もしかすっとナンセンス
最後に覚えている光景はひどく曖昧だ。
馬鹿みたいに速く世界が縦に回転し続ける
下品なほど赤いフィルムを貼り付けたような視界
耳をつんざく身体の内部から弾ける骨の音
どうにかしようと足掻いて手を前に出すけど弱々しく空を切る
何とか態勢を立て直そうと大地を踏もうとしてもどこに地面があるのだろう
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる『ベチン』
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる『バチン』
時々目の前が真っ暗になると同時に大きな音が響く
鼓膜が破れて音はよく聞こえていない
大きな音を耳ではなく感覚で聞いている
………嗚呼、そうだった
……思い出した
俺はこの女と戦っていたんだ
故郷も両親も友人たちも何もかも捨てて、ただひたすら強くなりたくて
気が付けば当世最強などと煽てられて良い気になって
頭がぼんやりとしていr『ベキン』
また視界が真っ暗になった
何が起こっているんだろう
俺は一体どうしてこんな風に何もわからなくなっているのだr『ゴキン』
……やっと思い出した
俺はこの女に殴られているんだった
最初は良い勝負だった
魔法の才能がない俺は剣一本でこの女と渡り合った
あいつらは、教会はこの女を殺ってくれと言っていた
確か『サン・ジョルジュの剣』と言ったかな
かつてドラゴンなる龍の一種を一刀の下に斬り殺したという聖なる剣を渡された
この剣ならば目の前の女も討ち果たせよう、と連中は言っていた
妙な目をしていたあいつらの期待に沿うのはあまり気が乗らなかったけど
俺が天下一であることが証明出来るなら標的は何だって良かったし
この時点ではあいつらの望みは叶えられるという確信めいたものがあった
そう、この時点では……
女は言った
「こんなに楽しいのは何百年ぶりかしら。間違いなく最強の一角ね、あなた」
あの寒気のする美しい微笑みは忘れようとしても忘れられない
それから先は本当に曖昧にしか覚えていない
まばたきしている間に間合いに入られて
最初に喰らったのは、確か右のフックだった……と思う
本当に何をされたのか、まったく見えなかった
「少しだけ、本気で遊んであげる」
たぶん手加減されていたんだと思う
思う、思うが続くのは俺の意識が途切れ途切れだからだ
ただ確かなのは女が『少しだけ』本気になった最初の一撃で顎が砕けたこと
そしてそれから俺はサンドバッグのように殴られ続けている
俺は大切に扱われていたのだと思う
何故なら女は武器も魔法も一度も使わなかったのだから
それに何が聖なる剣だ
あんな柔らかそうな肌に傷どころか
剣先が女の首筋に触れる直前で、無残なほど無様に砕け散りやがった
「ありがとう、とても良い運動になったわ」
おやすみなさい
それが最後に聞いた声
もう一度、今までのよりも一際大きな音と共に視界が真っ黒に染まった
今度は二度と明るくはならない
あの女は、美しい見た目と裏腹に『魔王』と呼ばれている
その二つ名は伊達じゃないようだ
「聞こえていたら一つだけ忠告してあげる。あなた、才能の使い所を間違えてるわ」
……………………………間違えてたまるか
…………………………うるせえよ
………………………認めてたまるか
……………………くそったれめ
そして、いくつもの昼と夜が繰り返されたある日の晩のこと
男がベッドの上で寝ている。
まるで死んでいるかのように全身に包帯を巻き付けて眠っている。決して安らかではない呼吸で上下する胸板で、辛うじて彼が生きていることが確認出来るほどだ。時折苦しそうに呻き声を漏らすのが痛々しい。
男の名は槇村 早雲と云った。
