第六十話・Bad Communication BeforeB
「……沢木、主命だ。大人しく投降してくれ。そうすれば紅家が全力を挙げてお前を…、綾乃を助ける!そうでなければ…、俺は……、俺は…。」
そう言って、龍雅は頬面の下で涙を流し、言葉を詰まらせた。
この先を言えば後戻りは出来ない。
だが、主命に背けば、何のために狼牙を見放したのかと、少年は葛藤する。
狼牙は穏やかな表情のまま、緩やかな速度で馬の足を龍雅へ向けた。
突き出したままの薙刀が細かく震えていた。
狼牙はその薙刀の柄に手を掛けると、ゆっくりと下ろさせた。
「ベニロク、慣れないことはするもんじゃない。お前が追手になった、ということは紅家は沢木の家から離反した。いや、違うな……、紅家は沢木の血を残すことを選んだということだな?」
龍雅は頷いた。
すすり泣く声だけが、頬面で隠れた顔の向こう側から響く。
「伯父御らしい冷静な判断だ。あの人は戦は下手だが、生き残るためのしたたかな処世術は素晴らしい。なぁ、ベニロク……。俺は、間違っていたのか……。俺は俺の信じる道だけを突き進んできた。振り返らず、省みず、ただ目の前の敵を屠り、蹴散らし、血飛沫の彼方に戦のない太平の世があると信じてきた。なのに俺ときたら、現実はどうだ…。味方に裏切られ、味方を犠牲に生き汚く生き残って、戦のない世の中を作りたいがために村を滅ぼし、子供を殺し……。俺は、どこで間違ってしまったんだろうな…。」
龍雅は何も答えない。
その沈黙に狼牙は答えを見出した。
「……そっか。最初から間違えていた、という訳なんだな。そうだよな、あの女狐の言う通りだ。俺は急ぎすぎたんだな…。本当は綾乃が欲しくて、綾乃に相応しい男になりたくて、お前みたいに回り道をしなければ良かったんだな。俺は一人の女を手に入れる前に、英雄になることを望んだ…。その差が、俺とお前の埋められない差、ということなんだな…。」
「沢木……!」
「……俺は生き残った連中を連れて海を征く。どこか知らぬ土地で初めからすべてをやり直す。お前は、お前の役目を果たせ。押し付けるようで悪いが、親父や弟たちを頼んだぞ。」
「沢木、もう遅いんだよ…。親父さんもみんな……、死んだんだ!」
龍雅と擦れ違い、お堂に向かう馬上の狼牙の息が止まる。
風が、ざぁ、と木々を揺らした。
龍雅の悲鳴にも似たその声が、まるで鋭く響くようにその場に余韻を残した。
「…………死んだんだよ、沢木。村瀬さんも……、佐久間さんも篠崎さんも誰も彼もが死んだんだよ!俺は唯一生き残った丸蝶の人間として、みんなの首実験をする羽目になった。間違い、なかった…。間違いなくみんなの首だった…。」
「………………………龍雅、それはお前の目が間違っているんだ。佐久間も篠崎も俺を逃がそうとしてくれた。どこかではぐれてしまったが、きっとあいつらはしぶとく生きている。村瀬にしてもそうだ。あの豪傑が、早々死んでたまるかよ。あの程度の囲みなど、あいつにかかれば造作もない。」
龍雅が首を振る。
狼牙は認めたくなくて、何度も間違いだと言うが、龍雅は何度でも首を振った。
「ベニロク!」
「沢木、認めようよ……!夢は終わったんだ…。丸蝶は、もう俺とお前、それと綾乃だけなんだ…!頼むよ…、生きてくれよ…。俺は、お前まで……、憧れた人を、これ以上失いたくないんだ……。」
狼牙は天を仰ぎ、吼えた。
口惜しさと、腹立たしさと、無力さを、自らの身体から追い出したかった男の悲しい咆哮。
「親父さんや、沢木の兄弟も死んだ…。俺が呼び出された時、すでにみんな首だけになっていたんだ。守護は、自分の地位を脅かすお前を、丸蝶の人間を許さない。家老様が諌めなければお前を慕った領民ですら、征伐しようとしていたくらいに、あいつの心は荒んでいる…。」
「………………それなら、俺はどう足掻いたって生き延びれないな。」
狼牙は悟っていた。
自分の見る夢はこれで終わりであると。
「…沢木、俺の家の奥座敷は座敷牢になっているんだ。そこで綾乃と二人、匿っておくぐらい…。」
「……ベニロク、そこまでだ。俺も綾乃も首輪を繋がれてでも生き延びる程、命を重く見ていない。お前はお前の使命に従った。それで良いじゃないか…。俺は、自分の犯した罪を抱いて死ぬのは怖くない。むしろ当然だ。村瀬も、佐久間も篠崎も、親父も弟たちも、ガキたちの未来も、俺の愚かしさが死に追いやった…。お前は、そんな俺を成敗しに来た。それで、良いじゃないか。」
狼牙の顔付きが変わる。
龍雅はその顔を見て、ハッとした。
お堂へと向いた足は龍雅へ向け、狼牙の変化に合わせるように馬もまるで力を溜めるように踏ん張り、狼牙は大薙刀を大上段に仰々しく構えていた。
龍雅にとって、それは久しく見ていない狼牙のもっとも迷いのない情熱に溢れていた、彼の憧れた自分の正義を信じて戦い始めた頃の男の姿だった。
「お前のお役目は何だ、ベニロク。」
「お前を…、綾乃を助けること…。」
