落ち着くひと時だった。
はっきりと告白していなかったが、二人は付き合っているも同然の関係だった。
互いの家の鍵を預け合い、当然の様に泊まりあっていた。
文句を言い合いながらも暇さえあればいつも一緒に過ごしていた。
妙に奥手な二人なので、手を繋いだりハグしたりする以上の肉体関係は無かった。
でも間違いなく互いの事を恋人以上の存在だと思っていると言っていい。
深い仲ゆえだろう。女は男の異変に気が付いた。
今も美味しそうに唐揚げを食べているが、注意を凝らすと妙に落ち着きない。
何かを言い出したそうに、もじもじそわそわしている。
本当にいつまでたっても世話の焼ける子ねえ……
女はそう思いため息をつくと、ノートパソコンを閉じて切り出した。
「ねえ。どうしたのよ?黙ってちゃわからないでしょ。言いたいことがあるなら言いなさい。 」
男はびくっと身を震わせて箸を止める。
女の感の鋭さには随分助けられもし、逆に知られたくない秘密も暴かれてきた。
男は心を読まれてきまり悪そうだ。女を見つめると小さくうなずいた。
「そう…… 仕方ないわねえ。相談に乗ってあげるわっ! 」
どうやら隠し事ではなくて困り事なのだろう。
すがる様な男の様子を見て取った女は、力づけるように言った。
「……うん。 」
女の妙に無理した上から目線に力なく笑うと、男は語りだした。
「このあいだね。従弟の奴と一緒だったんだけど、いきなり首無しの女が首無しの馬に乗って爆走してきて、そいつをさらっていっちゃったんだ。こんなことするなんて魔物娘しかいないんだろうけど、これって前に言ったかな…… 」
「そうだったわね…… 」
魔王の統べる王国と国交が結ばれて数十年…… 今では魔物娘との共存は当然の事だ。
彼女たちは基本的に友好的なのだが、男が絡むとそれが嘘の様に豹変してしまう。
欲しい男を手に入れる為ならば、力に訴える事も策略を用いる事も厭わない。
手段を選ばず欲望をかなえるのだ。
男の従弟も魔物娘に狙われていたのだが、魔物娘の案件はなぜかアンタッチャブルだ。
警察も何もしてくれないに等しいが、今のご時世では特に珍しい事ではない。
冷静に話を聞く女を見て男は続けた。
「うちの親や親戚達も色々手は打ったんだけど行方知れずで。どうなる事かと思った矢先に結局そいつが現れたんだ。デュラハンの嫁さんと一緒に…… 」
驚き喜ぶ彼らを前にデュラハンは深々と頭を下げたそうだ。
誘拐じみた真似をして本当に申し訳ない。我が夫の事は命がけで護り幸せにする。
どうか許して欲しいと丁重に詫びたらしい。
従弟のほうもデュラハンの事をすっかり俺の嫁あつかいしており、結果オーライとばかりに結婚が認められたそうだ。
「そう…… あたしも同族…じゃなくて友人の魔物娘に調べてもらってたけど、見つかって良かったじゃないの…… 」
「まあ。ほっとしたかな。それとね。ほら、隣の部屋に男の人が住んでるだろ? 」
「そういえば妙に健康的なの見かけたわねぇ。それで? 」
女はなぜか口ごもったが、素直に喜ぶと話の続きを促す。
男は微笑むとさらに続けた。。
「なんでもその人がハイキングに行った時、湖の神社にいた白蛇に気に入られちゃったらしくて。ずうっとストーカーみたいに付きまとわれているってこぼしていたんだ。 」
「ふうん。」
「怖いから逃げたいけどどうしようなんて真面目に相談されちゃって…… 」
「その人は独身なの? 」
「そうだよ。」
それまで相槌を打つだけだった女だが、それを聞いてすぐさま反応した。
何度も手を左右に振ってあり得ないとの意思を示す。
「ああ〜!ダメよ。絶対にダメっ!逃げるなんて不可能だからっ! 」
「そ、そうなのか? 」
「当り前じゃないの。魔物娘からは逃げられないって聞いたこと無いの?しかも相手は白蛇でしょ。あの子達にロックオンされたらもう夫婦になるしかないわよ。 」
「それってマジな話? 」
女の予想外の言葉に驚いた男は目を丸くした。
「あんたに嘘ついたってしょうがないでしょ。今度その彼に会ったら言っときなさい。素直に白蛇さんの想いを受け入れろ。そうすれば本当に良い奥さんになってくれるからって。逆に下手に抵抗なんかしたらその子キレちゃって、無理やり 好きにさせられる わよ…… 」
「好きにさせられる」という言葉を、女は怖い調子で言うとニヤリと笑って見せた。
男は不安になりゴクリと生唾を飲む。
「わかった。間違いなく伝えておくよ…… 」
「そうしなさい。白蛇さんに見初められたら、こちらから望んで嫁にするか、強引に夫にさせられるかの二つに一つしかないんだからねっ。それなら自分から言ったほうがいいでしょ。 」
得意そうに解説する女を、男は感心したように眺める。
事実女は魔物娘について博識だった。
特にラミア属に関しては図鑑に載っていない事すら知りぬいていた。
男は興味を抑えきれず問いかけた。
「でも前から思ってたけど、お前って普通の人間なのに魔物娘にやたら詳しいよな。なんでなの? 」
「なにいってんのよ!あたしだってラミア属なん……ううん。なんでもない。 」
女は胸を張って言いかけたが何故か急に言葉を濁した。
「なんだよ? 」
「な、なんでもないわよ! あたしにもラミアの友達がいるからっていいたかったのっ 」
「そうか…… 」
突然態度を変え、不安そうになった女だ。困ったように男を見た。
「は、話の腰を折っちゃったわね。あんたこそ続けなさいなっ! 」
「ああ…… 」
女は無理に陽気に言うと露骨に話をそらしてきた。
以前にもこんな事はあった。それも女が詳しい魔物娘の話題の時に限ってだ。
彼女の態度の変化は鈍い男でも気が付いたが、あえて突っ込まずに言葉を続けた。
「それでね。俺が勤めてる会社、ずっと景気悪かったでしょ。とうとう魔物娘が経営する会社に吸収されちゃったんだ。」
「ええっ!?そうなのっ。なにそれ初耳よ! 」
とりとめのない男の話を鷹揚に聞いていた女だったが、今度こそ心底驚いたようだ。
女は身を乗り出して叫ぶと座卓に両手を叩きつける。
「う、うん。前から噂にはなってたけど正式な報告があったのは今日だよ。それで今勤めている事業所は廃止になるから、そのうち転籍になるだろうっていわれたんだ。 」
「は?転籍ってなにそれ。で、どこによ? 」
女は不機嫌さを隠さず、だがどことなく動揺したように問いかける。
男は女の剣幕に驚いているようだったが、やがて意を決して言った。
「ああ。 今度その会社で新しく事業を立ち上げるらしくてそこにね。新規雇用含めて独身の魔物娘もわんさとやってくるそうなんだ…… 」
「…… 」
女は唇をかんで黙り込むと力なくうなだれた。
人の命と夫との夫婦生活を何よりも大事にする魔物娘だ。
魔物が経営する会社はそれゆえ労働条件が大変良くて、就職を望むものは多かった。
また、必ずといってよいほど彼女や嫁を世話してくれるので、魔物好きの独身男性の憧れの的でもあった。
だが、それでは困る者もいた。
強引に魔物娘と夫婦にさせられても、誰も助けてくれないのだから。
無論しばらく経てば、魔物と一緒になった事を大喜びするようになるのだが。
男と女にとってもそれは同様だった。
女とまだ肉体関係を結んでいない男は、魔物にとって格好の獲物に他ならなかったから。
