亡命者の手記
住み慣れた故郷を発ってどれだけ経っただろうか。
長距離の徒歩により足の豆は潰れ、一歩踏み出す度にブーツの中で酷い痛みを発している。
重い荷物を背負い直す度に肩紐が食い込んだ部分が悲鳴を上げ、すぐにでも荷物を投げ出したくなる。
それだけではない。
ブーツの間から入り込んだ雪が体温で溶け、靴下を水浸しにし始めた。この分では足が凍傷になり腐り落ちるのにもさほど時間は掛からないだろう。職業が職業だけに嫌でもわかる。
ことの起こりは私の故郷が他国からの侵略を受けて敗北、占領下に置かれた事に始まる。
本来であれば魔物との戦いに向けて力を蓄えなければいけないこの時勢、それでも人間同士の争いは無くならない。
私は故郷では看護兵をしており、日々訓練などで軽い怪我や、重傷などで運ばれてくる兵士達の救護をしていた。
本来であればそれ以外での救護活動など、無いに等しかったのだ。
訓練以外での傷病は皆無……というのも魔物と遭遇して生還した兵士がいないので、私達の主な仕事は訓練中の怪我の看護程度に留まっていたのだ。
つまるところ、軍属でありながらも至極平和な日々を送っていたのだけれど、つい先日状況が一変した。
隣国からの唐突な宣戦布告。
当然その青天の霹靂とも言える侵略宣言に私達は一切抵抗する事もできずにあっという間に制圧されてしまった。
その日の地獄のような出来事は今でも忘れる事ができない。
次から次へと運ばれてくる負傷兵。
あるものは肩を切り裂かれ、ある者は腕がもげ、ある者は腹部に大きな裂傷を抱えて運ばれてくる。
たちまち救護所は血液が発する鉄錆に生肉を混ぜたような匂いでいっぱいになり、文字通り地獄と化した。
血の匂いでえづきながらも看護を続ける新人の看護兵を励まし、痛みに喘ぐ兵士の手当をし、手遅れになってしまった兵を看取り……永遠に続くかと思われた地獄は自国の敗戦という報と同時に唐突に終わった。
敗戦処理はほぼ滞り無く行われた。
おそらく隣国は最初から魔物など眼中に無く、自国の領土を広げて利益を搾取する方を優先していたのだろう。
つまり、この侵略は予め計画された物であり、魔物との戦いに備えているように見えたのは単に周辺国家への侵略の準備を進めていたに過ぎなかったのだ。
周辺国家を侵略し、その領土を増やしていった隣国だが、遂にはその行為が自分に仇となって返る時がやってきた。
教団からの通達で自国の最低限の守りを残し、他全ての兵力を徴収すると通達が来たそうだ。
隣国は一瞬にして、湖の魚を自由に飲み込む水鳥から首に縄を付けられて魚を取ってくる鵜になってしまった。
当然その兵力は私の祖国からも出される事になる。
そして今度の大侵攻の行き先は……魔界だという。
当然帰って来られる保証などどこにもない。魔物との戦いで帰ってきた者を私は寡聞にして知らない。
完全に自殺行為だった。
当然そんな命令に従う人間は私達の中にはいない。
主神への信仰はあれど、『さぁ、死ね』で『はいそうですか』となんの疑問を抱かない程の狂信者は私達の中にはいない。
皆が皆示し合わせたように夜中に祖国を離れ、思い思いの方向へと亡命をする事になった。
私はというと……逃亡最中に運悪く徴兵にやってきた隣国の兵に見つかり、這々の体で逃げ出す事に。
まだ雪がうっすらと残る森の中を突っ切り、獣道を走り、気が付けば猛吹雪が吹き荒れる山の中に放り出されていた。
「今日は……酷い厄日ね。山越えの準備なんてしてきていないのに……」
元々寒い地方だったので防寒対策はしっかりしていたのだが、雪山ともなると話は別になってくる。
そもそも地元民ですら冬山はおろか麓の森林にすら入ろうとしない。この極寒の時期には森の中ですら雪が降り積もり、ろくに身動きが取れなくなるのだ。正直山の中に逃げ込めたのは不幸中の幸い……いや、そもそも入り込めた事自体が不幸だと言うべきか。
少なくとも森より山の方が気候は厳しい。
そして、地元民が入らない別の理由がある。
