第五十八話・Bad Communication Before @
私は罪を犯したのです。
それは主命を背く大罪。
あの子たちにも教えていない私の力。
私の目に映るのは遥かな未来、来るべき明日。
でも、私の教え子とその愛する娘の明日は何と暗く悲しいことか…。
お許しください。
だからこそ、私はあなたの意図した以上のことを彼らに施しました。
この世界ではなく、遥か彼方で隣り合う世界の王よ。
私は教え子をあなたの元へ差し出すことを承諾致しました。
それは彼の運命。
どのような未来を選ぼうと、彼は傷付き、倒れ、それでも歩んでいかなければならない。
ですが、彼女の方は……。
もしもこのことであなたがご立腹なさるのでしたら、せめて彼女だけは見逃してください。
罰するのは私だけでお願いします。
いずれ、この世界を捨てて行く我が愛弟子よ。
私に出来るのはこれだけです。
あなたはすべての繋がりを断ち切って、あちらの王の下へ行かねばなりません。
ですから、私はあの方にささやかな反逆の意を示しました。
綾乃のためにも。
あなたのためにも。
上総乃丞……、別れの日は………、そう遠くはないのです…。
………くっ。
……どうやら、やっと宗近の御香の効果がなくなったようだな。
ここは、綾乃の部屋。
まだ夜が明けず、部屋の中には闇と静寂が居座っていた。
鼻を突く汗と淫靡な匂い。
香炉から漂う香りではなく、もっと生物的な衝動を呼ぶ匂い。
彼女の中に何度、精を放ったのか覚えていない。
俺の腕の中で綾乃が寝息を立てている。
…………俺だってずっとこうしたかった。
綾乃をこの腕で、抱きたかった。
でも怖かった。
綾乃が俺をどう思っているのか…。
親同士の決めた許嫁。
俺はその立場を利用して、綾乃を手篭めにしようとしていたんじゃないか。
俺は、綾乃に相応しい男になりたかった。
だから英雄を目指した。
この国の戦乱を終わらせる英雄に…。
そうすれば、禄衛門にいつか綾乃を持っていかれるんじゃないかと思わなくて良い。
そうすれば、俺は自信を持って………。
「………ん……、カズサ………、起きたのか……?」
「ああ、起こしてしまったな…。すまなかった、女狐の術に堕ちたとは言え……、お前を……。」
「……。」
何も言わずに綾乃が唇を重ね、俺の口を塞ぐ。
ねっとりと舌を滑り込ませ、お互いの唾液を交換し合う。
口を放すと、綾乃の甘い溜息が鼻にかかる。
「私は後悔などしない。カズサ、私はお前の妻になるために生まれた。それは私たちの両親が決めたことだったけど、私はそれをずっと望んでいた。お前が大きくなって戦場に出て行くのが口惜しかった。だから私は自ら望んで武の道を進んだんだ。せめてお前の背中を守れたら……、そう思い続けた毎日だった。お前の背中をずっと追いかけたかった…。でも、もう追いかけなくて良いよな?私はお前の横に寄り添って……生きても良いよな…?」
「…………綾乃、俺もお前を失いたくはない。」
愛している。
口には出さない想いのままに、綾乃を抱き締める腕に力が入る。
このまま…、時が止まれば良い…。
綾乃の温もりだけが、暗い部屋の中で唯一感じられる確かな現実…。
―――――――――――――――――――――――
数日後。
真っ赤な派手な着物に、それ以上に派手で金や朱で彩った仰々しい鎧で身に纏い、紅で唇と目の淵を彩る狼牙が戦場で馬を駆る。
右腕で振るうのは龍の装飾をあしらった大薙刀。
雑兵が彼を目指して長巻を、数打ちの刀を振りかざすが、すべては狼牙に届く前に、首を飛ばされ、顔を縦に割られ、何もわからぬまま血飛沫を上げて倒れていく。
だが、狼牙も無敵ではない。