元々武人の血族ではなかったのだが、誰よりも強くなりたいという本能が強かったために、両親の期待も何もかも裏切って祖国ジパングを出奔した。特定の師を持たず、すべて我流で剣の腕を磨いていき、命のやり取りである真剣勝負を好んで挑んだ。気付けば真剣勝負五十戦無敗という偉業を成したことで海外まで知れ渡っていた剣豪の名を取って『今武蔵』、または『首斬り早雲』の異名を取っていた。
そんな彼に白羽の矢が立ったのも無理はない。
打倒魔王の旗を未だ下ろさぬ教会は、異教徒にして異民族、異人種である早雲を『勇者』として雇い入れた。現段階の教会に『勇者』として送り出せる人材がいなかったという理由も大きいが、教会にとって異民族で異教徒が犠牲になったところで何も失うものがなかったことが何より大きかった。
首尾よく魔王を打倒すれば早雲を見出した教会の手柄。
逆に返り討ちにあっても所詮武力はあっても異教徒だからで済まされる。しかしそれでも教会の手柄にするためには何か一押しをしなくてはならない。そこで彼らは早雲に教会に伝わる聖遺物の一つである『サン・ジョルジュの剣』を与えた。龍殺しの剣と伝えられていた聖遺物であり、教団の総本山に伝わる秘宝に比べれば格段に見劣りするものの、使い手によってはその他の聖遺物を遥かに凌駕する剣である。そのはずだった。
結果は今武蔵の名を以ってしても一矢も報いることが出来なかった。
剣は砕け散り、使い手も魔王によって全身を余すところなく砕かれた。
槇村 早雲は目覚めていた。
ベッドの上で身動き出来ないままに目覚めていた。しかし目覚めていたとは言っても、はっきりと意識が覚醒している訳ではない。まるで熱に浮かされているような、現実と夢の狭間を行ったり来たりするような微睡にも似た覚醒だった。
魔王に挑んでから、早くも二か月が経とうとしている。
ただ、耳だけがまず先に回復していた。
ひどい骨折や筋肉がズタズタで手足は何一つ動かせない。目も開けられないから何も見えない。頭の中も長い昏睡状態が続いていたせいで思考能力も今一つ機能してくれず、ドロドロに蕩けていくような心地よい眠りの世界へと戻りたがっている。事実早雲の意識は短い覚醒を終え、再び深い眠りの泥沼へと沈もうとしていた。
生と死の間を漂っている。
そんな危険な快楽を彼は貪っているのである。
カタッ
静かに彼の眠る部屋のドアが開いた。
眠り続ける早雲を気遣うかのような動作で現れたのは青い肌をした“一つ目の鬼女(おにめ)”だった。所謂(いわゆる)サイプロクスという種族である。巨人の末裔とも神話世界の神々の末裔とも云われる種族で、製鉄技術に長けていることで有名である。
彼女もまたその製鉄技術を生業としているのだろう。
火の側から離れてきたばかりなのだろうか、青い肌は薄っすらと汗ばんでいて、身に着けているタンクトップが豊満な上半身にピッタリと張り付いて透けている。使い込まれている丈夫そうな作業ズボンのベージュ色のカーゴパンツは、所々が火花で小さく焦げていたり煤(すす)で汚れていた。
手には料理の乗った皿が二つ。
一つは彼女自身の食事で、コッペパンと鶏肉の手羽元をじっくり煮込んだ水分の少な目のカレーが乗っている。自家製スパイスを利かせて……いるのかはわからないがその匂いは食欲中枢を刺激し、肉と野菜と穀物を手軽に摂取出来る職人には理想的な食事であった。
そしてもう一つの皿には乳白色のスープが注がれていた。
「目が覚めてる?」
彼女が早雲の些細な変化に気付く。
しかし早雲は何も答えない。まだ砕かれた顎の骨が繋がり切っていないため物理的に喋れないのもあるが、そもそも彼の場合は肉体は覚醒していても、意識がまだはっきりと目覚めていない。
声を掛けても反応がないということで彼女もそれを理解した。
女に名前はなかった。
ただ親しい者は彼女を『エナ』と呼ぶ。
魔王の戯れによって“傷付いた”という言葉が生温いほど傷付いた早雲を、エナは引き取り介護看病をしている。それこそ献身的という言葉が似合いすぎるほどなのだが、エナと早雲に一切の接点はなかった。一切の接点はないというのに、彼女は血に染まる早雲の包帯を一日に何度も交換し、意識なく垂れ流される糞尿の世話をする。