それを聞いて狼牙は龍雅を嘲笑う。
「違うだろ。お前の役目は主命を以って俺に投降を勧めること。そして俺がその主命従わなければ、俺を斬れ。俺の首を持って守護の下へ帰参せよ、のはずだ。ベニロク、間違ってはいけない。俺はお前の投降勧告など聞く耳持たない。お前は、お前の役目を果たさざるを得ない。」
龍雅が飲み込んだ言葉を、狼牙は易々と受け入れた。
龍雅は身震いした。
彼が越えなければいけない壁を、狼牙は易々と越えてくる。
命のやり取りを平然と受け入れてしまう。
その姿に、龍雅は感動した。
自分の目指した背中はまだここにある。
自分が越えなければいけない壁は、やはりこの男なのだと。
「我、紅 禄衛門。我が信念において、沢木上総乃丞殿に一騎討ちを所望致すなり!」
「禄衛門殿、存分に参られよ。此度の戦、実に華のない戦ではあったが、互いの一騎討ちにて戦に華を添えようぞ。この一閃に我らの夢の終焉を刻もう。」
「応っ!」
龍雅が馬を目一杯突進させ、馬上で薙刀を大きく振り被る。
彼はこの状況を嬉しいと感じていた。
憧れた男が、今この瞬間に自分を対等に見てくれた。
それだけで、例え彼はここで力尽きても満足して逝けると喜んでいた。
―――――――――――――――――――――――
わかっている。
敵いっこない。
俺はあいつより歳が下で、あいつみたいなデタラメな強さはない。
あいつみたいに自力で大将首をいくつも取ったことがない。
そりゃそうさ、まだ元服もしていないんだからしょうがないよ。
でも、あいつはそうじゃない。
あいつは元服前だとか、歳が下だとか、そんなことを言い訳にしたことがない。
それでもあいつは戦った。
綾乃だってそうだったじゃないか。
綾乃だって女の身で戦場に出てた。
わかっていたよ。
綾乃もあいつの背中を追いかけていた。
あいつのことしか見ていなかったってことぐらい。
あぁ、クソ。
むかっ腹が立つ。
あいつらにじゃない。
あいつが俺のことを対等に見てくれているってのに、俺はどこかに逃げ道を探している。
わかっている。
ここで逃げ道探してちゃ、俺はずっと逃げながら生きていかなきゃいけない。
親父みたいに、沢木を見限ってでも逃げなきゃいけない。
それは…、もうごめんだ!
それでも色々諦めなきゃいけない。
綾乃は沢木のものだ。
俺のものじゃない。
沢木やみんなと見た夢もお終いだ。
でも、諦めちゃいけないものがある。
俺が目標とした背中を、憧れた男をガッカリさせちゃいけない。
沢木は俺を認めてくれた。
俺を同等に見てくれた。
なら、いつまでも泣いちゃいけない。
俺は、沢木にしっかりと、俺を見せ付けなきゃいけないんだ!
…………………………。
………………………。
……………………。
…………………。
「……興味深々だな、少年。」
「え、あ、あの…、はい。」
サクラに杯に酒を注がれて龍雅はグイと飲み干した。
その傍らでマイアは黙って龍雅の昔話を聞いていた。
マイアは少し戸惑っていた。
自分の知らない父親の姿に。
父親の姿と自分の愛しい少年の姿が重なって見えたことに。
「意外そうな顔をしているね、お嬢ちゃん。」
「…ええ、少しだけ。あんなデタラメに生きてきた父に、そんな一面があったなんて思いもしなかったので。」
マイアは考えていた。
龍雅の昔話の中のロウガは、タイプが違うもののサクラによく似ている。
力を持たず、力を欲して、その力に溺れ、自分を見失いかけたサクラ。
絶大な力を持ち、その力を行使し、滅びを呼ぶ者と化した父、ロウガ。
サクラとの決定的な差は、それを止めてくれる誰かがいたか否か。
いや、そうではないのだとマイアは思い至る。
ロウガはその止めてくれる誰かすら振り切って走り続けたのだと気が付いた。
「…一つ、教えてください。」
「何かな、お嬢ちゃん。」
「父は本当に、敵対する勢力を皆殺しにしたのですか?」
龍雅は少しだけ、苦笑いをして答えた。
「本当さ。あいつは自分の正義を信じた。後々知り合ったあいつの師匠も懸念していたことだけど、あいつは躊躇なく皆殺しにした。俺もあいつの命に従った。仲間もそうだ。あいつを、あいつの信じた正義を信じ続けた。いつか戦のない世を作るため…、そう言って俺もあいつも盲目的に血に塗れた。今のあいつはそういう性格じゃないのかい?」
ええ、そう言ってマイアは自分の思考の中へ戻っていく。
いつか彼女はロウガに違和感を感じたことがあった。
ロウガは現在、フウム王国やヴァルハリア教会領などの反魔物勢力と戦っている。
だが、それ自体は問題ない。
世界は、親魔物か反魔物かで分かれている。
互いが互いに滅ぼせとせめぎ合う世界だ。
なのにロウガは親魔物の立場も、反魔物の立場も取らない。
それどころかただ魔物も人間も同等に扱い、この戦いにおいても彼はフウム王国もヴァルハリアや反魔物派というものを憎んでいないし、親魔物派勢力に特別な友好すら築いていない。
