終章
そして最後の対局の時が訪れた。
対局の場は王城の一室。
これはソフィリアが王城に招かれてから常に対局で使用していた場所であった。
一つを除いて何時もと同じ光景。ただその一つの変化により一室は異様な空気に包まれていた。
チェス盤を置いてあるテーブルに今までに無かった異質なものが突き立っていた。
いつそれが現れたのかは誰も知らない。
だが、それは王家の印が刻み込まれたものであり、用意した人物は王子以外にはあり得ない。
侍女たちはこの部屋を整えるために決闘前に入室し、それを発見した。
悲鳴を上げるものもいた。呼吸を荒らげるものもいた。気分を悪くするものも居た。
それでも冷静に準備を整え、退席した侍女達も軒並み怯えている。
侍女達の間でも今日が最後の日である事は伝わっていた。
しかし、このような得体のしれない何かが起きている感覚に襲われるとは思わなかったのだ。
常に王子の護衛として背後に付き添っていた騎士も終始落ち着くことは無かった。
何者かに終始襲われる、いや切られるような殺気の如き錯覚に付き纏わられていた。
だがしかし、この感覚に近いものをここ最近ずっと味わってきたような既視感も覚えた。
この国の屈指の実力者であり、魔法による警戒も行える騎士ですら感じ取れぬ殺気。
余りにも静かなその感覚は、しかし暗殺者が誰かを害そうとする粘性のそれとは違った。
それはあまりに真摯なもの。高潔さすら伺える悪意。その純粋さを感じ取ったのだ。
数多の危機を乗り越えた騎士ですらこの純粋さに震え上がった。ただ単に恐ろしかった。
誰だ、一体誰が何をしようとしているのか。そして誰を害そうとしているのか。
マクシミリアン王子の兄達は虫の知らせのようなものを感じ取った。
今日が最後の対局の日と知ってはいた。
しかし、第一王子も第二王子もその場で見届けるわけには行かなかった。
第一王子は親魔物領や周辺国との交渉を粘り強く行っていた。
マクシミリアンの戦いが終わったところで、次なる戦争が起きてしまう可能性もあり得たのだ。
それによる戦火や侵略が自らの国へと及ぶことはなんとしても避けなければならなかった。
第二王子は停戦により魔物がこの国へ入ってきた時の事前の対処、研究に全力を注いでいた。
このままでは魔物の魅了により、内側から侵略されていく可能性は極めて高い。
そのため、政治的な措置だけでなく、魔法による防御という直接的な手段の研究も行っていた。
この二人は自分の戦いを行っており、マクシミリアンの戦いを見守ることなど出来なかった。
だが、背中に寒気のようなものが走った。弟に危機が振りかかるという感覚ではない。
むしろ逆。弟は何かを成そうとしている。お前は何を成し遂げようとしているんだ。
この国の王は、第三王子マクシミリアンのことを初めて恐れた。
自分の息子は皆優秀であり、誰に王位を継がせたとしても誰も文句の付け所のない王になる。
互いに尊重し合えるほど仲もよく、この三人は協力しあって国を盛り上げていくのだと思っていた。
しかし二人の兄に阻まれマクシミリアンは芽が出ない息子であった。そう思っていた。
二人とは違う才を持つ男。自らの戦いの場を選ぶことが出来ていない。
神経質で繊細。芸術に才があるとみて、感性を磨かせるた事は間違っていたとは思えない。
だが、魔物に襲われた街から脱出してきた時から、何かが変わった。
変わった事がわかったのは、兄弟ではなく、恐らく私だけだろう。
マクシミリアンは磨いた芸術の才能により、全てを隠した。
以前の自分を演じ続けたのだ。まるで一切の変化が無いかのように、いや。
徐々に成長していく自分を演じ続けた。
私ですらそれを見ぬくことは出来なかった。本人からの計画を持ち込まれるまでは。
どれほどその計画に価値が無くとも、分が悪かろうと、私はそれを受け入れざるを得なかった。
目の前の男がそれをやり遂げると言ったのだ。
それは信念か狂気か復讐か。それとも・・・いや、私に邪推は出来ない。
だが、マクシミリアンの計画を最後まで支援せねばならないと思ったのは運命なのだと思った。
馬鹿げた計画であったし、その先に何が起こるか私には分からなかった。
しかし、まるで予定調和のごとく戦争は起き、マクシミリアンの計画は始まった。
私はマクシミリアンの計画を熟知していたため、国を守るためにそれを利用させてもらった。