彼が通り過ぎた後ろから近付く騎馬武者がいた。
狼牙は雑兵の咆哮の前に、そして彼自身の昂る心が視界を狭めていた。
騎馬武者が、自分の大太刀の間合いに入った。
「その首、貰うたぁぁーっ!」
五尺の大太刀が狼牙を襲う。
ガギィ…
「……………げ。」
騎馬武者がゆっくりとした動作で馬から落ちる。
どぅ、と落ちた彼の首には一筋の刺し傷が残されていた。
見開かれた目は閉じることなく、空を睨んだまま大地を赤く染めて絶命する。
そこには馬上で大太刀を薙刀で受け、赤く染まった切っ先の太刀を握る紅 龍雅が、ゼェゼェと荒く肩で息をしていた。
馬の鞍には首が2つ。
いずれも名のある武将の首であった。
「…ん。おお、ベニロク。お前、どこに行っていた。あまり遅いんで、お前の手柄をどうやって残そうか思案していたところだぞ。もう少し乗馬を磨かねば、いつまでも俺にも綾乃にも追い付けんぞ。」
「そういう台詞を言いたきゃ、後ろに気を付けろ。俺がいなければ、今頃お前は敵方の手柄になっていたぜ…。で、何で今日も綾乃がいないんだ!?」
「………はぁ、お前もいい加減しつこいよな。俺の妻にいつまでも熱上げていないで、自分で良い女を見つけろよ。」
「そりゃあ俺だって……て、待ちやがれ、沢木!今お前何つった!?妻?妻って言いやがったのか!?散々素っ気ない振りしていたのに、今頃になって綾乃のことを妻だって!?ま、まさか…………。」
狼牙はバツの悪い顔で苦笑いをした。
「悪い。お前の気持ちは知っていたんだが……、な?」
「な?じゃねぇぇぇーっ!チクショォォォォォォォーッ、今日はもう八つ当たりだ!!八つ当たりしてやるからな!!!止めんなよ、沢木!!!!」
「大丈夫、止めない。」
「ドチクショォォォォォォォ!!!!!」
半泣きで敵集団に龍雅は単身突撃する。
その光景に狼牙は敵に、龍雅に、気の毒だと思って頬を掻いた。
「まったく、残酷な男ですね。もう少し言い様はあったのではないのですか、粗忽者。思春期の少年は実に多感なのですよ。戦場で常に死と隣り合わせ、女の肌に触れることなく、男に抱かれてきたあなたの人生では理解し難いと思いますが、恋した女性を親友で、上官で、憧れた男に持っていかれたあの少年の気持ちを一欠けらでも理解なさい。このうつけ。」
初めからそこにいたかのように、稲荷の宗近が溜息と毒を吐きながら現れた。
その手と白い袖が赤黒く染まっている。
「いたのか、宗近。」
「ええ、いましたとも。綾乃からあなたを頼むと言われていましたからね。」
「その手は…、どうした?」
宗近は今気が付いたかのように、ああ、と言うと細い指先に付着した血を、小さな舌ですくうと妖しい笑みを浮かべて答えた。
「上総乃丞、あの少年の言う通りです。あなたは後ろが非常に甘い。目先のことに囚われて、非常に視界が狭く、私とあの少年がいなければ何度も死んでいます。敵の情報は?味方の配置は?そもそも、あなたたち丸蝶の郎党は何故単独で敵陣深く斬り込めるのか……。この血もあなたたち…、いえ、上総乃丞。あなた一人を狙うために物陰から弓を引いていた者たちの血ですよ。」
宗近の言葉に、狼牙は表情を変えなかったものの、息を飲んだ。
宗近はそれを感じ取ったようで、言葉を続ける。
「…………味方、ですわよ。あなたは味方にも狙われ、敵にも狙われ、ただ一人、綾乃やあの少年という味方までも置いて、どこに行くつもりなのですか?」
「俺は……。」
