第4章 ふたりの馴れ初め 2
そして当日。不安と妙な期待、待ち合わせに遅れてはならないという強迫観念からおかしな精神状態になり、俺は集合時間の1時間も前に狸茶屋の前に来てしまった。店は駅前の歓楽街の一角にあり、ドアには『未成年者の立ち入りを禁じます』の文字。
そうだよな。例の噂が本当なら当然だよな。と納得する。だが、さすがに1時間前は早すぎた。どうしよう。本屋で立ち読みでもして時間を潰すか…。そう思った時、突然目の前の扉が開かれた。
「インキュバス?…いえ、どうやら人間の男の方のようね。もしかしてドワーフの桃里さんのお連れの方?」
俺の目の前に立っていたのは紫色の半透明の液体。人を象っているその姿の胸部には顔の様な丸い球体が浮いている。これは…ダークスライムか?通常のスライムは何度か見た事があるが、ダークスライムを見るのは初めてだ。思わずその姿をまじまじと見つめてしまう。彼女はそんな俺を見て柔らかに笑った。
「私はここの店の者ですけれど、どうかしました?」
「いえ…。すみません。そうです。連れの森宮です。」
「やっぱりそうですか。どうぞお店の中へ。桃里さんから話は聞いているわ。」
ダークスライムの子は店の中に招き入れようとした。だが一人で入る事に抵抗があった俺は尻込みする。
「あ、いえ。連れが来るまで待っています。」
「何を言うの。外でなんか待たせる訳にはいかないわ。」
「いいえ。本当に結構です。」
「大丈夫。桃里さんはうちのお得意様だから。お得意様のお連れの方に誰も手出しさせないわ。」
「いや…。待って!ちょっと待って!!」
俺は強引に店の中に入れられたが中は意外と普通だ。明るく清潔感溢れており、よくあるチェーンの喫茶店とほとんど変わらない。すでに魔物とインキュバスのカップルが何組か居るが、思い思いに談笑したり、抱き合ったりしている。もっと薄暗く、香の煙が漂う店の中で大乱交しているのでは、とそんなイメージを抱いていた俺は拍子抜けする。
「こちらの席へどうぞ。」
椅子に座るとダークスライムは早速メニューを出してきた。ええと、虜の果実100%ジュースに、虜のケーキに、虜のパフェ…。おいおい。人間の俺から見れば危険なメニューしかないじゃないか…。まあ、ここはコーヒーが無難だな。
「コーヒーをお願いします。でも、持ってくるのは連れが来てからでかまいません。」
「そう…。虜の果実や陶酔の果実100%ジュースはいかが?当店のおすすめなんですよ。」
「いえ。結構です。」
「デザートに特濃ホルスタウロスミルクとアルラウネの蜜をたっぷり使ったケーキはどうですか?」
「いえ。本当にお構いなく。」
みんな噂には聞いている魔界の食料品だが、興味はあるが食べる事には抵抗がある物ばかりだ。一度食べたら人間を辞めなければならない様な、危険な薬物の様な印象が強い。
麻薬の売人でもあるかのように、ダークスライムはしきりに勧めてきたが俺は何とか断った。
「ふふっ。そんな警戒しなくてもいいのに…。わかりました。桃里さんたちが来たらお持ちしますね。」
ダークスライムは悪戯っぽく笑うとカウンターの奥に去って行った。さて…。恐る恐る店の中を見回す。幸いにも客は魔物とカップルのインキュバスだけしかいない。誰も俺の事など気にも留めていないようだ。しばらく俺はケータイなど見ていたが、その時不意に声を掛けられた。
「お客様。」
先ほどのダークスライムの店員がにこにこしながらやってきた。手に持ったお盆の上にはガラスの器に入った黒いゼリー。上に生クリームが乗っている。
「あの…これは。」
「初めてのお客様に当店からのサービスです。とってもおいしいコーヒーゼリーよ。ご心配なく。魔界産の食料は何も使っていないから。」
「どうもありがとう。」
甘党の俺にとって生クリーム乗せコーヒーゼリーは当然好物なのだが、こんな状況では食欲などある訳なかった。目の前に置かれたゼリーをただじっと見つめる。
一体社長はいつ来るのだろうか。早く来過ぎた自分の事は棚に上げて少々非難めいた感情を抱く。その時、店のドアが開いた。社長が来てくれたのか。俺は期待を込めてドアの方を見た。
そこに居たのマリンブルーの髪の少女。尖った耳と人間では想像もつかない様な整った美しさから魔物と分かった。彼女はアニメのお嬢様キャラが着る様な可愛いリボンのついた服を着て、そして…なんと竹刀を腰に差している。え、こんな美少女がなんで竹刀?俺は失礼と分かりつつも彼女から目を離せなかった。
ぶしつけな視線に気が付いたのか少女は俺に目をやった。しまった!気が付かれた。俺は慌ててケータイに目をやるが時すでに遅し。少女はつかつかと前に歩み寄った。
「そこの者。…そうだ。そなたの事だ。先ほどよりそなたの視線をずっと感じていたが、私に何か用でもあるのかな?」
