第1章 ある日の朝
冬の朝、眠りについていた俺に絡みつく体が離れる感触がした。布団の中の暖かな空気が動き意識が戻り始める。俺はもうそろそろ起きる時間なのかと目を開けた。
「…もう時間なの?」
「ごめんなさい。起こしちゃいました?まだ大丈夫ですよ。」
女は囁くようにそう言うと柔らかな笑みを見せる。
「後でちゃんと起こしてさしあげますからね。それまで寝ていて下さい。」
「…お願い。」
銀色と見紛うばかりの白髪と血の様な赤い瞳を持つその女は、俺の肩まで布団を掛け直すとぽんぽんと優しく叩く。たちまち俺は二度寝の心地よさに落ちて行った…。
心地よい時間はあっという間に過ぎ去るもので、俺は女に肩を軽く揺すられ目を覚ました。
「おはようございます。佑人さん、もう時間ですよ。」
「おはよう有妃ちゃん。……今日も寒いな。」
上体を起こした俺は思わず寒さに身を震わす。エアコンはまだ効いていない。吐く息は白く、窓はびっしりと結露している。暖かい布団からすぐには出たくない俺はそのまましばらくじっとしていた。
「もう…。仕方ない人ですねえ。そんな佑人さんにはこうしちゃいますよ。」
女、有妃はやれやれとでも言いたそうに微笑むと俺の体に絡みついた。上体を抱きしめると白く長い蛇の下半身を器用に巻き付ける。有妃の体温がじわじわ伝わってきてとても心地よい。
そう、有妃は人では無く魔物娘。白蛇と言う種族だ。寒い朝は彼女の長い蛇体で体を温めてもらうのが毎日の日課になっているのだが、有妃はこんな風に俺をいつも甘えさせてくれる。
「どうです?あったまりましたか?」
「ああ。とても暖かいよ。毎日悪いね。」
「いいえ。いつもの事ですから。さて、もうご飯は出来ていますよ。このままテーブルまで抱っこして運んでさしあげましょうか?」
有妃はからかう様に言うとそっと笑った。
「いいって、いいって。自分で歩くから。」
慌てた俺は布団から出る。以前あまりに眠い時、甘えるように布団まで抱っこして運んでもらったのだが、しばらくその事をネタにからかわれてしまった。
何かというと抱っこしてあげましょうか、と言われクスクス笑われてしまうのだ。我ながらさすがに恥ずかしい事を頼んでしまったと思い後悔したが、有妃はそんな俺の姿を見ているのが楽しいらしい。今でも時々こうしていじられてしまう。
「いいかげん勘弁してくれよ。有妃ちゃん…。」
「駄目ですよ。恥ずかしがっている佑人さんを見るのが大好きなんです。とっても可愛いですよ。」
彼女に、にこにこしながらそういわれると俺も苦笑するしかない。
「それじゃあご飯頂こうかな。あ、その前に着替えてくるよ。」
「ええ、いつでもどうぞ。」
食卓に行くと有妃は早速味噌汁を出してくれた。俺の好きなほうれん草と油揚げの味噌汁を飲むと、暖かく優しい味が口に広がった。寒い季節にいただく温かい味噌汁は心からほっとする。
「まだおかわりありますよ。たくさん食べて下さいね。」
「うん。ありがとう」
礼を言う俺に小さくいいえと答えると有妃は穏やかに微笑む。なんの変わりもない何時もの朝の光景だ。
朝食を食べると出勤時間まで俺はしばらくぼうっとする。とても暖かい部屋。ずっとここに居たい。この寒さの中での出勤は正直憂鬱だ。そんな思いがつい呟きとなって漏れてしまう。
「仕事行くの嫌だな…。」
「お仕事そんなに嫌ですか?」
有妃は耳ざとく聞き付けると、心配そうに俺の顔を見た。
「前にも言いましたけど、私は佑人さんと毎日ずうっーーーと抱き合って暮らしていけたらどれだけ素敵だろうかって思っているんですよ。実際そうするだけで私たちは生きて行く事が出来ますし。つらいならなにも無理に仕事に行くことは無いんです。あなたにはどこにも行かず私のそばにいて欲しいというのが正直な気持ちですよ。」
