勇者、敗北する
「何で俺がこんな目に……」
昼間とは打って変わった冷気に肩をすくめて、ヨアンネス王国の騎士ローワンはこの道中で何百回と繰り返した呪いをもう一度舌に乗せた。
鎧に刻まれた日除け渇き除けの護符は、寒さ除けの護符へとその機能を切り替えている。
雲ひとつなく、空気を澱ませるあらゆる原因がない砂漠の星空は、かえって絵空事じみて美しい。
横のラクダが引いているのは、「ワーム籠」と言われる、半ば酔狂で作られた鋼鉄の檻だ。頑丈さには比類がなく、投石器を最大威力で命中させたところで歪みもしない。
その中では大人の腕ほどもある鎖に、蓑虫じみて首から下をがんじがらめにされている青年がいた。砂漠への追放刑の一環としてその下は下帯ひとつ。
常人であればここまでの道のりで死んでいなければおかしい。だが囚人の顔には一片の苦痛もなく、穏やかな脱力は笑みにすら見える。
体格は戦士としてはまずまず、と言ったところ。一見矛盾しているようではあるが、“凡庸な美形”という形容がこれほど当てはまるものもあるまい。
人を惹き付けることも人に拒まれることもない、いわゆる吟遊詩人泣かせの顔であった。
彼こそ誰あろう、かつて“大街道”の守護者ヨアンネス王国にあって救国の英雄とうたわれたラウール卿である。
フェルドザガンの城塞を一刻と経たずに灰燼と為し、練達の魔法戦士で構成されたルルザドブの“熱血兵団”千二百を傷一つないままに退けた超人。
美酒美食財貨権勢、そして美女。ひょっとしたら知識や平穏や闘争すらも。およそ俗世で欲望と呼ばれる全てをもたない、人の形をした仕組み。
城塞を打ち砕き軍勢を退ける“別格”の勇者だが、個々の魔物と刃を交えた経験は驚くほど少ないともいう。
あまりにも強すぎる力によるものか、常人とは異質なその心根がゆえか、さもなくばその両方か。
ともあれ魔物にとってラウールの存在は地響きを上げながら進む大軍のように恐ろしいものであるらしい。
ラウール卿が通るまでに引っ越した一族は魔物であるというヨアンネス王国の風説は、ここに由来する。
またラウールを護送する兵士たちがもっぱら囚人ばかりを恐れ、足元に潜んでいるはずのギルタブリルやサンドウォームに警戒していないのもそういった理由であった。
石弓を向け、油断無く長槍の感触を確かめながら、わずかな徴候も見逃すまいと必死になっている。それは殆ど、戦火を前にした庶民が向ける祈りのようなものであった。
ローワンはこの勇者が罪状通りの悪人とは思えなかった。
勇者が婚約者であった王女を殺そうとした。許せないとは思うし、納得もいかないが。
そういう事もあろうかとは、思う。
人の骨肉を備えた神の使徒と呼ばれる勇者にも言葉に出せぬ何かがあるのだと思えば、いっそ愉快ですらあった。
その結果、近年封印されていた南方の大砂漠への追放刑が執り行われることとなった。これも問題ない。
このような罪の場合、その場で命を召し上げることはむしろ慈悲でさえある。
だが、その護送の指揮をローワンが取らねばならない。
これは大いなる理不尽だと、本人は思っていた。
ローワンはヨアンネス近衛兵の百人隊長である。
王の覚えめでたく若輩ながらも士官の地位を勝ち得、幸いなことに同僚や部下たちからも慕われている。
だからこそ、困難な任務においても責務を果たすのだろうと期待された。
