第五十九話・Bad Communication Before A
顔に生気はなかった。
戦場を華やかに駆けた男と同一人物とは思えない程、狼牙の顔に力はなかった。
ただ馬に跨り、馬に任せて進むだけ。
全身の返り血は、彼の涙を覆い隠している。
狼牙は仲間を見捨てた。
彼を逃がそうとした仲間たちの想いとは裏腹に、狼牙は自分を責め続けた。
自分がもっと強ければ…。
自分が彼らの親だったのに、と。
狼牙は差し向けられた守護の兵に果敢に立ち向かった。
大薙刀で振り払い、いくつもの首を刎ねた。
しかし、狼牙が如何に強くともいくら斬っても数の減らない戦いに、やがて疲れが見え始める。
勝ち目がまったくない戦いに、丸蝶党の彼らは狼牙を逃がすためにその身体を張って、迫る守護の差し向けた兵を食い止めた。
「佐久間、篠崎!カシラを連れて行け!!!」
「村瀬ェェ!!!」
佐久間、篠崎と呼ばれた男たちは、吼える狼牙を羽交い絞めに拘束し、村瀬団十郎の命に従うと、そのまま全速力で戦場を離れていく。
「離せ、お前ら!お頭の命令だ、今すぐ俺を離して戻るんだ!!」
二人の男たちは歯を食い縛り、涙を堪えて走り続ける。
狼牙の言葉に返事をすることもなく、振り返ることもなく走り続ける。
狼牙は必死に踏み止まろうと踏ん張るが、すでに彼の身体は疲れ切っていた。
踏ん張っても彼の意志通りの力を身体に伝えていかない。
村瀬が狼牙を微笑んで見送った。
狼牙の目に、彼の後ろで倒れていく仲間たちが映る。
村瀬が太刀を抜き、迫り来る兵を斬り捨てる。
だが、それで終わりだった。
槍が一本、二本と村瀬の身体を貫いた。
「村瀬ェェェェーッ!!!!」
村瀬が力なく膝を突く。
次々と槍が村瀬を突き立てる光景に狼牙は涙した。
「離せ、離せ、お前ら!仲間を……、助けるんだ!!」
「駄目です…!今戻ったら村瀬さんの死が無駄になる!!」
「死んじゃいない!まだ村瀬は生きている!!助けに行けば間に合うかもしれないだろ!!」
狼牙がいくら喚いても、彼らは止まらない。
遠くなる狼牙の姿を見て、村瀬は呟いた。
「カシラ、泣くなよ。あんたさえ生きていれば、丸蝶の旗は何度でも揚げられる。あんたさえ生きてくれたなら丸蝶の魂、俺たちの魂はあんたの胸に、丸蝶の旗に集う者たちの胸の奥で、何度だって甦る…。だから逃げてくれ。逃げて、生き延びてくれよな。」
村瀬の首が刎ねられる。
その最後の言葉は狼牙には届かない。
誰の耳にも届かない独り言。
―――――――――――――――――――――――
…………………………。
………………………。
……………………。
…………………。
ロウガが口を閉ざし、懐から煙草を取り出して口に咥えた。
火を付けようとした瞬間に、アスティアにマッチを持った手を押さえられた。
アスティアは静かに首を振る。
それを見たロウガも諦めるように笑って咥えたばかりの煙草を地面に落とした。
「……話し辛い、ことがあったんだな。」
「…少しだけ。思い出すのがつらくて、悲しくて、あの日の俺も今の俺も如何に脆弱なのかを再認識せざるを得んからな。」
空に向かって溜息を吐くロウガ。
傍で見ていたアヌビスは困惑していた。
いつも見ていた大きな背中が、やけに小さく、彼の年齢に相応しい程に疲れて見えた。
アヌビスはそんなロウガの手をしっかりと握る。
自分たちがここにいる、ロウガは一人じゃない、と言うように暖かいその手で強く握った。
「すまん、お前にも心配をかけたようだな。」
まるで自分の娘の頭を撫でるようにロウガはやさしくアヌビスの頭を撫でる。
アヌビスはその気遣いは無用と言わんばかりに頭を振る。
「心配は…、していません。アスティアさんと同じように私はロウガさんの心配はしていません。でも……、少しだけ……。少しだけ私は怖いんです。ロウガさんが、どこかに消えてしまいそうで……。」
アヌビスの言葉にロウガは意外そうな顔をした。