魔物娘だらけの会社に男を放り込む事は、飢えた獣に直接餌をやる以上に危険な事だ。
女はじっと俯き続ける。
彼女が何を考えているのか男も理解していた。
そしてきちんと言わなければならない事がある。
今までの話はこれから言うべきことの前置きにすぎない。
何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせると、男は想いを伝える覚悟を決めた。
「だからこれは言っておきたかったんだ。会社が変われば俺も従弟や隣の人みたいな事になりかねないだろ。その前に言っておきたかったんだ。 」
女は静かに顔を上げると、潤んだ眼差しに期待を込めてうなずく。
男は熱っぽい女の姿に勇気づけられたかの様に、彼女の肩に両手を置いて叫んだ。
「だから正式に俺の女になれ!これからもずっと飯を食わせてくれ! 」
「…………はっ!?」
女は唖然としながらもいつものジト目で問いかけた。
「ねえ…… まさかとは思うけどそれってプロポーズのつもり? 」
「もちろん! で……どうよ? 」
男は自信満々にうなずくと女に問いかけた。
彼女にとって男の言葉は全く予想外のものだったのだろう。そのまま黙りこむ。
やがて何を言われたか理解すると、怒りと悲しみが混ざった悲痛な声を張り上げた。
「台無しよぉ…… 台無しじゃないのよおっ! よりによってそんなプロポーズあり!? 」
女は男の胸倉をつかむと睨みつけた。何度もゆすってがたがた震わせる。
突然の事に男は驚くよりほかなかった。
「お、おい! なんだよ突然…… 」
「なんだよじゃないわよっ! そりゃああたしたちは付き合い長いしあんたの事知り抜いてるわよ。実際あんたのご飯もずっと作ってきたしね。でもいくら何でもプロポーズの言葉があれなんて酷すぎるわよっ! まさかあんた自分があんなこと言える立場だとでも思ってるの?だいたいプロポーズなんて夕日や夜景の綺麗な公園とかで十分にムード作っていうもんでしょ。それをなに?むさ苦しいあんたの部屋で俺の飯を作れ?正式に俺の女になれ?ふざけないでよっ!あんたって全くわかってないし鈍い!鈍い鈍いっ!あんたって本当に鈍すぎるわよっ……」
ひたすら女はまくし立て続け、男は全く声も出ない状態だった。
男を非難し続ける女の怒声。だが、それはいつしか悲し気な響きに変わっていった。
知らぬ間に男の胸にすがりつき、涙目になって見つめている。
男は恐る恐る女の髪に触れた。
むっとしたような表情にはなったが拒まれることは無かった。
そういえばあんなこともあったな……
女の頭を優しくなでながら、男は以前ダメだしされた時の事を思い出した。
女にいつも世話してもらって申し訳なく、お詫びとお礼も兼ねてそれまでの食費プラス幾らかの金を包んで渡した事があったのだ。
女は呆れたようなため息をついて、あんたは何もわかってないと言った。
あたしはお金が欲しくてあんたの面倒を見ている訳じゃない。とも。
気持はありがたいけど、サプライズなんかいらない。
なにかする前にはあたしに直接聞いて欲しいと諭された。
男はむっとして、鈍い俺に無理な要求するなと文句を言った。
すると女は、いい加減にしなさいこのバカ、と怒ってしまったのだ。
結局その日、彼女は家を飛び出すように帰ってしまったが、翌日になったら何食わぬ顔でやってきた。それなので男はさほど気にする事は無かった。
だがあの日の事はよく心に刻んでおくべきだったのだ。
ろくに気にも留めなかったせいで、今も女を傷つける事になってしまった。
男はずっと甘え続けていた。彼女なら大丈夫だろうと。
表面の気丈さだけを見て、心の奥底を想像する事はなかったのだ……
男は後悔の念に襲われながら頭を下げた。
「ごめん。本当に悪かった。ちょっとでもかっこつけたかったんだけど、馬鹿な事言っちゃったな。本当にごめん。」
申し訳なさそうに何度も何度も謝る男を眺め、女は拗ねたように言った。
「そう思うのならやり直して。 」
「やり直し? 」
「そうよ。あんなプロポーズなんてあたし絶対に嫌…… 」
己をじっと見つめる女の眼差しだ。いつも見慣れているはずなのに緊張してしまう。
男は何とかこらえながらもついに言った。
「あの、大好きです。ずっとそばにいてくれないか? 結婚して欲しいんだ。 」
女はしばらくの間、絡みつく様な眼差しで男を捕らえていた。
やがて男の首に抱きつくと小声でばかと言った。
「ばか…… 本当におばかさんなんだかから…… 」
「ごめん。怒ってるよな…… 」
、
抱きついてきた女の柔らかさに慰められながらも、男はもう一度謝った。
女は心底申し訳なさそうな男に、苦笑しながらかぶりを振る。
「もういいのよ。あんたがズレた感性してるのはよく知っているから。いまさらよ。口で言うほど怒ってる訳じゃないわ。 」
「それじゃあ。」
「ええ。言われなくても一緒にいてあげる。大体あんたは危なっかしくて放っておけないわ!ずうっと私のそばに置いておかなきゃ安心できないのよ! 」
女はもう一度男をぎゅっと抱きしめると抱擁を解いた。
自信満々に傲然と胸を張って見せる。
「あ、ありがとう。ほんとにありがとう…… 」
「ああもう…… 別に泣くこと無いじゃないのよっ。何も心配すること無いから。ほら。よしよし…… 」
嬉しさとほっとした事で安堵したのか男は涙ぐむ。
女は小言を言いながらも、そんな男の目元を優しくハンカチで拭うと、頭を撫でてやった。
ふたりは身を寄せ合い続けた。
どちらからともなく顔を近づけると、そっと口づけしあう。
女は顔を赤らめると目を伏せた。
「あ、あんたの気持ちはよくわかったわっ。まあ……悪い気はしない……わよ。 」
女は俯いて小声で呟いたが、やがて覚悟を決めたように、きっと目を向いた。
「でもね。今からあたし見たら考え変わるかもよ。驚くとは思うけど、でも出来れば驚かないで欲しい……かな。 」
「え?一体何だよ? 」
「すぐにわかるわよ…… 」
突然意味不明な事を言い出す女に男も困惑気味だったが、思いつめた様子にいつしか言葉を無くしていった。
「見ていてね。 」
女は悲し気に微笑む。そして静かに立ち上がると目を閉じた。
すると、彼女のすらりと伸びた両足はたちまちのうちに溶けていった。
一つになった足だった塊は畳の上を這い、うねり、長く長く伸びていく。
艶やかな黒髪も生き物の様に逆巻き、何本もの蒼い蛇状のものになる。
再び開いた瞳は金色に変化し、縦長の瞳孔が強い光を放っている。
いつしか男の目の前にいたのは、妖しくも美しい魔物娘になっていた。
蒼色の蛇の髪。うねる様に伸びた蛇体。金色の瞳。
呆然とする男を見やり、かつて女だった者は苦しそうに言った。
「ごめん。あたしも魔物娘なの。見ての通りメドゥーサってやつだけどね…… ずっと言おうと思ってたけど、あんたとの関係を壊したくなくて…… でももうこれ以上嘘はつけない…… 」
無言でたたずむ男を眺め、ため息をついたメドゥーサは続けた。
「わかってる。あんたがこんな化け物嫌だって言うのなら潔くおさらばするわっ!さっきの話の白蛇みたいに付きまとったりしないから安心してっ。情けはかけないで。哀れみもいらない。正直なあんたの気持ちをいいなさい! 」