「よく、お考えなさい。そろそろ今日の戦も決してしまうようですね。私は先に綾乃の下へ戻ります。上総乃丞、一つだけ教えてあげましょう。あなたはすでに御領主様にも、疎まれています。沢木の紅若として庶民に親しまれ、私が育てただけあって戦場で傍若無人に躍動するあなたは、すでに御領主様から恐怖の対象になっています。何故なら彼も前領主を討ち、その地位を得た者。そんな男が庶民に親しまれ、腕が立ち、敵を根絶やすことを覚えたあなたを、生かしておいて枕を高くしていられると思いますか?………そのことを重々、頭に置いて、身の回りに注意なさい。」
そう言って宗近は狼牙を残して消えて行く。
戦場は日が傾き、残されたのは死体で埋め尽くされている。
敵も味方も大地に伏せ、どこかへと旅立って行く。
そこで馬に跨る狼牙もまた、地獄に足を捕られた悲しい囚人。
―――――――――――――――――――――――
本営に泊り込んだ俺たちは酒盛りをしていた。
それでもどこか上の空。
楽しそうに酔った仲間たち。
ベニロクこと、禄衛門は父親に呼ばれたらしく不在。
元々親不孝な俺は、親父や弟たちに疎まれていたおかげで縁がない話だ。
もっとも今度は味方の総大将にも疎まれ…、いや、命を狙われている。
ふと、綾乃の顔が浮かんだ。
あの日関係を持ってからこっち、綾乃を抱いてはいない。
それでも一緒にいる時間があれば、綾乃と過ごしてきた。
俺らしくもない。
命を狙われている、わかりかけた俺がしたことのツケ。
命のツケは、命で代価を払えということなのか…。
仕方がないのかもしれない。
俺はあまりに急ぎすぎた。
戦乱を終わらせるために、俺が選んだのは皆殺しという道。
それが俺一人なら良かった。
だが、仲間を…、禄衛門を…、何よりも綾乃をも巻き込んでしまうのは耐え難い苦痛だった。
「大将、どうした?今日はやけに静かじゃねぇか。」
「ああ、悪い。」
「はっはぁん?さては綾乃の御前様を思い出していたな。せっかくくっ付いたならよ、戦は俺たちに任せて、屋敷でシッポリやっときゃ良かったんだよ。」
「馬鹿、そうしたら誰が山賊上がりのお前らを抑えるんだ。」
「はっはっは、その通りだな。まぁ、飲めよ。」
向こうで裸踊りも始まった。
皆、俺よりも年上なのに俺に付いてきて気の良いやつら。
俺一人の我侭で死なす訳にはいかない…、よな。
ちびりと杯を傾ける。
「全員、そのまま聞いてくれ。」
今の今まで大笑いして男たちが、真剣な顔付きになり姿勢を正す。
「どうやら、ここいらが潮時らしい。俺は守護殿に睨まれて、命も狙われているそうだ。代々この地で禄を貰って生きていたが、こうなってしまっては最早誰が敵で味方なのかもわからない。どうだろう、いっそのこと皆でどこか他所の地へやり直さないか?幸いここからなら、毛利や尼子が近い。内紛一つまともに抑え切れない主君よりもずっと良いと思うのだが、どうであろうか?」
場に静けさが下りる。
大将たちの祝勝の宴の囃子が聞こえるが、どこか遠くの世界のように聞こえる。
「もちろん、強要はしない。この地に留まるのであれば、むしろその者には俺から一時金を以って、これまでの功績を労いたいと思っている。心配するな、俺は丸蝶の首領。ケチな恩賞を渡すつもりはない。これまで山賊や博徒どもから巻き上げた財産、すべて吐き出しても良いと思っている。最低でも金30枚は用意するつもりだ。」
全員が額が地面に着く程、深く頭を下げた。
そして一人、結成当時から俺と共に戦場を駆けた村瀬 団十郎が口を開く。
「カシラ、今更水臭いことを言わんでください。俺たちは全員、カシラに拾っていただいた命です。よってカシラはただ一言、俺たちに『死ね』と言えば良いのです。俺たち一同、カシラの御為に戦ったのですから。だからこそ、カシラの戦乱を終わらせるという理想のために俺たちも戦えたのです。カシラがこの土地を見放すのであれば、俺たちも付いて行きますぜ。それこそ地獄の果てまで、例えカシラが迷惑そうな顔したって、どこまでも…。」
