第三話[別離]
朝に出かけたアレクさんが帰ってきた。
手には袋を持っている。
背負っているのは『ヴァーダント』という大剣だそうだ。
以前触らせてもらおうとしたら、
「お前にはまだ早い」
と触らせてもらえなかった。かっこいい剣なだけに残念。
「おかえりなさい、アレクさん。」
「ただいまクロア。こいつは土産だ。遠慮無く読んでいいぞ。」
読んでいいということは本なのかな?
袋を開けると分厚い本が何冊か入っていた。
「結界術入門……?こっちは初級結界法……。みんな結界とかの指南書ですか?」
「あぁ。そういうのが使えたほうがいいだろう。中には魔物避けの結界もあるから使いこなせるようになっておけよ。」
ということは……この結界術を使いこなせるようになればこれ以上死なせなくて済む?
誰も……傷つけなくていいのかな……
「有難うございますアレクさん!僕……頑張ります!」
「おう。ま、今は頑張る前に昼飯だ。作るのを手伝ってくれ。」
「はい!」
昼食を食べている最中、アレクさんから忠告を受けた。
「お前の精液で魔物が死んでしまうって事は誰にも言うなよ?魔物も含めて全員にだ。」
「なんでです?わざわざ死ぬと解ってて手を出す人はいないでしょうから警告に使えると思うんですけど……」
しかしアレクさんは手を振ってそれを否定する。
「確かに抑止力にはなるかもしれない。が、その話が広まったらどうなる。危険人物だとみなされてお前が狙われるかもしれない。今現在の魔物はいたずらに人の生命を奪わないからといって、危険の芽を摘むためにお前を消してしまうかもしれないんだ。だから、言うな。」
そうか……今までは警告無視で襲われて死んじゃったから広がらなかったけど、もし踏みとどまって話が広まったら僕が殺されちゃうかもしれないんだ……。
「でも、それで僕が消えるのであれば……」
「その先を言うな!」
アレクさんの怒号が飛ぶ。
その表情には強い怒りと、悲しみが浮かんでいた。
「自分がいなくなればそれでいいとか言うな……。例えお前が世界から望まれなくても、俺がお前を必要としてやる。俺が、お前の居場所になってやる!」
身を乗り出して、アレクさんは僕の頭を撫でてくれた。
「アレクさん……僕、いなくならなくていいんですか?生きていても……いいんですか?」
「あぁ。生きろ。そして見せつけてやれ。お前が疎まれようとも堂々と生きているとな。」
昼食を食べ終わった後、僕は小屋の近くの木陰で貰った本を読むことにした。
「六角形に切り抜いた木の板にルーンを刻んで自分の血を流しこむ……か。」
木の板は薪の切れ端で大丈夫。血も針か何かで少し出すくらいなら問題ないかな。
六角形は結界の形。大きさは結界を張る範囲。血は自分を認識させるためらしい。
書きこむルーンは数式みたいなものなんだって。
ナイフで薪の切れ端を削って六角形にして、ナイフでルーンを彫り入れる。
裁縫箱の中の針で人差し指の先を少し刺して、出てきた血でルーンをなぞれば書けば完成だ。
「あとはこれを肌身離さず持っていれば大丈夫……と。」
でも本当に効くのかな?
小屋に本を片付けに行ったらさっそく試してみよう。
〜木洩れ日の森〜
アレクさん曰く、この付近の森は気性の荒い魔物はいないんだって。
マタンゴさん達もいなくなったからだんだんと生態系が戻ってきているとか……。
彼女たちには悪いけれど……これでよかったのかもしれない。
「あ……」
少し離れた所に女の人が立っている。
たまに移動もするけれど歩いているって感じじゃない。
「え〜と……おおなめくじ……だっけ?」
動きが遅い事で有名だったはず。万が一気づかれても逃げられるから大丈夫かな。
僕は静かに彼女の前へと移動する。
「(いくら結界を張っていたとしても声を出すと気づかれちゃうんだっけ……。)」
彼女が僕の方に近づいてくるけれど、その目線は僕を捉えている訳じゃないみたいだ。
静かに道の脇に身を寄せると、彼女は僕の横を素通りしていった。
「(効いた……かな?多分気づかれていない。)」
結界が上手くいったことで僕は油断していたんだ。
その場を立ち去ろうとしたとき……
<べちょ>「へ?」
足の裏に何かがくっついて転んでしまった。
さらにそこの地面一帯にはベタベタしたものが伸びていて、僕はそのベタベタに絡め取られてしまった。
「い……痛い……」
「はれ〜?」
今の声で結界が解けてしまったようだ。
なめくじのお姉さんに気づかれてしまった。
「あはは……こ、こんにちは……」
僕苦笑い。できれば見逃して欲しいな〜……
「かわいい男の子見つけました〜♪」
無理でした。
「あ、あの!僕美味しくないですよ!?食物的な意味でも性的な意味でも!」
どっちも嘘は付いていない。
マズイどころかポイズンクッキングもかくやという即死級の代物なのだ。
……ところでポイズンクッキングって何?