「でも、蛇はそう思ってなさそうなんだが…… 」
「え˝っ!? 」
切なくも気丈に微笑んでいたメドゥーサだったが、男の冷静な言葉に驚きの声を上げた。
メドゥーサの蛇の髪は驚くほど伸びて、何本も男の腕に巻き付いていた。
まるでどこにもいっちゃ嫌だ! と言わんばかりに身を震わせている。
メドゥーサは目をそらすと何事もなかったかのように言った。
「ううん。違うわ。寒いからあんたに巻き付いているだけよ。蛇は寒いの苦手でしょ。」
「でも、今日は観測史上まれにみる高温だったはずだが…… 」
「もうっ!なんなのよっ! 」
落ち着いて突っ込みを入れ続ける男に、メドゥーサは我慢できずに声を上げた。
照れ隠しするように詰め寄ると指を突き付ける。
「だいたいそのスカした態度はなにっ!なにが蛇はそうおもってないが、よ!ここはまさかお前が魔物娘だったなんてっ、ぐらいに大げさに驚くところでしょ! 」
男はたじたじとなって悲鳴を上げた。
「何言ってるんだよ。驚くなって言ったのお前だろ! 」
「それでもその場にふさわしい態度ってものがあるでしょ。なんだか調子狂うじゃない! 」
「じゃ、じゃあ今度もやりなおすか? お前がそうして欲しいなら。 」
気遣うように問いかける男だ。メドゥーサは我に返ったように顔を赤らめた。
「もう。ばか…… で、どうなのよ? あたしは半分以上蛇みたいなもんだけど本当にいいの? 」
メドゥーサはむすっとして両手を腰に当てている。
姿形こそ違っているが、男がいつも見慣れている女の様子と変わりない。
だが蛇の髪は相変わらずしっかり巻き付き、男を愛おしむ様に身を擦り付けている。
そのギャップが愛らしくて男は微笑んだ。
「いや…… なんだろう。うまく言えないけどお前って昔から蛇みたいだなって思ってたんだ。蛇が擬人化したらお前みたいになるんだろうなあって。だからその点は全く気にならないんだ。安心してくれ。お前が昔から蛇なんだって事は承知しているんだ。」
冗談みたいな男の言葉だが、あくまでも真面目に言っているのだろう。
その事はよくわかるメドゥーサだ。やれやれといった様子で肩をすくめた。
「それって本気でいってるの?」
「当り前だろ。俺の本心に決まってる。 」
「そう? ならいいわ。でもこんなあたしがいいなんて、あんたも物好きね。ま、いつものことだけど。 」
そっけない言葉とは裏腹に、蛇体の先端は嬉しそうに激しく揺れている。
メドゥーサ自身も喜びを抑えきれなくなったようで、眼差しが柔らかくなった。
「お前じゃなきゃ駄目なんだ。お前がそばに居てくれないと安心できないんだ。あ。これも別に変な意味じゃないからな。どうかわかってほしい。 」
男はメドゥーサをまっすぐに見つめて、あらん限りの思いを込めて語りかけた。
メドゥーサは男の切ない視線に耐えかねて俯くと、そっと頭を下げてつぶやいた。
「ま、まあ、あんたがそう言ってくれるのは……嬉しい……わよ。 あ……ありがと。」
「いや。お礼を言うのは俺のほうだって…… 」
男も日ごろあまり見ない彼女の姿に感動して目を見張る。
お互いにしばらく放心状態だったが、やがて彼女の蛇体は静かに男に巻き付き始めた。
頭の蛇も愛撫するように絡みつき、男はうっとりとした声を上げた。
「ええと。頭の蛇だけじゃなくてあたし自身も寒くなったというかなんというか…… べ、べつにあんたが嫌なら無理強いはしないわ! 」
「ううん。 柔らかくってとっても気持いいよ…… 」
メドゥーサは抱擁するように蛇体で優しく男を包み込んだ。
恥ずかしそうに視線をそらして言い訳していたが、男の言葉に相好を崩す。
「そ、そう!? これからはあんたが望むならこうしてやってもいいわよっ。 」
「うん。」
男はメドゥーサにそっと身を委ね、彼女も愛しい男を胸にしっかりと抱きしめる。
だが彼女はふいに大きなため息をついて、金色の瞳で男をじいっと見つめた。
「あんた。魔物化しても相変わらず洗濯板なんだなとかって思ったでしょ…… 」
メドゥーサは強張った笑顔で蛇体の拘束を少し強めた。
今回も心を読まれてしまった男は慌てて言い訳する。
「ば、ばかっ!そんな事あるわけないだろっ! 」
「だめだめ。あんたすぐ顔に出るから!あたしはごまかせないわよ。 」
「で、でもちっぱいのおまえがいいんだよ。貧乳はステータスって言うじゃないか。 」
「それって絶対馬鹿にしてるでしょ…… 」
ふたりは軽口を叩きあうと苦笑する。
いつしか抱き合い、お互い一つになったかのような優しい時間が流れた。
いったい何時になったのだろう。街の喧騒も嘘の様に消えた。
だが、今のふたりにとって時間は何の意味もなかった。
お互いを抱擁しあい、ただ安らぎの中に溺れている。
ふいに男はメドゥーサの胸に埋めていた顔を上げた。
彼女の潤んだ金色の瞳を見つめて、なにか言いたげな顔をしている。
「あの…… 」
「なあに、どうしたの? 」
メドゥーサはいつになく穏やかな調子で問いかけた。
うながされた男はおずおずと言う。
「……俺。今までずっとお前に甘えて、迷惑もかけてきただろ。でもこれからは頑張るよ。おまえにふさわしい男になれるよう何でもするよ。だから…… 」
「ああ。別にいいわよ。あんたには最初から何も期待してないからっ! そんな気を使わないでも。 」
メドゥーサは冷淡に吐き捨てると手を左右に振った。
自分の決死の覚悟をあしらわれた男は悲痛な声を上げる。
「おい。それはひどいよ…… 」
今にも泣きそうになった男を見て取ったメドゥーサは、慌てて彼を胸に抱く。
「もうっ! 冗談よ。冗談に決まってるじゃないのっ! でもあたしだってあんたに色々言われたんだから。このぐらいしないと割に合わないわっ。 」
メドゥーサが何度も男を愛撫すると落ち着いた表情を見せた。
だが、なおも少し不愉快そうな様子を見て取ると優しく語りだした。
「今のままのあんたがいいの…… 頑張っているあんたでも、かっこいいあんたでもない。あるがままのあんたでいいのっ。だいたいあんたに立派になられたら、あたしの仕事がなくなるじゃないの!そんなの生意気よ…… 」
「ありがとう…… 」
「わかればいいのよ。これからも無理なんかしたら許さないんだからねっ…… 」
男の耳元でメドゥーサは愛情深くもねっとりと囁く。彼女の気持ちが嬉しくて男は涙ぐんだ。
「ちょっと…… なにやってんのよっ…… ばか…… 」
「だってお前に触れていると気持ちいいんだ…… 」
あれからずっとふたりはいちゃいちゃしあっていた。
男はメドゥーサの髪をいじり、滑らかな蛇体を夢中で撫でる。
彼女は文句を言っているが、蛇の髪はそれに反し気持ちよさそうにしている。
実際困った顔こそしているが、メドゥーサが男を止める事は無かった。
そのまま頬のきめ細やかな肌に指を這わせ、みずみずしい唇に触れる。
男は不意にメドゥーサの唇にキスをした。彼女の体がぴくりと震える。
「もうっ! いいかげんにしなさいねっ。あんたなんかこうよっ! 」
「うわっ! 」
むっとしたような声を上げたメドゥーサは、男を蛇体でぐるぐる巻きに拘束する。
だが言葉とは裏腹に、それは優しい抱擁に等しいものだった。
メドゥーサは甘くあえぐ男を悪戯っぽく微笑みながら見つめる。