有妃は諭すように語りかけると蛇体を俺の体に巻き付けた。痛みも息苦しさも感じないが、俺はしっかりと拘束されてしまった。
「心配かけてごめん。俺は大丈夫だから。あんまり寒いもんでちょっと憂鬱になっただけだよ。」
俺は有妃の耳元でささやくと頭をそっと寄せた。彼女の髪の甘い匂いに胸が切なくなる。
「…これは私の同族で先輩にあたる人の話なんですけどね。」
有妃は俺の頭をなでていたが、急に思い出したように話し始めた。
「うん。」
「その先輩には幼馴染で恋仲の方がいらっしゃったのですけれど、その方も先輩に大丈夫だよ。何も心配ないよ。と言いながらも自ら命を絶とうとされたんですよ。」
「それで、その人はどうなったの…。」
「はい。先輩が気にかけていたので大事には至らなかったようです。今では先輩のお婿さんになって幸せに暮らしていらっしゃいますよ。」
「それで俺の事も心配しているのか…。って、気にしすぎだよ!俺は絶対にそんな事はしないよ!」
思わぬ事になり俺は慌てた。でも俺を見つめる有妃の不安そうな眼差しを見ると申し訳無くなってくる。穏やかでいつも優しく世話を焼いてくれる有妃。俺の大切な人。そんな人にはいらぬ心配をかけたくは無い。
「うちの会社の桃里社長の事は有妃ちゃんもよく知っているだろ。その社長が経営している会社なんだから、俺がおかしくなるような事はありえないって。
大体社長以下社員のほとんどが魔物かインキュバスなんだよ。無茶な働き方をする訳がないじゃないか。」
俺は心配かけない様につとめて明るくふるまった。事実俺が勤めている会社は給料は安いが残業も休日出勤もほぼゼロで、ぬるま湯と言ってもいいぐらいの環境だ。そんな俺を見ていて彼女も安堵したらしい。
「ええ。わかっていますよ。桃里さんの会社なら間違いはないとわかってはいるんですよ。それに桃里さんには私たち共に義理も借りもありますから、そうすぐに辞めるという訳にはいきませんよね。でも、いいですか。」
そう言うと有妃は俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「仮に会社を辞めたくても辞められない様な事態になったら迷わず私に相談する事。
そうしたら私がどんな手を使ってもあなたを救ってみせます。佑人さんは私が守ります。」
有妃はそう高らかに宣言するとにっこり笑ってみせた。俺も思わず笑みがこぼれてしまう。
「有妃ちゃんは大げさだなあ。でもわかった。約束する。それと、ありがとう…。」
「やめてください。お礼なんかいりませんよ。夫を守るのは妻の務めだってアマゾネスさんも言っているじゃないですか。」
愛おしさが抑えきれなくなった俺は思わず有妃に口づけしてしまった。その柔らかな感触をもっと味わいたくて舌で唇をノックする。彼女も嬉しそうに舌を受け入れるとお互いにねっとりとからめあう。
「ふふっ。ちょうどいいです。ほかのメスに目を付けられない様に、佑人さんのおなかの中まで私の匂いを付けちゃいますよ。」
有妃は妖艶に笑うと俺の口の中に長い舌を入れて唾液を流し込んできた。少し甘くとろりとしたそれを俺は夢中になって飲み干す。
「あらあら。そんなに貪るようにして。わかっています?こんなものを嬉しそうに飲むなんて佑人さんは変態なんですか?」
自分の唾液を飲む俺に嗜虐心を刺激されたらしく、有妃は馬鹿にするように笑った。彼女のサディスティックな言葉責めを受けて俺もますます興奮してきてしまう。幾分マゾ的な面を持つ俺の事をいつしか見抜いた有妃は、時々こうして言葉で責める。
とはいえ俺が傷つく事の無いように気を遣ってくれているので安心して身を任せられるのだが。
「まったく。何を興奮しているんですか?よだれを飲みたい変態さんにはこうしてあげます。」