「消えて……、しまいそう…か。あながち間違いでもないかもしれんぞ。あの日の俺もあいつらの前から突然姿を消した。サクラには散々説教垂れたクセに、俺は俺が出来なかったことをあいつに押し付けてるだけにすぎない。」
アスティアがロウガに寄り添う。
彼女の目にはその言葉が意外だという色はない。
「…………お前は、そうじゃなかったんだな。」
「まぁね、少なくとも私はネフィーよりもロウガとは付き合いは長いし。何となく思っていたよ。でもこれでハッキリした。ロウガはサクラをただ鍛えて、マイアに吊り合う男にしたかったんじゃなく、サクラに君と同じ轍を踏ませたくなかったんだね。」
もう一度、ロウガは諦めに近い溜息を吐く。
自分の記憶を、思いを少しずつ吐き出し、ロウガは苦笑いを浮かべる。
「30年以上も前の記憶も、語ってしまえば数十分。長いこと心を占めていた女も思い出してしまえば一瞬。人の世はまさに無常なり、とはよく言ったもの。」
「……それは君の国、いや君の世界での思想か。」
「ああ、この世はいつだって移り変わる。例えるのであれば水だ。この世は流れ流れて、その水はいつだって元の水ではない。人の心もまさにそれだ…。俺は綾乃を愛していた。まだガキみたいだった俺に愛の何たるかがわかっているとは思えないが、どんな形であれ俺は綾乃を愛していた。この大陸に来てもその思いは変わらなかった。今も……、時々思い出すよ…。」
寂しそうに顔を伏せるロウガの顔をアスティアもアヌビスも黙って見詰めていた。
重い沈黙が下りる。
ロウガは今まで彼女たちの知るロウガではなかった。
そこにいたのは、弱々しく、今にも砕け散りそうで、周囲の者たちのために強いロウガという人間を演じ続けた傷だらけの老人であった。
「………ロウガ、教えてくれないか。それから何があったんだい?」
「さぁな…。よく覚えていないんだ。気が付いたら俺は一人で馬に揺られて、知らないうちに隠れ家のうちの一つに向かっていた。そこで、俺は完全に打ちのめされたんだ……。自分のやってきたことに、自分の理想の犠牲に…、な。」
ロウガは再び語り出す。
アスティアとアヌビスは再び沈黙の中で未知の世界と記憶の世界を覗くのである。
―――――――――――――――――――――――
暗くなった山道を抜け、狼牙は隠れ家付近の集落に辿り着いた。
身体が覚えていたのか、それとも馬が勝手に導いたのか、何か得体の知らない力に引き寄せられたのか、人気のない集落で馬はその足を止めた。
狼牙の心は沈んでいた。
仲間を犠牲に生き延び、狼牙を生かそうと彼の腕を引いた者たちもその命を盾にして、その命を散らした。
雨が降る。
冷たい雨が狼牙に降り注ぐが、彼の身体に付着した返り血を洗い流すこともなく、より深く、まるで憎しみと数多の命が絡み付くように乾き始めた返り血は黒ずんで狼牙を放さない。
馬は寒さに首を振るわせる。
狼牙の身体も冷え切っていたが、まるで心が死んでしまったように、蒼褪めた顔でぼんやりと闇を見ていた。
「……ここが俺の墓場か。」
狼牙は馬から降りるとぬかるんだ地面を歩き始める。
何故降りたのかも本人にも自覚はない。
覚束ない足取りでぬかるんだ地面を歩き、狼牙は無人の集落の家の一つに入る。
雨が強く降り続ける。
決して寒いからとか、雨を避けようなどと彼が考えた訳ではない。
死にかけた心の最後の本能とも言える行動だった。
その手から大薙刀を離さずいるのも彼の意志ではなかった。
死んだ心が彼の思惑を無視し、まだ生きることを望んでいる。
家の中は酷く貧しかった生活の名残を残していた。
酷く、何もない屋内。
腐り落ちた床、穴の開いた屋根。
主をなくした家はただ寒く、凍て付いた時間だけを無機質に刻む。
狼牙は家の中に腰を下ろした。
ぎしり、と朽ちた床が軋む。
凍り付いた空気が初めて狼牙の動きに合わせて動き始める。
狼牙はそこでやっと一息吐いた。
冷たい雨と自責の念がほんの少しだけ和らいだ気がした。
さすがに追手が迫っているため火は点けられないが、雨風が凌げるだけで人は心が落ち着く、と狼牙は思った。
まだ雨が降る。