「ああ。そういえばあんたさっき言ったわよね。 」
だが、メドゥーサは不意になにかを思い出して声を上げた。
「なに? 」
「あたしになんでもするっていったじゃない。 」
妙に妖しい眼差しのメドゥーサだ。
言質を取られてしまった男は、しまったと言いたそうなうめき声をあげた。
「おまえが望むことは何でもするけど、できれば痛い事と苦しい事は勘弁してほしい。それと怖い事も…… 」
真剣な表情で怯えるように言う男を見て、さすがのメドゥーサは吹き出した。
「バカねえ!あたしがそんなこと言うわけないじゃないのよっ。 」
「じゃあ何をすれば…… あ。もちろん浮気なんか絶対しないからな! 」
ラミア属の嫉妬深さを知っていた男は急いで念を押した。
「ああ、それも大丈夫!あんたって浮気しないというより浮気できない人間だから。その点は信用しているわよっ。 」
「なんか馬鹿にされてるみたいだけど…… 」
からかうような口調に男は不満そうな顔をした。
メドゥーサは男を安心させるように微笑む。
「なにいってるのよ。あたしたちラミア属にとって、浮気できない男ってのは最高の誉め言葉に等しいのよ。自信持ちなさいっ! 」
「それならいったい何なんだよ? 」
「うん…… 今あんたが言った事にも関係しているんだけど…… 」
メドゥーサは蛇体の拘束を解くと、かしこまって真剣に語りだした。
「今勤めてる会社辞めて欲しいの。あんたの事は信じてるけど、これから行く環境が悪すぎるわ。独身の魔物がうじゃうじゃいるなんて、そんなの最悪よ!あんたはあたしのものなのっ!他の魔物に手を付けられるなんて許せないっ! 」
メドゥーサは男を抱きしめる。何度も首を横に振っていやいやする。
蛇の髪も彼女と行動を合わせて悲しげに首を振った。
必死な様子に男はたまらず彼女を慰めていた。
「大丈夫。俺は大丈夫だから。でも俺たち結婚するんだから独身の魔物は気にしないでいいんじゃないの? 」
「ダメダメっ!もしバイコーンでもいたらどうすんの?それとあんたを欲しがるような変わり者の魔物だっている可能性あるのよっ! 」
やんわりと指摘する男にメドゥーサはきっぱりと言い切った。
変わり者はどうかと思ったが、さすがに鈍い男も空気を読んで口にしなかった。
しばらくうーんと言って呻いていたが、やがて覚悟を決めたようにうなずく。
「わかった。おまえがそれで安心するなら俺はいつでもやめる。でもそうすると生活が…… 」
「大丈夫。あんたを食べさせてあげるぐらい全然問題ないから。心配しないで次の仕事探せばいいわ。なんなら一生養ってあげてもいいのよ。ううん。養わせなさいっ! 」
メドゥーサは不安げな男を落ち着かせるように優しく言う。
だが自分の言葉に興奮したのだろうか。
掴みかかる様な勢いで目の前に迫ってきた彼女を男は慌ててなだめた。
「ま、まあそれはおいおい考えるとして。とにかく今後の準備もあるから。」
「そ、そうね。時間はいくらでもあるし…… 」
我に返ったメドゥーサは恥ずかしそうに目をそらした。
メドゥーサはなおも顔を赤らめて、何か言いたそうに男をチラ見していた。
やがて誰に言うとなくつぶやいた。
「……これでやっとけりがついたわね。安心したらお腹すいちゃった。」
「お腹って、さっきたくさん食ってたじゃないか。」
メドゥーサは男がご飯を食べ終わる前に十分食べていたはずだ。
男は怪訝に思って問いかける。
だが、なぜかメドゥーサは苦しそうに無言で俯き続けた。
「おいどうした?大丈夫か?そんなに腹減ってるなら俺の分食うか? 」
困った男は食べかけの唐揚げを彼女の目の前に差し出す。
メドゥーサは慌てて男のほうを向いて叫んだ。
「……ば、ばか。ちがうわよっ。あんた。い、今からあんたを食べるのよっ! 」
「はいっ? 」
メドゥーサは覚悟を決めた様にすっと立ち上がった。
興奮を抑えきれず蛇体は震え、蛇の髪もとぐろを巻いて舌をちろちろ出している。
金色の瞳は欲望のままに強い光を放っている。
予想外の事に呆けたように口を開け続ける男だ。
メドゥーサは何か勘違いしたようで、男を安心させるように力強くうなずいた。
「もちろん食べるってのは 性的に だから心配しないでいいわよ! 怖がらないであたしに身をまかせなさいっ! 」
「いやそういう問題じゃないからっ! 」
男も女と肌を重ねる関係になる事を願っていた。だが余りに突然の訪れだった。
驚いて悲鳴を上げて後ずさる。
メドゥーサは目にもとまらぬ速さで間合いを詰めると、歌う様な歓喜の声を上げた。
「あのね。あんたずっと美味しそうな匂いさせたじゃない。子供のころからあたし我慢するのに一苦労だった。何年も何年もねっ!いままでずっと待ってたのよ。夫婦になったんだからもう我慢はしないわっ! 」
「ちょっとまて。」
「本当はもっと雰囲気作って初体験したかったんだけど……でも待たないわっ!」
夢見るように微笑んでいたメドゥーサだったが、不意に男を押し倒した。
たちまち絡みついてくる蛇体の圧力、温かさと甘い匂いを彼は感じる。
頭を抱かれ彼女の柔らかい唇がしっかり重ねられるのも。
男を昂らせるようなメドゥーサの愛撫を受けていると
自然と動揺は消えて、代わりに愛しい妻となった女性への欲情が燃え上がってくるのを感じた。
これから色々大変かも……でも、素敵な日々がまっていそうだ。
心地よい快楽に包まれながら男はそう思った。
築数十年経つ古ぼけたアパートの一室。楽しげに笑う女の声が響く。
室内は温かな色の明かりで満ちているが、外はすっかり夜の闇に包まれているのだろう。
一日を終え、帰りを急ぐ者たちの賑わいが聞こえてくる。
畳敷きの部屋に置かれている座卓には、男と女が向かい合わせで座っている。
女は座卓に置かれているノートパソコンの前でくつろいでいるが、男のほうは茶碗を手にして黙々とご飯を食べていた。
彼の目の前には色とりどりのおかずが並んでいる。
「わざわざ俺のパソコンでネットしなくてもいいと思うが…… 」
動画サイトで笑動画でも見ているのだろうか。
ネットに夢中になっている女に、男はため息交じりに声をかけた。
「何言ってるのよ。あたしがパソコン持ってないの知ってるでしょ? 」
女は男の方に不愉快そうな表情を向けた。
驚くほど整った顔立ちなのだが、それが余計にきつい印象を与える。
「でもスマホあるだろ? 」
「スマホの画面じゃ小さいからつまらないのっ。 」
「でも俺は飯を食っているんだ。飯を喰うときは誰にも邪魔されず自由で静かに…… 」
「は?あんたの食べているご飯は一体だれが用意したと思っているのよ! 」
なおもぶつぶつ言う男に女は強い声で言った。
女は毎日男の家を訪れて世話を焼く。今も仕事帰りの男の為に夕飯を作ったところだ。
「か、勘違いしないでよねっ!あんたみたいのは放っておくと飢え死にしそうだから可哀そうで見てられないだけよ! 」
と、いつもそんな憎まれ口を叩きながらも、腕によりをかけた料理をごちそうするのだ。
この日も男の好物でありながらも、同時に栄養面でも偏らない見事な献立だった。
「うん。今日も申し分ないよ。 」
真面目な様子でうなずく男に女は呆れた様な声を上げた。
「なにが申し分ないよ。美味しいなら美味しいって言いなさいよ。 」