有妃は俺の顔を両手で押さえると口づけし、さらに大量の唾液を流し込んできた。そして舌を自分の長い舌で絡め取った。俺もうっとりとしながら有妃の舌を吸い続ける。魔物の唾液って本当に甘いんだよな、と思いながら…
ひとしきり俺の口中を犯すと有妃は満足したらしい。彼女が唇を離すと唾液が糸をひく。その蠱惑的な様子に思わず押し倒したくなってしまったが、さすがにもう出勤時間が迫っていた。
「あ、そろそろ時間だ。もう行かないと。」
「もうそんな時間ですか。ごめんなさい。私ったら、朝なのについ興奮しちゃって…。
それと、こういう事をされるのが嫌なら言ってくださいね…。」
恥ずかしそうに顔を赤らめて、うつむく有妃を見ているとますます愛おしさが募ってしまう。そんな彼女をもっと見ていたいが、後は帰宅してからのお楽しみにしよう。
「それじゃあ。」
「行ってらっしゃい。佑人さん。それといつものして下さい。」
微笑みながらはいと言うと有妃は腕を広げる。俺は少々気恥ずかしさを感じながら彼女の腕の中に入り抱きしめる。蛇体も俺を抱きしめるように全身に巻き付いた。
俺は大好きな彼女の匂いに包まれて気持ちが落ち着く。このままこうしていたい。そして、有妃の言う事に従えばこの心持をずっと味わえるのだ。
でも、いずれにしても今すぐと言う訳にはいかない。残念な事だが。まあ、これも後々のお楽しみにとっておこう。
「行ってきます。有妃ちゃん。」
「気を付けてくださいね。何か温かいものを作って待っていますよ。」
有妃はいつも玄関先まで俺を見送ってくれる。その優しい笑顔を見ていると、今日も頑張ろうとまでは思わないが、少なからず気持ちが晴れるのを感じるのだ。
俺は震えながらスクーターに乗りこむ。冬の寒い中よせばいいのにと思うが、渋滞に巻き込まれることが少ないのでやむを得ず使っているのだ。
でも、今週の仕事も今日で終わりだ。明日明後日は暖かい家で有妃と二人のんびりと過ごせる。俺はそんな事を思って寒さを紛らした。
いつも休日は二人で遅い朝食をとると、どちらからともなく身を寄せ抱き合う。そして有妃が蛇体を俺に絡ませるとそのまま横になって日がな一日を過ごすのだ。
気持が高まればそのまま行為に及ぶことも多いが、有妃の胴体を膝枕ならぬ蛇枕にしてうとうとしたり、耳かきをしてもらったり、有妃の白く長い髪をなでたり、すべすべした鱗のある胴体を愛撫したり…と互いの気のすむ限りいちゃいちゃしてしまう。
そして、いつも有妃の赤い瞳を見つめながらまどろみに落ちるのだ。俺は相手の目をずっと見つめ続けるのは苦手なのだが、なぜか有妃の瞳は全く気にならない。まるで魔法にかけられたかのように美しい瞳に見入ってしまい、気が付くといつも穏やかな眠りに落ちている。
前に、本当に魔法でも使っているのでは、と有妃に聞いた事があるのだが、さあ、どうでしょう、と笑ってはぐらかされてしまった。まあ、別にどちらでもいい。俺はもう完全に有妃の虜になっている。魅了の魔力はいまさら気にする事でもないし、有妃が俺に酷い事をする事などあり得ないことも分かっているからだ。そしていつも気が付くと夕方になっている。
「おはようございます。佑人さん。お目覚めですか?」
「…ああ、もうこんな時間なんだね。」
「どうします?買い物がてらお散歩でも行きます?」
こんな会話をしながら一緒に出かける事もあるし、そうでない場合はまたお互いに抱き合って肌を合わせながら眠りにつくのだ。
俺としてはこんな休日をずっと送る事は喜びでありこそすれ、まったく苦にはならない。でもそれではさすがに有妃に申し訳ないと思い、以前こんな話をした事がある…。
「えっと。どう?今度の3連休ネズミ―ランドかシズニーディーにでも行かないか?