マクシミリアンが敗北しないという前提の計画。周囲の静止を止めそれを実行した。
信じたのだ。自分が恐れた男の事を。
そして、戦争は集結し、マクシミリアンの戦いも終わりを告げようとしている。
どう転ぼうと、私とマクシミリアンの関係も終わりを迎える。起きた瞬間そう実感したのだ。
ああ、妻よ。せめて善き運命へ我が息子マクシミリアンがたどり着けるように見守っていてくれ。
一国を治める王は戦いに赴く息子のために、亡き妻に祈った。
* * *
私は決闘の場となる部屋の前へ立った。
王子直属の護衛が扉の前に立っており、従者のように扉を開ける。
いつも思うが、彼にドアを開ける仕事をさせるには位が高過ぎる気がする。
だが、魅了への耐性があるのも彼くらいしか居ない。何故かありがたい気持ちで彼に会釈した。
扉を開けた先、窓際にマクシミリアンが立っていた。
窓から後光のように光が刺し、その優しげな風貌を照らしだしている。
いつもの柔和な笑み。慈愛に満ちており、街の娘などころっと恋に落ちてしまうのだろう。
だけど私には魔王が嗤っているようにしか見えなかった。
なにせ部屋は温かいのに空気が重く冷たい。
どうやったら存在感だけで空気を冷やすことが出来るのだろうと私は脳天気に感心してしまった。
朝から騒がしかった部下が急におとなしくなり、冷や汗をかいてるのがなぜだか可笑しかった。
こんな私に最後まで着いてきてくれてありがとう。私には勿体無い良い部下ばかりでした。
部下はまるでここが死地であるかのように今にも飛び出しそうだ。
王子の護衛である騎士もそれに直ぐ応対出来るような剣呑な雰囲気を醸し出していた。
大丈夫、この場で死ぬとしたら私か王子だけです。
いや、私が冷静すぎるだけなのだろうか。確かに今までで一番と言えるほど落ち着いている。
でも、空気が違うのはわかるし、これが最後だとわかってはいるけどやることは何時もと同じ。
だから無駄に緊張する必要は無いと思っていた。過度な緊張は良い結果を産まない。
少しばかり緊張感が足りなすぎるかもしれない。気を引き締めなければ。
そう考えながら私はいつもの用に、チェス盤の前へと足を進めた。
* * *
余りにも堂々としていて以前から見惚れる程に美しかった姫様がもはや神々しく見えました。
同じ魔物娘として姫様の美しい姿を羨ましいと思ったことはありました。
ですがこれほど綺麗な姫様を羨ましいとすら思うことも出来ません。ただ見惚れてしまいました。
決闘の間護衛として携わらせて頂きましたが、今日の姫様を纏うものがなにか違って見えます。
魔物娘という存在を知らなければ、姫様を神様か何かだと錯覚してしまうのかもしれません。
ただ一歩足を進める事すら、空気が勝手に道を譲っている、そのような気分にすらなりました。
部屋に入った時の異様な気配を察知し、剣を抜くような事を考えた私が愚かに見えたほどです。
魔物娘らしかぬ神気を纏う程の美しさ。それは妖艶さでも蠱惑的でもありません。
ただ、綺麗なのです。
こんな綺麗なものを邪魔するものはあり得ない。護衛である私にそう思わせるほどでした。
この戦いを邪魔できるものは誰も居ません。
たとえ私がこの戦いを妨害しようと剣で斬りかかろうとしたところで何か邪魔が入るでしょう。
そのような気持ちにすらなりました。となると私にできる事はただ見守るだけです。
そう、たとえ姫様が苦しい時ですら私に出来たことは最初から見守ることしか出来ませんでした。
最初から姫様の敵は目の前に居るのに加勢することが出来なかった。
姫様を守ることが出来ない、私は悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。
勅令を無視してでも姫様を守るため王子を誘拐しようと思ったことすらありました。
一度、独断で決行したこともあります。
その時はデュラハンである私を退ける程の腕前を持っていた護衛の騎士により阻まれました。
姫様も王子も知り得ない戦いではありましたが、それ以降私は実行できませんでした。
この戦いはもう誰にも止めることは出来ないのだ。と私の中で焼き付いてしまったのです。
そうなれば、私にできることはただ見守るだけ。
ですが今日の姫様を見て私は、それで良いとやっと思うことが出来ました。
