連載小説
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第六十一話・Bad Communication BeforeC
お堂の扉を開くと、頼りない蝋燭の明かりの中で綾乃は目を閉じ正座をして、俺を待っていた。
その横顔が、本当に綺麗で、三十年以上すぎた今でもはっきり思い出せる。
ゆっくりと、綾乃は目を開き、じっと俺を見据えた。
「………負けたんだな。」
腹の傷を見て、綾乃は呟く。
綾乃はわかっていたんだと思う。
俺が負けたのは、龍雅に一騎討ちで負けたということだけじゃなく、俺の信じたものを、この僅かな傷で、根っこから完全に叩き折られてしまったということを理解したような微笑を彼女は浮かべたのだから…。
「…お帰り、カズサ。お前は随分遠回りしたけど、やっとお前に帰ってきた。私が大好きだったガキ大将、沢木の紅若にやっと戻ったね。」
「……綾乃。」
すっと無駄のない動作で綾乃が立ち上がると、俺を出迎えるように歩み寄った。
いつもの武者姿ではない。
女の装束を小奇麗に纏い、旅支度をした綾乃。
俺の目の前まで来ると、突っ立ったままの俺を見上げ、腹の傷を擦った。
「禄衛門も成長したものだね。お前に一太刀浴びせれるようになるなんて…。カズサ、まさか私を置いていくなんて言わないよな?私は、お前の妻だ。夫婦の契りも交わした。これからも、お前の戦を、お前の傍で見守っていっても良いよな?」
綾乃の肩に手を置く。
「綾乃……。」
俺はお前がいてくれて良かった。
まだ、お前さえいてくれるなら…。
そう口に出そうとした瞬間、俺の脳裏に浮かぶあの滅びの村。
あれは俺のせいで滅んだ村。
死者が俺を見詰め、怨念がズシリと俺の背中に取り付く。
無論、錯覚だ。
そんな気がしただけだ。
だというのに、綾乃に一緒に逃げよう、その一言を告げられない。
「……カズサ?」
綾乃が俺を見上げる。
俺は、綾乃を守れるのか。
俺に、自分一人、綾乃を連れてのうのうと生き残っても良い資格があるのだろうか。
仲間を犠牲にし、龍雅ですら躊躇なく斬り捨てようとした俺が、綾乃をこれから待つ逃亡生活の中で幸せに出来るのだろうか。
間違いなく、俺は争いを呼び込むだろう。
俺の意志に関係なく、ではない。
間違いなく俺の意志でだ。
俺は、死神だ。
宗近の言う通り、俺は死を撒き散らした祟り神だ。
「…綾乃。」
俺は言わなければいけない。
一緒に逃げよう。
俺と一緒に生きてくれ。
綾乃のためにも、俺を生かそうとしてくれた龍雅やみんなのためにも。
「…カズサ。」
綾乃も待っている。
その一言があれば、彼女はどこまでも付いて来てくれるだろう。
彼女が隣にいてくれるなら、逃亡生活も絶望ではない。
肩に置いた手の平が汗ばむ。
「…綾乃、お前はここに、残れ。」
「……!?」
綾乃が息を飲む。
俺は彼女を直視出来ず、奥歯を噛み締めていた。