もちろんほかに行きたいところがあればそこに行こう。」
「いいえ。別にいいんですよ。」
有妃はそっけなく答えた。むしろ冷淡とでも言っていい態度だ。
「でもせっかくの休みだし。」
「佑人さんは本当にそこに行きたいんですか?」
有妃は俺を詰問するかのような口調で問いかけるとじっと見つめた。当然本心では行きたい訳ではないので思わず黙り込んでしまう。
「本当は行きたくないんですよね。佑人さんがそういう所が好みでは無い事は承知しています。それに家でのんびりしていることが大好きな事も。
私もそうです。どこかに旅行に行くよりも、ずっとあなたを抱きしめて、ずっとあなたを見つめていて、ずっとあなたを私のそばに置いておきたいんですよ。」
「有妃ちゃん…。」
「佑人さんは私に気を使ってくれているんですよね。それはとてもうれしいです。でも正直に申し上げて、あなたがたとえ私と一緒でも遠出しようとする事は、私にとって不安であり恐怖でもあるのです。」
そう言う有妃の瞳はなにかしら妙な光を帯びていた。語り口が落ち着いているだけに、正直言って怖い。俺は何か言わなければとは思うものの気持ちだけが焦ってしまう。
「お分かりいただけませんか?はっきり申し上げましょう。どこかに旅行にでも行ってその土地の人間や魔物やメスにあなたを奪われでもしないかと、私は気が気ではないんです。私はそんな浅ましい存在なんですよ。」
「そんなことに俺は絶対にならないよ。それに俺はもう君のものになっているんだから大丈夫なんじゃないの?」」
「はい、佑人さんがそんな方では無い事はわかっています。でも、魔物と言うのは、本当に欲しいと思う男はたとえ誰かのものであっても無理やり手に入れたいと思うものなんですよ。
私も人間や並みの魔物からならあなたを守る自信はありますが、私の力の及ばない強大な魔物も数多くいますから…。」
「わかった。俺の考えが足りなかったよ。この話はもう止めにしよう。」
話が嫌な方向に向かいそうだと感じた俺は切り上げようとしたが、有妃はそれを許さなかった。
「いいえ。最後まで聞いてください。もしほかの魔物に佑人さんを奪われたとしたら、私はその魔物とあなたと共に暮らすことになりかねません。でも、私はそんな事には絶対に耐えられません!
佑人さんは私だけのものなんです。私だけの旦那様なんです。その代り私はあなたに私のすべての思いを、愛情を、肉体を捧げて生きて行きます。私はあなた専用のメスなんです…」
必死になって語りかける有妃の瞳は暗く濁ったような色を帯びていた。いつしか俺の体は彼女に抱きしめられ、蛇体に巻き付かれて息苦しさを感じるほどだった。
まだ当時は、普段の穏やかな有妃がこんな一面を持っているとは知らなかった。彼女自身そう言った暗く独占欲の強い面を隠していたのかもしれない。
俺はもう有妃の魔力によって虜にされていたのだろう。重く狂気すら感じる深い愛情を受けながらも彼女が愛おしかった。こんな俺みたいな男をここまで想ってくれている。俺も彼女の思いに答えたい。
「本当にごめん。変な事を言った俺が悪かったから。君のそばから離れようなんて絶対に思わないから。」
「佑人さん…。」
「俺こそ本当に感謝しているんだよ。こんな俺みたいな人間を選んでくれて、いつも優しくしてくれて。ありがとう。有妃ちゃん…。」
俺の思いは知らずに言葉になって溢れていた。彼女を見つめて優しく微笑む。有妃の方も不安を吐き出して幾分落ち着いたようだ。一瞬苦しそうな顔をすると静かにかぶりを振った。
「いいえ佑人さん。私がどうかしていました。申し訳ありません。せっかくあなたが気を使ってくれたのに、それを台無しにするような事を言ってしまって。でも、そのお気持ちだけで本当に十分なんですよ。」
そう言うと有妃はしばらく考えていたが、ああそうだ、とつぶやいた。
「それならどうでしょう。今度改装した健康ランドに連れて行って頂けますか?佑人さんは温泉に行くのは好きでしたよね。」
