連載小説
[TOP][目次]
Day3
驚いた。


とにかく驚いた。雄君と彩の関係が、私の知らない間にあんなに進んでいたなんて。


私はベッドに寝転がりながら思いを巡らせる。

ずっと応援してきた彩の恋が実ったのに、私の心は驚きと戸惑いばかり。やっとのことで浮かべた笑顔も、もしかしたら引き攣っていたかもしれない。

親友の幸せに対して祝うべき私の心には、大きなわだかまりがあるだけだった。

いやだ

私の心が叫んでいる。この想いはずっと昔に閉じ込めたもの。だけど、今の私には、もうどうしたらいいかわからない。

昨日の晩もこんな風に夜更かしして寝坊をした。学校に着いて先生に怒られた。そして、仮眠を取りに保健室へ寄った時、聞いてしまったのだ。

『うむ・・・恐らくは魔法薬の類じゃろう。』

『・・・つまり、誰かが俺に魔法薬を使った、ってことですか?』

『・・・なるほどのう・・・とすると、お前さんに盛られたのは、惚れ薬の類じゃろうか?』

雄君と彩の関係は、私が思っていたようなものではなかった。

彩は雄君を他の誰かにとられないようにと、あの状況で勇気を振り絞って嘘をついた。
雄君も、きっと彩のことが好きだったから、あの場では口裏を合わせて、今はきちんと結ばれているのだと思っていた。

確かにおかしいとは思った。雄君はあんなにモテる方じゃない。それが突然、あんなに沢山の魔物娘に言い寄られていた。
しかもその中には、彩が雄君に目をつけていることを知っているはずの娘も居た。

だから、あれは、素直になれない彩のために、学校中の魔物娘たちが協力して彩を後押しするための台本なのかとも思っていた。
そんな話があるのなら、どうして私に声をかけてくれないのかと、悲しくなったりもした。

でも違った。あれは台本なんかじゃない。雄君に盛られた薬のせい。

どうしてそんな薬を雄君が使ってしまったのかわからないけど、彩はその薬のせいで告白させられた″ということ?

わからない。

確かに、一昨日から、雄君の雰囲気というか、匂いというか、雄君を包む何かが変わったのは感じた。

それがきっと、雄君に盛られた惚れ薬の効果なのだとしたら、私には何の影響も受けていないように思う。




もしかしたら、きっと、たぶん、それは、元々私が雄君を好きでいたから。





でも、一体誰が雄君に惚れ薬なんか使ったのか?思い当たる人物なんて、もちろんいない。

なら、雄君が自分で使ったの?

雄君は結構鈍感だ。きっと彩の気持にも気づいてはいなかっただろう。そしてもちろん、私の気持にも…。

でも、恋人がほしかったから?モテたかったから?そんな薬に手を出したの?



わからないけど、もしそうなら酷いことだ。そんなひどいことをする雄君に、私は怒るべきなんだろう。でも、私の心には怒りよりも大きな感情が渦巻いている。

それは 喜び だ。

私と同じ原理で、彩や日向にも、薬の効果はないかもしれない。
でも、今、クラスの中で雄君の置かれた状況を知っているのは私だけだ。それがなんだか、二人だけの秘密を共有しているような気分になって、背中がゾクゾクしてしまう。

私は、楽しんでいるのだ。この状況を。

それを自覚するとともに、私は泣きたくなる。
大好きな人と、大切な親友が困っている状況で、あろうことか私は、喜び、胸を躍らせているのだ。

そして、私の中で押し殺した感情が囁く。

『これはチャンスだよ。貴女の願いをかなえるチャンス。』

何がチャンスだ。事情を知っている私が、雄君を支えて、解決するまで力になってあげなければいけないというのに。

『そうよね。大好きな雄君のピンチ。私が全力で支えなきゃ。』

そうだ。今、雄君の力になれるのは私しかいない。

『そうすれば、雄君は私を好きになってくれるかもしれない。』

違う!

『彩じゃなくて』

うるさい!

『私を選んでくれるかもしれない』

うるさい!やめて!そんなんじゃない!

『私のものにできるチャンスよ。』

もう、やめて…

『素直になりなさい。恋は戦争ってよく言うじゃない。親友だからって、彩に遠慮ばかりしてる必要はないわ。私には、私の恋をする権利がある。目を反らさないで。幸せは、目の前よ。』





小さなため息と共に伊織は目を開けた。さっきまで流していた涙はもう乾いている。その目に、迷いはなかった。
「チャンス・・・」
真剣な表情を浮かべ、伊織は毛布をかぶりなおした。



―――――――――――――




『にゃぁぁ!!雄大!どういうことにゃ?!ちゃんと説明するのにゃ!』
「うわぁ・・・いきなりなんだよ?どうした?」

朝一番からモーニングコール。誰かと思えば日向だった。開口一番に叫び出す日向に文句を言いながら、俺はベッドを降りた。

『どうしたもこうしたもないにゃ!雄大が彩ちゃんと付き合ってるって本当なのかにゃ?!』

どうやら広まった噂が日向の耳にも入ったらしい。

「・・・あぁ、本当だよ。俺から告白したんだ。」
『にゃにぃぃぃ?!』

大音量の変な声に、思わず耳から携帯電話を遠ざけながら俺はトイレへ向かった。
やはり親しい友達に嘘を吐くのは胸が痛む。ことが済んだら、どうなってしまうのだろうか?

『ちょ、ちょっと目を離したすきに・・・く、詳しいことは学校で聞くにゃ!首を洗って待ってるにゃ!』ブツッ・・・ツー・・・ツー・・・

そう叫んで、通話が終わる。通話時間は32秒だった。学校に着いたら問い詰められるのだろうか?日向にも薬の影響が出ているだけだといいんだが・・・。
俺は頭を掻きながらトイレのドアノブに手を掛けた。と、不意に視線を感じた。目を向けると、エプロンを付けた華憐が台所から少しだけ顔をのぞかせて俺を見ていた。

「・・・な、なんだよ?」

俺が問い掛けると、華憐はにやにやと笑いながら尋ねてきた。

「お兄ちゃん、もしかして今の電話、彼女さん?」
「はぁ?何言ってんだ。友達だよ。」

いたって自然に返すと、華憐はつまらなそうな顔をした。

「なぁんだ・・・」
「変なこと言ってないでお前も早く支度しろよ?」

そう言いながらドアを閉めると、くぐもった声で何かを呟く華憐の声が聞こえた。何を言っているかはわからないが、どうせくだらないことだろう。





「おはよう。吉野・・・」
「お、おはよう・・・」

教室に入ると、今日も吉野は俺より早く来ていた。今までは俺の方が早く来ることの方が多かったが、最近は早起きに努めてでもいるのだろうか?