完全なる中立、彼女は自分の父親の立場をそう思っていた。
だが、それは知ってしまえばどうということはない。
絶対的な正義を胸に敵対する者を滅ぼす狼牙。
絶対的な正義を持たず敵対する者を憎まないロウガ。
その変化は簡単だと、マイアは思い至る。
父、ロウガは自らの過去に、今敵対する彼らとまったく同じことを行った。
彼はそんな彼らを憎まないのではなく、憎めない、憎む資格がないと考えているのだと知る。
そして、その思想こそがこの世界でもっとも異質な存在であることに、彼女は気が付いたのだった。
「………続きだ。あいつと対じして、俺は兜を脱いだ。当時、あいつの大薙刀はその重量に似合わず、風の速さを誇っていた。一振りしたかと思えば、首が三つ、四つ跳んだ。戦場でのあいつの姿は、まさしく鬼神だったよ。そんなあいつと一騎討ちするんだ。兜なんか着けていたら、視界が狭くて、死角から刃が俺の首を持っていくだろうよ。」
酒を飲んで、また龍雅は話し始める。
サクラは龍雅の話を興味深々で聞いている。
サクラも感じていた。
龍雅の話は、自分にもっとも関係の深い話なのだと。
これが自分の道標の一つなのだと。
―――――――――――――――――――――――
力の差は歴然としていた。
これまでの戦歴でもそうだった。
そんな相手に俺は無謀にも一騎討ちを挑む。
沢木は大上段、俺は身体を目一杯捻って薙ぎ払いを狙う。
正直なことを言えば、怖い。
それまでのあいつの印象が頭を掠め続けて、まともに見れば身体が萎縮する。
俺は沢木みたいに勇猛じゃない。
それでも生き残りたいから、その震えを奥歯で噛み殺した。
怖い、戦うのがこんなに怖いなんて感じたことがなかった。
ずっと勘違いしていた。
俺は、ずっと自分の力で修羅場を抜けてきたと思っていた。
違ったんだな…。
俺に勇気なんてなかった。
ただ沢木の後ろを付いて行っていた、それだけだったんだ…。
そんな俺だ。
綾乃が俺に振り向くはずもない。
だから、せめてこの瞬間だけは…。
振り向かなくても良い。
振り向いてくれなくても良いから…。
俺に勇気を、沢木を止めるだけの力を俺に授けてください。
綾乃……。
「うおぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
溜めた力を解放する。
怖いという思いを晴らすように声を張り上げる。
「ははっ。」
沢木が笑い声を洩らして、大上段の大薙刀を振り下ろす。
遠心力を自分に可能な限り付け、横薙ぎに俺は薙刀を振る。
覚えているのはそこまでだった。
泥の中で目が覚めた。
俺の乗っていた馬が痙攣を起こして血だまりの中に沈んでいる。
顔が痛くて目が覚めた。
顔面から落ちたらしい。
どれくらい意識を失っていたのだろうか…。
「見事。初めて、お前の力でここまで来れたな。」
沢木が止めを刺そうと大薙刀を振り被っていた。
俺は自分の状況を確かめる。
自分の薙刀は使い物にならない。
沢木の薙刀に激突して刃が砕け、柄から折れてしまっている。
振り抜いた左腕は衝撃で痺れてしまって、感覚がない。
絶望的だ。
素敵な程絶望的な状況に笑いが漏れる。
「ほう、笑うか。禄衛門。」
「ああ、笑うさ。諦めるしかないのに、俺はまだ諦めていない。それが嬉しいんだ。俺は今、初めてお前からも、綾乃からも解き放たれた。俺はやっと俺の場所に辿り着いた。」
ならばどうする、沢木は嬉しそうに聞くが俺は答えない。
沢木にしてはどうでも良かったのだろう。
「安心しろ、最小限の情けはかけてやる。」
沢木の言葉を解釈すれば、介錯はしてやるということ。
まったく……、洒落にならねぇ。
だが、今閃いた反撃の機会はたぶん一度だけ。
外したら間違いなく、命はない。
いや、首がないな。
「沢木、悪いけどまだ死ぬ気にならん。俺はもう少し、俺の居場所を楽しんでいたい。」
「阿呆が…!」
力強く大薙刀が、俺の頭上に振り下ろされる。
待っていたのはこの一撃。
後は野となれ山となれ。
―――――――――――――――――――――――
ザスッ
龍雅を狙ったはずの一撃は、地面を割った。
紙一重のタイミングで龍雅は狼牙の大薙刀を避ける。
「…ほぅ。」
狼牙は思わず感嘆の声を洩らした。
龍雅は地面を割り、めり込んだ狼牙の大薙刀を踏み付ける。
これが龍雅の閃いた逆転の一手だった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
龍雅は腰に下げた太刀を片手で引き抜く。
踏み付けた大薙刀をさらに踏み付け、大薙刀を柄から圧し折り、完全に無力化した。
龍雅は引き抜いた太刀を、狼牙の乗る馬の首目掛けて力の限り突き刺した。
刃が鍔元まで埋まり、馬の首を貫いて切っ先が鎧も着けていない狼牙の腹へ突き刺さる。
「……見事。」
狼牙を乗せた馬が後ろ足から崩れていく。
