Day1
土曜日の授業ほど、やる気のおきないものは無い。
俺は机に肘を突きながら、初夏の日差しの映える校庭を見下ろしていた。
体操着を着た生徒たちが、白球をあちこちで追い掛け回している。
それを見ている教員も、もう暑いくらいの時期だろうに、上下でジャージを着ている。
優雅な雲が風に流れ、遠くの音楽室からは楽器を演奏する音が聞こえる。
何の楽器かは知らないが、聞いているとどうしても、眠く…
「こらぁ!桐原!さっさと19ページの7行目から読まんか!!」
「わっ!?え、あ、はい!」
とても平和で、とても普通な日常だ。
「や〜い♪先生に怒られてやんの〜♪」
授業終了までずっと問いに指名され続けた俺の背中に軽く平手を打ち込みながら現われたこいつは、同じクラスの桜井伊織(さくらいいおり)。
衣替えしたばかりの夏服を少し着崩し、自称チャームポイントである長くてしなやかな灰色の尻尾を揺らしている。
手足も濃灰の毛を生やし、鋭くて黒光りする爪が生えている。そう。彼女はワ―ウルフだ。
「うっせ!ほっとけ!」
「あ〜ひど〜い!せっかくお昼誘おうと思ったのに…」
腕を組む仕草をしながら、ムッとした表情を浮かべる伊織。それでも、背後の尻尾はちゃっかり揺れているあたりが憎めない。
「まぁ、そう冷たい事言わずに、一緒に食べよ?」
そう言うが早いか、俺の机に隣の机をくっつけ、弁当の包みを置く。
「お、おい、まだ一緒に食べるって言ってないぞ!俺はこれから学食に・・・」
「お〜い!彩!ほら早く来なって!」
俺の言葉を完全に無視して大きな声で呼ぶ先には、不機嫌そうに眉をしかめながらこちらへと這って来る小柄な影。
そいつは俺と目が合うとさらに不機嫌そうな顔をして眼をそらした。
彼女は吉野彩(よしのさや)。濃灰の鱗に覆われた下半身はしなやかで艶があり、何かにつけては弄る癖のある長い髪は二つに束ねられ、先っぽでは蛇たちがあっちへこっちへとうごめいている。彼女はメドゥーサだ。
「あ、あら?桐原も一緒なのね。」
俺たちの傍へ這って来ると、吉野は綺麗な緑色の眼を泳がせながらそんなことを言った。
心なしか顔が赤い気がするが、突っ込まないでおこう。
「なんだ?不満か?ならいいよ。俺は一人で食うから・・・」
俺がそう言うと、伊織が慌てて何かを言おうとしたが、その前に吉野が遮った。
「ち、違っ・・・そんなこと言ってないでしょ?いいからあんたはそこに座りなさい!」
「お、おう・・・」
俺は促されるままに席に座った。横では伊織が何かを期待するような視線を吉野へと注いでいる。
「い、伊織も早く座る!時間がもったいないわ。」
そう言って俺と伊織の二人を座らせた吉野は、俺たちの囲う机の真ん中に弁当を二つ置いた。
その横で、伊織はさっさと自分の弁当の包みをほどいている。
「な、なぁ、もしかしてこれ・・・」
俺は恐る恐る目の前の弁当の片方、薄い水色の包みを指差した(もう片方は薄い紅色)。だが、俺が言いきる前に吉野はその包みを掴んで俺から遠ざけた。
「ば、馬っ鹿じゃないの!誰があんたなんかにお弁当を用意するもんですか!あんたはそこでみじめに私たちがお昼を食べる様を見ていればいいのよ!一口だってあげないんだから!」
「い、いや、まだ何も言ってな・・・」
「で、でも、桐原が、どうしてもって言うなら・・・?恵んであげなくもないわよ?」
顔を赤くしながらそんなことを言う吉野。その横で、呆れたような笑みを浮かべる伊織。
「い、いや、いいよ・・・俺、学食で・・・」
「遠慮せずに貰っちゃえば?女の子の手作り弁当なんてそうそう貰えないよ?」
箸箱から箸を取り出しながら、伊織が口をはさむ。
「ちょ、ちょっと伊織!私は別に桐原の為に作ったわけじゃ・・・」
「え?違うのか?」
「あ、当り前でしょ!!ちょ、ちょっと作り過ぎたから、誰かにあげようと思って持ってきただけよ・・・」
すかさず否定してそっぽを向きながらもごもごと言葉を紡ぐ吉野。
「だからお箸も付けてないんだよね〜♪」
その横から、伊織が楽しそうに言った。確かに、包みには箸箱特有の膨らみが無い。
「なんなら私のお箸使う?私が食べ終わった後だけど♪」
悪戯っぽい笑みの中に若干頬を赤らめながら、伊織が俺の顔の前で自分の箸をカチカチと鳴らす。よくあの手で器用に箸を使えるもんだ。
「お、おい行儀悪い・・・」
「そんなのダメ!」
俺の言葉をさえぎるように、突然吉野が大きな声を出した。
教室内でくつろいでいた数人が何事かとこちらを見るが、すぐに興味無さそうに各々の昼食や会話に戻って行った。
「ん〜♪何でダメなのかなぁ〜?」
そんな吉野に、伊織はにやにやと問いかけた。尻尾がシュルシュルと揺れている。対する吉野は、忙しなく俺と伊織の箸とを交互に見ている。頭の蛇たちも落ち着きをなくし、絡まないのが不思議なほどに激しく動きまわっている。
「だ、だって、そんなの・・・間接キスだし・・・」
かろうじて聞こえるような声で吉野が答える。俺はその言葉に顔が少し熱くなり、無意識に伊織の箸と唇に目が行ってしまった。
「ん〜?私は別に気にしないけどな〜?雄君との間接キ・ス・♪」
「いや、気にしろよ!」
「気にしなさいよ!」
とっさに突っ込んだら、意図せずして吉野と重なってしまった。吉野は驚いた顔をしてこちらを一瞬見た後、すぐに視線をそらして自分の弁当の包みに手を伸ばした。
「そ、そういうのはす、好きな相手同士でやるべきで・・・恋人でもないのに、そ、そんなことするのは、まずいでしょ!」
片手で器用に包みをほどきながら、もう片方の手で髪をいじり、うつむきながらボソボソと言葉を紡ぐ吉野。普通はこれくらい気にするのだが、伊織は本当に気にしていないようで、さらに言い放った。
「なんなら〜♪直接でもいいよ♥」
「お、おまっ!何言ってんだ?!」
「ちょ、ちょっと伊織!あんたそれ本気で言ってるの?!」
俺と吉野は同時に椅子から立ち上がって叫んだ。そんな俺に伊織は『アハハハ』と笑い、吉野の方へ向き直ると『さぁ〜?』と含みのある笑みを浮かべて答えた。
その笑みからは伊織の言葉の真偽は量れず、俺の思考はショートしそうなほどに目まぐるしくまわり、ケタケタと笑う伊織を茫然と見つめることしかできなかった。
「まぁまぁ、その話は置いといてっ!雄君?彩の作ったお弁当、食べるの?食べないの?」
「え?あ、おう。じゃ、じゃあ貰うよ・・・」
「“じゃあ”?」ギロリ
突然の質問にどもりながらも答えると、吉野は鋭い視線を俺に向けてきた。
「い、いや!貰う!下さい!欲しいです!」
一瞬で骨の髄まで石化されそうだと恐怖を感じた俺は、慌てて発言を訂正した。
「ふんっ!最初からそうやって素直に乞(こ)うていればいいのよ♪」
そう言いながら吉野は俺の前に薄い青の包みを押し出す。しかし、ここで再び浮上する問題が一つ。
箸が無い。
「あ〜…俺、学食で箸借りてくるわ…」
俺は立ち上がりながらそう言ったが、すぐに伊織に腕を掴まれて止められた。
「いいよそんなの。彩があ〜んってしてあげればいいんだもんね?」
そう言いながら吉野のほうを振りかえる。すると、吉野は爆発しそうなほど顔を赤らめ、手に持っていた箸箱を落とした。
「なっ!ななな、何言って・・・そ、そんなこと・・・するわけないでしょ!!」
裏返った声でそう訴える吉野を、怪しい笑みを浮かべて見つめていた伊織は、不意にその笑みを濃くして、自分の弁当のおかずを一つ摘むと、俺の前へと差し出してきた。
「雄君♪あ〜ん♪」
「なっ!?」
「ちょ!?」
突然のことに硬直する俺の口に伊織のおかずが迫り、驚きで開いた俺の口の中に見事に収まってしまった。
「むごっ!?」
「あぁぁぁ!!!」
そのまま伊織は満足げに笑い、箸を俺の口から引き抜いた。俺の口と伊織の箸を交互に見つめて震える吉野のほうが気になって、口に広がるミートボールの味はほとんど感じられなかった。
「いお、いおりと、きりはらが・・・か、かかか、かんせつ、きす・・・」
がたがたと震えながら小声で何かをつぶやく吉野をよそに、伊織は満足げに笑いながら尋ねてきた。
「ねぇ?おいしい?」
俺はその問いに答えるべきか、虚ろな目で思考の迷宮に陥ってしまった吉野を救出するべきか迷っていた。
すると、不意に伊織が吉野のほうへ向きなおって言った。
「あぁ、大丈夫だよ彩。まだ私、口付けてないから。」
そう言いながら、自分の口もとへ、たった今俺の口へ入った箸を持っていこうとする。
次の瞬間、目にもとまらぬ速さで何かが伊織の顔の前を通り、気づけば伊織の手に、箸は無かった。
「わっ!?」
少し遅れて伊織が反応し、すぐに横の吉野へと目を向ける。
するとそこには伊織の箸を握りしめていそいそと教室を出ていく吉野の後ろ姿があった。
「ちょ、ちょっと彩!私のお箸どこ持ってくのぉ?!」
「決まってんでしょ!洗ってくるの!」
顔だけ振り返りながらそう言い残し、吉野は廊下へと出て行ってしまった。
「あはは・・・ちょっと行ってくるね・・・」
苦笑いを浮かべながら吉野の後を追う伊織。あとに残されたのは、三つの弁当と俺だけだった。
*******
昼休みの廊下は、一階の購買部や学食へ向かう生徒たちが多く行きかっていたが、ピークの時間を過ぎ、人影も少なくなっていた。
そんな中にひとつ、小柄な影。片手に赤いお箸を握りしめながら水道へと向かうその影の主は、小柄なメドゥーサの少女だった。なぜか顔を真っ赤にして一目散に水道へ向かう様子は、ただ箸を落として洗いに来た様子とは明らかに違っている。
「はぁはぁ・・・まったく、伊織の馬鹿・・・」
水道に辿り着くと、ぶつぶつと呟きながら蛇口に手を伸ばす。しかし、その手は蛇口をひねる直前で止まった。髪の蛇たちがまっすぐに、手に持ったお箸を見つめている。
「き、桐原が、舐めたお箸・・・」
舐めたという表現にはいささか語弊があるかもしれないが、確かに彼の口に入ったのは事実。
手の中のお箸を見つめる彼女は、そっとその箸を自分の口もとへ近づけていって・・・
「彩!」
「ひゃうぅ!?」
箸にばかり気を取られていた彩は、背後から迫る伊織に全く気付かなかった。
「もぅ、私のお箸勝手に持って行っちゃって・・・って、彩?大丈夫?顔真っ赤だよ?」
あきれたような表情で彩に文句を言っていた伊織は、目の前の彩が胸に手を当てて肩で息をしていることに気がついた。
「び、びっくりした・・・」
「あはは・・・ごめん、でも、そんなに驚かなくても・・・あれ?」
放心したような彩の手に、いまだ洗われていない自分の箸を見つけ、怪訝そうな顔をする伊織。
「ねぇ彩?もしかして、そのお箸、舐めたの?」
「っ!?(ギクッ)」
伊織の鋭い観察力にビクッと肩を弾ませる彩。
「ち、ちがうの!まだ″舐めてなんかいないわよ!・・・はっ!?」