「すみません。失礼しました。本当にごめんなさい…。」
その尊大な物言いに、彼女は一体どんな魔物なのかと訝しんだ。だが失礼があったのは俺の方だ。 こうなった以上はとにかく謝るしかない。俺はひたすら頭を下げた。怒られるかと思ったが、以外にも彼女はふっと微笑むと長い髪を掻き上げた。
「ふふ…。まあよい。ところで見た所そなた一人の様だな。それならばどうだ。私と一緒に茶でも飲まぬか?」
凛とした外見と鋭い視線に似合わぬ愛くるしい声に思わず聞き惚れそうになった。
「いや。もう少ししたら連れが来ますから。」
「そなたからはどんな魔物の匂いも魔力も感じぬのだが…。下手な嘘は止めるがいい。」
「違うんです。本当に来るんです…。」
表情に不快な色を隠そうともせずに彼女は見つめる。どうしようか?俺は訳を説明したが、目の前の少女は納得しそうもない。
だが、本当に綺麗な子だ。馴れ馴れしくするのを拒むような尖った雰囲気はあるが、それでも優美という言葉がぴったりくる。街を歩けば大半の者が振り返るだろう。
よく見ると首に高価そうなネックレスをぴったりと巻き付けているが、それが良いアクセントになって美しさを引き立てている。先ほどよりの妙に古めかしい口調は可笑しさを誘うが…。
そうこうしているうちに店員のダークスライムがやってきた。
「お客様。そちらの方は本当にドワーフのお連れの方をお待ち合わせしているんですよ。あまり困らせないでやって下さいな。」
「むっ。それはまことか?」
助かった…。俺は胸をなでおろす。だが青い髪の少女はなおも去ろうとはせずに粘り続けた。
「ふむ。ならばその連れの者が来るまでの間、話でもしようではないか。…そなたがそのドワーフのものになっているのならば私も礼儀に反する真似はせぬが、そなたは独り者なのだから別に問題はあるまい。」
「いや…ですから…困ります…。」
ダークスライムはさあどうする?と言わんばかりの表情を俺に見せた。そして、それ以上は口を挟まず去って行った。まったく。何が誰にも手出しはさせない、だよ…。
その時目の前の少女が何かに気が付いたような顔をした。そして頭を下げる。
「ああ、そうであった。私としたことが失礼をした。私はわが主の命によりこの国に派遣された騎士のレジーナと申すもの。この国は色々学ぶべき事が多いゆえ主より命じられて参った。」
「主、ですか?」
「いかにも。わが主は魔界を統べる魔王だ。」
「そうですか…。」
魔王の配下で騎士と言うと彼女はデュラハンか?美少女が時代劇の侍のような口調で話しているのがおかしかったのだが、それならば納得がいく。けれども何故竹刀なんか持っているのだろう?立派な長剣を腰に差していてもおかしくないだろうに。
そういえばデュラハンは首が簡単に取れると聞いたが、あのネックレスは首を固定するものか…。思わずネックレスに視線が行ってしまう。そんな俺に対しデュラハンの騎士は顔を強張らせ、非難めいた口調で語りかける。
「じろじろ見てこの首飾りがそんなに珍しいか?…それに、私は名乗ったのだぞ。そなたは名乗り返す気は無いのか?おまけに目の前に私が立ちつくしているのに席を進めようともせぬ。先ほどより無礼であろう…。」
そう言われればその通りだ。だが、お嬢様の様な服を着た愛らしい声の美少女が侍の口調で、無礼であろう、と傲然と胸を張る。おまけに腰に竹刀まで差して。その妙な可笑しさにもう我慢できなかった。失礼はわかっていたが吹き出してしまうのを抑えきれなかった。
「すみま…ぷっ。すみません。」
「おのれッ!!」
その瞬間、少女は怒号を上げると目にもとまらぬ速さで抜刀した。そして竹刀を俺の目の前に突き付けた。
「どうやらそなたは私を愚弄したいようだな…。一体いかなる訳でこのような真似をしでかしているのか答えてもらおう。」
あまりに突然の事で頭が真っ白になり言葉も出ない。目を白黒させて目の前の美少女を見つめるしかなかった。彼女の怒りに燃える瞳はじっと俺を捕え続けている。困った。これはとんでもない事になった…。
「そなたを傷つけるつもりはないが、返答しだいによっては少々痛い目を見る事になるぞ…。」
この騒ぎを聞きつけたダークスライムの店員が慌ててやって来たが、周りの客たちは冷静なものだ。ああ、またか、といった風情で見物している。
「ちょっとお客さん!いったい何やってるの!」
「これは私とこの者の問題だ。関わりのない者の口出しは無用に願おうか。」
制止するように叫ぶダークスライムに対し、デュラハンはそっけなく言った。
「関わり?大いにあるわ。私はこの店の店員よ。ここで騒ぎを起こすなら出て行ってちょうだい!」
「貴様―ッ!!」