「もちろん美味しいさ。 」
「でしょ!気合い入れて作っているんだもの。さ、後片付けもあるんだから早く食べちゃいなさい。でも落ち着いて良く噛んで食べるのよ。急ぐ事は無いから! 」
「その両立はなかなか難しいな…… 」
子供を相手にするような小言を言う女に、男は抗議するように呟いた。
女はそれを聞くと、じとっとした眼差しで見つめる。
男は女の視線を避けるように俯くと、目の前にあるお椀を手に取った。
まるで蛇みたいだ。鰹節のだしが効いた味噌汁を味わいながら男はそう思う。
さすがにそれを口にはしないが、まるで女に絡みつかれるように感じる事も多い。
だが、男にとって女に世話という名の拘束を受ける日々は慣れっこだった。
二人は幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた。
どことなく浮世離れしている男の事を、女はやれやれと言いながらも面倒を見てきた。
男は偏屈と呼ばれても仕方のない性格だったが、一応は社会に適応して生きてこられた。
これも女の献身的なフォローと、熱心なダメだしあっての事だろう。
男を世話する時、女は決まって先ほどの様なむすっとした上目遣いでこう言うのだった。
「ほんとにもう…… いつも助けてあげるてんだからありがたく思いなさいよねっ! 」
一見したところ不機嫌そうだが、その裏にある思いやりを男はよく知っていた。
時には重く感じる女の優しさだが、彼にとっては何よりかけがいの無いものだった。
互いに言う事も無くしたのだろう、男はご飯を食べ女は動画を見続ける。
二人の間に訪れる沈黙。ときおり女の笑い声が聞こえるだけ。
だが気心の知れた彼らにとって、それもまた心落ち着くひと時だった。
はっきりと告白していなかったが、二人は付き合っているも同然の関係だった。
互いの家の鍵を預け合い、当然の様に泊まりあっていた。
文句を言い合いながらも暇さえあればいつも一緒に過ごしていた。
妙に奥手な二人なので、手を繋いだりハグしたりする以上の肉体関係は無かった。
でも間違いなく互いの事を恋人以上の存在だと思っていると言っていい。
深い仲ゆえだろう。女は男の異変に気が付いた。
今も美味しそうに唐揚げを食べているが、注意を凝らすと妙に落ち着きない。
何かを言い出したそうに、もじもじそわそわしている。
本当にいつまでたっても世話の焼ける子ねえ……
女はそう思いため息をつくと、ノートパソコンを閉じて切り出した。
「ねえ。どうしたのよ?黙ってちゃわからないでしょ。言いたいことがあるなら言いなさい。 」
男はびくっと身を震わせて箸を止める。
女の感の鋭さには随分助けられもし、逆に知られたくない秘密も暴かれてきた。
男は心を読まれてきまり悪そうだ。女を見つめると小さくうなずいた。
「そう…… 仕方ないわねえ。相談に乗ってあげるわっ! 」
どうやら隠し事ではなくて困り事なのだろう。
すがる様な男の様子を見て取った女は、力づけるように言った。
「……うん。 」
女の妙に無理した上から目線に力なく笑うと、男は語りだした。
「このあいだね。従弟の奴と一緒だったんだけど、いきなり首無しの女が首無しの馬に乗って爆走してきて、そいつをさらっていっちゃったんだ。こんなことするなんて魔物娘しかいないんだろうけど、これって前に言ったかな…… 」
「そうだったわね…… 」
魔王の統べる王国と国交が結ばれて数十年…… 今では魔物娘との共存は当然の事だ。
彼女たちは基本的に友好的なのだが、男が絡むとそれが嘘の様に豹変してしまう。
欲しい男を手に入れる為ならば、力に訴える事も策略を用いる事も厭わない。
手段を選ばず欲望をかなえるのだ。
男の従弟も魔物娘に狙われていたのだが、魔物娘の案件はなぜかアンタッチャブルだ。
警察も何もしてくれないに等しいが、今のご時世では特に珍しい事ではない。
冷静に話を聞く女を見て男は続けた。
「うちの親や親戚達も色々手は打ったんだけど行方知れずで。どうなる事かと思った矢先に結局そいつが現れたんだ。デュラハンの嫁さんと一緒に…… 」
驚き喜ぶ彼らを前にデュラハンは深々と頭を下げたそうだ。
誘拐じみた真似をして本当に申し訳ない。我が夫の事は命がけで護り幸せにする。
どうか許して欲しいと丁重に詫びたらしい。
従弟のほうもデュラハンの事をすっかり俺の嫁あつかいしており、結果オーライとばかりに結婚が認められたそうだ。
「そう…… あたしも同族…じゃなくて友人の魔物娘に調べてもらってたけど、見つかって良かったじゃないの…… 」
「まあ。ほっとしたかな。それとね。ほら、隣の部屋に男の人が住んでるだろ? 」
「そういえば妙に健康的なの見かけたわねぇ。それで? 」
女はなぜか口ごもったが、素直に喜ぶと話の続きを促す。
男は微笑むとさらに続けた。。
「なんでもその人がハイキングに行った時、湖の神社にいた白蛇に気に入られちゃったらしくて。ずうっとストーカーみたいに付きまとわれているってこぼしていたんだ。 」
「ふうん。」
「怖いから逃げたいけどどうしようなんて真面目に相談されちゃって…… 」
「その人は独身なの? 」
「そうだよ。」
それまで相槌を打つだけだった女だが、それを聞いてすぐさま反応した。
何度も手を左右に振ってあり得ないとの意思を示す。
「ああ〜!ダメよ。絶対にダメっ!逃げるなんて不可能だからっ! 」
「そ、そうなのか? 」
「当り前じゃないの。魔物娘からは逃げられないって聞いたこと無いの?しかも相手は白蛇でしょ。あの子達にロックオンされたらもう夫婦になるしかないわよ。 」
「それってマジな話? 」
女の予想外の言葉に驚いた男は目を丸くした。
「あんたに嘘ついたってしょうがないでしょ。今度その彼に会ったら言っときなさい。素直に白蛇さんの想いを受け入れろ。そうすれば本当に良い奥さんになってくれるからって。逆に下手に抵抗なんかしたらその子キレちゃって、無理やり 好きにさせられる わよ…… 」
「好きにさせられる」という言葉を、女は怖い調子で言うとニヤリと笑って見せた。
男は不安になりゴクリと生唾を飲む。
「わかった。間違いなく伝えておくよ…… 」
「そうしなさい。白蛇さんに見初められたら、こちらから望んで嫁にするか、強引に夫にさせられるかの二つに一つしかないんだからねっ。それなら自分から言ったほうがいいでしょ。 」
得意そうに解説する女を、男は感心したように眺める。
事実女は魔物娘について博識だった。
特にラミア属に関しては図鑑に載っていない事すら知りぬいていた。
男は興味を抑えきれず問いかけた。
「でも前から思ってたけど、お前って普通の人間なのに魔物娘にやたら詳しいよな。なんでなの? 」
「なにいってんのよ!あたしだってラミア属なん……ううん。なんでもない。 」
女は胸を張って言いかけたが何故か急に言葉を濁した。
「なんだよ? 」
「な、なんでもないわよ! あたしにもラミアの友達がいるからっていいたかったのっ 」
「そうか…… 」
突然態度を変え、不安そうになった女だ。困ったように男を見た。
「は、話の腰を折っちゃったわね。あんたこそ続けなさいなっ! 」
「ああ…… 」