「何言っているんですか〜。こんなにおいしそうなのに〜♪」
あぁもう!なんで魔物のお姉さんってこんなのばっかり!?
「本当にまずいですから!死ぬぐらいまずいですから!」
「ここまで怯えられると逆に食べたくなりますねぇ」
あぁ、やっぱり……。なぜか僕が抵抗すればするほどお姉さん達には美味しそうに見えるらしい。
ここで泣いたら余計に食べられそう〜……って涙出てきた。
「あぅ……」
「大丈夫ですよぉ〜。怖い事はなにもしませんからぁ♪」
せめて襲われるのを思いとどまらせるような何かを……!
と、ポケットに入れた手に何かが当たる。
慎重に取り出すとそれは結界の札を彫り出すのに使ったナイフだった。
「(せめて脅しになれば……!)」
しかし、刃を向ける相手は彼女ではない。
僕はそのナイフを自分の首筋に当てる。
「それ以上近づかないで下さい……!」
彼女はかなり困惑しているようだ。
まさか自分ではなく、僕に刃が向けられるとは思ってもいなかったらしい。
「危ないですよ〜?それを下げてください〜。」
「…………っ!」
自分の首筋に少しだけ刃を沈みこませる。
薄く裂けた首筋から一筋の血が流れる。
痛いけど、僕が屈してしまったらこれの何百倍も苦痛を与えることになるんだ……!
それを考えたらこの程度!
「帰ってください!押し倒したら僕の首を掻き切りますよ!」
「それは脅し文句としてどうなのでしょうか……」
呆れられているけれど構わない。これで退いてくれるなら安いものだ。
彼女は目の前のご馳走と、そのご馳走を食べようとした時に即台無しになるというジレンマで深く悩んでいるようだ。
「(あと一押し……!何かおもいっきり引かせる決定的な一言を……!)」
今まで本で読んだ内容を頭の中から検索。
ナメクジ、食べ物、嗜好……できた!
「実は僕、料理は塩辛くないと食べられないんだ!」
「君はこの状況で何を言っているんですか!?」
失敗。ドン引きはさせたけれど変な方向に飛んでしまった。
しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「今僕の血中塩分濃度は健康な人より高い状態です!」
「そして何故ここで不健康のカミングアウトを!?」
どんどん引いていってる!あと一押し!
「早く帰らないと全身にナイフを突き立てて血まみれになった挙句抱きつきますよ!?」
「やめて!そんな自爆まがいの決死攻撃はしないで!帰る、帰るから!」
そう言うと彼女はいそいそとその場を去っていった。
「やった……勝った……!」
色々なものを失った気がするけれど、なんとか退けた。
思えば抵抗に成功したのはこれが初めてのような気がする。
「いたた……血が……」
首に付いた血は大部分が固まっていたけれど、傷口はそのままだ。
「早く帰って手当しないと……。傷口にばい菌が入ったら大変だ。」
しかし……
「……あれ?動けない……」
それもそのはず。なめくじのお姉さんの通った後の粘液がベッタリとくっつき、なおかつガチガチに固まってしまったのだ。ちょっとやそっとじゃ剥がれそうもない。
「ん〜〜〜〜!んぅ〜〜〜〜〜!んにゃう〜〜〜〜!」
ジタバタともがいてみたけれど取れる気配は無し。どうしよう。
「水でもあれば剥せるかな……?」
でもすぐに帰る予定だったから水筒なんて用意していない。
あとはすぐに出せる水といえば唾と……
「……おしっこ?」
さすがにそれは嫌だ。
僕が途方にくれていると、ガサガサと草むらから音がした。
「(ヤバい!こんな状況で襲われたら……!)」
しかし、結界の効力は戻っている。これで大声を出したりしなければだいじょう……
<ガサッ>←ゾンビ出現
「いやああああああああああああああああ!!!!」
さすがに死体が出てくるのは反則だと思う。
「あ〜……?おいしそう……おとこのこ……」
ゆらゆらと彼女がこちらへと近寄ってくる。
動きが遅いということは逃げられるということなのだけれど……。
「んぐ〜〜〜〜〜!んぐ〜〜〜〜〜!」
地面に貼り付けられていては逃げようがない。
彼女は僕のズボンを引きずり下ろすとおちんちんをしゃぶり始めた。
「だ、だめだって!くわえちゃ……!」
膝でガシガシと頭を蹴ってみるけれど効果が薄い。