ああ、この戦いを私の意思だけで滅茶苦茶にしてしまわなくて本当に良かった。
そう心から思えたのです。
だから私は姫様の護衛として、この戦いの最初から最後までお側で見守らせて頂きます。
* * *
チェス盤を載せるテーブルの上に何か刺さっていた。
「 自決用の短剣です。負けた場合、私は貴女に生命を捧げることになっている。
私に対して死ねと貴女が申したのであれば、私はその短剣で即座に自決するでしょう。
その覚悟の現れ、だと思ってください。
魔物娘は人を殺そうなんてことは出来ない。私もその事実は認識しています。
ですが。
今の貴女であれば人を害することも不可能ではない。私はそう思っています。 」
いや、私の耳には王子はこう告げているようにしか聞こえなかった。
私のことを思ってくれているにせよ、私を愛してくれてるかもしれないにせよ。
王子が勝った時、敗者であるソフィリアに対して自決を命ずる。
殺意。
マクシミリアン王子は私を殺す気なのだ。
負けた時を想像してみたが、どうやら私はすんなりそれを受け入れてしまいそうだ。
死にたいとは当然思わないのだが、王子に命じられたのであれば仕方が無い。
そう自然と納得してしまった。
ああ、負けたら本当に死んでしまうのか。
歴史上初のただの人間に殺されたリリムになってしまうかもしれない。
悪くないかもしれない。
・・・まだちょっと緊張感が足りない。感覚が麻痺してしまっているのだろうか。
実感が湧いていないのだ。今日の戦いでどちらかが生命を落とす。
いや。
先ほどの王子のセリフは嘘だ。
私にはまだ足りていない。
ああ、最後の戦いでやっと気がつけた。
「 そうですね。 今の私ならば。 貴方に自決を命ずる事も出来ます。
いえ、言っておきましょう。
必ず、貴方を殺します。 」
私は穏やかな気分で微笑みながらマクシミリアン王子へ殺意をおもいっきりぶつけてみた。
王子は嬉しそうに笑った。
* * *
そしてチェスの時間が始まった。
* * *
先手・後手を選ぶ権利はソフィリアに与えられた。
ソフィリアは後手を選択した。
マクシミリアン王子の先手で対局が始まる。
初手は白のポーンをE4へ。
美しい一手。
此方はE5へポーンを進める。
互いのポーンが睨み合う。
その背後で互いに陣形を整える。
マクシミリアン王子の手には淀みはない。
表情も温和な笑みままだ。
どこかで見たような盤面。いつか見たような王子の笑み。
王子が、ビショップを外側に動かした。
それは僅かな隙。
この隙は私を誘うための罠。改めて見直すと恐ろしいまでに計算された配置をしていた。
私は、ビショップの攻撃を許した。
ビショップがこちらの陣を幾重にも縫いとめる。一部の防御力が削り取られていた。
ここからが本番。既に王子は攻撃に転じている。
速度的な有利不利は少なく、盤面の駒数は不利。私はここから覆さねばならない。
ポーンが殴りあう最中、ナイトの牽制、ビショップは隙を見計らい、ルークは互いに封じ合う。
王子のクイーンに盤面を支配されないよう、此方もクイーンの勢力を拡大させる。
クイーン同士の潰し合いは盤面を覆す要素にはなりえず不利を増長させる。
しかしポーン同士の殴りあいで互いが削られるまま時間が過ぎるのを待つ訳にはいかない。
終盤になれば、少しの駒の差が絶対的な差として返ってくるのだ。
盤面での有利を取れない以上、ビショップで削られた穴を埋めるためには何かしらの策が必要。
何か。何か無いだろうか。私に出せるものはなにか無いだろうか。
ポーンは削られあって、ナイトは縛りあい、ビショップは睨み合い、ルークは止め合う。
そしてクイーンを動かすことは敗北につながる。
なら。
「 ほう。 」
私はキングを進ませた。
「 私は、キングを戦う駒だと思っています。だから、私は、戦場の真ん中で戦います。 」
チェスというのはキングを取り合うボードゲームである。
故にキングの駒は絶対に守りぬかねばならない。
しかし、キングという駒はそれ単体で見れば強力な駒の一つだ。
流石にクイーンには叶わないが、全方向に動ける強みを持つ駒である。
積極的に用いれば盤面を推し進める強い駒なのだ。
以前では考えもしなかった戦い方。
まるで生命をかけてギャンブルをしているような気分。
正直。
嫌いじゃない・・・!