狼牙も、命を失い倒れいく馬と同じように、手綱を掴む手が緩み、泥の上へと落ちる。
べしゃり、と味気ない音を耳にして、初めて龍雅は太刀から手を放した。
震えている。
敵ではなく、初めて仲間を、親友を刺した龍雅は震えていた。
膝を突き、震える龍雅に狼牙は泥の中から弱々しく声をかけた。
「……駄目だろ、禄衛門。まだ止めを刺していない。落馬したと言って仕留めたことにはならないと、何度も言ったじゃないか。」
刺された腹を押さえて、狼牙は言う。
事実、龍雅の刺突は致命傷には至っていない。
いくら鎧も着けていないとは言え、狼牙の腹に刺さった切っ先はあまりに浅く、内臓にも筋肉にも達していない傷であり、落馬する程の威力ではなかったのだったが、狼牙はすでに戦うこと、生き残るという気力が萎えていた。
図らずも、龍雅の一撃は狼牙の騎馬を仕留めただけではなく、命を狙われるという連続する絶え間ない緊張、襲い来る後悔と自責の念で張り詰め続けた狼牙の戦意を、その僅かな傷を負わせることで奪い去ったのである。
「沢木…、生き延びてくれよ!お前がいなければ、綾乃も、俺も…!」
「今は禄衛門。いつか元服し俺の知らぬお前になる者よ。もう、お前に沢木上総乃丞狼牙は必要ない。お前はお前の居場所を見付けた。そんなお前に、俺はお前の道を塞ぐ邪魔者でしかない。お前は俺を刺した。ついさっきまで生き残ろう、せめて綾乃を連れて生き延びてやろう。そう思っていたが、ここが潮時だ。そんな思いも貫けない、自らの望みも押し通せない男が……、女一人守り切れるとは思えないんだ…。」
「頼むよぉ……、生きてくれよぉ…。俺は…、お前と綾乃……、誰が欠けても嫌なんだ…!」
狼牙は首を振る。
彼は生き残るという大前提に、自らの武力だけを頼りとしていた。
それは綾乃のためにも、傷付いてはいけない、倒れてはいけないという、ある意味で彼らしい、あまりにも若すぎる考えである。
それが龍雅の手によって破られた。
それによって狼牙は、夢の終わりを確信した。
自分は誰も守れないのだと…。
「ほら、介錯、頼むよ。」
狼牙は自分の太刀を龍雅に渡した。
ちりり、と綾乃にもらった鈴が小さく鳴った。
龍雅は泣きながら受け取る。
太刀の柄を握ったまま泣き崩れた。
狼牙も何も言わない。
ただ黙って目を閉じ、仰向けになって大地に転がっていた。
龍雅は泣きながら、何度も説得した。
しかし、狼牙は聞き入れない。
ゆっくりと時間だけが過ぎていき、龍雅は覚悟を決めた。
「……ベニロク、お前にはいつも苦労をかけるな。」
歯を食い縛って、龍雅は太刀を構える。
これが自分にとっても、やさしい季節の終わりだと龍雅は覚悟を決める。
龍雅が狼牙の喉に太刀を突き刺そうとしたその瞬間。
「それまで、ですよ。」
「えっ!?」
自分たち意外に誰もいないと思っていた龍雅は素っ頓狂な声を上げた。
だが、それまでだった。
龍雅の意識はそこで止まったまま、目覚めるのは随分後になってから。
宗近が妖しい手付きで、人差し指で突付くような形で龍雅の顔を隠すように呪符を貼る。
符を貼られた龍雅は太刀を構えたままの姿で、呪符の力で眠りに落ちた。
「む、宗近!?」
「上総乃丞、綾乃が待っています。死ぬのは、せめて綾乃に何か声をかけてからでも良いのではないのですか?」
いつものように粛々とした様子で宗近が狼牙を見下ろしていた。
狼牙が起き上がると、彼女は蝋燭の明かりの揺れるお堂を指差す。
何も言わず、いつもの笑顔もなく、暗い表情でお堂へ向かうように促す。
その表情に狼牙は圧倒され、ただ宗近に従い、お堂へと歩き出そうとする。
「……上総乃丞。」
宗近が後ろから狼牙を抱きしめた。
泥でその美しい着物が汚れてしまうのも構わずに。
「あなたは私の自慢の弟子。どんなに出来が悪くとも、私はあなたを見放すことはありませんでした。ですが、それも今宵でお終いです。もう、私はあなたを見守ることも、あなたを導いてあげることも出来ないのです。これからは…、あなたは自分の道を自分で切り開いていかなければいけません。そんな未来を知りながら、私は何も出来ませんでした…。お行きなさい、上総乃丞。これから後悔しないためにも、綾乃に会いなさい。」
子供をあやすように宗近は狼牙を抱きしめ、そしてゆっくりと放した。
「………宗近、お前は…。」
「恨みなさい、上総乃丞。私はあなたの未来を知っています。あなたが選ぶであろう未来も、あなたが選んだ結果、どのような未来が訪れるのかも何もかも。それなのに私は、あなたに拙い武芸と僅かな知識しか授けず、あなたがどんなに苦しむかも知っているのに……、知らぬ振りを続けていました。何か辛いことが訪れるたびに、私を恨みなさい。私を恨んで、せめてなじりなさい。あなたにはその資格があります。」
狼牙は何も言わずにお堂へと歩き出す。
そしてお堂を前にして彼は足を止めた。
「…宗近。」
「はい。」
「………ありがとう。それと、ごめん。俺が………、間違っていたよ……。」