今まではそれを誇りと思い、余人であれば死んでいただろう命令にすら、ほとんど嬉々として勤め上げてきた。
だが大砂漠の過酷な環境は、ローワンの忠誠にすらひびを入れるのに十分なものであった。いかに強靭な鋼であっても火を入れ水に晒すうちに脆くなる道理である。
「ラウール卿。そろそろ良いのではないかな。
何故王女に……ファラ様に、あのような真似をなされた?」
だからこそ、近衛としては禁句とも言えるこの質問が、つい口をついてしまった。
右で馬にまたがっていた副官アンゼリカも、いつもの口うるささが嘘のように、止めようとはしない。誰もかれもが、砂漠にはうんざりしていたのだ。
「……ファラは、魔物だ……」
答えがないものと半ば諦めていたが、ラウールはうっすらと目を開けて答えた。
始めて聞くその声は意外とか細く、しわがれていた。一月も二月も誰とも喋れなかった囚人が似たような声になるのを、ローワンは知っていた。
「俺は……ファラの部屋に行った……シャルルがいた……二人が、裸で抱き合っていた……ファラの腰から下は……蛇だった……」
ローワンの顔から血の気が引いた。隣を見れば副官も同様である。
近衛騎士団長シャルル。勇者ラウールの唯一と言っていい親友であり、勇者の凶行から王女を守り仰せた英雄。
そして勇者が放逐されたあと、王の娘婿に取りたてられた人物である。
「な、何故それを申し開きしなかったのです!」
アンゼリカの問いは殆ど絶叫である。意にも介さず、ラウールは平然と返した。
激情する理由も、あるいは激情するという概念すらも、この勇者には遠いものであるようだった。
「シャルルは……俺のともだちだ……シャルルと、ファラは、好きあっていた……相談してくれれば、良かったのに……な」
眉を寄せた顔は、悔いているようにも悲しんでいるようにも見えた。
兵士達が二の句を継ぐ前に、ラウールの表情が一変する。それは非難であり怒りであり、疑問であった。何故お前たちは、これを放置していたのだと。そう問いかける目であった。
ローワンは内臓が煮えたぎるような苦痛を覚えた。かつて盗賊団を率いていた妖術師が彼に投げつけた呪いを、数十倍数百倍にしたような。
横を見れば歴戦の兵士達が血の泡を吹いて倒れている。アンゼリカも馬から半ば転げ落ちるようにして膝を屈し、口を押さえて嘔吐せぬようにするのが精一杯といった有様だ。
その様子に全く注意を払わないまま、ラウールが身じろぎを始めた。ばきんばきんと、鎖が異音を立てていく。
強いものがなお強い力で無理矢理蹂躙される、いくさ場の音。 カーテンを開けるような気安さで鋼鉄が引きちぎられていく。
絡みついた蜘蛛の巣を払いのけるよりも容易く、船の係留にも使われる呪いがかりの鎖が、全て引き千切られていた。
鎖で縛ったときには下帯だけだったはずなのに、動きやすさを重視した厚手の服を身に纏っている。
「俺は行く」
山が崩れたとき、あるいは百万の軍隊が一斉に怒号をあげたとき。その地響きをただ一人の声とすればこのようなものになるだろう。
断固と言ってもまだ足りぬ、この世の何者とも断絶した声。
だがその声は、先ほどの怒りよりもはるかに恐ろしいものであったが故に、兵たちの苦痛と恐怖をかえって和らげさせる結果となった。
怒り狂った獣を目の前にすれば恐れもするだろう。
だがたとえば。
山の上から転げ落ちて、そんなものを感じている暇などあるだろうか?