「ど、どうして…。どうしてなんだ…!答えろ、カズサ!!」
綾乃が狼牙の襟を力強く揺さぶる。
悲痛な表情を浮かべたまま狼牙は何も答えない。
答えられないのだ。
彼は考えてしまった。
追手を防ぎ切れるか。
追手から綾乃を守っていけるのか。
そして綾乃をもし失ってしまったら自分は立ち上がれるのか、と。
やがて悲痛な表情のまま、彼は泣きそうな声で答え始めた。
「怖いんだ。お前を失うのが…、お前が傷付くかもしれないと思うと…、怖いんだ…。」
「カズサ!?」
綾乃も見たことがない狼牙の姿。
初めて見る年相応の彼の姿に綾乃は困惑した。
すでに狼牙の緊張の糸は切れていた。
それは綾乃や龍雅、仲間のために見せていた猛将、沢木上総乃丞狼牙という仮面が崩れ、弱く、繊細で、あまりにも若すぎる、素顔の十代の少年がそこにいた。
「俺は誰も守れない…。村瀬も佐久間も篠崎も、みんな俺を…、俺なんかのために死んでしまった。禄衛門にしてもそうだ。あいつは俺を助けようとしたのに、俺はあいつを一歩間違えれば殺してしまうところだった…!」
「それは、カズサの心が昂っていたから…!」
「違う、俺は正気だ。例え、お前の言う通りそうだったとしても、いつ、その刃が、お前に向かないとは限らない!一度向けた刃は、友であろうと何であろうと、何度でも向けられる…!だから、お前はここに残るんだ。禄衛門がお前のことを助けてくれる。お前はここに残って、ここで生きてくれ…。」
「嫌だ!カズサ、お前は言ったじゃないか!!お前の傍で寄り添っていても良いと。私を失いたくないと!それはすべて嘘だったのか!!一時の快楽が言わせた嘘だったのか!!!」
綾乃の剣幕にも狼牙は変わらなかった。
力なく涙を流し、ただ綾乃に揺さぶられるまま。
それはまるで抜け殻。
死神、祟り神を自覚してしまった少年はただ幽鬼の如く、ゆらりと希薄にただそこに存在する。
「お願いだ…、逃げるのなら…。逃げるのなら…、私も一緒に連れてって…。」
狼牙の胸に顔を埋めて、綾乃は懇願する。
熱い涙が狼牙の着物を濡らしていくが、狼牙はそれを拒む。
残酷な拒絶と悲しい懇願を繰り返す二人だけのお堂の中で、風もないのに頼りない蝋燭の明かりが、ゆらゆらと二人の感情を反映するように揺れていた。


―――――――――――――――――――――――


不意にカズサから引き離された。
振り向くと、稲荷様が私を後ろから抱きしめ、首を振る。
その頬には涙が流れていた。
「は、放してください、稲荷様!」
「綾乃…、ここまでなのです。わかって…、ください…!」
「わかりたくありません!私はカズサと一緒に…!!」
「行けないのです…。あなたたちは、例えどのような未来を選ぼうと、共に生きることは出来ないのです!私だって探していたのです…。あなたたちが幸せに暮らせる未来を、共に生きていける未来を探していたのです…。ですが、なかったの…!未来はどんなに変えようとしても、真っ暗な闇の中に沈んで…、たった一つの悲しい結末にしか辿り着かなかったのです!!」
稲荷様が叫ぶように、私に言った。
後々考えれば、それは私を諭し、説得していたのではなく、自らの無力を嘆いた彼女自身を責める言葉だったのかもしれない。
「嘘だ、そんなのデタラメだ!未来なんて、わかるはずが…!!」
「わかるのです!私にはすべて、何百年先まで…。だからこそ、上総乃丞は一人で行かなければならないのです。たった一人で自分と、自分の使命に向き合い、傷付き、倒れていかねばならないのです…。」
長い髪に隠れて、稲荷様の表情は読めない。
でも、声が震え、私を抱きしめる手が震えて、その細い指が力一杯私の着物を握り締めていた。
「宗近……。」
「お行きなさい。綾乃は私が、守ります。あなたのために、無力な私のせめてもの罪滅ぼしに…。あの少年と共に、綾乃を守ります。だから、あなたはあなたの成すべき使命に、あなたという物語を始めるために、行きなさい…。」
稲荷様がカズサに手を伸ばす。
そしてその手の平がカズサの腹部を触ったその時。
「っ!?」

バキィ

カズサの身体が吹っ飛び、扉を突き破ってお堂の外へ放り出された。
またぬかるんだ泥の上でカズサが転がった。
いつの間にか、また雨が降り始めている
「カズサ!」
咳き込みながらカズサが立ち上がる。
「……一度、あなたに叩き込みましたね。あなたに教える最後の技、名を鎧通し。極めれば、鎧の中を、身体の中から破壊する奥義です。私から、あなたへ贈る餞別です。あなたの師匠として、こんなものしか贈れません…。あなたのことは言えません。私もまたあなた同様、不器用にしか生きれないのですから…。」
カズサが素早く起き上がる。
そしてさっきまでの呆けた顔ではなく、いつものような顔に戻った彼は泥の上にも関わらず、膝を折って正座をした。