俺を守る様に割って入ったダークスライムに対し、デュラハンはますます怒りを募らせる。馬鹿な振る舞いから大騒動が持ち上がってしまった。いったいどうしよう…。ふたりはじっと睨み合っている。もうこうなったら土下座でもするしかないか。そう思った時だった。
「何の騒ぎかと思ったら森宮君じゃないか。いったい何があった?」
「社長!」
「桃里さん。」
俺とダークスライムの子がほぼ同時に声を上げて振り向く。そこには幼女の様な可愛らしい姿があった。社長が来てくれたのだ。
「どうした。訳を説明してくれ。…ああ、そこの竹刀振り回している姉ちゃんもそんな怖い顔しないでくれ。私はこいつの連れの者だ。」
「むっ。てっきり口裏を合わせて私を謀るつもりだと思ったが、連れがいるというのは本当であったか。だがなッ…」
「まあまあ、あんたもその物騒な物を下してくれ。そんなんじゃ落ち着いて話も出来ない。」
社長の口調は穏やかだがその裏には威圧的ともいえるような迫力があった。小さな体の一体どこにそんな力があるのだろう。デュラハンの騎士は気勢をそがれたかの様に竹刀を下した。俺は事の一部始終を社長に説明した…
「なるほど。それじゃあ騎士さんはうちの森宮の無礼な振る舞いが許せないと、そういう訳だね。」
「いかにもその通りだ。だいたいこの者は礼儀というものを…」
捲し立てようとしたレジーナに対し桃里社長は手を上げて制した。
「ちょっと待ってくれ騎士さん。言っておくが私たちは別にあんたを招いた訳でもなんでも無いんだよ。招かれもせずに勝手に押しかけて居座って、礼儀だの無礼だの言うのは理不尽ってものだろ?」
「それは…。」
「魔王軍の騎士というとあんたデュラハンなんだろ?デュラハンと言えば魔王軍の最精鋭じゃないか。自堕落な私たちとは違った誇り高い人達が、こんな事をしたんじゃ騎士の名誉に傷がつくんじゃないのかい?」
社長は穏やかに、そして諭すように語りかけた。その正論にレジーナは悔しそうに黙り込んでいる。どうやら図星らしく反論できない様だ。
「だけど、最初に挑発みたいな事をしてしまったこちらも当然悪い。こいつはどうも世間知らずな所があってね。決して悪意は無かったんだよ。私からも謝らせてくれ。」
そう言って社長は頭を下げると俺の腿を叩いた。
「さっ森宮君。君も謝るんだ。」
俺は深く頭を下げると謝罪した。俺たちの間に沈黙の時が流れた。レジーナは顔に苛立ちと苦渋の色を浮かべている。
「…もうよい。」
しばし黙然とした後、デュラハンは苦いものを吐き捨てるかのように呟いた。
「それじゃあ許してもらえるのかい?」
「ああ…。だが一つ聞きたい事がある。」
そう言ってレジーナは俺を憂いを込めた目で見つめる。今まで威丈高な姿勢が目立っていた彼女の思わぬ振る舞いにはっとした
「一体そなたはなぜ私をしげしげと見つめたりしたのだ。おまけに急に噴き出しおって。もしかして着ている服がおかしかったか?これは我が故郷より持ち込んだのだが…一応私のお気に入りなのだぞ…。そなたたちの言う…勝負服、と言う奴か…。」
先ほどとは打って変わり不安そうにぼそぼそとしゃべるレジーナはとても可憐だった。俺は悪い事をしてしまったと後悔し慌てて否定する。
「いいえ。とんでもない!とても素敵です。すごく良く似合っていますよ。」
「な、な、何を言う!今さら世辞などよい!では…いったい何が可笑しかったと言うのだ?」
急に真っ赤な顔になってしどろもどろになるデュラハンの騎士が可愛くて、俺は彼女に対して急速に親しみを感じて行く。
「はい。実はその竹刀が気になりまして…。」
「む?これか?これは上の者から命じられてな。色々と問題になるから真剣を帯びるなと言われたのだ。我らの武器は人を殺したり傷つけたりするものでは無いと何度説明しても納得せぬ…。腰に何もないとさすがに落ち着かぬゆえ、止むなくこのまがいものを差していると言う訳だ。」
レジーナはそういって竹刀をぽんぽんと叩く。笑みこそ見せなかったが随分表情は柔らかくなっているようだ。それを見た俺は内心安堵した。
「それで、これがそんなにおかしかったのか?」
「申し上げにくいのですが、僕たちの間ではめったにそういう事をする人はいませんので。」
「そうであったか…。」
腕組みをして考え込むようにするレジーナ。事情も知らないで変な物を見るような目で見てしまった俺が愚かだったようだ。
「あの…じろじろ見たり笑ったりしてすみません。もう一度謝らせてください。」
申し訳なさから自然と謝罪の言葉が出た。デュラハンの騎士はそんな俺を見てやれやれとでも言いたそうに微苦笑する。
「もうよいと言ったであろう。私から見てもこの国の風習は随分と奇異に映る事が多い。正直呆れる事もあるのだ。だからまあお互い様と言う事にしておこう。」
言おうか言うまいかしばし迷っていた素振りだったが、それにな、と言うとレジーナは言葉を続けた。