「ほほ〜ぅ、いずれは舐めるつもりだったと・・・?」
「ち、ちが!」
リンゴのように顔を赤らめて慌てて否定する彩。紙の蛇たちもせわしなくあちこちへ伸び回っている。そんな彩をにんまりと笑みを浮かべて見つめる伊織。
「でもさぁ、私のお箸でやらないで、自分のお箸で雄君に食べさせてから、家でじっくり舐めればいいんじゃない?」
「だ、だから違うって言ってるでしょ!!」
「私だったらそうするけどなぁ〜♪」
伊織がニヤニヤしながら言ったその言葉を聞くと、彩はすばやく振り返って箸を洗い始めた。
「ウソウソ♪冗談だってば♪」
伊織のその言葉に、彩はぴたりと動きを止めて振り返った。手からいくつもの水滴が滴るが、全く気にする様子はない。
「じゃあ、伊織?さっきの言葉は?本気?冗談?」
「へ?さっきの言葉って?」
さっきまでとは違い、急に静かな物言いになった彩に驚きながら、伊織は尋ね返した。
「さっきの、桐原となら、キ、キスしてもいいって言葉・・・」
言いながら、伊織を見上げるその目は鋭く、親友である伊織も思わずたじろいでしまった。
「あ、あぁ、あれね。冗談だよ。冗談。雄君はいい人だけど、彩の好きな人を横取りなんてしないよ。」
笑顔でそう答える伊織に、ようやっと彩は視線をそらした。
「そ、そう・・・って!べ、別にあいつのことなんか好きじゃないわよ!」
そう叫ぶと、プイっと振り返り、再び箸を洗い出す彩。その後ろ姿を見ながら、伊織はふと表情を曇らせた。
「冗談・・・だよね・・・」
そっと自分の心臓を抑えるように手を添えた伊織。
心がすこし、チクリと痛んでいた。
*******
「にゃっほ〜♪伊織居る〜?お!?雄大ぃ!今日はお弁当なのかにゃ?」
廊下へ出て行った二人を待っていると、二人が出て行った反対のほうの入り口から、陽気な声が聞こえた。
「おぅ、日向。伊織なら水道に行ったぞ。何か用なのか?」
俺の姿を見つけるなりいきなり駆け寄ってきたこいつは、隣のクラスの友達で、伊織のライバルでもある春野日向(はるのひなた)。
かわいらしいピンクの肉球がついている手だけは真っ白な毛に覆われ、茶色の毛に覆われている頭の耳はピンと立っている。
ふさふさの毛に覆われた尻尾は先端だけ白く、あとは茶色い。彼女はワーキャットだ。セミロングの髪を揺らし、鈴のついた薄紫の和風なリボンをつけている。
手にはおそらく購買で買ったのだろう、五目チャーハンの入ったプラスチック容器を持っていた。
「いいや。別にいいにゃ。雄大に会えたからそんなのどうだっていいにゃ♪・・・んにゃ?雄大?このお弁当は誰のかにゃ?」
無遠慮に俺の腕に頬擦りをする日向を押しとどめながら苦笑いしていると、不意に日向が机上の弁当を指さして(肉球で指示して)尋ねてきた。
「あぁ、これな、吉野が弁当を作りすぎちゃって、誰かにあげようと思って持ってきたらしいんだが、箸を持ってきて無くてな?今、学食で借りてこようかと思っていたところなんだ。」
「ふ〜ん・・・。あっ!にゃら!私のお箸をあげるにゃ♪」
思いついたように自分の手の中の五目チャーハンの容器の上に輪ゴムで止められた割り箸を差し出してくる日向。
「え?でも、いいのか?お前どうやって食べるんだよ?」
俺はそう言いながら日向の手の中の五目チャーハンを指さした。すると日向はスカートのポケットから銀色のスプーンを取り出した。
「購買は不親切にゃ。私がお箸を使えないのを知っていて、わざと割り箸を付けてくるんだにゃ・・・いじわるにゃ。いやがらせにゃ・・・だから私はこうしてMyスプーンを持ってきてるんだにゃ。」
眉をしかめながら割り箸を見つめ、Myスプーンを誇らしげに掲げる日向。
「なるほど。それじゃ、遠慮なく貰っちゃおうか。」
俺はそう言いながら日向の差し出す割り箸を受け取った。
乾いた音とともに割れる割り箸は、上のほうに偏り、鋭く裂けるような形になってしまった。ちょっと不吉だ。
「おい雄大!お前もやるか?」
「んぁ?」
弁当のふたに手をかけたところで、赤と白と緑色の変った模様のボールを小脇に抱えたクラスメイトの男子に声をかけられた。
弁当の中身のことを考えていたので、変な声で返事をしてしまった。あいつが抱えているのはバレーボールか。
「おお、そうだったにゃ。期末テストが終わったら球技大会があるにゃ!」
そのボールを見て、日向は尻尾をピンと立たせて反応した。
うちの学校では期末試験が終わったすぐ後に、学年ごとの球技大会が行われる。確か今年の三年はバスケットボール。一年はサッカー。そして俺たち二年はバレーボールだ。
男子は全員強制参加。だが、野球部やサッカー部なんかが部活動の大会で出られなかったりと、有力選手が欠けたりして、戦力はどのクラスも乱れる。
だが、なぜか女子は強制参加ではなく、魔物娘も含めて自由参加である。生徒会を含め教師一同は『決して差別ではない!』と言っているが、どうなのだろうか?
ちなみに、日向と伊織は現役の女子バレーボール部員だ。ライバルとはそういうことだ。
「練習か。気合入ってんな。」
「おうよ。負けられねぇぜ!春野!お前のクラスにはぜってぇ負けねぇからな!」
体育館履きを肩に担ぎ、小脇にボールを抱えた格好で啖呵を切る。
「フフフ♪せいぜい吠えるがいいにゃ♪力の差を見せつけてやるのにゃ!あんたらにゃんか私一人でコテンパンに叩きのめしてやるのにゃ!」
バレーボールは球技であって格闘技ではない。コテンパンにするという表現はちょっと違うような気が・・・まぁいいか。
「さぁ雄大!同志よ!いざ行こう!体育館(戦場)へ!」
「あ、悪い、これ食ってから行くわ・・・」
張り切っているところ悪いが、俺は今弁当を食べているのだよ。というかお前、飯はどうしたんだ?
「そうか。待っているぞ!」
そう言い残して教室を駈け出して行く。テンションの高い奴だ。
「お待たせ〜って、日向!?何してんの?」
気を取り直して弁当に向きなおったところで、伊織と吉野が戻ってきた。伊織の手には水道で洗ったのだろう箸が握られていた。
「あら?律儀に私たちが戻ってくるまで待ってたのね。」
いまだ弁当に手をつけられていない俺に、吉野がそっけなく言った。
「あれ?雄君?そのお箸は?」
席に座った伊織が早速俺の持つ割り箸に気付いた。
「あぁ、日向にもらったんだよ。」
「ふぅ〜ん・・・使用済み?」
「ぶっ!?」
伊織の言葉に、隣で飲み物を飲んでいた吉野が噴出した。ケホケホとむせている。大丈夫だろうか?
「ちげーよ。日向は箸が使えないから、俺にくれたんだよ。」
「そうにゃ。でも、そうだったにゃ〜・・・どうせなら使った後に渡せばよかったにゃ・・・」
「お、おいおい・・・」
なんやかんやとやり取りをしつつ、ようやっと全員席について、弁当を食べることができた。
「おお、美味いな。吉野は普段も料理するのか?」
吉野が分けてくれた弁当の中には、数々のおかずがきれいに収まっていた。どれも丁寧に作られたことが分かる。
「な、何よ?悪い?」
感嘆の声を漏らす俺に、表情をしかめながら答える吉野。
「いや、そんなこと言ってないって。家庭的な面があるんだな〜って思っただけだよ。」
「ふんっ!褒めても何も出ないんだからね!」
そう言ってそっぽを向いてしまう吉野。しかし、髪の蛇たちは緩やかに動きながら、そろってこちらを凝視していた。
そのあと、弁当を食べ終えると、体育館に顔を出した。体育館ではほかのクラスの連中もボールを囲んで練習していた。
実は俺も、中学時代はバレーボール部に居た。と言っても、補欠だったのだが。
そんなことを考えているうちに、ボールがこっちへ飛んできた。俺は半分反射と言えるような速度で反応し、前のめりになりながらもレシーブで返した。
割と低空飛行なボールはそれでも届いたらしく、ほかのやつらの輪の中で再び飛び交い始めた。
「おお、雄君上手いんだね。経験者?」
すかさず伊織が尻尾を振りながら声を上げた。
「まぁ、ちょっと齧ったぐらいだ。」
中学と高校ではボールのサイズが違う。俺の経験も、どこまで通用するか。まず、伊織や日向のような現役の人たちには勝てないだろう。
だが、懐かしさが込みあげてくる。女子バレー部のかわいい子に、惚れていたっけなぁ・・・
「お?来たか雄大。」
さっきの男子生徒が輪から外れてこっちへ来た。
「ちょうど四人だし、二人ずつ分かれるか。」
俺が提案すると、伊織と日向はすばやく見つめあった。
「にゃら、私は雄大と組むにゃん♪」
先に動いたのは日向だった。俺の腕にしがみつき、そう宣言した。しかし、すばやく伊織が手を伸ばし、日向の後襟をつかんで引き剥がした。
「あんたはこっち!私、日向と組むね。」
そう言うと、比較的女子の多いチームの方へと行ってしまった。日向が何か言おうとするが、口を押さえこんで引きずっていく。
「し、仕方ないわね・・・あんたと組んであげるわよ・・・」
吉野がそう言いながら少しだけ近づいてくる。
「お、おう、じゃあ行こうか。吉野、スポーツ苦手じゃなかったか?」
「う、うっさい!こんなのどうってことないわよ!」
俺の心配を一蹴して、先に行ってしまう吉野。俺は苦笑しながらあとを追った。
「あ″あ″ぁ・・暑い・・・痛い・・・」
「あはは。雄君大活躍だったもんね。あんなに飛びこんで、制服に穴あいてるんじゃないの?」
午後の授業の予鈴が鳴り響く教室。ひと足早く戻ってきた俺たちは、教室で寛いでいた。
日向や伊織がいるからと言って、バレーボールはチーム競技なわけで、それはこっちのチームも同じで、初心者の生徒が拾い損ねたボールを、経験者が持ち直すという場面が多くみられた。
まるで野球のヘッドスライディングのように、頭から突っ込んで手を伸ばすような、肝を冷やすプレイ。
俺は何度もそう言った滑り込みをやり、あちこち床にぶつけるわ擦るわで、満身創痍だ。おまけに汗もダラダラ。シャワーでも浴びたいが、そんな贅沢は通らない。
「ほら、使いなさいよ。」
既にびしょ濡れの制服の袖で汗を拭う俺に、水色のタオルが差し出される。
吉野が、顔を赤らめながらそれを差し出していた。
「いいのか?俺の汗付くぞ?」
俺はためらいながら尋ねた。
「後でクンカクンカするんだよねぇ〜♪」
横から伊織が口をはさんだ。
「しないわよ!そんなの、へ、変態じゃない!」
「変態にゃ・・・彩ちゃんは変態だったのにゃ・・・」
「違うって言ってんでしょ!!」
にぎやかに、午後の授業を迎えた。
「あ〜疲れた〜」
家に帰り、ベッドに飛び込みながら一息。
冬だったらとっくに暗くなってる時間なのに、外はまだ明るい。
不意に、部屋のドアがノックされた。
「お兄ちゃんお帰り。入るよ?」
「あぁ・・・」
ドアを開けて入ってきたのは、妹の華憐(かれん)。華憐も俺も、同じ親から生まれた正真正銘の兄妹だ。(そこ!舌打ちしない!)