「今日も早いな。早起き週間でもやってるのか?」
「別に、そんなんじゃないわよ。私が早く来ようが遅く来ようがあんたには関係ないでしょ。」
「あ、あぁ。そうだな・・・」
「そんなことより、これ。」

そう言って差し出してきたのは、昨日と同じ薄い青色の包み。それを見てピンと来た。
最近吉野が早く来るのは、俺の弁当を作るようになったからなんじゃないだろうか?そう思ったのが表情に出ていたのか、吉野が顔をしかめて睨んできた。同時に、ゆっくりと動きながらこちらを見つめていた髪の蛇たちも、激しく動き始めた。

「な、何よ!別にあんたのために早起きして作ってるわけじゃないんだからね!」

そう言い放ち、前へと向き直る吉野。相変わらず俺を見つめ続ける蛇たちをチラチラと見ながら、俺はお礼を言う。

「ありがとな、吉野。」

すると、髪の蛇たちが一瞬動きを止め、たがいに身を絡ませ合うように動き始める。

「ふ、ふん!感謝しなさい!」

席に座って包みを鞄にしまいながら、吉野の後ろ姿を見る。

薬のせいで今は俺を好きになっている吉野。あと4日もして薬の効果が切れた時、彼女はどう思うのだろう?

一匹だけこっちを見つめる髪の蛇と目が合う。俺はその蛇に軽く微笑みかけてみた。すると、蛇は身を縮ませるようにシュルシュルと動きながら他の蛇と同じように前に向きなおった。

きっと嫌われるだろう。正気に戻った吉野は俺を強く批判し、今のように話すことさえできなくなるに違いない。
だが、だからと言ってどうしたらよいのかもわからない。下手に今、『俺と吉野は本当は付き合ってなんかいない』なんて言ったら、俺だけでなく吉野まで変な目で見られることになってしまうかもしれない。
それは一番避けたいことだ。巻き込んだのは俺なのだから。

「はぁ・・・」

机に肘を突き、顎を乗せた状態で溜息を吐く。

「ゆ〜だぁ〜い・・・おはようにゃぁ〜・・・」
「ひえっ!?」

突然背後から幽霊のような声を掛けられ、変な声が出てしまった。はじかれたように椅子から立ち上がって振り返ると、寝ぐせの目立つ耳の付いた頭が椅子の背もたれから覗いていた。
ゆっくり浮上するように顔が出てくる。日向だった。

「な、なんだ、日向かよ。脅かすな・・・」

ほっと胸をなでおろす俺に対し、日向は無言のまま俺がさっきまで座っていた椅子に座った。上目遣いが妙に鋭い。今朝の電話の件だろう・・・

「雄大・・・そこに正座するにゃ・・・」
「い、いや、日向?朝も言ったけど・・・」
「いいから座るにゃ!」

静かだが、鋭い声色に遮られる。どうやら日向も同じようだ。薬のせいで俺に惹かれているのだろう。
俺は恐る恐るその場に正座した。日向は俺の椅子に深く腰掛け、開いた股の間に両手の肉球を突き、前のめりになって俺を見下ろしていた。

「雄大、私はいつも態度で示していたはずニャ。私の雄大に対する気持ちを・・・。」
「いやぁ、えっと、なんと言うか・・・」
ジトっとした目で睨みつけながら、静かに話す日向。遠慮がちに目を合わせようとしたところ、俺の視線はついつい開かれた日向のふとももや、肉球の向こうにあるだろうスカートの中へと向いてしまい、慌てて目線をそらした。

「にゃ?」

俺のその動きを見た日向は、低い声で言葉を止めた。
慌てて目線を合わせると、まるでチンピラのように眉をしかめて俺を見下ろしていた。

「雄大・・・?私の話をちゃんと聞いているのかにゃ・・・?」
「き、聞いてる!聞いてるぞ!ちゃんと聞いて・・・うおっ!?」

慌てて取り繕おうとした瞬間、腰回りに圧迫感を受け、次の瞬間には垂直落下式絶叫マシーンの最初の浮上の様に、床から引き上げられていた。

「あぁら?日向、おはよう。」
「彩ちゃん!雄大は今、私と大事な話をしているのにゃ!邪魔しないでほしいにゃ!」

ゆっくりと宙ぶらりんにされた俺の右後ろから、吉野が日向に声を掛けた。相変わらず長い蛇身で俺を吊るす吉野に、椅子からすばやく立ち上がった日向が抗議の声を上げた。

「大事なお話?何かしらね?私の雄大に大事な話し?」

どこか誇らしげに腰に手を当てて言い張る吉野に、日向の顔がみるみる歪んでいった。

わた、私のって・・・い、いつから雄大は彩ちゃんのものになったのにゃ!?そんな話聞いて無いにゃ!」

一瞬怯んだ日向だったが、すぐに食ってかかる。いつもはしなやかに動いている尻尾が、鉄芯を入れたようにピンと伸び切っていた。
っていうか、今、吉野は俺を名前で呼ばなかったか?

「遅れてるわね〜。四日前に雄大の方から告白してきたのよ。・・・そうよね?」
ジロリと擬音が聞こえてきそうなほど鋭い視線を投げかけられ、俺は慌てて首を縦に振った。
「あ、あぁ!そうなんだ・・・そういうことなんだよ日向・・・」
「にゃぁ・・・・・・」

俺のその言葉に、驚愕の表情を浮かべる日向。まさに石化されたようにピシッと固まって動かなくなってしまう。

「え、えと・・・日向?大丈夫か?」

数瞬の後、俺は心配になって声を掛けた。しかし、それとほぼ同時に教室のドアがガラガ
ラと音を立てて開いた。

「おっはよー!」
そこに立っていたのは伊織だった。

「伊織・・・んがっ!?」
「ちょっ・・・!?」

突然の伊織の出現に、俺は昨日のことを思い出して言葉が出てこなかった。しかし、その直後に日向は冷静さを取り戻し、首だけ教室の扉に向けていた俺の頭を両手の肉球で掴み、無理やり自分の方へ向かせると、打ち付けるかのようにキスをしてきた。