イエティの存在だ。
それこそ童謡にもなるぐらいこの山のイエティ伝説は事欠かない。
やれ連れ去られたきり二度と戻らなかったとか、やれ森の中でそれらしき影を見かけたとか……子供のしつけにも使われた所を見るに身近な存在でありながらも非常に恐ろしい存在でもあったのだ。
「っ……!足の感覚がなくなってきた……まずいわね……」
せめてこの雪をしのげる場所があれば話は別なのだが、辺りはいくら見渡せど雪、雪、雪ばかり。
かろうじて分厚い雪雲を透かして陽の光は届いているが、日が沈めばそれこそ何も見ることのできない真っ暗闇になるだろう。
陽の光も届かない中、足も凍傷でろくに動かせずに吹雪の中で立ち往生……最悪も最悪、それは死を意味する。
カンテラ?無意味無意味。だってこの気温じゃ燃料が気化しなくて火が点かないから。魔法も使えないので明かりを作り出す事もできない。
「ぁ……駄目……!気を失うわけには……」
意識が朦朧とし始める……こんな極寒の中に放り出されれば低体温症にだってなる。
体全体が震え上がり、必死に体温を作り出そうとするも、凍てつく大気がそれ以上に体温を奪っていく……これは良くない、というよりもはや死を覚悟するしかないかもしれない。
「……はは……もう、だめかも」
低体温症の症状の一つに錯乱、幻覚症状がある。
ここまで来るともはや重篤症状……こんな状況では助かる見込みがゼロになる。
私の向かう少し先に……この気候の中に水着一丁で佇む女性がいた。
「……ぅ」
あれから意識を失っていたのだろうか。
気がつくと薄暗い中にも仄かな光を感じる程度に意識が回復する。
徐々に意識が覚醒すると、何か温かい物で全身がくるまれている感覚。
「だいじょーぶ?目、さめた?」
頭の後ろから女性の声が聞こえる。これは……極度の寒さが私に見せている幻覚なのだろうか。
「ねぇねぇ、なにか言ってよ……こわいよ?」
しかし、意識が覚醒するほどに感覚が鋭敏になっていく。これは、幻覚などではない。
胸のあたりに白くたっぷりとした毛に覆われた何かがまとわりつき、背中にはやはり温かく柔らかい感触が伝わってくる。
それに……目の前にある光源はどうみても焚き火以外の何物でもなさそうだ。
「生きてる……の?」
「少なくとも死んではいないとおもうよ〜」
頭の後ろののんびりとした声が答える。
おそらくこちらも幻覚ではなさそうだ。
「このもこもことしたもの……どかしてもらえるかしら。身動きが取れないわ」
「ん〜……いいけど、とても寒いと思うよ? 一応洞窟の中だけど」
その毛に覆われたもの──腕だった──をどかしてもらい、助けてもらった礼を言うべく振り返る……
「助けてくれてどうもあり……が……」
「どういたしまして〜♪」
はたして彼女は……少なくとも人間ではなかった。
いや、姿形は人間なのだが、少なくともまともな人間がこの寒さの中でこんな格好をしている筈がない。
「あなた……寒くないの?」
「?」
そこで小首を傾げられても困る。というか、みているこっちが寒くなってくる。
「っと……呆けている場合じゃないわね」
このまま溶けた雪でびしょ濡れになった恰好でいるわけにはいかない。
たとえ洞窟の中といえど、氷点下にはなっているはず。
荷物の中から着替えを取り出し、濡れてしまった服から乾いた服へと着替える……低体温症時の有効な対処法だ。
あとは毛布か何かにくるまり、温かく甘い飲み物を……
「……持ってないわね」
「なにが?」
そう、夜逃げ同然に出てきた私がそんなぜいたく品など持っている筈がない。
城であれば倉庫の中に砂糖の備蓄はそれなりにあるのだが、そんな物を退職金代わりに持っていくなんて暇がある訳もなく……というよりまさか雪山に突入するなど想定していなかったのでそこまで気が回るはずはなかった。
「本当ならばココアみたいな飲み物を摂って体を暖めたい所なんだけれど……望むべくもない、か」
「あるよ?」
……なんですと?