「健康ランドって言うと海沿いにあるあの?」
「はい。あそこなら近場で景色もきれいだし、気分転換に一晩のんびりしてきましょうか。」
きっと俺の顔を潰さないように気を遣ってくれたのだろう。有妃はそういって微笑む。でも彼女に無理をさせたくない俺はこう聞いてみた。
「俺もあの健康ランドは好きだけど。本当にいいの?俺を外出させるのが不安なんじゃないの?」
「安心してください。この近辺の魔物娘の動向は全て掴んでいます。大半は既婚者ですし、独身の魔物娘は万が一の時は私の力で排除できる者ばかりですから…。」
そう言って有妃はにっこりと笑った。だが俺はその言葉に、今まで見た事が無かった彼女の「怖い」面を覗き込んでしまった様な気がして思わず身震いしたのだ。
「…もう時間なの?」
「ごめんなさい。起こしちゃいました?まだ大丈夫ですよ。」
女は囁くようにそう言うと柔らかな笑みを見せる。
「後でちゃんと起こしてさしあげますからね。それまで寝ていて下さい。」
「…お願い。」
銀色と見紛うばかりの白髪と血の様な赤い瞳を持つその女は、俺の肩まで布団を掛け直すとぽんぽんと優しく叩く。たちまち俺は二度寝の心地よさに落ちて行った…。
心地よい時間はあっという間に過ぎ去るもので、俺は女に肩を軽く揺すられ目を覚ました。
「おはようございます。佑人さん、もう時間ですよ。」
「おはよう有妃ちゃん。……今日も寒いな。」
上体を起こした俺は思わず寒さに身を震わす。エアコンはまだ効いていない。吐く息は白く、窓はびっしりと結露している。暖かい布団からすぐには出たくない俺はそのまましばらくじっとしていた。
「もう…。仕方ない人ですねえ。そんな佑人さんにはこうしちゃいますよ。」
女、有妃はやれやれとでも言いたそうに微笑むと俺の体に絡みついた。上体を抱きしめると白く長い蛇の下半身を器用に巻き付ける。有妃の体温がじわじわ伝わってきてとても心地よい。
そう、有妃は人では無く魔物娘。白蛇と言う種族だ。寒い朝は彼女の長い蛇体で体を温めてもらうのが毎日の日課になっているのだが、有妃はこんな風に俺をいつも甘えさせてくれる。
「どうです?あったまりましたか?」
「ああ。とても暖かいよ。毎日悪いね。」
「いいえ。いつもの事ですから。さて、もうご飯は出来ていますよ。このままテーブルまで抱っこして運んでさしあげましょうか?」
有妃はからかう様に言うとそっと笑った。
「いいって、いいって。自分で歩くから。」
慌てた俺は布団から出る。以前あまりに眠い時、甘えるように布団まで抱っこして運んでもらったのだが、しばらくその事をネタにからかわれてしまった。
何かというと抱っこしてあげましょうか、と言われクスクス笑われてしまうのだ。我ながらさすがに恥ずかしい事を頼んでしまったと思い後悔したが、有妃はそんな俺の姿を見ているのが楽しいらしい。今でも時々こうしていじられてしまう。
「いいかげん勘弁してくれよ。有妃ちゃん…。」
「駄目ですよ。恥ずかしがっている佑人さんを見るのが大好きなんです。とっても可愛いですよ。」
彼女に、にこにこしながらそういわれると俺も苦笑するしかない。
「それじゃあご飯頂こうかな。あ、その前に着替えてくるよ。」
「ええ、いつでもどうぞ。」
食卓に行くと有妃は早速味噌汁を出してくれた。俺の好きなほうれん草と油揚げの味噌汁を飲むと、暖かく優しい味が口に広がった。寒い季節にいただく温かい味噌汁は心からほっとする。
「まだおかわりありますよ。たくさん食べて下さいね。」
「うん。ありがとう」
礼を言う俺に小さくいいえと答えると有妃は穏やかに微笑む。なんの変わりもない何時もの朝の光景だ。
朝食を食べると出勤時間まで俺はしばらくぼうっとする。とても暖かい部屋。ずっとここに居たい。この寒さの中での出勤は正直憂鬱だ。そんな思いがつい呟きとなって漏れてしまう。
「仕事行くの嫌だな…。」
「お仕事そんなに嫌ですか?」