『応っ!!!』
ありがたい、そう思った。
不覚にも彼らの言葉に涙を流そうとしている自分に気が付き、必死に押し止める。
「すまない、皆には苦労を掛ける。出立は早い方が良いだろうが、各々が別れを告げたい者、共に連れて行きたいがいるだろう。
一月後、国境の峠にある隠れ家で落ち合お………………。」
ズブッ
ズブッ
何本もの槍が陣幕を突き破り、仲間たちを貫いた。
ざわっ、と急激に殺気が陣幕の膨らむ。
完全に気配を殺して、俺たちを取り囲んでいたらしい。
「円陣に、防御陣形!」
戦慣れした俺たちは素早く円陣を組んで相手に備える。
槍を切断し、仲間たちを救うもすでに虫の息。
「しっかりしろ!」
「た………、大将…!お、お、俺…、絶対……、つ、付いて…………。」
言葉は、最後まで続かなかった。
彼は俺の腕の中で笑って逝った。
逝って、しまった。
「俺だけじゃなかったのか!俺の首だけが欲しかったんじゃなかったのか!!」
「カシラ!?」
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
大薙刀を横一閃で、陣幕ごと薙ぎ払う。
『ギャァァァァァァァァァァァッ!!!』
白い陣幕が赤く染まる。
陣幕が落ちるとそこにいたのは、血走った目をした武器を構えた完全武装の兵士の姿。
胴から上のない身体が3つ、どさりと力なく崩れ落ちた。
「カシラ、危険だ!下がって!!」
「……俺はお前らの親だ!お前らの逃げ道くらい、俺が作ってやる!!」
太刀も抜き放ち、兵士たちに突撃する。
その怯んだ箇所を突いて、丸蝶の仲間たちは一斉に飛び掛ったのだった。
それは主命を背く大罪。
あの子たちにも教えていない私の力。
私の目に映るのは遥かな未来、来るべき明日。
でも、私の教え子とその愛する娘の明日は何と暗く悲しいことか…。
お許しください。
だからこそ、私はあなたの意図した以上のことを彼らに施しました。
この世界ではなく、遥か彼方で隣り合う世界の王よ。
私は教え子をあなたの元へ差し出すことを承諾致しました。
それは彼の運命。
どのような未来を選ぼうと、彼は傷付き、倒れ、それでも歩んでいかなければならない。
ですが、彼女の方は……。
もしもこのことであなたがご立腹なさるのでしたら、せめて彼女だけは見逃してください。
罰するのは私だけでお願いします。
いずれ、この世界を捨てて行く我が愛弟子よ。
私に出来るのはこれだけです。
あなたはすべての繋がりを断ち切って、あちらの王の下へ行かねばなりません。
ですから、私はあの方にささやかな反逆の意を示しました。
綾乃のためにも。
あなたのためにも。
上総乃丞……、別れの日は………、そう遠くはないのです…。
………くっ。
……どうやら、やっと宗近の御香の効果がなくなったようだな。
ここは、綾乃の部屋。
まだ夜が明けず、部屋の中には闇と静寂が居座っていた。
鼻を突く汗と淫靡な匂い。
香炉から漂う香りではなく、もっと生物的な衝動を呼ぶ匂い。
彼女の中に何度、精を放ったのか覚えていない。
俺の腕の中で綾乃が寝息を立てている。
…………俺だってずっとこうしたかった。
綾乃をこの腕で、抱きたかった。
でも怖かった。
綾乃が俺をどう思っているのか…。
親同士の決めた許嫁。
俺はその立場を利用して、綾乃を手篭めにしようとしていたんじゃないか。
俺は、綾乃に相応しい男になりたかった。
だから英雄を目指した。
この国の戦乱を終わらせる英雄に…。