「あなた本当に何者よ?」
現在焚き火をしているスペースから少し奥まった場所へと引っ込み、彼女が持ってきたのは缶詰と陶器の壺だった。
中は粉末状にしたココアと砂糖。まさかこんな貴重品を雪山の中でありつけるとは思いもよらなかった。
「イエティだよ?」
「─────」
出来上がったココアを彼女に抱きつかれながら啜ろうとした時点で、私の時が停止した。
「ココって言うんだ〜。お姉さんは?」
イエティといえばアレである。子供が悪いことをすると、イエティに連れ去られて氷漬けにされてしまうという脅し文句のアレだ。
「……あっつ!?」
「アッツさん?」
「ちがうわ!」
口をつけていた部分が軽く火傷をしてしまった。それだけその衝撃は熱さに対する私の反射神経すら奪っていたのだ。
「え、何?イエティってこんな普通の……普通じゃないけど人間みたいな姿をしている物なの?」
「よくわからないけど……みんなそうだよ?」
皆、と言うことはイエティは彼女一人ではないという事なのだろうか。
何だか幼い頃に想像したイエティ像が音を立てながら崩れていくのを感じながらココアを啜るのだった。
「はぁ……はぁ……み、見つけたぞ!」
そうして彼女と洞窟の中で暖を取っていると、あろうことか私を追っていた教団兵がこの洞窟を見つけて押し入ってきた。
よくもまあこの氷結地獄のような山の中をその鎧姿で突っ切って来た物だ。
「この、脱走兵め!おとなしく城に……!?そ、そいつは……魔物じゃないか!?」
「みたい、ね。なんだか想像していたのと大分違うけど」
ガクガクと震える指先で私の後ろに抱きついている彼女を指さす。
なんだか、顔色も悪い。当たり前の事ではあるのだけど。
「わぁ……ものすごく寒そうだね? 温めてあげる?」
「っくっそ……!こんな時に……!」
震える指先でなんとか剣を引き抜くも、ろくに手が動かずにその場に取り落としてしまう。
結局立っている事すらできず、その場に倒れこんでしまった。
「うわ……だ、大丈夫!?」
私から離れ、心配そうに教団兵へと駆け寄るココ。私はそれを冷めた目で見ていた。
「(あいつがいるから……私はこんな所まで逃げてくる羽目になったのよね)」
目線の先には、彼が取り落とした剣が落ちている。
自然と体が動き、落ちていた剣を手が拾い上げる。
銀灰色に光る刃を見ていると、心の中にふつふつと暗い感情が沸き上がってきた。
「(何であの時……私を見つけてしまったの? 放っておいてくれればこんな所、来なくて済んだのに)」
無防備にさらけ出されている彼の首筋が見える。
そこに突き立てるように剣を振り上げ、そして……
「何しているの!?」
ココに抱きつかれてその腕を拘束された。
その力は半端ではなく、一切腕を動かす事すらできない。
「離しなさい。こいつがいなければ、そもそも私は遭難なんてすることも無かったんだから……。せめてその分だけでもやり返さなきゃ腹が収まらないわ」
「それでも、傷つけちゃ駄目だよ! そんなの誰も喜ばない!」
私とココがもめていると、彼が這いつくばりながら忌々しげに私達を見上げていた。
「クソ……体さえ動けば……!」
その言葉に、ふと違和感を覚える。
動くだけ?寒さは感じていないのだろうか。
この吹雪の中を抜けてきたにもかかわらず、その体は一切の震えを見せていない。
「……あなた、寒くないの?」
「寒いわけなどあるものか! 私は寒さにやられるような鍛え方はしていない!」
その言葉だけで、私は彼に対する憎悪もなにもかも吹き飛び、ただ医者としての私に切り替わっていた。
私は……根本的な所で人間であるよりも医者であったのだ。
「このっ……動けっ……!」
「動かないで。じっとしていなさい」
まともに動けない彼の体を引きずるようにして焚き火から少し離れた場所に引き摺っていき、鎧を脱がせていく。この辺りはほぼ日常的に行なっていたので特にもたつくことは無かった。
「あたためるならわたしが抱きついたほうがいいんじゃないかなぁ?」