「実を言うと私はつい最近この国に赴任したのだ。慣れぬ異国の地で不満や鬱憤が色々溜まってしまってな。見かねた同輩からこの店に行けばよき殿御と出会えるからと教わり来てみたのだが…それがこのざまだ。」
自分を嘲るかのように薄く笑うとレジーナは俺の方を真っ直ぐ見た。魔界騎士とはいえレジーナも一人の少女。文化や習慣が全く異なるこの地で苦労しているのだろう。人々の好奇の視線に晒されて、不快な思いをすることも多いのかもしれない。
それが、たまたま気晴らしに来たこの店でも、俺の様な馬鹿者に失礼な振る舞いをされたのだ。苛立ちが抑えきれなくなっても当然だろう。
「早い話私はそなたたちに八つ当たりしてしまったのであろう。私こそ謝らせてほしい。本当に酷い事をした。申し訳ない。」
そう言って深く頭を下げるデュラハンの騎士。潔いその姿勢に俺は言葉もなかった。
「レジーナさん…。」
「よし!ここまでだ!これでお互い恨みっこなしと言う事で手打ちにしよう!」
桃里社長がこれで仲直りだと言わんばかりに相好を崩すと俺とレジーナのふくらはぎを叩いた。
「仲直りのしるしにあんたの分は私のおごりと言う事でどうだ?」
「いや。その気持ちだけ有難くいただいておこう。では…」
レジーナはそう言って去って行こうとする。そういえば大切な事を何か忘れていないか?ああ、そうだった!礼儀には礼儀を持って答えるべきではないのか。気が付いた俺は慌てて彼女を呼び止める。
「レジーナさん。待ってください。」
「一体どうしたのだ?」
「僕はこの街に住んでいる、森宮佑人と言います。ようこそこの街へ。」
彼女をまっすぐに見て名乗った俺に対し、デュラハンの騎士は今日初めての爽やかな笑顔を見せた。今までの鋭く尖った雰囲気が嘘の様に柔らかくなる。
「…そうか。森宮殿か。また縁があればお会いしたいものだな。それでは失礼する。」
レジーナは微笑みを残すと店の奥の方へ颯爽と去って行った。
後には俺と社長。そしてダークスライムの店員の子が残された。今まで緊迫していた空気が柔らかいものになっていく。
「あー。いったいどうなる事かと思ったぞ。森宮君。独身の魔物をあまり刺激する様な事はしちゃいかん。エレンにも色々世話になったな。って、だいたい森宮君はなんでこんな早くから店にいるんだ。」
「本当に申し訳ありません社長…。」
俺はただ頭を下げるしかなかった。本当に迷惑をかけてしまった。社長が来てくれなかったらいったいどうなっていたか…。それとダークスライムの子、エレンにも随分と助けてもらった。彼女に少し不快感を持ってしまって申し訳なく頭を下げる。
「それとエレンさん。本当に助かりました。ありがとうございます。」
「そんな畏まらなくていいんですよ。さっき言ったじゃない。誰にも手出しさせないって。」
エレンはにこやかに笑う。今までに見たスライムは無表情の子が多かった印象だが、彼女はとても素敵な笑顔を見せてくれる。
その笑顔を見ていたら、張りつめていた緊張の糸が解けて一気に力が抜けた。急激な疲労からか体が甘いものを欲しているのが分かった。そうだ。コーヒーゼリーがあった。
「あ、エレンさん。このゼリー頂きますね。」
「ええ。どうぞ。もっと食べたいなら言ってくださいね。」
俺はスプーンでゼリーをすくおうとした…その瞬間、社長が大声で俺を制した。
「森宮君待て!」
俺は思わずびくっとして社長を見る。
「どうしたんですか急に。」
「ちょっと貸してみろ………そうか。ああ、やっぱりな。おいエレン。こんな悪戯してもらっては困る。」
社長は俺からゼリーをひったくる様にして奪った。そして何かしら一人合点してエレンをにらんでいる。ダークスライムと言えば流れるような液体の上に妙に残念そうな表情を浮かべている。
「社長…。」
「森宮君よ。これが何のゼリーか聞いたか?」
「はい。コーヒーゼリーと聞きましたが。」
一体何事か見当もつかず当惑する俺に対し、社長は口を歪めて皮肉な笑みを見せる。
「これはな。ここに居るエレンの体から取ったダークスライムゼリーなんだぞ。」
「えええっ!」
そうだ。そういえばダークスライムは自分の体に魔力を込めて男に食べさそうとするんだっけ。もし食べていたら今頃俺は…。俺は全てを納得した表情で社長を見た。
「ああ、そうだ。これを食べていれば君は今頃このエレンの婿さんになっていただろうな。」
「だって、さっき魔界産の食べ物は使っていないって…。」
俺は非難がましい目でエレンを見たが、彼女は泰然としたものだ。
「ええ、魔界産の『食料』は使っていないって言ったの。実際にコーヒーも混ぜているしね。だから嘘は言っていないわよ。
でも惜しかったわね。あと少しで君と一緒に素敵な毎日が送れるはずだったのに…。」
そう言うとエレンは淫魔そのものの妖艶な笑みを見せた。ああ。なんかまた一気に不安が襲ってきた。俺は無事にこの店から出ることが出来るのだろうか…。
