第9章 お姉ちゃん襲来! 4
有妃の問いかけに姉は一瞬ぽかんとした表情をした。
「う、うぃる…うぃぷす?」
「ええと…。ウィル・オ・ウィスプですね。」
とぼけたように言う姉に有妃はそっと訂正する。ふみ姉はしばらくうーんと呻いていたが、やがて困った様に笑った。
「え………。なんだっけ…。ごめんなさい有妃さん…。名前忘れちゃいました…。」
「そ、そうですか…。」
思わぬ答えに有妃も力が抜けたようにつぶやいた。
「えへへ…。もちろん種族名は教えてもらったけど、言いにくい名前だったから忘れちゃったの…。あ、でも魔物娘図鑑に載っていたイラストは覚えているわよ。わたしがなった種族の。」
ふみ姉はばつが悪そうに語り続ける。恥ずかしい所を見せてしまった、と言いたそうな様子だ。重苦しい空気が解けて行くのを感じた俺は、ほっと一息つく。
「ふみ姉ちょっと待って。図鑑ならあるから持ってくるよ。」
「あ、ごめんねゆうくん。」
図鑑を持ってきた俺は、ウィル・オ・ウィスプのイラストが載っているページを開いた。イラストのウィスプは不敵な笑みを浮かべていた。強烈な意志を感じさせる眼差しが、凄絶な美しさを際立たせている。
図鑑のウィスプは何度も見ていたが、穏やかで儚げなふみ姉の美しさとは対照的だ。それなので、まさか姉がウィスプになっていたとは想像出来なかった。俺はページを指し示した
「ふみ姉これかな?」
「あ〜。そう!これこれ!…私を魔物にしてくれたお姉さんが、好きな男を縛り付けておく力が欲しいならこの種族がいいよ。って言ってくれて…」
ふみ姉は身を乗り出して図鑑を眺めている。興味深そうな様子だが…どうも話が読めない。魔物にしてくれたお姉さん?そもそも人間をウィスプに出来る魔物がこの近所にいるのだろうか?
人間の女性が魔物になるのには、本当なら面倒な手続きを取る必要がある。その後に魔界の大使であるリリムその人の手で魔物化されるのだ。だが、不思議な事に違反しても罰則も何もないため、なろうと思えば簡単に魔物になる事が出来る。
もちろんそうなると、なれる種族はサキュバス等限られたものになってしまう。ウィスプになろうと思えばリリムの手で魔物化される以外に無いと思うのだが…。
それでは、わざわざ魔界の大使館に赴いて魔物になったのか?色々疑問が抑えきれない俺は姉に聞いてみた。
「あの…ちなみにふみ姉は大使館のリリムに会って魔物化されたの?」
ふみ姉は良く分からないなあと言いたそうに首を左右に振る。
「ん〜。お姉ちゃんはゆうくんみたいに魔物の事詳しくないから良く分からないなあ…。魔物カフェの厨房にいる魔物さんにしてもらったんだけど…。」
「え…あの店で魔物化?」
「うん。そうだよ。有妃さんみたいに白い髪で赤い目のすごく綺麗な魔物さんにだよ。
あ…白蛇さんじゃなくて見た目はサキュバスみたいだったけど…。」
俺と有妃は目を見合わせた。有妃みたいに、白い髪で赤い目のサキュバス。それに人間を魔物化できる魔物といったら、リリム以外に思いつかない。あの店の厨房でリリムが働いているなんて信じられないが…。ともかく姉がそう言うのだからそうなのだろう。そのへんの細かい事はまあいい。
「それでね。その魔物のお姉さんに、魔物になってなにがしたいの?って聞かれたから、わたしは好きな人とずっと一緒に居たい。生涯捕まえていたい。って答えたの。そうしたらウィスプか白蛇をお勧めするけど?って教えてくれて…」
姉が語っている途中だったが、有妃がこれは驚いたといわんばかりに割り込んできた。
「まあ!白蛇ですか!でも、お義姉さんを同族としてお迎えできなくて本当に残念です…。」
「そうなんですよ…。私はっ…あ…このドレス。イラストの黒いドレスが一目で気に入ってしまって…。本当にいい加減な理由で選んでしまったんですよね。」
「へえ〜。成程…。確かに素敵なドレスですよねえ…。」
姉の口調が心持ぎこちなくなったが、すぐに元通りの滑らかさを取り戻す。そしてほんの一瞬、俺に対して言わないでと懇願する様な視線を送ってきた。
その理由はなんとなくわかる。実は…魔物化する以前のふみ姉は昆虫とか爬虫類が結構苦手だったのだ。魔物になるとしても蛇の、爬虫類系のラミア属は避けたかったのかもしれない。
うっかりその事を話しそうになってしまったが、ラミア属の有妃を不快にさせたくはない。それで慌てて嘘の理由を言ったのだろう。