鍛冶仕事が忙しくて目が回りそうだった時も、エナは嫌な顔一つしなかった。
ただ何も言葉を発することはなくとも必死に肉体が死ぬことを拒否し続けて生きようとする早雲のことを、とても愛おしそうな表情を浮かべて黙々と世話をし続けているのである。
「……さすがに、まだ早いか」
そう言って苦笑いを浮かべたエナは、早雲のベッドの横の丸椅子に腰掛けた。簡素なテーブル代わりの小物入れの棚にカレーとパンの乗った皿を置くと、もう一つの乳白色のスープが注がれた皿を手に取り、木のスプーンでくるくると掻き混ぜる。
乳白色のスープはジャガイモをすり潰して牛乳で延ばしたものである。
今日はそれにニンジンやコーン、大豆といったものを柔らかく煮てペースト状にしたものを混ぜてある。あまり豊富な食材がある訳ではないのだが、それでも彼女なりに栄養を考えてのことだった。
これは早雲の病人食である。
「………………ん、調度良い」
一匙すくってエナは口に運ぶ。
味付けは塩だけ。味がきつすぎず薄すぎずという彼女にとって、ここ二か月ですっかり作り慣れた味である。コクン、と小さく喉を鳴らして口にしたスープを飲み込むと、今度はさっきよりも多めにスープを口に含んだ。そのままエナは眠り続ける早雲の顔に顔を近付ける。
大きな瞳を閉じて、エナは口付けを交わすように早雲の口にスープを流し込む
乳飲み子が眠ったままでも本能的に母の乳を吸うように、口から入ってくる栄養を早雲は何もわからぬままに貪り求め続ける。弱々しくも必死に無意識で彼は吸い付いてくるのだが、それは結果的に口移しでスープを飲ませ続けるエナの唇をも貪ることになる。そのせいかエナは顔を赤らめ、時々不意にやって来る強い吸い付きにビクリと身体を震わせていた。
ずっと、彼女はそうしている。
早雲が食事を経口摂取出来るようになって以来ずっとこうしている。
「……はぁ」
口を放すとエナからは大きな溜め息が漏れた。
薄っすらと瞼を開くと、ついさっきまで口付けていた早雲を非難するよう目でじっと見詰めていた。当然早雲としては自分がどういう状況にあるのかなど理解出来ているはずもなく、おそらく自分が介護されていることもこういう形で食事を摂っていることも夢にも思っていないはずである。
「………馬鹿ったれめ。死に掛けのくせに女を求めているとは何て破廉恥な男だろう」
もちろんそうでないことなど百も承知だ。
しかしエナは言わずには居れない。
「死なせはしないよ。そうさ、感謝を伝えられぬまま死なせはしないさ」
そう言って彼女はもう一度スープを口に含む。
何度も何度も、器の中のスープがなくなるまで彼女は口移しで飲ませ続けた。
最後はスープがなくなって
何も飲み込ませるものがなくなったというのに
まるで生命を口から吹き込むようにエナは口付ける
エナと早雲の舌には、生命の糸が繋がっている
―――――――――――――――――――――――――――――――――
夢を見ていた
鉄を叩き続ける大きな背中を見ている夢
嗚呼、あれは親父だ
貧乏なくせに忙しく野鍛冶として働き続けていた親父だ
口下手で無口で、ろくに会話もなかった親父の背中だ
武に生きようとする俺に反対し続けた俺の親父だ
鉄を叩く甲高い音が懐かしくもある
たぶんまだ生きているはずだ
俺は強くなったよ
背中を向けたままの親父に俺はそう自慢した
あいつを斬った
何人を一度に相手にして無傷で撫で斬りにした
あの戦ではこれこれこういう手柄を立てた
ずっと俺を反対し続けた親父を否定するように功を並べ続けた
しかし親父は鎚を振るうことをやめない
こちらを振り返ることなく鉄を叩き続けている
その姿が気に障った
「おい、何とか言えよ親父!俺は間違っちゃいなかった!!」
そう、俺は何も間違ってはいない。