「ひ、あ、うわああああっ!?」
部下の一人が悲鳴を上げて、石弓の引き金を引いた。
それで全てを使い切ったように、白目を剥いてどう、と地面に倒れ伏す。
狂乱の中にあっても鍛錬は裏切らず、ラウールの眉間まで瞬く間に届く。
全員が、頭から矢を生やして事切れる勇者の姿を想像した。
だがそこにあったのは、砂に半ば埋もれた太矢と、無傷のラウール。
そして、何かを疑うような沈黙であった。
ラウールは射手に一瞥すらしない。つい先ほど矢を射掛けられたことなど、最初からなかったかのように。
「ローワンどの。俺は行く。行ってあの古い蛇を討たねばならぬ」
足元の砂がわずかに爆ぜた。音もなく、風すら起こらない。
魔法の扱いに長けたはずのアンゼリカも、何か魔法に気付いた様子もない。
進むはずだった方向から、投石器が城壁を崩すような音だけが響いてくる。
最初からここにはラウールがいなかったのだ、と。そういう風に納得できれば、どれほど良かっただろうか。
***
“神々の火刑場”ラドゥガ砂漠の殆どは人跡未踏の地である。
人間はけして多くない水源にしがみつくようにして生きるしかなく、彼らが“大街道”と呼ぶ道はそれらを繋ぐ細い糸の名にすぎない。
そこから一歩を踏み出せば魔物達が涎を垂らして人間を待ちかまえる、文字通りの魔境だ。
“大街道”は人間……少なくとも主神を奉ずる人々にとって文字通りの生命線であり、離れた場所に歩を進めようとするのは、一種の自殺志願とされた。
だからこそ、ラウールが突き進んだ方向にある黒い岩山に関して、人間達は知らずに済んでいる。
そこが魔物すらも寄りつかない場所であるということを。
後に新ネファト朝と称する魔界の王国がこの山について記した文章にはこうある。
「……山の中に神殿があるという様式はさして珍しくもないが、この山が奇異なのは山そのものを構成する岩と、神殿を形作っている岩がまるで別種のものであるということだ。
神殿を岩で塞いだとしか言えないこの有様について、他の全てと同じように我らが王は沈黙を守るばかりである……」
岩山にできた大きな裂け目から、月光が内側の神殿に差し込んでいる。
無慈悲であるがゆえにどこまでも清浄なその光が照らし出すのは、人類が知る最古の様式。
教団の伝説に言う“傲慢なる古き王国”の神殿であった。
月の青い光は神殿の大広間の中央に据え付けられた祭壇とも舞台ともつかない空間に降り注ぐ。
そこに突き刺さっている無数の杭には古代呪術に用いられる文字が刻み込まれ、そこから伸びた鎖が横たわる「彼女」を縛っていた。
毒々しさにも美が宿るとするならば、一つの答えはこの姿であろう。黒にも見える艶めかしい紫色で全身が染め上げられ、体のそこかしこにちりばめられた銀の飾りが、そこに華を添えている。幾千年をかけて地の底に凝り固まった闇。それが女と蛇のかたちをして、飽きもせず月光を眺めていた。
教団においても成立初期の古文書にわずかに残るだけの“終わりの毒龍”アポピス。それが「彼女」の類別である。
半眼のまま焦点の合わぬ目には怒りも憎しみも嘆きもなく、ただただ退屈に飽いたまま、何かを待っているようであった。不意にその目が見開かれた。やってきたものを迎え入れるように、顔が喜色に染まる。次の瞬間、流れ星が神殿に飛び込んできた。雷のように大気が爆ぜ、砂煙があらゆる生き物の視界を塞ぐ。
もちろんこれは比喩である。散文的に事実だけを述べるならば、ひとりの人間が剣を構えて岩山の裂け目から飛び込んできた、という事に過ぎない。