姉はどことなく詫びるような顔つきでお茶を一口飲んだ。有妃も妙に意味深な表情をしている。いや。これは気にしすぎなのかもしれないが…。
一瞬不安がよぎる。だが有妃はそれ以上言葉を挿まず、ふみ姉に続きを促した。
「お義姉さんごめんなさい…。口を挿んでしまって。」
「あ、いえ…。で、その魔物のお姉さんには大変親切にして頂いて…。わたしを魔物化するときも、とても優しく気持ち良くしてくれたの。
わたしあまりにも素晴らしくて感激しちゃったから、これからはお姉さんって呼んでいいですか?って聞いたら快く承知してくれて………」
どうやら旦那の事が忘れられないふみ姉は、自分を助けてくれた刑部狸のオーナーに相談したらしい。色々話し合った結果、オーナーは自分の店で働いているリリム?に魔物化してもらう事を提案した。結果、それを姉が受けた様なのだ。
姉は夢見る様に語り続けている。幸せそうで心からよかったと思う。思うのだが、正直一抹の不安が残る。
話題になる事は無いが、過激な魔物は人間女性を魔物化する事を厭わないものだ。もし姉自ら望んで魔物になったというのなら全く問題ない。だが、苦しみのあまり魔物にならざるを得なかったのならば…姉の力になれなかった事が口惜しい。
心に満ちつつある思いが抑えきれずに、言葉になって口から出てきてしまう。
「ふみ姉ちゃん。本当に大丈夫?」
ふみ姉はそんな事心配しないでもいいのに?と言いたそうに俺を見た。
「あのね。ゆうくんが気にしている事はなんとなくわかるけど。さっきも言ったでしょ?お姉ちゃんは自ら望んでこの姿になったんだよ?
わたしが人間の時はあの人と心からつながる事は出来なかった。魔物になってやっとお互いに想いあう関係になれたの…。
今は毎日がとっても愉しい!なんでもっと早くならなかったんだろう。って思っているぐらいなんだよ。」
ふみ姉は俺を優しくたしなめる様に語りかけた。相変わらずうっとりとした眼差しだ。何のわだかまりも後悔も無い様子。本当にこうなれて喜んでいるのが伝わってくる。
それならば、俺もつまらない事を気にせず祝福するだけだ。これ以上言うのは姉に対する侮辱だろう。
「そう…。ふみ姉が幸せになれて本当に良かったよ。あの…今さらこんな事言うの変だけど、おめでとう…。」
「うふふっ。ありがとう!ゆうくんがそう言ってくれて嬉しいよっ!」
ゆうくんは何も心配する事は無いんだよ…ふみ姉はそう言うと華やかで、それでいて淫らに蕩けるような笑顔を見せた。
「有妃さんならわかりますよね。本当に魔物って素晴らしいですねえ…大切なひとと心から一つになって、すべてを忘れて蕩けあって…それがこんなに素敵な事だったなんて…。」
「はいっ!もちろんですとも!私も佑人さんと一緒の時間が何よりも愛おしいです…。でも…旦那さんがお義姉さんを素直に受け入れて下さったようで、本当に良かったですね…。」
恍惚としたふみ姉の空気に影響されたのか、有妃も随分興奮してきている。だがそんな有妃の言葉を聞いて姉は少し渋い顔をした。
「それがですねえ…。聞いて下さいよ有妃さん!うちの人ったら酷いんですよ!魔物になってあの人に会いに行ったら、わたしの事悪霊とか化け物とか散々怒鳴り散らして…。」
「まあ!それは本当ですかっ!」
「ええ!挙句の果てには塩をまいたりお経を読んだり訳の分からない呪文を唱えたり…。」
魔物化した姉は喜び勇んで旦那のもとに行った。道案内するかのように香しい匂いが漂い、行き先を迷わず教えてくれたそうだ。だが、魔物化した姉の来訪は旦那にとって思いも寄らぬ事だったらしい。
落ち着いてお話しよう。今までの事は水に流すから仲直りしよう。そう必死に訴える姉に対し旦那は半狂乱になったようだ。
先ほどのように強い怒りが俺の心に満ちる。だがふと思う。旦那に少しでも罪悪感が、やましさがあったからこそ、姉にそんな態度を取ってしまったかのかな、とも…。
「お義姉さん、それはつらかったですねえ…。でも悲しい事ですけれど、人間の方はそういう所ありますよねえ…
私の同族の先輩も、幼馴染に正体を明かしたら化け物呼ばわりされた様ですし。私も社会人だったころは白蛇だと言う事を隠していました。」
有妃は同情するように悲しく微笑むとため息を着く。その様子を見て俺は有妃と初めて会った時、傷つけるような事を言ってしまった事を思いだした。
ふみ姉も恥じ入る様な表情で俯いたが、先ほど有妃を不快にするような事を言いそうになった事を思っての事だろうか。
