後編
「おまたせしました!ピラフです。」
「どうもありがとうございます…。」
みゆきさんはダークスライムの店員が持ってきたピラフを受け取る。待ちきれない様子の僕を見て苦笑するとすぐ渡してくれた。
「はいっ。あーくんどうぞ!」
「あ、うん…。」
僕一人だけ食べるのは申し訳なく。みゆきさんが頼んだ料理が来るのを待とうと思った。だが、僕の考えを見抜いたみゆきさんは穏やかにたしなめる。
「あーくんお腹が空いていますよね?ママに構わず先に食べて下さいね。」
「でも…。ママが頼んだものが来るまで。それまで待っているよ。」
なおも待とうとする僕に、みゆきさんはさらに食べる様に促してくれた。
「もう!ママに遠慮なんかしてはいけません。早く食べないと冷めちゃいますよ。」
ほんとうにママの事はいいんですから…みゆきさんは優しい笑顔でそう言ってくれる。穏やかな眼差しに、いつしか僕も気兼ねすることを忘れていた。
「それじゃあ。頂きます。」
「はい。たくさん食べて下さいね!」
お腹が空いていた僕は夢中で食べ始めた。このカフェには時々寄るけど、食べるものすべて美味しい。メニューに外れがあった事は無い。脇目も振らず食べ続ける僕に、みゆきさんは興味津々とでも言った風に問いかけてきた。
「あーくんそれ美味しそうですねえ…。」
「とっても美味しいよ…あっ!ううん!ママの手料理が一番おいしいから!」
いつも美味しいご飯を作ってくれるみゆきさん。その人の前でこんな事言ってはいけないだろ…。慌てて否定する僕にみゆきさんは微笑む。
「いやですよお…。子供がそんな気を回すものじゃありません…。でもそう言ってくれてママとっても嬉しいです。今度ママも美味しいピラフを作りますからね!」
みゆきさんの言葉に僕はほっとする。だが、美味しそうに食べている僕にみゆきさんは何か言いたそうだ。物欲しそうと言うか何というか…。やがて我慢できなくなったのだろう。みゆきさんは身を寄せてお願いしてきた。
「ああ〜。ママもお腹すいてきましたよぉ。ね。あーくんのちょっとだけもらっていいですか?」
「ふふっ…。いいよ。ママも一緒に食べよう。」
両手を合わせてお願いしてくるみゆきさんが可愛い。子供っぽくお茶目な姿を見ていると気持ちが和む。僕が応じるとみゆきさんは嬉しそうにはしゃいでみせた。
「ありがとうございます!やっぱりあーくんは優しいいい子です!」
「もう。それって都合良すぎでしょ…。」
僕たちは互いに軽口を叩くと笑いあった。みゆきさんは小皿にピラフを取り分けると一口食べる。そして美味しそうに何度もうなずいた。やがてみゆきさんが頼んだピザトーストが来ると、僕も少し分けてもらう。
「うん…。これも美味しいね。」
「ですよね!ここのトーストは絶品ですから。」
お互い仲良く分け合って美味しく食べる。これもいつもの事。愛する人と一緒にとる食事は、楽しく美味しいものだ。僕はその事を長らく忘れていた。みゆきさんはその事を思いださせてくれたのだ。
お腹が空いていた事もあり、また僕は食べる事に夢中になっていた。下を向いて黙々と食べ続ける。しばし訪れた沈黙の時間だが、それが妙に気になる。思い切って顔を上げてみると、みゆきさんは愛情深い眼差しで僕を見守ってくれていた。見つめられてこそばゆいけれど、包み込まれる様な優しい眼差しは心地よい。けど、なぜか既視感がある。どこでだろう。この様な光景を僕は見ているはずなのだ。いつの事だっただろう………。
そうだ。亡くなった母さん。母さんも僕がご飯を食べているといつも優しく見守ってくれていた。僕が見つめ返すといつも笑顔を見せてくれた。これは母さんの笑顔だ。
「ん?なんですか?あーくん。」
みゆきさんは悪戯っぽく問いかける。僕はいつしかみゆきさんと見つめあっていた。みゆきさんの真紅の深い眼差しと、僕の眼差しが重なり合う。みゆきさんの…僕の優しいママの瞳。やがてみゆきさんは恥ずかしそうに視線をそらせた。
「ごめんなさいあーくん。じろじろ見られて食べにくかったですよね。でも、美味しそうに食べているあーくんがあんまりにも可愛かったので。」
「ううん。いまのママ…。亡くなった母さんみたいだったよ…。」
想いを隠すことが出来ずに、僕の口から自然と言葉になる。みゆきさんははっとした様な表情になった。やがて感極まったかのように目を潤ませると、何か言いたそうに口を開きかける。だが、みゆきさんは押さえつける様に押し黙った。僕はただその様子を見つめる。
「ママ…。」
やがてみゆきさんは不意に僕の顔に手を伸ばしてきた。何事かと思う間も無く、僕の頬についていた何かをそっと摘み取る。みゆきさんはそれをためらうことなく口に入れた。
「ふふっ…。あーくんったらご飯粒なんか付けて…。ちゃんときれいに食べましょうね。」
みゆきさんは喜びと悲しみが綯い交ぜになったような、そんな儚い笑顔だった。
十分に食べてお腹も一杯になった。腹が落ち着くのを待って店を出ようか。そう思い外を眺めると、厚く張りつめていた雲は追い払われ、いつの間にか青空が広がっていた。ぎらぎら輝く陽光のもと、皆うんざりした表情で歩いている。きっと、いや間違いなく外はうだるような暑さなのだろう。この灼熱の太陽に照らされるのはつらい。憂鬱になって思わずため息を付いてしまった僕…。そんな僕にみゆきさんは優しいいたわりの言葉を掛けてくれた。
「ごめんなさい。晴れちゃいましたね。こんなに暑くなるのなら、出かけようなんて言わなければよかったですね…。」
申し訳なさそうにしているみゆきさんに、逆に僕の方が罪の意識を感じてしまう。僕は慌ててかぶりを振った。
「大丈夫!僕はもうインキュバスなんだよ。昔とは違うんだからこの程度全く問題ないって!」
僕の言葉を聞いたみゆきさんは、信じられないと言わんばかりに間髪入れずに否定してきた。