バチバチと板葺き屋根の上に強い雨が叩き付けられる。
暗闇の中でただ雨の音だけが狼牙とこの世界を繋げる唯一の架け橋。
記憶になくとも狼牙は仲間に逃がしてもらってからも戦い続けた。
迫り来る騎兵を、その意識なく斬った。
逃走路に伏せられた兵を蹴散らした。
すべては彼の生き残るための本能が身体を動かし続けただけにすぎない。
狼牙自身はそれを望んではいなかった。
死ぬつもりが生き残った、ただそれだけである。
そんな狼牙も疲れ果てていた。
薙刀を抱きしめたまま、膝を抱えて彼は深い眠りに就いた。
疲れたのかい、我が欠片よ。
「ああ、疲れた…。」
休める時間はほとんどない。
君は君の成すべき事をしなければならないのだよ。
君に選択権はない。
ただ運命の歯車に身を委ね、君は永遠の眠りに就くその日まであらゆる罪の十字架を背負って、茨の道を血塗れになりながら数多の怨念と共に歩かねばならない。
「お前は……、誰なんだ…。」
君も、私にそう問うのだな。
君は私、私は君。
何度も同じ問いを私たちは繰り返してきた。
さぁ、束の間の眠りはお終いだ、今は遠い私よ。
目を開けるんだ。
そして目の前の光景こそ、君の分岐点。
でも君は選んでしまうだろう…。
いくつもの君が、私が選んできた道をまた選んでしまうのだろう……。
酷くぼんやりとした目覚めだった。
眠ったのか、目が覚めていたのかもわからないくらい酷くぼんやりしていた。
何か夢を見ていたような気もする。
だが、大した夢じゃなかったのだろう。
どうせ覚えていないのだから…。
屋根を見上げると、雨が止んでいた。
雲が晴れ、月が顔を出している。
今夜は半月。
満月と比べたら明るさは比べるべくもないが、それでも明るい。
少しだけ眠って疲れた心と身体が軽くなった。
隠れ家に行こう。
全員死んだと決め付けるのはまだ早い。
まだ、生き残った仲間が俺を追いかけているかもしれない。
そう考えるとここでゆっくり腰を下ろしている訳にはいかないと思えるようになった。
「そうだよな…。まだ腹を召すには早いよな。」
十分休んだ。
そう思って腰を上げようとした時、月明かりにぼんやりと部屋の隅に何かが浮かび上がった。
目を凝らすと、黒ずんだそれは段々と形を成していく。
だが、それ以上はわからない。
軋む床を注意深く踏み、俺はそれに近付いた。
眼球のない、朽ちて干乾びた子供の死体が、膝を抱えて俺を見ている。
俺は思わず口に手を当て、息を飲んだ。
死体には苦悶の表情が残ったまま。
暗闇に慣れた目で周囲を見渡すと、柱に刀傷。
傍には男かも女かもわからない、白骨化した大人の死体が頭を割られて転がっている。
家の奥に行く程、床も壁も黒く汚れている。
「な、何だ、この村…、ぐあっ!?」
戸を開けて、勢い良く外に出て、ぬかるみに足を取られて派手に転んだ。
泥まみれになりながら、起き上がって顔を上げると、俺は絶句した。
半ば焼かれた家。
無数の矢が刺さったままの家。
そして転がっている野晒しのままの死体、死体死体死体死体死体死体死体死体。
生きているのは俺と、俺を乗せてきた馬だけ。
これが、君のやってきた結果だよ。
何かが耳元で囁いたような気がして振り向いても、干乾びた子供の死体が座っているだけ。
俺は泥まみれの身体で村を歩いた。
動く者はいない。
月明かりの中に浮かび上がるのは悲しい結果。
そして見付けた、見覚えのある旗印。
それは俺が滅ぼした郎党の旗印。
そこから考え出されたのは、滅ぼされた彼らが自分たちが生き延びるために、戦場から落ち延びる時に村一つ滅ぼして略奪を行ったという事実。
そのことを俺は一切考えることなく、徹底して残党狩りも行わず、次の敵へ、次の敵を探し続けて、戦火を広げ続けていたという事実。
滅ぼした気になって、如何に自分が未熟だったのかを結果として見せ付けられた。
奥歯が震える。
冷静になった頭が、残酷に俺を打ちのめした。
「お、俺が……!」
彼らを殺したのだと、認めてしまった時、俺は泣いていた。
何が戦乱を終わらせるだ!
