自由を欲したブタ娘
「何処に行ったっ。早く見付けだせ!」
「あのブタ女め……手間かけさせやがって! 見付けたらリンチにしてやる」
「おい、仮にも商品だぜ。傷つけるのはまずいだろ」
「とにかく探せ。その商品に逃げられたなんて上に知られたら、俺達がボコボコにされちまう」
黒服に身を包んだハンター達の苛立ちが、夜の路地裏に響き渡る。
悪臭を放つゴミ箱の陰に身を竦めながら、あたしはじっと彼らの会話に聞き耳を立てていた。
(……ふん。良い気味ね)
呼吸さえも躊躇うような緊張感に包まれながら、あたしは小さくほくそ笑む。
(あんた達みたいに脆弱な人間なんかが、あたしを好き勝手できるわけないじゃない)
せいぜい朝日が昇るまで無駄に街中を駆けずり回っていれば良いのよ。魔物を捕獲して高値で売り捌こうなんて、そんな外道にはちょうど良い罰ゲームだ。
あたし達オークは、魔物娘の中でも指折りの狡賢さで有名な種族だ。人間のちょっとした隙を突いて檻から脱走する事なんて、それこそ赤子の手を捻るようなもの。このまま夜闇に紛れて街の外まで逃げてしまえば、再びあたしは自由の身を手に入れられる。
おっぱいの奥で早鐘の如く打ち鳴らされる心臓の音を数えながら、あたしは身動きひとつせず追手の足音が何処かに立ち去っていくのを感じていた。
ああ……自由!
なんて素晴らしい言葉なんだろう。こんな人間だらけの街になんて、1秒たりとも居たくない。早く静かな山奥に帰って、馬鹿な旅人をレイプしたり行商人の馬車を襲ったりと好き勝手できる最高の日常に戻らなきゃ。狭苦しい檻の中に無理やり押し込まれた時には人生の破滅も覚悟したけれど、運はまだあたしを見放してはいなかった。
(まずは……何処かで食糧を手に入れないとね)
捕獲されて以来、あたしは碌に食事を摂らせて貰っていない。そうする事で逃げ出そうとする体力をじわじわ奪おうという腹黒い人間の計略なのだ。最後の力を振り絞って脱走したは良いものの、そろそろ何か食べなければ流石のあたしも限界だった。
(まずいな……体が重い)
ふらつく頭を押さえながら、あたしはそっと動き出す。けれどもあたしの意志に反して、両足は上手く動いてはくれなかった。手際よく脱走を果たした安堵感が、今まであたしの体を動かしていた気合と根性を霧散させてしまったらしい。
早く、早く逃げ出さなければ。
再び捕まってしまう恐怖に身を震わせながら、あたしは這いずるようにして緩慢に歩を進めていく。栄養失調で悲鳴をあげる肉体に鞭打ちながら、ほんの数メートル先まで距離を稼ぎ――。
そしてとうとう、あたしの体は踏み固められた冷たい地面に倒れ伏してしまった。
(冗談じゃない!)
こんなところで意識を失うなんて、笑い話にもならない三流のシナリオだ。
(お願いだから動いて。動いてよあたしの体……ッ!)
どれだけ歯を食いしばっても、瞼はどんどん重みを増していく。全身の筋肉は弛緩してしまい、まるで泥沼に沈んでいくような薄ら寒い感覚があたしの脳内を侵していく。
「く……そぉ……ッ!!」
霞んでいく、視界。
殆どおぼろげな視線の先に、うっすらと人影が見えたような気がした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「おいシェツカ。少し外すぜ、休憩室に居るから暫く料理のほう頼む」
「はいはーい――ってうわ、店長なんですかその魔物!」
(あれ……)
「生ゴミ捨てにいこうとしたら、裏口で倒れてやがった」
「はー、行き倒れですかね。トムスン先生に診せますか?」
(……声が聞こえる)
「いや、軽い栄養失調みてぇだ。何か適当に食い物だけ用意してやってくれ」
「了解でーす」
(あたし……どうなったんだろう)
「あ、店長。いくら可愛い女の子だからって襲わないでくださいよー?」
「誰が襲うか、阿呆」
(おそ、う?)
(………………やばい!)
物騒な単語が、あたしの意識を即座に覚醒させる。
かっと目を見開くと――あたしは、柔らかなベッドに横たえられていた。
ここは……何処だろう。
見慣れない小部屋だった。乱雑に積み上げられた木箱や樽で、随分とごちゃごちゃした印象がある。壁にはびっしりと棚が組まれ、皿やグラスといった食器がたくさん並んでいた。ランプの灯りに照らされてオレンジ色に染まった鍋や包丁などの調理器具が、未だぼやけたあたしの瞳にどこか妖しく映り込む。
「おう。目ェ覚めたか」
すぐ傍で、野太い巌のような声がした。
ゆっくりと、視線を声のした方へとずらす。
――そこには。
「のわひゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
丸太ほどもある腕! 天井に届くかと思うくらいの巨体! 全身を覆う筋肉の鎧! 所々に血の付着した物騒なエプロン! 悪趣味な色柄物のシャツ! 何処からがヒゲで何処からが髪か解らない毛むくじゃらの顔! 視線だけで子供くらいなら殺せそうな鋭い目付き! しかも右目には縦に大きな古傷が刻まれ、黒革の眼帯で覆われている始末!
怪力自慢のミノタウロスさえ真っ青になって逃げ出しそうな外見の中年男が、『食卓を豊かに彩る肉料理レシピ集』と銘打たれたマニュアル本を片手に、あたしを真っ直ぐ見下ろしていた。
(この人間……っ……やばい!!)