「な、な、なにをしとるかぁぁぁ!?」
「んぶっ・・・痛った!?」

すぐに気付いた吉野が尻尾をふるい、俺を日向から遠ざけた。その拍子に掴んでいた肉球の爪が俺の右頬に引っ掛かり、鋭い痛みを感じた。

「朝から激しいねぇ〜」

小さく伊織の声を聞きながら、俺は放り投げられるように吉野の傍の床に降ろされた。

「にゃふふ・・・にゃふふふふ・・・いいにゃ!宣戦布告にゃ!彩ちゃんがなんと言おうと、私は雄大を諦めないにゃ!」

ゆっくりと味わうように舌なめずりをした後、日向はにやりと笑ってそう言い放った。
俺は尻もちを着いた体勢から、右頬を押さえて立ち上がった。

「ま、待ちなさい!」

怒りの表情を浮かべた吉野が叫ぶが、日向はにゃはははと笑って教室を出て行った。

「まったく・・・」

吉野は一つため息を吐いてから俺を見た。その目にはまだ少し怒りの色が残っていて、俺は思わず背筋を伸ばしてしまった。

「あんたもにやにやしてんじゃないわよ!」
「なっ!どこがニヤニヤしてるんだよ!」
「ふんっ!」
「お、おい!」

理不尽すぎる・・・。そうつぶやくよりも早く、さっさと自分の席に行ってしまう吉野。溜息を吐く俺に、そっとハンカチが差し出された。

「大丈夫?雄君?」

差し出し主は、さっき来た伊織だった。心配するような表情の中に、いつもと違う、どこかわくわくしているような表情がうかがえる。

「あ、ありがとう・・・悪いな・・・」

俺はおずおずとそのハンカチを受け取りながら言った。

「ううん。気にしないでいいよ。あ、血出てるね・・・ちょっと見せて」

そう言うが早いかスッと俺に顔を近づけてきた伊織は、ぺろりと俺の右頬をひと舐めして何事もなかったかのように離れた。

「な・・・」
「んふふ・・・」

驚く俺に対し、満面の笑みを浮かべる伊織。

お昼休みに、屋上入り口で待ってるね・・・

小さな声でそう言い残し、スカートを翻して席に向かっていった。俺は慌てて吉野の方を見たが、相変わらずそっぽを向いたままだった。

可愛らしい黄緑色のハンカチに目を落としていると、チャイムが鳴った。







昼休み、俺は吉野とまた弁当を食べた後、少し眠いと言って机に突っ伏してしまった吉野を置いて、階段まで来ていた。
幸い、他の生徒に見られることなく屋上入り口前の踊り場まで来ることができた。踊り場の半分を区切るように張られたビニールテープには、『生徒立ち入り禁止』と書かれたプレートが掛けられている。
俺はそのビニールテープをまたぎ越し、ゆっくりと階段を上がった。
そこには、壁にもたれて笑みを浮かべる伊織が居た。

「ふふ・・・待ってたよ。雄君。」

スッと浮くように壁から離れた伊織。その顔にはたとえようのない笑みが浮かんでいる。

「・・・用はなんだよ?」

俺は静かに尋ねた。

「あのね、雄君・・・私、聞いちゃったんだ・・・」

俯いて話し始める伊織。俺はどんな顔をすればいいのか分からず、ただ黙って聞いていた。

保健室に寄ろうとしたこと。俺と先生たちの話を聞いてしまったこと。

それをすべて話し終えた伊織は、小さく笑った。
そこで俺もやっと口を開いた。

「やっぱり、伊織だったんだな。」

俺はポケットをまさぐって昨日拾ったミサンガを伊織に差し出しながら言った。

「あ!私のミサンガ・・・雄君が持ってたんだ・・・」

驚いた表情を浮かべて受け取った伊織は、すぐに腕に巻きつけて俺に向きなおった。

「さて、それじゃ、始めようか。」

少し俯いてゆっくり階段の方へ周りこみ、そっと俺の手を握りながら伊織が呟いた。

「お、おい?伊織?」

表情の読めない伊織に呼び掛けるが、反応は無い。しかし、すぐに伊織は顔を上げ、俺を見据えて言い放った。

「ちょっと、じっとしてて。」







その頃、教室では


「んんっ・・・はぁ〜」

昼休みも半分を切った頃、彩は突っ伏していた机から体を起こし、大きく伸びをした。
さっきまで食べていた弁当箱に目が行く。美味しいと言って食べてくれる雄大の姿を思い浮かべると、思わず顔がにやけてしまいそうになる。

「・・・認めないにゃ」
「ひゃひっ!?」

と、物思いにふけっている彼女の背後で、日向がボソッとつぶやいた。その声に彩はビクリと肩を弾ませる。

「な、何よあんた?!何しに来たのよ?」
「彩ちゃんには関係ないにゃ。雄大を出すのにゃ。どこに居るのにゃ?」

彩の問いに答えながら、手に持った購買のパンを雄大の机の上に置き、椅子に座る日向。教室をぐるりとを見まわしてから、明確な敵意のある目を彩に向けて問い掛けた。

「か、関係ないって何よ!雄大に用があるなら彼女である私を通してからにしなさいよ!」

ガタっと音を立てて立ち上がりながら、日向を睨みつけて答える彩。威嚇する猫の毛のように、髪の蛇たちがぶわりと広がって一斉に日向を見つめる。

「彩ちゃんはアイドルのマネージャーか何かなのかにゃ?いいから、雄大を出すにゃ。」

そんな彩に動じることなく、脚を組んでパンに巻かれたラップを器用にはがし始める日向。

「ちょっと!そこは雄大の席よ?自分の席で食べなさいよ!」
「ふんっ!何処で私がご飯を食べようと、彩ちゃんには関係ないにゃ。私は雄大の席で、雄大がいつも見ている視点を堪能しながら食べるのにゃ。」
「あんたねぇ!」

ついに日向に詰め寄る彩。しかし、彩が日向を掴みだそうとする前に、教室の入り口から日向を呼ぶ声が聞こえた。

「失礼しまーす・・・ひなちゃーん!あっ、居た居た!ひなちゃん!早く練習行こうよ!」

声の主は、人間の女の子。隣のクラスから日向を探しに来たらしい。

「め、めいちゃん・・・」

彩とにらみ合っていた日向は、驚いた表情でその子に向きなおった。

「まったく・・・」

その横で、戦意をそがれた彩は溜息を吐きながら自分の席にどっかりと座りなおした。

「期末テストの追い込み集団の中にも居ないし、体育館にも居ないって言うし・・・」
「練習には行かないにゃ。」

困ったようなあきれたような表情で話すめいちゃんの言葉を遮るように、日向はピシャリと言い放った。

「ど、どうして?あんなにやる気だったじゃない。」

驚いたような表情で尋ねるめいちゃんに、日向はそっぽを向きながら答えた。

「あんなやつらと一緒に戦うなんて御免にゃ。」
「そんなこと言わないで。ね?一緒に練習しようよ?」
「嫌にゃ。絶対。」

断固として首を縦に振らず、不機嫌そうにパンをかじる日向。困り果てた表情のめいちゃんを見かねて、彩が声を上げた。

「一緒に行ったらいいじゃない。どうしてそんな態度とるのよ?」
「彩ちゃんには関係ないにゃ!」
「っ!あんたねぇ!私はあんたを心配して言ってやってんのよ?」

カチンと来た彩は再び席を立って怒声を上げた。

「彩ちゃんに心配されるようなことなんて何もないにゃ。」
「どーせあんたのことだから、テスト勉強より球技大会の方に力を注いでたんでしょ?赤点とるんじゃないの?」
「失礼にゃ!ちゃんと勉強もしてるにゃ!彩ちゃんこそ、雄大にうつつを抜かして赤点取ったら笑い話にゃね。」
「言うわね。じゃあ勝負でもする?」
「上等にゃ。」
「あ、あの、ひなちゃん?」