俺達が偉そうに言う資格は無い…。俺とふみ姉の顔は強張る。だが、急に重くなった空気を察した有妃は、慌てたように明るく振る舞った。
「ええと…そんな旦那さんをどうやって堕としたんですか?いったいどんな素敵な事しちゃったのかすごい興味があります!」
途端に姉は顔をほころばした。
「うふふふっ…。散々言ってもわかってくれない悪い旦那様には…お し お き しちゃいましたよ〜。」
「ええ〜っ!?おしおきですかあ!?まさかお義姉さんがとは思いましたが、そうきましたか!」
『おしおき』とわざわざ強調したふみ姉はにやりと笑った。有妃も興味津々の様だ。たちまち目に嗜虐的な光が帯びる。
「ええと有妃さん…。このSNSはご存知ですよねっ?」
喜んだ姉はポケットからスマホを取り出すと、とあるサイトを開いた。
「ああ〜。」
「有名ですよねえ。」
俺と有妃はうなずく。
そこは魔物か番の男しか閲覧できない秘密のSNS。一体どんなセキュリティを施してあるのだろうか。ただの人間は絶対に見る事は出来ないし、その存在を知られる事もないという。有妃と一緒になる前は、俺も噂にすら聞いたことが無かった。ちなみに企業家として名高い某刑部狸の名前が運営者として記されている。
魔物達の絶大な支持を得ているこのSNS。無論人魔の夫婦が馴れ初めと言うか、犯し犯される仲になったというべきか、その経緯を語るコミュニティもある。
その『魔物娘被害報告』と名付けられたページを姉は見せた。
「私も知ったのは魔物になってからだけれど…ここってすごいねえ…。男のひとが魔物さんにあんな事やこんな事されちゃう話が延々載っていて。ここを随分と参考にしたんですよぉ…。」
「ああ!ちょっと待ってくださいっ!ええと……ここはいいですよねえ。私も独り身の時に随分読んで己の身を慰めたものです。」
有妃も自分のスマホを開いて、思い詰めたような興奮した目で読んでいる。実際俺と有妃も、一緒にここを見て興奮して抱き合ったり、まぐわったり色々しているのだ。
「ですよね!有妃さんもそう思いますよね…」
「ええ!…」
ふみ姉と有妃はきゃっきゃうふふとおしゃべりしている。
白い髪と蛇体。真紅の瞳の有妃…。蒼色の肌と髪。漆黒のドレスのふみ姉…。両者対照的だが、共に人外としての神秘的な魅力に溢れている。その二人がスマートフォンを眺めながら、人間の少女のように楽しく語らっているのだ。
妙にアンバランスと言うか不自然だけど…でも可愛い。俺は明らかに有り得ない食べ合わせが意外に美味しかった時の様な、そんな表情で二人を眺める。
「ゆうくぅん。今変な事考えたでしょっ!」
俺の複雑な思いに気が付いたふみ姉は目を細めてからかってきた。
「いや…そんなことある訳無いよ!」
「駄目だよぉ。お姉ちゃんはゆうくんの考えている事は全部お見通しなんだからっ!」
慌てる俺の言う事を聞かずに姉は畳み掛けてくる。その言葉に心から同意すると言う様に有妃も大きくうなずいた。
「そうですよねえ。佑人さんは考えていらっしゃることが全部顔に出ますから…。」
「ああ〜。有妃さんもわかりますか。佑人は昔から嘘が付けない子で…。」
「ふふっ。そこがまた佑人さんの可愛い所なんですけれど。」
「ごめんなさいね有妃さん。佑人が失礼な事を考えているのがわかっても、許してやって下さいね…。」
「ふ、ふたりとも…もうやめてよ…。」
姉と有妃はますます親しげに語り合うと微笑んだ。先ほどの様に暖かな、というか生暖かい眼差しに、俺は恥ずかしげにぼそぼそ言うしかなかった。
俺の反応を見て満足した様にうなずくと、ふみ姉は言葉を続けた。
「そう。それでね。このSNSでいろんなことを勉強して…旦那さまにおしおきして、わたしの想いをわかってもらったの…。」
「おしおき…わかって…もらった?」
おしおきと言ったが、魔物化してまで旦那を繋ぎ止めようとする姉だ。ただのおしおきでは無い…。妙な胸騒ぎが抑えきれない。
「そうだよお…。ゆうくんには『 調 教 』したって言った方がわかりやすいかなあ?」
俺の動揺を察したかのように、ふみ姉は言葉を強調する。いつしか青白い光が姉を包み、先ほどの様な鋭い笑みを浮かべていた。蕩けるような、それでいて怖い眼差しが俺を射竦める。
「ち、調教ですかっ!ちなみにどんな事をされたのですかっ?」
有妃も甘ったるくねっとりとした声で続きを促した。