そうだよな。例の噂が本当なら当然だよな。と納得する。だが、さすがに1時間前は早すぎた。どうしよう。本屋で立ち読みでもして時間を潰すか…。そう思った時、突然目の前の扉が開かれた。
「インキュバス?…いえ、どうやら人間の男の方のようね。もしかしてドワーフの桃里さんのお連れの方?」
俺の目の前に立っていたのは紫色の半透明の液体。人を象っているその姿の胸部には顔の様な丸い球体が浮いている。これは…ダークスライムか?通常のスライムは何度か見た事があるが、ダークスライムを見るのは初めてだ。思わずその姿をまじまじと見つめてしまう。彼女はそんな俺を見て柔らかに笑った。
「私はここの店の者ですけれど、どうかしました?」
「いえ…。すみません。そうです。連れの森宮です。」
「やっぱりそうですか。どうぞお店の中へ。桃里さんから話は聞いているわ。」
ダークスライムの子は店の中に招き入れようとした。だが一人で入る事に抵抗があった俺は尻込みする。
「あ、いえ。連れが来るまで待っています。」
「何を言うの。外でなんか待たせる訳にはいかないわ。」
「いいえ。本当に結構です。」
「大丈夫。桃里さんはうちのお得意様だから。お得意様のお連れの方に誰も手出しさせないわ。」
「いや…。待って!ちょっと待って!!」
俺は強引に店の中に入れられたが中は意外と普通だ。明るく清潔感溢れており、よくあるチェーンの喫茶店とほとんど変わらない。すでに魔物とインキュバスのカップルが何組か居るが、思い思いに談笑したり、抱き合ったりしている。もっと薄暗く、香の煙が漂う店の中で大乱交しているのでは、とそんなイメージを抱いていた俺は拍子抜けする。
「こちらの席へどうぞ。」
椅子に座るとダークスライムは早速メニューを出してきた。ええと、虜の果実100%ジュースに、虜のケーキに、虜のパフェ…。おいおい。人間の俺から見れば危険なメニューしかないじゃないか…。まあ、ここはコーヒーが無難だな。
「コーヒーをお願いします。でも、持ってくるのは連れが来てからでかまいません。」
「そう…。虜の果実や陶酔の果実100%ジュースはいかが?当店のおすすめなんですよ。」
「いえ。結構です。」
「デザートに特濃ホルスタウロスミルクとアルラウネの蜜をたっぷり使ったケーキはどうですか?」
「いえ。本当にお構いなく。」
みんな噂には聞いている魔界の食料品だが、興味はあるが食べる事には抵抗がある物ばかりだ。一度食べたら人間を辞めなければならない様な、危険な薬物の様な印象が強い。
麻薬の売人でもあるかのように、ダークスライムはしきりに勧めてきたが俺は何とか断った。
「ふふっ。そんな警戒しなくてもいいのに…。わかりました。桃里さんたちが来たらお持ちしますね。」
ダークスライムは悪戯っぽく笑うとカウンターの奥に去って行った。さて…。恐る恐る店の中を見回す。幸いにも客は魔物とカップルのインキュバスだけしかいない。誰も俺の事など気にも留めていないようだ。しばらく俺はケータイなど見ていたが、その時不意に声を掛けられた。
「お客様。」
先ほどのダークスライムの店員がにこにこしながらやってきた。手に持ったお盆の上にはガラスの器に入った黒いゼリー。上に生クリームが乗っている。
「あの…これは。」
「初めてのお客様に当店からのサービスです。とってもおいしいコーヒーゼリーよ。ご心配なく。魔界産の食料は何も使っていないから。」
「どうもありがとう。」
甘党の俺にとって生クリーム乗せコーヒーゼリーは当然好物なのだが、こんな状況では食欲などある訳なかった。目の前に置かれたゼリーをただじっと見つめる。
一体社長はいつ来るのだろうか。早く来過ぎた自分の事は棚に上げて少々非難めいた感情を抱く。その時、店のドアが開いた。社長が来てくれたのか。俺は期待を込めてドアの方を見た。
そこに居たのマリンブルーの髪の少女。尖った耳と人間では想像もつかない様な整った美しさから魔物と分かった。彼女はアニメのお嬢様キャラが着る様な可愛いリボンのついた服を着て、そして…なんと竹刀を腰に差している。え、こんな美少女がなんで竹刀?俺は失礼と分かりつつも彼女から目を離せなかった。
ぶしつけな視線に気が付いたのか少女は俺に目をやった。しまった!気が付かれた。俺は慌ててケータイに目をやるが時すでに遅し。少女はつかつかと前に歩み寄った。
「そこの者。…そうだ。そなたの事だ。先ほどよりそなたの視線をずっと感じていたが、私に何か用でもあるのかな?」
「すみません。失礼しました。本当にごめんなさい…。」
その尊大な物言いに、彼女は一体どんな魔物なのかと訝しんだ。だが失礼があったのは俺の方だ。 こうなった以上はとにかく謝るしかない。俺はひたすら頭を下げた。怒られるかと思ったが、以外にも彼女はふっと微笑むと長い髪を掻き上げた。