そう言って、龍雅は頬面の下で涙を流し、言葉を詰まらせた。
この先を言えば後戻りは出来ない。
だが、主命に背けば、何のために狼牙を見放したのかと、少年は葛藤する。
狼牙は穏やかな表情のまま、緩やかな速度で馬の足を龍雅へ向けた。
突き出したままの薙刀が細かく震えていた。
狼牙はその薙刀の柄に手を掛けると、ゆっくりと下ろさせた。
「ベニロク、慣れないことはするもんじゃない。お前が追手になった、ということは紅家は沢木の家から離反した。いや、違うな……、紅家は沢木の血を残すことを選んだということだな?」
龍雅は頷いた。
すすり泣く声だけが、頬面で隠れた顔の向こう側から響く。
「伯父御らしい冷静な判断だ。あの人は戦は下手だが、生き残るためのしたたかな処世術は素晴らしい。なぁ、ベニロク……。俺は、間違っていたのか……。俺は俺の信じる道だけを突き進んできた。振り返らず、省みず、ただ目の前の敵を屠り、蹴散らし、血飛沫の彼方に戦のない太平の世があると信じてきた。なのに俺ときたら、現実はどうだ…。味方に裏切られ、味方を犠牲に生き汚く生き残って、戦のない世の中を作りたいがために村を滅ぼし、子供を殺し……。俺は、どこで間違ってしまったんだろうな…。」
龍雅は何も答えない。
その沈黙に狼牙は答えを見出した。
「……そっか。最初から間違えていた、という訳なんだな。そうだよな、あの女狐の言う通りだ。俺は急ぎすぎたんだな…。本当は綾乃が欲しくて、綾乃に相応しい男になりたくて、お前みたいに回り道をしなければ良かったんだな。俺は一人の女を手に入れる前に、英雄になることを望んだ…。その差が、俺とお前の埋められない差、ということなんだな…。」
「沢木……!」
「……俺は生き残った連中を連れて海を征く。どこか知らぬ土地で初めからすべてをやり直す。お前は、お前の役目を果たせ。押し付けるようで悪いが、親父や弟たちを頼んだぞ。」
「沢木、もう遅いんだよ…。親父さんもみんな……、死んだんだ!」
龍雅と擦れ違い、お堂に向かう馬上の狼牙の息が止まる。
風が、ざぁ、と木々を揺らした。
龍雅の悲鳴にも似たその声が、まるで鋭く響くようにその場に余韻を残した。
「…………死んだんだよ、沢木。村瀬さんも……、佐久間さんも篠崎さんも誰も彼もが死んだんだよ!俺は唯一生き残った丸蝶の人間として、みんなの首実験をする羽目になった。間違い、なかった…。間違いなくみんなの首だった…。」
「………………………龍雅、それはお前の目が間違っているんだ。佐久間も篠崎も俺を逃がそうとしてくれた。どこかではぐれてしまったが、きっとあいつらはしぶとく生きている。村瀬にしてもそうだ。あの豪傑が、早々死んでたまるかよ。あの程度の囲みなど、あいつにかかれば造作もない。」
龍雅が首を振る。
狼牙は認めたくなくて、何度も間違いだと言うが、龍雅は何度でも首を振った。
「ベニロク!」
「沢木、認めようよ……!夢は終わったんだ…。丸蝶は、もう俺とお前、それと綾乃だけなんだ…!頼むよ…、生きてくれよ…。俺は、お前まで……、憧れた人を、これ以上失いたくないんだ……。」
狼牙は天を仰ぎ、吼えた。
口惜しさと、腹立たしさと、無力さを、自らの身体から追い出したかった男の悲しい咆哮。
「親父さんや、沢木の兄弟も死んだ…。俺が呼び出された時、すでにみんな首だけになっていたんだ。守護は、自分の地位を脅かすお前を、丸蝶の人間を許さない。家老様が諌めなければお前を慕った領民ですら、征伐しようとしていたくらいに、あいつの心は荒んでいる…。」
「………………それなら、俺はどう足掻いたって生き延びれないな。」
狼牙は悟っていた。
自分の見る夢はこれで終わりであると。
「…沢木、俺の家の奥座敷は座敷牢になっているんだ。そこで綾乃と二人、匿っておくぐらい…。」
「……ベニロク、そこまでだ。俺も綾乃も首輪を繋がれてでも生き延びる程、命を重く見ていない。お前はお前の使命に従った。それで良いじゃないか…。俺は、自分の犯した罪を抱いて死ぬのは怖くない。むしろ当然だ。村瀬も、佐久間も篠崎も、親父も弟たちも、ガキたちの未来も、俺の愚かしさが死に追いやった…。お前は、そんな俺を成敗しに来た。それで、良いじゃないか。」
狼牙の顔付きが変わる。
龍雅はその顔を見て、ハッとした。
お堂へと向いた足は龍雅へ向け、狼牙の変化に合わせるように馬もまるで力を溜めるように踏ん張り、狼牙は大薙刀を大上段に仰々しく構えていた。
龍雅にとって、それは久しく見ていない狼牙のもっとも迷いのない情熱に溢れていた、彼の憧れた自分の正義を信じて戦い始めた頃の男の姿だった。
「お前のお役目は何だ、ベニロク。」
「お前を…、綾乃を助けること…。」
それを聞いて狼牙は龍雅を嘲笑う。