武の道を行くことを選んだことで、故郷も何もかも捨てたが多くを得た
そんな思いを叩き付けた
不意に鉄を叩く音が止む
振り向くかと思ったが、親父は背中を向けたままだった
だが何となくその背中の向こうで親父が煙草に火を点けているような気がした
子供の頃から、ずっと見ていた見ていた仕草だった
ふうと煙草の煙を吐いて、ようやく親父は言葉を発した
「それで、何か生み出せたか?」
言葉に詰まった
何も答えることは出来なかった
キーン キーン キーン
また鉄を叩く音が響き渡る
親父は一度もこちらを見ることなく鉄を叩き始めた
キーン
一際大きな甲高い音が鳴り響いた
その音で夢から覚めた
目の前には見慣れない天井がただただ広がるばかりだった
はっきりと早雲に意識が戻ったのは半年後のことだった。
自分の身に何が起こったのかよくわかっていなかったようだが、自分の身体の状況を確かめると彼は理解してしまった。身体が異様にだるい。筋肉が削ぎ落ちてしまって異常に細くなってしまった手足。あの逞しかった身体が嘘みたいにあばら骨が浮いている。きっと鏡を見れば頬もこけた自分の顔を見ることになるだろう。肘や膝といった関節には、まるで引き千切られたかのような歪な傷が生々しく浮かんで、肉がその部分だけ異様に盛り上がっていた。
胸にも大きな杭で穿ったような傷。左手の小指と薬指が足りない。
慌てて包帯で覆われた顔を手で弄ってみると、右目が眼球ごとなくなっていた。
そこまでしてようやく本当に死に掛けていたのだと早雲は青くなった。
「……あ」
そこにエナがやってきた。
手にはあのジャガイモのスープの皿を持っている。
「…もう昼だけど、おはよう。無事で良かった」
気恥ずかしそうに、はにかんだ笑顔でエナはそう言った。
早雲は初めて出会う一つ目の種族に僅かながら動揺したが、彼女が自分を生かしてくれたのだと瞬時に悟ると、自らの内に生まれた動揺を受け入れた。それと同時に早雲はエナとは初対面だというのに、彼の知っているどこか懐かしい匂いを感じて警戒を解いた。
「俺は……一体…」
「その前に自己紹介しておくよ。私はエナ、と呼ばれている。ご覧の通りの一つ目だから『1(エナ)』だ。サイプロクスという種族さ。死に掛けた君をお節介で引き取った暇人だよ。よろしくな」
「俺は…」
「知ってるよ、早雲だろ。魔王様に聞いた。なかなかすごいね。あの魔王様にたった一人で挑んだだけでなく、魔王様が直々に相手なさるということで警護の者たちを下げるなんて大変な力量だという証拠だよ。滅多にない最上級の待遇だ。君は今、魔界での話題を独占している時の人だよ」
早雲の目覚めが嬉しいのか、エナは笑顔を崩さずにベッドの側の丸椅子に座った。火の側から離れたばかりなので汗臭いかもしれない、とエナは謝るのだが早雲は気にならなかった。むしろ少し汗ばんだ一つ目の彼女が不思議と美しく思えて仕方がなかった。
「よく、喋るんだな」
サイプロクスというのは無口な連中が多い、とどこかで聞きかじっていた早雲は素直な感想を述べる。よく喋ると言われてエナも僅かに怪訝な表情を浮かべるのだが、何かに思い至ったようで早雲をたしなめるように答えた。
「ああ、喋るよ。私たちは感情表現が乏しいんじゃない。多くの仲間が山奥や人里から遠く離れて暮らすから、自然と人見知りしやすく育っちまうだけさ。それに今更可愛らしく小娘のように人見知りするほど、私は若くはないしね」
「若いじゃないか」
若くはないという言葉に早雲は反論する。
エナは見たところ自分とそう変わらないように見える。だがそう思える根拠というのが、しっとりと汗ばんで張り付いたタンクトップ越しの上半身のラインやしなやかに伸びた腕の張りのある肌だったために早雲は口をつぐんだ。意識がなかったとは言え、半年ぶりに目にする異性である。大きな胸の谷間や柔らかそうな腕といったところに目が行くのは無理もないことかもしれない。