というか僕自身あまり力が強くない。
「出ちゃうから!死んじゃうから!あ、もう死んでいるんだっけ……」
ではなくて。
「死んでいるなら遠慮はいらない……よね?」
ナイフを彼女の首の後ろに垂直に立てる。狙うのは頚椎。
さすがに首から下の神経が断たれれば動くことはできなくなると思うんだけど……。
ナイフをゆっくりと沈めていく。
<じゅぐじゅぐじゅぐじゅぐ>←何か変な汁が溢れてくる音
<けぽけぽけぽけぽッ>←僕が吐く音
「気持ち悪!何か変な汁が出てきた!」
とてもじゃないが直視に耐える光景じゃない。
しかし、見ないと正確にナイフを突き立てることが出来ない。
「っ……!躊躇している場合じゃ……ない!」
絶えず与えられる刺激でそろそろ限界が近づいてきた。
今ここで彼女を動けなくすればこの刺激も止まる。
動けなくなったとしても魔力がある限り自己修復はできるはず……!
もし出来なかったら……そこにあるのは消滅の二文字だ。
なんとかナイフを振り上げる。
「ごめ……」
その時僕は見てしまった。
首筋から溢れる黄緑色をした変な液体を。
「おげぇぇぇええええ!」
さすがに無理。見れない。
「は、吐いている場合じゃ……ぁ……ぁぁぁぁああああ!」
忘れていた射精感がいきなり込み上げてくる。
どんなに我慢しても、どんなに深呼吸をして気を落ち着けても無理。
堰を切ったように彼女の口の中に死の奔流が吹き出した。いや、もう死んでいるんだっけ。
「ぁぁ…………ぁぁあ?」
もう体の感覚も無いのがせめてもの救いか。
燃え上がる体にも頓着せず、彼女はただ首をかしげているだけだった。
しばらくした後、彼女は骨だけ残して消え去った。
生きている魔物を死なせてしまった程の罪悪感は無いものの、無力感と虚無感が僕の中に渦巻いていた。
「ごめんなさい……安らかに、眠ってください。」
彼女の頭蓋骨を拾い上げて抱きしめ、僕は涙を流した。
不幸中の幸いというか、自分で吐き出した吐瀉物のおかげで粘液は剥がれてくれた。
僕の汚物にまみれた服で包むのは忍びなかったけれど、他に包む物も無かったのでシャツを脱いでその中に彼女の遺骨を入れた。
森を抜けたら埋葬してあげよう。
森の外れの日の当たるところに彼女の骨を埋めて、家に戻って来た頃には既に日はどっぷりと暮れていた。
アレクさんはまだ帰ってきていない。
僕は汚れたシャツとズボンを洗うと、代わりの服を着て夕飯の準備をすることにした。
料理の本の通りにすればだいたいのものは作れる。
「アレクさん……早く帰ってこないかな……。」
しかし、その日以来アレクさんが帰ってくる事は無かった。
ALEC Side
〜???〜
「クソッ……しくじったか……」
辺りは既に暗闇に包まれ、1メートル先も見えない状態だ。
ガルムト教会の研究所から機密文書――それもクロアに関する事をだ――を盗み出したはいいのだが、追っ手に手ひどい一撃をもらってしまった。
所持していた剣から言って恐らくは勇者の類だろう。
脇腹からはだくだくと血が流れ出し、内臓も少し飛び出ている。
「せめて……この文書は……あいつらの目の届かない場所へ……やる必要があるな……」
ポーチからカプセルを取り出す。
『マトラ』。特定の相手か、その場で定めた呪文<ワード>でないと開かない機密文書保管用のカプセルだ。
カプセルを開き、文書を丸めてその中へと詰め込む。
蓋を閉めて受取人を言えば完了だ。
「モイライ冒険者ギルド支部……ミリア=フレンブルク……」
カプセルが光り、封が終わったことを告げる。
表面にナイフで宛先を刻み、側に流れていた小川にカプセルを投げ込む。
「わりぃなぁ……クロア……。俺ぁ……これ以上……お前の居場所には……なれそうもねぇや……」
ガサガサと草むらを踏み分ける音が近づき、目の前に誰かが立った。
着ている鎧や紋章から、恐らくは教会の騎士。それもかなり地位の高い奴だろう。
「はは……見つかっちまったか……ざまぁないな。」
「お前が奪った機密文書。渡してもらうか。」
やはり追ってきた理由はそれだよな。
「あんた……あの文書の中身を……知っているのか?」
「私の任務の中に文書の内容を知るという事は含まれてはいない。奪われたものを取り返すだけだ。」
任務に忠実ですこと……。