ただ、それが本当に流れ星と見まごうだけの速さと勢いを持っていた、というだけで。
この世の全てを打ち砕かずにはおかないその一撃。
だが、その一撃とて神代の封印を切り裂くには及ばない。
まるで遅く剣を振るう技を極めようとでもいうかのように、太刀行きの速さが鈍る。
人間の……男の全身が震えた。この世の全てを見ようとしてこの世の全てを見ていない目が、さらに遠くに焦点を合わせる。
剣は止まらない。男が息を吐く。唸り声に変わる。
獣じみた咆哮が、峡谷に吹き荒れる嵐のように非人間的になる。
ついに切っ先が「彼女」の喉笛に触れた、
その刹那。まがりなりにも「彼女」を地面に縫い止めていた杭と鎖が、内と外の両方から加えられた力に耐えきれず、剣もろとも弾け飛んだ。
彼我合わせて一万になろうとする軍勢がぶつかりあえる戦場をずたずたに切り裂くような神話の爆発。
それは神殿の内側に張られた結界に阻まれて、ただ岩山を鳴動させる結果となった。
ゆっくりとガラス粒めいた砂埃が晴れていく。
ぶつかりあっていた二つの存在は、十五歩分ほどの距離を取っていた。
「……くあー……」
あくび混じりのため息を吐き出して、「彼女」が大きく背伸びをする。
二、三度まばたきをして、興味深そうに眼前の人間を見た。
「まずは礼を言っておこうか。よくもまあ俺様の封印を解いてくれたもんだ」
人間は答えない。わずかに眉根を寄せた他は、さして表情に変化もない。
剣を構えるように姿勢を変えると、その手の中にはいつの間にか剣が現れている。
「ふうん……まあ、いいやな。
先に名乗るのがニンゲンの礼儀って奴だったかね。
俺様の名はイーファ。古い蛇だ」
「ラウール。人間だ」
「こんばんは、ラウール。俺様のねぐらまで何をしに来た?」
「こんばんは、イーファ。お前を殺しに」
動いたのは「彼女」……イーファのほうだった。いつの間にか握られていた大人の頭ほどの岩が、手首ごと消えて無くなる。
矢よりも速く飛んでくる岩を、ラウールはわずかに剣を動かすだけで砂煙に変えてしまった。
「おお。すごいすごい」
イーファの力ない拍手が、神殿に空しくこだまする。
それ自体が何かの出し物にすぎないとでも言いたげに。
だが相対する勇者はその挑発を意に介さない。
剣を構え直して、ただ問いかけるだけだ。
「イーファ。お前にひとつ聞いておきたい。
ヨアンネス王国のファラ王女。あの女をラミアに変えたのはお前か?」
「なんだ。察するにお前さんの主か?いーや。俺様はそんな国のこともそんな女のことも知らんね。ただ、狸が俺様の毒を欲しがってたからくれてやった覚えはあるな。大方、刺客が俺様の毒をその女に盛ったんだろうよ」
「そうか」
ほんのわずか、ラウールの表情が緩む。彼の親友ならこう判断するはずだ。
「ホッとしたな」と。
対するイーファの顔は、いぶかしげなものだ。
「ん?なんだ。それを恨んで俺様を殺しに来たんじゃないのか?」
「違う。お前の指図なら礼を言ってから殺そうと思っただけだ」
空気が一変した。
もし、この場に他の人間が居たとすればこう言うだろう。
この場に立っているということがどうしようもなく手遅れ。
何よりも明確で避けようもない結果であって。
もはや己が持つあらゆるものは一切の意味がなく、できることは身の上に降りかかる災厄を甘受するだけ。
そのような場所を、人は地獄と呼ぶ。
***
ヨアンネス王国書記官は、その夜のことをこう記している。