「ご飯の用意するんだけど、その間にお風呂洗っててくれる?お父さんもお母さんも、今日は帰り遅いらしいから。」
「あいよ。何時に帰るって?」
「わかんない。夜中になるとか。」
「あぁそう。」
うちの両親は共働きで、平日は夜中に帰ることもしばしば。そんなだからか、華憐はいつの間にか料理のスキルを身につけ、よく作るようになっていた。
「手、抜かないでよ?きれいに見えてもぬるぬるしてたり・・・」
「わ〜ってるよ。」
俺は起き上がりながら答えた。
「あ〜ごちそうさま。今日も美味かったぞ。」
俺は箸を置きながら言った。華憐はそんな俺の食器を持って台所へと向かう。
文句ひとつ言わずに食器を洗い出す華憐。我が妹ながら、できた妹だ。たまには少し、手伝ってやるか。
「なぁ華憐?たまには手伝ってやろうか?」
「わひぇ!?い、いいよ!いいからお兄ちゃんは早くお風呂入ってきて!」
俺が台所の暖簾をくぐりながら声をかけると、華憐は肩を弾ませて驚いた。顔の前に俺の箸を持って固まっている。俺の立っている場所からは、華憐の体の陰になって見えない左手がごそごそと動いていた気がするが、気のせいだろう。
「何してんだ?俺の箸に何かついてるのか?」
そこまで言って、ふと今日の昼のことが頭をよぎる。
『だ、だって、そんなの・・・間接キスだし・・・』
『私は別に気にしないけどな〜?雄君との間接キ・ス・♪』
俺の箸を持って固まる華憐。まさか、お前・・・
「お前まさか、俺の箸、舐めてるのか?」
「はぁぁ!?ばっかじゃないの!?お兄ちゃんの変態!死んじゃえ馬鹿ぁ!」
言ってから気づいた。なんてことを訊いているんだ俺は。こりゃ変態呼ばわりされても文句言えないぞ・・・
「わ、悪い!今のは忘れてくれ!」
叫びながら手に持っていた俺の箸を投げつけてくる華憐。俺はその鋭い一撃をかわし、風呂場へと逃げ込んだ。
二日後
月曜日という響きはこうも容易く活力を奪うものだったか。
俺は寝ぐせ直しの水でびしょびしょになった頭をなでながら鞄を担いで玄関を出た。華憐が後に出るから鍵は大丈夫だろう。
今日はなんだか奇妙だ。道行く魔物娘の視線が多い気がする。
スーツ姿のアヌビスやおしゃれな格好のサキュバス。みんな、普通に通学する俺を見るなり、じっと凝視している。
自意識過剰とかそんなレベルじゃない。
電柱の上で地図を広げていた配達員のハーピーだって、俺を見るなり固まってしまって、風に飛ばされて地図が手から離れても、全く気付いていない。
一体どうしたというんだ?俺の顔に何かついているのだろうか?
俺は道のわきにある喫茶店のガラスに映った自分を歩きながら見てみた。特におかしなところはないようだが・・・襟が立っているわけでもない。そうしていると、喫茶店の中でウェイトレスをしていたホルスタウロスと目があった。
彼女は俺と目が合うと口をぽかんとあけ、運んでいた食器類の乗ったお盆を取り落とした。
外に居ても小さく音が聞こえてくるような大きな音がたったが、当の本人は胸の前で手を握って俺を見つめている。
急いで駆け寄ってきた責任者と思しき女性も、俺に気付くと少し驚いたような顔をして、落ちた食器を拾い集め出した。(紅い目と派手な髪飾りから、おそらくヴァンパイアだ。)その間も俺をちらちらと見ていたが、俺が角を曲がり、お互いに見えなくなった。
「…どうなってんだ?…嫌な予感がするぜ…」
俺は胸騒ぎを覚えつつも、学校への足を速めた。
何とか学校へたどりついた。魔物娘たちからの何とも言えない視線をかいくぐり、俺の背中は嫌な汗でべっとりだ。
俺は肩にかけていたカバンをおろしながら教室へ入った。すぐに、俺の席の左斜め前に座る吉野の姿が見えた。吉野もこちらへ気付いたようで、俺は手を上げながらあいさつした。
「おはよう吉野。珍しく早いな?」
俺の言葉に少しむっとした表情を浮かべて、何か言い返そうとした。
「うっさいわね馬鹿!私だってたまには…」
しかし、最後まで言い切る前に、俺と吉野の間を遮り、クラスメイトの笹原美恵さんが声を掛けてきた。
「おはよう桐原君♪」
黄金の良く手入れされた二本の尻尾を揺らし、大きな耳をひょこひょこと揺らしている。
彼女は妖狐だ。笹原さんはずいっと俺に顔を近づけると、かわいらしいお鼻をスンスンと鳴らして俺のにおいをかいだ。
「桐原君、今日はなんだかすごくいい匂いだね。こんなおいしそうな匂いしてたら、私、食べちゃうかも♪」
「あ、あの?笹原さん?や、やめ…」
紅潮した顔をさらに寄せてくる笹原さんを押しのけようとしていると、背後から別の声が聞こえた。
「おはよう、桐原君♪」
「わっ!?」
驚いて振り返ると、視界に飛び込んでくる褐色の翼。声を掛けてきたのは、ハーピーの朝霧飛鳥さん。
「ねぇどうしたの?今日はなんだかいつもと違うよね?そんなに魅力振りまいて…誘ってるの?」
「は?え?いつもと違うって・・・?」
いつもと違うのはお前らの方だと言いたいが、混乱している頭を整理する方が優先だ。
一体どうなっている?誘ってるってなんだ?俺、なんか変なことしたか?
「桐原くぅん♪」
「のわぁっ!?」
硬直していたら、背後でおとなしくしていた笹原さんに後ろから抱きつかれた。なんだかいい匂いがするうえに、背中に押しつけられる二つのふくらみ。け、結構でかいぞ・・・
「あぁ!ずるいよ美恵!」
そう言いながら正面から俺に抱きつこうとする朝霧さん。それを押しのけようと、俺の肩越しに手を伸ばして朝霧さんを俺に寄せ付けまいとする笹原さん。
しかも、二人に気を取られているうちに、いつの間にか俺たちの周りには魔物集(だか)りができていた。
全員眼をギラギラとさせて、頬を紅潮させているあたり、先に迫ってきた二人と同じだろう。
「やめてくれ二人とも!一体何なんだよ?朝からドッキリか何かか?」
俺は後ろに張り付く笹原さんを振りほどきながら言った。もがいている最中に、何かを叫んでいる吉野がチラリと見えたが、すぐに見えなくなってしまった。
俺を囲む魔物娘たちは、口々に俺の名を呼んではいやらしい笑みを浮かべて迫ってくる。
やばい、俺、今日死ぬかも・・・。
あちこちから伸ばされる腕に掴まれながらそんなことを考えていると、どこからか、だれかの叫び声が聞こえた。何かを叫んでいるが、よく聞こえない。
その直後、魔物娘集りの一角からまばゆい光が上がった。
何だと思う間もなく、光の上がった方向から順に、魔物娘たちが石膏のような石に変わり始めた。
俺は瞬時に身の危険を感じ、その場にうずくまった。そんな俺の周りで、魔物娘たちが石化していっているのが気配で分かった。
「桐原ぁぁぁぁ!!!」
誰かが叫びながら近づいてくる。
この声は、吉野?
俺は恐る恐る起き上がった。しかし、起き上がった瞬間に何かに首をひっかけられ、すごい力で引っ張られた。
「うごぉ!?」
そのまま数メートルを引きずられた。まずい。呼吸ができない!このままじゃ窒息…
「馬鹿!桐原の馬鹿!死んじゃえアホぉ!なに鼻の下伸ばしてんのよ馬鹿!変態!あんたはねぇ!あんたは…私の…っ!私の…」
頭の上から声が聞こえる。
吉野が俺を羽交い絞めにしているのか?っていうか、近いくせに声がでかくて、うるさい。
そんなことを考える間もなく、俺は限界に達した。
足に力が入らない!
これじゃ立ち上がって振りほどくこともできない!