「いいえ!とんでもない事です!大切なあーくんを熱中症にする危険にさらすわけにはいきませんっ!せめて夕方までここに居ましょう。」
「え、でも長居していいの?」
昔は友人たちとファミレス等で何時間も駄弁っていたものだ。けれどさすがに今は長時間居座るのは気が引ける。
「今日はお店混んでいないから気にしないでもいいですよ。それにコーヒーやケーキを色々注文するつもりですから。あーくんは何も心配しないでくださいね。」
みゆきさんは心配になった僕を安心させる様に言ってくれた。
「さ…。それじゃあ安心した所で食後のお昼寝しましょうね…。」
「あ、まってよみゆきママ。」
返事も聞かずみゆきさんは僕を抱きしめた。いつもの様に蛇体を幾重にも巻き付けてくれる。そして何度も何度も甘い愛撫を繰り返した。みゆきさんの濃く甘い匂いに突然包まれて、僕はむせてしまう。避ける様に顔を上げれば、これもいつもの様にみゆきさんの穏やかな笑顔だ。
「ほら。あーくん見て下さい。他の方も皆くっつきあって幸せそうですよ…。」
なおも恥かしそうにしている僕をなだめる様に、みゆきさんは周囲を見回した。確かに店内にいる人魔のカップル達は、抱き合ったりキスしあったりしている。それぞれが愛する伴侶と過ごす幸せに溺れているかのようだ。みんな蕩ける様にうっとりしている。僕がみゆきさんにロールされても、気に留める人など一人も居ない。
「ね。だからあーくんは何にも気にしないで気持ち良くおねんねしましょうね…。ママがぎゅ〜ってしてあげますから。」
「ママ…。みゆきママ。」
慰める様なみゆきさんの甘い声。僕は羞恥心を捨て去り、みゆきさんを抱きしめ胸に顔を埋める。みゆきさんもそれに呼応するように、僕を蛇体で布団の様に包み込む。柔らかくいい匂いのみゆきさん。最愛の人と抱き合って僕は多幸感に浸る。
「嬉しい。人前でも私に甘えてくれて。あーくんったら本当に可愛いです。嬉しいからご褒美あげますね!」
成長した子供を喜ぶ親の様に、みゆきさんは僕を褒めてくれた。ご褒美ですよと言いながら頭をいい子いい子と撫でてくれる。とにかくきもちいい…。全てを忘れて僕は蕩けていればいい…。みゆきさんに任せていればいい…。圧倒的な信頼と安らぎに溺れながら僕は周囲を見回す。
周りはみんな甘えあう魔物とインキュバスの恋人たち。見ているだけで深い愛情が伝わってくる。さっきは熱いと言ったけれど、ゆったりと甘く穏やかな空気も店内に満ちている。人と魔物は交わり合うだけで、飲まず食わずで生きて行くことが出来る。平日昼間からこの店でいちゃつくカップル達は互いに対する想いを最優先しているのだろう。その他の事を煩わしいと捨て去るぐらいに。
彼女達は陰で過激派とでも揶揄されているのかもしれない。魔物娘は世に広まりはしたが、その風習が完全に認められている訳では無い。働きもせずにセックスしまくる人魔の番。彼女達には嫉妬と無理解から、心無い言葉が投げつけられる事もある。
当然僕も同じ立場だ。みゆきさんに全て面倒を見てもらって、日がな一日まぐわうか睦み合うかどちらかなのだから。みゆきさんは僕を救ってくれた。幸せになる事が出来た。たとえようもなく穏やかで安らかな日々だ。けれど人の世の流れからも完全に置いて行かれてしまった。この店にいると否応なく実感してしまう。
僕の心に差し込むほんの僅かな影。それをみゆきさんはいつも見逃すことは無い。労わる様に僕を抱きしめてくれる。包み込む蛇体の温かさが陽光の様に影を打ち消す。
「大丈夫ですよ…。将来は私達みたいに幸せな人達が、今よりずっと多くなっていますから…。」
「ほんとう?」
「ええ!本当です。みんな幸せです…。だからあーくんは何にも悲しむことは無いんですよ…。」
「ありがとうママ。自分でもめんどくさい奴だと思うけど、色々考えちゃって。」
頭を下げる僕にみゆきさんは微笑んでかぶりをふる。良く考えれば何の根拠もないみゆきさんの言葉だ。けれどいつもそう言われて僕は安心してしまう。半分寝ぼけながら身を委ねる僕を、みゆきさんは包み込むように受け入れてくれる。細胞の隅々まで染み入ってくるみゆきさんの体温。匂い。そして深い想い。みゆきさんと一つになった様な、そんな妄想に包まれた僕は眠りに堕ちて行った。
「あーくん。あーくん。そろそろ起きましょうね…。」
心地良い眠りを堪能している僕の耳朶に、澄みきった声が響いた。同時に体を優しく揺すられる。
「………っ。」
「おはようございます。気持ちよさそうにお休みで、起こすのは悪いと思ったのですけれど…。」
目を開けた僕の目の前には先ほどと同じ、みゆきさんの微笑みがあった。けれど、僕を無理やり起こしてしまったからだろうか。どことなく申し訳なさそうな声だ。
「もう日も落ちてしまいましたので。そろそろ帰ろうと思いまして。」
「ん………。」
僕は寝ぼけ眼でうなずく。ついで何気なく見た窓の外には、人通りが絶えない薄暮の街並みが広がっていた。すでに日は沈み残照も消え、空はすっかり紫色に染まっている。これから夜を迎え賑やかになるであろう歓楽街をネオンが彩っている。店の中も電球が灯り、優しいオレンジ色の中、人魔の番が睦み合っている。店にいるのはさっきまでのメンバーとほとんど変わりない。
僕は顔をそむけて俯いた。落日の光景は嫌いだ。
「あーくん。どうしました?」
「ううん。大丈夫。なんでもないよ…。」
異変に気が付いたみゆきさんが声をかけてくれた。僕は笑顔を見せてかぶりを振る。
でも…。この時間は苦しい。つらい。夏の夕景を見ると陰鬱になる。
僕はまたすぐにうなだれてしまう。
「あーくん…。」
「大丈夫。本当に大丈夫だから。」
なおも心配そうなみゆきさんに、僕は何度も同じ台詞を繰り返す。