「若くはないよ。これでも6世紀あまり生きてるしね」
「……俺の故郷で言うところの神様みたいなものか、そなた」
「私たちの始祖はそうだったかもしれないけどね。でも今を生きている身としたら神様だの魔物だのと、かなりどうでも良いかな。だって、私は私。神様でも魔物でも変わりはしないもの」
それより、と言ってエナはスープの皿を持ち上げる。
「お腹、空いてないかな?」
返事をする前に早雲の胃から空腹を訴える低い音が鳴った。
意識を失ってから目が覚めるまで彼にとっては一瞬の出来事にすぎなかったが、身体としては数ヶ月ぶりに目にした食べ物に素直な欲求を示す。自分の意思とは関係ないとは言ったものの、初めて出会った異種族とは言え美人の部類に入るエナの手前、早雲は子供のように腹を鳴らしたことに顔を赤らめた。
「自分で食べられそうかい?」
「ああ、もちろ…」
もちろん、と言いながら早雲は手を伸ばそうとした。
しかし彼の腕は彼の意思に反して、まるで鉛のように重く、ブルブルと震えながらやっとのことで少し持ち上がる程度だった。思うように持ち上がらない腕を彼は全身の力を振り絞る思いで持ち上げようとする。どうして持ち上がらないのだと気持ちばかり焦る彼にエナは優しく言った。
「………無理は、しないの」
そう微笑みかけてスープを一匙すくって、早雲の口元へ近付けた。
「……すまない」
「気にしない。もう慣れたものだよ」
行儀は悪いが早雲は横たわったままスープを啜った。
口の中に広がるスープの味は、すり潰された野菜の甘みが十二分に感じられた。目が覚めてから久しぶりの食事であるこのシンプルなスープは、早雲にとってこれまで食したどんな食べ物よりも美味しく感じられた。まるで身体全体に温もりが広がっていく。そんな甘い感覚に酔い痴れていた。
「美味しい?」
「ああ、こんな美味いものは初めてだ」
初めてだ、とは言ったものの彼は首を傾げた。
初めて飲んだスープであるはずなのに、彼はこの味をどこかで知っているような気がしてならなかった。しかし故郷のジパングを出て以来、こんな味のスープなど食べた記憶がないので、どこで食べたのだろうと思い出そうとしている。
「……どこでかな。俺、このスープを食べたことがあるかもしれない」
「どこにでもあるジャガイモのスープだよ」
「そうか……そうなのかな…?ただ知ってるんだけど、知ってるようで違うような気がするんだ。こう、同じ味なんだけど……何か俺が知ってる味とは違うような気がする」
「ああ、それなら簡単さ。実はもう一つ香辛料を入れるんだけど、うっかりその香辛料を切らしてしまってね。だから君の知ってる味とは少しばかり違うのかもしれないよ。ただ、あれは刺激が強いから、今の君にはお薦め出来ないかなぁ」
そう言いながらエナはまた一匙すくって早雲の口に差し出す。
もう一つの香辛料の出所が、恥ずかしそうに笑っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
奇妙な気分だった。
つい半年前までは自分の足で立って歩いていたというのに、今はエナの作ってくれた車椅子に乗らなければ移動することもままならないということに複雑な思いを抱いていた。もう剣客としての俺は死んでしまったようだ。指の足りないこの手は、剣を握るどころかエナが拵えてくれたスプーンですら満足に握ることも出来ない。
剣客としての俺は死んだ。
なら、ここにいる生き残った俺は何なのだろうか。
天下無双の剣客になることを夢見て、色んなものを捨てていった。
そして色んなものを得たはずなのに、気付けば何もかもなくなっていた。
目が覚めてから一週間経つが、まだ答えが見付からない。
奇妙なことと言えばもう一つ奇妙なことがあった。