あたしは直感的に断定した。
このオヤジ、堅気の人間じゃない。マフィアのボスか山賊の親分か……とにかく暗い裏稼業を生き抜いてきたであろう強烈な迫力が全身から湯気のように発散されている。特に危険なのはその隻眼。あれは殺し屋の目だ。今まで幾つもの命を、無残に奪ってきたに違いない。
くそっ。こんな緊急事態に体が動かないなんて!
全身から脂汗が滲み出る。恐怖に見開かれたあたしの瞳を、まるで灰色熊のようなオヤジは無言のまま見詰め返していた。常人の手首ほどもあるんじゃないかと思えるような太い指先でぼりぼりと顎を掻きながら、まるであたしを観察するかのように……観察?
その時あたしは初めて、『背骨が凍りつく感覚』というものを知った。
人殺しの目。調理器具。品定めするような視線。動かない体。
そして手にした『食卓を豊かに彩る肉料理レシピ集』。
(あたしを食べる気だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
あたしがまだ山奥に居た頃、ハーピーの族長から聞いた事がある。世の中には『鳥に似てる』とか『牛に似てる』とか理由をつけて、魔物を食材にしてしまう鬼畜の輩が居るらしいと。連中はその悪食を満足させるべくハンターを雇って魔物を集めているのだという。
つまりあたしは……あの後で再びハンターに捕まり、気を失っている間にこの隻眼の魔獣の元まで運び込まれてしまったという事か。
(最悪だ……)
あたしを捕獲して具体的にどうする積もりなのか、ハンター達は教えてくれなかった。鉄格子で閉ざされた馬車の中で、見世物小屋に売られるのだろうか、あるいは性奴隷として犯されるのだろうか…そんな想像を膨らませていた。
今にして思えば、その方がどれだけマシだった事か。
まさか食材にされる為に捕まえられたなんて、残酷にも程がある。
「おい」
「ひゃいっ!?」
恐怖で声が裏返る。オヤジはそんなあたしの様に眉根を寄せて不思議そうな顔をしていた。眉間に走った縦皺のせいで、悪人面が更にその雰囲気を増している。
「気分はどうだ。どこか痛むところは無ェか?」
「……へ?」
意外な台詞にあたしの目が点になる。『今から貴様を食ってやるぜ覚悟しなグハハハ』という台詞を予想していただけに、正直いって拍子抜けだった。
「で? どうなんだ」
「あ、うん……特に、何も」
「そうか。なら良かった」
良かったと言うのなら、それ相応の顔付きをしてほしい。笑顔とまでは言わないけど、今にも殴りかかってきそうな面構えで頷かれたところで反応に困ってしまう。
何も言い出せずにいるあたしを見かねてか、再びオヤジが口を開いた。
「俺はドミニク。此処は俺が経営してる酒場の休憩室だ」
酒場――あぁ、だから食器や調理器具があるのか。
料理人が新たな美味を求めて魔物に手を出すなんて。まるで三文小説だね。
「あたしは……どうなったの?」
聞きたくない。でも気になる。相反する気持ちを綯い交ぜにして、あたしは怖々と問い掛ける。
「お前はうちの裏口に倒れてたんだよ。で、俺がゴミ捨てに出ようとしたところで発見した」
「……」
オヤジ――ドミニクの説明に、今度はあたしが顔を顰める番だった。
「どういう事?」
「――あぁん?」
「あたしは……ハンターに捕まって此処に運び込まれたんじゃないの?」
ドミニクの目が大きく見開かれる。その驚き方は演技には見えなかった。顎鬚を揉みながら『成る程な』と何度か小さく頷くと、ここで初めてにっと笑った。
……前言撤回。笑わないでいてくれた方が数万倍は怖くないわ。
「連中から逃げ出してきたは良いものの、栄養失調で行き倒れてたって訳か」
現状を的確に言い当てられた。どうやらこのオヤジ、頭の回転は悪くないらしい。
「あたしを……どうする積もり?」
「別にハンターに突き出したりはしねえよ」
恐る恐るの質問に、ドミニクはすんなりと即答する。
「安心しな、俺はハンターが嫌いなんだ。暫くの間は匿っておいてやるから、ほとぼりが冷めた頃に街を出ちまうと良い。今シェツカ……うちの店員にメシの用意をさせてるからよ、まずは体力を回復させるこったな。腹ペコで逃げ回るわけにもいかんだろ」
外面に反して饒舌なドミニクの言葉に、あたしは無言で驚愕していた。
あたし達のような魔物に、この国では一切の『人権』が認められていない。国民に害を与える存在だとして発見し次第すぐに憲兵がやってくるし、時に大規模な討伐隊が組まれて山狩りが行われた事もあった。遠い異国には『親魔物派』と呼ばれる主義を掲げて魔物と共存する土地もあるらしいが、少なくともこの国において魔物の存在は『下等な害獣』に過ぎない。だからこそハンターや奴隷商人を生業とする者達が、この国では大手を振って認められているのだ。
そんな国風の中で、魔物を匿おうなどというドミニクの行為は完全なマイノリティの筈だった。『魔物は人間を魔界に連れ込んで殺すか、もしくは奴隷にする』という根も葉もない公式見解は常識として世間に浸透している。にも関わらずあたしの逃亡に手を貸す事で、この男にいったいどんなメリットがあるというのだろう。何か裏があってもおかしくはない。
魔物を食材にしようとしているというのはまぁ、流石にあたしの勘違いだろうと思うけれど。
「……お。噂をすれば影ってな」
そんなあたしの疑心をよそに、ドミニクは気楽な口調で部屋の扉へと視線を移した。言われてみれば、遠くから足音が聞こえてくる。あたしは未だ栄養不足で動く事の出来ない体を緊張に強張らせながら、扉が開く様を油断なく睨み付けていた。
「店長、お料理持ってきましたよっと」
銀色のトレイを手に入って来たのは、まだ歳若い人間の女だった。艶やかな金髪を三つ編みにして、その上から紺色のバンダナを巻いている。この女性が、ドミニクの言っていた『シェツカ』という人物なのだろう。
「おう、悪いなシェツカ。店のほうはどうだ?」
「平日の夜ですから、流石に常連さんばっかりですね。コンラッドさんにベリウスさんでしょ、あとディミトリ爺とグスタフさん。あ、そうそう。注文してた食材もさっき入荷しましたからね」
「そうか、ご苦労さん。しかしベリウスの奴が来るなんざ、随分と久し振りだな」
「ですよねぇ。しかも今までのツケまできちんと支払ってくれましたよ」
「ほぉ。約束通り支払いに来たとは、珍しい事もあるもんだ」
「なんだか嬉しそうに『嫁が出来た』とか言ってましたけど。初耳ですよね?」
「嫁だぁ? 俺も初めて聞いたな。あの野郎に女こしらえるような甲斐性があったのかよ」
2人の会話は、他愛ない雑談と業務連絡ばかりだった。あたしの処遇について特に何か言及される様子はない。
一貫してほのぼのとした内容に、あたしの警戒はゆっくりと緩んでいく。
もしかして、本当に善意であたしを匿ってくれたのかな……?