火花を散らしていた二人の間に、めいちゃんと呼ばれた少女が声を掛ける。

「ふん・・・覚悟するにゃ。絶対負けないのにゃ!」

捨て台詞を残してめいちゃんと共に教室を出ていく日向を見送り、静かに椅子に座る彩は一人、焦りの表情を浮かべていた。

「・・・まずいわ・・・」

彩はずば抜けて頭がいいというわけでもない。赤点ぎりぎりというほど危険な点数を取ることはないが、クラス内ではそれほど高い順位ではない。
隣のクラスと言っても雰囲気はだいぶ違い、c組は昼休みに勉強会を開くほど勉学に積極的な生徒が多い。そのことに思い当った彩は、ハッとした顔でつぶやいた。

「勉強会・・・」






屋上入り口



「な、何するんだ?」

伊織は俺の正面から制服の両袖を軽くつかんで、俺に顔を近づけてくる。

「ほっぺ、やっぱり痛そう。動かないでね。今治すから。」

息がかかるような距離に顔を近づけ、伊織は眉をひそめて悲しげな表情を浮かべた。
そして、おもむろに右手を挙げて、日向の爪に引っかかった傷に、そっと重ねた。

「部活動で怪我したときとかに、応急処置くらいはできるように、顧問の先生に教わったんだ♪」

誇らしげな笑顔を浮かべて、俺の傷に癒しの魔法を使っている。

「そ、そうか。ありがとうな。」

息を吸うだけで、普段はあまり意識しなかった伊織の匂いが鼻をくすぐる。

気さくで話しやすくて、異性だと意識する暇もないくらいにあっという間に仲良くなった。
いつも無駄に元気で、俺や伊織をからかっては楽しんでいるような、少し意地の悪いクラスメイト。
伊織と吉野とは、一年からの付き合いだ。
だが、これまで、伊織にこんなに近づいたことはなかった。
時間にしても結構長いこと一緒に居るが、普段が普段なだけに、こういうことでもないと女の子だという感覚が湧かなくなってしまう。


「ふぅ。これでよし。」

そんなことを考えていると、伊織が満足そうな笑みを浮かべて手を離した。

それをみて、治療の終わった頬に手を当てようとしたが、すかさず伊織が遮った。

「あ、待って。最後の仕上げに…」

含みのある笑みを浮かべたと思った次の瞬間、目の前の伊織の顔が急接近してきて、さっきまで魔法をかけていた頬に、柔らかな感触が触れた。

「んちゅ…はい。これで完成♪」

いきなりのことで一瞬反応が遅れてしまった。
俺はすぐに身を引いて、何が起こったのかを理解した。

「え、あ、な、なんで、」

動揺でうまく言葉にできない俺に、伊織はにんまりと笑って言った。

「だってぇ、ツバつけとけば治る傷って言うでしょ?フフッ♪ドキドキした?」

そう言ってくすくすと笑う。

「あのなぁ…」

顔が熱くなるのを感じつつ、文句を言おうとしたら、再び遮られた。

「立ってるのもなんだし、座ろうよ。」

そう言って、屋上へのドアの横に積まれているパイプ椅子を一つ取り出す伊織。パパッと広げると、俺に向けて置き、座るように手で示している。

「お前は座らないのか?」

ふと疑問を口に出しながら座ると、伊織は素早く俺の背後に回り込んだ。

「私はいいの。さて、雄君。ここからが本題なんだけど。」

後ろに居る伊織が気になって振り返ろうしたとたん、後頭部に柔らかな感触が押し当てられ、肩の上に伊織の両腕が回ってきた。

「こ、今度は何を…」

後ろから抱きしめられている。伊織に。

柔らかな感触と体温が伝わり、俺の左耳に伊織の呼吸音が聞こえてくる。

「ねぇ、雄君はさ、…彩が好きなの?」

普段のお茶らけた口調の中に、どこか含みのあるような声色で、伊織が問いかけてくる。
ほんの少しだけ俺に抱き着く腕に力が籠められ、後頭部の柔らかな感触にどうしても意識を持っていかれてしまう。

「ぅ、ぇえ?」

思わず声が上ずってしまった。そんな俺に、伊織はさらに追及してくる。

「答えて。雄君が、彩に告白したって話、本当なの?」

少し低めの、いわゆる『ガチトーン』で尋ねてくる。これまで、伊織の勘が特別鋭いと思うようなエピソードはなかったが、女の勘という奴だろうか?俺と吉野の関係を疑っているようだ。

しかし、俺が答えるまに、伊織はクスッと笑った。

ふわりと息が耳にかかる。その感触に背筋をぞわぞわとした感覚が駆け抜けた。

「今、雄君の心臓がドキってしたのがわかったよ♪」
「え、」
「これだけ密着してれば雄君の心臓の音もよく聞こえるよ。何か動揺するようなことがあるんだよね?」

確信を得たような自信ありげな声で伊織が言う。

「い、いや、そんなこと。ほ、本当に俺が告白したんだよ!」

俺の心はすでに半分あきらめモードだ。自分でも情けないくらいに動揺している。
ここまであからさまなボロを出せば、たとえ相手が伊織じゃなくてもバレるのは間違いない。

そして訪れる気まずい沈黙。俺の耳元でゆっくり呼吸する伊織の呼吸音だけが静かに聞こえている。

そして、数十秒にも感じたその沈黙を破ったのは、伊織の意外な言葉だった。

「…いいんだよ。」
「え?」

思わぬ言葉に、間抜けな声が出てしまった。

「いいんだよ。私には、嘘つかなくて。」

まるで母親が子供に言い聞かせるような、くすぐったいような優しい声で、伊織がつぶやく。
そして、つぶやきながら、そっと俺の肩に回していた腕を引き、愛しいものを抱くように、俺の頭を抱きかかえた。