有妃は耳ざとく聞き付けると、心配そうに俺の顔を見た。
「前にも言いましたけど、私は佑人さんと毎日ずうっーーーと抱き合って暮らしていけたらどれだけ素敵だろうかって思っているんですよ。実際そうするだけで私たちは生きて行く事が出来ますし。つらいならなにも無理に仕事に行くことは無いんです。あなたにはどこにも行かず私のそばにいて欲しいというのが正直な気持ちですよ。」
有妃は諭すように語りかけると蛇体を俺の体に巻き付けた。痛みも息苦しさも感じないが、俺はしっかりと拘束されてしまった。
「心配かけてごめん。俺は大丈夫だから。あんまり寒いもんでちょっと憂鬱になっただけだよ。」
俺は有妃の耳元でささやくと頭をそっと寄せた。彼女の髪の甘い匂いに胸が切なくなる。
「…これは私の同族で先輩にあたる人の話なんですけどね。」
有妃は俺の頭をなでていたが、急に思い出したように話し始めた。
「うん。」
「その先輩には幼馴染で恋仲の方がいらっしゃったのですけれど、その方も先輩に大丈夫だよ。何も心配ないよ。と言いながらも自ら命を絶とうとされたんですよ。」
「それで、その人はどうなったの…。」
「はい。先輩が気にかけていたので大事には至らなかったようです。今では先輩のお婿さんになって幸せに暮らしていらっしゃいますよ。」
「それで俺の事も心配しているのか…。って、気にしすぎだよ!俺は絶対にそんな事はしないよ!」
思わぬ事になり俺は慌てた。でも俺を見つめる有妃の不安そうな眼差しを見ると申し訳無くなってくる。穏やかでいつも優しく世話を焼いてくれる有妃。俺の大切な人。そんな人にはいらぬ心配をかけたくは無い。
「うちの会社の桃里社長の事は有妃ちゃんもよく知っているだろ。その社長が経営している会社なんだから、俺がおかしくなるような事はありえないって。
大体社長以下社員のほとんどが魔物かインキュバスなんだよ。無茶な働き方をする訳がないじゃないか。」
俺は心配かけない様につとめて明るくふるまった。事実俺が勤めている会社は給料は安いが残業も休日出勤もほぼゼロで、ぬるま湯と言ってもいいぐらいの環境だ。そんな俺を見ていて彼女も安堵したらしい。
「ええ。わかっていますよ。桃里さんの会社なら間違いはないとわかってはいるんですよ。それに桃里さんには私たち共に義理も借りもありますから、そうすぐに辞めるという訳にはいきませんよね。でも、いいですか。」
そう言うと有妃は俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「仮に会社を辞めたくても辞められない様な事態になったら迷わず私に相談する事。
そうしたら私がどんな手を使ってもあなたを救ってみせます。佑人さんは私が守ります。」
有妃はそう高らかに宣言するとにっこり笑ってみせた。俺も思わず笑みがこぼれてしまう。
「有妃ちゃんは大げさだなあ。でもわかった。約束する。それと、ありがとう…。」
「やめてください。お礼なんかいりませんよ。夫を守るのは妻の務めだってアマゾネスさんも言っているじゃないですか。」
愛おしさが抑えきれなくなった俺は思わず有妃に口づけしてしまった。その柔らかな感触をもっと味わいたくて舌で唇をノックする。彼女も嬉しそうに舌を受け入れるとお互いにねっとりとからめあう。
「ふふっ。ちょうどいいです。ほかのメスに目を付けられない様に、佑人さんのおなかの中まで私の匂いを付けちゃいますよ。」
有妃は妖艶に笑うと俺の口の中に長い舌を入れて唾液を流し込んできた。少し甘くとろりとしたそれを俺は夢中になって飲み干す。
「あらあら。そんなに貪るようにして。わかっています?こんなものを嬉しそうに飲むなんて佑人さんは変態なんですか?」
自分の唾液を飲む俺に嗜虐心を刺激されたらしく、有妃は馬鹿にするように笑った。彼女のサディスティックな言葉責めを受けて俺もますます興奮してきてしまう。幾分マゾ的な面を持つ俺の事をいつしか見抜いた有妃は、時々こうして言葉で責める。