「違うだろ。お前の役目は主命を以って俺に投降を勧めること。そして俺がその主命従わなければ、俺を斬れ。俺の首を持って守護の下へ帰参せよ、のはずだ。ベニロク、間違ってはいけない。俺はお前の投降勧告など聞く耳持たない。お前は、お前の役目を果たさざるを得ない。」
龍雅が飲み込んだ言葉を、狼牙は易々と受け入れた。
龍雅は身震いした。
彼が越えなければいけない壁を、狼牙は易々と越えてくる。
命のやり取りを平然と受け入れてしまう。
その姿に、龍雅は感動した。
自分の目指した背中はまだここにある。
自分が越えなければいけない壁は、やはりこの男なのだと。
「我、紅 禄衛門。我が信念において、沢木上総乃丞殿に一騎討ちを所望致すなり!」
「禄衛門殿、存分に参られよ。此度の戦、実に華のない戦ではあったが、互いの一騎討ちにて戦に華を添えようぞ。この一閃に我らの夢の終焉を刻もう。」
「応っ!」
龍雅が馬を目一杯突進させ、馬上で薙刀を大きく振り被る。
彼はこの状況を嬉しいと感じていた。
憧れた男が、今この瞬間に自分を対等に見てくれた。
それだけで、例え彼はここで力尽きても満足して逝けると喜んでいた。
―――――――――――――――――――――――
わかっている。
敵いっこない。
俺はあいつより歳が下で、あいつみたいなデタラメな強さはない。
あいつみたいに自力で大将首をいくつも取ったことがない。
そりゃそうさ、まだ元服もしていないんだからしょうがないよ。
でも、あいつはそうじゃない。
あいつは元服前だとか、歳が下だとか、そんなことを言い訳にしたことがない。
それでもあいつは戦った。
綾乃だってそうだったじゃないか。
綾乃だって女の身で戦場に出てた。
わかっていたよ。
綾乃もあいつの背中を追いかけていた。
あいつのことしか見ていなかったってことぐらい。
あぁ、クソ。
むかっ腹が立つ。
あいつらにじゃない。
あいつが俺のことを対等に見てくれているってのに、俺はどこかに逃げ道を探している。
わかっている。
ここで逃げ道探してちゃ、俺はずっと逃げながら生きていかなきゃいけない。
親父みたいに、沢木を見限ってでも逃げなきゃいけない。
それは…、もうごめんだ!
それでも色々諦めなきゃいけない。
綾乃は沢木のものだ。
俺のものじゃない。
沢木やみんなと見た夢もお終いだ。
でも、諦めちゃいけないものがある。
俺が目標とした背中を、憧れた男をガッカリさせちゃいけない。
沢木は俺を認めてくれた。
俺を同等に見てくれた。
なら、いつまでも泣いちゃいけない。
俺は、沢木にしっかりと、俺を見せ付けなきゃいけないんだ!
…………………………。
………………………。
……………………。
…………………。
「……興味深々だな、少年。」
「え、あ、あの…、はい。」
サクラに杯に酒を注がれて龍雅はグイと飲み干した。
その傍らでマイアは黙って龍雅の昔話を聞いていた。
マイアは少し戸惑っていた。
自分の知らない父親の姿に。
父親の姿と自分の愛しい少年の姿が重なって見えたことに。
「意外そうな顔をしているね、お嬢ちゃん。」
「…ええ、少しだけ。あんなデタラメに生きてきた父に、そんな一面があったなんて思いもしなかったので。」
マイアは考えていた。
龍雅の昔話の中のロウガは、タイプが違うもののサクラによく似ている。
力を持たず、力を欲して、その力に溺れ、自分を見失いかけたサクラ。
絶大な力を持ち、その力を行使し、滅びを呼ぶ者と化した父、ロウガ。
サクラとの決定的な差は、それを止めてくれる誰かがいたか否か。
いや、そうではないのだとマイアは思い至る。
ロウガはその止めてくれる誰かすら振り切って走り続けたのだと気が付いた。
「…一つ、教えてください。」
「何かな、お嬢ちゃん。」
「父は本当に、敵対する勢力を皆殺しにしたのですか?」
龍雅は少しだけ、苦笑いをして答えた。
「本当さ。あいつは自分の正義を信じた。後々知り合ったあいつの師匠も懸念していたことだけど、あいつは躊躇なく皆殺しにした。俺もあいつの命に従った。仲間もそうだ。あいつを、あいつの信じた正義を信じ続けた。いつか戦のない世を作るため…、そう言って俺もあいつも盲目的に血に塗れた。今のあいつはそういう性格じゃないのかい?」
ええ、そう言ってマイアは自分の思考の中へ戻っていく。
いつか彼女はロウガに違和感を感じたことがあった。
ロウガは現在、フウム王国やヴァルハリア教会領などの反魔物勢力と戦っている。
だが、それ自体は問題ない。
世界は、親魔物か反魔物かで分かれている。
互いが互いに滅ぼせとせめぎ合う世界だ。
なのにロウガは親魔物の立場も、反魔物の立場も取らない。
それどころかただ魔物も人間も同等に扱い、この戦いにおいても彼はフウム王国もヴァルハリアや反魔物派というものを憎んでいないし、親魔物派勢力に特別な友好すら築いていない。
完全なる中立、彼女は自分の父親の立場をそう思っていた。
だが、それは知ってしまえばどうということはない。
絶対的な正義を胸に敵対する者を滅ぼす狼牙。