“ラドゥガより世にも恐るべき声あり。二刻にわたる。古今に類なく、王城ことごとくの眠りを破る。人々、ラウール卿の怨念と噂す”
咆哮の正体、勇者と毒龍との戦いは決着を迎えていた。
封じこめていたアポピスが暴れ回ることも、建造者の想定のうちだったのだろう。
内装が粉々に打ち砕かれ砂塵と化し、周囲に伝わる熱がそれをガラス状に焼き固めてしまっても、生き物の傷が塞がるように元の形を取り戻していく。
そこに勇者と毒龍の魔力が入り混じり、モザイクめいた模様を描いている。
床に転がる無数の金属片は、ラウールが魔力から編み上げた武具や甲冑の欠片。その数は万をゆうに越え、戦いの長さと激しさを物語っていた。
中央に立つ影はひとつだけ。身を守る術も敵を倒す技も全てを失って立ち尽くす男に絡みつく、闇色の蛇の姿。あちこちの鱗が割れ肌が裂けているが、血が流れるのと同じ速さでふさがっている。
ラウールの喉笛に突き立てられた牙から溢れるのはこの世全ての夜よりもなお黒い闇。千年を経た葡萄酒のように艶めいた輝き。もっとも深い地の底よりも煮えたぎった熱。その全てを兼ね備えた、アポピスの猛毒だった。
毒龍の目に浮かぶのは間違えようもない歓喜の色。
勇者の肌に絡みつく尾は、ラウールを味わい尽くそうとでもいうかのように不規則な動きを繰り返していた。
ラウールの目は限界いっぱいまで開かれ、そこから際限なく涙がこぼれ落ちていた。勇者は熱病じみた息を吐き、口元からは涎さえ垂れている。
だが。その眼光はいまだに勇者の、魔物を殺す者のそれ。脱力していた手が、己もろともアポピスを刺し貫く形に変わる。しかしイーファのほうが一枚上手であった。時折大型の肉食獣がそうするように、首だけで獲物を投げ飛ばす。手鞠のように放り投げられ、自らが作り出した武具の欠片に衝突するかに見えたラウールの体が、光の網に受け止められる。
網は糸にほつれ布に似た形になり、ラウールの服となる。青を基調に諸々の防護文様が刻まれたそれは、しかし戦装束としてはいささか華美にも見えた。
イーファは、今度こそ本当に賞賛の言葉を贈る。
「すごいな。俺様の毒をそこまで受けて戦う気になるか。
……さあて。いつまで保つかねえ……」
相も変わらず勇者は無言のまま。投げ飛ばされたのを幸いに、投げ槍を構えている。だがその表情には、常人であってもかすかな焦りと判断できるだけの変化があった。
ラウールの内心について語ることは難しい。彼がどのような為人であるかを示す記録は、伝承を含めてすら皆無に等しいからだ。
ある魔法使いの一団がその内心に触れて大いに悟り、ヨアンネスの王都に迫っていたサンドウォームの群れを自らを犠牲にして止めた、という記録が残っている。
自己犠牲を礼賛するために教団でよく用いられるこの逸話が、戯れにラウールの内心を覗いた魔法使い達が恐慌のあまり砂漠に身を投げた末路であることは、あまり知られていない。
また、宣教局の枢機卿にあてて、ヨアンネスの司祭が送った手紙には以下のようにある。
「……勇者筆頭の候補に我が国のラウール卿をあげてくださったこと、まずは御礼申し上げます。しかしながらこの儀は、かの勇者には相応しくないものと思い、ご辞退を申し上げるものです。
確かに技量といい心構えといい、地上の何者もこの勇者に及ぶところでないのは否定いたしません。小生が見るに、かの勇者の武勇は天災に似て、心中は天体の運行に近しいものです。
民草は嵐を恐れても、敬うことはしません。
誰が日照りの後についていこうと思うでしょうか?洪水と肩を並べて戦おうとするでしょうか?