ビショップで削られた防御をキングが穴埋めする。
クイーンが陣を強固に押しとどめ、ルークを活かす。牽制していたナイトを潰し合わせる。
潰し合いをさせていたポーンをビショップで救い、ルークによる壮絶な殴り合いを始める。
生き残ったナイトが相手のクイーンを押しとどめジリジリとキングが盤面を圧迫する。
しかし王子の陣はそれでも揺るがない。
開いた隙間にナイトが駆けまわり、此方を崩していく。
ポーンはキングを狙いながら押し寄せ、ルークはその隙を狙い私のビショップを打ちとった。
とどまっていたかの用に思えたクイーンは転戦しポーンを強烈に支援する。
その間を縫うかの如くビショップが此方を削っていく。
壮絶な削り合い。ジリジリと互いの首を真綿で絞めるような殺し合いを私達はしている。
盤面は悲惨な戦いを繰り返し、幾つもの駒が私達のために名誉の戦死を遂げている。
なんて意味の無い殺し合いなのだろう。なんて救いようのない戦いなのだろう。
でもこれは私達が望んだ戦い。彼も私もこの戦いを選択した。
なら散っていった駒に報わねばならない。
私は苦しかった。このままジリジリと敗北していく焦燥感と絶望感で心を潰されるようだった。
だけど。
私はこの人を殺さなければならない。
私を支えているのは負の感情だ。
この人からぶつけて貰った幾つもの負の感情が、私を支えている。
私はあの瞬間まで負の感情を覚えないまま育っていた。
ああ、なんてつまらない娘だったのだろう。
苦しいことも辛いことも悲しいことも知らなかったなんて。
憎しみを覚えた。妬みを覚えた。恨みを覚えた。そして最後に殺意を覚えた。
負の感情を知ったことで、私はやっと彼と対等になれた。いや。人になれた気がした。
なら彼から貰ったものを全部返さねばならない。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はルークを犠牲にキングを前に進める。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はビショップを犠牲にキングを前に進める。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はナイトを犠牲にキングを前に進める。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はクイーンを犠牲にキングを前に進める。
キング同士がかち合った。
当然キングでチェックメイトは行えない。 互いの領域に入ったら入った方が討ち取られる。
そう、キングでキングを止めることは出来ない。
私はキングに守られながら、ポーンを進めた。
プロモーション。最奥まで進んだポーンは全ての駒に転ずることが出来る。
「 チェック、メイト。 」
私のキングによって逃げ場を失った王子のキングが、成り上がったポーンによって討ち取られた。
* * *
「 ・・・ はは。 ははは。 あはははははははははあははは! 」
マクシミリアン王子は大笑いした。
それは悲しそうに見えたし、成し遂げたように見えたし、受け入れたように見えるな笑いだった。
「 まさかこんなゴリ押しの戦法で負けるとは! いやはや、考えもしなかった! 」
「 最後の最後で私に勝つとは! 」
「 ああ。 」
「 ああ! 」
「 勝てなかった。 」
それは、まるでそのまま死んでしまいそうな声で、王子は敗北を受け入れた。
「 さあ、どうぞ、私の生命。貴女にお渡しします。 」
「 王子、私は貴方の命を頂けたのですよね。 」
「 ええ。どうぞお好きにお使いください。もはや私の命は私のものではありません。
私に自決せよと命じればすぐにでも命を断たさせていただきます。 」
貴女ならば、その命令を下す事も出来ましょう。と、彼は信頼を私に見せた。
私は、王子に宣告する。
私は王子に死んでほしいとは思っていなかった。
しかし、王子を奴隷のように扱いたくはなかったし、これを言い訳に全てを奪うつもりはなかった。
私は何がほしいのか。
王子からは色んな物を貰った。
あらゆる負の感情を貰った。
生命を掛けた戦いを貰った。
全力を尽くせる事を貰った。
王子の絶望はすでに貰った。
私は。
この人に何か返さなければならない気がする。
だが、今ここで答えを出せるかと言われると困る。
なにせ勝つことに必死で、勝った後の事を全く考えていなかったのだ。
ああ。どうしよう。
私は生命を掛けた対局をしていたときの数倍混乱していた。
落ち着きたい。
あ。
今、私が欲しいものがひとつあった。
「 私は、マクシミリアン王子。
貴方に命を断ってもらうつもりはありません。