「うふふふふっ…。何度言ってもうちの人は聞いてくれないから、まずは無理矢理に、数えきれないほど犯してあげたの。私といればこんなにも気持ち良くなれるよって教えてあげたんです…。まあ、わたしもあの人の精が美味しすぎて止められなかったんですけれど。」
「ですよねお義姉さん…。やっぱりそれが基本ですよねえ。」
「それで仲直り出来れば終わりにしたのですが…。以外にもうちの人意志が強くて、化け物にこんな事されて負けるわけにはいかないっ。て私をにらむんですよ。まあ、カッコ良くて惚れ直しましましたけど…。」
あの時は本当に素敵でした。姉はそう言うと恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、そうは言っても私も今までの事が、正直腹に据えかねていた事もあって…。だったらあの人の心から、私以外のものが消えるまで好きにしてやろう。って、心が折れるまで滅茶苦茶にしちゃいました!」
恐ろしい言葉とは対象的に、ぱあっと華やかに笑うふみ姉…。一見したところ素敵な笑顔なのだろうが、それが逆に背筋が震えるような寒さを覚える。
「それでですね………」
その後も姉は旦那を徹底的に犯しぬいたが…決して射精させない快楽を送り続けた。
彼自らの口で何度も哀願するようになっても、錯乱状態になるまで寸止めを続けたそうだ。
旦那が正気を取り戻すと今度は逆に延々と精を絞り続けた。気絶しても無理やり叩き起こして気の遠くなるぐらい搾り続けたらしい。
「うふふっ。他にもお尻とかおしっこの穴を開発して、無理やりお漏らしさせたりとか、ずうっとくすぐりつづけたりとか。耳の穴やおへそでイクようにしてあげたりだとか…
意地っ張りだった旦那さんが、最終的にはごめんなさいごめんなさいって繰り返すだけになっちゃって…。とっても可愛かったですよぉ…。」
「お義姉さん…やりましたねぇ…。」
「あ…もちろんそこで許してあげましたよ!本当は一日中わたしの介護が必要なほど、確実に壊しちゃおうかと思ったのですが…。
不思議ですね。これ以上やってはいけない!って心の中でブレーキが掛けられて。旦那さんが無性に可哀そうになってしまって。これも魔物になった故のことなんでしょうか?
これで終わりにするから、わたしと仲直りしてくれるかな?って旦那さんに言ったら、ふふっ。彼、可愛いんですよ。わんわん大泣きしてわたしに抱き着いてきて、わたしが頭を抱いてよしよししてあげたら、もうすっかりめろめろになってくれて………」
姉は立ち上がると我を忘れたかのように夢中になって語り続ける。声は響き渡り視線は宙をさまよっている。だが、それは人を痛めつける喜びに、加虐的な愉悦に溢れている。姉を包む青白い炎は激しく燃え上がり、部屋の隅々まで埋め尽くした。
炎に揺れる蒼いロングヘア…。ぎらりと鈍く輝く眼差し…。人を心底から引き付け、それでいて震え上がらせるような魔性の声音…。
望みを叶え美しい亡霊となったふみ姉。
ああ…やっぱり変わってしまったなんだな…。俺はふみ姉を遠い眼差しで見つめた。
以前は生き物を傷つけたり、痛めつけたりするような事を、なにより嫌ったふみ姉だった。虫が苦手なのに害虫を殺す事も嫌っており、殺さないで外に逃がしてあげて、と頼まれては困ったものだ
ほとんど菜食主義に近い生活をしていたふみ姉だった。菜食主義でも結局植物の命を奪っているのでは?という俺の小賢しい問いに、何日も考え込むような繊細な姉だった。
それが今では己の愛する人を、心から想う人を責め虐げる喜びに浸っている…。
もちろん俺はふみ姉の旦那は大嫌いだ。ざまあみろと思う気持も強い。でも何と表現して良いのだろうか。無性に重いものが心に溜まって行く。
良い悪いの問題じゃない。
わかっている。これが魔物の姿。本能に忠実な姿だ。
それを否定できるほど人間は立派な生き物じゃない。その事も良く分かる。
今の姉を喜んで受け入れる。その思いにも変わりは無い。
でも、ふみ姉が昔と変わってしまった事。その切なさはどうしても抑えることが出来ない。
ふみ姉と有妃は恍惚とした表情で語りあっている。互いに人間の男を食らう悦びを隠す事は無い。半ば呆然として淫虐で麗しい姿を見つめ続ける俺…。だが、それに気が付いた姉は顔を歪ませて俯いた。
「やっぱりこの姿をゆうくんに見せるんじゃ無かったかな………」
「う、うぃる…うぃぷす?」