「いきなり温かいもので末端部を温めると逆に危険だわ。体の末端部の冷えた血液が体の中に入って症状を悪化させる事になる……乾いた毛布を可能な限り持ってきて。私の着替えじゃ彼には小さいだろうから」
彼の服まで完全に脱がせると、今まで私がかぶっていた毛布を彼へと巻きつける。
追加で持ってきてもらった毛布で完全に包ませ、鍋に掛けられていたココアをカップに注いで彼の口元まで持っていく。
「飲みなさい。本当なら専用の管を通してお湯を胃の中に出し入れして中から温めた方がいいのだけど……今は無理だから」
「ふざけるな!私はお前を追ってきたのだぞ!?施しなどうけ……」
未だにガタガタと騒ぐ彼を張り手で黙らせてカップを口に押し付ける。
「いいから、死にたくなければ飲みなさい。医者が言っているんだから治療拒否は認めないわよ」
私の有無を言わせない迫力に負けたのか、ちびちびと彼がココアに口をつけ始める。
このやりとりの間……ココは私の後ろでオロオロしているだけだった。
遭難者=抱きつくものとして捉えていた彼女にとっては少し衝撃的だったかもしれない。
「お医者さん、だったんだ」
「医者といっても衛生兵だけどね。それも今では脱走兵ってね」
毛布にくるまった彼を監視しながらココの隣に座ってココアを啜っている。
時偶飲み物を飲ませに行くとき以外、彼は終始黙ったままだった。
「すごいねぇ……さっきのあなたかっこ良かった」
「別に……医者として当然のことをしたまでだし」
素直にほめられてどこか面映くなる。職業柄患者に感謝されることもあるのだが、礼を言われる事は未だに慣れない。
「吹雪が収まったら山越えを手伝って貰えるかしら。流石に案内が無ければ越えるのは難しいでしょうし」
「うん〜、わかった〜。……あ、この人はどうするの?」
毛布に車ってミノムシ状態の彼を差して聞かれる。まぁ、返答は分かり切っているのだけれど。
「ここに置いていくわ。流石にあの装備で雪山を歩き回られてまた治療するのは手間だしね」
「そっか」
それを聞いてもぞもぞと彼が動き出したが……
「動くな病人」
空のコッヘルを頭にぶつけてやるとすぐにおとなしくなった。
「あはは……」
あれから私はココの案内で無事山を降り、亡命先の中立国までたどり着く事ができた。
私はそこで安めのテナントを借りて開業医として働くことにした。
それから数年、今では『キツいけど腕はいい女医さん』という肩書きまで付き、それなりに評判がいい医院としてやらせてもらっている。
そして、近々この周辺が魔界になりそうな気配がしてきているので、私もそろそろ何の魔物になりたいかを決めなければならない……。
前々から触手の生態(この街に来て文献で知った植物)を利用した医術を考えていたので、ローパーにでもしてもらうかと考えている。
これになれば今まではできなかった『切開を行わずに内部から外科手術を行う』という夢みたいな技術を使えるようになるかもしれない。
こんな事をかんがえて魔物化を望む辺り私も職業病なのだろう。
ココとはあれ以来会っていない。
そもそも雪山の中なんて用事ができるような事も無いし、治療に使うような薬草の類は業者から取り寄せてもらえる。麓にすら行かないのだから接点を持ちようはずもない。
「元気かな、彼女」
噂では私が元いた国の隣国は魔界への大攻勢を行った結果惨敗(と言う名の魔物たちにとって旦那の大収穫)したらしく、その力を一気に落として周辺諸国に飲み込まれた。
さらに増えた魔物達が押し寄せた結果その隣国一帯も魔界化し、結果的に教団の影響範囲がまたも狭まる形となった。
今頃は和解した周辺諸国とその押し寄せた魔物達を率いていたリーダー……リリムとか言ったか。その間で調印式が行われるそうだ。
その模様が水晶玉による中継……通称バフォネットなる物で映しだされていた。
「時代は進む、ね。私もあの時逃げ出していなければあそこにいたのかしら」
押し寄せた魔物の中には元々あの時の徴兵で集められた女性士官もいたそうだ。
だとすると私もその中の一人になっていたかもしれない。