何が太平の世を作るだ!
俺は俺の詰めの甘さで守るべき者たちを殺しているじゃないか!
あんな無力な子供を守れなかった!
俺が彼らを追い詰め、この村を滅ぼしたのだと…。
今更ながら、この時の俺は宗近の言葉を重く噛み締めていたのだった。
―――――――――――――――――――――――
狼牙は馬を走らせた。
せめて、と彼が軒を借りた家の子供だけ手厚く葬り、彼は隠れ家へ急いだ。
それは彼なりの雨宿りをさせてもらった恩返しだったのか。
兵が伏せていることに注意して狼牙は馬を走らせたが、運良く兵は伏せていなかった。
彼ら丸蝶の隠れ家は全部で九つある。
それは洞窟であったり、山の奥にあったりとしていたのだが、狼牙が向かったのは海に近い隠れ家であった。そこに行けば小振りではあるものの船がある。
狼牙は仲間が集まり次第、その船で海を渡ろうと考えていた。
すでに追手は国境を固めているであろう。
そうすれば彼の当初計画していた、陸伝いに毛利などへ流れることは、ほぼ不可能であった。
そう考えた彼はそれまでの計画を一転して海を渡ることにした。
隠れ家には食料などの物資も蓄えてある。
潮の流れに任せて行けば、四国にも九州にも落ち延びて行ける。
海沿いの隠れ家は無人のお堂であった。
元々は修行のためにここに篭り、写経など行うお堂ではあったが、元の持ち主の住職が大変な博打好きで、大負けして、借金の形に地元の博徒に取り上げられたのを、狼牙が買い取ったという非常に罰当たりなお堂であった。
さて、何人集まっているだろう。
どれだけ生き延びてくれただろう、と狼牙は不安だった。
最悪の結果がちらついても彼はそれを振り払い続けた。
それが今、味方もいない、頼るべき仲間も失った彼の出来る唯一の強がりであった。
山道を抜ける。
すると隠れ家のお堂が見えていた。
中からぼんやりとした蝋燭の明かりが障子を透かして彼を待っている。
時折揺れる影に狼牙は心が躍った。
「ああ、生きている…。俺はまだ一人じゃないんだ。」
お堂まで後少し。
それを遮るように草むらから、鎧に身を包んだ武者が馬に乗って姿を現した。
狼牙は馬を止める。
武者の手には薙刀。
鍬型の兜の飾りが月明かりに光る。
頬面を付けたその顔は正体定かならぬものの、その体格からまだ若武者であることが伺える。
若武者は薙刀の切っ先を狼牙に向けた。
「……沢木、主命だ。大人しく投降してくれ。そうすれば紅家が全力を挙げてお前を…、綾乃を助ける!そうでなければ…、俺は……、俺は…。」
声を振り絞るように発した若武者は紅 龍雅。
その頬面の向こうは涙で濡れている。
戦場を華やかに駆けた男と同一人物とは思えない程、狼牙の顔に力はなかった。
ただ馬に跨り、馬に任せて進むだけ。
全身の返り血は、彼の涙を覆い隠している。
狼牙は仲間を見捨てた。
彼を逃がそうとした仲間たちの想いとは裏腹に、狼牙は自分を責め続けた。
自分がもっと強ければ…。
自分が彼らの親だったのに、と。
狼牙は差し向けられた守護の兵に果敢に立ち向かった。
大薙刀で振り払い、いくつもの首を刎ねた。
しかし、狼牙が如何に強くともいくら斬っても数の減らない戦いに、やがて疲れが見え始める。
勝ち目がまったくない戦いに、丸蝶党の彼らは狼牙を逃がすためにその身体を張って、迫る守護の差し向けた兵を食い止めた。
「佐久間、篠崎!カシラを連れて行け!!!」
「村瀬ェェ!!!」
佐久間、篠崎と呼ばれた男たちは、吼える狼牙を羽交い絞めに拘束し、村瀬団十郎の命に従うと、そのまま全速力で戦場を離れていく。
「離せ、お前ら!お頭の命令だ、今すぐ俺を離して戻るんだ!!」