そして勝負に勝ったと言えども、奴隷の如く命令するつもりもありません。
しかし、私が勝利した証として、一度だけ絶対の命令を下します。
たった一度だけです。
この命令に拒否権はありません。
必ず、絶対に実行してもらいます。 当然、貴方の命に代えてもです。 」
「 何なりと。 ソフィリア様。 」
「 今から私は、貴方に一生で一度だけの命令を下します。 」
私は、王子との未来を少しだけ考えた。
王子との未来がほしい。
ああ、浅ましい考えかもしれない。
でも私はやっと私らしく生きていけそうな気がする。
王子との長い時を生きていきたいと思えたのだ。
だから、王子から貰いたいものは、一つ。たった一つ。
私は、その一つ一つを積み上げていきたい。
ああ。今からいう言葉に自分でも笑ってしまいそうになる。
ばかだなぁ私。
でも、こんな私も好きになってください。
「 美味しい珈琲を私に淹れてください。 絶対にですよ。 」
私は王子のきょとんとした顔を初めて見ることができた。
ついに王子の仮面を引きはがすことに成功した私は、それがおかしくて笑ってしまった。
対局の場は王城の一室。
これはソフィリアが王城に招かれてから常に対局で使用していた場所であった。
一つを除いて何時もと同じ光景。ただその一つの変化により一室は異様な空気に包まれていた。
チェス盤を置いてあるテーブルに今までに無かった異質なものが突き立っていた。
いつそれが現れたのかは誰も知らない。
だが、それは王家の印が刻み込まれたものであり、用意した人物は王子以外にはあり得ない。
侍女たちはこの部屋を整えるために決闘前に入室し、それを発見した。
悲鳴を上げるものもいた。呼吸を荒らげるものもいた。気分を悪くするものも居た。
それでも冷静に準備を整え、退席した侍女達も軒並み怯えている。
侍女達の間でも今日が最後の日である事は伝わっていた。
しかし、このような得体のしれない何かが起きている感覚に襲われるとは思わなかったのだ。
常に王子の護衛として背後に付き添っていた騎士も終始落ち着くことは無かった。
何者かに終始襲われる、いや切られるような殺気の如き錯覚に付き纏わられていた。
だがしかし、この感覚に近いものをここ最近ずっと味わってきたような既視感も覚えた。
この国の屈指の実力者であり、魔法による警戒も行える騎士ですら感じ取れぬ殺気。
余りにも静かなその感覚は、しかし暗殺者が誰かを害そうとする粘性のそれとは違った。
それはあまりに真摯なもの。高潔さすら伺える悪意。その純粋さを感じ取ったのだ。
数多の危機を乗り越えた騎士ですらこの純粋さに震え上がった。ただ単に恐ろしかった。
誰だ、一体誰が何をしようとしているのか。そして誰を害そうとしているのか。
マクシミリアン王子の兄達は虫の知らせのようなものを感じ取った。
今日が最後の対局の日と知ってはいた。
しかし、第一王子も第二王子もその場で見届けるわけには行かなかった。
第一王子は親魔物領や周辺国との交渉を粘り強く行っていた。
マクシミリアンの戦いが終わったところで、次なる戦争が起きてしまう可能性もあり得たのだ。
それによる戦火や侵略が自らの国へと及ぶことはなんとしても避けなければならなかった。
第二王子は停戦により魔物がこの国へ入ってきた時の事前の対処、研究に全力を注いでいた。
このままでは魔物の魅了により、内側から侵略されていく可能性は極めて高い。
そのため、政治的な措置だけでなく、魔法による防御という直接的な手段の研究も行っていた。
この二人は自分の戦いを行っており、マクシミリアンの戦いを見守ることなど出来なかった。
だが、背中に寒気のようなものが走った。弟に危機が振りかかるという感覚ではない。
むしろ逆。弟は何かを成そうとしている。お前は何を成し遂げようとしているんだ。
この国の王は、第三王子マクシミリアンのことを初めて恐れた。
自分の息子は皆優秀であり、誰に王位を継がせたとしても誰も文句の付け所のない王になる。
互いに尊重し合えるほど仲もよく、この三人は協力しあって国を盛り上げていくのだと思っていた。
しかし二人の兄に阻まれマクシミリアンは芽が出ない息子であった。そう思っていた。
二人とは違う才を持つ男。自らの戦いの場を選ぶことが出来ていない。
神経質で繊細。芸術に才があるとみて、感性を磨かせるた事は間違っていたとは思えない。
だが、魔物に襲われた街から脱出してきた時から、何かが変わった。
変わった事がわかったのは、兄弟ではなく、恐らく私だけだろう。
マクシミリアンは磨いた芸術の才能により、全てを隠した。
以前の自分を演じ続けたのだ。まるで一切の変化が無いかのように、いや。