祈りとは只人の心から発するから尊く、勇気の価値とは只人が奮い起こすところにこそあると申します。
勇者とは、その人々が仰ぎ見る星であり、人々が集う旗印でなくてはなりません。そこに正しき血統が備われば、民草は大いに勇気を奮い立たせることでしょう。ゆえに小生はレスカティエのノースクリム家の御長女、ウィルマリナ卿こそ勇者筆頭に相応しいのではないかと思い、この手紙をしたためております……」
この司祭がレスカティエの教団から多額の(そして全く合法的な)資金援助を受けていたことを差し引いても、これは公平な見方といえるだろう。
二百人に及ぶ勇者の格付け、通称「英雄列記」が聖都より発行され、その序列にラウール卿の名がなかったとき、ヨアンネスの人々はむしろ安堵したのだという。
かの勇者は俗人に計れるものでなく、俗人と比するようなものではない。それを教団の“お偉いさん”はきちんと理解しているのだな、と。
ラウールはある意味周囲によってたかって人でなし扱いされているわけだが、そのことについて本人は何とも思っていない。
それが彼の生存に、何の影響も及ぼさないからだ。
何者にも傷つけられないから、未知に恐怖する必要はない。
全てを打ち倒せるのだから、外敵に怒る必要もない。
自分に必要なものは一切を調達できるのだから、群れでより良く過ごすために悲しみや喜びを覚える必要さえも。
シャルルとの友情と呼ばれるものでさえ例外ではない。打算も悪感情も抜きに近づいてくるシャルルに、ラウールの精神と呼ばれるものが警戒したに過ぎない。
そして彼は自身の存在に、一片の意味も価値も見出していなかった。
まず目的があって、そのために全てがある。そこで死ぬしかないのならば、何の感慨もなく死ぬだろう。
その彼が今、生まれて初めて心というものに翻弄されていた。
あらゆるものを原因として思考が揺らぐ。感覚が歪む。
理性は体の内側から突き動かしてくるものを止めるので精一杯。
「そういえば、聞いておこうと思ったんだが。
お前さんのところの……ファラ王女だったか?
その女をラミアにしたのが俺様なら、何で礼を言う必要があった?
普通は逆だろうに」
完全にラウールの虚を突いた質問だった。
からかいに混じる程度の悪意もなく、勇者に疑う余地すら与えない。
「……理由が、よくわからんな……あんたが質問する理由が、だ……」
疑わしげな顔をするイーファを見て、ラウールは息をつく。
誰の耳にも明らかな、笑みの音。こぼれ落ちる涙を拭いもしない。
“別格”の勇者ラウールを知るものは、いったいいかなる異変が勇者の身の上に起きたのか不思議がり、ついには目の前の男がラウール卿本人なのかと疑うことだろう。
だが勇者というものを知り、ラウールという個人を知らぬものはこう思うに違いない。
魔物か神か精霊かはともかくとしても。今まで目の前の勇者に取り憑いていた人でなしは、今消え去ったのだな、と。
「……俺は……王女を何とも思わなかった……。
王女も……俺を嫌っていた……。怖がって、いたのかな……。
世継ぎだの結婚だのの、そういうこともわからなかった……。
面倒くさい……。そういう女と……友達が……恋仲になっていた……。
礼ぐらい言うだろう……?」
今度はイーファが虚を突かれる番だった。
油断なく組まれていた手がだらりとぶら下がり、尾の先からも力が抜ける。
目は大きく見開かれ、表情は惚けたように固まって。
闇そのものの髪が跳ね回り、男を溺れさせるためにあるような見事な女の肢体が縦横無尽に暴れ回る。
「……ふっ、ははははははは!傑作だな!傑作だなァおい!許嫁を取られて祝福するか!俺様も大概長生きだが、そんな話は聞いたことがないぞ!」
響く笑い声は、場違いなまでに明るかった。ふたたびラウールを見据える目には、明らかに今までとは違う光が宿っている。
その眼光を、主神教団の庇護下にある人間が知っていることは稀だ。見てしまったが最後、魔物の餌食になるより他に道はない。
発情した魔物を前にして逃げ延びられる者が、この世にどれほどいるだろう?