「ええと…。ウィル・オ・ウィスプですね。」
とぼけたように言う姉に有妃はそっと訂正する。ふみ姉はしばらくうーんと呻いていたが、やがて困った様に笑った。
「え………。なんだっけ…。ごめんなさい有妃さん…。名前忘れちゃいました…。」
「そ、そうですか…。」
思わぬ答えに有妃も力が抜けたようにつぶやいた。
「えへへ…。もちろん種族名は教えてもらったけど、言いにくい名前だったから忘れちゃったの…。あ、でも魔物娘図鑑に載っていたイラストは覚えているわよ。わたしがなった種族の。」
ふみ姉はばつが悪そうに語り続ける。恥ずかしい所を見せてしまった、と言いたそうな様子だ。重苦しい空気が解けて行くのを感じた俺は、ほっと一息つく。
「ふみ姉ちょっと待って。図鑑ならあるから持ってくるよ。」
「あ、ごめんねゆうくん。」
図鑑を持ってきた俺は、ウィル・オ・ウィスプのイラストが載っているページを開いた。イラストのウィスプは不敵な笑みを浮かべていた。強烈な意志を感じさせる眼差しが、凄絶な美しさを際立たせている。
図鑑のウィスプは何度も見ていたが、穏やかで儚げなふみ姉の美しさとは対照的だ。それなので、まさか姉がウィスプになっていたとは想像出来なかった。俺はページを指し示した
「ふみ姉これかな?」
「あ〜。そう!これこれ!…私を魔物にしてくれたお姉さんが、好きな男を縛り付けておく力が欲しいならこの種族がいいよ。って言ってくれて…」
ふみ姉は身を乗り出して図鑑を眺めている。興味深そうな様子だが…どうも話が読めない。魔物にしてくれたお姉さん?そもそも人間をウィスプに出来る魔物がこの近所にいるのだろうか?
人間の女性が魔物になるのには、本当なら面倒な手続きを取る必要がある。その後に魔界の大使であるリリムその人の手で魔物化されるのだ。だが、不思議な事に違反しても罰則も何もないため、なろうと思えば簡単に魔物になる事が出来る。
もちろんそうなると、なれる種族はサキュバス等限られたものになってしまう。ウィスプになろうと思えばリリムの手で魔物化される以外に無いと思うのだが…。
それでは、わざわざ魔界の大使館に赴いて魔物になったのか?色々疑問が抑えきれない俺は姉に聞いてみた。
「あの…ちなみにふみ姉は大使館のリリムに会って魔物化されたの?」
ふみ姉は良く分からないなあと言いたそうに首を左右に振る。
「ん〜。お姉ちゃんはゆうくんみたいに魔物の事詳しくないから良く分からないなあ…。魔物カフェの厨房にいる魔物さんにしてもらったんだけど…。」
「え…あの店で魔物化?」
「うん。そうだよ。有妃さんみたいに白い髪で赤い目のすごく綺麗な魔物さんにだよ。
あ…白蛇さんじゃなくて見た目はサキュバスみたいだったけど…。」
俺と有妃は目を見合わせた。有妃みたいに、白い髪で赤い目のサキュバス。それに人間を魔物化できる魔物といったら、リリム以外に思いつかない。あの店の厨房でリリムが働いているなんて信じられないが…。ともかく姉がそう言うのだからそうなのだろう。そのへんの細かい事はまあいい。
「それでね。その魔物のお姉さんに、魔物になってなにがしたいの?って聞かれたから、わたしは好きな人とずっと一緒に居たい。生涯捕まえていたい。って答えたの。そうしたらウィスプか白蛇をお勧めするけど?って教えてくれて…」
姉が語っている途中だったが、有妃がこれは驚いたといわんばかりに割り込んできた。
「まあ!白蛇ですか!でも、お義姉さんを同族としてお迎えできなくて本当に残念です…。」
「そうなんですよ…。私はっ…あ…このドレス。イラストの黒いドレスが一目で気に入ってしまって…。本当にいい加減な理由で選んでしまったんですよね。」
「へえ〜。成程…。確かに素敵なドレスですよねえ…。」
姉の口調が心持ぎこちなくなったが、すぐに元通りの滑らかさを取り戻す。そしてほんの一瞬、俺に対して言わないでと懇願する様な視線を送ってきた。
その理由はなんとなくわかる。実は…魔物化する以前のふみ姉は昆虫とか爬虫類が結構苦手だったのだ。魔物になるとしても蛇の、爬虫類系のラミア属は避けたかったのかもしれない。
うっかりその事を話しそうになってしまったが、ラミア属の有妃を不快にさせたくはない。それで慌てて嘘の理由を言ったのだろう。
姉はどことなく詫びるような顔つきでお茶を一口飲んだ。有妃も妙に意味深な表情をしている。いや。これは気にしすぎなのかもしれないが…。