徐々に成長していく自分を演じ続けた。
私ですらそれを見ぬくことは出来なかった。本人からの計画を持ち込まれるまでは。
どれほどその計画に価値が無くとも、分が悪かろうと、私はそれを受け入れざるを得なかった。
目の前の男がそれをやり遂げると言ったのだ。
それは信念か狂気か復讐か。それとも・・・いや、私に邪推は出来ない。
だが、マクシミリアンの計画を最後まで支援せねばならないと思ったのは運命なのだと思った。
馬鹿げた計画であったし、その先に何が起こるか私には分からなかった。
しかし、まるで予定調和のごとく戦争は起き、マクシミリアンの計画は始まった。
私はマクシミリアンの計画を熟知していたため、国を守るためにそれを利用させてもらった。
マクシミリアンが敗北しないという前提の計画。周囲の静止を止めそれを実行した。
信じたのだ。自分が恐れた男の事を。
そして、戦争は集結し、マクシミリアンの戦いも終わりを告げようとしている。
どう転ぼうと、私とマクシミリアンの関係も終わりを迎える。起きた瞬間そう実感したのだ。
ああ、妻よ。せめて善き運命へ我が息子マクシミリアンがたどり着けるように見守っていてくれ。
一国を治める王は戦いに赴く息子のために、亡き妻に祈った。
* * *
私は決闘の場となる部屋の前へ立った。
王子直属の護衛が扉の前に立っており、従者のように扉を開ける。
いつも思うが、彼にドアを開ける仕事をさせるには位が高過ぎる気がする。
だが、魅了への耐性があるのも彼くらいしか居ない。何故かありがたい気持ちで彼に会釈した。
扉を開けた先、窓際にマクシミリアンが立っていた。
窓から後光のように光が刺し、その優しげな風貌を照らしだしている。
いつもの柔和な笑み。慈愛に満ちており、街の娘などころっと恋に落ちてしまうのだろう。
だけど私には魔王が嗤っているようにしか見えなかった。
なにせ部屋は温かいのに空気が重く冷たい。
どうやったら存在感だけで空気を冷やすことが出来るのだろうと私は脳天気に感心してしまった。
朝から騒がしかった部下が急におとなしくなり、冷や汗をかいてるのがなぜだか可笑しかった。
こんな私に最後まで着いてきてくれてありがとう。私には勿体無い良い部下ばかりでした。
部下はまるでここが死地であるかのように今にも飛び出しそうだ。
王子の護衛である騎士もそれに直ぐ応対出来るような剣呑な雰囲気を醸し出していた。
大丈夫、この場で死ぬとしたら私か王子だけです。
いや、私が冷静すぎるだけなのだろうか。確かに今までで一番と言えるほど落ち着いている。
でも、空気が違うのはわかるし、これが最後だとわかってはいるけどやることは何時もと同じ。
だから無駄に緊張する必要は無いと思っていた。過度な緊張は良い結果を産まない。
少しばかり緊張感が足りなすぎるかもしれない。気を引き締めなければ。
そう考えながら私はいつもの用に、チェス盤の前へと足を進めた。
* * *
余りにも堂々としていて以前から見惚れる程に美しかった姫様がもはや神々しく見えました。
同じ魔物娘として姫様の美しい姿を羨ましいと思ったことはありました。
ですがこれほど綺麗な姫様を羨ましいとすら思うことも出来ません。ただ見惚れてしまいました。
決闘の間護衛として携わらせて頂きましたが、今日の姫様を纏うものがなにか違って見えます。
魔物娘という存在を知らなければ、姫様を神様か何かだと錯覚してしまうのかもしれません。
ただ一歩足を進める事すら、空気が勝手に道を譲っている、そのような気分にすらなりました。
部屋に入った時の異様な気配を察知し、剣を抜くような事を考えた私が愚かに見えたほどです。
魔物娘らしかぬ神気を纏う程の美しさ。それは妖艶さでも蠱惑的でもありません。
ただ、綺麗なのです。
こんな綺麗なものを邪魔するものはあり得ない。護衛である私にそう思わせるほどでした。
この戦いを邪魔できるものは誰も居ません。
たとえ私がこの戦いを妨害しようと剣で斬りかかろうとしたところで何か邪魔が入るでしょう。
そのような気持ちにすらなりました。となると私にできる事はただ見守るだけです。
そう、たとえ姫様が苦しい時ですら私に出来たことは最初から見守ることしか出来ませんでした。
最初から姫様の敵は目の前に居るのに加勢することが出来なかった。
姫様を守ることが出来ない、私は悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。
勅令を無視してでも姫様を守るため王子を誘拐しようと思ったことすらありました。
一度、独断で決行したこともあります。
その時はデュラハンである私を退ける程の腕前を持っていた護衛の騎士により阻まれました。