そうすれば、禄衛門にいつか綾乃を持っていかれるんじゃないかと思わなくて良い。
そうすれば、俺は自信を持って………。
「………ん……、カズサ………、起きたのか……?」
「ああ、起こしてしまったな…。すまなかった、女狐の術に堕ちたとは言え……、お前を……。」
「……。」
何も言わずに綾乃が唇を重ね、俺の口を塞ぐ。
ねっとりと舌を滑り込ませ、お互いの唾液を交換し合う。
口を放すと、綾乃の甘い溜息が鼻にかかる。
「私は後悔などしない。カズサ、私はお前の妻になるために生まれた。それは私たちの両親が決めたことだったけど、私はそれをずっと望んでいた。お前が大きくなって戦場に出て行くのが口惜しかった。だから私は自ら望んで武の道を進んだんだ。せめてお前の背中を守れたら……、そう思い続けた毎日だった。お前の背中をずっと追いかけたかった…。でも、もう追いかけなくて良いよな?私はお前の横に寄り添って……生きても良いよな…?」
「…………綾乃、俺もお前を失いたくはない。」
愛している。
口には出さない想いのままに、綾乃を抱き締める腕に力が入る。
このまま…、時が止まれば良い…。
綾乃の温もりだけが、暗い部屋の中で唯一感じられる確かな現実…。
―――――――――――――――――――――――
数日後。
真っ赤な派手な着物に、それ以上に派手で金や朱で彩った仰々しい鎧で身に纏い、紅で唇と目の淵を彩る狼牙が戦場で馬を駆る。
右腕で振るうのは龍の装飾をあしらった大薙刀。
雑兵が彼を目指して長巻を、数打ちの刀を振りかざすが、すべては狼牙に届く前に、首を飛ばされ、顔を縦に割られ、何もわからぬまま血飛沫を上げて倒れていく。
だが、狼牙も無敵ではない。
彼が通り過ぎた後ろから近付く騎馬武者がいた。
狼牙は雑兵の咆哮の前に、そして彼自身の昂る心が視界を狭めていた。
騎馬武者が、自分の大太刀の間合いに入った。
「その首、貰うたぁぁーっ!」
五尺の大太刀が狼牙を襲う。
ガギィ…
「……………げ。」
騎馬武者がゆっくりとした動作で馬から落ちる。
どぅ、と落ちた彼の首には一筋の刺し傷が残されていた。
見開かれた目は閉じることなく、空を睨んだまま大地を赤く染めて絶命する。
そこには馬上で大太刀を薙刀で受け、赤く染まった切っ先の太刀を握る紅 龍雅が、ゼェゼェと荒く肩で息をしていた。
馬の鞍には首が2つ。
いずれも名のある武将の首であった。
「…ん。おお、ベニロク。お前、どこに行っていた。あまり遅いんで、お前の手柄をどうやって残そうか思案していたところだぞ。もう少し乗馬を磨かねば、いつまでも俺にも綾乃にも追い付けんぞ。」
「そういう台詞を言いたきゃ、後ろに気を付けろ。俺がいなければ、今頃お前は敵方の手柄になっていたぜ…。で、何で今日も綾乃がいないんだ!?」
「………はぁ、お前もいい加減しつこいよな。俺の妻にいつまでも熱上げていないで、自分で良い女を見つけろよ。」
「そりゃあ俺だって……て、待ちやがれ、沢木!今お前何つった!?妻?妻って言いやがったのか!?散々素っ気ない振りしていたのに、今頃になって綾乃のことを妻だって!?ま、まさか…………。」
狼牙はバツの悪い顔で苦笑いをした。
「悪い。お前の気持ちは知っていたんだが……、な?」
「な?じゃねぇぇぇーっ!チクショォォォォォォォーッ、今日はもう八つ当たりだ!!八つ当たりしてやるからな!!!止めんなよ、沢木!!!!」
「大丈夫、止めない。」
「ドチクショォォォォォォォ!!!!!」
半泣きで敵集団に龍雅は単身突撃する。
その光景に狼牙は敵に、龍雅に、気の毒だと思って頬を掻いた。