僕が家族を亡くした時。あの時も夏の夕暮れ時だった。一緒に買い物行くか?父母にそう問われ即座に僕は断った。ちょうど一番多感で微妙な時期。親と一緒に出歩きたくは無かった。両親と話しをしたのはこれが最後になった。両親は交通事故に会い、物言わぬ姿となって帰ってきた。
その後も色々あったが、なんとか就職できた会社。その会社が潰れたのも夏の連休前、終業間際の事だった。連休前という事で、体に気をつけろとでも言うんだろう。そう思う社員全員の前で、社長は倒産と全員の一月後の解雇を告げ、深々と頭を下げた。働き始めた僕がやっと将来について考える余裕ができた頃だった。
人に言えばお前は弱いと怒られるのだろう。だが、この時僕を律していた何かが切れてしまった。前にも言った通り僕は人生に希望を失った。けれど死ぬ勇気を持つことも出来なかったから、酒とギャンブルで緩慢な死を選ぼうとしたのだ。
この時間になると嫌でも思い出してしまう。僕は夏の夕暮れが嫌いだ。
「昔の事思い出しちゃいました?でも、大丈夫。今はママがいますから!大丈夫!」
身を震わす僕をみゆきさんは抱きしめてくれる。幼児のようにすがりつく僕にそっとキスを繰り返し、癒すように背中を何度もさすってくれる。春の日差しのように柔らかい声でなだめてくれる。
「本当にいつもごめんね。ママ…。」
「あーくん。そんなことで謝ってはダメですよ…。ママはあーくんを護るのが当然なんですからね。むしろママのほうから護らせてとお願いしたいぐらいなんです。」
みゆきさんにはたびたびこの事で迷惑をかけている。申し訳なくて頭を下げる僕だったが、心配するように笑っただけだった。本当にいつもみゆきさんには救われている。例えようもない温かさで僕を包み込んでくれている。これからもずっとみゆきさんに抱きしめられていたい。「子供」として安らかに過ごしていきたい。
いまではすっかり当たり前になった僕たちの二人の穏やかな日々。でも、そんな当たり前がいつまで続くのか………。
家族を失う前は父母と過ごす日々が当たり前だった。会社が潰れるまでは毎日出勤する日々が当たり前だった。でも、その当たり前の日々は、今では僕の思い出の中にしか存在しない。当たり前の日常は当たり前のように終わりを告げる。永遠なものなんてない。みゆきさんと母子として過ごす日々もいつかは終わりを告げる………。
「ママ…。これからもずっと一緒だよね。」
憂いと無常の想いに襲われた僕はみゆきさんに哀願してしまう。なぜか寒い。先ほどから体の震えが止まらない。みゆきさんは僕を温めるかのように抱擁を強める。
「ね。あーくん。あーくんはもう何も苦しむことなんかないんですよ。大丈夫。何も心配しないで。私だけを見てください。」
優しく語りかけるみゆきさん。深い憐みの色を湛えた微笑みで。僕はみゆきさんを見つめた。いつものように宝石のような、吸い込まれるような深紅の宝石…。そう思った瞬間、彼女の右手がきらめいた。青白く光り輝き、燃え上がる炎のように揺らめく。みゆきさんは右手を僕にそっとあてた。
「あっ………。」
僕に当てられたみゆきさんの綺麗な手。そこから流れ込んできたのは、真夏なのに冷え切って震えが止まらない、そんな僕に染み入る穏やかで温かな力の流れだった。力はたちまち全身に行き渡り、体だけではなく心の奥底にも浸透した。虚無と寂寥感で満ちていた僕の心に、みゆきさんのぬくもりを優しく上書きしていく。
みゆきさんは僕に魔力を入れてプレイするのが大好きだ。魔力が体に注ぎ込まれる感触は良くわかっていた。メスに向ける強烈な性欲と万能感。激流のような凄まじい気持ちの高揚感を伴う。それが今まで全く感じた事が無い、温かいせせらぎの様な魔力の流れだった。甘く柔らかく染み入るような感覚に、僕は思わず喘ぎ声をあげていた。
全身がみゆきさんで満ちていく。悲しく嫌な気持ちは追い払われて、みゆきさんの愛情だけが満ちていく。安らぎを取り戻した僕は、知らぬ間にみゆきさんに微笑んでいた。
「よかった…。大丈夫みたいですね。あーくん。」
みゆきさんは僕の様子を見て、胸が晴れたかの様に表情を和らげた。僕の真正面から向き合い、落ち着かせるように両肩に手を置くと、諭すように語りかける。
「ね。あーくん。よく聞いてください。可愛いわが子のそばからママがいなくなるなんて事はありませんからね。もちろん時が経てば、私たちも天国にいらっしゃるあーくんのご家族のもとに行くことになるでしょう。でもその時だってママはあーくんから離れません。ママとあーくんは二人で、天国のお義父さんとお義母さんの所にご挨拶に伺うんですから…。」
「………っ。す、すごいねママ。」
嬉しいんだけれど、あまりに突拍子もないことを言い出したみゆきさん。僕はつい吹き出してしまう。
「まあ。あーくんはママが妄想吹いていると思っているんですね…。」
「まさか。そんな訳…。」
「いいえ。そんなこと言ってもダメですよ!あーくん。ママが今まで嘘ついたことありましたか?」
みゆきさんは僕の様子に少しむっとした様子だ。相変わらず真正面から僕を見つめて詰問する。
透明感あふれる声が耳に心地良い。
「ううん。無いよ。」
「それじゃあママが今まであーくんとの約束破ったことありましたか?」
「それも無いよ。」
「今回も同じですよ。ママはあーくんと未来永劫一緒です。それは間違いのないことなんですよ。安心してくださいね!」
みゆきさんは胸を張って言う。自信満々な様子を見ていると僕も疑うことなく信じてしまう。これも全く根拠がない言葉なんだけれど、なぜかその信頼感が心地よい。でも、みゆきさんは白蛇だ…。僕の知らない所で、妖しい魔術を色々習得しているのかもしれない。永遠に僕たちが離れられなくなるような…。まあでも、みゆきさんと一緒ならそれは当然大歓迎だ。
みゆきさんの言葉に力づけられた僕は、そのまま蛇体の抱擁に身を任せ続けていた。大船に乗ったような安心感と心地よさ。だが、みゆきさんはなぜかひとつ咳払いをして真剣な眼差しになる。急に空気が重くなったようで、知らぬ間に僕の顔が曇る。