「そういえば食材で思い出したんですけど、コンラッドさんが『豚足は無いのか』って」
「豚足ぅ? まだボイルしてねぇぞ。作っても良いが、ちょいと時間かかるって伝えとけ」
「はいはい。あ……オークの子、目が覚めたんですね。お風呂とかどうします?」
「おう。ちょうど良いな、今から沸かしといてくれや」
(やっぱり食べる気だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!)
心中で絶叫する。優しい言葉をかけてきたのは、食材が逃げ出さないようにする為の甘言に違いない。きっと巨大な包丁で足を叩き斬られ、ぐつぐつと煮えた鍋に放り込まれるんだ。
慌てて起き上がろうと腹筋に力を込めるものの、あたしの体は頑としてベッドから動かない。
そんなあたしの努力を尻目に、シェツカと呼ばれた女は慣れた手付きで湯気の立つ料理の皿を隻眼の魔人に手渡している。その余裕ぶった態度に、あたしの中の危機感がますますもって高まっていった。真っ白い清潔なベッドシーツを、まな板と錯覚してしまう程に。
「ところで店長。明日のお勧めメニュー、何にします?」
「ん、そうだな……せっかく良い豚肉を仕入れたんだ、豪快にステーキでもするか」
「あいよー、了解です」
(絶対に嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
最悪だ。全身をばらばらに解体された挙句に鉄板で焼かれるなんて惨めな末路、決して許容できるものじゃない。やはりこの大男は、見た目通りの鬼畜だったんだ!
ドミニクに料理を渡し終えたシェツカは、鼻歌など歌いながら駆け足で部屋を辞してしまった。あんな邪気のない顔をして、裏ではあたしをボイルする事を考えているのかと思うと腹が立って仕方がない。何とかして此処から逃げ出さなければ。今は脱走するだけで精一杯だけど、無事に山へ戻ったら体勢を立て直して痛い目に逢わせてやる!
あたしは歯を食い縛って必死に起き上がろうと試みながら、ふくよかな胸の奥底に確固たる決意を刻んだのだった。
「おい。さっきから何をクネクネしてやがんだ」
ドミニクの目には、必死で逃走を図るあたしの努力がダンシングフラワーにでも見えたらしい。
呆れ顔をした隻眼の悪魔が、突然あたしの眼前に鉄拳を突き出してくる。
そこには、料理の載ったスプーンが握られていた。
「食え」
(いや、ヤクザ顔のオッサンに『あーん』ってされても……)
有無を言わせない圧力が、限界まで膨れ上がっていた恐怖をぎゅっと圧縮する。
「遠慮すんな。食い物なんてウチにゃあ売る程あるんだからよ。腹、減ってんだろ?」
無言のまま固まっていたあたしの表情をどう勘違いしたのか、なるべく柔らかな声音でドミニクは語り掛けてくる。碌に動けない現状を案じての行為なのだろうが、何処か釈然としない。
まぁ……お腹が減って死にそうだったのは確かだけどね。
湯気に混じって漂う美味しそうな香りが、あたしの鼻腔をくすぐっててくる。食材にされる恐怖で後回しにしていたものの、空っぽの胃袋は先程から栄養を求めて痛い程に鳴り響いていた。
「……ありがと」
一応は感謝の意を表しつつ、素直に口を開けて木製のスプーンを招き入れる。
酒場をやっていると言うだけあって、料理の味は満点だった。
でも、その一方で新たな疑問も浮かび上がっていた。これから解体して料理にしてしまおうという相手に対して、何の目的で料理を振る舞おうとしているのか。このまま放っておけば暴れる事もなく楽に調理が出来るだろう。脱走するエネルギーを補給して貰えるこちらとしてはラッキーなのだが、真意が見えないのはひたすらに不気味だ。
「食欲はあるみてぇだな。その調子だ、どんどん食えよ」
熱すぎず冷たすぎず、適温に保たれたドリアは実に食べやすかった。たいして咀嚼もせずに飲み込んで再び口を開くと、すかさず第2陣が投入される。
「良い食べっぷりだ。それくらいがっついてくれると、料理人としちゃ嬉しい限りだな」
自分で作った訳でもないのに、ドミニクの表情はやたら満足げだ。
「最近の女どもってのはダイエットだか何だか知らねェが、どいつもこいつも小食でよ。俺が兵士やってた頃は腹いっぱい食う事も出来ずに死んじまう奴も居たってのに、贅沢なこった」
成る程、このオヤジ兵隊上がりか。たぶん片目の負傷で退役する事になって、給金を元手に商売を始めたってところかな? ただの料理人にしてはやたら筋骨隆々な体格してるし、眼帯だってこの顔じゃ客を怖がらせるだけだと思ったけど、そういう経歴なら納得がいく。