「気に入った。お前さんは俺様がもらう」
ため息のような、声をあげない咆哮。
鮮血の赤、劣情の桃、堕落の紫。それらが毒龍の口から霧の形で溢れ出す。
床、天井、そして壁。舞い上がった砂埃や地面に転がるラウールの武具の欠片すら、同じ色彩に染め上げていった。
「なるべく抵抗しろ。そっちのほうが面白そうだからな?」
ラウールが最初に捉えた異変は、自身でも空気でもなく、床。体重でわずかに沈み込み、柔らかい反動を返してくる。
飛び退こうと思っても、踏み込みに費やす脚力それ自体が飲み込まれてしまい、身動きが取れない。
やがて自分の体重を支える力すら抜き取られて、仰向けに倒れ込んでしまった。
体が触れたところから脱力が広がり、感覚や意識すら遠ざかっていく。
そのくせ体温や脈拍は上がっていく一方で、生まれてこの方感じたことがない飢餓感が、内心に穴を開けた。
「気分はどうだラウール?俺様特製の堕落と耽溺の毒沼だ。一国を色狂いに堕としてなお余る猛毒……ふふん」
鱗を器用に動かして、沼の上を滑るように蛇の体が近づいてくる。
右手人差し指の、その爪が長く伸びて。ラウールが纏っていた最後の胸甲を、服ごとやすやすと切り裂いてしまった。
わずかに赤い痕が、勇者の胸板に残る。
ラウールは無言を保っている。瞳も感情に揺れながらも、眼前の蛇を打ち倒さねばならぬという意志そのものを壊すには至っていない。
「あれだけ頑丈な鎧なら痛いのには弱いかと思ったが……なんだ、つまらん。最初の女になりそびれたか」
盛大な舌打ちに合わせて、銀の装飾が揺れる。ラウールの目線がそちらに向いているのに気づいて、イーファは口を大きく開けて笑った。
豊かな乳房を強調するように、両腕で支え、すぐにそれを降ろす。波打つような揺れに、わけもわからずラウールは生唾を飲み込んだ。
「いいな、欲情してきたか」
忍び寄ってきた蛇腹が、女の肌が、そして鱗が。ラウールの身体に絡みついてくる。
背丈だけで考えれば、実は似たようなものなのだな、と妙に冷めた感想が脳裏に浮かんだ。
触れたところから強すぎる感覚が針のように突き刺さり、そしてそれは血管を通して全身をずたずたにしていく。
胸の奥からせり上がってくる熱に耐えきれずに口を開けた途端。
「いただきます♪」
唇で唇を塞がれた。食われたと思った。容赦なく送り込まれる唾液と、毒液。内臓ごと作り替えられていく感覚をやり過ごすことさえできない。
間違いなく、ラウールにとってそれが快感だったからだ。
「……っ♪……んむっ♪……はっ、あ……う……♪」
ふさがった唇の隙間から漏れる声は間違いなく双方のもの。
ラウール胸中にあったのは、甘いとはこういうものかという納得だった。
やがて一つが二つに離れたとき、それを惜しむように長い体液の橋がかかる。唾液というだけでは説明のつかない粘りがあった。
「……ふ……ぷふぁ……ラウール……考えたことはあるか……?」
「何をだ……」
「お前さんが俺様を殺そうとする理由だよ……ふう……別に、なんの怨みもないのに……神を信じてなんか、いないくせに……」
イーファの声も表情も、まるで強い酒に煽られたかのようだった。
ラウールの顔が強張る。そのことに初めて気がついたかのように。そのことに気がつかなかったことに、初めて気づいたかのように。
「お前さんは『それ』だ。お前さんはそういう仕組みで、そういう魂だった……それを俺様が壊したのさ。
犯して汚して堕として、やっとお前さんは生き物になった。いいか悪いかは知らんぞ?俺様の好みの問題だからな」
今まで死闘を繰り広げていた相手にかける言葉としては、場違いなまでに優しく、慈しみすら帯びていた。
「これからお前さんは男になる。オスになる。俺様に犯されるって大事な仕事を果たすオスに。
……出来ればもうちょっとじっくり時間をかけてやりたかったが、俺様もたいがい我慢の限界だ……」
イーファは頬に手を添えて、ゆっくり持ち上げる。床面の沼ごと、ラウールの身体が持ち上がった。