「私は大丈夫だから。」
「え、だ、大丈夫って何が?」

突然のことに思考が追い付かない俺は、ただ固まるしかない。

「私は、私だけは、雄君のその秘密を知ってる。雄君が惚れ薬を盛られて大変な目に遭っていることも知ってる。」
「あ、あぁ。」

催眠術でもかけているかのように、伊織が囁く。

「私は雄君の力になりたいの。今、困ってる雄君の力になってあげられるのは、私だけでしょ?」

ゆっくりと、伊織が俺の頭をなで始める。

「だから、私には嘘をつかないでほしいの。私を信じてほしいの。雄君に盛られた薬は、いつか効果が切れるんでしょ?それまで、私が全力で支えてあげるから。」

「だからね、お願い。正直に答えて?」
「あ、あぁ。」
「雄君は彩に告白なんかしてないんでしょ?でも、二人は付き合ってる。そう言えって、彩に言われたんでしょ?」
「…あぁ。」

答えてしまった。吉野と俺の関係が偽りであると、伊織に知られてしまった。

「フフフ♪やっぱり。」

何がうれしいのか、伊織は上機嫌そうに笑った。

「じゃぁ、じゃあ雄君は、薬のせいで寄ってくる他の魔物娘たちを遠ざけるために、彩を利用してるってこと?」

明るい口調だが、言っていることは真実にして最悪なもの。俺が現在進行形で行っている非道だ。

「……」
「ごめん。答えたくないよね。でも大丈夫。私は、軽蔑したりしないよ。言ったでしょ?私は雄君の力になってあげたいの。確かに、こんな状況じゃ、そうでもしないと襲われちゃうかもしれなかったもんね。仕方ないよ。雄君は悪くない。」

いたわる様に頭をなで続ける伊織の言葉は、単純に責められるよりも重く俺の心をたたいた。

「そんなに落ち込まないで。大丈夫だよ。きっと薬の効果が切れれば、彩も正気に戻るってば。もちろん彩は怒るかもしれないけど、私は彩の親友だし、ちゃんと謝れば許してくれるよ。私もちゃんとフォローしてあげるからさ。」

伊織の言葉に、わずかに引っかかるものがあって、俺は思わず顔を動かした。それを感じ取った伊織は、撫でる手を止めながら問いかけてきた。

「どうかしたの?」
「伊織、お前は、俺に盛られた薬の効果を知っているはずだ。なら、お前にも薬の効果が出ているんじゃないか?」

振り返れない状態で問いかけてみた。すると、伊織がぴたりと動きを止めた。

「…私には、薬は効かないのです!」
「なんだって?」
「私は、そんな薬の影響なんてまったく受けないんだよ。」
「どうしてだ?」

信じられない。先生たちが危険だと言ったほどの強力な薬の効果が、魔物娘であるはずの伊織にだけ効かない?そんなことがあるのだろうか?

「ん〜?どうしてかぁ。それは、今度教えてあげる♪それより、相談なんだけどさ。」
「待てよ。今度じゃなくて、今知りたいんだ。本当にお前には薬が効かないなら、薬の効果を退ける方法があるってことだ。それが分かれば解決に近づくかもしれないだろ!」

俺は頭に回された伊織の腕を解こうと掴みながら言ったが、伊織は素早く俺の腕をかわして再び首に回してきた。

「んん〜♪しょうがないなぁ、もう。じゃぁ、条件にしよう。」
「条件?」

俺の問いに、伊織は上機嫌に頷いた。

「うん♪相談にしたかったんだけど、やっぱりやめて、条件にする。教えてあげる代わりに〜♪」
「…代わりに?」
「っ…わ、私を、雄君の…本当の恋人にしてほしいの。」
「な、なんだっtむぐっ!?」

思わぬ交換条件に大きな声が出てしまいそうになった。すかさず伊織に口元を抑えられる。

「大声出さないでよ!…聞こえなかった?」
「いや、聞こえたけど、そ、それって、その、告白ってやつか?」

自分で言って、思わず顔が熱くなるのを感じた。そんな俺をよそに、伊織は俺に抱き着く腕に少し力を入れる。

「うぅ…そうじゃなかったらなんなのさ!」

伊織も照れているのか、声が上ずっている。

「つ、つつつ、つまり、伊織は、お、俺のことが…」
「だ、だからそうだってぇ!」

俺の肩に口元をうずめながら伊織が答える。いつもより一層女の子らしい伊織のしぐさに思わず顔がにやけてしまいそうになるが、俺はすぐに大事なことを思い出す。

「そ、それで、薬が効かない理由は?」

ドキドキとうるさい心臓の鼓動を落ち着かせるために、少し深呼吸をしながら尋ねる。
そんな俺に、伊織は非難の声を浴びせてきた。

「酷い!私の告白より、そっちが大事なの!?」
「い、いや、その、気持ちはありがたいけど、今はそれどころじゃないっていうか、とりあえず、今はこの状況を何とかする方が先だし。」

伊織に弁解しながら、自分にも言い聞かせるように答える。

「…約束だからね?教えたら、私たち、恋人だからね?」

念を押すように伊織が前置きした後、いよいよその理由を教えてくれた。

「私に薬が効かないのはね…く、薬を盛られる前から、その…」
「あぁ。」
「その…雄君のことが好きだったから!」

凍えているときのようにぶるぶると震えながら、意を決してそう言い放った伊織。そんな伊織の様子に、俺は再び心臓が早鐘を打つのを感じた。

「は、はぁ?いや、えと、そんな理由?」
「なにそれ!そんなって言い方なくない?」


心外だと言わんばかりに伊織が俺の頭をぺシぺシと叩く。

「いてっ、わかった。悪かったよ。叩くのやめろ。」

伊織の手から逃れるように身をよじったとき、再び俺の中に疑問が生じた。

魔物娘たちが、俺に盛られた薬の影響で俺のことを好きになってしまう。
伊織は、俺に薬が盛られる前から俺のことを好きだったと言っているが、もしそれすらも、薬の影響で起こる勘違いだとしたら?
人が誰かを好きになった瞬間を、明確に思い出せるだろうか?中には思い出せる人もいるかもしれないが、大体はいつの間にか好きになっているもの。
伊織のこの言葉も、どこまで信じられるかわからない。
しかも、普段から伊織は俺に気があるようなそぶりは一切見せなかった。それが、ここにきて突然告白をしてくるほどになった。これはあまりにも不自然じゃないだろうか?
もしかしたら、伊織本人は薬の影響を受けていないと思っているだけで、本当はしっかりと影響を受けているのかもしれない。