二人の男たちは歯を食い縛り、涙を堪えて走り続ける。
狼牙の言葉に返事をすることもなく、振り返ることもなく走り続ける。
狼牙は必死に踏み止まろうと踏ん張るが、すでに彼の身体は疲れ切っていた。
踏ん張っても彼の意志通りの力を身体に伝えていかない。
村瀬が狼牙を微笑んで見送った。
狼牙の目に、彼の後ろで倒れていく仲間たちが映る。
村瀬が太刀を抜き、迫り来る兵を斬り捨てる。
だが、それで終わりだった。
槍が一本、二本と村瀬の身体を貫いた。
「村瀬ェェェェーッ!!!!」
村瀬が力なく膝を突く。
次々と槍が村瀬を突き立てる光景に狼牙は涙した。
「離せ、離せ、お前ら!仲間を……、助けるんだ!!」
「駄目です…!今戻ったら村瀬さんの死が無駄になる!!」
「死んじゃいない!まだ村瀬は生きている!!助けに行けば間に合うかもしれないだろ!!」
狼牙がいくら喚いても、彼らは止まらない。
遠くなる狼牙の姿を見て、村瀬は呟いた。
「カシラ、泣くなよ。あんたさえ生きていれば、丸蝶の旗は何度でも揚げられる。あんたさえ生きてくれたなら丸蝶の魂、俺たちの魂はあんたの胸に、丸蝶の旗に集う者たちの胸の奥で、何度だって甦る…。だから逃げてくれ。逃げて、生き延びてくれよな。」
村瀬の首が刎ねられる。
その最後の言葉は狼牙には届かない。
誰の耳にも届かない独り言。
―――――――――――――――――――――――
…………………………。
………………………。
……………………。
…………………。
ロウガが口を閉ざし、懐から煙草を取り出して口に咥えた。
火を付けようとした瞬間に、アスティアにマッチを持った手を押さえられた。
アスティアは静かに首を振る。
それを見たロウガも諦めるように笑って咥えたばかりの煙草を地面に落とした。
「……話し辛い、ことがあったんだな。」
「…少しだけ。思い出すのがつらくて、悲しくて、あの日の俺も今の俺も如何に脆弱なのかを再認識せざるを得んからな。」
空に向かって溜息を吐くロウガ。
傍で見ていたアヌビスは困惑していた。
いつも見ていた大きな背中が、やけに小さく、彼の年齢に相応しい程に疲れて見えた。
アヌビスはそんなロウガの手をしっかりと握る。
自分たちがここにいる、ロウガは一人じゃない、と言うように暖かいその手で強く握った。
「すまん、お前にも心配をかけたようだな。」
まるで自分の娘の頭を撫でるようにロウガはやさしくアヌビスの頭を撫でる。
アヌビスはその気遣いは無用と言わんばかりに頭を振る。
「心配は…、していません。アスティアさんと同じように私はロウガさんの心配はしていません。でも……、少しだけ……。少しだけ私は怖いんです。ロウガさんが、どこかに消えてしまいそうで……。」
アヌビスの言葉にロウガは意外そうな顔をした。
「消えて……、しまいそう…か。あながち間違いでもないかもしれんぞ。あの日の俺もあいつらの前から突然姿を消した。サクラには散々説教垂れたクセに、俺は俺が出来なかったことをあいつに押し付けてるだけにすぎない。」
アスティアがロウガに寄り添う。
彼女の目にはその言葉が意外だという色はない。
「…………お前は、そうじゃなかったんだな。」
「まぁね、少なくとも私はネフィーよりもロウガとは付き合いは長いし。何となく思っていたよ。でもこれでハッキリした。ロウガはサクラをただ鍛えて、マイアに吊り合う男にしたかったんじゃなく、サクラに君と同じ轍を踏ませたくなかったんだね。」
もう一度、ロウガは諦めに近い溜息を吐く。
自分の記憶を、思いを少しずつ吐き出し、ロウガは苦笑いを浮かべる。