姫様も王子も知り得ない戦いではありましたが、それ以降私は実行できませんでした。
この戦いはもう誰にも止めることは出来ないのだ。と私の中で焼き付いてしまったのです。
そうなれば、私にできることはただ見守るだけ。
ですが今日の姫様を見て私は、それで良いとやっと思うことが出来ました。
ああ、この戦いを私の意思だけで滅茶苦茶にしてしまわなくて本当に良かった。
そう心から思えたのです。
だから私は姫様の護衛として、この戦いの最初から最後までお側で見守らせて頂きます。
* * *
チェス盤を載せるテーブルの上に何か刺さっていた。
「 自決用の短剣です。負けた場合、私は貴女に生命を捧げることになっている。
私に対して死ねと貴女が申したのであれば、私はその短剣で即座に自決するでしょう。
その覚悟の現れ、だと思ってください。
魔物娘は人を殺そうなんてことは出来ない。私もその事実は認識しています。
ですが。
今の貴女であれば人を害することも不可能ではない。私はそう思っています。 」
いや、私の耳には王子はこう告げているようにしか聞こえなかった。
私のことを思ってくれているにせよ、私を愛してくれてるかもしれないにせよ。
王子が勝った時、敗者であるソフィリアに対して自決を命ずる。
殺意。
マクシミリアン王子は私を殺す気なのだ。
負けた時を想像してみたが、どうやら私はすんなりそれを受け入れてしまいそうだ。
死にたいとは当然思わないのだが、王子に命じられたのであれば仕方が無い。
そう自然と納得してしまった。
ああ、負けたら本当に死んでしまうのか。
歴史上初のただの人間に殺されたリリムになってしまうかもしれない。
悪くないかもしれない。
・・・まだちょっと緊張感が足りない。感覚が麻痺してしまっているのだろうか。
実感が湧いていないのだ。今日の戦いでどちらかが生命を落とす。
いや。
先ほどの王子のセリフは嘘だ。
私にはまだ足りていない。
ああ、最後の戦いでやっと気がつけた。
「 そうですね。 今の私ならば。 貴方に自決を命ずる事も出来ます。
いえ、言っておきましょう。
必ず、貴方を殺します。 」
私は穏やかな気分で微笑みながらマクシミリアン王子へ殺意をおもいっきりぶつけてみた。
王子は嬉しそうに笑った。
* * *
そしてチェスの時間が始まった。
* * *
先手・後手を選ぶ権利はソフィリアに与えられた。
ソフィリアは後手を選択した。
マクシミリアン王子の先手で対局が始まる。
初手は白のポーンをE4へ。
美しい一手。
此方はE5へポーンを進める。
互いのポーンが睨み合う。
その背後で互いに陣形を整える。
マクシミリアン王子の手には淀みはない。
表情も温和な笑みままだ。
どこかで見たような盤面。いつか見たような王子の笑み。
王子が、ビショップを外側に動かした。
それは僅かな隙。
この隙は私を誘うための罠。改めて見直すと恐ろしいまでに計算された配置をしていた。
私は、ビショップの攻撃を許した。
ビショップがこちらの陣を幾重にも縫いとめる。一部の防御力が削り取られていた。
ここからが本番。既に王子は攻撃に転じている。
速度的な有利不利は少なく、盤面の駒数は不利。私はここから覆さねばならない。
ポーンが殴りあう最中、ナイトの牽制、ビショップは隙を見計らい、ルークは互いに封じ合う。
王子のクイーンに盤面を支配されないよう、此方もクイーンの勢力を拡大させる。
クイーン同士の潰し合いは盤面を覆す要素にはなりえず不利を増長させる。
しかしポーン同士の殴りあいで互いが削られるまま時間が過ぎるのを待つ訳にはいかない。
終盤になれば、少しの駒の差が絶対的な差として返ってくるのだ。
盤面での有利を取れない以上、ビショップで削られた穴を埋めるためには何かしらの策が必要。
何か。何か無いだろうか。私に出せるものはなにか無いだろうか。
ポーンは削られあって、ナイトは縛りあい、ビショップは睨み合い、ルークは止め合う。
そしてクイーンを動かすことは敗北につながる。
なら。
「 ほう。 」
私はキングを進ませた。
「 私は、キングを戦う駒だと思っています。だから、私は、戦場の真ん中で戦います。 」
チェスというのはキングを取り合うボードゲームである。
故にキングの駒は絶対に守りぬかねばならない。
しかし、キングという駒はそれ単体で見れば強力な駒の一つだ。
流石にクイーンには叶わないが、全方向に動ける強みを持つ駒である。
積極的に用いれば盤面を推し進める強い駒なのだ。
以前では考えもしなかった戦い方。
まるで生命をかけてギャンブルをしているような気分。
正直。
嫌いじゃない・・・!