「ふふ…。まあよい。ところで見た所そなた一人の様だな。それならばどうだ。私と一緒に茶でも飲まぬか?」
凛とした外見と鋭い視線に似合わぬ愛くるしい声に思わず聞き惚れそうになった。
「いや。もう少ししたら連れが来ますから。」
「そなたからはどんな魔物の匂いも魔力も感じぬのだが…。下手な嘘は止めるがいい。」
「違うんです。本当に来るんです…。」
表情に不快な色を隠そうともせずに彼女は見つめる。どうしようか?俺は訳を説明したが、目の前の少女は納得しそうもない。
だが、本当に綺麗な子だ。馴れ馴れしくするのを拒むような尖った雰囲気はあるが、それでも優美という言葉がぴったりくる。街を歩けば大半の者が振り返るだろう。
よく見ると首に高価そうなネックレスをぴったりと巻き付けているが、それが良いアクセントになって美しさを引き立てている。先ほどよりの妙に古めかしい口調は可笑しさを誘うが…。
そうこうしているうちに店員のダークスライムがやってきた。
「お客様。そちらの方は本当にドワーフのお連れの方をお待ち合わせしているんですよ。あまり困らせないでやって下さいな。」
「むっ。それはまことか?」
助かった…。俺は胸をなでおろす。だが青い髪の少女はなおも去ろうとはせずに粘り続けた。
「ふむ。ならばその連れの者が来るまでの間、話でもしようではないか。…そなたがそのドワーフのものになっているのならば私も礼儀に反する真似はせぬが、そなたは独り者なのだから別に問題はあるまい。」
「いや…ですから…困ります…。」
ダークスライムはさあどうする?と言わんばかりの表情を俺に見せた。そして、それ以上は口を挟まず去って行った。まったく。何が誰にも手出しはさせない、だよ…。
その時目の前の少女が何かに気が付いたような顔をした。そして頭を下げる。
「ああ、そうであった。私としたことが失礼をした。私はわが主の命によりこの国に派遣された騎士のレジーナと申すもの。この国は色々学ぶべき事が多いゆえ主より命じられて参った。」
「主、ですか?」
「いかにも。わが主は魔界を統べる魔王だ。」
「そうですか…。」
魔王の配下で騎士と言うと彼女はデュラハンか?美少女が時代劇の侍のような口調で話しているのがおかしかったのだが、それならば納得がいく。けれども何故竹刀なんか持っているのだろう?立派な長剣を腰に差していてもおかしくないだろうに。
そういえばデュラハンは首が簡単に取れると聞いたが、あのネックレスは首を固定するものか…。思わずネックレスに視線が行ってしまう。そんな俺に対しデュラハンの騎士は顔を強張らせ、非難めいた口調で語りかける。
「じろじろ見てこの首飾りがそんなに珍しいか?…それに、私は名乗ったのだぞ。そなたは名乗り返す気は無いのか?おまけに目の前に私が立ちつくしているのに席を進めようともせぬ。先ほどより無礼であろう…。」
そう言われればその通りだ。だが、お嬢様の様な服を着た愛らしい声の美少女が侍の口調で、無礼であろう、と傲然と胸を張る。おまけに腰に竹刀まで差して。その妙な可笑しさにもう我慢できなかった。失礼はわかっていたが吹き出してしまうのを抑えきれなかった。
「すみま…ぷっ。すみません。」
「おのれッ!!」
その瞬間、少女は怒号を上げると目にもとまらぬ速さで抜刀した。そして竹刀を俺の目の前に突き付けた。
「どうやらそなたは私を愚弄したいようだな…。一体いかなる訳でこのような真似をしでかしているのか答えてもらおう。」
あまりに突然の事で頭が真っ白になり言葉も出ない。目を白黒させて目の前の美少女を見つめるしかなかった。彼女の怒りに燃える瞳はじっと俺を捕え続けている。困った。これはとんでもない事になった…。
「そなたを傷つけるつもりはないが、返答しだいによっては少々痛い目を見る事になるぞ…。」
この騒ぎを聞きつけたダークスライムの店員が慌ててやって来たが、周りの客たちは冷静なものだ。ああ、またか、といった風情で見物している。
「ちょっとお客さん!いったい何やってるの!」
「これは私とこの者の問題だ。関わりのない者の口出しは無用に願おうか。」
制止するように叫ぶダークスライムに対し、デュラハンはそっけなく言った。
「関わり?大いにあるわ。私はこの店の店員よ。ここで騒ぎを起こすなら出て行ってちょうだい!」
「貴様―ッ!!」
俺を守る様に割って入ったダークスライムに対し、デュラハンはますます怒りを募らせる。馬鹿な振る舞いから大騒動が持ち上がってしまった。いったいどうしよう…。ふたりはじっと睨み合っている。もうこうなったら土下座でもするしかないか。そう思った時だった。
「何の騒ぎかと思ったら森宮君じゃないか。いったい何があった?」
「社長!」