「わりぃな……もうここにはねぇよ。明日にゃぁ……もうどことも知れない……異国の地に……行っちまっているかもなぁ……」
表情こそ見えなかったが、明らかに落胆した風だった。
「最後に言い残すことはあるか?」
「遺言を聞いてくれるのか……うれしいねぇ……涙がでてくらぁ……」
俺は背中の留め具から愛剣『ヴァーダント』を取り外すと、騎士に持ち手を向ける。
「モイライの……冒険者ギルドに……こいつを届けてくれ……。形見として……持っていて欲しい奴が……いる。」
意識が朦朧としてきた。痛みももはやほとんど感じない。
「しかと受け取った。貴様、名は何という。」
「アレク……。あるガキの……世界を救ってやれなかった……弱っちい冒険者だ……」
そして、俺の意識は闇へと落ちて行った。
『報告
昨日夜中にKCに関する機密文書が盗み出されるという事件が発生しました。
捕縛に向かわせた騎士団団長の報告によると、機密文書は既に賊の手を離れており、周囲を探させたものの機密文書らしき物は発見できませんでした。
即座に計画が漏洩するという事態にはならないかと存じますが、念のためそれらしき噂が立った場所は掃討しておいたほうが良いでしょう。
ガルムト教会 研究部』
手には袋を持っている。
背負っているのは『ヴァーダント』という大剣だそうだ。
以前触らせてもらおうとしたら、
「お前にはまだ早い」
と触らせてもらえなかった。かっこいい剣なだけに残念。
「おかえりなさい、アレクさん。」
「ただいまクロア。こいつは土産だ。遠慮無く読んでいいぞ。」
読んでいいということは本なのかな?
袋を開けると分厚い本が何冊か入っていた。
「結界術入門……?こっちは初級結界法……。みんな結界とかの指南書ですか?」
「あぁ。そういうのが使えたほうがいいだろう。中には魔物避けの結界もあるから使いこなせるようになっておけよ。」
ということは……この結界術を使いこなせるようになればこれ以上死なせなくて済む?
誰も……傷つけなくていいのかな……
「有難うございますアレクさん!僕……頑張ります!」
「おう。ま、今は頑張る前に昼飯だ。作るのを手伝ってくれ。」
「はい!」
昼食を食べている最中、アレクさんから忠告を受けた。
「お前の精液で魔物が死んでしまうって事は誰にも言うなよ?魔物も含めて全員にだ。」
「なんでです?わざわざ死ぬと解ってて手を出す人はいないでしょうから警告に使えると思うんですけど……」
しかしアレクさんは手を振ってそれを否定する。
「確かに抑止力にはなるかもしれない。が、その話が広まったらどうなる。危険人物だとみなされてお前が狙われるかもしれない。今現在の魔物はいたずらに人の生命を奪わないからといって、危険の芽を摘むためにお前を消してしまうかもしれないんだ。だから、言うな。」
そうか……今までは警告無視で襲われて死んじゃったから広がらなかったけど、もし踏みとどまって話が広まったら僕が殺されちゃうかもしれないんだ……。
「でも、それで僕が消えるのであれば……」
「その先を言うな!」
アレクさんの怒号が飛ぶ。
その表情には強い怒りと、悲しみが浮かんでいた。
「自分がいなくなればそれでいいとか言うな……。例えお前が世界から望まれなくても、俺がお前を必要としてやる。俺が、お前の居場所になってやる!」
身を乗り出して、アレクさんは僕の頭を撫でてくれた。
「アレクさん……僕、いなくならなくていいんですか?生きていても……いいんですか?」
「あぁ。生きろ。そして見せつけてやれ。お前が疎まれようとも堂々と生きているとな。」
昼食を食べ終わった後、僕は小屋の近くの木陰で貰った本を読むことにした。
「六角形に切り抜いた木の板にルーンを刻んで自分の血を流しこむ……か。」
木の板は薪の切れ端で大丈夫。血も針か何かで少し出すくらいなら問題ないかな。
六角形は結界の形。大きさは結界を張る範囲。血は自分を認識させるためらしい。
書きこむルーンは数式みたいなものなんだって。
ナイフで薪の切れ端を削って六角形にして、ナイフでルーンを彫り入れる。
裁縫箱の中の針で人差し指の先を少し刺して、出てきた血でルーンをなぞれば書けば完成だ。
「あとはこれを肌身離さず持っていれば大丈夫……と。」
でも本当に効くのかな?