一瞬不安がよぎる。だが有妃はそれ以上言葉を挿まず、ふみ姉に続きを促した。
「お義姉さんごめんなさい…。口を挿んでしまって。」
「あ、いえ…。で、その魔物のお姉さんには大変親切にして頂いて…。わたしを魔物化するときも、とても優しく気持ち良くしてくれたの。
わたしあまりにも素晴らしくて感激しちゃったから、これからはお姉さんって呼んでいいですか?って聞いたら快く承知してくれて………」
どうやら旦那の事が忘れられないふみ姉は、自分を助けてくれた刑部狸のオーナーに相談したらしい。色々話し合った結果、オーナーは自分の店で働いているリリム?に魔物化してもらう事を提案した。結果、それを姉が受けた様なのだ。
姉は夢見る様に語り続けている。幸せそうで心からよかったと思う。思うのだが、正直一抹の不安が残る。
話題になる事は無いが、過激な魔物は人間女性を魔物化する事を厭わないものだ。もし姉自ら望んで魔物になったというのなら全く問題ない。だが、苦しみのあまり魔物にならざるを得なかったのならば…姉の力になれなかった事が口惜しい。
心に満ちつつある思いが抑えきれずに、言葉になって口から出てきてしまう。
「ふみ姉ちゃん。本当に大丈夫?」
ふみ姉はそんな事心配しないでもいいのに?と言いたそうに俺を見た。
「あのね。ゆうくんが気にしている事はなんとなくわかるけど。さっきも言ったでしょ?お姉ちゃんは自ら望んでこの姿になったんだよ?
わたしが人間の時はあの人と心からつながる事は出来なかった。魔物になってやっとお互いに想いあう関係になれたの…。
今は毎日がとっても愉しい!なんでもっと早くならなかったんだろう。って思っているぐらいなんだよ。」
ふみ姉は俺を優しくたしなめる様に語りかけた。相変わらずうっとりとした眼差しだ。何のわだかまりも後悔も無い様子。本当にこうなれて喜んでいるのが伝わってくる。
それならば、俺もつまらない事を気にせず祝福するだけだ。これ以上言うのは姉に対する侮辱だろう。
「そう…。ふみ姉が幸せになれて本当に良かったよ。あの…今さらこんな事言うの変だけど、おめでとう…。」
「うふふっ。ありがとう!ゆうくんがそう言ってくれて嬉しいよっ!」
ゆうくんは何も心配する事は無いんだよ…ふみ姉はそう言うと華やかで、それでいて淫らに蕩けるような笑顔を見せた。
「有妃さんならわかりますよね。本当に魔物って素晴らしいですねえ…大切なひとと心から一つになって、すべてを忘れて蕩けあって…それがこんなに素敵な事だったなんて…。」
「はいっ!もちろんですとも!私も佑人さんと一緒の時間が何よりも愛おしいです…。でも…旦那さんがお義姉さんを素直に受け入れて下さったようで、本当に良かったですね…。」
恍惚としたふみ姉の空気に影響されたのか、有妃も随分興奮してきている。だがそんな有妃の言葉を聞いて姉は少し渋い顔をした。
「それがですねえ…。聞いて下さいよ有妃さん!うちの人ったら酷いんですよ!魔物になってあの人に会いに行ったら、わたしの事悪霊とか化け物とか散々怒鳴り散らして…。」
「まあ!それは本当ですかっ!」
「ええ!挙句の果てには塩をまいたりお経を読んだり訳の分からない呪文を唱えたり…。」
魔物化した姉は喜び勇んで旦那のもとに行った。道案内するかのように香しい匂いが漂い、行き先を迷わず教えてくれたそうだ。だが、魔物化した姉の来訪は旦那にとって思いも寄らぬ事だったらしい。
落ち着いてお話しよう。今までの事は水に流すから仲直りしよう。そう必死に訴える姉に対し旦那は半狂乱になったようだ。
先ほどのように強い怒りが俺の心に満ちる。だがふと思う。旦那に少しでも罪悪感が、やましさがあったからこそ、姉にそんな態度を取ってしまったかのかな、とも…。
「お義姉さん、それはつらかったですねえ…。でも悲しい事ですけれど、人間の方はそういう所ありますよねえ…
私の同族の先輩も、幼馴染に正体を明かしたら化け物呼ばわりされた様ですし。私も社会人だったころは白蛇だと言う事を隠していました。」
有妃は同情するように悲しく微笑むとため息を着く。その様子を見て俺は有妃と初めて会った時、傷つけるような事を言ってしまった事を思いだした。
ふみ姉も恥じ入る様な表情で俯いたが、先ほど有妃を不快にするような事を言いそうになった事を思っての事だろうか。
俺達が偉そうに言う資格は無い…。俺とふみ姉の顔は強張る。だが、急に重くなった空気を察した有妃は、慌てたように明るく振る舞った。