「桃里さん。」
俺とダークスライムの子がほぼ同時に声を上げて振り向く。そこには幼女の様な可愛らしい姿があった。社長が来てくれたのだ。
「どうした。訳を説明してくれ。…ああ、そこの竹刀振り回している姉ちゃんもそんな怖い顔しないでくれ。私はこいつの連れの者だ。」
「むっ。てっきり口裏を合わせて私を謀るつもりだと思ったが、連れがいるというのは本当であったか。だがなッ…」
「まあまあ、あんたもその物騒な物を下してくれ。そんなんじゃ落ち着いて話も出来ない。」
社長の口調は穏やかだがその裏には威圧的ともいえるような迫力があった。小さな体の一体どこにそんな力があるのだろう。デュラハンの騎士は気勢をそがれたかの様に竹刀を下した。俺は事の一部始終を社長に説明した…
「なるほど。それじゃあ騎士さんはうちの森宮の無礼な振る舞いが許せないと、そういう訳だね。」
「いかにもその通りだ。だいたいこの者は礼儀というものを…」
捲し立てようとしたレジーナに対し桃里社長は手を上げて制した。
「ちょっと待ってくれ騎士さん。言っておくが私たちは別にあんたを招いた訳でもなんでも無いんだよ。招かれもせずに勝手に押しかけて居座って、礼儀だの無礼だの言うのは理不尽ってものだろ?」
「それは…。」
「魔王軍の騎士というとあんたデュラハンなんだろ?デュラハンと言えば魔王軍の最精鋭じゃないか。自堕落な私たちとは違った誇り高い人達が、こんな事をしたんじゃ騎士の名誉に傷がつくんじゃないのかい?」
社長は穏やかに、そして諭すように語りかけた。その正論にレジーナは悔しそうに黙り込んでいる。どうやら図星らしく反論できない様だ。
「だけど、最初に挑発みたいな事をしてしまったこちらも当然悪い。こいつはどうも世間知らずな所があってね。決して悪意は無かったんだよ。私からも謝らせてくれ。」
そう言って社長は頭を下げると俺の腿を叩いた。
「さっ森宮君。君も謝るんだ。」
俺は深く頭を下げると謝罪した。俺たちの間に沈黙の時が流れた。レジーナは顔に苛立ちと苦渋の色を浮かべている。
「…もうよい。」
しばし黙然とした後、デュラハンは苦いものを吐き捨てるかのように呟いた。
「それじゃあ許してもらえるのかい?」
「ああ…。だが一つ聞きたい事がある。」
そう言ってレジーナは俺を憂いを込めた目で見つめる。今まで威丈高な姿勢が目立っていた彼女の思わぬ振る舞いにはっとした
「一体そなたはなぜ私をしげしげと見つめたりしたのだ。おまけに急に噴き出しおって。もしかして着ている服がおかしかったか?これは我が故郷より持ち込んだのだが…一応私のお気に入りなのだぞ…。そなたたちの言う…勝負服、と言う奴か…。」
先ほどとは打って変わり不安そうにぼそぼそとしゃべるレジーナはとても可憐だった。俺は悪い事をしてしまったと後悔し慌てて否定する。
「いいえ。とんでもない!とても素敵です。すごく良く似合っていますよ。」
「な、な、何を言う!今さら世辞などよい!では…いったい何が可笑しかったと言うのだ?」
急に真っ赤な顔になってしどろもどろになるデュラハンの騎士が可愛くて、俺は彼女に対して急速に親しみを感じて行く。
「はい。実はその竹刀が気になりまして…。」
「む?これか?これは上の者から命じられてな。色々と問題になるから真剣を帯びるなと言われたのだ。我らの武器は人を殺したり傷つけたりするものでは無いと何度説明しても納得せぬ…。腰に何もないとさすがに落ち着かぬゆえ、止むなくこのまがいものを差していると言う訳だ。」
レジーナはそういって竹刀をぽんぽんと叩く。笑みこそ見せなかったが随分表情は柔らかくなっているようだ。それを見た俺は内心安堵した。
「それで、これがそんなにおかしかったのか?」
「申し上げにくいのですが、僕たちの間ではめったにそういう事をする人はいませんので。」
「そうであったか…。」
腕組みをして考え込むようにするレジーナ。事情も知らないで変な物を見るような目で見てしまった俺が愚かだったようだ。
「あの…じろじろ見たり笑ったりしてすみません。もう一度謝らせてください。」
申し訳なさから自然と謝罪の言葉が出た。デュラハンの騎士はそんな俺を見てやれやれとでも言いたそうに微苦笑する。
「もうよいと言ったであろう。私から見てもこの国の風習は随分と奇異に映る事が多い。正直呆れる事もあるのだ。だからまあお互い様と言う事にしておこう。」
言おうか言うまいかしばし迷っていた素振りだったが、それにな、と言うとレジーナは言葉を続けた。
「実を言うと私はつい最近この国に赴任したのだ。慣れぬ異国の地で不満や鬱憤が色々溜まってしまってな。見かねた同輩からこの店に行けばよき殿御と出会えるからと教わり来てみたのだが…それがこのざまだ。」