「最近ではすっかり忘れているようですけど…。ママはあーくんのママですけれど、同時にお嫁さんでもあるんですよ。あーくんこそママを…お嫁さんを放ってどこかに行ったら、本気で怒っちゃいますからねっ…。」
叱るような声音で念押しするみゆきさんだ。蛇体の締め付けもぎゅうっと強まってくる。僕は慌てて首を振って否定した。
「ま、まってよママ!そんな事、絶対にある訳ないよ!僕はもうママから離れられないんだ!ママだってそれは分かっているでしょ…。」
動揺する僕がおかしかったのだろう。みゆきさんは突然ぷっと吹き出した
「ええ。わかっていますよ。ちょっと言ってみただけですから。あーくんがそんな事しないって事はママが一番よくわかっています!」
何度も首を振って否定する僕を見て、みゆきさんはころころと笑っている。朗らかな様子を見れば、からかわれただけとも思うけど…。でも妙に視線が強かったような…。僕の心にほんの少しだけ生じるしこりみたいな感情。みゆきさんはすぐに気が付いて慰めてくれた。
「あらっ?そんなにママが怖かったですか?ごめんなさいねあーくん。ただの冗談ですよ。大丈夫!なにも怖くないですからね。よしよし…。」
「もう。ママったら…。」
みゆきさんはがらりと表情を変える。いつもの愛慕の情を込めた眼差しで僕を見つめると、ぎゅっと胸に抱いてくれる。騒ぎかけた僕の心を落ち着かせる様に何度も愛撫してくれる。
「ほんとうにごめんなさいね。でもママだったらあーくんが嫌だな〜って思う全ての事からあーくんを護る事が出来るんですからね。ママだったらあーくんを幸せにできるんですからね。ママだけはいつだってあーくんの味方なんですからね。ママはあーくんの望むことだったらなんでもしますからね。ママはあーくんの身の上を聞いて決心したんです。この子にはお嫁さんよりもママのほうが必要なんだって。だから私がママになろうって。ママになればこの子を護ってあげられるって。私がママになればあーくんを幸せにできるって。あーくんとママでずっと幸せに暮らすことができるって。だからあーくんはいつまでもママの子供でいてください。あーくんとママの間に子供ができてもあーくんはママの子供でいてください。ずっとママが愛するママを愛する子供でいてください。お願いしますね。あーくん………」
みゆきさんは僕の耳元でしんみりと囁き続ける。とろけるような柔らかい声で語り続ける。哀願するような、それでいて渇望するような、胸が張り裂けそうな想いを込めて。いつも僕を包み込むみゆきさんの蛇体の様に愛情深く、それでいて絶対に離さない魔性の声で。
みゆきさんの妄執ともいえる深い愛だったが、僕は思わず歓喜の涙を流していた。嬉しくて蛇体にすがりつくと、みゆきさんも目を細めて抱擁を強めてくれる。僕はみゆきさんの温かさだけを感じていた………
「ごめんなさいあーくん。すっかり遅くなっちゃいましたね…。そろそろ出ましょうか。」
「そうだね…。」
あれからみゆきさんに抱きしめられて恍惚としていた僕だったが、ようやく正気を取り戻した。みゆきさんも、やりすぎちゃったかな。と僕を気遣うような表情だ。僕は大丈夫だよと笑顔を見せた。だって、みゆきさんに身も心も包み込まれる事は、いつだって至福の喜びだから…。
「それじゃあ…はいっ!」
「あ。うん…。」
みゆきさんは僕を見てほっとしたように手を差し伸べる。僕も当然のように、繊細で透き通るようなみゆきさんの手を取った。その途端きめ細やかで柔らかい手の感触が広がり、じんわりと温かさが伝わる。甘く切ないものが心に満ちた。
僕とみゆきさんは手をつなぎ合って店を出た。ありがとうございましたという店員の声と、相変わらず睦み合う人魔のカップル達を背にする。外に出ると、柔らかなオレンジ色の光が窓から漏れ出して、夜闇を幻想的に染めている。夏のむっとする空気の中、僕たちは気が抜けたようにその光景を見つめた。
「さて!愛しの我が家に帰りましょう!」
気持ちを切り替えるように、みゆきさんはおどけた様子で微笑んだ。
僕たちは相変わらず手をつなぎ合って歩いている。周りは歓楽街の煌びやかな灯りに引き寄せられた人と魔の群れ。賑わう街並みは独特の熱気が満ちているが、僕たちの間には不思議とそれは伝わってこない。ねっとり纏わりつくようなみゆきさんの気配が僕たちを包み込んでいる。すっかり馴染んだみゆきさんの空気感が心地よい。僕とみゆきさんはお互いを見つめて笑いあった。
「ふふっ。どうしましたか。あーくん?」
「ん?いつもママは綺麗だな〜って。」
「もう!この子ったら…。でも、ありがとうございます。あーくん。」
すっかり気持ちも晴れて軽口を叩く僕。みゆきさんも嬉しそうだ。なおも何か言いたそうに口を開きかけたが、しばらく僕を見つめたのちに恥ずかしそうに俯いた。やがてゆっくりと顔を上げたみゆきさんは、照れ隠しする様に訥々と言った。
「ねえ、あーくん。この後…お夕飯、何が食べたいですか?」
何かを訴えたいような濡れたみゆきさんの眼差しだ。深紅の瞳に僕は見入ってしまったが、やがて呆けたように言葉を発した。
「う〜ん………。刺身。お刺身がいいかな。」
みゆきさんは僕を見て悪戯っぽく笑うと、はしゃぐように問いかけてきた。
「お刺身ですか?もう遅くなっちゃいましたからねえ…。良さそうなのがあればいいんですけれど。とりあえずスーパーに寄ってみましょうか?」
「そうだね。ママ。」
僕はみゆきさんの体温を感じたくて、温かい手をそっと握りしめる。みゆきさんは優しく笑ってくれると、ぎゅっと手を握り返してくれた。
僕たちは家路を急ぐ。夜の街灯りの中、二人手をつなぎ合って。
これからもずっと一緒に生きていこう。みゆきさん…ママと一緒に。
「どうもありがとうございます…。」