「ええと…そんな旦那さんをどうやって堕としたんですか?いったいどんな素敵な事しちゃったのかすごい興味があります!」
途端に姉は顔をほころばした。
「うふふふっ…。散々言ってもわかってくれない悪い旦那様には…お し お き しちゃいましたよ〜。」
「ええ〜っ!?おしおきですかあ!?まさかお義姉さんがとは思いましたが、そうきましたか!」
『おしおき』とわざわざ強調したふみ姉はにやりと笑った。有妃も興味津々の様だ。たちまち目に嗜虐的な光が帯びる。
「ええと有妃さん…。このSNSはご存知ですよねっ?」
喜んだ姉はポケットからスマホを取り出すと、とあるサイトを開いた。
「ああ〜。」
「有名ですよねえ。」
俺と有妃はうなずく。
そこは魔物か番の男しか閲覧できない秘密のSNS。一体どんなセキュリティを施してあるのだろうか。ただの人間は絶対に見る事は出来ないし、その存在を知られる事もないという。有妃と一緒になる前は、俺も噂にすら聞いたことが無かった。ちなみに企業家として名高い某刑部狸の名前が運営者として記されている。
魔物達の絶大な支持を得ているこのSNS。無論人魔の夫婦が馴れ初めと言うか、犯し犯される仲になったというべきか、その経緯を語るコミュニティもある。
その『魔物娘被害報告』と名付けられたページを姉は見せた。
「私も知ったのは魔物になってからだけれど…ここってすごいねえ…。男のひとが魔物さんにあんな事やこんな事されちゃう話が延々載っていて。ここを随分と参考にしたんですよぉ…。」
「ああ!ちょっと待ってくださいっ!ええと……ここはいいですよねえ。私も独り身の時に随分読んで己の身を慰めたものです。」
有妃も自分のスマホを開いて、思い詰めたような興奮した目で読んでいる。実際俺と有妃も、一緒にここを見て興奮して抱き合ったり、まぐわったり色々しているのだ。
「ですよね!有妃さんもそう思いますよね…」
「ええ!…」
ふみ姉と有妃はきゃっきゃうふふとおしゃべりしている。
白い髪と蛇体。真紅の瞳の有妃…。蒼色の肌と髪。漆黒のドレスのふみ姉…。両者対照的だが、共に人外としての神秘的な魅力に溢れている。その二人がスマートフォンを眺めながら、人間の少女のように楽しく語らっているのだ。
妙にアンバランスと言うか不自然だけど…でも可愛い。俺は明らかに有り得ない食べ合わせが意外に美味しかった時の様な、そんな表情で二人を眺める。
「ゆうくぅん。今変な事考えたでしょっ!」
俺の複雑な思いに気が付いたふみ姉は目を細めてからかってきた。
「いや…そんなことある訳無いよ!」
「駄目だよぉ。お姉ちゃんはゆうくんの考えている事は全部お見通しなんだからっ!」
慌てる俺の言う事を聞かずに姉は畳み掛けてくる。その言葉に心から同意すると言う様に有妃も大きくうなずいた。
「そうですよねえ。佑人さんは考えていらっしゃることが全部顔に出ますから…。」
「ああ〜。有妃さんもわかりますか。佑人は昔から嘘が付けない子で…。」
「ふふっ。そこがまた佑人さんの可愛い所なんですけれど。」
「ごめんなさいね有妃さん。佑人が失礼な事を考えているのがわかっても、許してやって下さいね…。」
「ふ、ふたりとも…もうやめてよ…。」
姉と有妃はますます親しげに語り合うと微笑んだ。先ほどの様に暖かな、というか生暖かい眼差しに、俺は恥ずかしげにぼそぼそ言うしかなかった。
俺の反応を見て満足した様にうなずくと、ふみ姉は言葉を続けた。
「そう。それでね。このSNSでいろんなことを勉強して…旦那さまにおしおきして、わたしの想いをわかってもらったの…。」
「おしおき…わかって…もらった?」
おしおきと言ったが、魔物化してまで旦那を繋ぎ止めようとする姉だ。ただのおしおきでは無い…。妙な胸騒ぎが抑えきれない。
「そうだよお…。ゆうくんには『 調 教 』したって言った方がわかりやすいかなあ?」
俺の動揺を察したかのように、ふみ姉は言葉を強調する。いつしか青白い光が姉を包み、先ほどの様な鋭い笑みを浮かべていた。蕩けるような、それでいて怖い眼差しが俺を射竦める。
「ち、調教ですかっ!ちなみにどんな事をされたのですかっ?」
有妃も甘ったるくねっとりとした声で続きを促した。