とはいえ俺が傷つく事の無いように気を遣ってくれているので安心して身を任せられるのだが。
「まったく。何を興奮しているんですか?よだれを飲みたい変態さんにはこうしてあげます。」
有妃は俺の顔を両手で押さえると口づけし、さらに大量の唾液を流し込んできた。そして舌を自分の長い舌で絡め取った。俺もうっとりとしながら有妃の舌を吸い続ける。魔物の唾液って本当に甘いんだよな、と思いながら…
ひとしきり俺の口中を犯すと有妃は満足したらしい。彼女が唇を離すと唾液が糸をひく。その蠱惑的な様子に思わず押し倒したくなってしまったが、さすがにもう出勤時間が迫っていた。
「あ、そろそろ時間だ。もう行かないと。」
「もうそんな時間ですか。ごめんなさい。私ったら、朝なのについ興奮しちゃって…。
それと、こういう事をされるのが嫌なら言ってくださいね…。」
恥ずかしそうに顔を赤らめて、うつむく有妃を見ているとますます愛おしさが募ってしまう。そんな彼女をもっと見ていたいが、後は帰宅してからのお楽しみにしよう。
「それじゃあ。」
「行ってらっしゃい。佑人さん。それといつものして下さい。」
微笑みながらはいと言うと有妃は腕を広げる。俺は少々気恥ずかしさを感じながら彼女の腕の中に入り抱きしめる。蛇体も俺を抱きしめるように全身に巻き付いた。
俺は大好きな彼女の匂いに包まれて気持ちが落ち着く。このままこうしていたい。そして、有妃の言う事に従えばこの心持をずっと味わえるのだ。
でも、いずれにしても今すぐと言う訳にはいかない。残念な事だが。まあ、これも後々のお楽しみにとっておこう。
「行ってきます。有妃ちゃん。」
「気を付けてくださいね。何か温かいものを作って待っていますよ。」
有妃はいつも玄関先まで俺を見送ってくれる。その優しい笑顔を見ていると、今日も頑張ろうとまでは思わないが、少なからず気持ちが晴れるのを感じるのだ。
俺は震えながらスクーターに乗りこむ。冬の寒い中よせばいいのにと思うが、渋滞に巻き込まれることが少ないのでやむを得ず使っているのだ。
でも、今週の仕事も今日で終わりだ。明日明後日は暖かい家で有妃と二人のんびりと過ごせる。俺はそんな事を思って寒さを紛らした。
いつも休日は二人で遅い朝食をとると、どちらからともなく身を寄せ抱き合う。そして有妃が蛇体を俺に絡ませるとそのまま横になって日がな一日を過ごすのだ。
気持が高まればそのまま行為に及ぶことも多いが、有妃の胴体を膝枕ならぬ蛇枕にしてうとうとしたり、耳かきをしてもらったり、有妃の白く長い髪をなでたり、すべすべした鱗のある胴体を愛撫したり…と互いの気のすむ限りいちゃいちゃしてしまう。
そして、いつも有妃の赤い瞳を見つめながらまどろみに落ちるのだ。俺は相手の目をずっと見つめ続けるのは苦手なのだが、なぜか有妃の瞳は全く気にならない。まるで魔法にかけられたかのように美しい瞳に見入ってしまい、気が付くといつも穏やかな眠りに落ちている。
前に、本当に魔法でも使っているのでは、と有妃に聞いた事があるのだが、さあ、どうでしょう、と笑ってはぐらかされてしまった。まあ、別にどちらでもいい。俺はもう完全に有妃の虜になっている。魅了の魔力はいまさら気にする事でもないし、有妃が俺に酷い事をする事などあり得ないことも分かっているからだ。そしていつも気が付くと夕方になっている。
「おはようございます。佑人さん。お目覚めですか?」
「…ああ、もうこんな時間なんだね。」
「どうします?買い物がてらお散歩でも行きます?」
こんな会話をしながら一緒に出かける事もあるし、そうでない場合はまたお互いに抱き合って肌を合わせながら眠りにつくのだ。
俺としてはこんな休日をずっと送る事は喜びでありこそすれ、まったく苦にはならない。でもそれではさすがに有妃に申し訳ないと思い、以前こんな話をした事がある…。
「えっと。どう?今度の3連休ネズミ―ランドかシズニーディーにでも行かないか?