俺は貧乏野鍛冶の家に生まれて、野鍛冶として生きるのが嫌で家を飛び出したというのに、俺の命を拾ってくれたエナはあろうことか野鍛冶を営む女だった。俺の聞いていたサイプロクスなる種族は、鍛冶の花形である孤高の武具職人だったはずなのだが、どうもエナはそうではないらしい。人里に近い場所に工房を置き、彼女の打つ鉄器を求めて多くの人が絶えず工房に足を運んでいるようだ。ただ彼女の下へ来る客は、誰もが武具を求めてやって来るのではない。
どう見ても武具とは縁の遠い農民ばかりなのだ。
彼女の作る鉈(なた)や鎌、鍬(くわ)と言った農具ばかり求めている。そしてエナ自身も武具を積極的に作ったり、修繕したりすることはなく、専ら楽しんでいるかのように農具を次々と生み出していく。
「エナ」
太陽が傾き、日時計が工房の閉店時間を指示したので俺はエナに声を掛けた。
「もう閉店の時間だ。そろそろ身体を休めなよ」
「もうそんな時間か。後ちょっとでキリが良いから、悪いけど工房を閉める準備をやっててもらえないかな。なるべく早く終わらせるよ」
「良いよ、慌てなくて。俺、慣れてるから」
エナは振り向くことなく鉄を叩き続けている。
その姿が、まるで俺の親父のようだった。いつも真剣な表情で焼けた鉄と正面から対峙して、顔を真っ赤にしながら焼けた鉄を叩き続けていた俺の親父にそっくりだった。エナもまた真剣な表情で顔を赤くしている。
工房の来客用出入り口に閉店の札を下げて施錠すると、俺はそのまま彼女の仕事場に戻って、鉄を叩き続けるエナの背中を車椅子に座ったまま見詰めていた。子供の頃に親父の背中をそうやって見ていた時のように、一心不乱に鉄を叩くエナの美しい姿に見惚れていた。
「……なあ、エナ」
「どうした、早雲」
出来上がって立て掛けられている農具を見ながら俺は言った。
「エナは武具を作らないのか?」
「……昔は作っていた」
「今は?」
「…………早雲が欲しいなら作ってやっても良いよ」
エナの作っても良いという発言に俺はじっと自分の手を見た。
もう戦うことの出来ない身体だ。そもそも歩けるようになるまでに、後どれほどの月日を要するのだろう。小指と薬指のない左手には、もう半年前まで持っていた力強さなど感じられない。日常生活に戻れるかどうかもわからない俺に、武具など最早無用の長物でしかなかった。
それに、俺には戦う力どころかその意思すらも残ってはいなかった。
「いや、もう……いらないよ…」
「……そうか。いや、それで良いんだと思うよ。武芸者なんて、絶頂期の時はそれで良い。でも沈まぬ太陽がないように肉体にもいつか陰りがやってくる。その時、君は迫りくる死の影に怯えるのか。それとも自分より大きなものに擦り寄って恐怖を誤魔化して生きるのか。どちらにせよ、武芸者の末路なんて哀れなものさ」
「そう……かな…?」
「そうだともさ。だいたい奪うばかりで何も生み出せない」
何も 生み出せない
それは俺の親父も言っていたことだ。
「………親父も、言ってたよ」
今になって、親父の言葉の意味がようやくわかった気がした。
奪う側から奪われた側に堕ちて、初めて理解することが出来た。
「……………そっか。君の父親も言ってたんだ」
「……親父も、エナと同じ野鍛冶だった。毎日毎日、黙々と鉄を打つばかりで、まともに親父とあまり会話をした覚えはない」
「無口な人だったのか。私よりも遥かにサイプロクスっぽいな」
「故郷を捨てる前に一度だけ、初めて親父と喧嘩した。俺は親父みたいにただ鉄を打つだけの人生を送りたくない。なまじ腕力だけはあったから自惚れて、剣を取って天下に名を挙げたかった。エナの言う奪う側が眩しくて憧れていたんだ」
「……気持ちはわかるよ。生み出す側というのはいつだって地味な日陰者さ。奪う側はいつでも派手だから、華やかな花道を歩き続けていられる錯覚に陥るものだよ」
「ああ、そうなんだ。俺も華やかな世界で生きていたかった。ようやくわかったよ。こんな様になってようやくわかった。奪う側はいつだって奪う者たちに脅かされるって。俺は何も生み出していない。それどころか今まで奪った者たちに、今度は俺が奪われるかもしれない」