「……あら?」
何だか群集の中にもこもことした物体が混じっていた。
よく見るとその隣に伴侶らしき男性の姿が見える……。というよりその顔に見覚えがあった。
そして、振り返ったもこもこの顔にも……
長距離の徒歩により足の豆は潰れ、一歩踏み出す度にブーツの中で酷い痛みを発している。
重い荷物を背負い直す度に肩紐が食い込んだ部分が悲鳴を上げ、すぐにでも荷物を投げ出したくなる。
それだけではない。
ブーツの間から入り込んだ雪が体温で溶け、靴下を水浸しにし始めた。この分では足が凍傷になり腐り落ちるのにもさほど時間は掛からないだろう。職業が職業だけに嫌でもわかる。
ことの起こりは私の故郷が他国からの侵略を受けて敗北、占領下に置かれた事に始まる。
本来であれば魔物との戦いに向けて力を蓄えなければいけないこの時勢、それでも人間同士の争いは無くならない。
私は故郷では看護兵をしており、日々訓練などで軽い怪我や、重傷などで運ばれてくる兵士達の救護をしていた。
本来であればそれ以外での救護活動など、無いに等しかったのだ。
訓練以外での傷病は皆無……というのも魔物と遭遇して生還した兵士がいないので、私達の主な仕事は訓練中の怪我の看護程度に留まっていたのだ。
つまるところ、軍属でありながらも至極平和な日々を送っていたのだけれど、つい先日状況が一変した。
隣国からの唐突な宣戦布告。
当然その青天の霹靂とも言える侵略宣言に私達は一切抵抗する事もできずにあっという間に制圧されてしまった。
その日の地獄のような出来事は今でも忘れる事ができない。
次から次へと運ばれてくる負傷兵。
あるものは肩を切り裂かれ、ある者は腕がもげ、ある者は腹部に大きな裂傷を抱えて運ばれてくる。
たちまち救護所は血液が発する鉄錆に生肉を混ぜたような匂いでいっぱいになり、文字通り地獄と化した。
血の匂いでえづきながらも看護を続ける新人の看護兵を励まし、痛みに喘ぐ兵士の手当をし、手遅れになってしまった兵を看取り……永遠に続くかと思われた地獄は自国の敗戦という報と同時に唐突に終わった。
敗戦処理はほぼ滞り無く行われた。
おそらく隣国は最初から魔物など眼中に無く、自国の領土を広げて利益を搾取する方を優先していたのだろう。
つまり、この侵略は予め計画された物であり、魔物との戦いに備えているように見えたのは単に周辺国家への侵略の準備を進めていたに過ぎなかったのだ。
周辺国家を侵略し、その領土を増やしていった隣国だが、遂にはその行為が自分に仇となって返る時がやってきた。
教団からの通達で自国の最低限の守りを残し、他全ての兵力を徴収すると通達が来たそうだ。
隣国は一瞬にして、湖の魚を自由に飲み込む水鳥から首に縄を付けられて魚を取ってくる鵜になってしまった。
当然その兵力は私の祖国からも出される事になる。
そして今度の大侵攻の行き先は……魔界だという。
当然帰って来られる保証などどこにもない。魔物との戦いで帰ってきた者を私は寡聞にして知らない。
完全に自殺行為だった。
当然そんな命令に従う人間は私達の中にはいない。
主神への信仰はあれど、『さぁ、死ね』で『はいそうですか』となんの疑問を抱かない程の狂信者は私達の中にはいない。
皆が皆示し合わせたように夜中に祖国を離れ、思い思いの方向へと亡命をする事になった。
私はというと……逃亡最中に運悪く徴兵にやってきた隣国の兵に見つかり、這々の体で逃げ出す事に。
まだ雪がうっすらと残る森の中を突っ切り、獣道を走り、気が付けば猛吹雪が吹き荒れる山の中に放り出されていた。
「今日は……酷い厄日ね。山越えの準備なんてしてきていないのに……」
元々寒い地方だったので防寒対策はしっかりしていたのだが、雪山ともなると話は別になってくる。
そもそも地元民ですら冬山はおろか麓の森林にすら入ろうとしない。この極寒の時期には森の中ですら雪が降り積もり、ろくに身動きが取れなくなるのだ。正直山の中に逃げ込めたのは不幸中の幸い……いや、そもそも入り込めた事自体が不幸だと言うべきか。