「ねぇ、雄君。」
「っ、なんだ?」

目まぐるしく回る思考を、伊織の声が遮った。

「わ、私たち、恋人になったんだよね?」
「あ、あぁ。」

問いかけながら、するりと伊織が俺から離れる。ずっと密着していた首の後ろが、なんだか寒く感じる。

「じゃ、じゃぁさ、」

伊織は腰の後ろで組んだ手を揺らしながら、ゆっくりと俺の前に回り込んでくる。

「証明、してほしいなぁ…なんて。」

真っ赤な顔でうつむきながら、伊織がぽつりと言った。

「しょ、照明?」

俺は何のことかわからず、聞き返してしまった。
そんな俺に、伊織は悩ましげな表情でため息をついた。

「…雄君はほんっとうに鈍感だよね…」

そして、非難するような視線を向けてくる。

「そ、そんなこともないだろ?結構察しはいい方だと思ってるんだけど…」
「じゃあ、私が今したいこと、わかるでしょ?」

真っ赤な顔で、期待するような視線の上目遣いに、不覚にもドキッとしてしまう。
伊織の表情はまさに恋する乙女というやつだろう。こんなに伊織が可愛かったなんて、今まで気づかなかった俺は、やっぱり鈍感なのかもしれない。

そんなことを思う俺をよそに、伊織はふと目を閉じて顔を突き出すようなポーズをとった。
その姿で、鈍感らしい俺にも、伊織が何を期待しているのかわかった。

キスだ。伊織は、間違いなくキスを求めている。
恋人になった証明にキスをしろということらしい。思わず伊織の柔らかな唇の感触を思い出し、右頬に手が行く。朝についた傷は跡形もなく消えているようで、手には俺の頬の感触が触れるだけ。
目の前に差し出された、伊織の血色の良い唇。今までは意識して見ることのなかった場所なだけに、こうして見るだけで心臓の鼓動が数倍速くなる。

キスをするしかないのか?

薬の影響で俺を好きなっているだけかもしれない伊織に、そんなことをしてもいいのか?
どうしたらいい?

「ねぇ、はやくー!」

どうしたらいいか迷っている俺に、目を閉じたまま眉をひそめた伊織が抗議してくる。

「あ、あぁ。ちょっと、緊張しちゃって…」
「わ、私だって緊張してるんだよ?」

文句を言いながらも律儀に目は閉じたままの伊織。
取引の内容は、正直信憑性の低いものだったが、俺は伊織の恋人になると約束してしまった。
吉野とのことにどう決着をつけるかもはっきりしていないというのに、だ。
だが、約束してしまった手前、ここでキスをしなければ伊織の心まで踏みにじることになる。
俺はこれ以上誰かを傷つけたくない。

やるしかない。

俺はいよいよ覚悟を決め、椅子から立ち上がる。
その気配を感じ取って、伊織もわずかに身構えた。

「い、いくぞ。」

俺はそう言って伊織に近づき、そっと肩に手を置いた。ビクッと伊織の肩がはねる。

「う、うんっ」

異様に上ずった伊織の返事を聞き、俺は静かに伊織に顔を近づけた。




と、その瞬間。俺のズボンの右ポケットが振動し、プルルルルと呼び出し音が鳴り響いた。

「うおおぉ!?」
「ふわぁぁ!?」

俺と伊織はそろって変な声を出して飛び上がった。

すぐに俺はポケットの携帯電話に手を伸ばす。

「な、何?電話?…うぅぅ〜っ!!」

真っ赤な顔で心臓を抑えながら、伊織が俺の携帯電話に向かって唸り声をあげる。

「わ、悪い。妹からだ。」

携帯の画面に表示された名前は、華憐だった。華憐の学校も今は昼休み。画面端の時計を見ると、もう予冷が鳴る時間だった。

「うぅぅ…妹さん?」

尚も唸る伊織を横目に、俺は通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。

『あ、お兄ちゃん?よかった。出ないかと思った。』

電話口の向こうから、焦ったような華憐の声がする。

「どうした?もうすぐ昼休み終わるんじゃないか?」
『そうなんだけど、あのね、お兄ちゃん!ごめんね!私、お兄ちゃんに謝らなきゃいけないかも。」
「はぁ?なんだよいきなり。」

突然謝られて何が何やらわからない俺をよそに、電話口の向こうでは『そろそろ休み時間終わるから電話はやめた方がいい』というクラスメイトの声が聞こえる。

『と、とにかく、家に帰ったら大事な話があるから、寄り道せずに帰ってきてね!それじゃ!』
「は?え?あ、おい!ちょ…」

俺の呼びかけも空しく、電話は切れた。
呆然と画面を見つめていると、咳払いが聞こえた。

「…妹さん、なんだって?」

伊織は不機嫌そうに尋ねながら、俺が座っていたパイプ椅子を片づけている。

「いや、なんか、謝られた。」
「謝られた?なんで?」
「わからん。なんか、帰ったら大事な話があるとか…」
「ふぅん…」

椅子を片付け終えて手をはたきながら、伊織が俺に向き直った。

「あ、すまん、伊織。」

俺が慌てて弁明しようとした瞬間、今度は昼休み終了を告げるっチャイムの音に遮られた。

「…」
「…」

一瞬の沈黙の後、伊織が顔をあげた。

「…教室、戻ろっか。」
「…あぁ。ごめんな、伊織。」

とぼとぼと歩きだす伊織の後に続いて階段へと足を踏み出すと、立ち止まった伊織が突然振り向いた。

「待ってるからね。私。」

そう言って、俺の胸に額を当てるように一瞬だけ体重をかけてくる。

驚きで言葉に詰まった俺が何も言わないうちに、伊織は身をひるがえして階段を駆け下りていった。

「…俺はお前にお礼が言いたいかもしれん。」

そっとポケットの中の携帯をなでて、俺も階段を下りた。













「そういえば、あんた、今日の昼休みはどこ行ってたのよ?」

帰りのホームルーム終了後。教室のざわつきの中で、机の上に教科書を広げた吉野が問いかけてきた。

「あぁ、それは…」
「雄君、今朝、怪我したでしょ?その治療をしてたの。」

俺が何と答えようか迷った瞬間、後ろから伊織が割り込んできた。

「伊織…。ふぅん。ほんとだ。治ってる。伊織が治したの?」
「そうだよ〜?すごくない?」

そう言って胸を張る伊織。

「そうね。意外だわ。伊織にそんな器用なことができるなんて。」
「酷いなぁ。私、そんなに不器用なキャラなの?」
「少なくとも器用なキャラではないわね。」
「そりゃ、彩に比べれば器用じゃないかもしれないけどさ…そんな風に言わなくっても…」