あぁ、意識が…
目を開けると、見慣れない天井が広がっていた。ぼんやりする頭が覚醒してくると、寝かされていることが分かった。
「…んぅ?」
俺は起き上がりながらうめいた。どうやらここは保健室らしい。ベッドの周りをカーテンが仕切っている。
と、突然カーテンが開かれた。その向こうに立っていたのは、学校で名前を知らない先生の代名詞、養護教諭の白石先生だ。なぜ名前を知っているのかって?昔よく来たんだよ。保健室に。
真っ白な白衣を纏う体は、普通の女性よりも高く、下半身は真っ白な体毛に覆われた馬の体になっている。
額から伸びた乳白色の鋭い角は、魔力を帯びて神々しく見える。
先生はユニコーンだ。
「あら、起きたのね。気分はどう?」
先生はするりと俺のベッドの傍へ寄りながら尋ねてきた。
「お、おはようございます…何があったんですか?」
俺はちょっと緊張しながら挨拶をし、状況を尋ねた。確か俺は教室で魔物娘たちに囲まれて…
「それはこっちが訊きたいわ。あなた、何も覚えてないの?」
先生はあきれたような顔で尋ね返してきた。
「覚えてる…ええと…吉野…そうだ!白石先生!吉野…俺のクラスメイトの、吉野彩はどこですか?気を失う寸前、アイツに締めあげられて…」
身を乗り出しながら尋ねる俺の顔の前に、先生はスッと手を出して止めた。
「なるほどねぇ…まぁいいわ。とりあえず、今は休みなさい。もう一時限
目は始まっているの。休み時間に教室へ戻りなさい。欠課になっちゃうけど、途中で戻ってこられる先生も、大変でしょうからね。」
それだけ言って、先生は出て行ってしまった。なるほどって、一体何に納得したんだよ?
そんなことは口に出せず、俺は悶々としたまま再び横になった。
しばらく横になっていると、チャイムが鳴った。
俺はいそいそとベッドから降りて、乱れてしまったシーツや掛け布団を直し、制服の乱れを直してカーテンを開けた。
「あっ…」
そこには、息を切らした吉野が居た。吉野は出てきた俺を見て驚きの表情を浮かべていたが、すぐにいつも通りの不機嫌そうな表情に戻った。
「よ、よう…」
「えぇ…」
俺がどもりながらも挨拶をすると、吉野は一瞬肩を弾ませたが、勤めて平常を装って返してきた。
そこで少しの沈黙が垂れこめる。俺は頬を掻きながら吉野を見る。吉野も気まずそうに下を向いている。顔がかなり真っ赤なのはどうしてだろうか?
「ほぉら、吉野さん?桐原君に言うことがあるんじゃない?」
そんな俺たちの沈黙を、白石先生が破った。俺は先生の言葉を受け、吉野へ注目する。すると、吉野は顔を俯かせてしまった。しかし、髪の蛇たちは普段よりも大人しく、こちらを凝視している。そして、不意に吉野は顔を上げ、ばつが悪そうな表情で言った。
「桐原!あの…ごめんなさい…首、締めちゃったわね。痛かったでしょ?ほんと…ごめんなさい…」
いつもと違ってしおらしい吉野の様子が新鮮だった。
「あ、あぁ、いいんだ。もう…」
そんな吉野に俺は責める気になれず、容易く許してしまった。
だが、どうやら本当に反省しているようだ。理由は知らないが、まぁいいだろう。
そこでふと、気絶する直前の記憶がよみがえってくる。確か吉野は何かを言いかけていなかったか?
「な、なぁ?吉野?お前、俺が気絶する直前に、何か言いかけてなかったか?」
俺の問いかけに、吉野自身も、髪の蛇たちもビクッと反応した。俯いていた顔を一気に上げ、驚きの表情で俺を見る。
「桐原…もしかして、覚えてないの?」
尋ねてすぐ、悲しげな表情に変わる吉野。俺はなんだかよくわからない罪悪感に苛まれて、固まってしまった。そんな俺を見て、吉野は一気に怒りの表情を浮かべた。
「馬鹿!桐原の馬鹿!最低!もう知らない!」
そう叫んでそっぽを向いてしまう吉野。
「あらまぁ…」
そんな吉野と俺を見て、呆れたような笑いを浮かべる先生。笑えませんよ、まったく…
「すまん、吉野。だって、あんな状況じゃ聞こえるものも聞こえないだろう?悪かったよ、だからもう一回言ってくれよ?」
「絶対嫌!二度と言わない!」
あぁ、ダメだこりゃ…完全に怒ってる。
「コホン…とにかく二人とも、早く教室に戻って授業の準備をしなさい。」
先生の言葉で、俺たちは保健室を後にした。教室までの道中、吉野はずっと不機嫌なままで、話しかけようとしても鼻であしらわれてしまった。
「雄君!彩!お帰り!大丈夫?」
教室に入ると、伊織が駆け寄ってきた。
「おう、伊織。心配してくれたのか?ありがとな。大丈夫だ。」
「あはは、彩もすっごく心配してたもんね?泣きそうになって倒れた雄君の顔を覗きこんdむぐっ!?」
伊織が笑いながら話しだすと、目にもとまらぬ速さで吉野が伊織の口を塞いだ。その顔は真っ赤で、今にも発火して燃えだしそうだ。
「余計なことは言わなくていいの!」
吉野が伊織の耳を食いちぎらんばかりに顔を近づけて言った。
「ハハハ…なんだ、吉野も心配してくれてたのか。」
「違っ…黙りなさい馬鹿!」
ちょっとからかうつもりで喜んでみたら、割と強めにしっぽで腕をはたかれた。いてぇ…
「お帰り。桐原君♪」
そんな俺たちを取り囲むように集まってくる影。魔物娘たちだ。今度は他クラスまで居る。
「な、あんたたち!諦めたんじゃなかったの?!」
その魔物娘たちに、吉野は鋭い眼光と怒声を浴びせる。諦めたって何だ?
「う〜ん…一度は納得したんだけどねぇ?」
近くに居たレッドスライムの子が口を開いた。次に、その隣のラミアが口を開いた。
「吉野さんの言葉だけじゃいまいち信用に欠けるのよね。こういうのは二人揃っての問題なんだから、桐原君本人にも訊かないとねぇ?」
そう言いながら舌なめずりをする。そうだそうだ!と周りの魔物娘たちからも声が上がる。
状況が呑みこめない。なんだ?二人揃っての問題?
「ねぇ桐原君!答えて!…」
魔物娘たちの視線が突き刺さる。
「桐原君と吉野さんって、本当に付き合ってるの?」
「…はぁ?」
俺はあまりに予想外の発言にあいた口がふさがらなかった。そんな俺の横で、吉野は顔を真っ赤にして慌てふためいている。
「朝、吉野さんが言ってたよね?『あんたは私の恋人なの!』って。それって本当なのかな〜?って。」
何の話だ?俺はそんなこと一言も…
そこでふと、気絶する寸前に吉野が言いかけてたことを思い出す。肝心な部分を聞かずに気絶しちまったのかよ…俺…
「お、おい、吉野?どういうこt―――」
俺は問いただそうと吉野の方へ向き直った。しかし、言いきる前にすごい速さと力で襟を掴まれ、引っ張られた。
「(うんと言いなさい!はいでもいいわ!何も考えずにとにかく肯定すればいいのよ!わかった?!)」
周りの魔物娘たちに聞こえないように、吉野は俺の顔を引き寄せて小声で言った。
「(ちょっと待てって!何がどうなってるんだよ?俺はお前とは…)」
付き合ってなんかいない。そう言いかけて、吉野の眼を見た。その目に、何か違和感を感じた。
「(な、なによ?)」
吉野は怪訝そうな顔で俺を見ている。
「あ〜?なにを二人だけで話してるのかなぁ?」
声を上げたのは、朝俺に襲いかかってきた笹原さんだった。その言い方はからかうようなものだったが、目はしっかりと俺をとらえていた。
指摘された俺たちは屈んでいた体勢からすばやく身を起こし、笹原さんの方へ向き直った。
横目で吉野が何かを訴えかけるような目線を送ってくる。そんな目にもやはり違和感がある。
「それで〜?どうなのさ?き・り・は・ら・くん♪」
笹原さんは色っぽく猫なで声で尋ねてきた。
ここは信じるしかない。俺は心の中で祈りながら口を開いた。
「…あぁ。本当だ。俺と吉野は付き合ってる。」
俺は必死に眼だけで意思を伝えようとする吉野をチラッと見ながら言った。
吉野は一瞬爆発しそうなほど顔を赤らめたが、何かをこらえるように震えながら俯いていた。
これは賭けだ。俺は吉野を信じる。
今朝からいきなり魔物娘たちが寄ってくるようになった。
今だって、他クラスの魔物娘までも寄ってきている。
それは、同じ魔物娘である吉野も(伊織もだが)同じはず。
だが、他の魔物娘たちとは違い、吉野とはだいぶ前から親しい仲だ。普段から、吉野は俺にそっけない態度を見せているし、メドゥーサという種族を考えると、他の魔物娘よりも幾分か安全なはずだ。
こうして、このまま吉野と付き合っていることにしてしまえば、他の魔物娘たちはもう寄っては来ないはず!