「まったく、残酷な男ですね。もう少し言い様はあったのではないのですか、粗忽者。思春期の少年は実に多感なのですよ。戦場で常に死と隣り合わせ、女の肌に触れることなく、男に抱かれてきたあなたの人生では理解し難いと思いますが、恋した女性を親友で、上官で、憧れた男に持っていかれたあの少年の気持ちを一欠けらでも理解なさい。このうつけ。」
初めからそこにいたかのように、稲荷の宗近が溜息と毒を吐きながら現れた。
その手と白い袖が赤黒く染まっている。
「いたのか、宗近。」
「ええ、いましたとも。綾乃からあなたを頼むと言われていましたからね。」
「その手は…、どうした?」
宗近は今気が付いたかのように、ああ、と言うと細い指先に付着した血を、小さな舌ですくうと妖しい笑みを浮かべて答えた。
「上総乃丞、あの少年の言う通りです。あなたは後ろが非常に甘い。目先のことに囚われて、非常に視界が狭く、私とあの少年がいなければ何度も死んでいます。敵の情報は?味方の配置は?そもそも、あなたたち丸蝶の郎党は何故単独で敵陣深く斬り込めるのか……。この血もあなたたち…、いえ、上総乃丞。あなた一人を狙うために物陰から弓を引いていた者たちの血ですよ。」
宗近の言葉に、狼牙は表情を変えなかったものの、息を飲んだ。
宗近はそれを感じ取ったようで、言葉を続ける。
「…………味方、ですわよ。あなたは味方にも狙われ、敵にも狙われ、ただ一人、綾乃やあの少年という味方までも置いて、どこに行くつもりなのですか?」
「俺は……。」
「よく、お考えなさい。そろそろ今日の戦も決してしまうようですね。私は先に綾乃の下へ戻ります。上総乃丞、一つだけ教えてあげましょう。あなたはすでに御領主様にも、疎まれています。沢木の紅若として庶民に親しまれ、私が育てただけあって戦場で傍若無人に躍動するあなたは、すでに御領主様から恐怖の対象になっています。何故なら彼も前領主を討ち、その地位を得た者。そんな男が庶民に親しまれ、腕が立ち、敵を根絶やすことを覚えたあなたを、生かしておいて枕を高くしていられると思いますか?………そのことを重々、頭に置いて、身の回りに注意なさい。」
そう言って宗近は狼牙を残して消えて行く。
戦場は日が傾き、残されたのは死体で埋め尽くされている。
敵も味方も大地に伏せ、どこかへと旅立って行く。
そこで馬に跨る狼牙もまた、地獄に足を捕られた悲しい囚人。
―――――――――――――――――――――――
本営に泊り込んだ俺たちは酒盛りをしていた。
それでもどこか上の空。
楽しそうに酔った仲間たち。
ベニロクこと、禄衛門は父親に呼ばれたらしく不在。
元々親不孝な俺は、親父や弟たちに疎まれていたおかげで縁がない話だ。
もっとも今度は味方の総大将にも疎まれ…、いや、命を狙われている。
ふと、綾乃の顔が浮かんだ。
あの日関係を持ってからこっち、綾乃を抱いてはいない。
それでも一緒にいる時間があれば、綾乃と過ごしてきた。
俺らしくもない。
命を狙われている、わかりかけた俺がしたことのツケ。
命のツケは、命で代価を払えということなのか…。
仕方がないのかもしれない。
俺はあまりに急ぎすぎた。
戦乱を終わらせるために、俺が選んだのは皆殺しという道。
それが俺一人なら良かった。
だが、仲間を…、禄衛門を…、何よりも綾乃をも巻き込んでしまうのは耐え難い苦痛だった。
「大将、どうした?今日はやけに静かじゃねぇか。」
「ああ、悪い。」
「はっはぁん?さては綾乃の御前様を思い出していたな。せっかくくっ付いたならよ、戦は俺たちに任せて、屋敷でシッポリやっときゃ良かったんだよ。」
「馬鹿、そうしたら誰が山賊上がりのお前らを抑えるんだ。」
「はっはっは、その通りだな。まぁ、飲めよ。」