女は無理に陽気に言うと露骨に話をそらしてきた。
以前にもこんな事はあった。それも女が詳しい魔物娘の話題の時に限ってだ。
彼女の態度の変化は鈍い男でも気が付いたが、あえて突っ込まずに言葉を続けた。
「それでね。俺が勤めてる会社、ずっと景気悪かったでしょ。とうとう魔物娘が経営する会社に吸収されちゃったんだ。」
「ええっ!?そうなのっ。なにそれ初耳よ! 」
とりとめのない男の話を鷹揚に聞いていた女だったが、今度こそ心底驚いたようだ。
女は身を乗り出して叫ぶと座卓に両手を叩きつける。
「う、うん。前から噂にはなってたけど正式な報告があったのは今日だよ。それで今勤めている事業所は廃止になるから、そのうち転籍になるだろうっていわれたんだ。 」
「は?転籍ってなにそれ。で、どこによ? 」
女は不機嫌さを隠さず、だがどことなく動揺したように問いかける。
男は女の剣幕に驚いているようだったが、やがて意を決して言った。
「ああ。 今度その会社で新しく事業を立ち上げるらしくてそこにね。新規雇用含めて独身の魔物娘もわんさとやってくるそうなんだ…… 」
「…… 」
女は唇をかんで黙り込むと力なくうなだれた。
人の命と夫との夫婦生活を何よりも大事にする魔物娘だ。
魔物が経営する会社はそれゆえ労働条件が大変良くて、就職を望むものは多かった。
また、必ずといってよいほど彼女や嫁を世話してくれるので、魔物好きの独身男性の憧れの的でもあった。
だが、それでは困る者もいた。
強引に魔物娘と夫婦にさせられても、誰も助けてくれないのだから。
無論しばらく経てば、魔物と一緒になった事を大喜びするようになるのだが。
男と女にとってもそれは同様だった。
女とまだ肉体関係を結んでいない男は、魔物にとって格好の獲物に他ならなかったから。
魔物娘だらけの会社に男を放り込む事は、飢えた獣に直接餌をやる以上に危険な事だ。
女はじっと俯き続ける。
彼女が何を考えているのか男も理解していた。
そしてきちんと言わなければならない事がある。
今までの話はこれから言うべきことの前置きにすぎない。
何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせると、男は想いを伝える覚悟を決めた。
「だからこれは言っておきたかったんだ。会社が変われば俺も従弟や隣の人みたいな事になりかねないだろ。その前に言っておきたかったんだ。 」
女は静かに顔を上げると、潤んだ眼差しに期待を込めてうなずく。
男は熱っぽい女の姿に勇気づけられたかの様に、彼女の肩に両手を置いて叫んだ。
「だから正式に俺の女になれ!これからもずっと飯を食わせてくれ! 」
「…………はっ!?」
女は唖然としながらもいつものジト目で問いかけた。
「ねえ…… まさかとは思うけどそれってプロポーズのつもり? 」
「もちろん! で……どうよ? 」
男は自信満々にうなずくと女に問いかけた。
彼女にとって男の言葉は全く予想外のものだったのだろう。そのまま黙りこむ。
やがて何を言われたか理解すると、怒りと悲しみが混ざった悲痛な声を張り上げた。
「台無しよぉ…… 台無しじゃないのよおっ! よりによってそんなプロポーズあり!? 」
女は男の胸倉をつかむと睨みつけた。何度もゆすってがたがた震わせる。
突然の事に男は驚くよりほかなかった。
「お、おい! なんだよ突然…… 」
「なんだよじゃないわよっ! そりゃああたしたちは付き合い長いしあんたの事知り抜いてるわよ。実際あんたのご飯もずっと作ってきたしね。でもいくら何でもプロポーズの言葉があれなんて酷すぎるわよっ! まさかあんた自分があんなこと言える立場だとでも思ってるの?だいたいプロポーズなんて夕日や夜景の綺麗な公園とかで十分にムード作っていうもんでしょ。それをなに?むさ苦しいあんたの部屋で俺の飯を作れ?正式に俺の女になれ?ふざけないでよっ!あんたって全くわかってないし鈍い!鈍い鈍いっ!あんたって本当に鈍すぎるわよっ……」
ひたすら女はまくし立て続け、男は全く声も出ない状態だった。
男を非難し続ける女の怒声。だが、それはいつしか悲し気な響きに変わっていった。
知らぬ間に男の胸にすがりつき、涙目になって見つめている。
男は恐る恐る女の髪に触れた。
むっとしたような表情にはなったが拒まれることは無かった。
そういえばあんなこともあったな……
女の頭を優しくなでながら、男は以前ダメだしされた時の事を思い出した。
女にいつも世話してもらって申し訳なく、お詫びとお礼も兼ねてそれまでの食費プラス幾らかの金を包んで渡した事があったのだ。
女は呆れたようなため息をついて、あんたは何もわかってないと言った。
あたしはお金が欲しくてあんたの面倒を見ている訳じゃない。とも。
気持はありがたいけど、サプライズなんかいらない。
なにかする前にはあたしに直接聞いて欲しいと諭された。
男はむっとして、鈍い俺に無理な要求するなと文句を言った。
すると女は、いい加減にしなさいこのバカ、と怒ってしまったのだ。
結局その日、彼女は家を飛び出すように帰ってしまったが、翌日になったら何食わぬ顔でやってきた。それなので男はさほど気にする事は無かった。
だがあの日の事はよく心に刻んでおくべきだったのだ。
ろくに気にも留めなかったせいで、今も女を傷つける事になってしまった。
男はずっと甘え続けていた。彼女なら大丈夫だろうと。
表面の気丈さだけを見て、心の奥底を想像する事はなかったのだ……
男は後悔の念に襲われながら頭を下げた。
「ごめん。本当に悪かった。ちょっとでもかっこつけたかったんだけど、馬鹿な事言っちゃったな。本当にごめん。」
申し訳なさそうに何度も何度も謝る男を眺め、女は拗ねたように言った。
「そう思うのならやり直して。 」
「やり直し? 」
「そうよ。あんなプロポーズなんてあたし絶対に嫌…… 」
己をじっと見つめる女の眼差しだ。いつも見慣れているはずなのに緊張してしまう。
男は何とかこらえながらもついに言った。
「あの、大好きです。ずっとそばにいてくれないか? 結婚して欲しいんだ。 」
女はしばらくの間、絡みつく様な眼差しで男を捕らえていた。
やがて男の首に抱きつくと小声でばかと言った。
「ばか…… 本当におばかさんなんだかから…… 」
「ごめん。怒ってるよな…… 」
、
抱きついてきた女の柔らかさに慰められながらも、男はもう一度謝った。
女は心底申し訳なさそうな男に、苦笑しながらかぶりを振る。
「もういいのよ。あんたがズレた感性してるのはよく知っているから。いまさらよ。口で言うほど怒ってる訳じゃないわ。 」
「それじゃあ。」
「ええ。言われなくても一緒にいてあげる。大体あんたは危なっかしくて放っておけないわ!ずうっと私のそばに置いておかなきゃ安心できないのよ! 」
女はもう一度男をぎゅっと抱きしめると抱擁を解いた。
自信満々に傲然と胸を張って見せる。
「あ、ありがとう。ほんとにありがとう…… 」
「ああもう…… 別に泣くこと無いじゃないのよっ。何も心配すること無いから。ほら。よしよし…… 」
嬉しさとほっとした事で安堵したのか男は涙ぐむ。
女は小言を言いながらも、そんな男の目元を優しくハンカチで拭うと、頭を撫でてやった。