ビショップで削られた防御をキングが穴埋めする。
クイーンが陣を強固に押しとどめ、ルークを活かす。牽制していたナイトを潰し合わせる。
潰し合いをさせていたポーンをビショップで救い、ルークによる壮絶な殴り合いを始める。
生き残ったナイトが相手のクイーンを押しとどめジリジリとキングが盤面を圧迫する。
しかし王子の陣はそれでも揺るがない。
開いた隙間にナイトが駆けまわり、此方を崩していく。
ポーンはキングを狙いながら押し寄せ、ルークはその隙を狙い私のビショップを打ちとった。
とどまっていたかの用に思えたクイーンは転戦しポーンを強烈に支援する。
その間を縫うかの如くビショップが此方を削っていく。
壮絶な削り合い。ジリジリと互いの首を真綿で絞めるような殺し合いを私達はしている。
盤面は悲惨な戦いを繰り返し、幾つもの駒が私達のために名誉の戦死を遂げている。
なんて意味の無い殺し合いなのだろう。なんて救いようのない戦いなのだろう。
でもこれは私達が望んだ戦い。彼も私もこの戦いを選択した。
なら散っていった駒に報わねばならない。
私は苦しかった。このままジリジリと敗北していく焦燥感と絶望感で心を潰されるようだった。
だけど。
私はこの人を殺さなければならない。
私を支えているのは負の感情だ。
この人からぶつけて貰った幾つもの負の感情が、私を支えている。
私はあの瞬間まで負の感情を覚えないまま育っていた。
ああ、なんてつまらない娘だったのだろう。
苦しいことも辛いことも悲しいことも知らなかったなんて。
憎しみを覚えた。妬みを覚えた。恨みを覚えた。そして最後に殺意を覚えた。
負の感情を知ったことで、私はやっと彼と対等になれた。いや。人になれた気がした。
なら彼から貰ったものを全部返さねばならない。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はルークを犠牲にキングを前に進める。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はビショップを犠牲にキングを前に進める。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はナイトを犠牲にキングを前に進める。
「 チェック。 」
王子が私のキングに狙いを定めた。私はクイーンを犠牲にキングを前に進める。
キング同士がかち合った。
当然キングでチェックメイトは行えない。 互いの領域に入ったら入った方が討ち取られる。
そう、キングでキングを止めることは出来ない。
私はキングに守られながら、ポーンを進めた。
プロモーション。最奥まで進んだポーンは全ての駒に転ずることが出来る。
「 チェック、メイト。 」
私のキングによって逃げ場を失った王子のキングが、成り上がったポーンによって討ち取られた。
* * *
「 ・・・ はは。 ははは。 あはははははははははあははは! 」
マクシミリアン王子は大笑いした。
それは悲しそうに見えたし、成し遂げたように見えたし、受け入れたように見えるな笑いだった。
「 まさかこんなゴリ押しの戦法で負けるとは! いやはや、考えもしなかった! 」
「 最後の最後で私に勝つとは! 」
「 ああ。 」
「 ああ! 」
「 勝てなかった。 」
それは、まるでそのまま死んでしまいそうな声で、王子は敗北を受け入れた。
「 さあ、どうぞ、私の生命。貴女にお渡しします。 」
「 王子、私は貴方の命を頂けたのですよね。 」
「 ええ。どうぞお好きにお使いください。もはや私の命は私のものではありません。
私に自決せよと命じればすぐにでも命を断たさせていただきます。 」
貴女ならば、その命令を下す事も出来ましょう。と、彼は信頼を私に見せた。
私は、王子に宣告する。
私は王子に死んでほしいとは思っていなかった。
しかし、王子を奴隷のように扱いたくはなかったし、これを言い訳に全てを奪うつもりはなかった。
私は何がほしいのか。
王子からは色んな物を貰った。
あらゆる負の感情を貰った。
生命を掛けた戦いを貰った。
全力を尽くせる事を貰った。
王子の絶望はすでに貰った。
私は。
この人に何か返さなければならない気がする。
だが、今ここで答えを出せるかと言われると困る。
なにせ勝つことに必死で、勝った後の事を全く考えていなかったのだ。
ああ。どうしよう。
私は生命を掛けた対局をしていたときの数倍混乱していた。
落ち着きたい。
あ。
今、私が欲しいものがひとつあった。
「 私は、マクシミリアン王子。
貴方に命を断ってもらうつもりはありません。
そして勝負に勝ったと言えども、奴隷の如く命令するつもりもありません。
しかし、私が勝利した証として、一度だけ絶対の命令を下します。
たった一度だけです。
この命令に拒否権はありません。
必ず、絶対に実行してもらいます。 当然、貴方の命に代えてもです。 」
「 何なりと。 ソフィリア様。 」
「 今から私は、貴方に一生で一度だけの命令を下します。 」
私は、王子との未来を少しだけ考えた。
王子との未来がほしい。
ああ、浅ましい考えかもしれない。
でも私はやっと私らしく生きていけそうな気がする。
王子との長い時を生きていきたいと思えたのだ。
だから、王子から貰いたいものは、一つ。たった一つ。
私は、その一つ一つを積み上げていきたい。
ああ。今からいう言葉に自分でも笑ってしまいそうになる。
ばかだなぁ私。
でも、こんな私も好きになってください。
「 美味しい珈琲を私に淹れてください。 絶対にですよ。 」
私は王子のきょとんとした顔を初めて見ることができた。
ついに王子の仮面を引きはがすことに成功した私は、それがおかしくて笑ってしまった。
15/07/20 00:29更新 / うぃすきー
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