わざとらしくいじけて見せる伊織を横目に、俺は吉野に問いかけてみる。

「さっきから、何やってんだ?」

伊織と話しながらも、机に広げた教科書に付箋を張り付けている吉野に問いかける。

「見りゃわかるでしょ。テスト範囲の確認よ。」
「あぁ〜なるほど。」
「へぇ〜。彩、すごいやる気だね?今までそんなことしてるの見たことないけど?」

伊織の問いかけに、俺も確かにと頷く。

「い、今までだって、家でやってたわよ。」
「じゃあ、なんで今回は学校で?」
「たまたまよ。いいじゃない。テストで悪い点なんて取ってられないでしょ。」
「ふぅ〜ん。」

付箋をつけ終わった教科書をたたんでいる吉野に、伊織はにんまりと笑って尋ねた。

「もしかして、誰かと点数で勝負するとか?」

その問いに、吉野がぎくりと固まる。図星のようだ。

「そうなのか?誰と勝負するんだ?」

吉野の成績ならそう簡単には負けないだろうと思うが、いったい誰と勝負するというのか。

「…日向よ。」
「え!?まじ!?」
「ちょっと伊織、うるさい!」
「ご、ごめん。でも、日向と勝負するってことは、もしかして、雄君を賭けて…とか?」
「はあ?なんだって!?」
「うっさいって言ってんでしょバカ雄大!」

突然俺の名前が出て、伊織と同じくらいの声が出てしまった。

「す、すまん。でも、本当にそんな勝負を受けたのか?」
「何それ面白そう!私もやる♪」
「はぁ?いや、別に桐原を賭けた戦いだなんて…」

どうやら違うようだ。まさか俺が居ないところでそんな話が進んでいたのかと一瞬焦ったが、どうやら杞憂で終わりそうだ。

「にゃふふ。それもありだにゃ。」
「噂をすれば…」

聞きなれた声に振り向くと、日向がにんまりと笑いながら腕を組んでいた。

「また来たのね。いい加減私の雄大にちょっかいを出さないでくれないかしら?」

挑発的な口調で吉野が日向を睨む。しかし、日向はそんな視線などどこ吹く風といった様子で、伊織とは反対側に回り込み、俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。

「ちょっかいなんて軽いもんじゃないにゃ。私のこれはちゃんとしたアプローチにゃ。わる〜い女に騙されている雄大を、救い出してあげるのにゃ。」
「だ、れ、が、悪い女ですってぇ?!」

髪の毛を逆立てて日向を威嚇し始めた吉野を、慌てて伊織がいさめる。

「そんにゃことより、勝負の話にゃ。」
「なにがそんなことよ!?」
「せっかくだから伊織の提案を受け入れることにしようにゃ。」
「聞きなさいよ!」
「まぁまぁ、落ち着いて、彩。」

吉野をいさめている伊織も、しっかりと日向の話に耳を傾けている。

「テストでより高い点数を取った方が、雄大に一つだけお願いを聞いてもらえるというのはどうかにゃ?」

日向はそうとう自分の点数に自信があるのか、余裕しゃくしゃくと言った表情で吉野を見る。

「おお〜。いいね、それ。楽しそう♪」
「伊織には言ってないにゃ!これは私と彩ちゃんの対決にゃ!」

ノリノリで声をあげた伊織に、鋭く日向が答えた。

「なんでー!私も勝負する!」
「部外者は黙ってるにゃ。」

日向は毅然とした態度でそっぽを向く。

「えぇ〜?もしかして日向、私に点数で負けるのが怖いとか?」
「にゃんでそうにゃるにゃ!?」
「いっつも部活で張り合ってるけど、たまにはこーゆーのもいいじゃん。私も雄君にお願い聞いてほしいし♪」

そう言って、こっそり俺の手を握る伊織。俺は肩がはねそうになるのを咄嗟にこらえた。

「むぅ。か、勝手にすればいいにゃ!いつもいつも伊織には邪魔されてるけど、そううまくいくとは思わないことにゃ!」
「ちょっと!勝手に話進めてんじゃないわよ!」

放置されてた吉野もついに割って入ってきた。

「覚悟するがいいにゃ。球技大会前の前哨戦や。勉強でもコテンパンにしてやるにゃ。」
「だから待ちなさいってば!」

悪役のような高笑いを残して教室を去っていく日向。吉野が呼び止めるが、当然止まらない。

「彩は参加しないの?雄君にお願い事聞いてもらえるよ?」
「えっ?いや、そりゃ、勝負は受けて立つけど…」
「けど?」

歯切れの悪い言い方に首をかしげる伊織。すると、吉野が真っ赤な顔をあげて俺に指を突き付けてきた。

「べ、別にあんたのために参加するんじゃないからね!勘違いしないでよ!」

プルプルと震えながらそう言い放った。

「え?じゃあ、彩は勝っても雄君へのお願いは無しなの?」
「え、いや、無しってわけじゃなくて、その、それは…」

俯いて、せわしなく指先を絡ませる吉野。ただでさえ小柄な体が、さらに小さく見える。

「い、いいから伊織も早く帰んなさいよ!」
「照れなくてもいいのに。」
「照れてないから!」
「あはは。それじゃ、二人とも。また明日ね。」

そう言って、いつの間に整理したのか、鞄を肩にかけて手を振る伊織。一瞬だけ俺を見てウィンクを飛ばしてくる。

俺は吉野にばれないかドキドキしながら、平静を装って伊織に手を振った。

「さて、そんじゃ、俺も帰るわ。」

そう言って、机の中から教科書とノートを引っ張り出して、鞄に詰める。
しかし、ふと、ワイシャツの背中側を引っ張られる感触がした。

何かに引っかかったかと振り返ると、うつむいた吉野が俺のワイシャツをちょこんとつまんで俺の後ろに立っていた。

「な、なんだ?どうした?」
「…勉強会よ。」
「は?」

小さな声でぼそっとつぶやく吉野に、思わず聞き返していた。

「あ、明日!放課後、私の家で勉強会やるから、うちに来なさい!」
「えぇ?!」
「返事は!?」

有無を言わせぬ剣幕に押されて、俺は思わず頷いてしまった。

「じゃ、じゃあ、また明日…」

終始うつむきながら、吉野はそれだけ言うと、教科書をまとめ始めた。

「あ、あぁ。また明日。」

俺はそんな吉野を残し、教室を離れた。


















「ただいま〜」

玄関の鍵を開け、ドアを開けながらつぶやく。きっと華憐が先に帰っているだろうが、聞こえないだろう。そう思っていた俺の耳に、弱弱しい『お帰り』の言葉が返ってきた。

「ごめんなさい…」

俺の背後で玄関のドアが閉まる。そして、俺の目の前で妹が土下座している。

「な、何してんだお前…?」

異様な光景に思わず頬がひきつる。
目の前の妹はゆっくり顔をあげた。涙目だ。
ふと、足元に目が行った。そこには、見覚えのない靴が一組置かれている。誰か客人がいるようだ。