「30年以上も前の記憶も、語ってしまえば数十分。長いこと心を占めていた女も思い出してしまえば一瞬。人の世はまさに無常なり、とはよく言ったもの。」
「……それは君の国、いや君の世界での思想か。」
「ああ、この世はいつだって移り変わる。例えるのであれば水だ。この世は流れ流れて、その水はいつだって元の水ではない。人の心もまさにそれだ…。俺は綾乃を愛していた。まだガキみたいだった俺に愛の何たるかがわかっているとは思えないが、どんな形であれ俺は綾乃を愛していた。この大陸に来てもその思いは変わらなかった。今も……、時々思い出すよ…。」
寂しそうに顔を伏せるロウガの顔をアスティアもアヌビスも黙って見詰めていた。
重い沈黙が下りる。
ロウガは今まで彼女たちの知るロウガではなかった。
そこにいたのは、弱々しく、今にも砕け散りそうで、周囲の者たちのために強いロウガという人間を演じ続けた傷だらけの老人であった。
「………ロウガ、教えてくれないか。それから何があったんだい?」
「さぁな…。よく覚えていないんだ。気が付いたら俺は一人で馬に揺られて、知らないうちに隠れ家のうちの一つに向かっていた。そこで、俺は完全に打ちのめされたんだ……。自分のやってきたことに、自分の理想の犠牲に…、な。」
ロウガは再び語り出す。
アスティアとアヌビスは再び沈黙の中で未知の世界と記憶の世界を覗くのである。
―――――――――――――――――――――――
暗くなった山道を抜け、狼牙は隠れ家付近の集落に辿り着いた。
身体が覚えていたのか、それとも馬が勝手に導いたのか、何か得体の知らない力に引き寄せられたのか、人気のない集落で馬はその足を止めた。
狼牙の心は沈んでいた。
仲間を犠牲に生き延び、狼牙を生かそうと彼の腕を引いた者たちもその命を盾にして、その命を散らした。
雨が降る。
冷たい雨が狼牙に降り注ぐが、彼の身体に付着した返り血を洗い流すこともなく、より深く、まるで憎しみと数多の命が絡み付くように乾き始めた返り血は黒ずんで狼牙を放さない。
馬は寒さに首を振るわせる。
狼牙の身体も冷え切っていたが、まるで心が死んでしまったように、蒼褪めた顔でぼんやりと闇を見ていた。
「……ここが俺の墓場か。」
狼牙は馬から降りるとぬかるんだ地面を歩き始める。
何故降りたのかも本人にも自覚はない。
覚束ない足取りでぬかるんだ地面を歩き、狼牙は無人の集落の家の一つに入る。
雨が強く降り続ける。
決して寒いからとか、雨を避けようなどと彼が考えた訳ではない。
死にかけた心の最後の本能とも言える行動だった。
その手から大薙刀を離さずいるのも彼の意志ではなかった。
死んだ心が彼の思惑を無視し、まだ生きることを望んでいる。
家の中は酷く貧しかった生活の名残を残していた。
酷く、何もない屋内。
腐り落ちた床、穴の開いた屋根。
主をなくした家はただ寒く、凍て付いた時間だけを無機質に刻む。
狼牙は家の中に腰を下ろした。
ぎしり、と朽ちた床が軋む。
凍り付いた空気が初めて狼牙の動きに合わせて動き始める。
狼牙はそこでやっと一息吐いた。
冷たい雨と自責の念がほんの少しだけ和らいだ気がした。
さすがに追手が迫っているため火は点けられないが、雨風が凌げるだけで人は心が落ち着く、と狼牙は思った。
まだ雨が降る。
バチバチと板葺き屋根の上に強い雨が叩き付けられる。
暗闇の中でただ雨の音だけが狼牙とこの世界を繋げる唯一の架け橋。
記憶になくとも狼牙は仲間に逃がしてもらってからも戦い続けた。
迫り来る騎兵を、その意識なく斬った。
逃走路に伏せられた兵を蹴散らした。
すべては彼の生き残るための本能が身体を動かし続けただけにすぎない。