みゆきさんはダークスライムの店員が持ってきたピラフを受け取る。待ちきれない様子の僕を見て苦笑するとすぐ渡してくれた。
「はいっ。あーくんどうぞ!」
「あ、うん…。」
僕一人だけ食べるのは申し訳なく。みゆきさんが頼んだ料理が来るのを待とうと思った。だが、僕の考えを見抜いたみゆきさんは穏やかにたしなめる。
「あーくんお腹が空いていますよね?ママに構わず先に食べて下さいね。」
「でも…。ママが頼んだものが来るまで。それまで待っているよ。」
なおも待とうとする僕に、みゆきさんはさらに食べる様に促してくれた。
「もう!ママに遠慮なんかしてはいけません。早く食べないと冷めちゃいますよ。」
ほんとうにママの事はいいんですから…みゆきさんは優しい笑顔でそう言ってくれる。穏やかな眼差しに、いつしか僕も気兼ねすることを忘れていた。
「それじゃあ。頂きます。」
「はい。たくさん食べて下さいね!」
お腹が空いていた僕は夢中で食べ始めた。このカフェには時々寄るけど、食べるものすべて美味しい。メニューに外れがあった事は無い。脇目も振らず食べ続ける僕に、みゆきさんは興味津々とでも言った風に問いかけてきた。
「あーくんそれ美味しそうですねえ…。」
「とっても美味しいよ…あっ!ううん!ママの手料理が一番おいしいから!」
いつも美味しいご飯を作ってくれるみゆきさん。その人の前でこんな事言ってはいけないだろ…。慌てて否定する僕にみゆきさんは微笑む。
「いやですよお…。子供がそんな気を回すものじゃありません…。でもそう言ってくれてママとっても嬉しいです。今度ママも美味しいピラフを作りますからね!」
みゆきさんの言葉に僕はほっとする。だが、美味しそうに食べている僕にみゆきさんは何か言いたそうだ。物欲しそうと言うか何というか…。やがて我慢できなくなったのだろう。みゆきさんは身を寄せてお願いしてきた。
「ああ〜。ママもお腹すいてきましたよぉ。ね。あーくんのちょっとだけもらっていいですか?」
「ふふっ…。いいよ。ママも一緒に食べよう。」
両手を合わせてお願いしてくるみゆきさんが可愛い。子供っぽくお茶目な姿を見ていると気持ちが和む。僕が応じるとみゆきさんは嬉しそうにはしゃいでみせた。
「ありがとうございます!やっぱりあーくんは優しいいい子です!」
「もう。それって都合良すぎでしょ…。」
僕たちは互いに軽口を叩くと笑いあった。みゆきさんは小皿にピラフを取り分けると一口食べる。そして美味しそうに何度もうなずいた。やがてみゆきさんが頼んだピザトーストが来ると、僕も少し分けてもらう。
「うん…。これも美味しいね。」
「ですよね!ここのトーストは絶品ですから。」
お互い仲良く分け合って美味しく食べる。これもいつもの事。愛する人と一緒にとる食事は、楽しく美味しいものだ。僕はその事を長らく忘れていた。みゆきさんはその事を思いださせてくれたのだ。
お腹が空いていた事もあり、また僕は食べる事に夢中になっていた。下を向いて黙々と食べ続ける。しばし訪れた沈黙の時間だが、それが妙に気になる。思い切って顔を上げてみると、みゆきさんは愛情深い眼差しで僕を見守ってくれていた。見つめられてこそばゆいけれど、包み込まれる様な優しい眼差しは心地よい。けど、なぜか既視感がある。どこでだろう。この様な光景を僕は見ているはずなのだ。いつの事だっただろう………。
そうだ。亡くなった母さん。母さんも僕がご飯を食べているといつも優しく見守ってくれていた。僕が見つめ返すといつも笑顔を見せてくれた。これは母さんの笑顔だ。
「ん?なんですか?あーくん。」
みゆきさんは悪戯っぽく問いかける。僕はいつしかみゆきさんと見つめあっていた。みゆきさんの真紅の深い眼差しと、僕の眼差しが重なり合う。みゆきさんの…僕の優しいママの瞳。やがてみゆきさんは恥ずかしそうに視線をそらせた。
「ごめんなさいあーくん。じろじろ見られて食べにくかったですよね。でも、美味しそうに食べているあーくんがあんまりにも可愛かったので。」
「ううん。いまのママ…。亡くなった母さんみたいだったよ…。」
想いを隠すことが出来ずに、僕の口から自然と言葉になる。みゆきさんははっとした様な表情になった。やがて感極まったかのように目を潤ませると、何か言いたそうに口を開きかける。だが、みゆきさんは押さえつける様に押し黙った。僕はただその様子を見つめる。
「ママ…。」
やがてみゆきさんは不意に僕の顔に手を伸ばしてきた。何事かと思う間も無く、僕の頬についていた何かをそっと摘み取る。みゆきさんはそれをためらうことなく口に入れた。
「ふふっ…。あーくんったらご飯粒なんか付けて…。ちゃんときれいに食べましょうね。」
みゆきさんは喜びと悲しみが綯い交ぜになったような、そんな儚い笑顔だった。
十分に食べてお腹も一杯になった。腹が落ち着くのを待って店を出ようか。そう思い外を眺めると、厚く張りつめていた雲は追い払われ、いつの間にか青空が広がっていた。ぎらぎら輝く陽光のもと、皆うんざりした表情で歩いている。きっと、いや間違いなく外はうだるような暑さなのだろう。この灼熱の太陽に照らされるのはつらい。憂鬱になって思わずため息を付いてしまった僕…。そんな僕にみゆきさんは優しいいたわりの言葉を掛けてくれた。
「ごめんなさい。晴れちゃいましたね。こんなに暑くなるのなら、出かけようなんて言わなければよかったですね…。」
申し訳なさそうにしているみゆきさんに、逆に僕の方が罪の意識を感じてしまう。僕は慌ててかぶりを振った。
「大丈夫!僕はもうインキュバスなんだよ。昔とは違うんだからこの程度全く問題ないって!」
僕の言葉を聞いたみゆきさんは、信じられないと言わんばかりに間髪入れずに否定してきた。
「いいえ!とんでもない事です!大切なあーくんを熱中症にする危険にさらすわけにはいきませんっ!せめて夕方までここに居ましょう。」