バタバタバタバタバタバタバタ……

雨が強くなり始め、お堂の屋根を打ち付ける。
カズサは姿勢を崩さず、正座をしたまま私たちを見詰めていた。
その背筋の伸びた姿が美しくて、私もお堂の軒まで行き、正座をして彼と対じする。
さっき、悔しくて、悲しくて、言い争っていた心が嘘のように静かになる。
稲荷様が静々と私の隣に座る。
屋根を打ち付ける雨の音、ぬかるんだ地面の上を跳ねる雨の音が、まるで現世と隠り世の境目のような不思議で不安定な感覚。
カズサの向こう側で稲荷様の符で顔を隠した禄衛門が、まるで芝居小屋の黒子のように控えている。
カズサの夢に、カズサの心に幕を下ろしたのは彼だ。
それが、そんな印象を持ってしまったのかもしれない。
泥の上に手を突き、カズサが額を地面に付けて礼をする。
「ありがとう、ございました!拙者の如き未熟者を見捨てず導いていただいたにも関わらず、師の心を蔑ろにしただけでなく、拙者の未熟な行いで招いた、此度の不始末を師に自らを卑下させてしまった拙者に、何よりの…、身に余る餞別を頂戴し、感謝の言葉もございません…!!」
顔を上げず、カズサは叫ぶ。
声が、泣いている。
稲荷様が着物の袖で、そっと涙を拭う。
「私こそ、あなたに無茶を言いました。あなたをからかい、あなたと綾乃とも楽しい時間をすごしました。ありがとう、は私の言葉です。浜辺に食料と多少の金子を積んだ小舟を用意をしています。おそらく、あなたに必要のないものになるかもしれませんが、私のせめてもの心付けと思って受け取ってください。」
「はい、師匠!本当に…、本当にお世話になりました!!」
稲荷様が私の背中を、ポンと叩く。
次は私だと、やさしい目が言っていた。
「カズサ……。」
カズサが顔を上げる。
顔が泥だらけになっていた。
「止めても…、無駄なんだね…。」
何も言わずに目を伏せる。
それがカズサの肯定の印。
「……お前と一緒に行きたい。お前と一緒に生きたかった。でも、それが叶わぬ夢なら、もう…、何も言わないよ。だから、約束してくれ…。」
雨が降り続ける。
まるで私とカズサを引き離すかのように…。
「………絶対、死に急ぐようなことはしないでくれ。その命を全うするまでどんなことがあっても生き延びてくれ…。どんな困難がお前の道を塞いでも、今度こそ戦い続けてくれ。」
「…約束、するよ。」
「カズサ……、愛してる…。たぶん、この命が尽きる日までお前を忘れない。」
精一杯の笑顔でカズサを見送る。
堪えていた涙が、溢れてくる。
止めようにも……、止まらない…。
「綾乃、俺も………、お前のことを忘れない。上総乃丞の名は、この地に置いて行くよ。この名を、俺を上総乃丞と、カズサと呼ぶのは未来永劫、お前だけだ。」
カズサが立ち上がり、一礼すると走り出した。
離れたくない、離したくないという思いが一致していたのに、私たちはこの瞬間から別の時間を生きなければならない。
カズサの後姿が遠くなる。
私は堪らず、声を張り上げた。
「カズサぁぁぁぁぁーっ!!!」
カズサが立ち止まり、振り向く。
もう、その表情は読み取れない程に遠い。
これが、二人の、最後の距離。
「もう一つ、約束してくれ!!カズサぁぁーッ………………………………!!!」