俺は頭の中で吉野に土下座をしながら嘘をついた。声も震えていないし、嘘だとばれはしないだろう。
「えぇぇぇ!!!本当にそうなの!?」
笹原さんを含め、魔物娘たちから驚きの声が上がった。
「い、いい、一体いつから?」
笹原さんがなおも食い下がる。悔しそうな表情を浮かべているが、そんな表情もまた美しく見える。
そして、その質問の直後に静まり返る魔物娘一同。息が合ってるな…
「…一昨日からだ。俺から告った。」
俺は吉野の表情を窺いながら言った。もちろん嘘なのだから、吉野が不利になるような発言は避けよう。
「…な、なんて告白したの?」
もはや聞く意味はないような気がするが…と思っていると、どうやら吉野も同感だったらしく、鋭く割って入った。
「も、もう十分でしょ!とにかく、私と桐原はつ、つつ、付き合ってるのよ!解ったら諦めなさい!」
そう叫んで締めくくる。相変わらず顔は真っ赤だが、表情は硬い。
そして、ぶつぶつと何かをつぶやいて肩を落としながら解散していく魔物娘たち。
その中に、さっきから姿を見なかった伊織が居た。
「へ、へぇ…なぁんだ♪彩と雄君ってそんなに進んでたんだ♪そうならそうと、彩も言ってくれればよかったのに〜♪」
伊織はなぜか戸惑っているような様子だった。しかし、陽気に笑って俺たちを冷やかし始めた。
「ひゅーひゅーお二人さん、お幸せに〜♪」
「ちょ、ちょっとやめてよ伊織!怒るわよ!」
吉野がそう言って腕を振りかぶるしぐさをする。それを見た伊織はケラケラと笑いながら距離を取った。
「お似合いだよ♪二人とも♪」
満面の笑みでそう言い残し、席へと戻っていく。そして気付いた。次は物理と生物の選択授業。生物の生徒は移動教室だ。俺と伊織は物理だからこのまま教室待機だが、吉野は生物で移動しなくてはいけない。
「あぁぁ!もうこんな時間!急がないと!もう!桐原のせいでっ…!」
いつもの表情に見えなくもないが、ちょっとだけ赤みの差した顔で俺を一睨みすると、慌てて教科書類を持って教室を出て行った。
「おいおい…俺のせいかよ…」
俺は溜息を吐きながらつぶやいた。
俺の、自分で言うのもなんだけど、波乱に満ちた一週間は、ここから始まったんだ。
俺は机に肘を突きながら、初夏の日差しの映える校庭を見下ろしていた。
体操着を着た生徒たちが、白球をあちこちで追い掛け回している。
それを見ている教員も、もう暑いくらいの時期だろうに、上下でジャージを着ている。
優雅な雲が風に流れ、遠くの音楽室からは楽器を演奏する音が聞こえる。
何の楽器かは知らないが、聞いているとどうしても、眠く…
「こらぁ!桐原!さっさと19ページの7行目から読まんか!!」
「わっ!?え、あ、はい!」
とても平和で、とても普通な日常だ。
「や〜い♪先生に怒られてやんの〜♪」
授業終了までずっと問いに指名され続けた俺の背中に軽く平手を打ち込みながら現われたこいつは、同じクラスの桜井伊織(さくらいいおり)。
衣替えしたばかりの夏服を少し着崩し、自称チャームポイントである長くてしなやかな灰色の尻尾を揺らしている。
手足も濃灰の毛を生やし、鋭くて黒光りする爪が生えている。そう。彼女はワ―ウルフだ。
「うっせ!ほっとけ!」
「あ〜ひど〜い!せっかくお昼誘おうと思ったのに…」
腕を組む仕草をしながら、ムッとした表情を浮かべる伊織。それでも、背後の尻尾はちゃっかり揺れているあたりが憎めない。
「まぁ、そう冷たい事言わずに、一緒に食べよ?」
そう言うが早いか、俺の机に隣の机をくっつけ、弁当の包みを置く。
「お、おい、まだ一緒に食べるって言ってないぞ!俺はこれから学食に・・・」
「お〜い!彩!ほら早く来なって!」
俺の言葉を完全に無視して大きな声で呼ぶ先には、不機嫌そうに眉をしかめながらこちらへと這って来る小柄な影。
そいつは俺と目が合うとさらに不機嫌そうな顔をして眼をそらした。
彼女は吉野彩(よしのさや)。濃灰の鱗に覆われた下半身はしなやかで艶があり、何かにつけては弄る癖のある長い髪は二つに束ねられ、先っぽでは蛇たちがあっちへこっちへとうごめいている。彼女はメドゥーサだ。
「あ、あら?桐原も一緒なのね。」
俺たちの傍へ這って来ると、吉野は綺麗な緑色の眼を泳がせながらそんなことを言った。
心なしか顔が赤い気がするが、突っ込まないでおこう。
「なんだ?不満か?ならいいよ。俺は一人で食うから・・・」
俺がそう言うと、伊織が慌てて何かを言おうとしたが、その前に吉野が遮った。
「ち、違っ・・・そんなこと言ってないでしょ?いいからあんたはそこに座りなさい!」
「お、おう・・・」
俺は促されるままに席に座った。横では伊織が何かを期待するような視線を吉野へと注いでいる。
「い、伊織も早く座る!時間がもったいないわ。」
そう言って俺と伊織の二人を座らせた吉野は、俺たちの囲う机の真ん中に弁当を二つ置いた。
その横で、伊織はさっさと自分の弁当の包みをほどいている。
「な、なぁ、もしかしてこれ・・・」
俺は恐る恐る目の前の弁当の片方、薄い水色の包みを指差した(もう片方は薄い紅色)。だが、俺が言いきる前に吉野はその包みを掴んで俺から遠ざけた。
「ば、馬っ鹿じゃないの!誰があんたなんかにお弁当を用意するもんですか!あんたはそこでみじめに私たちがお昼を食べる様を見ていればいいのよ!一口だってあげないんだから!」
「い、いや、まだ何も言ってな・・・」
「で、でも、桐原が、どうしてもって言うなら・・・?恵んであげなくもないわよ?」
顔を赤くしながらそんなことを言う吉野。その横で、呆れたような笑みを浮かべる伊織。
「い、いや、いいよ・・・俺、学食で・・・」
「遠慮せずに貰っちゃえば?女の子の手作り弁当なんてそうそう貰えないよ?」
箸箱から箸を取り出しながら、伊織が口をはさむ。
「ちょ、ちょっと伊織!私は別に桐原の為に作ったわけじゃ・・・」
「え?違うのか?」
「あ、当り前でしょ!!ちょ、ちょっと作り過ぎたから、誰かにあげようと思って持ってきただけよ・・・」
すかさず否定してそっぽを向きながらもごもごと言葉を紡ぐ吉野。
「だからお箸も付けてないんだよね〜♪」
その横から、伊織が楽しそうに言った。確かに、包みには箸箱特有の膨らみが無い。
「なんなら私のお箸使う?私が食べ終わった後だけど♪」
悪戯っぽい笑みの中に若干頬を赤らめながら、伊織が俺の顔の前で自分の箸をカチカチと鳴らす。よくあの手で器用に箸を使えるもんだ。
「お、おい行儀悪い・・・」
「そんなのダメ!」
俺の言葉をさえぎるように、突然吉野が大きな声を出した。
教室内でくつろいでいた数人が何事かとこちらを見るが、すぐに興味無さそうに各々の昼食や会話に戻って行った。
「ん〜♪何でダメなのかなぁ〜?」
そんな吉野に、伊織はにやにやと問いかけた。尻尾がシュルシュルと揺れている。対する吉野は、忙しなく俺と伊織の箸とを交互に見ている。頭の蛇たちも落ち着きをなくし、絡まないのが不思議なほどに激しく動きまわっている。
「だ、だって、そんなの・・・間接キスだし・・・」
かろうじて聞こえるような声で吉野が答える。俺はその言葉に顔が少し熱くなり、無意識に伊織の箸と唇に目が行ってしまった。
「ん〜?私は別に気にしないけどな〜?雄君との間接キ・ス・♪」
「いや、気にしろよ!」
「気にしなさいよ!」
とっさに突っ込んだら、意図せずして吉野と重なってしまった。吉野は驚いた顔をしてこちらを一瞬見た後、すぐに視線をそらして自分の弁当の包みに手を伸ばした。
「そ、そういうのはす、好きな相手同士でやるべきで・・・恋人でもないのに、そ、そんなことするのは、まずいでしょ!」
片手で器用に包みをほどきながら、もう片方の手で髪をいじり、うつむきながらボソボソと言葉を紡ぐ吉野。普通はこれくらい気にするのだが、伊織は本当に気にしていないようで、さらに言い放った。
「なんなら〜♪直接でもいいよ♥」
「お、おまっ!何言ってんだ?!」
「ちょ、ちょっと伊織!あんたそれ本気で言ってるの?!」
俺と吉野は同時に椅子から立ち上がって叫んだ。そんな俺に伊織は『アハハハ』と笑い、吉野の方へ向き直ると『さぁ〜?』と含みのある笑みを浮かべて答えた。
その笑みからは伊織の言葉の真偽は量れず、俺の思考はショートしそうなほどに目まぐるしくまわり、ケタケタと笑う伊織を茫然と見つめることしかできなかった。
「まぁまぁ、その話は置いといてっ!雄君?彩の作ったお弁当、食べるの?食べないの?」
「え?あ、おう。じゃ、じゃあ貰うよ・・・」
「“じゃあ”?」ギロリ
突然の質問にどもりながらも答えると、吉野は鋭い視線を俺に向けてきた。
「い、いや!貰う!下さい!欲しいです!」
一瞬で骨の髄まで石化されそうだと恐怖を感じた俺は、慌てて発言を訂正した。
「ふんっ!最初からそうやって素直に乞(こ)うていればいいのよ♪」
そう言いながら吉野は俺の前に薄い青の包みを押し出す。しかし、ここで再び浮上する問題が一つ。
箸が無い。
「あ〜…俺、学食で箸借りてくるわ…」
俺は立ち上がりながらそう言ったが、すぐに伊織に腕を掴まれて止められた。
「いいよそんなの。彩があ〜んってしてあげればいいんだもんね?」
そう言いながら吉野のほうを振りかえる。すると、吉野は爆発しそうなほど顔を赤らめ、手に持っていた箸箱を落とした。
「なっ!ななな、何言って・・・そ、そんなこと・・・するわけないでしょ!!」
裏返った声でそう訴える吉野を、怪しい笑みを浮かべて見つめていた伊織は、不意にその笑みを濃くして、自分の弁当のおかずを一つ摘むと、俺の前へと差し出してきた。
「雄君♪あ〜ん♪」
「なっ!?」
「ちょ!?」
突然のことに硬直する俺の口に伊織のおかずが迫り、驚きで開いた俺の口の中に見事に収まってしまった。
「むごっ!?」
「あぁぁぁ!!!」
そのまま伊織は満足げに笑い、箸を俺の口から引き抜いた。俺の口と伊織の箸を交互に見つめて震える吉野のほうが気になって、口に広がるミートボールの味はほとんど感じられなかった。
「いお、いおりと、きりはらが・・・か、かかか、かんせつ、きす・・・」
がたがたと震えながら小声で何かをつぶやく吉野をよそに、伊織は満足げに笑いながら尋ねてきた。
「ねぇ?おいしい?」
俺はその問いに答えるべきか、虚ろな目で思考の迷宮に陥ってしまった吉野を救出するべきか迷っていた。
すると、不意に伊織が吉野のほうへ向きなおって言った。
「あぁ、大丈夫だよ彩。まだ私、口付けてないから。」
そう言いながら、自分の口もとへ、たった今俺の口へ入った箸を持っていこうとする。
次の瞬間、目にもとまらぬ速さで何かが伊織の顔の前を通り、気づけば伊織の手に、箸は無かった。
「わっ!?」
少し遅れて伊織が反応し、すぐに横の吉野へと目を向ける。
するとそこには伊織の箸を握りしめていそいそと教室を出ていく吉野の後ろ姿があった。
「ちょ、ちょっと彩!私のお箸どこ持ってくのぉ?!」
「決まってんでしょ!洗ってくるの!」
顔だけ振り返りながらそう言い残し、吉野は廊下へと出て行ってしまった。
「あはは・・・ちょっと行ってくるね・・・」
苦笑いを浮かべながら吉野の後を追う伊織。あとに残されたのは、三つの弁当と俺だけだった。
*******
昼休みの廊下は、一階の購買部や学食へ向かう生徒たちが多く行きかっていたが、ピークの時間を過ぎ、人影も少なくなっていた。
そんな中にひとつ、小柄な影。片手に赤いお箸を握りしめながら水道へと向かうその影の主は、小柄なメドゥーサの少女だった。なぜか顔を真っ赤にして一目散に水道へ向かう様子は、ただ箸を落として洗いに来た様子とは明らかに違っている。
「はぁはぁ・・・まったく、伊織の馬鹿・・・」
水道に辿り着くと、ぶつぶつと呟きながら蛇口に手を伸ばす。しかし、その手は蛇口をひねる直前で止まった。髪の蛇たちがまっすぐに、手に持ったお箸を見つめている。