ふたりは身を寄せ合い続けた。
どちらからともなく顔を近づけると、そっと口づけしあう。
女は顔を赤らめると目を伏せた。
「あ、あんたの気持ちはよくわかったわっ。まあ……悪い気はしない……わよ。 」
女は俯いて小声で呟いたが、やがて覚悟を決めたように、きっと目を向いた。
「でもね。今からあたし見たら考え変わるかもよ。驚くとは思うけど、でも出来れば驚かないで欲しい……かな。 」
「え?一体何だよ? 」
「すぐにわかるわよ…… 」
突然意味不明な事を言い出す女に男も困惑気味だったが、思いつめた様子にいつしか言葉を無くしていった。
「見ていてね。 」
女は悲し気に微笑む。そして静かに立ち上がると目を閉じた。
すると、彼女のすらりと伸びた両足はたちまちのうちに溶けていった。
一つになった足だった塊は畳の上を這い、うねり、長く長く伸びていく。
艶やかな黒髪も生き物の様に逆巻き、何本もの蒼い蛇状のものになる。
再び開いた瞳は金色に変化し、縦長の瞳孔が強い光を放っている。
いつしか男の目の前にいたのは、妖しくも美しい魔物娘になっていた。
蒼色の蛇の髪。うねる様に伸びた蛇体。金色の瞳。
呆然とする男を見やり、かつて女だった者は苦しそうに言った。
「ごめん。あたしも魔物娘なの。見ての通りメドゥーサってやつだけどね…… ずっと言おうと思ってたけど、あんたとの関係を壊したくなくて…… でももうこれ以上嘘はつけない…… 」
無言でたたずむ男を眺め、ため息をついたメドゥーサは続けた。
「わかってる。あんたがこんな化け物嫌だって言うのなら潔くおさらばするわっ!さっきの話の白蛇みたいに付きまとったりしないから安心してっ。情けはかけないで。哀れみもいらない。正直なあんたの気持ちをいいなさい! 」
「でも、蛇はそう思ってなさそうなんだが…… 」
「え˝っ!? 」
切なくも気丈に微笑んでいたメドゥーサだったが、男の冷静な言葉に驚きの声を上げた。
メドゥーサの蛇の髪は驚くほど伸びて、何本も男の腕に巻き付いていた。
まるでどこにもいっちゃ嫌だ! と言わんばかりに身を震わせている。
メドゥーサは目をそらすと何事もなかったかのように言った。
「ううん。違うわ。寒いからあんたに巻き付いているだけよ。蛇は寒いの苦手でしょ。」
「でも、今日は観測史上まれにみる高温だったはずだが…… 」
「もうっ!なんなのよっ! 」
落ち着いて突っ込みを入れ続ける男に、メドゥーサは我慢できずに声を上げた。
照れ隠しするように詰め寄ると指を突き付ける。
「だいたいそのスカした態度はなにっ!なにが蛇はそうおもってないが、よ!ここはまさかお前が魔物娘だったなんてっ、ぐらいに大げさに驚くところでしょ! 」
男はたじたじとなって悲鳴を上げた。
「何言ってるんだよ。驚くなって言ったのお前だろ! 」
「それでもその場にふさわしい態度ってものがあるでしょ。なんだか調子狂うじゃない! 」
「じゃ、じゃあ今度もやりなおすか? お前がそうして欲しいなら。 」
気遣うように問いかける男だ。メドゥーサは我に返ったように顔を赤らめた。
「もう。ばか…… で、どうなのよ? あたしは半分以上蛇みたいなもんだけど本当にいいの? 」
メドゥーサはむすっとして両手を腰に当てている。
姿形こそ違っているが、男がいつも見慣れている女の様子と変わりない。
だが蛇の髪は相変わらずしっかり巻き付き、男を愛おしむ様に身を擦り付けている。
そのギャップが愛らしくて男は微笑んだ。
「いや…… なんだろう。うまく言えないけどお前って昔から蛇みたいだなって思ってたんだ。蛇が擬人化したらお前みたいになるんだろうなあって。だからその点は全く気にならないんだ。安心してくれ。お前が昔から蛇なんだって事は承知しているんだ。」
冗談みたいな男の言葉だが、あくまでも真面目に言っているのだろう。
その事はよくわかるメドゥーサだ。やれやれといった様子で肩をすくめた。
「それって本気でいってるの?」
「当り前だろ。俺の本心に決まってる。 」
「そう? ならいいわ。でもこんなあたしがいいなんて、あんたも物好きね。ま、いつものことだけど。 」
そっけない言葉とは裏腹に、蛇体の先端は嬉しそうに激しく揺れている。
メドゥーサ自身も喜びを抑えきれなくなったようで、眼差しが柔らかくなった。
「お前じゃなきゃ駄目なんだ。お前がそばに居てくれないと安心できないんだ。あ。これも別に変な意味じゃないからな。どうかわかってほしい。 」
男はメドゥーサをまっすぐに見つめて、あらん限りの思いを込めて語りかけた。
メドゥーサは男の切ない視線に耐えかねて俯くと、そっと頭を下げてつぶやいた。
「ま、まあ、あんたがそう言ってくれるのは……嬉しい……わよ。 あ……ありがと。」
「いや。お礼を言うのは俺のほうだって…… 」
男も日ごろあまり見ない彼女の姿に感動して目を見張る。
お互いにしばらく放心状態だったが、やがて彼女の蛇体は静かに男に巻き付き始めた。
頭の蛇も愛撫するように絡みつき、男はうっとりとした声を上げた。
「ええと。頭の蛇だけじゃなくてあたし自身も寒くなったというかなんというか…… べ、べつにあんたが嫌なら無理強いはしないわ! 」
「ううん。 柔らかくってとっても気持いいよ…… 」
メドゥーサは抱擁するように蛇体で優しく男を包み込んだ。
恥ずかしそうに視線をそらして言い訳していたが、男の言葉に相好を崩す。
「そ、そう!? これからはあんたが望むならこうしてやってもいいわよっ。 」
「うん。」
男はメドゥーサにそっと身を委ね、彼女も愛しい男を胸にしっかりと抱きしめる。
だが彼女はふいに大きなため息をついて、金色の瞳で男をじいっと見つめた。
「あんた。魔物化しても相変わらず洗濯板なんだなとかって思ったでしょ…… 」
メドゥーサは強張った笑顔で蛇体の拘束を少し強めた。
今回も心を読まれてしまった男は慌てて言い訳する。
「ば、ばかっ!そんな事あるわけないだろっ! 」
「だめだめ。あんたすぐ顔に出るから!あたしはごまかせないわよ。 」
「で、でもちっぱいのおまえがいいんだよ。貧乳はステータスって言うじゃないか。 」
「それって絶対馬鹿にしてるでしょ…… 」
ふたりは軽口を叩きあうと苦笑する。
いつしか抱き合い、お互い一つになったかのような優しい時間が流れた。
いったい何時になったのだろう。街の喧騒も嘘の様に消えた。
だが、今のふたりにとって時間は何の意味もなかった。
お互いを抱擁しあい、ただ安らぎの中に溺れている。
ふいに男はメドゥーサの胸に埋めていた顔を上げた。
彼女の潤んだ金色の瞳を見つめて、なにか言いたげな顔をしている。
「あの…… 」
「なあに、どうしたの? 」
メドゥーサはいつになく穏やかな調子で問いかけた。
うながされた男はおずおずと言う。
「……俺。今までずっとお前に甘えて、迷惑もかけてきただろ。でもこれからは頑張るよ。おまえにふさわしい男になれるよう何でもするよ。だから…… 」
「ああ。別にいいわよ。あんたには最初から何も期待してないからっ! そんな気を使わないでも。 」
メドゥーサは冷淡に吐き捨てると手を左右に振った。
自分の決死の覚悟をあしらわれた男は悲痛な声を上げる。
「おい。それはひどいよ…… 」