「え、でも長居していいの?」
昔は友人たちとファミレス等で何時間も駄弁っていたものだ。けれどさすがに今は長時間居座るのは気が引ける。
「今日はお店混んでいないから気にしないでもいいですよ。それにコーヒーやケーキを色々注文するつもりですから。あーくんは何も心配しないでくださいね。」
みゆきさんは心配になった僕を安心させる様に言ってくれた。
「さ…。それじゃあ安心した所で食後のお昼寝しましょうね…。」
「あ、まってよみゆきママ。」
返事も聞かずみゆきさんは僕を抱きしめた。いつもの様に蛇体を幾重にも巻き付けてくれる。そして何度も何度も甘い愛撫を繰り返した。みゆきさんの濃く甘い匂いに突然包まれて、僕はむせてしまう。避ける様に顔を上げれば、これもいつもの様にみゆきさんの穏やかな笑顔だ。
「ほら。あーくん見て下さい。他の方も皆くっつきあって幸せそうですよ…。」
なおも恥かしそうにしている僕をなだめる様に、みゆきさんは周囲を見回した。確かに店内にいる人魔のカップル達は、抱き合ったりキスしあったりしている。それぞれが愛する伴侶と過ごす幸せに溺れているかのようだ。みんな蕩ける様にうっとりしている。僕がみゆきさんにロールされても、気に留める人など一人も居ない。
「ね。だからあーくんは何にも気にしないで気持ち良くおねんねしましょうね…。ママがぎゅ〜ってしてあげますから。」
「ママ…。みゆきママ。」
慰める様なみゆきさんの甘い声。僕は羞恥心を捨て去り、みゆきさんを抱きしめ胸に顔を埋める。みゆきさんもそれに呼応するように、僕を蛇体で布団の様に包み込む。柔らかくいい匂いのみゆきさん。最愛の人と抱き合って僕は多幸感に浸る。
「嬉しい。人前でも私に甘えてくれて。あーくんったら本当に可愛いです。嬉しいからご褒美あげますね!」
成長した子供を喜ぶ親の様に、みゆきさんは僕を褒めてくれた。ご褒美ですよと言いながら頭をいい子いい子と撫でてくれる。とにかくきもちいい…。全てを忘れて僕は蕩けていればいい…。みゆきさんに任せていればいい…。圧倒的な信頼と安らぎに溺れながら僕は周囲を見回す。
周りはみんな甘えあう魔物とインキュバスの恋人たち。見ているだけで深い愛情が伝わってくる。さっきは熱いと言ったけれど、ゆったりと甘く穏やかな空気も店内に満ちている。人と魔物は交わり合うだけで、飲まず食わずで生きて行くことが出来る。平日昼間からこの店でいちゃつくカップル達は互いに対する想いを最優先しているのだろう。その他の事を煩わしいと捨て去るぐらいに。
彼女達は陰で過激派とでも揶揄されているのかもしれない。魔物娘は世に広まりはしたが、その風習が完全に認められている訳では無い。働きもせずにセックスしまくる人魔の番。彼女達には嫉妬と無理解から、心無い言葉が投げつけられる事もある。
当然僕も同じ立場だ。みゆきさんに全て面倒を見てもらって、日がな一日まぐわうか睦み合うかどちらかなのだから。みゆきさんは僕を救ってくれた。幸せになる事が出来た。たとえようもなく穏やかで安らかな日々だ。けれど人の世の流れからも完全に置いて行かれてしまった。この店にいると否応なく実感してしまう。
僕の心に差し込むほんの僅かな影。それをみゆきさんはいつも見逃すことは無い。労わる様に僕を抱きしめてくれる。包み込む蛇体の温かさが陽光の様に影を打ち消す。
「大丈夫ですよ…。将来は私達みたいに幸せな人達が、今よりずっと多くなっていますから…。」
「ほんとう?」
「ええ!本当です。みんな幸せです…。だからあーくんは何にも悲しむことは無いんですよ…。」
「ありがとうママ。自分でもめんどくさい奴だと思うけど、色々考えちゃって。」
頭を下げる僕にみゆきさんは微笑んでかぶりをふる。良く考えれば何の根拠もないみゆきさんの言葉だ。けれどいつもそう言われて僕は安心してしまう。半分寝ぼけながら身を委ねる僕を、みゆきさんは包み込むように受け入れてくれる。細胞の隅々まで染み入ってくるみゆきさんの体温。匂い。そして深い想い。みゆきさんと一つになった様な、そんな妄想に包まれた僕は眠りに堕ちて行った。
「あーくん。あーくん。そろそろ起きましょうね…。」
心地良い眠りを堪能している僕の耳朶に、澄みきった声が響いた。同時に体を優しく揺すられる。
「………っ。」
「おはようございます。気持ちよさそうにお休みで、起こすのは悪いと思ったのですけれど…。」
目を開けた僕の目の前には先ほどと同じ、みゆきさんの微笑みがあった。けれど、僕を無理やり起こしてしまったからだろうか。どことなく申し訳なさそうな声だ。
「もう日も落ちてしまいましたので。そろそろ帰ろうと思いまして。」
「ん………。」
僕は寝ぼけ眼でうなずく。ついで何気なく見た窓の外には、人通りが絶えない薄暮の街並みが広がっていた。すでに日は沈み残照も消え、空はすっかり紫色に染まっている。これから夜を迎え賑やかになるであろう歓楽街をネオンが彩っている。店の中も電球が灯り、優しいオレンジ色の中、人魔の番が睦み合っている。店にいるのはさっきまでのメンバーとほとんど変わりない。
僕は顔をそむけて俯いた。落日の光景は嫌いだ。
「あーくん。どうしました?」
「ううん。大丈夫。なんでもないよ…。」
異変に気が付いたみゆきさんが声をかけてくれた。僕は笑顔を見せてかぶりを振る。
でも…。この時間は苦しい。つらい。夏の夕景を見ると陰鬱になる。
僕はまたすぐにうなだれてしまう。
「あーくん…。」
「大丈夫。本当に大丈夫だから。」
なおも心配そうなみゆきさんに、僕は何度も同じ台詞を繰り返す。
僕が家族を亡くした時。あの時も夏の夕暮れ時だった。一緒に買い物行くか?父母にそう問われ即座に僕は断った。ちょうど一番多感で微妙な時期。親と一緒に出歩きたくは無かった。両親と話しをしたのはこれが最後になった。両親は交通事故に会い、物言わぬ姿となって帰ってきた。