―――――――――――――――――――――――


…………………………。
………………………。
……………………。
…………………。
「それから?」
アスティアが続きを聞く。
「そこからは簡単さ。師匠の用意した小舟に乗って海に出て……、急な嵐に巻き込まれて…、気が付いたらこの大陸の浜辺に寝ていた。」
もっとも、その時不思議な森を通ったような気がしたのは、彼女たちには黙っておこう。
俺自身、今一つ確信が持てない。
「……今でも、アヤノって人のこと。愛しているんですか?」
ネフィーがおずおずと尋ねた。
本当に、俺の娘以上に俺のことを心配してくれる娘だな…。
「ふぁっ。」
ネフィーの頭をやさしく撫でる。
気持ちが良いのか、ネフィーは目を閉じ、尻尾をパタパタと揺らす。
「…愛しているか、どうか。あまりに時間がかかりすぎてな。俺にももうわからん。ただ一つ言えるのは、あいつとの思い出は俺にとって黄金の季節だったということだ。」
動かない右腕にアスティアが腕を絡めてきた。
アスティアは無言で、ただ微笑んで俺を見る。
「……そしてご察しの通り、この大陸に渡って来てから俺は彼らの冥福を祈りながら生きてきた。何年彷徨ったんだろうな…。そのおかげで俺の年齢が不正確になってしまったが、ちょうどそんな頃だよ。旅の途中でアスティアの……、あの事件に巡り合ったのは…。」
「あ………。」
アスティアの事情を知るネフィーは小さく声を上げた切り、黙りこくってしまった。
今でも覚えている。
凄惨な虐殺の跡。
死体を弄ぶ鬼畜の兵。
幼い少女を陵辱して尚笑う兵士。
鎖に繋がれた、あの日のアスティア…。
「ロウガ、お前は何故私を助けてくれたんだい。正義の味方気取りの安い正義感か、それとも何か打算を見込んだ行動だったのかな?」
アスティアが意地悪な笑いを浮かべる。
そうではないことを、お前は知っているクセに…。
「おやおや、ロウガ。黙っていたんじゃ、伝わらないじゃないか。」
「…………はぁ、まったく…。俺がお前を助けたのは、ただの自己満足だよ。正義かどうかなんて考えたこともなかった。俺がお前を助けたのは、俺の中で何かが囁いたからだ。また見殺しにするのか、って声が聞こえた気がした。それで気が付いた時には、一人殺っていたよ。それから先は後戻り出来なかったから、後は流れの結果さ…。」
「私としては、鎖に繋がれた少女に運命を感じた…、くらいのロマンスがあっても良いんじゃないかと思うんだがね。」
「……今も昔も、俺に幼女嗜好の趣味はない。」
そろそろ戻ろうかと、彼女たちを促す。
ネフィーは先に戻って酒の追加をしてくると走って行った。
心持ち嬉しそうに、尻尾を揺らして。
「…彼女、少し嬉しいんだね。君に一歩近付いた。それだけであんなに嬉しそうに走っていく。可愛いものだね。」
風に乱れる髪を掻き上げながら、アスティアは呟いた。
「……気を、遣ってくれたのかな?」
「そうかもね。」
思わず顔を見合わせ、笑った。
アスティアが空いた左手に、指を絡めて握った。
「…ロウガ、昔はどうか私は知らない。むしろ、この町には過去を語れない住人が多すぎるけど、大事なのは今現在だよ。君の居場所は、私の手が握られたここだ。君はどこにも行けない。私もどこへも行けない。二人に最期の時が訪れるまで、私たちは一緒だ…。」
「ああ、今度こそ……、俺は逃げないよ。後悔は捨てない。俺はたった一人の女すら守る勇気がなかった。それが、あの日とは比べ物にならない数の命を預かっている。何の因果かわからないが、今度こそ俺は逃げない。マイアのためにも、サクラのためにもな。未来を確実にあいつらに繋ぐために。」
「…………うん。」
アスティアが俺の手を強く握る。
「ロウガ…。」

また生まれ変わっても、私と出会ってくれ。

「綾乃…?」
それは、俺が聞いた綾乃の最後の言葉。
今まで話した昔話でも言わずに胸にしまっておいた言葉。
それも口調まで、思い出のままに。
「………え、あ、あれ。私は今、何を言った…!?」
アスティアが戸惑っている。
彼女も意図して言った言葉ではなかった。
胸の奥が熱くなり、アスティアの握る手を放し、彼女を抱き寄せた。
「ロ、ロウガ!?」
「良いから……、少しだけ…、このまま…。」
「……うん。」
綾乃、お前はここにいるんだな…。
ずぅっと、お前はここで俺と共にいてくれたんだな…。
肉体は滅びても、お前はずっとその魂だけでこの世界で俺を守ってくれていたんだな…。
「アスティア……。」
かつて綾乃という名であったかもしれないその魂よ。
「約束しよう。何度でも、どこに何に生まれ変わろうとお前を見付け出し、お前が俺を拒絶するまで、何度でもお前と添い遂げよう。」
「……馬鹿。そんな途方もない未来まで、約束する馬鹿はいない。」
綾乃、今までありがとう。
お前をずっと愛していた。
「アスティア、愛してる。」
「……だ、誰かに聞かれたら、恥ずかしいじゃないか!いきなり、どうし……、こほん。わ、私も、ロウガのことを愛してる…。で、でも、お前が私を拒絶したって、私はお前をどこまでも追いかけるからな。十年お前を想い続けて剣を振るったんだ。それぐらいは……、覚悟しておけ…。」
「ああ、知ってる。お前はそういうやつだよ。」
ずっと俺の背中を追って来た愛しい人よ。
さようなら、そして…、もう放さない。

