少なくとも森より山の方が気候は厳しい。
そして、地元民が入らない別の理由がある。
イエティの存在だ。
それこそ童謡にもなるぐらいこの山のイエティ伝説は事欠かない。
やれ連れ去られたきり二度と戻らなかったとか、やれ森の中でそれらしき影を見かけたとか……子供のしつけにも使われた所を見るに身近な存在でありながらも非常に恐ろしい存在でもあったのだ。
「っ……!足の感覚がなくなってきた……まずいわね……」
せめてこの雪をしのげる場所があれば話は別なのだが、辺りはいくら見渡せど雪、雪、雪ばかり。
かろうじて分厚い雪雲を透かして陽の光は届いているが、日が沈めばそれこそ何も見ることのできない真っ暗闇になるだろう。
陽の光も届かない中、足も凍傷でろくに動かせずに吹雪の中で立ち往生……最悪も最悪、それは死を意味する。
カンテラ?無意味無意味。だってこの気温じゃ燃料が気化しなくて火が点かないから。魔法も使えないので明かりを作り出す事もできない。
「ぁ……駄目……!気を失うわけには……」
意識が朦朧とし始める……こんな極寒の中に放り出されれば低体温症にだってなる。
体全体が震え上がり、必死に体温を作り出そうとするも、凍てつく大気がそれ以上に体温を奪っていく……これは良くない、というよりもはや死を覚悟するしかないかもしれない。
「……はは……もう、だめかも」
低体温症の症状の一つに錯乱、幻覚症状がある。
ここまで来るともはや重篤症状……こんな状況では助かる見込みがゼロになる。
私の向かう少し先に……この気候の中に水着一丁で佇む女性がいた。
「……ぅ」
あれから意識を失っていたのだろうか。
気がつくと薄暗い中にも仄かな光を感じる程度に意識が回復する。
徐々に意識が覚醒すると、何か温かい物で全身がくるまれている感覚。
「だいじょーぶ?目、さめた?」
頭の後ろから女性の声が聞こえる。これは……極度の寒さが私に見せている幻覚なのだろうか。
「ねぇねぇ、なにか言ってよ……こわいよ?」
しかし、意識が覚醒するほどに感覚が鋭敏になっていく。これは、幻覚などではない。
胸のあたりに白くたっぷりとした毛に覆われた何かがまとわりつき、背中にはやはり温かく柔らかい感触が伝わってくる。
それに……目の前にある光源はどうみても焚き火以外の何物でもなさそうだ。
「生きてる……の?」
「少なくとも死んではいないとおもうよ〜」
頭の後ろののんびりとした声が答える。
おそらくこちらも幻覚ではなさそうだ。
「このもこもことしたもの……どかしてもらえるかしら。身動きが取れないわ」
「ん〜……いいけど、とても寒いと思うよ? 一応洞窟の中だけど」
その毛に覆われたもの──腕だった──をどかしてもらい、助けてもらった礼を言うべく振り返る……
「助けてくれてどうもあり……が……」
「どういたしまして〜♪」
はたして彼女は……少なくとも人間ではなかった。
いや、姿形は人間なのだが、少なくともまともな人間がこの寒さの中でこんな格好をしている筈がない。
「あなた……寒くないの?」
「?」
そこで小首を傾げられても困る。というか、みているこっちが寒くなってくる。
「っと……呆けている場合じゃないわね」
このまま溶けた雪でびしょ濡れになった恰好でいるわけにはいかない。
たとえ洞窟の中といえど、氷点下にはなっているはず。
荷物の中から着替えを取り出し、濡れてしまった服から乾いた服へと着替える……低体温症時の有効な対処法だ。
あとは毛布か何かにくるまり、温かく甘い飲み物を……
「……持ってないわね」
「なにが?」
そう、夜逃げ同然に出てきた私がそんなぜいたく品など持っている筈がない。
城であれば倉庫の中に砂糖の備蓄はそれなりにあるのだが、そんな物を退職金代わりに持っていくなんて暇がある訳もなく……というよりまさか雪山に突入するなど想定していなかったのでそこまで気が回るはずはなかった。
「本当ならばココアみたいな飲み物を摂って体を暖めたい所なんだけれど……望むべくもない、か」
「あるよ?」
……なんですと?