その後も色々あったが、なんとか就職できた会社。その会社が潰れたのも夏の連休前、終業間際の事だった。連休前という事で、体に気をつけろとでも言うんだろう。そう思う社員全員の前で、社長は倒産と全員の一月後の解雇を告げ、深々と頭を下げた。働き始めた僕がやっと将来について考える余裕ができた頃だった。
人に言えばお前は弱いと怒られるのだろう。だが、この時僕を律していた何かが切れてしまった。前にも言った通り僕は人生に希望を失った。けれど死ぬ勇気を持つことも出来なかったから、酒とギャンブルで緩慢な死を選ぼうとしたのだ。
この時間になると嫌でも思い出してしまう。僕は夏の夕暮れが嫌いだ。
「昔の事思い出しちゃいました?でも、大丈夫。今はママがいますから!大丈夫!」
身を震わす僕をみゆきさんは抱きしめてくれる。幼児のようにすがりつく僕にそっとキスを繰り返し、癒すように背中を何度もさすってくれる。春の日差しのように柔らかい声でなだめてくれる。
「本当にいつもごめんね。ママ…。」
「あーくん。そんなことで謝ってはダメですよ…。ママはあーくんを護るのが当然なんですからね。むしろママのほうから護らせてとお願いしたいぐらいなんです。」
みゆきさんにはたびたびこの事で迷惑をかけている。申し訳なくて頭を下げる僕だったが、心配するように笑っただけだった。本当にいつもみゆきさんには救われている。例えようもない温かさで僕を包み込んでくれている。これからもずっとみゆきさんに抱きしめられていたい。「子供」として安らかに過ごしていきたい。
いまではすっかり当たり前になった僕たちの二人の穏やかな日々。でも、そんな当たり前がいつまで続くのか………。
家族を失う前は父母と過ごす日々が当たり前だった。会社が潰れるまでは毎日出勤する日々が当たり前だった。でも、その当たり前の日々は、今では僕の思い出の中にしか存在しない。当たり前の日常は当たり前のように終わりを告げる。永遠なものなんてない。みゆきさんと母子として過ごす日々もいつかは終わりを告げる………。
「ママ…。これからもずっと一緒だよね。」
憂いと無常の想いに襲われた僕はみゆきさんに哀願してしまう。なぜか寒い。先ほどから体の震えが止まらない。みゆきさんは僕を温めるかのように抱擁を強める。
「ね。あーくん。あーくんはもう何も苦しむことなんかないんですよ。大丈夫。何も心配しないで。私だけを見てください。」
優しく語りかけるみゆきさん。深い憐みの色を湛えた微笑みで。僕はみゆきさんを見つめた。いつものように宝石のような、吸い込まれるような深紅の宝石…。そう思った瞬間、彼女の右手がきらめいた。青白く光り輝き、燃え上がる炎のように揺らめく。みゆきさんは右手を僕にそっとあてた。
「あっ………。」
僕に当てられたみゆきさんの綺麗な手。そこから流れ込んできたのは、真夏なのに冷え切って震えが止まらない、そんな僕に染み入る穏やかで温かな力の流れだった。力はたちまち全身に行き渡り、体だけではなく心の奥底にも浸透した。虚無と寂寥感で満ちていた僕の心に、みゆきさんのぬくもりを優しく上書きしていく。
みゆきさんは僕に魔力を入れてプレイするのが大好きだ。魔力が体に注ぎ込まれる感触は良くわかっていた。メスに向ける強烈な性欲と万能感。激流のような凄まじい気持ちの高揚感を伴う。それが今まで全く感じた事が無い、温かいせせらぎの様な魔力の流れだった。甘く柔らかく染み入るような感覚に、僕は思わず喘ぎ声をあげていた。
全身がみゆきさんで満ちていく。悲しく嫌な気持ちは追い払われて、みゆきさんの愛情だけが満ちていく。安らぎを取り戻した僕は、知らぬ間にみゆきさんに微笑んでいた。
「よかった…。大丈夫みたいですね。あーくん。」
みゆきさんは僕の様子を見て、胸が晴れたかの様に表情を和らげた。僕の真正面から向き合い、落ち着かせるように両肩に手を置くと、諭すように語りかける。
「ね。あーくん。よく聞いてください。可愛いわが子のそばからママがいなくなるなんて事はありませんからね。もちろん時が経てば、私たちも天国にいらっしゃるあーくんのご家族のもとに行くことになるでしょう。でもその時だってママはあーくんから離れません。ママとあーくんは二人で、天国のお義父さんとお義母さんの所にご挨拶に伺うんですから…。」
「………っ。す、すごいねママ。」
嬉しいんだけれど、あまりに突拍子もないことを言い出したみゆきさん。僕はつい吹き出してしまう。
「まあ。あーくんはママが妄想吹いていると思っているんですね…。」
「まさか。そんな訳…。」
「いいえ。そんなこと言ってもダメですよ!あーくん。ママが今まで嘘ついたことありましたか?」
みゆきさんは僕の様子に少しむっとした様子だ。相変わらず真正面から僕を見つめて詰問する。
透明感あふれる声が耳に心地良い。
「ううん。無いよ。」
「それじゃあママが今まであーくんとの約束破ったことありましたか?」
「それも無いよ。」
「今回も同じですよ。ママはあーくんと未来永劫一緒です。それは間違いのないことなんですよ。安心してくださいね!」
みゆきさんは胸を張って言う。自信満々な様子を見ていると僕も疑うことなく信じてしまう。これも全く根拠がない言葉なんだけれど、なぜかその信頼感が心地よい。でも、みゆきさんは白蛇だ…。僕の知らない所で、妖しい魔術を色々習得しているのかもしれない。永遠に僕たちが離れられなくなるような…。まあでも、みゆきさんと一緒ならそれは当然大歓迎だ。
みゆきさんの言葉に力づけられた僕は、そのまま蛇体の抱擁に身を任せ続けていた。大船に乗ったような安心感と心地よさ。だが、みゆきさんはなぜかひとつ咳払いをして真剣な眼差しになる。急に空気が重くなったようで、知らぬ間に僕の顔が曇る。