もちろんほかに行きたいところがあればそこに行こう。」
「いいえ。別にいいんですよ。」
有妃はそっけなく答えた。むしろ冷淡とでも言っていい態度だ。
「でもせっかくの休みだし。」
「佑人さんは本当にそこに行きたいんですか?」
有妃は俺を詰問するかのような口調で問いかけるとじっと見つめた。当然本心では行きたい訳ではないので思わず黙り込んでしまう。
「本当は行きたくないんですよね。佑人さんがそういう所が好みでは無い事は承知しています。それに家でのんびりしていることが大好きな事も。
私もそうです。どこかに旅行に行くよりも、ずっとあなたを抱きしめて、ずっとあなたを見つめていて、ずっとあなたを私のそばに置いておきたいんですよ。」
「有妃ちゃん…。」
「佑人さんは私に気を使ってくれているんですよね。それはとてもうれしいです。でも正直に申し上げて、あなたがたとえ私と一緒でも遠出しようとする事は、私にとって不安であり恐怖でもあるのです。」
そう言う有妃の瞳はなにかしら妙な光を帯びていた。語り口が落ち着いているだけに、正直言って怖い。俺は何か言わなければとは思うものの気持ちだけが焦ってしまう。
「お分かりいただけませんか?はっきり申し上げましょう。どこかに旅行にでも行ってその土地の人間や魔物やメスにあなたを奪われでもしないかと、私は気が気ではないんです。私はそんな浅ましい存在なんですよ。」
「そんなことに俺は絶対にならないよ。それに俺はもう君のものになっているんだから大丈夫なんじゃないの?」」
「はい、佑人さんがそんな方では無い事はわかっています。でも、魔物と言うのは、本当に欲しいと思う男はたとえ誰かのものであっても無理やり手に入れたいと思うものなんですよ。
私も人間や並みの魔物からならあなたを守る自信はありますが、私の力の及ばない強大な魔物も数多くいますから…。」
「わかった。俺の考えが足りなかったよ。この話はもう止めにしよう。」
話が嫌な方向に向かいそうだと感じた俺は切り上げようとしたが、有妃はそれを許さなかった。
「いいえ。最後まで聞いてください。もしほかの魔物に佑人さんを奪われたとしたら、私はその魔物とあなたと共に暮らすことになりかねません。でも、私はそんな事には絶対に耐えられません!
佑人さんは私だけのものなんです。私だけの旦那様なんです。その代り私はあなたに私のすべての思いを、愛情を、肉体を捧げて生きて行きます。私はあなた専用のメスなんです…」
必死になって語りかける有妃の瞳は暗く濁ったような色を帯びていた。いつしか俺の体は彼女に抱きしめられ、蛇体に巻き付かれて息苦しさを感じるほどだった。
まだ当時は、普段の穏やかな有妃がこんな一面を持っているとは知らなかった。彼女自身そう言った暗く独占欲の強い面を隠していたのかもしれない。
俺はもう有妃の魔力によって虜にされていたのだろう。重く狂気すら感じる深い愛情を受けながらも彼女が愛おしかった。こんな俺みたいな男をここまで想ってくれている。俺も彼女の思いに答えたい。
「本当にごめん。変な事を言った俺が悪かったから。君のそばから離れようなんて絶対に思わないから。」
「佑人さん…。」
「俺こそ本当に感謝しているんだよ。こんな俺みたいな人間を選んでくれて、いつも優しくしてくれて。ありがとう。有妃ちゃん…。」
俺の思いは知らずに言葉になって溢れていた。彼女を見つめて優しく微笑む。有妃の方も不安を吐き出して幾分落ち着いたようだ。一瞬苦しそうな顔をすると静かにかぶりを振った。
「いいえ佑人さん。私がどうかしていました。申し訳ありません。せっかくあなたが気を使ってくれたのに、それを台無しにするような事を言ってしまって。でも、そのお気持ちだけで本当に十分なんですよ。」
そう言うと有妃はしばらく考えていたが、ああそうだ、とつぶやいた。
「それならどうでしょう。今度改装した健康ランドに連れて行って頂けますか?佑人さんは温泉に行くのは好きでしたよね。」
「健康ランドって言うと海沿いにあるあの?」
「はい。あそこなら近場で景色もきれいだし、気分転換に一晩のんびりしてきましょうか。」
きっと俺の顔を潰さないように気を遣ってくれたのだろう。有妃はそういって微笑む。でも彼女に無理をさせたくない俺はこう聞いてみた。
「俺もあの健康ランドは好きだけど。本当にいいの?俺を外出させるのが不安なんじゃないの?」
「安心してください。この近辺の魔物娘の動向は全て掴んでいます。大半は既婚者ですし、独身の魔物娘は万が一の時は私の力で排除できる者ばかりですから…。」
そう言って有妃はにっこりと笑った。だが俺はその言葉に、今まで見た事が無かった彼女の「怖い」面を覗き込んでしまった様な気がして思わず身震いしたのだ。
17/08/27 08:20更新 / 近藤無内
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