狼牙自身はそれを望んではいなかった。
死ぬつもりが生き残った、ただそれだけである。
そんな狼牙も疲れ果てていた。
薙刀を抱きしめたまま、膝を抱えて彼は深い眠りに就いた。
疲れたのかい、我が欠片よ。
「ああ、疲れた…。」
休める時間はほとんどない。
君は君の成すべき事をしなければならないのだよ。
君に選択権はない。
ただ運命の歯車に身を委ね、君は永遠の眠りに就くその日まであらゆる罪の十字架を背負って、茨の道を血塗れになりながら数多の怨念と共に歩かねばならない。
「お前は……、誰なんだ…。」
君も、私にそう問うのだな。
君は私、私は君。
何度も同じ問いを私たちは繰り返してきた。
さぁ、束の間の眠りはお終いだ、今は遠い私よ。
目を開けるんだ。
そして目の前の光景こそ、君の分岐点。
でも君は選んでしまうだろう…。
いくつもの君が、私が選んできた道をまた選んでしまうのだろう……。
酷くぼんやりとした目覚めだった。
眠ったのか、目が覚めていたのかもわからないくらい酷くぼんやりしていた。
何か夢を見ていたような気もする。
だが、大した夢じゃなかったのだろう。
どうせ覚えていないのだから…。
屋根を見上げると、雨が止んでいた。
雲が晴れ、月が顔を出している。
今夜は半月。
満月と比べたら明るさは比べるべくもないが、それでも明るい。
少しだけ眠って疲れた心と身体が軽くなった。
隠れ家に行こう。
全員死んだと決め付けるのはまだ早い。
まだ、生き残った仲間が俺を追いかけているかもしれない。
そう考えるとここでゆっくり腰を下ろしている訳にはいかないと思えるようになった。
「そうだよな…。まだ腹を召すには早いよな。」
十分休んだ。
そう思って腰を上げようとした時、月明かりにぼんやりと部屋の隅に何かが浮かび上がった。
目を凝らすと、黒ずんだそれは段々と形を成していく。
だが、それ以上はわからない。
軋む床を注意深く踏み、俺はそれに近付いた。
眼球のない、朽ちて干乾びた子供の死体が、膝を抱えて俺を見ている。
俺は思わず口に手を当て、息を飲んだ。
死体には苦悶の表情が残ったまま。
暗闇に慣れた目で周囲を見渡すと、柱に刀傷。
傍には男かも女かもわからない、白骨化した大人の死体が頭を割られて転がっている。
家の奥に行く程、床も壁も黒く汚れている。
「な、何だ、この村…、ぐあっ!?」
戸を開けて、勢い良く外に出て、ぬかるみに足を取られて派手に転んだ。
泥まみれになりながら、起き上がって顔を上げると、俺は絶句した。
半ば焼かれた家。
無数の矢が刺さったままの家。
そして転がっている野晒しのままの死体、死体死体死体死体死体死体死体死体。
生きているのは俺と、俺を乗せてきた馬だけ。
これが、君のやってきた結果だよ。
何かが耳元で囁いたような気がして振り向いても、干乾びた子供の死体が座っているだけ。
俺は泥まみれの身体で村を歩いた。
動く者はいない。
月明かりの中に浮かび上がるのは悲しい結果。
そして見付けた、見覚えのある旗印。
それは俺が滅ぼした郎党の旗印。
そこから考え出されたのは、滅ぼされた彼らが自分たちが生き延びるために、戦場から落ち延びる時に村一つ滅ぼして略奪を行ったという事実。
そのことを俺は一切考えることなく、徹底して残党狩りも行わず、次の敵へ、次の敵を探し続けて、戦火を広げ続けていたという事実。
滅ぼした気になって、如何に自分が未熟だったのかを結果として見せ付けられた。
奥歯が震える。
冷静になった頭が、残酷に俺を打ちのめした。
「お、俺が……!」
彼らを殺したのだと、認めてしまった時、俺は泣いていた。
何が戦乱を終わらせるだ!