小屋に本を片付けに行ったらさっそく試してみよう。
〜木洩れ日の森〜
アレクさん曰く、この付近の森は気性の荒い魔物はいないんだって。
マタンゴさん達もいなくなったからだんだんと生態系が戻ってきているとか……。
彼女たちには悪いけれど……これでよかったのかもしれない。
「あ……」
少し離れた所に女の人が立っている。
たまに移動もするけれど歩いているって感じじゃない。
「え〜と……おおなめくじ……だっけ?」
動きが遅い事で有名だったはず。万が一気づかれても逃げられるから大丈夫かな。
僕は静かに彼女の前へと移動する。
「(いくら結界を張っていたとしても声を出すと気づかれちゃうんだっけ……。)」
彼女が僕の方に近づいてくるけれど、その目線は僕を捉えている訳じゃないみたいだ。
静かに道の脇に身を寄せると、彼女は僕の横を素通りしていった。
「(効いた……かな?多分気づかれていない。)」
結界が上手くいったことで僕は油断していたんだ。
その場を立ち去ろうとしたとき……
<べちょ>「へ?」
足の裏に何かがくっついて転んでしまった。
さらにそこの地面一帯にはベタベタしたものが伸びていて、僕はそのベタベタに絡め取られてしまった。
「い……痛い……」
「はれ〜?」
今の声で結界が解けてしまったようだ。
なめくじのお姉さんに気づかれてしまった。
「あはは……こ、こんにちは……」
僕苦笑い。できれば見逃して欲しいな〜……
「かわいい男の子見つけました〜♪」
無理でした。
「あ、あの!僕美味しくないですよ!?食物的な意味でも性的な意味でも!」
どっちも嘘は付いていない。
マズイどころかポイズンクッキングもかくやという即死級の代物なのだ。
……ところでポイズンクッキングって何?
「何言っているんですか〜。こんなにおいしそうなのに〜♪」
あぁもう!なんで魔物のお姉さんってこんなのばっかり!?
「本当にまずいですから!死ぬぐらいまずいですから!」
「ここまで怯えられると逆に食べたくなりますねぇ」
あぁ、やっぱり……。なぜか僕が抵抗すればするほどお姉さん達には美味しそうに見えるらしい。
ここで泣いたら余計に食べられそう〜……って涙出てきた。
「あぅ……」
「大丈夫ですよぉ〜。怖い事はなにもしませんからぁ♪」
せめて襲われるのを思いとどまらせるような何かを……!
と、ポケットに入れた手に何かが当たる。
慎重に取り出すとそれは結界の札を彫り出すのに使ったナイフだった。
「(せめて脅しになれば……!)」
しかし、刃を向ける相手は彼女ではない。
僕はそのナイフを自分の首筋に当てる。
「それ以上近づかないで下さい……!」
彼女はかなり困惑しているようだ。
まさか自分ではなく、僕に刃が向けられるとは思ってもいなかったらしい。
「危ないですよ〜?それを下げてください〜。」
「…………っ!」
自分の首筋に少しだけ刃を沈みこませる。
薄く裂けた首筋から一筋の血が流れる。
痛いけど、僕が屈してしまったらこれの何百倍も苦痛を与えることになるんだ……!
それを考えたらこの程度!