向こうで裸踊りも始まった。
皆、俺よりも年上なのに俺に付いてきて気の良いやつら。
俺一人の我侭で死なす訳にはいかない…、よな。
ちびりと杯を傾ける。
「全員、そのまま聞いてくれ。」
今の今まで大笑いして男たちが、真剣な顔付きになり姿勢を正す。
「どうやら、ここいらが潮時らしい。俺は守護殿に睨まれて、命も狙われているそうだ。代々この地で禄を貰って生きていたが、こうなってしまっては最早誰が敵で味方なのかもわからない。どうだろう、いっそのこと皆でどこか他所の地へやり直さないか?幸いここからなら、毛利や尼子が近い。内紛一つまともに抑え切れない主君よりもずっと良いと思うのだが、どうであろうか?」
場に静けさが下りる。
大将たちの祝勝の宴の囃子が聞こえるが、どこか遠くの世界のように聞こえる。
「もちろん、強要はしない。この地に留まるのであれば、むしろその者には俺から一時金を以って、これまでの功績を労いたいと思っている。心配するな、俺は丸蝶の首領。ケチな恩賞を渡すつもりはない。これまで山賊や博徒どもから巻き上げた財産、すべて吐き出しても良いと思っている。最低でも金30枚は用意するつもりだ。」
全員が額が地面に着く程、深く頭を下げた。
そして一人、結成当時から俺と共に戦場を駆けた村瀬 団十郎が口を開く。
「カシラ、今更水臭いことを言わんでください。俺たちは全員、カシラに拾っていただいた命です。よってカシラはただ一言、俺たちに『死ね』と言えば良いのです。俺たち一同、カシラの御為に戦ったのですから。だからこそ、カシラの戦乱を終わらせるという理想のために俺たちも戦えたのです。カシラがこの土地を見放すのであれば、俺たちも付いて行きますぜ。それこそ地獄の果てまで、例えカシラが迷惑そうな顔したって、どこまでも…。」
『応っ!!!』
ありがたい、そう思った。
不覚にも彼らの言葉に涙を流そうとしている自分に気が付き、必死に押し止める。
「すまない、皆には苦労を掛ける。出立は早い方が良いだろうが、各々が別れを告げたい者、共に連れて行きたいがいるだろう。
一月後、国境の峠にある隠れ家で落ち合お………………。」
ズブッ
ズブッ
何本もの槍が陣幕を突き破り、仲間たちを貫いた。
ざわっ、と急激に殺気が陣幕の膨らむ。
完全に気配を殺して、俺たちを取り囲んでいたらしい。
「円陣に、防御陣形!」
戦慣れした俺たちは素早く円陣を組んで相手に備える。
槍を切断し、仲間たちを救うもすでに虫の息。
「しっかりしろ!」
「た………、大将…!お、お、俺…、絶対……、つ、付いて…………。」
言葉は、最後まで続かなかった。
彼は俺の腕の中で笑って逝った。
逝って、しまった。
「俺だけじゃなかったのか!俺の首だけが欲しかったんじゃなかったのか!!」
「カシラ!?」
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
大薙刀を横一閃で、陣幕ごと薙ぎ払う。
『ギャァァァァァァァァァァァッ!!!』
白い陣幕が赤く染まる。
陣幕が落ちるとそこにいたのは、血走った目をした武器を構えた完全武装の兵士の姿。
胴から上のない身体が3つ、どさりと力なく崩れ落ちた。
「カシラ、危険だ!下がって!!」
「……俺はお前らの親だ!お前らの逃げ道くらい、俺が作ってやる!!」
太刀も抜き放ち、兵士たちに突撃する。
その怯んだ箇所を突いて、丸蝶の仲間たちは一斉に飛び掛ったのだった。
10/12/23 15:30更新 / 宿利京祐
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