「俺の個人的な好みなんだが、女ってのは太ってるくらいがちょうど良いんだよ。若いうちにゃあ食事制限なんて体に悪いだけだ。風でも吹いたらぽきっと折れちまいそうだぜ」
女の子は色々と大変なのだ。こんな強面のオヤジには解らないだろうけど。
「ふん……デリカシーのないオッサンだね。さてはモテないでしょ、あんた」
あたしもまぁ…その、平均よりむっちりとした体形してる方だから、つい反論してしまった。
(……あれ。何も言い返してこないな)
あたしはちらりと、髭面の大男を盗み見る。ドミニクはぽかんとした表情で、スプーンを持ったまま硬直していた。
……やば。怒らせちゃったかも。
流石に失言だった。あたしは思わずシーツを握り締め、ドミニクの所作を注視する。
――しかし、次の瞬間。
「がっはっは! ああ、やっと自分から話す気になってくれたか!!」
満面に喜色を浮かべて、ドミニクは機嫌良さそうに膝を叩いた。
その言葉が意味するところを悟るのには、数秒の時間を要した。
「……はぁ? なによ、それ。意味わかんない!」
あたしはぷいっと顔を背けると、掛け布団の中に潜り込んでしまう。
どうやらこのオッサン、あたしが無口なのを気にして今までずっと喋りまくっていたらしい。外見の厳つさと反比例して妙に舌が回るオヤジだと思っていたけれど、まさか気を遣われていたとは思わなかった。その事実に布団の中で悶絶する。
あーやばい、どうしよう。あたしの顔、今すっごい真っ赤だわ。
なんだか、いつ食べられるのかと警戒してた自分自身が馬鹿馬鹿しくなってきた。空腹感が満たされていくのと同時に疲労感が押し寄せてくる。まるで独り相撲を続けてた気分だ。
やっぱり……このオッサン、あたしを料理する気なんて無いのかも。
道端に倒れてたあたしを拾ってくれて、ハンターや憲兵にも通報しないと言ってくれて。むしろ匿ってくれるとまで申し出てくれた。こうして温かいご飯も食べさせてくれながら、あたしの緊張を少しでも和らげようと不器用ながらも色々と話しかけてくれる。
こんな良い人、普通いないよね。
疑ってかかるのも、仕方ないよね。
きっと全て、あたしの早とちりと勘違いだったんだ。
……悪い事しちゃったな。でも顔出すの、ちょっと恥ずかしいや。
あたしは暫くの間、そのまま布団の中で丸まっていた。
「おい、どうした?」
気付けばオッサンが……ううん、ドミニクさんが不安そうにこちらを覗き込んでいた。あたしが怒って会話を拒絶したものと勘違いしたらしく、声だけで焦っているのが伝わってくる。
あたしは潤んだ目元を慌てて拭い、布団からゆっくりと顔を出した。
「別に。なんでもないよ」
「そ、そうか」
あはは。しどろもどろになっちゃって。大の男が情けないなぁ。
「……あのさ」
「お、おう?」
すっかり混乱しているらしく、ドミニクさんの片目は落ち着きなさそうに泳ぎまくっていた。
「……その、ごめんね」
何について謝られているのか見当がつかず、ドミニクさんはきょとんとしていた。当然だよね、まさか『オークを料理しようとしている』なんて疑われてたとは思ってもいなかっただろうから。
説明するのは面倒だったから、あたしはさっさと話題を変える事にした。
「ね。ご飯ちょうだい?」
「ん? あ……おう!」
あたしは再び口を開けて、ドミニクさんがスプーンを運んでくれるのを待つ。
ちょっと冷めてしまっていたけれど、ドリアは先程よりもなんだか美味しく感じられた。
「早く元気にならなきゃな」
「……うん」
今まで、あたしは『人間と魔物は相容れない天敵同士』だと思ってた。
現にあたしがこうなったのもハンターに捕獲されてしまったせい、その事実は変わらない。
「お代わりが必要なら、遠慮なく言ってくれよ」
「うん」
今も何処かで魔物と人間はお互いの存在を憎み合い、戦い続けているんだろう。
「すぐに美味いもん用意してやるからな」
「うん」
でも、そんな人間の中にもドミニクさんのような人が存在する。
「満腹になるまで、どんどん食えよ」
「うん!」
今まで嫌い続けていた人間に、こんな優しい人が居るなんて。
なんだろう。
ちょっと……感動だな。
「たらふく食って、もっとふくよかで肉付き良くならなきゃな」
「うん! …………え?」
えーっと。
あの、もしもし? 何を仰ってるのでしょうドミニクさん。
ねえ、ちょっと? どうしてそんな満面の笑みを浮かべてるの?
かなり怖いんですけど。今までで最高に怖いんですけど?