「あなた本当に何者よ?」
現在焚き火をしているスペースから少し奥まった場所へと引っ込み、彼女が持ってきたのは缶詰と陶器の壺だった。
中は粉末状にしたココアと砂糖。まさかこんな貴重品を雪山の中でありつけるとは思いもよらなかった。
「イエティだよ?」
「─────」
出来上がったココアを彼女に抱きつかれながら啜ろうとした時点で、私の時が停止した。
「ココって言うんだ〜。お姉さんは?」
イエティといえばアレである。子供が悪いことをすると、イエティに連れ去られて氷漬けにされてしまうという脅し文句のアレだ。
「……あっつ!?」
「アッツさん?」
「ちがうわ!」
口をつけていた部分が軽く火傷をしてしまった。それだけその衝撃は熱さに対する私の反射神経すら奪っていたのだ。
「え、何?イエティってこんな普通の……普通じゃないけど人間みたいな姿をしている物なの?」
「よくわからないけど……みんなそうだよ?」
皆、と言うことはイエティは彼女一人ではないという事なのだろうか。
何だか幼い頃に想像したイエティ像が音を立てながら崩れていくのを感じながらココアを啜るのだった。
「はぁ……はぁ……み、見つけたぞ!」
そうして彼女と洞窟の中で暖を取っていると、あろうことか私を追っていた教団兵がこの洞窟を見つけて押し入ってきた。
よくもまあこの氷結地獄のような山の中をその鎧姿で突っ切って来た物だ。
「この、脱走兵め!おとなしく城に……!?そ、そいつは……魔物じゃないか!?」
「みたい、ね。なんだか想像していたのと大分違うけど」
ガクガクと震える指先で私の後ろに抱きついている彼女を指さす。
なんだか、顔色も悪い。当たり前の事ではあるのだけど。
「わぁ……ものすごく寒そうだね? 温めてあげる?」
「っくっそ……!こんな時に……!」
震える指先でなんとか剣を引き抜くも、ろくに手が動かずにその場に取り落としてしまう。
結局立っている事すらできず、その場に倒れこんでしまった。
「うわ……だ、大丈夫!?」
私から離れ、心配そうに教団兵へと駆け寄るココ。私はそれを冷めた目で見ていた。
「(あいつがいるから……私はこんな所まで逃げてくる羽目になったのよね)」
目線の先には、彼が取り落とした剣が落ちている。
自然と体が動き、落ちていた剣を手が拾い上げる。
銀灰色に光る刃を見ていると、心の中にふつふつと暗い感情が沸き上がってきた。
「(何であの時……私を見つけてしまったの? 放っておいてくれればこんな所、来なくて済んだのに)」
無防備にさらけ出されている彼の首筋が見える。
そこに突き立てるように剣を振り上げ、そして……
「何しているの!?」
ココに抱きつかれてその腕を拘束された。
その力は半端ではなく、一切腕を動かす事すらできない。
「離しなさい。こいつがいなければ、そもそも私は遭難なんてすることも無かったんだから……。せめてその分だけでもやり返さなきゃ腹が収まらないわ」
「それでも、傷つけちゃ駄目だよ! そんなの誰も喜ばない!」
私とココがもめていると、彼が這いつくばりながら忌々しげに私達を見上げていた。
「クソ……体さえ動けば……!」
その言葉に、ふと違和感を覚える。
動くだけ?寒さは感じていないのだろうか。
この吹雪の中を抜けてきたにもかかわらず、その体は一切の震えを見せていない。
「……あなた、寒くないの?」
「寒いわけなどあるものか! 私は寒さにやられるような鍛え方はしていない!」
その言葉だけで、私は彼に対する憎悪もなにもかも吹き飛び、ただ医者としての私に切り替わっていた。
私は……根本的な所で人間であるよりも医者であったのだ。
「このっ……動けっ……!」
「動かないで。じっとしていなさい」
まともに動けない彼の体を引きずるようにして焚き火から少し離れた場所に引き摺っていき、鎧を脱がせていく。この辺りはほぼ日常的に行なっていたので特にもたつくことは無かった。
「あたためるならわたしが抱きついたほうがいいんじゃないかなぁ?」
「いきなり温かいもので末端部を温めると逆に危険だわ。体の末端部の冷えた血液が体の中に入って症状を悪化させる事になる……乾いた毛布を可能な限り持ってきて。私の着替えじゃ彼には小さいだろうから」
