「はあ、もうどうしようもねぇな」

質の悪い煙草から出る紫煙を燻らせ、テーブルに頬杖をつきながら男は静かに一人愚痴た。
男は安酒場の木箱の椅子に腰かけ、薄いエールを煽り、酒のつまみに燻した猪肉を齧る。
昼に飲み始め、もう既に夜に差し掛かったあたりまで此処に居座りながら酒を飲んでいた。


いくつもの傷のある強面、屈強で頑健な身体、壁に立てかけてある大剣と腰につけてある小刀。
そして傷だらけながら使い込まれている上質な赤色の革鎧が、男を歴戦の戦士と証明していた。
しかしその表情は、覇気の欠片も無かった。

男は、緩やかに変わりゆく世界に絶望していた。

男の名前は"血染めの"クラッド。そろそろ老兵の域に足を突っ込みかけた傭兵である。

クラッドは頬杖を止め、煙草を指で挟んだまま小刀でざっくりと切りそろえた髭を撫でる。
強い酒が飲みたい程滅入っているわけではない。どうせ小便に変わるなら安酒で十分だ。
そのような半端な気持ちで管を巻きながら、クラッドは次の煙草に火をつけた。


ああ、戦争がしてえなぁ。昔のように殺し合いに混ざりてぇなぁ。


安酒場の給仕の魔物娘を見てクラッドは思った。
この酒場の中でこんな思いを抱いているのは俺だけだろう。
こんな安酒場の中ですら、愛を語り合う男と魔物が居る。いいねぇ。幸せそうだ。
その幸せを邪魔したいわけじゃない。クラッドは赤の他人ですら心からの祝福を送ることが出来る。
クラッドは別に殺しがしたいわけではない。心底命賭け合う戦いを愛しているのだ。

人類は、魔物に敗北した。
いや、まだ負けては居ないだろう。完全に敗北するのは遠い未来かもしれない。
だが、もう勝つ見込みはない。なにせ、懐柔の作戦が完璧だ。人類は愛に勝てない。
クラッドは経験豊富な歴戦の傭兵であり、雇い主の上層部の戦略を見ぬくことすら出来た。
欲に塗れた教会の化物共も、欲だけで動く魔物たちには叶うまい。
傭兵として、負ける側につく道理は無いし、既に支払われた給料以上に働いた。
その上で、局地的な敗北に巻き込まれ、そのまま自然と敗者の中に組み込まれたのだ。
運が無い、というわけじゃない。もうどうしようもないだけだ。
誰も殺しはしない魔物どもは、世界を愛で包んで平和にしていくだろう。

だが俺は血の流し合い、生命を掛け研ぎ澄ますその瞬間が最も生きている実感を得れる。
愛で満ちた世界に、俺の居場所はねぇ。

"血染めの"戦場を渡り歩く功名餓鬼の戦馬鹿は、死んだ。

誰も彼も愛し抜く魔物どもは、一人の傭兵を殺した。それだけの話だ。
傭兵としては失敗続きで、負け戦も経験したことは数えきれない。
だが、クラッドにとって、この敗北はどうしようもない。なにせ敗北したのは人類だ。

「もうちょっと、早くに死にたかったぜ。恨むぜレイラ」

レイラというのは鎧の名前である。クラッドはジンクスを大切にしていた。
戦場では女が男を護ってくれるとの言い伝えは多いし、女の名前を呟けば勇気も生まれる。
しかしクラッドは母親の顔も名前も知らない。故郷に置いてきた女も居ない。

誰か、俺を護ってくれる女の名前が必要だった。

レイラというのはいつか抱いた娼婦の名前、もしくは食料係の、もしくは……覚えていない。
いや、そんな女に出会ったかどうかも定かではない。架空の女で良いのだ。
レイラという名前はその辺りに居そうで最高だ。
ジンクスの為に母親や故郷の妻だと言い切るには真実味がある。
だからクラッドにとってレイラという固有名詞は、鎧の為にあるのだ。

この革鎧は熟練の職人が作り上げた逸品である。
"ブラッディクラッド"として最大の活躍をした戦場において俺に与えられた最高の品だ。
強靭で軽く、動きを阻害しない。上品な機能美と実質剛健な硬さが俺を護ってくれた。
敵の刃から俺の生命を幾度も守り、俺の二つ名の通りに赤く染め上げられていた。
詳しくは知らないが、魔力も帯びているとは味方の魔術師に聞いたこともある。
こいつのおかげで何度生き残ったかは覚えていない程に全面的な信頼を置いていた。
だが、今となってはこの鎧の護りが恨めしくなるほどであった。

「後はやるのは同士討ちくらいかねぇ……」

まだやってるであろう人間と人間の戦いに混ざるくらいしかもうやることは無い。
魔物と戦っても殺意が混ざらないんじゃ話にならない。
別に最強を求めているわけではない。わざわざ強い相手にぶつかりに行きたいわけでもない。
ドラゴンやバフォメットなんぞイカれた強さの連中と戦いたいわけでもないのだ。
いや、多分戦える。旨味は無いだけだ。
適度な強さの相手と戦えればソレで良い。最後の戦いのリザードマンとかは最高の部類だったな。
魔界銀なんぞ湿気たものを使わずに向かい合ってきたのはあいつくらいだった。
武芸百般の達人だった。弩弓に長刀に曲刀の大小二刀と、武器庫見てえな奴だった。
もう少し長く戦いたかった。ありゃあ二つ名付きだったろうに、勿体無い事をした。
敗北を知らせる笛が吹いたもんだから途中で終わっちまったんだよなぁ。
負けた上で、金にもならねえのに戦い続けるなんぞ、俺には出来ねえ。
でも、あれは真っ当に戦える最後に機会だったんだろうな。惜しかった。本当に、惜しかった。