「俺好みの良い女になってくれよ。豚カツにしたらじゅわっと肉汁が溢れ出るくらいにな!」
(太らせてから食べる気だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「店長。お湯、沸きましたよー」
「おう、悪いなシェツカ。……ほら、風呂の用意できたってよ。行くぞ」
「嫌だぁぁぁぁぁぁ! ボイルは絶対に嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「いや食べねぇよ。お前、いきなり大声で何てこと言い出してんだ」
「店長、もしかしてまたですかぁ? 女の子を料理に例える癖、そろそろ治してくださいよね」
「馬鹿野郎、美味い料理に例えてんだぞ、完璧に褒め言葉だろうが!」
「そう思うのは店長だけですって。さ、そろそろお店に戻って下さい。この子は私がお風呂まで連れていきますから」
「ん、頼んだぜ」
「誰かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 誰か助けてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
「大丈夫だよー? ほら、一緒にお風呂いこうねー」
「んにゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「あのブタ女め……手間かけさせやがって! 見付けたらリンチにしてやる」
「おい、仮にも商品だぜ。傷つけるのはまずいだろ」
「とにかく探せ。その商品に逃げられたなんて上に知られたら、俺達がボコボコにされちまう」
黒服に身を包んだハンター達の苛立ちが、夜の路地裏に響き渡る。
悪臭を放つゴミ箱の陰に身を竦めながら、あたしはじっと彼らの会話に聞き耳を立てていた。
(……ふん。良い気味ね)
呼吸さえも躊躇うような緊張感に包まれながら、あたしは小さくほくそ笑む。
(あんた達みたいに脆弱な人間なんかが、あたしを好き勝手できるわけないじゃない)
せいぜい朝日が昇るまで無駄に街中を駆けずり回っていれば良いのよ。魔物を捕獲して高値で売り捌こうなんて、そんな外道にはちょうど良い罰ゲームだ。
あたし達オークは、魔物娘の中でも指折りの狡賢さで有名な種族だ。人間のちょっとした隙を突いて檻から脱走する事なんて、それこそ赤子の手を捻るようなもの。このまま夜闇に紛れて街の外まで逃げてしまえば、再びあたしは自由の身を手に入れられる。
おっぱいの奥で早鐘の如く打ち鳴らされる心臓の音を数えながら、あたしは身動きひとつせず追手の足音が何処かに立ち去っていくのを感じていた。
ああ……自由!
なんて素晴らしい言葉なんだろう。こんな人間だらけの街になんて、1秒たりとも居たくない。早く静かな山奥に帰って、馬鹿な旅人をレイプしたり行商人の馬車を襲ったりと好き勝手できる最高の日常に戻らなきゃ。狭苦しい檻の中に無理やり押し込まれた時には人生の破滅も覚悟したけれど、運はまだあたしを見放してはいなかった。
(まずは……何処かで食糧を手に入れないとね)
捕獲されて以来、あたしは碌に食事を摂らせて貰っていない。そうする事で逃げ出そうとする体力をじわじわ奪おうという腹黒い人間の計略なのだ。最後の力を振り絞って脱走したは良いものの、そろそろ何か食べなければ流石のあたしも限界だった。
(まずいな……体が重い)
ふらつく頭を押さえながら、あたしはそっと動き出す。けれどもあたしの意志に反して、両足は上手く動いてはくれなかった。手際よく脱走を果たした安堵感が、今まであたしの体を動かしていた気合と根性を霧散させてしまったらしい。
早く、早く逃げ出さなければ。
再び捕まってしまう恐怖に身を震わせながら、あたしは這いずるようにして緩慢に歩を進めていく。栄養失調で悲鳴をあげる肉体に鞭打ちながら、ほんの数メートル先まで距離を稼ぎ――。
そしてとうとう、あたしの体は踏み固められた冷たい地面に倒れ伏してしまった。
(冗談じゃない!)
こんなところで意識を失うなんて、笑い話にもならない三流のシナリオだ。
(お願いだから動いて。動いてよあたしの体……ッ!)
どれだけ歯を食いしばっても、瞼はどんどん重みを増していく。全身の筋肉は弛緩してしまい、まるで泥沼に沈んでいくような薄ら寒い感覚があたしの脳内を侵していく。
「く……そぉ……ッ!!」
霞んでいく、視界。
殆どおぼろげな視線の先に、うっすらと人影が見えたような気がした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「おいシェツカ。少し外すぜ、休憩室に居るから暫く料理のほう頼む」
「はいはーい――ってうわ、店長なんですかその魔物!」
(あれ……)
「生ゴミ捨てにいこうとしたら、裏口で倒れてやがった」
「はー、行き倒れですかね。トムスン先生に診せますか?」
(……声が聞こえる)
「いや、軽い栄養失調みてぇだ。何か適当に食い物だけ用意してやってくれ」
「了解でーす」
(あたし……どうなったんだろう)
「あ、店長。いくら可愛い女の子だからって襲わないでくださいよー?」
「誰が襲うか、阿呆」
(おそ、う?)
(………………やばい!)
物騒な単語が、あたしの意識を即座に覚醒させる。
かっと目を見開くと――あたしは、柔らかなベッドに横たえられていた。
ここは……何処だろう。
見慣れない小部屋だった。乱雑に積み上げられた木箱や樽で、随分とごちゃごちゃした印象がある。壁にはびっしりと棚が組まれ、皿やグラスといった食器がたくさん並んでいた。ランプの灯りに照らされてオレンジ色に染まった鍋や包丁などの調理器具が、未だぼやけたあたしの瞳にどこか妖しく映り込む。
「おう。目ェ覚めたか」
すぐ傍で、野太い巌のような声がした。
ゆっくりと、視線を声のした方へとずらす。
――そこには。
「のわひゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
丸太ほどもある腕! 天井に届くかと思うくらいの巨体! 全身を覆う筋肉の鎧! 所々に血の付着した物騒なエプロン! 悪趣味な色柄物のシャツ! 何処からがヒゲで何処からが髪か解らない毛むくじゃらの顔! 視線だけで子供くらいなら殺せそうな鋭い目付き! しかも右目には縦に大きな古傷が刻まれ、黒革の眼帯で覆われている始末!
怪力自慢のミノタウロスさえ真っ青になって逃げ出しそうな外見の中年男が、『食卓を豊かに彩る肉料理レシピ集』と銘打たれたマニュアル本を片手に、あたしを真っ直ぐ見下ろしていた。
(この人間……っ……やばい!!)
あたしは直感的に断定した。
このオヤジ、堅気の人間じゃない。マフィアのボスか山賊の親分か……とにかく暗い裏稼業を生き抜いてきたであろう強烈な迫力が全身から湯気のように発散されている。特に危険なのはその隻眼。あれは殺し屋の目だ。今まで幾つもの命を、無残に奪ってきたに違いない。
くそっ。こんな緊急事態に体が動かないなんて!