「き、桐原が、舐めたお箸・・・」
舐めたという表現にはいささか語弊があるかもしれないが、確かに彼の口に入ったのは事実。
手の中のお箸を見つめる彼女は、そっとその箸を自分の口もとへ近づけていって・・・
「彩!」
「ひゃうぅ!?」
箸にばかり気を取られていた彩は、背後から迫る伊織に全く気付かなかった。
「もぅ、私のお箸勝手に持って行っちゃって・・・って、彩?大丈夫?顔真っ赤だよ?」
あきれたような表情で彩に文句を言っていた伊織は、目の前の彩が胸に手を当てて肩で息をしていることに気がついた。
「び、びっくりした・・・」
「あはは・・・ごめん、でも、そんなに驚かなくても・・・あれ?」
放心したような彩の手に、いまだ洗われていない自分の箸を見つけ、怪訝そうな顔をする伊織。
「ねぇ彩?もしかして、そのお箸、舐めたの?」
「っ!?(ギクッ)」
伊織の鋭い観察力にビクッと肩を弾ませる彩。
「ち、ちがうの!まだ″舐めてなんかいないわよ!・・・はっ!?」
「ほほ〜ぅ、いずれは舐めるつもりだったと・・・?」
「ち、ちが!」
リンゴのように顔を赤らめて慌てて否定する彩。紙の蛇たちもせわしなくあちこちへ伸び回っている。そんな彩をにんまりと笑みを浮かべて見つめる伊織。
「でもさぁ、私のお箸でやらないで、自分のお箸で雄君に食べさせてから、家でじっくり舐めればいいんじゃない?」
「だ、だから違うって言ってるでしょ!!」
「私だったらそうするけどなぁ〜♪」
伊織がニヤニヤしながら言ったその言葉を聞くと、彩はすばやく振り返って箸を洗い始めた。
「ウソウソ♪冗談だってば♪」
伊織のその言葉に、彩はぴたりと動きを止めて振り返った。手からいくつもの水滴が滴るが、全く気にする様子はない。
「じゃあ、伊織?さっきの言葉は?本気?冗談?」
「へ?さっきの言葉って?」
さっきまでとは違い、急に静かな物言いになった彩に驚きながら、伊織は尋ね返した。
「さっきの、桐原となら、キ、キスしてもいいって言葉・・・」
言いながら、伊織を見上げるその目は鋭く、親友である伊織も思わずたじろいでしまった。
「あ、あぁ、あれね。冗談だよ。冗談。雄君はいい人だけど、彩の好きな人を横取りなんてしないよ。」
笑顔でそう答える伊織に、ようやっと彩は視線をそらした。
「そ、そう・・・って!べ、別にあいつのことなんか好きじゃないわよ!」
そう叫ぶと、プイっと振り返り、再び箸を洗い出す彩。その後ろ姿を見ながら、伊織はふと表情を曇らせた。
「冗談・・・だよね・・・」
そっと自分の心臓を抑えるように手を添えた伊織。
心がすこし、チクリと痛んでいた。
*******
「にゃっほ〜♪伊織居る〜?お!?雄大ぃ!今日はお弁当なのかにゃ?」
廊下へ出て行った二人を待っていると、二人が出て行った反対のほうの入り口から、陽気な声が聞こえた。
「おぅ、日向。伊織なら水道に行ったぞ。何か用なのか?」
俺の姿を見つけるなりいきなり駆け寄ってきたこいつは、隣のクラスの友達で、伊織のライバルでもある春野日向(はるのひなた)。
かわいらしいピンクの肉球がついている手だけは真っ白な毛に覆われ、茶色の毛に覆われている頭の耳はピンと立っている。
ふさふさの毛に覆われた尻尾は先端だけ白く、あとは茶色い。彼女はワーキャットだ。セミロングの髪を揺らし、鈴のついた薄紫の和風なリボンをつけている。
手にはおそらく購買で買ったのだろう、五目チャーハンの入ったプラスチック容器を持っていた。
「いいや。別にいいにゃ。雄大に会えたからそんなのどうだっていいにゃ♪・・・んにゃ?雄大?このお弁当は誰のかにゃ?」
無遠慮に俺の腕に頬擦りをする日向を押しとどめながら苦笑いしていると、不意に日向が机上の弁当を指さして(肉球で指示して)尋ねてきた。
「あぁ、これな、吉野が弁当を作りすぎちゃって、誰かにあげようと思って持ってきたらしいんだが、箸を持ってきて無くてな?今、学食で借りてこようかと思っていたところなんだ。」
「ふ〜ん・・・。あっ!にゃら!私のお箸をあげるにゃ♪」
思いついたように自分の手の中の五目チャーハンの容器の上に輪ゴムで止められた割り箸を差し出してくる日向。
「え?でも、いいのか?お前どうやって食べるんだよ?」
俺はそう言いながら日向の手の中の五目チャーハンを指さした。すると日向はスカートのポケットから銀色のスプーンを取り出した。
「購買は不親切にゃ。私がお箸を使えないのを知っていて、わざと割り箸を付けてくるんだにゃ・・・いじわるにゃ。いやがらせにゃ・・・だから私はこうしてMyスプーンを持ってきてるんだにゃ。」
眉をしかめながら割り箸を見つめ、Myスプーンを誇らしげに掲げる日向。
「なるほど。それじゃ、遠慮なく貰っちゃおうか。」
俺はそう言いながら日向の差し出す割り箸を受け取った。
乾いた音とともに割れる割り箸は、上のほうに偏り、鋭く裂けるような形になってしまった。ちょっと不吉だ。
「おい雄大!お前もやるか?」
「んぁ?」
弁当のふたに手をかけたところで、赤と白と緑色の変った模様のボールを小脇に抱えたクラスメイトの男子に声をかけられた。
弁当の中身のことを考えていたので、変な声で返事をしてしまった。あいつが抱えているのはバレーボールか。
「おお、そうだったにゃ。期末テストが終わったら球技大会があるにゃ!」
そのボールを見て、日向は尻尾をピンと立たせて反応した。
うちの学校では期末試験が終わったすぐ後に、学年ごとの球技大会が行われる。確か今年の三年はバスケットボール。一年はサッカー。そして俺たち二年はバレーボールだ。
男子は全員強制参加。だが、野球部やサッカー部なんかが部活動の大会で出られなかったりと、有力選手が欠けたりして、戦力はどのクラスも乱れる。
だが、なぜか女子は強制参加ではなく、魔物娘も含めて自由参加である。生徒会を含め教師一同は『決して差別ではない!』と言っているが、どうなのだろうか?
ちなみに、日向と伊織は現役の女子バレーボール部員だ。ライバルとはそういうことだ。
「練習か。気合入ってんな。」
「おうよ。負けられねぇぜ!春野!お前のクラスにはぜってぇ負けねぇからな!」
体育館履きを肩に担ぎ、小脇にボールを抱えた格好で啖呵を切る。
「フフフ♪せいぜい吠えるがいいにゃ♪力の差を見せつけてやるのにゃ!あんたらにゃんか私一人でコテンパンに叩きのめしてやるのにゃ!」
バレーボールは球技であって格闘技ではない。コテンパンにするという表現はちょっと違うような気が・・・まぁいいか。
「さぁ雄大!同志よ!いざ行こう!体育館(戦場)へ!」
「あ、悪い、これ食ってから行くわ・・・」
張り切っているところ悪いが、俺は今弁当を食べているのだよ。というかお前、飯はどうしたんだ?
「そうか。待っているぞ!」
そう言い残して教室を駈け出して行く。テンションの高い奴だ。
「お待たせ〜って、日向!?何してんの?」
気を取り直して弁当に向きなおったところで、伊織と吉野が戻ってきた。伊織の手には水道で洗ったのだろう箸が握られていた。
「あら?律儀に私たちが戻ってくるまで待ってたのね。」
いまだ弁当に手をつけられていない俺に、吉野がそっけなく言った。
「あれ?雄君?そのお箸は?」
席に座った伊織が早速俺の持つ割り箸に気付いた。
「あぁ、日向にもらったんだよ。」
「ふぅ〜ん・・・使用済み?」
「ぶっ!?」
伊織の言葉に、隣で飲み物を飲んでいた吉野が噴出した。ケホケホとむせている。大丈夫だろうか?
「ちげーよ。日向は箸が使えないから、俺にくれたんだよ。」
「そうにゃ。でも、そうだったにゃ〜・・・どうせなら使った後に渡せばよかったにゃ・・・」
「お、おいおい・・・」
なんやかんやとやり取りをしつつ、ようやっと全員席について、弁当を食べることができた。
「おお、美味いな。吉野は普段も料理するのか?」
吉野が分けてくれた弁当の中には、数々のおかずがきれいに収まっていた。どれも丁寧に作られたことが分かる。
「な、何よ?悪い?」
感嘆の声を漏らす俺に、表情をしかめながら答える吉野。
「いや、そんなこと言ってないって。家庭的な面があるんだな〜って思っただけだよ。」
「ふんっ!褒めても何も出ないんだからね!」
そう言ってそっぽを向いてしまう吉野。しかし、髪の蛇たちは緩やかに動きながら、そろってこちらを凝視していた。
そのあと、弁当を食べ終えると、体育館に顔を出した。体育館ではほかのクラスの連中もボールを囲んで練習していた。
実は俺も、中学時代はバレーボール部に居た。と言っても、補欠だったのだが。
そんなことを考えているうちに、ボールがこっちへ飛んできた。俺は半分反射と言えるような速度で反応し、前のめりになりながらもレシーブで返した。
割と低空飛行なボールはそれでも届いたらしく、ほかのやつらの輪の中で再び飛び交い始めた。
「おお、雄君上手いんだね。経験者?」
すかさず伊織が尻尾を振りながら声を上げた。
「まぁ、ちょっと齧ったぐらいだ。」
中学と高校ではボールのサイズが違う。俺の経験も、どこまで通用するか。まず、伊織や日向のような現役の人たちには勝てないだろう。
だが、懐かしさが込みあげてくる。女子バレー部のかわいい子に、惚れていたっけなぁ・・・
「お?来たか雄大。」
さっきの男子生徒が輪から外れてこっちへ来た。
「ちょうど四人だし、二人ずつ分かれるか。」
俺が提案すると、伊織と日向はすばやく見つめあった。
「にゃら、私は雄大と組むにゃん♪」
先に動いたのは日向だった。俺の腕にしがみつき、そう宣言した。しかし、すばやく伊織が手を伸ばし、日向の後襟をつかんで引き剥がした。
「あんたはこっち!私、日向と組むね。」
そう言うと、比較的女子の多いチームの方へと行ってしまった。日向が何か言おうとするが、口を押さえこんで引きずっていく。
「し、仕方ないわね・・・あんたと組んであげるわよ・・・」
吉野がそう言いながら少しだけ近づいてくる。
「お、おう、じゃあ行こうか。吉野、スポーツ苦手じゃなかったか?」
「う、うっさい!こんなのどうってことないわよ!」
俺の心配を一蹴して、先に行ってしまう吉野。俺は苦笑しながらあとを追った。
「あ″あ″ぁ・・暑い・・・痛い・・・」
「あはは。雄君大活躍だったもんね。あんなに飛びこんで、制服に穴あいてるんじゃないの?」
午後の授業の予鈴が鳴り響く教室。ひと足早く戻ってきた俺たちは、教室で寛いでいた。
日向や伊織がいるからと言って、バレーボールはチーム競技なわけで、それはこっちのチームも同じで、初心者の生徒が拾い損ねたボールを、経験者が持ち直すという場面が多くみられた。
まるで野球のヘッドスライディングのように、頭から突っ込んで手を伸ばすような、肝を冷やすプレイ。
俺は何度もそう言った滑り込みをやり、あちこち床にぶつけるわ擦るわで、満身創痍だ。おまけに汗もダラダラ。シャワーでも浴びたいが、そんな贅沢は通らない。
「ほら、使いなさいよ。」
既にびしょ濡れの制服の袖で汗を拭う俺に、水色のタオルが差し出される。
吉野が、顔を赤らめながらそれを差し出していた。
「いいのか?俺の汗付くぞ?」
俺はためらいながら尋ねた。
「後でクンカクンカするんだよねぇ〜♪」
横から伊織が口をはさんだ。
「しないわよ!そんなの、へ、変態じゃない!」
「変態にゃ・・・彩ちゃんは変態だったのにゃ・・・」
「違うって言ってんでしょ!!」
にぎやかに、午後の授業を迎えた。
「あ〜疲れた〜」
家に帰り、ベッドに飛び込みながら一息。
冬だったらとっくに暗くなってる時間なのに、外はまだ明るい。
不意に、部屋のドアがノックされた。
「お兄ちゃんお帰り。入るよ?」
「あぁ・・・」
ドアを開けて入ってきたのは、妹の華憐(かれん)。華憐も俺も、同じ親から生まれた正真正銘の兄妹だ。(そこ!舌打ちしない!)