何が太平の世を作るだ!
俺は俺の詰めの甘さで守るべき者たちを殺しているじゃないか!
あんな無力な子供を守れなかった!
俺が彼らを追い詰め、この村を滅ぼしたのだと…。
今更ながら、この時の俺は宗近の言葉を重く噛み締めていたのだった。
―――――――――――――――――――――――
狼牙は馬を走らせた。
せめて、と彼が軒を借りた家の子供だけ手厚く葬り、彼は隠れ家へ急いだ。
それは彼なりの雨宿りをさせてもらった恩返しだったのか。
兵が伏せていることに注意して狼牙は馬を走らせたが、運良く兵は伏せていなかった。
彼ら丸蝶の隠れ家は全部で九つある。
それは洞窟であったり、山の奥にあったりとしていたのだが、狼牙が向かったのは海に近い隠れ家であった。そこに行けば小振りではあるものの船がある。
狼牙は仲間が集まり次第、その船で海を渡ろうと考えていた。
すでに追手は国境を固めているであろう。
そうすれば彼の当初計画していた、陸伝いに毛利などへ流れることは、ほぼ不可能であった。
そう考えた彼はそれまでの計画を一転して海を渡ることにした。
隠れ家には食料などの物資も蓄えてある。
潮の流れに任せて行けば、四国にも九州にも落ち延びて行ける。
海沿いの隠れ家は無人のお堂であった。
元々は修行のためにここに篭り、写経など行うお堂ではあったが、元の持ち主の住職が大変な博打好きで、大負けして、借金の形に地元の博徒に取り上げられたのを、狼牙が買い取ったという非常に罰当たりなお堂であった。
さて、何人集まっているだろう。
どれだけ生き延びてくれただろう、と狼牙は不安だった。
最悪の結果がちらついても彼はそれを振り払い続けた。
それが今、味方もいない、頼るべき仲間も失った彼の出来る唯一の強がりであった。
山道を抜ける。
すると隠れ家のお堂が見えていた。
中からぼんやりとした蝋燭の明かりが障子を透かして彼を待っている。
時折揺れる影に狼牙は心が躍った。
「ああ、生きている…。俺はまだ一人じゃないんだ。」
お堂まで後少し。
それを遮るように草むらから、鎧に身を包んだ武者が馬に乗って姿を現した。
狼牙は馬を止める。
武者の手には薙刀。
鍬型の兜の飾りが月明かりに光る。
頬面を付けたその顔は正体定かならぬものの、その体格からまだ若武者であることが伺える。
若武者は薙刀の切っ先を狼牙に向けた。
「……沢木、主命だ。大人しく投降してくれ。そうすれば紅家が全力を挙げてお前を…、綾乃を助ける!そうでなければ…、俺は……、俺は…。」
声を振り絞るように発した若武者は紅 龍雅。
その頬面の向こうは涙で濡れている。
11/01/03 00:29更新 / 宿利京祐
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