「稲荷様………。」
深い眠りから綾乃は少しだけ目を開く。
「ここに、居りますよ。」
「ああ、そこにいらしたのですか…。」
弱々しく綾乃は微笑む。
余命、幾許もない彼女は、紅家の座敷牢で死の床にあった。
「…夢を、見ました。カズサの……、夢を。」
嬉しそうに微笑む綾乃を、宗近はいつものようにやさしい微笑で応えた。
「もう、5年ですものね…。本当に、懐かしい…。」
「……広い大陸を、ずっと旅し続けるのです。カズサはまるで乞食みたいな衣装を纏っているのですが、カズサは立ち直っているのです。いつか、私たちが憧れた彼のように…。」
綾乃が大きく咳き込んだ。
宗近は慌てて、綾乃の口に布を当てる。
布に、血が滲んでいる。
「…そうでしたか。それは、幸せな夢でしたね。」
「はい…。夢の中で、私は酷く世界を憎んでいました。世界を憎んで、見たこともない武器を持って、戦っていました…。そんな私を、カズサは救ってくれたのです……。」
「ふふふ、本当にあの子がそういう男に成長してくれていたらよろしいのですがね。」
「成長、していますよ。きっと。だって……、私のカズサですから。」
大きく息を吐いて、綾乃は呼吸を整えた。
気管が、ひゅーひゅーと悲鳴を上げている。
「綾乃、無理をしてはいけません。私の見た未来では、あなたはもっと長生きをするのですよ。今無理をして、死に急ぐようなことをしてはいけません。」
「あはは…、稲荷様でも嘘を吐くのですね。わかっているんです。私は、時間切れだと。死ぬのは怖くありません。向こうに行けば、先に逝った仲間たちや両親、カズサのご両親も兄弟もそこいる。寂しくはありません。でも……、心残りは、私も人並みにあります…。稲荷様、息子は……、真紅狼(しんくろう)は、どうしていますか?」
真紅狼、宗近がかつて狼牙と綾乃をけしかけて、一夜を過ごさせた時に生まれた狼牙の一粒種である。宗近が綾乃をあの一夜以降、戦場に出さなかったのもすべては無事に子供を生ませるためであった。
それは、大いなる反逆。
隣り合う世界の王は、狼牙とのすべての因縁を断ち切ることを望んだ。
しかし、彼女はそれに反した。
すべては綾乃のために。
すべては自分のために。
愛弟子がこの世界に存在したという証を、何としてでも残したかったから。
「…あの子でしたら、私の御山で元気に修行しています。私を、母と信じて…。」
「……あの子を、よろしくお願いします。私の、カズサとのたった一つの思い出ですから。」

このやり取りから数日後。
綾乃は、眠るように旅立っていった。
そして、綾乃の死後、すぐに宗近はその土地から姿を消す。
たった一人、幼い弟子を連れて、いずこかの土地へ旅立ってしまったと、後に龍雅は、ロウガに静かに語ったという。