絶対的な正義を持たず敵対する者を憎まないロウガ。
その変化は簡単だと、マイアは思い至る。
父、ロウガは自らの過去に、今敵対する彼らとまったく同じことを行った。
彼はそんな彼らを憎まないのではなく、憎めない、憎む資格がないと考えているのだと知る。
そして、その思想こそがこの世界でもっとも異質な存在であることに、彼女は気が付いたのだった。
「………続きだ。あいつと対じして、俺は兜を脱いだ。当時、あいつの大薙刀はその重量に似合わず、風の速さを誇っていた。一振りしたかと思えば、首が三つ、四つ跳んだ。戦場でのあいつの姿は、まさしく鬼神だったよ。そんなあいつと一騎討ちするんだ。兜なんか着けていたら、視界が狭くて、死角から刃が俺の首を持っていくだろうよ。」
酒を飲んで、また龍雅は話し始める。
サクラは龍雅の話を興味深々で聞いている。
サクラも感じていた。
龍雅の話は、自分にもっとも関係の深い話なのだと。
これが自分の道標の一つなのだと。
―――――――――――――――――――――――
力の差は歴然としていた。
これまでの戦歴でもそうだった。
そんな相手に俺は無謀にも一騎討ちを挑む。
沢木は大上段、俺は身体を目一杯捻って薙ぎ払いを狙う。
正直なことを言えば、怖い。
それまでのあいつの印象が頭を掠め続けて、まともに見れば身体が萎縮する。
俺は沢木みたいに勇猛じゃない。
それでも生き残りたいから、その震えを奥歯で噛み殺した。
怖い、戦うのがこんなに怖いなんて感じたことがなかった。
ずっと勘違いしていた。
俺は、ずっと自分の力で修羅場を抜けてきたと思っていた。
違ったんだな…。
俺に勇気なんてなかった。
ただ沢木の後ろを付いて行っていた、それだけだったんだ…。
そんな俺だ。
綾乃が俺に振り向くはずもない。
だから、せめてこの瞬間だけは…。
振り向かなくても良い。
振り向いてくれなくても良いから…。
俺に勇気を、沢木を止めるだけの力を俺に授けてください。
綾乃……。
「うおぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
溜めた力を解放する。
怖いという思いを晴らすように声を張り上げる。
「ははっ。」
沢木が笑い声を洩らして、大上段の大薙刀を振り下ろす。
遠心力を自分に可能な限り付け、横薙ぎに俺は薙刀を振る。
覚えているのはそこまでだった。
泥の中で目が覚めた。
俺の乗っていた馬が痙攣を起こして血だまりの中に沈んでいる。
顔が痛くて目が覚めた。
顔面から落ちたらしい。
どれくらい意識を失っていたのだろうか…。
「見事。初めて、お前の力でここまで来れたな。」
沢木が止めを刺そうと大薙刀を振り被っていた。
俺は自分の状況を確かめる。
自分の薙刀は使い物にならない。
沢木の薙刀に激突して刃が砕け、柄から折れてしまっている。
振り抜いた左腕は衝撃で痺れてしまって、感覚がない。
絶望的だ。
素敵な程絶望的な状況に笑いが漏れる。
「ほう、笑うか。禄衛門。」
「ああ、笑うさ。諦めるしかないのに、俺はまだ諦めていない。それが嬉しいんだ。俺は今、初めてお前からも、綾乃からも解き放たれた。俺はやっと俺の場所に辿り着いた。」
ならばどうする、沢木は嬉しそうに聞くが俺は答えない。
沢木にしてはどうでも良かったのだろう。
「安心しろ、最小限の情けはかけてやる。」
沢木の言葉を解釈すれば、介錯はしてやるということ。
まったく……、洒落にならねぇ。
だが、今閃いた反撃の機会はたぶん一度だけ。
外したら間違いなく、命はない。
いや、首がないな。
「沢木、悪いけどまだ死ぬ気にならん。俺はもう少し、俺の居場所を楽しんでいたい。」
「阿呆が…!」
力強く大薙刀が、俺の頭上に振り下ろされる。
待っていたのはこの一撃。
後は野となれ山となれ。
―――――――――――――――――――――――
ザスッ
龍雅を狙ったはずの一撃は、地面を割った。
紙一重のタイミングで龍雅は狼牙の大薙刀を避ける。
「…ほぅ。」
狼牙は思わず感嘆の声を洩らした。
龍雅は地面を割り、めり込んだ狼牙の大薙刀を踏み付ける。
これが龍雅の閃いた逆転の一手だった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
龍雅は腰に下げた太刀を片手で引き抜く。
踏み付けた大薙刀をさらに踏み付け、大薙刀を柄から圧し折り、完全に無力化した。
龍雅は引き抜いた太刀を、狼牙の乗る馬の首目掛けて力の限り突き刺した。
刃が鍔元まで埋まり、馬の首を貫いて切っ先が鎧も着けていない狼牙の腹へ突き刺さる。
「……見事。」
狼牙を乗せた馬が後ろ足から崩れていく。
狼牙も、命を失い倒れいく馬と同じように、手綱を掴む手が緩み、泥の上へと落ちる。
べしゃり、と味気ない音を耳にして、初めて龍雅は太刀から手を放した。
震えている。
敵ではなく、初めて仲間を、親友を刺した龍雅は震えていた。