ああ、もう死ねなくなっちまった。


「あんた、もう閉店だよ！」
ゴブリンの給仕が俺に告げた。俺はやっと意識を現実に戻していった。
大量の煙草が吸い殻入れから溢れていて、食べかけのツマミや飲みかけの酒が残っている。
客はもう既に俺しか居らず、辺りは暗くなってた。完全に深夜帯だ。

「おお、もうそんな時間かよ。悪いな長居しちまって。釣りは要らねぇぜ」
俺はジャラッと金をテーブルの上に置いてこの店から御暇しようとした。

「釣りは要らないって、足りないよ！」
そんなに飲んでたんだったか。感傷的な気分になったのは飲み過ぎの所為かねぇ。


＊　＊　＊


硬いベッドから身を起こし、目を開けて歪み狂った世界を眺める。頭が痛い。

「やべぇやつだ……気持ち悪い……」

アレだけの酒に負けるとか、完ッ全に年だな。
昨日どうやってベッドに入ったかまともに覚えていない。
どれだけ酔っていようが疲れてようがレイラの手入れだけは欠かさないんだが。
最悪武器なんぞ無くなっても殴り合いに縺れこみゃいいだけの話なんだ。武器はオマケだ。
俺は、二日酔いを覚ますための水を飲むよりも、まずレイラがどうなってるのかを確認した。
ちゃんとレイラはまとめて置かれてあり、部屋の隅で佇んでいる。
ああ流石俺、全ッ然記憶に無いがちゃんとやってるじゃねぇか。長い傭兵生活の賜だな。

「……クラッド、また私の手入れを忘れたな……」

なんか聞こえた気がした。幻聴か。そうとう二日酔いは重いらしい。
どれだけ酔っていても、死ぬほど疲れていても、気絶するようにベッドに転がっても。
俺は、どんな時でもレイラを身体から外す事と手入れは絶対に欠かしていない。
つもりだ。うん。実績的にはやっている。なにせ今日みたいに記憶が無くてもやってるからな。

レイラの状態が良好なのを確かめた俺は頭をまともにするために井戸水を浴びにゃならん。
水をたらふく飲んで、臭え身体を洗わなきゃいかん。ああ口の中もすげぇ嫌な感じがする。

「……私の手入れ、忘れたな……」

うー、腹も減ってるな。そういや昨日は酒のツマミしか食わなかったしな。胃袋が気持ち悪い。
ああでも、気持ち悪くてベッドでまだ寝ていたい。水飲んで小便したら寝よう。そうしよう。

「……忘れたな！」
「やめろ、頭が痛いんだ。俺の頭が正常になったら寝るから夢の中で言ってくれ」

俺は幻聴にとりあえず返答をしておいた。
誰かよくわからないし、一切聞いたことがないハズだが、何故か非常に馴染み深い声だ。
どこから聞こえてくるのかもさっぱりわからない。が、俺の頭は一切の冷静な思考が出来ない。

「自業自得。そんなことより私の手入れを忘れたことの方が重要、罪深い」
「おうおう、すまんすまん悪かったこのとおりだ心の底から謝る。だから水飲んでくる」

さっぱりわけがわからないが俺はガンガン鳴る頭で幻聴と会話する。
まるで長年連れ添った女房のようにするりとその声は頭の中に入ってくるが、幻聴である。

「さっぱり誠意が見られない。何？私を放りっぱなしで寝っ転がって許されると思うの？」
「すまんレイラ。そんなつもりじゃないんだ許してくれ。俺の気持ちはしっているだろう。
　この小言が早く終わらないかなとか思ってるわけじゃない、本当だ。小便がしたいだけだ」

この幻聴の相手はレイラらしい。なる程な。ノリで続けているが相手はレイラか。
レイラが相手ならば俺の勝手はわかってくれるだろう。もうちょっと気軽に流そう。

……………はあ？レイラ？何故俺はそんなことを思った？俺は声の出処を探った。


「ほらやっぱり、悪いとすら思ってないのね」

声は、俺の愛用の鎧であるレイラから聞こえてきた。

「………ヤバイな、年を取ると幻聴が聞こえてくるのか」
「幻聴じゃないわ、何言ってるのやっとお話出来たのに」

いかん、幻聴がちゃんと返ってくる。耳からちゃんと入ってきて脳に染み渡る。
二日酔いと加齢の相乗効果なんだな。ヤバイな、おかしくなるには早いと思っていたんだが。

「……やっぱり、ちゃんと見せないとダメなのね。っ、ほら、良く見て」

部屋の隅に置かれていたバラバラのパーツであるレイラは、するりと"立ち上がった"。
そうしていたら、パーツ全体が震えたと思ったら、徐々に白い像が浮かび上がってきた。
白く、半透明な裸の美少女が、赤い革鎧だけをつけている幻想的な光景であった。
無表情だが、その端正な顔立ちは今までにない程の美少女だと言えるだろう。
だが、ほぼ直感であるが、彼女が何者か理解できた。
姿も知らない、顔も見たことが無いが、この女は。

"レイラ"だ。

「……見えた？クラッド」

クラッドは、動揺した。
気分は最悪、二日酔いで頭がまともに回っていない。吐き気がこみ上げてくるし、口はぱさぱさ。
だが、そんなことよりもクラッドの動揺の理由は悲しみに近い感情であった。
クラッドは、全くもって理論的ではない言葉を、感情のままにレイラにぶつけることになった。


「……なんだ、レイラ、お前すらも俺を"殺し"に来たのか」


レイラの表情は変わらなかったが、とても悲しそうに答えた。


「そうだよ、クラッド。血塗れた人生にトドメを刺しに来たよ」