「誰か来てるのか?」
「ごべんなざいぃ」
「会話にならん…」

俺がどうしたものかと頭をかいていると、二階に上がる階段から、大きな角と顔がのぞいていた。

「お、お邪魔してます…」
「あぁ…いらっしゃい…?」

客人の魔物娘の女の子。おそらくは華憐の友達であろう。彼女も、俺の前で土下座している華憐に戸惑っているのだろうか…

「とりあえず、何があったか中で聞くからそこどけって。」
「うん…グスン」

靴を脱いで家に上がる俺に、とぼとぼとついてくる妹とその友達。

電話でもただ事ではない様子だったが、いったい何なのか。

とりあえず二人にはリビングの椅子に座ってもらって、俺は三人分の飲み物を用意した。











「なるほど…つまり、俺に盛られた薬は、キーアちゃんが作ったもので、俺に盛ったのは華憐ってことだな?」

カチカチと時計の針が響く、夕暮れのリビング。
俺の向かいの席で項垂れている二人の女の子を前に、俺は結露したコップから垂れた水を布巾で拭きながら言った。

「はい…そうです…」

華憐が紹介した、キーアちゃんというバフォメットの少女。彼女は、俺に一向に彼女ができなくて心配だと言う華憐に頼まれる形で、あの危険な薬を作った。
しかし、あの危険な薬は、本来は危険ではない濃度まで薄めて使われるはずで、寝ぼけたキーアちゃんが分量を間違えた結果、あの危険な惚れ薬になってしまったということだ。

「お兄さんには大変ご迷惑をおかけしましたのじゃ。華憐ちゃんに頼まれたとはいえ、私がいい加減な分量で調合したばっかりに、こんなことになってしまって…」

キーアちゃんは心底申し訳なさそうに俺に頭を下げる。もう何回目かわからない。

「キーアちゃんは悪くないの!私が、無理にお願いしたから…」
「そんな!華憐ちゃん!」
「わかった。もういい。」

もう何度目になるかわからない庇いあいを、俺は静かに止めた。
勤めて静かに止めたつもりだが、二人はビクリと肩を弾ませる。

「華憐。お前にはあとでしっかり説教をしてやる。親父とお袋が帰って来たら、二人にもきちんと報告するからな。」
「うぅ…はい。」
「お、お兄さん!お説教なら私が…」
「キーアちゃんには、聞きたいことがあるんだ。」

慌てて華憐を庇おうとするキーアちゃんを、冷静に遮った。

「き、聞きたいことですか?」
「そうだ。その薬のレシピを、できるだけ詳細に教えてほしい。」
「れ、レシピを?」
「な、何する気なの?お兄ちゃん…」

不安げな表情で華憐が尋ねてくる。

「うちの学校に居る魔法薬学の先生に相談してみるためだ。」

俺はそう言いながら、鞄を取り出し、ルーズリーフを取り出す。
そのとき、俺のカバンを見たキーアちゃんの表情が変わった。

「あの、お兄さんの通ってる高校ってまさか…」
「ん?近所の公立校だけど?」
「や、やっぱり…」

みるみるキーアちゃんの表情がひきつっていく。

「知ってるの?」

そんなキーアちゃんに、華憐が問いかける。

「わしの、母上は、高校の教師をしているのじゃ…その…魔法薬学の…」
「うそ!?すごーい!」
「すごいじゃねぇだろ。お前反省してんのか?」
「うぅ、ごめんなさい…」

これは意外な展開だ。もしかして、俺が保健室で話したあのバフォ先生の娘さんなのだろうか?

「もしかして、お母さんは普段、白衣着てる?」
「…前に見た高校のパンフレットの写真では、着てましたのじゃ…」
「言われてみれば…確かに似ているような気もする…」
「母上にあったのですか?」
「この薬のことで相談に乗ってくれたのが、魔法薬学担当のバフォメットの先生だった。」

世間は思っているより狭いというかなんというか。こんなところで繋がっているとは意外なものだ。

「キーアちゃんはしっかり反省してるし、ご両親には黙っておこうかとも思ったけど、そうもいかないかもしれない…」
「そ、そんなぁ…」
「とにかく、そのレシピをこれに書いて、俺に提出するように。」
「はい…」

俺はルーズリーフを三枚ほどキーアちゃんに渡し、時間も遅いということで帰らせることにした。
送っていこうかと提案したら、転移魔法陣で帰れるとのことだった。魔物娘なら珍しくはないが、やはり、あの先生の娘さんで間違いないかもしれない。

それから可憐には、正座をさせて1時間ほど、みっちりと俺の現状も交えて説教という名の特別講義をしてやった。
今日はお袋が早めに帰ってくるはずだから、怒ると親父よりも怖いお袋に、しっかりお灸を据えてもらうとしよう。






風呂上がり、ベッドに入ると携帯のバイブレーションが響いた。どうやらメールのようだ。
開いてみると、伊織からだった。

件名は『おやすみ』。本文には、可愛らしい顔文字と、『I LOVE YOU』の文字。
思わず吹き出してしまった。

返信を押して数秒。なんと返そうか迷ってから、無難におやすみとだけ返すことにした。

閉じた携帯を枕元に置いて、天井を見上げる。

恋人を作らせたいという華憐の目論見は、確かに達成されたのかもしれないが、俺としてはこんな形で恋人を作りたくはなかった。
吉野にしても、伊織にしても、いずれも騙してしまっているような後ろめたさがどうしてもついて回る。
そんな恋愛、幸せなわけがない。

「なんとかしなきゃなぁ…」

つぶやいては見るが、どうしようもないのも事実で。
だけど、キーアちゃんに盛られた薬が切れるその時までに、誰も傷つかない形で丸く収めなければならない。

俺は部屋の電気を消して、再びベッドに身を投げ出した。
16/08/02 13:32更新 / ウカナ・N・アクナス
戻る 次へ

■作者メッセージ
どうも。ものごっつ久しぶりの更新になりました。
しばらく執筆に行き詰まって投げ出したりしていたもので(汗
何に苦労したって、やっぱり冒頭の伊織の精神描写や、屋上入り口でのやり取りです。
特に屋上入り口でのやり取りは、私の脳内で3つほど没案がでまして、どうまとめようかとお手上げになったりしたところでした。
やっぱり、楽しいですが、難しいものですね。

そんなわけでDay3。今回は伊織回でした。お楽しみいただけたら幸いでございます。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33