腰の付け根、どれほど“別格”の勇者が攻撃を加えようと傷もつかなかった布が、はらりと落ちる。
人間の両手両足が、ラミアの両腕と尾に巻き付かれて動けなくなって。
最も柔らかくもっとも敏感な部分同士が触れあって。二人分の叫びが、漆黒の神殿に木霊した。
蛇の尾が跳ねる。毒沼と化した神殿の床が波を打ち、水滴とも泥ともつかないしぶきが飛び散る。本来ならば警戒するべき諸々の情報は、もはやラウールの注意をひくことはない。
振り乱される闇色の髪、跳ねる乳房と銀の装飾。悪意がないからこそ遠慮もない鱗と人肌の感触。
そして何より、粘膜同士が触れあう全く未知の熱に、別格と呼ばれた勇者は翻弄されていた。
だからこそ、腰の間に流れる一筋の血にも、イーファの目の端に浮かんだ涙の玉にも気づかない。
「蕩けた顔をして……くふ。そんなに俺様が気持ちいいか……?」
目だけでは足りないというかのように、イーファの手がラウールの頭や顔を無遠慮に撫でてくる。
ラウールの胸の奥からせり上がってきたわけのわからない衝動は、抑えようもなく口から漏れて。
「……ははっ……そうか……気持ちいい、のか」
ラウールは、自分の笑い声を初めて聞いた。イーファの目が濡れたように輝き、その喉から生唾を飲み込む音がした。
「ああもう、可愛い奴!」
思い切り抱きしめられ、ラウールはイーファの乳房に思い切り顔を埋めることになった。授乳以外に何の役にも立たないと思っていた器官の重みと柔らかさに、ますます混乱が大きくなる。
血液が過剰に集まっていた陰茎から、弾けるような危機感にも似た感覚が、なぜかゆっくりと背筋を這い上る。やがて脳天まで至ったそれは、確かにラウールの精神に致命的な一撃を与えて。
「あ?……ああ、あ?」
体内の何かが壊れたように、そこから熱くねばついたものが溢れ出した。
根こそぎ何かを奪われていく初めての感触に、ラウールは為す術もなく幼子のような声を出してしまう。
イーファの内側はさらに蠢き、奥へ奥へと飲み込もうとしていく。
失われてなお貪られていく感覚に、ラウールは耐えられない。彼は何かを喪失したことがないからだ。そして失うほどに、何かを得たことも。
だから、その行動も求愛というよりはもっと根源的な恐怖、赤子が母親に手を伸ばす行動にむしろ近い。
イーファの背中に腕を回して、彼女を抱きしめたことは。
「……俺様が……この、俺様が……」
イーファの声は、むしろ敗北者のようだった。恥辱に震え怒りをにじませて、腕と陰部に込める力だけが強くなっていく。
わずかな身じろぎで射精(という行為であることを、ラウールは知らないのだが)を繰り返しながら、何か恐るべきものを呼び起こしてしまったような予感を、勇者は覚えた。
「俺様と結婚しろラウール……!一回の種付けぐらいでいい気になるな……!誰がお前さんの支配者か、思い知らせてやる……!」
これはまともな求婚ではないだろう。およそ常識というものから最も縁遠い男ですらそう思った。
よくよく考えてみればこれは敗北であるし、勇者である自分にとっては屈辱を覚えるべきなのだろうし。
そう思っていない現状が、もし仮に目の前の(あるいは体中に絡みついた)アポピスに惚れたからなのだとして。
何となく、それは彼女に無礼なのではないかと思った。だが、それらを差し引いて。聞いてみたいことがあった。
「……結婚して、何を……する?」
「それは勿論……子供を作る!その後はまた子供を作る!」
「……どうやって……?」
「……は?本気……いや、本気か……。
すごいなラウール。お前さんには驚かされてばっかりだ。
今みたいなことをする。お前さんは俺様に犯される。
俺様の子宮に、その熱いのを注ぐ。朝から晩まで、ずっとだ」
「……なら、いいか。結婚……して、みよう、イーファ」
「してみよう、は無意味だぞラウール。二度と離すか」
砂漠の夜が嘘のように、暖かい唇が触れた。
14/03/09 14:16更新 / 青井