今にも泣きそうになった男を見て取ったメドゥーサは、慌てて彼を胸に抱く。
「もうっ! 冗談よ。冗談に決まってるじゃないのっ! でもあたしだってあんたに色々言われたんだから。このぐらいしないと割に合わないわっ。 」
メドゥーサが何度も男を愛撫すると落ち着いた表情を見せた。
だが、なおも少し不愉快そうな様子を見て取ると優しく語りだした。
「今のままのあんたがいいの…… 頑張っているあんたでも、かっこいいあんたでもない。あるがままのあんたでいいのっ。だいたいあんたに立派になられたら、あたしの仕事がなくなるじゃないの!そんなの生意気よ…… 」
「ありがとう…… 」
「わかればいいのよ。これからも無理なんかしたら許さないんだからねっ…… 」
男の耳元でメドゥーサは愛情深くもねっとりと囁く。彼女の気持ちが嬉しくて男は涙ぐんだ。
「ちょっと…… なにやってんのよっ…… ばか…… 」
「だってお前に触れていると気持ちいいんだ…… 」
あれからずっとふたりはいちゃいちゃしあっていた。
男はメドゥーサの髪をいじり、滑らかな蛇体を夢中で撫でる。
彼女は文句を言っているが、蛇の髪はそれに反し気持ちよさそうにしている。
実際困った顔こそしているが、メドゥーサが男を止める事は無かった。
そのまま頬のきめ細やかな肌に指を這わせ、みずみずしい唇に触れる。
男は不意にメドゥーサの唇にキスをした。彼女の体がぴくりと震える。
「もうっ! いいかげんにしなさいねっ。あんたなんかこうよっ! 」
「うわっ! 」
むっとしたような声を上げたメドゥーサは、男を蛇体でぐるぐる巻きに拘束する。
だが言葉とは裏腹に、それは優しい抱擁に等しいものだった。
メドゥーサは甘くあえぐ男を悪戯っぽく微笑みながら見つめる。
「ああ。そういえばあんたさっき言ったわよね。 」
だが、メドゥーサは不意になにかを思い出して声を上げた。
「なに? 」
「あたしになんでもするっていったじゃない。 」
妙に妖しい眼差しのメドゥーサだ。
言質を取られてしまった男は、しまったと言いたそうなうめき声をあげた。
「おまえが望むことは何でもするけど、できれば痛い事と苦しい事は勘弁してほしい。それと怖い事も…… 」
真剣な表情で怯えるように言う男を見て、さすがのメドゥーサは吹き出した。
「バカねえ!あたしがそんなこと言うわけないじゃないのよっ。 」
「じゃあ何をすれば…… あ。もちろん浮気なんか絶対しないからな! 」
ラミア属の嫉妬深さを知っていた男は急いで念を押した。
「ああ、それも大丈夫!あんたって浮気しないというより浮気できない人間だから。その点は信用しているわよっ。 」
「なんか馬鹿にされてるみたいだけど…… 」
からかうような口調に男は不満そうな顔をした。
メドゥーサは男を安心させるように微笑む。
「なにいってるのよ。あたしたちラミア属にとって、浮気できない男ってのは最高の誉め言葉に等しいのよ。自信持ちなさいっ! 」
「それならいったい何なんだよ? 」
「うん…… 今あんたが言った事にも関係しているんだけど…… 」
メドゥーサは蛇体の拘束を解くと、かしこまって真剣に語りだした。
「今勤めてる会社辞めて欲しいの。あんたの事は信じてるけど、これから行く環境が悪すぎるわ。独身の魔物がうじゃうじゃいるなんて、そんなの最悪よ!あんたはあたしのものなのっ!他の魔物に手を付けられるなんて許せないっ! 」
メドゥーサは男を抱きしめる。何度も首を横に振っていやいやする。
蛇の髪も彼女と行動を合わせて悲しげに首を振った。
必死な様子に男はたまらず彼女を慰めていた。
「大丈夫。俺は大丈夫だから。でも俺たち結婚するんだから独身の魔物は気にしないでいいんじゃないの? 」
「ダメダメっ!もしバイコーンでもいたらどうすんの?それとあんたを欲しがるような変わり者の魔物だっている可能性あるのよっ! 」
やんわりと指摘する男にメドゥーサはきっぱりと言い切った。
変わり者はどうかと思ったが、さすがに鈍い男も空気を読んで口にしなかった。
しばらくうーんと言って呻いていたが、やがて覚悟を決めたようにうなずく。
「わかった。おまえがそれで安心するなら俺はいつでもやめる。でもそうすると生活が…… 」
「大丈夫。あんたを食べさせてあげるぐらい全然問題ないから。心配しないで次の仕事探せばいいわ。なんなら一生養ってあげてもいいのよ。ううん。養わせなさいっ! 」
メドゥーサは不安げな男を落ち着かせるように優しく言う。
だが自分の言葉に興奮したのだろうか。
掴みかかる様な勢いで目の前に迫ってきた彼女を男は慌ててなだめた。
「ま、まあそれはおいおい考えるとして。とにかく今後の準備もあるから。」
「そ、そうね。時間はいくらでもあるし…… 」
我に返ったメドゥーサは恥ずかしそうに目をそらした。
メドゥーサはなおも顔を赤らめて、何か言いたそうに男をチラ見していた。
やがて誰に言うとなくつぶやいた。
「……これでやっとけりがついたわね。安心したらお腹すいちゃった。」
「お腹って、さっきたくさん食ってたじゃないか。」
メドゥーサは男がご飯を食べ終わる前に十分食べていたはずだ。
男は怪訝に思って問いかける。
だが、なぜかメドゥーサは苦しそうに無言で俯き続けた。
「おいどうした?大丈夫か?そんなに腹減ってるなら俺の分食うか? 」
困った男は食べかけの唐揚げを彼女の目の前に差し出す。
メドゥーサは慌てて男のほうを向いて叫んだ。
「……ば、ばか。ちがうわよっ。あんた。い、今からあんたを食べるのよっ! 」
「はいっ? 」
メドゥーサは覚悟を決めた様にすっと立ち上がった。
興奮を抑えきれず蛇体は震え、蛇の髪もとぐろを巻いて舌をちろちろ出している。
金色の瞳は欲望のままに強い光を放っている。
予想外の事に呆けたように口を開け続ける男だ。
メドゥーサは何か勘違いしたようで、男を安心させるように力強くうなずいた。
「もちろん食べるってのは 性的に だから心配しないでいいわよ! 怖がらないであたしに身をまかせなさいっ! 」
「いやそういう問題じゃないからっ! 」
男も女と肌を重ねる関係になる事を願っていた。だが余りに突然の訪れだった。
驚いて悲鳴を上げて後ずさる。
メドゥーサは目にもとまらぬ速さで間合いを詰めると、歌う様な歓喜の声を上げた。
「あのね。あんたずっと美味しそうな匂いさせたじゃない。子供のころからあたし我慢するのに一苦労だった。何年も何年もねっ!いままでずっと待ってたのよ。夫婦になったんだからもう我慢はしないわっ! 」
「ちょっとまて。」
「本当はもっと雰囲気作って初体験したかったんだけど……でも待たないわっ!」
夢見るように微笑んでいたメドゥーサだったが、不意に男を押し倒した。
たちまち絡みついてくる蛇体の圧力、温かさと甘い匂いを彼は感じる。
頭を抱かれ彼女の柔らかい唇がしっかり重ねられるのも。
男を昂らせるようなメドゥーサの愛撫を受けていると
自然と動揺は消えて、代わりに愛しい妻となった女性への欲情が燃え上がってくるのを感じた。
これから色々大変かも……でも、素敵な日々がまっていそうだ。
心地よい快楽に包まれながら男はそう思った。
24/01/02 17:36更新 / 近藤無内