全身から脂汗が滲み出る。恐怖に見開かれたあたしの瞳を、まるで灰色熊のようなオヤジは無言のまま見詰め返していた。常人の手首ほどもあるんじゃないかと思えるような太い指先でぼりぼりと顎を掻きながら、まるであたしを観察するかのように……観察?
その時あたしは初めて、『背骨が凍りつく感覚』というものを知った。
人殺しの目。調理器具。品定めするような視線。動かない体。
そして手にした『食卓を豊かに彩る肉料理レシピ集』。
(あたしを食べる気だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
あたしがまだ山奥に居た頃、ハーピーの族長から聞いた事がある。世の中には『鳥に似てる』とか『牛に似てる』とか理由をつけて、魔物を食材にしてしまう鬼畜の輩が居るらしいと。連中はその悪食を満足させるべくハンターを雇って魔物を集めているのだという。
つまりあたしは……あの後で再びハンターに捕まり、気を失っている間にこの隻眼の魔獣の元まで運び込まれてしまったという事か。
(最悪だ……)
あたしを捕獲して具体的にどうする積もりなのか、ハンター達は教えてくれなかった。鉄格子で閉ざされた馬車の中で、見世物小屋に売られるのだろうか、あるいは性奴隷として犯されるのだろうか…そんな想像を膨らませていた。
今にして思えば、その方がどれだけマシだった事か。
まさか食材にされる為に捕まえられたなんて、残酷にも程がある。
「おい」
「ひゃいっ!?」
恐怖で声が裏返る。オヤジはそんなあたしの様に眉根を寄せて不思議そうな顔をしていた。眉間に走った縦皺のせいで、悪人面が更にその雰囲気を増している。
「気分はどうだ。どこか痛むところは無ェか?」
「……へ?」
意外な台詞にあたしの目が点になる。『今から貴様を食ってやるぜ覚悟しなグハハハ』という台詞を予想していただけに、正直いって拍子抜けだった。
「で? どうなんだ」
「あ、うん……特に、何も」
「そうか。なら良かった」
良かったと言うのなら、それ相応の顔付きをしてほしい。笑顔とまでは言わないけど、今にも殴りかかってきそうな面構えで頷かれたところで反応に困ってしまう。
何も言い出せずにいるあたしを見かねてか、再びオヤジが口を開いた。
「俺はドミニク。此処は俺が経営してる酒場の休憩室だ」
酒場――あぁ、だから食器や調理器具があるのか。
料理人が新たな美味を求めて魔物に手を出すなんて。まるで三文小説だね。
「あたしは……どうなったの?」
聞きたくない。でも気になる。相反する気持ちを綯い交ぜにして、あたしは怖々と問い掛ける。
「お前はうちの裏口に倒れてたんだよ。で、俺がゴミ捨てに出ようとしたところで発見した」
「……」
オヤジ――ドミニクの説明に、今度はあたしが顔を顰める番だった。
「どういう事?」
「――あぁん?」
「あたしは……ハンターに捕まって此処に運び込まれたんじゃないの?」
ドミニクの目が大きく見開かれる。その驚き方は演技には見えなかった。顎鬚を揉みながら『成る程な』と何度か小さく頷くと、ここで初めてにっと笑った。
……前言撤回。笑わないでいてくれた方が数万倍は怖くないわ。
「連中から逃げ出してきたは良いものの、栄養失調で行き倒れてたって訳か」
現状を的確に言い当てられた。どうやらこのオヤジ、頭の回転は悪くないらしい。
「あたしを……どうする積もり?」
「別にハンターに突き出したりはしねえよ」
恐る恐るの質問に、ドミニクはすんなりと即答する。
「安心しな、俺はハンターが嫌いなんだ。暫くの間は匿っておいてやるから、ほとぼりが冷めた頃に街を出ちまうと良い。今シェツカ……うちの店員にメシの用意をさせてるからよ、まずは体力を回復させるこったな。腹ペコで逃げ回るわけにもいかんだろ」
外面に反して饒舌なドミニクの言葉に、あたしは無言で驚愕していた。
あたし達のような魔物に、この国では一切の『人権』が認められていない。国民に害を与える存在だとして発見し次第すぐに憲兵がやってくるし、時に大規模な討伐隊が組まれて山狩りが行われた事もあった。遠い異国には『親魔物派』と呼ばれる主義を掲げて魔物と共存する土地もあるらしいが、少なくともこの国において魔物の存在は『下等な害獣』に過ぎない。だからこそハンターや奴隷商人を生業とする者達が、この国では大手を振って認められているのだ。
そんな国風の中で、魔物を匿おうなどというドミニクの行為は完全なマイノリティの筈だった。『魔物は人間を魔界に連れ込んで殺すか、もしくは奴隷にする』という根も葉もない公式見解は常識として世間に浸透している。にも関わらずあたしの逃亡に手を貸す事で、この男にいったいどんなメリットがあるというのだろう。何か裏があってもおかしくはない。
魔物を食材にしようとしているというのはまぁ、流石にあたしの勘違いだろうと思うけれど。
「……お。噂をすれば影ってな」
そんなあたしの疑心をよそに、ドミニクは気楽な口調で部屋の扉へと視線を移した。言われてみれば、遠くから足音が聞こえてくる。あたしは未だ栄養不足で動く事の出来ない体を緊張に強張らせながら、扉が開く様を油断なく睨み付けていた。
「店長、お料理持ってきましたよっと」
銀色のトレイを手に入って来たのは、まだ歳若い人間の女だった。艶やかな金髪を三つ編みにして、その上から紺色のバンダナを巻いている。この女性が、ドミニクの言っていた『シェツカ』という人物なのだろう。
「おう、悪いなシェツカ。店のほうはどうだ?」
「平日の夜ですから、流石に常連さんばっかりですね。コンラッドさんにベリウスさんでしょ、あとディミトリ爺とグスタフさん。あ、そうそう。注文してた食材もさっき入荷しましたからね」
「そうか、ご苦労さん。しかしベリウスの奴が来るなんざ、随分と久し振りだな」
「ですよねぇ。しかも今までのツケまできちんと支払ってくれましたよ」
「ほぉ。約束通り支払いに来たとは、珍しい事もあるもんだ」
「なんだか嬉しそうに『嫁が出来た』とか言ってましたけど。初耳ですよね?」
「嫁だぁ? 俺も初めて聞いたな。あの野郎に女こしらえるような甲斐性があったのかよ」
2人の会話は、他愛ない雑談と業務連絡ばかりだった。あたしの処遇について特に何か言及される様子はない。
一貫してほのぼのとした内容に、あたしの警戒はゆっくりと緩んでいく。
もしかして、本当に善意であたしを匿ってくれたのかな……?