膝を突き、震える龍雅に狼牙は泥の中から弱々しく声をかけた。
「……駄目だろ、禄衛門。まだ止めを刺していない。落馬したと言って仕留めたことにはならないと、何度も言ったじゃないか。」
刺された腹を押さえて、狼牙は言う。
事実、龍雅の刺突は致命傷には至っていない。
いくら鎧も着けていないとは言え、狼牙の腹に刺さった切っ先はあまりに浅く、内臓にも筋肉にも達していない傷であり、落馬する程の威力ではなかったのだったが、狼牙はすでに戦うこと、生き残るという気力が萎えていた。
図らずも、龍雅の一撃は狼牙の騎馬を仕留めただけではなく、命を狙われるという連続する絶え間ない緊張、襲い来る後悔と自責の念で張り詰め続けた狼牙の戦意を、その僅かな傷を負わせることで奪い去ったのである。
「沢木…、生き延びてくれよ!お前がいなければ、綾乃も、俺も…!」
「今は禄衛門。いつか元服し俺の知らぬお前になる者よ。もう、お前に沢木上総乃丞狼牙は必要ない。お前はお前の居場所を見付けた。そんなお前に、俺はお前の道を塞ぐ邪魔者でしかない。お前は俺を刺した。ついさっきまで生き残ろう、せめて綾乃を連れて生き延びてやろう。そう思っていたが、ここが潮時だ。そんな思いも貫けない、自らの望みも押し通せない男が……、女一人守り切れるとは思えないんだ…。」
「頼むよぉ……、生きてくれよぉ…。俺は…、お前と綾乃……、誰が欠けても嫌なんだ…!」
狼牙は首を振る。
彼は生き残るという大前提に、自らの武力だけを頼りとしていた。
それは綾乃のためにも、傷付いてはいけない、倒れてはいけないという、ある意味で彼らしい、あまりにも若すぎる考えである。
それが龍雅の手によって破られた。
それによって狼牙は、夢の終わりを確信した。
自分は誰も守れないのだと…。
「ほら、介錯、頼むよ。」
狼牙は自分の太刀を龍雅に渡した。
ちりり、と綾乃にもらった鈴が小さく鳴った。
龍雅は泣きながら受け取る。
太刀の柄を握ったまま泣き崩れた。
狼牙も何も言わない。
ただ黙って目を閉じ、仰向けになって大地に転がっていた。
龍雅は泣きながら、何度も説得した。
しかし、狼牙は聞き入れない。
ゆっくりと時間だけが過ぎていき、龍雅は覚悟を決めた。
「……ベニロク、お前にはいつも苦労をかけるな。」
歯を食い縛って、龍雅は太刀を構える。
これが自分にとっても、やさしい季節の終わりだと龍雅は覚悟を決める。
龍雅が狼牙の喉に太刀を突き刺そうとしたその瞬間。
「それまで、ですよ。」
「えっ!?」
自分たち意外に誰もいないと思っていた龍雅は素っ頓狂な声を上げた。
だが、それまでだった。
龍雅の意識はそこで止まったまま、目覚めるのは随分後になってから。
宗近が妖しい手付きで、人差し指で突付くような形で龍雅の顔を隠すように呪符を貼る。
符を貼られた龍雅は太刀を構えたままの姿で、呪符の力で眠りに落ちた。
「む、宗近!?」
「上総乃丞、綾乃が待っています。死ぬのは、せめて綾乃に何か声をかけてからでも良いのではないのですか?」
いつものように粛々とした様子で宗近が狼牙を見下ろしていた。
狼牙が起き上がると、彼女は蝋燭の明かりの揺れるお堂を指差す。
何も言わず、いつもの笑顔もなく、暗い表情でお堂へ向かうように促す。
その表情に狼牙は圧倒され、ただ宗近に従い、お堂へと歩き出そうとする。
「……上総乃丞。」
宗近が後ろから狼牙を抱きしめた。
泥でその美しい着物が汚れてしまうのも構わずに。
「あなたは私の自慢の弟子。どんなに出来が悪くとも、私はあなたを見放すことはありませんでした。ですが、それも今宵でお終いです。もう、私はあなたを見守ることも、あなたを導いてあげることも出来ないのです。これからは…、あなたは自分の道を自分で切り開いていかなければいけません。そんな未来を知りながら、私は何も出来ませんでした…。お行きなさい、上総乃丞。これから後悔しないためにも、綾乃に会いなさい。」
子供をあやすように宗近は狼牙を抱きしめ、そしてゆっくりと放した。
「………宗近、お前は…。」
「恨みなさい、上総乃丞。私はあなたの未来を知っています。あなたが選ぶであろう未来も、あなたが選んだ結果、どのような未来が訪れるのかも何もかも。それなのに私は、あなたに拙い武芸と僅かな知識しか授けず、あなたがどんなに苦しむかも知っているのに……、知らぬ振りを続けていました。何か辛いことが訪れるたびに、私を恨みなさい。私を恨んで、せめてなじりなさい。あなたにはその資格があります。」
狼牙は何も言わずにお堂へと歩き出す。
そしてお堂を前にして彼は足を止めた。
「…宗近。」
「はい。」
「………ありがとう。それと、ごめん。俺が………、間違っていたよ……。」
11/01/05 20:43更新 / 宿利京祐
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