「帰ってください!押し倒したら僕の首を掻き切りますよ!」
「それは脅し文句としてどうなのでしょうか……」
呆れられているけれど構わない。これで退いてくれるなら安いものだ。
彼女は目の前のご馳走と、そのご馳走を食べようとした時に即台無しになるというジレンマで深く悩んでいるようだ。
「(あと一押し……!何かおもいっきり引かせる決定的な一言を……!)」
今まで本で読んだ内容を頭の中から検索。
ナメクジ、食べ物、嗜好……できた!
「実は僕、料理は塩辛くないと食べられないんだ!」
「君はこの状況で何を言っているんですか!?」
失敗。ドン引きはさせたけれど変な方向に飛んでしまった。
しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「今僕の血中塩分濃度は健康な人より高い状態です!」
「そして何故ここで不健康のカミングアウトを!?」
どんどん引いていってる!あと一押し!
「早く帰らないと全身にナイフを突き立てて血まみれになった挙句抱きつきますよ!?」
「やめて!そんな自爆まがいの決死攻撃はしないで!帰る、帰るから!」
そう言うと彼女はいそいそとその場を去っていった。
「やった……勝った……!」
色々なものを失った気がするけれど、なんとか退けた。
思えば抵抗に成功したのはこれが初めてのような気がする。
「いたた……血が……」
首に付いた血は大部分が固まっていたけれど、傷口はそのままだ。
「早く帰って手当しないと……。傷口にばい菌が入ったら大変だ。」
しかし……
「……あれ?動けない……」
それもそのはず。なめくじのお姉さんの通った後の粘液がベッタリとくっつき、なおかつガチガチに固まってしまったのだ。ちょっとやそっとじゃ剥がれそうもない。
「ん〜〜〜〜!んぅ〜〜〜〜〜!んにゃう〜〜〜〜!」
ジタバタともがいてみたけれど取れる気配は無し。どうしよう。
「水でもあれば剥せるかな……?」
でもすぐに帰る予定だったから水筒なんて用意していない。
あとはすぐに出せる水といえば唾と……
「……おしっこ?」
さすがにそれは嫌だ。
僕が途方にくれていると、ガサガサと草むらから音がした。
「(ヤバい!こんな状況で襲われたら……!)」
しかし、結界の効力は戻っている。これで大声を出したりしなければだいじょう……
<ガサッ>←ゾンビ出現
「いやああああああああああああああああ!!!!」
さすがに死体が出てくるのは反則だと思う。
「あ〜……?おいしそう……おとこのこ……」
ゆらゆらと彼女がこちらへと近寄ってくる。
動きが遅いということは逃げられるということなのだけれど……。
「んぐ〜〜〜〜〜!んぐ〜〜〜〜〜!」
地面に貼り付けられていては逃げようがない。
彼女は僕のズボンを引きずり下ろすとおちんちんをしゃぶり始めた。
「だ、だめだって!くわえちゃ……!」
膝でガシガシと頭を蹴ってみるけれど効果が薄い。
というか僕自身あまり力が強くない。
「出ちゃうから!死んじゃうから!あ、もう死んでいるんだっけ……」
ではなくて。
「死んでいるなら遠慮はいらない……よね?」
ナイフを彼女の首の後ろに垂直に立てる。狙うのは頚椎。
さすがに首から下の神経が断たれれば動くことはできなくなると思うんだけど……。
ナイフをゆっくりと沈めていく。
<じゅぐじゅぐじゅぐじゅぐ>←何か変な汁が溢れてくる音
<けぽけぽけぽけぽッ>←僕が吐く音
「気持ち悪!何か変な汁が出てきた!」
とてもじゃないが直視に耐える光景じゃない。
しかし、見ないと正確にナイフを突き立てることが出来ない。
「っ……!躊躇している場合じゃ……ない!」
絶えず与えられる刺激でそろそろ限界が近づいてきた。
今ここで彼女を動けなくすればこの刺激も止まる。
動けなくなったとしても魔力がある限り自己修復はできるはず……!