「うふふふふっ…。何度言ってもうちの人は聞いてくれないから、まずは無理矢理に、数えきれないほど犯してあげたの。私といればこんなにも気持ち良くなれるよって教えてあげたんです…。まあ、わたしもあの人の精が美味しすぎて止められなかったんですけれど。」
「ですよねお義姉さん…。やっぱりそれが基本ですよねえ。」
「それで仲直り出来れば終わりにしたのですが…。以外にもうちの人意志が強くて、化け物にこんな事されて負けるわけにはいかないっ。て私をにらむんですよ。まあ、カッコ良くて惚れ直しましましたけど…。」
あの時は本当に素敵でした。姉はそう言うと恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、そうは言っても私も今までの事が、正直腹に据えかねていた事もあって…。だったらあの人の心から、私以外のものが消えるまで好きにしてやろう。って、心が折れるまで滅茶苦茶にしちゃいました!」
恐ろしい言葉とは対象的に、ぱあっと華やかに笑うふみ姉…。一見したところ素敵な笑顔なのだろうが、それが逆に背筋が震えるような寒さを覚える。
「それでですね………」
その後も姉は旦那を徹底的に犯しぬいたが…決して射精させない快楽を送り続けた。
彼自らの口で何度も哀願するようになっても、錯乱状態になるまで寸止めを続けたそうだ。
旦那が正気を取り戻すと今度は逆に延々と精を絞り続けた。気絶しても無理やり叩き起こして気の遠くなるぐらい搾り続けたらしい。
「うふふっ。他にもお尻とかおしっこの穴を開発して、無理やりお漏らしさせたりとか、ずうっとくすぐりつづけたりとか。耳の穴やおへそでイクようにしてあげたりだとか…
意地っ張りだった旦那さんが、最終的にはごめんなさいごめんなさいって繰り返すだけになっちゃって…。とっても可愛かったですよぉ…。」
「お義姉さん…やりましたねぇ…。」
「あ…もちろんそこで許してあげましたよ!本当は一日中わたしの介護が必要なほど、確実に壊しちゃおうかと思ったのですが…。
不思議ですね。これ以上やってはいけない!って心の中でブレーキが掛けられて。旦那さんが無性に可哀そうになってしまって。これも魔物になった故のことなんでしょうか?
これで終わりにするから、わたしと仲直りしてくれるかな?って旦那さんに言ったら、ふふっ。彼、可愛いんですよ。わんわん大泣きしてわたしに抱き着いてきて、わたしが頭を抱いてよしよししてあげたら、もうすっかりめろめろになってくれて………」
姉は立ち上がると我を忘れたかのように夢中になって語り続ける。声は響き渡り視線は宙をさまよっている。だが、それは人を痛めつける喜びに、加虐的な愉悦に溢れている。姉を包む青白い炎は激しく燃え上がり、部屋の隅々まで埋め尽くした。
炎に揺れる蒼いロングヘア…。ぎらりと鈍く輝く眼差し…。人を心底から引き付け、それでいて震え上がらせるような魔性の声音…。
望みを叶え美しい亡霊となったふみ姉。
ああ…やっぱり変わってしまったなんだな…。俺はふみ姉を遠い眼差しで見つめた。
以前は生き物を傷つけたり、痛めつけたりするような事を、なにより嫌ったふみ姉だった。虫が苦手なのに害虫を殺す事も嫌っており、殺さないで外に逃がしてあげて、と頼まれては困ったものだ
ほとんど菜食主義に近い生活をしていたふみ姉だった。菜食主義でも結局植物の命を奪っているのでは?という俺の小賢しい問いに、何日も考え込むような繊細な姉だった。
それが今では己の愛する人を、心から想う人を責め虐げる喜びに浸っている…。
もちろん俺はふみ姉の旦那は大嫌いだ。ざまあみろと思う気持も強い。でも何と表現して良いのだろうか。無性に重いものが心に溜まって行く。
良い悪いの問題じゃない。
わかっている。これが魔物の姿。本能に忠実な姿だ。
それを否定できるほど人間は立派な生き物じゃない。その事も良く分かる。
今の姉を喜んで受け入れる。その思いにも変わりは無い。
でも、ふみ姉が昔と変わってしまった事。その切なさはどうしても抑えることが出来ない。
ふみ姉と有妃は恍惚とした表情で語りあっている。互いに人間の男を食らう悦びを隠す事は無い。半ば呆然として淫虐で麗しい姿を見つめ続ける俺…。だが、それに気が付いた姉は顔を歪ませて俯いた。
「やっぱりこの姿をゆうくんに見せるんじゃ無かったかな………」
17/03/12 22:36更新 / 近藤無内
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