「ご飯の用意するんだけど、その間にお風呂洗っててくれる?お父さんもお母さんも、今日は帰り遅いらしいから。」
「あいよ。何時に帰るって?」
「わかんない。夜中になるとか。」
「あぁそう。」
うちの両親は共働きで、平日は夜中に帰ることもしばしば。そんなだからか、華憐はいつの間にか料理のスキルを身につけ、よく作るようになっていた。
「手、抜かないでよ?きれいに見えてもぬるぬるしてたり・・・」
「わ〜ってるよ。」
俺は起き上がりながら答えた。
「あ〜ごちそうさま。今日も美味かったぞ。」
俺は箸を置きながら言った。華憐はそんな俺の食器を持って台所へと向かう。
文句ひとつ言わずに食器を洗い出す華憐。我が妹ながら、できた妹だ。たまには少し、手伝ってやるか。
「なぁ華憐?たまには手伝ってやろうか?」
「わひぇ!?い、いいよ!いいからお兄ちゃんは早くお風呂入ってきて!」
俺が台所の暖簾をくぐりながら声をかけると、華憐は肩を弾ませて驚いた。顔の前に俺の箸を持って固まっている。俺の立っている場所からは、華憐の体の陰になって見えない左手がごそごそと動いていた気がするが、気のせいだろう。
「何してんだ?俺の箸に何かついてるのか?」
そこまで言って、ふと今日の昼のことが頭をよぎる。
『だ、だって、そんなの・・・間接キスだし・・・』
『私は別に気にしないけどな〜?雄君との間接キ・ス・♪』
俺の箸を持って固まる華憐。まさか、お前・・・
「お前まさか、俺の箸、舐めてるのか?」
「はぁぁ!?ばっかじゃないの!?お兄ちゃんの変態!死んじゃえ馬鹿ぁ!」
言ってから気づいた。なんてことを訊いているんだ俺は。こりゃ変態呼ばわりされても文句言えないぞ・・・
「わ、悪い!今のは忘れてくれ!」
叫びながら手に持っていた俺の箸を投げつけてくる華憐。俺はその鋭い一撃をかわし、風呂場へと逃げ込んだ。
二日後
月曜日という響きはこうも容易く活力を奪うものだったか。
俺は寝ぐせ直しの水でびしょびしょになった頭をなでながら鞄を担いで玄関を出た。華憐が後に出るから鍵は大丈夫だろう。
今日はなんだか奇妙だ。道行く魔物娘の視線が多い気がする。
スーツ姿のアヌビスやおしゃれな格好のサキュバス。みんな、普通に通学する俺を見るなり、じっと凝視している。
自意識過剰とかそんなレベルじゃない。
電柱の上で地図を広げていた配達員のハーピーだって、俺を見るなり固まってしまって、風に飛ばされて地図が手から離れても、全く気付いていない。
一体どうしたというんだ?俺の顔に何かついているのだろうか?
俺は道のわきにある喫茶店のガラスに映った自分を歩きながら見てみた。特におかしなところはないようだが・・・襟が立っているわけでもない。そうしていると、喫茶店の中でウェイトレスをしていたホルスタウロスと目があった。
彼女は俺と目が合うと口をぽかんとあけ、運んでいた食器類の乗ったお盆を取り落とした。
外に居ても小さく音が聞こえてくるような大きな音がたったが、当の本人は胸の前で手を握って俺を見つめている。
急いで駆け寄ってきた責任者と思しき女性も、俺に気付くと少し驚いたような顔をして、落ちた食器を拾い集め出した。(紅い目と派手な髪飾りから、おそらくヴァンパイアだ。)その間も俺をちらちらと見ていたが、俺が角を曲がり、お互いに見えなくなった。
「…どうなってんだ?…嫌な予感がするぜ…」
俺は胸騒ぎを覚えつつも、学校への足を速めた。
何とか学校へたどりついた。魔物娘たちからの何とも言えない視線をかいくぐり、俺の背中は嫌な汗でべっとりだ。
俺は肩にかけていたカバンをおろしながら教室へ入った。すぐに、俺の席の左斜め前に座る吉野の姿が見えた。吉野もこちらへ気付いたようで、俺は手を上げながらあいさつした。
「おはよう吉野。珍しく早いな?」
俺の言葉に少しむっとした表情を浮かべて、何か言い返そうとした。
「うっさいわね馬鹿!私だってたまには…」
しかし、最後まで言い切る前に、俺と吉野の間を遮り、クラスメイトの笹原美恵さんが声を掛けてきた。
「おはよう桐原君♪」
黄金の良く手入れされた二本の尻尾を揺らし、大きな耳をひょこひょこと揺らしている。
彼女は妖狐だ。笹原さんはずいっと俺に顔を近づけると、かわいらしいお鼻をスンスンと鳴らして俺のにおいをかいだ。
「桐原君、今日はなんだかすごくいい匂いだね。こんなおいしそうな匂いしてたら、私、食べちゃうかも♪」
「あ、あの?笹原さん?や、やめ…」
紅潮した顔をさらに寄せてくる笹原さんを押しのけようとしていると、背後から別の声が聞こえた。
「おはよう、桐原君♪」
「わっ!?」
驚いて振り返ると、視界に飛び込んでくる褐色の翼。声を掛けてきたのは、ハーピーの朝霧飛鳥さん。
「ねぇどうしたの?今日はなんだかいつもと違うよね?そんなに魅力振りまいて…誘ってるの?」
「は?え?いつもと違うって・・・?」
いつもと違うのはお前らの方だと言いたいが、混乱している頭を整理する方が優先だ。
一体どうなっている?誘ってるってなんだ?俺、なんか変なことしたか?
「桐原くぅん♪」
「のわぁっ!?」
硬直していたら、背後でおとなしくしていた笹原さんに後ろから抱きつかれた。なんだかいい匂いがするうえに、背中に押しつけられる二つのふくらみ。け、結構でかいぞ・・・
「あぁ!ずるいよ美恵!」
そう言いながら正面から俺に抱きつこうとする朝霧さん。それを押しのけようと、俺の肩越しに手を伸ばして朝霧さんを俺に寄せ付けまいとする笹原さん。
しかも、二人に気を取られているうちに、いつの間にか俺たちの周りには魔物集(だか)りができていた。
全員眼をギラギラとさせて、頬を紅潮させているあたり、先に迫ってきた二人と同じだろう。
「やめてくれ二人とも!一体何なんだよ?朝からドッキリか何かか?」
俺は後ろに張り付く笹原さんを振りほどきながら言った。もがいている最中に、何かを叫んでいる吉野がチラリと見えたが、すぐに見えなくなってしまった。
俺を囲む魔物娘たちは、口々に俺の名を呼んではいやらしい笑みを浮かべて迫ってくる。
やばい、俺、今日死ぬかも・・・。
あちこちから伸ばされる腕に掴まれながらそんなことを考えていると、どこからか、だれかの叫び声が聞こえた。何かを叫んでいるが、よく聞こえない。
その直後、魔物娘集りの一角からまばゆい光が上がった。
何だと思う間もなく、光の上がった方向から順に、魔物娘たちが石膏のような石に変わり始めた。
俺は瞬時に身の危険を感じ、その場にうずくまった。そんな俺の周りで、魔物娘たちが石化していっているのが気配で分かった。
「桐原ぁぁぁぁ!!!」
誰かが叫びながら近づいてくる。
この声は、吉野?
俺は恐る恐る起き上がった。しかし、起き上がった瞬間に何かに首をひっかけられ、すごい力で引っ張られた。
「うごぉ!?」
そのまま数メートルを引きずられた。まずい。呼吸ができない!このままじゃ窒息…
「馬鹿!桐原の馬鹿!死んじゃえアホぉ!なに鼻の下伸ばしてんのよ馬鹿!変態!あんたはねぇ!あんたは…私の…っ!私の…」
頭の上から声が聞こえる。
吉野が俺を羽交い絞めにしているのか?っていうか、近いくせに声がでかくて、うるさい。
そんなことを考える間もなく、俺は限界に達した。
足に力が入らない!
これじゃ立ち上がって振りほどくこともできない!