もし出来なかったら……そこにあるのは消滅の二文字だ。
なんとかナイフを振り上げる。
「ごめ……」
その時僕は見てしまった。
首筋から溢れる黄緑色をした変な液体を。
「おげぇぇぇええええ!」
さすがに無理。見れない。
「は、吐いている場合じゃ……ぁ……ぁぁぁぁああああ!」
忘れていた射精感がいきなり込み上げてくる。
どんなに我慢しても、どんなに深呼吸をして気を落ち着けても無理。
堰を切ったように彼女の口の中に死の奔流が吹き出した。いや、もう死んでいるんだっけ。
「ぁぁ…………ぁぁあ?」
もう体の感覚も無いのがせめてもの救いか。
燃え上がる体にも頓着せず、彼女はただ首をかしげているだけだった。
しばらくした後、彼女は骨だけ残して消え去った。
生きている魔物を死なせてしまった程の罪悪感は無いものの、無力感と虚無感が僕の中に渦巻いていた。
「ごめんなさい……安らかに、眠ってください。」
彼女の頭蓋骨を拾い上げて抱きしめ、僕は涙を流した。
不幸中の幸いというか、自分で吐き出した吐瀉物のおかげで粘液は剥がれてくれた。
僕の汚物にまみれた服で包むのは忍びなかったけれど、他に包む物も無かったのでシャツを脱いでその中に彼女の遺骨を入れた。
森を抜けたら埋葬してあげよう。
森の外れの日の当たるところに彼女の骨を埋めて、家に戻って来た頃には既に日はどっぷりと暮れていた。
アレクさんはまだ帰ってきていない。
僕は汚れたシャツとズボンを洗うと、代わりの服を着て夕飯の準備をすることにした。
料理の本の通りにすればだいたいのものは作れる。
「アレクさん……早く帰ってこないかな……。」
しかし、その日以来アレクさんが帰ってくる事は無かった。
ALEC Side
〜???〜
「クソッ……しくじったか……」
辺りは既に暗闇に包まれ、1メートル先も見えない状態だ。
ガルムト教会の研究所から機密文書――それもクロアに関する事をだ――を盗み出したはいいのだが、追っ手に手ひどい一撃をもらってしまった。
所持していた剣から言って恐らくは勇者の類だろう。
脇腹からはだくだくと血が流れ出し、内臓も少し飛び出ている。
「せめて……この文書は……あいつらの目の届かない場所へ……やる必要があるな……」
ポーチからカプセルを取り出す。
『マトラ』。特定の相手か、その場で定めた呪文<ワード>でないと開かない機密文書保管用のカプセルだ。
カプセルを開き、文書を丸めてその中へと詰め込む。
蓋を閉めて受取人を言えば完了だ。
「モイライ冒険者ギルド支部……ミリア=フレンブルク……」
カプセルが光り、封が終わったことを告げる。
表面にナイフで宛先を刻み、側に流れていた小川にカプセルを投げ込む。
「わりぃなぁ……クロア……。俺ぁ……これ以上……お前の居場所には……なれそうもねぇや……」
ガサガサと草むらを踏み分ける音が近づき、目の前に誰かが立った。
着ている鎧や紋章から、恐らくは教会の騎士。それもかなり地位の高い奴だろう。
「はは……見つかっちまったか……ざまぁないな。」
「お前が奪った機密文書。渡してもらうか。」
やはり追ってきた理由はそれだよな。
「あんた……あの文書の中身を……知っているのか?」
「私の任務の中に文書の内容を知るという事は含まれてはいない。奪われたものを取り返すだけだ。」
任務に忠実ですこと……。
「わりぃな……もうここにはねぇよ。明日にゃぁ……もうどことも知れない……異国の地に……行っちまっているかもなぁ……」
表情こそ見えなかったが、明らかに落胆した風だった。
「最後に言い残すことはあるか?」
「遺言を聞いてくれるのか……うれしいねぇ……涙がでてくらぁ……」
俺は背中の留め具から愛剣『ヴァーダント』を取り外すと、騎士に持ち手を向ける。
「モイライの……冒険者ギルドに……こいつを届けてくれ……。形見として……持っていて欲しい奴が……いる。」
意識が朦朧としてきた。痛みももはやほとんど感じない。
「しかと受け取った。貴様、名は何という。」
「アレク……。あるガキの……世界を救ってやれなかった……弱っちい冒険者だ……」
そして、俺の意識は闇へと落ちて行った。
『報告
昨日夜中にKCに関する機密文書が盗み出されるという事件が発生しました。
捕縛に向かわせた騎士団団長の報告によると、機密文書は既に賊の手を離れており、周囲を探させたものの機密文書らしき物は発見できませんでした。
即座に計画が漏洩するという事態にはならないかと存じますが、念のためそれらしき噂が立った場所は掃討しておいたほうが良いでしょう。
ガルムト教会 研究部』
11/04/18 14:53更新 / テラー
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