「そういえば食材で思い出したんですけど、コンラッドさんが『豚足は無いのか』って」
「豚足ぅ? まだボイルしてねぇぞ。作っても良いが、ちょいと時間かかるって伝えとけ」
「はいはい。あ……オークの子、目が覚めたんですね。お風呂とかどうします?」
「おう。ちょうど良いな、今から沸かしといてくれや」
(やっぱり食べる気だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!)
心中で絶叫する。優しい言葉をかけてきたのは、食材が逃げ出さないようにする為の甘言に違いない。きっと巨大な包丁で足を叩き斬られ、ぐつぐつと煮えた鍋に放り込まれるんだ。
慌てて起き上がろうと腹筋に力を込めるものの、あたしの体は頑としてベッドから動かない。
そんなあたしの努力を尻目に、シェツカと呼ばれた女は慣れた手付きで湯気の立つ料理の皿を隻眼の魔人に手渡している。その余裕ぶった態度に、あたしの中の危機感がますますもって高まっていった。真っ白い清潔なベッドシーツを、まな板と錯覚してしまう程に。
「ところで店長。明日のお勧めメニュー、何にします?」
「ん、そうだな……せっかく良い豚肉を仕入れたんだ、豪快にステーキでもするか」
「あいよー、了解です」
(絶対に嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
最悪だ。全身をばらばらに解体された挙句に鉄板で焼かれるなんて惨めな末路、決して許容できるものじゃない。やはりこの大男は、見た目通りの鬼畜だったんだ!
ドミニクに料理を渡し終えたシェツカは、鼻歌など歌いながら駆け足で部屋を辞してしまった。あんな邪気のない顔をして、裏ではあたしをボイルする事を考えているのかと思うと腹が立って仕方がない。何とかして此処から逃げ出さなければ。今は脱走するだけで精一杯だけど、無事に山へ戻ったら体勢を立て直して痛い目に逢わせてやる!
あたしは歯を食い縛って必死に起き上がろうと試みながら、ふくよかな胸の奥底に確固たる決意を刻んだのだった。
「おい。さっきから何をクネクネしてやがんだ」
ドミニクの目には、必死で逃走を図るあたしの努力がダンシングフラワーにでも見えたらしい。
呆れ顔をした隻眼の悪魔が、突然あたしの眼前に鉄拳を突き出してくる。
そこには、料理の載ったスプーンが握られていた。
「食え」
(いや、ヤクザ顔のオッサンに『あーん』ってされても……)
有無を言わせない圧力が、限界まで膨れ上がっていた恐怖をぎゅっと圧縮する。
「遠慮すんな。食い物なんてウチにゃあ売る程あるんだからよ。腹、減ってんだろ?」
無言のまま固まっていたあたしの表情をどう勘違いしたのか、なるべく柔らかな声音でドミニクは語り掛けてくる。碌に動けない現状を案じての行為なのだろうが、何処か釈然としない。
まぁ……お腹が減って死にそうだったのは確かだけどね。
湯気に混じって漂う美味しそうな香りが、あたしの鼻腔をくすぐっててくる。食材にされる恐怖で後回しにしていたものの、空っぽの胃袋は先程から栄養を求めて痛い程に鳴り響いていた。
「……ありがと」
一応は感謝の意を表しつつ、素直に口を開けて木製のスプーンを招き入れる。
酒場をやっていると言うだけあって、料理の味は満点だった。
でも、その一方で新たな疑問も浮かび上がっていた。これから解体して料理にしてしまおうという相手に対して、何の目的で料理を振る舞おうとしているのか。このまま放っておけば暴れる事もなく楽に調理が出来るだろう。脱走するエネルギーを補給して貰えるこちらとしてはラッキーなのだが、真意が見えないのはひたすらに不気味だ。
「食欲はあるみてぇだな。その調子だ、どんどん食えよ」
熱すぎず冷たすぎず、適温に保たれたドリアは実に食べやすかった。たいして咀嚼もせずに飲み込んで再び口を開くと、すかさず第2陣が投入される。
「良い食べっぷりだ。それくらいがっついてくれると、料理人としちゃ嬉しい限りだな」
自分で作った訳でもないのに、ドミニクの表情はやたら満足げだ。
「最近の女どもってのはダイエットだか何だか知らねェが、どいつもこいつも小食でよ。俺が兵士やってた頃は腹いっぱい食う事も出来ずに死んじまう奴も居たってのに、贅沢なこった」
成る程、このオヤジ兵隊上がりか。たぶん片目の負傷で退役する事になって、給金を元手に商売を始めたってところかな? ただの料理人にしてはやたら筋骨隆々な体格してるし、眼帯だってこの顔じゃ客を怖がらせるだけだと思ったけど、そういう経歴なら納得がいく。
「俺の個人的な好みなんだが、女ってのは太ってるくらいがちょうど良いんだよ。若いうちにゃあ食事制限なんて体に悪いだけだ。風でも吹いたらぽきっと折れちまいそうだぜ」
女の子は色々と大変なのだ。こんな強面のオヤジには解らないだろうけど。
「ふん……デリカシーのないオッサンだね。さてはモテないでしょ、あんた」
あたしもまぁ…その、平均よりむっちりとした体形してる方だから、つい反論してしまった。
(……あれ。何も言い返してこないな)
あたしはちらりと、髭面の大男を盗み見る。ドミニクはぽかんとした表情で、スプーンを持ったまま硬直していた。
……やば。怒らせちゃったかも。
流石に失言だった。あたしは思わずシーツを握り締め、ドミニクの所作を注視する。