「最近ではすっかり忘れているようですけど…。ママはあーくんのママですけれど、同時にお嫁さんでもあるんですよ。あーくんこそママを…お嫁さんを放ってどこかに行ったら、本気で怒っちゃいますからねっ…。」
叱るような声音で念押しするみゆきさんだ。蛇体の締め付けもぎゅうっと強まってくる。僕は慌てて首を振って否定した。
「ま、まってよママ!そんな事、絶対にある訳ないよ!僕はもうママから離れられないんだ!ママだってそれは分かっているでしょ…。」
動揺する僕がおかしかったのだろう。みゆきさんは突然ぷっと吹き出した
「ええ。わかっていますよ。ちょっと言ってみただけですから。あーくんがそんな事しないって事はママが一番よくわかっています!」
何度も首を振って否定する僕を見て、みゆきさんはころころと笑っている。朗らかな様子を見れば、からかわれただけとも思うけど…。でも妙に視線が強かったような…。僕の心にほんの少しだけ生じるしこりみたいな感情。みゆきさんはすぐに気が付いて慰めてくれた。
「あらっ?そんなにママが怖かったですか?ごめんなさいねあーくん。ただの冗談ですよ。大丈夫!なにも怖くないですからね。よしよし…。」
「もう。ママったら…。」
みゆきさんはがらりと表情を変える。いつもの愛慕の情を込めた眼差しで僕を見つめると、ぎゅっと胸に抱いてくれる。騒ぎかけた僕の心を落ち着かせる様に何度も愛撫してくれる。
「ほんとうにごめんなさいね。でもママだったらあーくんが嫌だな〜って思う全ての事からあーくんを護る事が出来るんですからね。ママだったらあーくんを幸せにできるんですからね。ママだけはいつだってあーくんの味方なんですからね。ママはあーくんの望むことだったらなんでもしますからね。ママはあーくんの身の上を聞いて決心したんです。この子にはお嫁さんよりもママのほうが必要なんだって。だから私がママになろうって。ママになればこの子を護ってあげられるって。私がママになればあーくんを幸せにできるって。あーくんとママでずっと幸せに暮らすことができるって。だからあーくんはいつまでもママの子供でいてください。あーくんとママの間に子供ができてもあーくんはママの子供でいてください。ずっとママが愛するママを愛する子供でいてください。お願いしますね。あーくん………」
みゆきさんは僕の耳元でしんみりと囁き続ける。とろけるような柔らかい声で語り続ける。哀願するような、それでいて渇望するような、胸が張り裂けそうな想いを込めて。いつも僕を包み込むみゆきさんの蛇体の様に愛情深く、それでいて絶対に離さない魔性の声で。
みゆきさんの妄執ともいえる深い愛だったが、僕は思わず歓喜の涙を流していた。嬉しくて蛇体にすがりつくと、みゆきさんも目を細めて抱擁を強めてくれる。僕はみゆきさんの温かさだけを感じていた………
「ごめんなさいあーくん。すっかり遅くなっちゃいましたね…。そろそろ出ましょうか。」
「そうだね…。」
あれからみゆきさんに抱きしめられて恍惚としていた僕だったが、ようやく正気を取り戻した。みゆきさんも、やりすぎちゃったかな。と僕を気遣うような表情だ。僕は大丈夫だよと笑顔を見せた。だって、みゆきさんに身も心も包み込まれる事は、いつだって至福の喜びだから…。
「それじゃあ…はいっ!」
「あ。うん…。」
みゆきさんは僕を見てほっとしたように手を差し伸べる。僕も当然のように、繊細で透き通るようなみゆきさんの手を取った。その途端きめ細やかで柔らかい手の感触が広がり、じんわりと温かさが伝わる。甘く切ないものが心に満ちた。
僕とみゆきさんは手をつなぎ合って店を出た。ありがとうございましたという店員の声と、相変わらず睦み合う人魔のカップル達を背にする。外に出ると、柔らかなオレンジ色の光が窓から漏れ出して、夜闇を幻想的に染めている。夏のむっとする空気の中、僕たちは気が抜けたようにその光景を見つめた。
「さて!愛しの我が家に帰りましょう!」
気持ちを切り替えるように、みゆきさんはおどけた様子で微笑んだ。
僕たちは相変わらず手をつなぎ合って歩いている。周りは歓楽街の煌びやかな灯りに引き寄せられた人と魔の群れ。賑わう街並みは独特の熱気が満ちているが、僕たちの間には不思議とそれは伝わってこない。ねっとり纏わりつくようなみゆきさんの気配が僕たちを包み込んでいる。すっかり馴染んだみゆきさんの空気感が心地よい。僕とみゆきさんはお互いを見つめて笑いあった。
「ふふっ。どうしましたか。あーくん?」
「ん?いつもママは綺麗だな〜って。」
「もう!この子ったら…。でも、ありがとうございます。あーくん。」
すっかり気持ちも晴れて軽口を叩く僕。みゆきさんも嬉しそうだ。なおも何か言いたそうに口を開きかけたが、しばらく僕を見つめたのちに恥ずかしそうに俯いた。やがてゆっくりと顔を上げたみゆきさんは、照れ隠しする様に訥々と言った。
「ねえ、あーくん。この後…お夕飯、何が食べたいですか?」
何かを訴えたいような濡れたみゆきさんの眼差しだ。深紅の瞳に僕は見入ってしまったが、やがて呆けたように言葉を発した。
「う〜ん………。刺身。お刺身がいいかな。」
みゆきさんは僕を見て悪戯っぽく笑うと、はしゃぐように問いかけてきた。
「お刺身ですか?もう遅くなっちゃいましたからねえ…。良さそうなのがあればいいんですけれど。とりあえずスーパーに寄ってみましょうか?」
「そうだね。ママ。」
僕はみゆきさんの体温を感じたくて、温かい手をそっと握りしめる。みゆきさんは優しく笑ってくれると、ぎゅっと手を握り返してくれた。
僕たちは家路を急ぐ。夜の街灯りの中、二人手をつなぎ合って。
これからもずっと一緒に生きていこう。みゆきさん…ママと一緒に。
24/01/02 19:06更新 / 近藤無内
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