自分を嘲るかのように薄く笑うとレジーナは俺の方を真っ直ぐ見た。魔界騎士とはいえレジーナも一人の少女。文化や習慣が全く異なるこの地で苦労しているのだろう。人々の好奇の視線に晒されて、不快な思いをすることも多いのかもしれない。
それが、たまたま気晴らしに来たこの店でも、俺の様な馬鹿者に失礼な振る舞いをされたのだ。苛立ちが抑えきれなくなっても当然だろう。
「早い話私はそなたたちに八つ当たりしてしまったのであろう。私こそ謝らせてほしい。本当に酷い事をした。申し訳ない。」
そう言って深く頭を下げるデュラハンの騎士。潔いその姿勢に俺は言葉もなかった。
「レジーナさん…。」
「よし!ここまでだ!これでお互い恨みっこなしと言う事で手打ちにしよう!」
桃里社長がこれで仲直りだと言わんばかりに相好を崩すと俺とレジーナのふくらはぎを叩いた。
「仲直りのしるしにあんたの分は私のおごりと言う事でどうだ?」
「いや。その気持ちだけ有難くいただいておこう。では…」
レジーナはそう言って去って行こうとする。そういえば大切な事を何か忘れていないか?ああ、そうだった!礼儀には礼儀を持って答えるべきではないのか。気が付いた俺は慌てて彼女を呼び止める。
「レジーナさん。待ってください。」
「一体どうしたのだ?」
「僕はこの街に住んでいる、森宮佑人と言います。ようこそこの街へ。」
彼女をまっすぐに見て名乗った俺に対し、デュラハンの騎士は今日初めての爽やかな笑顔を見せた。今までの鋭く尖った雰囲気が嘘の様に柔らかくなる。
「…そうか。森宮殿か。また縁があればお会いしたいものだな。それでは失礼する。」
レジーナは微笑みを残すと店の奥の方へ颯爽と去って行った。
後には俺と社長。そしてダークスライムの店員の子が残された。今まで緊迫していた空気が柔らかいものになっていく。
「あー。いったいどうなる事かと思ったぞ。森宮君。独身の魔物をあまり刺激する様な事はしちゃいかん。エレンにも色々世話になったな。って、だいたい森宮君はなんでこんな早くから店にいるんだ。」
「本当に申し訳ありません社長…。」
俺はただ頭を下げるしかなかった。本当に迷惑をかけてしまった。社長が来てくれなかったらいったいどうなっていたか…。それとダークスライムの子、エレンにも随分と助けてもらった。彼女に少し不快感を持ってしまって申し訳なく頭を下げる。
「それとエレンさん。本当に助かりました。ありがとうございます。」
「そんな畏まらなくていいんですよ。さっき言ったじゃない。誰にも手出しさせないって。」
エレンはにこやかに笑う。今までに見たスライムは無表情の子が多かった印象だが、彼女はとても素敵な笑顔を見せてくれる。
その笑顔を見ていたら、張りつめていた緊張の糸が解けて一気に力が抜けた。急激な疲労からか体が甘いものを欲しているのが分かった。そうだ。コーヒーゼリーがあった。
「あ、エレンさん。このゼリー頂きますね。」
「ええ。どうぞ。もっと食べたいなら言ってくださいね。」
俺はスプーンでゼリーをすくおうとした…その瞬間、社長が大声で俺を制した。
「森宮君待て!」
俺は思わずびくっとして社長を見る。
「どうしたんですか急に。」
「ちょっと貸してみろ………そうか。ああ、やっぱりな。おいエレン。こんな悪戯してもらっては困る。」
社長は俺からゼリーをひったくる様にして奪った。そして何かしら一人合点してエレンをにらんでいる。ダークスライムと言えば流れるような液体の上に妙に残念そうな表情を浮かべている。
「社長…。」
「森宮君よ。これが何のゼリーか聞いたか?」
「はい。コーヒーゼリーと聞きましたが。」
一体何事か見当もつかず当惑する俺に対し、社長は口を歪めて皮肉な笑みを見せる。
「これはな。ここに居るエレンの体から取ったダークスライムゼリーなんだぞ。」
「えええっ!」
そうだ。そういえばダークスライムは自分の体に魔力を込めて男に食べさそうとするんだっけ。もし食べていたら今頃俺は…。俺は全てを納得した表情で社長を見た。
「ああ、そうだ。これを食べていれば君は今頃このエレンの婿さんになっていただろうな。」
「だって、さっき魔界産の食べ物は使っていないって…。」
俺は非難がましい目でエレンを見たが、彼女は泰然としたものだ。
「ええ、魔界産の『食料』は使っていないって言ったの。実際にコーヒーも混ぜているしね。だから嘘は言っていないわよ。
でも惜しかったわね。あと少しで君と一緒に素敵な毎日が送れるはずだったのに…。」
そう言うとエレンは淫魔そのものの妖艶な笑みを見せた。ああ。なんかまた一気に不安が襲ってきた。俺は無事にこの店から出ることが出来るのだろうか…。
17/03/06 23:29更新 / 近藤無内
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