あぁ、意識が…
目を開けると、見慣れない天井が広がっていた。ぼんやりする頭が覚醒してくると、寝かされていることが分かった。
「…んぅ?」
俺は起き上がりながらうめいた。どうやらここは保健室らしい。ベッドの周りをカーテンが仕切っている。
と、突然カーテンが開かれた。その向こうに立っていたのは、学校で名前を知らない先生の代名詞、養護教諭の白石先生だ。なぜ名前を知っているのかって?昔よく来たんだよ。保健室に。
真っ白な白衣を纏う体は、普通の女性よりも高く、下半身は真っ白な体毛に覆われた馬の体になっている。
額から伸びた乳白色の鋭い角は、魔力を帯びて神々しく見える。
先生はユニコーンだ。
「あら、起きたのね。気分はどう?」
先生はするりと俺のベッドの傍へ寄りながら尋ねてきた。
「お、おはようございます…何があったんですか?」
俺はちょっと緊張しながら挨拶をし、状況を尋ねた。確か俺は教室で魔物娘たちに囲まれて…
「それはこっちが訊きたいわ。あなた、何も覚えてないの?」
先生はあきれたような顔で尋ね返してきた。
「覚えてる…ええと…吉野…そうだ!白石先生!吉野…俺のクラスメイトの、吉野彩はどこですか?気を失う寸前、アイツに締めあげられて…」
身を乗り出しながら尋ねる俺の顔の前に、先生はスッと手を出して止めた。
「なるほどねぇ…まぁいいわ。とりあえず、今は休みなさい。もう一時限
目は始まっているの。休み時間に教室へ戻りなさい。欠課になっちゃうけど、途中で戻ってこられる先生も、大変でしょうからね。」
それだけ言って、先生は出て行ってしまった。なるほどって、一体何に納得したんだよ?
そんなことは口に出せず、俺は悶々としたまま再び横になった。
しばらく横になっていると、チャイムが鳴った。
俺はいそいそとベッドから降りて、乱れてしまったシーツや掛け布団を直し、制服の乱れを直してカーテンを開けた。
「あっ…」
そこには、息を切らした吉野が居た。吉野は出てきた俺を見て驚きの表情を浮かべていたが、すぐにいつも通りの不機嫌そうな表情に戻った。
「よ、よう…」
「えぇ…」
俺がどもりながらも挨拶をすると、吉野は一瞬肩を弾ませたが、勤めて平常を装って返してきた。
そこで少しの沈黙が垂れこめる。俺は頬を掻きながら吉野を見る。吉野も気まずそうに下を向いている。顔がかなり真っ赤なのはどうしてだろうか?
「ほぉら、吉野さん?桐原君に言うことがあるんじゃない?」
そんな俺たちの沈黙を、白石先生が破った。俺は先生の言葉を受け、吉野へ注目する。すると、吉野は顔を俯かせてしまった。しかし、髪の蛇たちは普段よりも大人しく、こちらを凝視している。そして、不意に吉野は顔を上げ、ばつが悪そうな表情で言った。
「桐原!あの…ごめんなさい…首、締めちゃったわね。痛かったでしょ?ほんと…ごめんなさい…」
いつもと違ってしおらしい吉野の様子が新鮮だった。
「あ、あぁ、いいんだ。もう…」
そんな吉野に俺は責める気になれず、容易く許してしまった。
だが、どうやら本当に反省しているようだ。理由は知らないが、まぁいいだろう。
そこでふと、気絶する直前の記憶がよみがえってくる。確か吉野は何かを言いかけていなかったか?
「な、なぁ?吉野?お前、俺が気絶する直前に、何か言いかけてなかったか?」
俺の問いかけに、吉野自身も、髪の蛇たちもビクッと反応した。俯いていた顔を一気に上げ、驚きの表情で俺を見る。
「桐原…もしかして、覚えてないの?」
尋ねてすぐ、悲しげな表情に変わる吉野。俺はなんだかよくわからない罪悪感に苛まれて、固まってしまった。そんな俺を見て、吉野は一気に怒りの表情を浮かべた。
「馬鹿!桐原の馬鹿!最低!もう知らない!」
そう叫んでそっぽを向いてしまう吉野。
「あらまぁ…」
そんな吉野と俺を見て、呆れたような笑いを浮かべる先生。笑えませんよ、まったく…
「すまん、吉野。だって、あんな状況じゃ聞こえるものも聞こえないだろう?悪かったよ、だからもう一回言ってくれよ?」
「絶対嫌!二度と言わない!」
あぁ、ダメだこりゃ…完全に怒ってる。
「コホン…とにかく二人とも、早く教室に戻って授業の準備をしなさい。」
先生の言葉で、俺たちは保健室を後にした。教室までの道中、吉野はずっと不機嫌なままで、話しかけようとしても鼻であしらわれてしまった。
「雄君!彩!お帰り!大丈夫?」
教室に入ると、伊織が駆け寄ってきた。
「おう、伊織。心配してくれたのか?ありがとな。大丈夫だ。」
「あはは、彩もすっごく心配してたもんね?泣きそうになって倒れた雄君の顔を覗きこんdむぐっ!?」
伊織が笑いながら話しだすと、目にもとまらぬ速さで吉野が伊織の口を塞いだ。その顔は真っ赤で、今にも発火して燃えだしそうだ。
「余計なことは言わなくていいの!」
吉野が伊織の耳を食いちぎらんばかりに顔を近づけて言った。
「ハハハ…なんだ、吉野も心配してくれてたのか。」
「違っ…黙りなさい馬鹿!」
ちょっとからかうつもりで喜んでみたら、割と強めにしっぽで腕をはたかれた。いてぇ…
「お帰り。桐原君♪」
そんな俺たちを取り囲むように集まってくる影。魔物娘たちだ。今度は他クラスまで居る。
「な、あんたたち!諦めたんじゃなかったの?!」
その魔物娘たちに、吉野は鋭い眼光と怒声を浴びせる。諦めたって何だ?
「う〜ん…一度は納得したんだけどねぇ?」
近くに居たレッドスライムの子が口を開いた。次に、その隣のラミアが口を開いた。
「吉野さんの言葉だけじゃいまいち信用に欠けるのよね。こういうのは二人揃っての問題なんだから、桐原君本人にも訊かないとねぇ?」
そう言いながら舌なめずりをする。そうだそうだ!と周りの魔物娘たちからも声が上がる。
状況が呑みこめない。なんだ?二人揃っての問題?
「ねぇ桐原君!答えて!…」
魔物娘たちの視線が突き刺さる。
「桐原君と吉野さんって、本当に付き合ってるの?」
「…はぁ?」
俺はあまりに予想外の発言にあいた口がふさがらなかった。そんな俺の横で、吉野は顔を真っ赤にして慌てふためいている。
「朝、吉野さんが言ってたよね?『あんたは私の恋人なの!』って。それって本当なのかな〜?って。」
何の話だ?俺はそんなこと一言も…
そこでふと、気絶する寸前に吉野が言いかけてたことを思い出す。肝心な部分を聞かずに気絶しちまったのかよ…俺…
「お、おい、吉野?どういうこt―――」
俺は問いただそうと吉野の方へ向き直った。しかし、言いきる前にすごい速さと力で襟を掴まれ、引っ張られた。
「(うんと言いなさい!はいでもいいわ!何も考えずにとにかく肯定すればいいのよ!わかった?!)」
周りの魔物娘たちに聞こえないように、吉野は俺の顔を引き寄せて小声で言った。
「(ちょっと待てって!何がどうなってるんだよ?俺はお前とは…)」
付き合ってなんかいない。そう言いかけて、吉野の眼を見た。その目に、何か違和感を感じた。
「(な、なによ?)」
吉野は怪訝そうな顔で俺を見ている。
「あ〜?なにを二人だけで話してるのかなぁ?」
声を上げたのは、朝俺に襲いかかってきた笹原さんだった。その言い方はからかうようなものだったが、目はしっかりと俺をとらえていた。
指摘された俺たちは屈んでいた体勢からすばやく身を起こし、笹原さんの方へ向き直った。
横目で吉野が何かを訴えかけるような目線を送ってくる。そんな目にもやはり違和感がある。
「それで〜?どうなのさ?き・り・は・ら・くん♪」
笹原さんは色っぽく猫なで声で尋ねてきた。
ここは信じるしかない。俺は心の中で祈りながら口を開いた。
「…あぁ。本当だ。俺と吉野は付き合ってる。」
俺は必死に眼だけで意思を伝えようとする吉野をチラッと見ながら言った。
吉野は一瞬爆発しそうなほど顔を赤らめたが、何かをこらえるように震えながら俯いていた。
これは賭けだ。俺は吉野を信じる。
今朝からいきなり魔物娘たちが寄ってくるようになった。
今だって、他クラスの魔物娘までも寄ってきている。
それは、同じ魔物娘である吉野も(伊織もだが)同じはず。
だが、他の魔物娘たちとは違い、吉野とはだいぶ前から親しい仲だ。普段から、吉野は俺にそっけない態度を見せているし、メドゥーサという種族を考えると、他の魔物娘よりも幾分か安全なはずだ。
こうして、このまま吉野と付き合っていることにしてしまえば、他の魔物娘たちはもう寄っては来ないはず!
俺は頭の中で吉野に土下座をしながら嘘をついた。声も震えていないし、嘘だとばれはしないだろう。
「えぇぇぇ!!!本当にそうなの!?」
笹原さんを含め、魔物娘たちから驚きの声が上がった。
「い、いい、一体いつから?」
笹原さんがなおも食い下がる。悔しそうな表情を浮かべているが、そんな表情もまた美しく見える。
そして、その質問の直後に静まり返る魔物娘一同。息が合ってるな…
「…一昨日からだ。俺から告った。」
俺は吉野の表情を窺いながら言った。もちろん嘘なのだから、吉野が不利になるような発言は避けよう。
「…な、なんて告白したの?」
もはや聞く意味はないような気がするが…と思っていると、どうやら吉野も同感だったらしく、鋭く割って入った。
「も、もう十分でしょ!とにかく、私と桐原はつ、つつ、付き合ってるのよ!解ったら諦めなさい!」
そう叫んで締めくくる。相変わらず顔は真っ赤だが、表情は硬い。
そして、ぶつぶつと何かをつぶやいて肩を落としながら解散していく魔物娘たち。
その中に、さっきから姿を見なかった伊織が居た。
「へ、へぇ…なぁんだ♪彩と雄君ってそんなに進んでたんだ♪そうならそうと、彩も言ってくれればよかったのに〜♪」
伊織はなぜか戸惑っているような様子だった。しかし、陽気に笑って俺たちを冷やかし始めた。
「ひゅーひゅーお二人さん、お幸せに〜♪」
「ちょ、ちょっとやめてよ伊織!怒るわよ!」
吉野がそう言って腕を振りかぶるしぐさをする。それを見た伊織はケラケラと笑いながら距離を取った。
「お似合いだよ♪二人とも♪」
満面の笑みでそう言い残し、席へと戻っていく。そして気付いた。次は物理と生物の選択授業。生物の生徒は移動教室だ。俺と伊織は物理だからこのまま教室待機だが、吉野は生物で移動しなくてはいけない。
「あぁぁ!もうこんな時間!急がないと!もう!桐原のせいでっ…!」
いつもの表情に見えなくもないが、ちょっとだけ赤みの差した顔で俺を一睨みすると、慌てて教科書類を持って教室を出て行った。
「おいおい…俺のせいかよ…」
俺は溜息を吐きながらつぶやいた。
俺の、自分で言うのもなんだけど、波乱に満ちた一週間は、ここから始まったんだ。
16/07/31 00:56更新 / ウカナ・N・アクナス
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