―――――――――――――――――――――――




日々の執務を終えて、私は私室に戻る。
いつものようにソファーで紅茶でも飲んで寛ごうかと思って、ドアを開けるとそこに意外な客が、私を睨んでいた。
「へぇ…、まさか君の方から私のとこに来るなんて…。珍しいね、ロウガ。槍でも降るのかな?」
『何故だ。』
「わかりかねるね。何が、何故なのかな?」
『何故、龍雅を巻き込んだ。龍雅は関係ないはずだ…。お前は、俺を…、俺一人を望んだはずだろう!』
その口振りを聞くと、私の暗示は薄れている。
だが、それで良い。
そうでなければ、彼を呼んだ意味がない。
ソファーに腰掛け、足を組んで座る。
「…質問に答えようか。確かに私は彼を…、タツマサだったね。タツマサをこの世界に通した。だが、それは彼が望んだこと。私の意志とは関係ないことだ。」
『そんな答えで納得すると。』
「思わないね。だが、それが事実。彼は君と違い、彼の意志でここまで辿り着いた。記憶の混乱は君にもあるだろう?彼にも随分、記憶の混乱はあると思うが、彼の場合、そうしなければいけなかった。」
『お前は、あいつに何をした!!』
「直にわかるよ。ロウガ、君にしてもそろそろ知りたいんじゃないかな。何故自分がここに、この世界に辿り着いたのか…。もしも目が覚めても、私の言葉を覚えていたなら、その脳裏に刻むと良い。私はね、世界をそろそろ変えたいのだよ。」
『どういうことだ!?』
ロウガはいきり立って机を叩く。
やれやれ、私の欠片だというのに、何と気の短いことか。
「言葉通りさ。世界を変える。もちろん、一旦すべてを滅ぼして新たに作り直すなんて面倒な意味じゃない。私は、この停滞し切った世界を動かしたいのだよ。そのために軍を動かし、私自ら動こうともした。だが、駄目だった。私たちのような強力すぎる力は、動けば何かが滅びる。そうなっては意味がないんだよ。君と争うフウム王国も教会領ヴァルハリアにしてもそうさ。一見すれば滅んでも差し障りのない連中でも世界の何らかの歯車の中に取り込まれている。急に滅ぼせば、また神の座、魔王の座を巡って戦が起きないとも限らない。そこで私は一人の人間を欲した。他人に任せるのは面白くない、やはり私のやりたいことなのだから、私にやらせたいというのが人情ってものだろう?」
ニヤリと私はロウガに笑ってみせる。
するとロウガは何か感じたように驚いた顔をした。
「……君は何もしなくて良い。私の指示を受ける必要もない。覚えておいてほしい、遥か隣り合う世界から来た私よ。君の言葉、君の行動が世界を動かす。君の魂が種となり、やがて停滞した世界を少しずつ動かしていく。あらゆる世界の中でもっとも私に近い存在の人間は、君だけだった。私は動けない。だからこそ、世界を人の手に委ねたい。人の手で変えて欲しいと切に願うのだよ。」
窓の外で朝日が昇り始める。
ああ、また今日もろくな休息が出来なかったな…。
ロウガの身体がぼやけていく。
「君も時間切れだ。無理をすると二人の奥さんが悲しむよ。」
『最後に教えろ…。お前は誰だ…。』
「…魔物たちの王、かつてはルシフェル、サタン、アンリ=マユなどの様々な名で呼ばれし、古き者。名前など意味は持たない。私は、自分の名前も、その時の中で忘れてしまった愚かな女なのだからな。」
ロウガの姿が完全に消えてしまった。
ああ、世界が動く。
数多の怨念が渦巻き、地獄の季節が舞い降りる。
君にも彼にも、彼女にも。
終わらない地獄の季節を君は生きる。
それでいい。
やっと幻想は…、
やっと物語は…、
君という物語を犠牲に終わりを奏で、始まりを歌う…。
いつぞや、彼を探しに行った時に喜びのあまり口ずさんだ言葉。
「…ククク…、クックック…、あっはっはっはっはっはっはっは!!!そうだ、ロウガ。今は私の欠片よ!ジュリアス、アレクサンドロス、ツァオツァオ、ラムセス、テムジン、数多の世界を変革に走らせた私の欠片たちの如く、世界を掻き回せ!!君という物語は、私など不要なのだ。君は唯、ロウガの名をこの世界に刻め!!それで、やっと世界は緩やかに、変わるのだ!!!」


11/01/07 00:32更新 / 宿利京祐
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■作者メッセージ
お待たせしました。
過去編、終了です。
次回は時間軸を元に戻します。
そして貴婦人の正体は、とっくにばれていますが魔王です。
元々あまり隠す気はなかったので、バレバレです。
そしてロウガは平行世界の魔王と同一人物です。
ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。
ロウガは、立派に人間です。
ただ同じ存在、それに等しいというだけなので、
突然チート化することはありませんのであしからずw

では最後になりましたが
本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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