――しかし、次の瞬間。
「がっはっは! ああ、やっと自分から話す気になってくれたか!!」
満面に喜色を浮かべて、ドミニクは機嫌良さそうに膝を叩いた。
その言葉が意味するところを悟るのには、数秒の時間を要した。
「……はぁ? なによ、それ。意味わかんない!」
あたしはぷいっと顔を背けると、掛け布団の中に潜り込んでしまう。
どうやらこのオッサン、あたしが無口なのを気にして今までずっと喋りまくっていたらしい。外見の厳つさと反比例して妙に舌が回るオヤジだと思っていたけれど、まさか気を遣われていたとは思わなかった。その事実に布団の中で悶絶する。
あーやばい、どうしよう。あたしの顔、今すっごい真っ赤だわ。
なんだか、いつ食べられるのかと警戒してた自分自身が馬鹿馬鹿しくなってきた。空腹感が満たされていくのと同時に疲労感が押し寄せてくる。まるで独り相撲を続けてた気分だ。
やっぱり……このオッサン、あたしを料理する気なんて無いのかも。
道端に倒れてたあたしを拾ってくれて、ハンターや憲兵にも通報しないと言ってくれて。むしろ匿ってくれるとまで申し出てくれた。こうして温かいご飯も食べさせてくれながら、あたしの緊張を少しでも和らげようと不器用ながらも色々と話しかけてくれる。
こんな良い人、普通いないよね。
疑ってかかるのも、仕方ないよね。
きっと全て、あたしの早とちりと勘違いだったんだ。
……悪い事しちゃったな。でも顔出すの、ちょっと恥ずかしいや。
あたしは暫くの間、そのまま布団の中で丸まっていた。
「おい、どうした?」
気付けばオッサンが……ううん、ドミニクさんが不安そうにこちらを覗き込んでいた。あたしが怒って会話を拒絶したものと勘違いしたらしく、声だけで焦っているのが伝わってくる。
あたしは潤んだ目元を慌てて拭い、布団からゆっくりと顔を出した。
「別に。なんでもないよ」
「そ、そうか」
あはは。しどろもどろになっちゃって。大の男が情けないなぁ。
「……あのさ」
「お、おう?」
すっかり混乱しているらしく、ドミニクさんの片目は落ち着きなさそうに泳ぎまくっていた。
「……その、ごめんね」
何について謝られているのか見当がつかず、ドミニクさんはきょとんとしていた。当然だよね、まさか『オークを料理しようとしている』なんて疑われてたとは思ってもいなかっただろうから。
説明するのは面倒だったから、あたしはさっさと話題を変える事にした。
「ね。ご飯ちょうだい?」
「ん? あ……おう!」
あたしは再び口を開けて、ドミニクさんがスプーンを運んでくれるのを待つ。
ちょっと冷めてしまっていたけれど、ドリアは先程よりもなんだか美味しく感じられた。
「早く元気にならなきゃな」
「……うん」
今まで、あたしは『人間と魔物は相容れない天敵同士』だと思ってた。
現にあたしがこうなったのもハンターに捕獲されてしまったせい、その事実は変わらない。
「お代わりが必要なら、遠慮なく言ってくれよ」
「うん」
今も何処かで魔物と人間はお互いの存在を憎み合い、戦い続けているんだろう。
「すぐに美味いもん用意してやるからな」
「うん」
でも、そんな人間の中にもドミニクさんのような人が存在する。
「満腹になるまで、どんどん食えよ」
「うん!」
今まで嫌い続けていた人間に、こんな優しい人が居るなんて。
なんだろう。
ちょっと……感動だな。
「たらふく食って、もっとふくよかで肉付き良くならなきゃな」
「うん! …………え?」
えーっと。
あの、もしもし? 何を仰ってるのでしょうドミニクさん。
ねえ、ちょっと? どうしてそんな満面の笑みを浮かべてるの?
かなり怖いんですけど。今までで最高に怖いんですけど?
「俺好みの良い女になってくれよ。豚カツにしたらじゅわっと肉汁が溢れ出るくらいにな!」
(太らせてから食べる気だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!)
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「店長。お湯、沸きましたよー」
「おう、悪いなシェツカ。……ほら、風呂の用意できたってよ。行くぞ」
「嫌だぁぁぁぁぁぁ! ボイルは絶対に嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「いや食べねぇよ。お前、いきなり大声で何てこと言い出してんだ」
「店長、もしかしてまたですかぁ? 女の子を料理に例える癖、そろそろ治してくださいよね」
「馬鹿野郎、美味い料理に例えてんだぞ、完璧に褒め言葉だろうが!」
「そう思うのは店長だけですって。さ、そろそろお店に戻って下さい。この子は私がお風呂まで連れていきますから」
「ん、頼んだぜ」
「誰かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 誰か助けてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
「大丈夫だよー? ほら、一緒にお風呂いこうねー」
「んにゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
10/02/07 08:50更新 / クビキ