彼の服まで完全に脱がせると、今まで私がかぶっていた毛布を彼へと巻きつける。
追加で持ってきてもらった毛布で完全に包ませ、鍋に掛けられていたココアをカップに注いで彼の口元まで持っていく。
「飲みなさい。本当なら専用の管を通してお湯を胃の中に出し入れして中から温めた方がいいのだけど……今は無理だから」
「ふざけるな!私はお前を追ってきたのだぞ!?施しなどうけ……」
未だにガタガタと騒ぐ彼を張り手で黙らせてカップを口に押し付ける。
「いいから、死にたくなければ飲みなさい。医者が言っているんだから治療拒否は認めないわよ」
私の有無を言わせない迫力に負けたのか、ちびちびと彼がココアに口をつけ始める。
このやりとりの間……ココは私の後ろでオロオロしているだけだった。
遭難者=抱きつくものとして捉えていた彼女にとっては少し衝撃的だったかもしれない。
「お医者さん、だったんだ」
「医者といっても衛生兵だけどね。それも今では脱走兵ってね」
毛布にくるまった彼を監視しながらココの隣に座ってココアを啜っている。
時偶飲み物を飲ませに行くとき以外、彼は終始黙ったままだった。
「すごいねぇ……さっきのあなたかっこ良かった」
「別に……医者として当然のことをしたまでだし」
素直にほめられてどこか面映くなる。職業柄患者に感謝されることもあるのだが、礼を言われる事は未だに慣れない。
「吹雪が収まったら山越えを手伝って貰えるかしら。流石に案内が無ければ越えるのは難しいでしょうし」
「うん〜、わかった〜。……あ、この人はどうするの?」
毛布に車ってミノムシ状態の彼を差して聞かれる。まぁ、返答は分かり切っているのだけれど。
「ここに置いていくわ。流石にあの装備で雪山を歩き回られてまた治療するのは手間だしね」
「そっか」
それを聞いてもぞもぞと彼が動き出したが……
「動くな病人」
空のコッヘルを頭にぶつけてやるとすぐにおとなしくなった。
「あはは……」
あれから私はココの案内で無事山を降り、亡命先の中立国までたどり着く事ができた。
私はそこで安めのテナントを借りて開業医として働くことにした。
それから数年、今では『キツいけど腕はいい女医さん』という肩書きまで付き、それなりに評判がいい医院としてやらせてもらっている。
そして、近々この周辺が魔界になりそうな気配がしてきているので、私もそろそろ何の魔物になりたいかを決めなければならない……。
前々から触手の生態(この街に来て文献で知った植物)を利用した医術を考えていたので、ローパーにでもしてもらうかと考えている。
これになれば今まではできなかった『切開を行わずに内部から外科手術を行う』という夢みたいな技術を使えるようになるかもしれない。
こんな事をかんがえて魔物化を望む辺り私も職業病なのだろう。
ココとはあれ以来会っていない。
そもそも雪山の中なんて用事ができるような事も無いし、治療に使うような薬草の類は業者から取り寄せてもらえる。麓にすら行かないのだから接点を持ちようはずもない。
「元気かな、彼女」
噂では私が元いた国の隣国は魔界への大攻勢を行った結果惨敗(と言う名の魔物たちにとって旦那の大収穫)したらしく、その力を一気に落として周辺諸国に飲み込まれた。
さらに増えた魔物達が押し寄せた結果その隣国一帯も魔界化し、結果的に教団の影響範囲がまたも狭まる形となった。
今頃は和解した周辺諸国とその押し寄せた魔物達を率いていたリーダー……リリムとか言ったか。その間で調印式が行われるそうだ。
その模様が水晶玉による中継……通称バフォネットなる物で映しだされていた。
「時代は進む、ね。私もあの時逃げ出していなければあそこにいたのかしら」
押し寄せた魔物の中には元々あの時の徴兵で集められた女性士官もいたそうだ。
だとすると私もその中の一人になっていたかもしれない。
「……あら?」
何だか群集の中にもこもことした物体が混じっていた。
よく見るとその隣に伴侶らしき男性の姿が見える……。というよりその顔に見覚えがあった。
そして、振り返ったもこもこの顔にも……
12/12/24 22:38更新 / テラー