遅すぎる後悔だと思う。
同じように生み出された鉄だというのに、使う者が違うだけでこうまで運命が変わるものなのだ。片や“剣”という名を与えられてただ命を奪うことに執着することで天下に大きく名を挙げて虚像の栄華に酔い痴れる道具となり、片や“鍬”という名を与えられて大地を耕し種を蒔いて多くの命を生み出し、人々の生きる糧を作り続ける道具となる。どちらが有意義なのか、それは考えるまでもなかった。
だけど、俺にはその有意義な方を選べなかった。
俺は奪う側であり続けたかった。
エナのすぐ側から甲高い音と共に水煙が上がった。
「……懺悔は済んだかい?」
一応の作業が終わったのだろう。ようやくエナは作業台の上に放り投げていた厚手のタオルを引き寄せると、流れる汗を拭いながら丸椅子を持って俺の側まで歩み寄った。火に照らされて上がった体温で立ち上るエナの匂いと、胸の谷間に流れていく一筋の汗に、不謹慎ではあるが俺は思わず息を飲み込んだ。
「汗臭かったらごめんよ」
「いや、そんなことは…」
作業台から煙草を引き寄せると、彼女は火を点けぬまま咥えた。
火を点けなかったのは、俺という怪我人を気遣ってくれたのだろうか。
「私が思うに、早雲には神様の加護ってやつがあったのだと思うよ。きっと君ならきっかけがあれば自覚出来ただろうし、現にこうして恐れを知って苦悩し後悔している。でもそれだけじゃ足りなかった。私はね、早雲が魔王様と戦い半殺しにされたのは運命だったんだと思っている。剣士としても、早雲個人としても『一度殺されない限り』は殺し合いの輪廻からは逃れられなかったはずだ」
事実俺の心臓は一度止まっていた、とエナは教えてくれた。
「俺は、死んだのか」
「ああ、死んでる。今の君は虚ろうゴーストさ。君にとってはこの一週間は半年前の一瞬の出来事の続きだろうけど、一度心臓が止まったという事実がある以上、君のことはもう死んだことにして内外に触れ回っている。今頃君に依頼した教会もてんやわんやしているんじゃないかな?当代最強レベルの戦士が聖宝と共に討ち取られたとあっちゃ、しばらくは魔界に手も足も出せないだろうしね」
「俺のこと、時の人だと言っていたじゃないか」
「ああ、時の人だよ。教会にうまく騙された上に、およそ半世紀ぶりに魔王様に挑んだ挙句、善戦虚しく嬲り殺しにされた勇気ある哀れな武芸者としてね」
そう言って悪戯っぽい笑みをエナは浮かべる。
「本当はね、私は剣士剣客の類いが嫌いだ。あいつらは命をギャンブル狂みたいに簡単に賭けて、勝手に大損しては負債を命で払う。失敗した実例が何百何千とあるのに、自分には関係ないと言わんばかりに傍若無人に振る舞う。他人を犠牲にすることに何の痛みも感じない人種が、私は大嫌いだ」
「…………ならどうして、どうして俺を引き取ってくれたんだ」
俺はエナに疑問を投げ掛けた。
俺はエナの大嫌いな人種だったはずだ。命を奪うことに何の疑問も持たなかった最低な人種で、その上エナにとってはどうでも良い他人だった。それなのにどうしてまったくの他人である俺を助けてくれたのか。本当に何の縁もゆかりもないというのに、彼女は献身的に俺を看てくれた。包帯を換え、食事を与えてくれて、挙句の果てには垂れ流される糞尿の世話までしてくれていた。今の俺にはそうまでしてくれたエナに何の恩返しも出来ない。
だからどうしてそうまでしてくれたのかが、どうしても知りたかった。
「気紛れ、って答えじゃ納得してくれないよね?」
「納得出来ない」
「じゃあ、少し長くなるけど良いかな?」
「別に、気にしない」
「……ありがとう。さて、何から話そうかな。……そうだね。結論から言ってしまうと私が早雲を引き取った理由はね、君が知らず知らずの内に私の関係者になってしまったからなんだよ」
「俺が、エナの?」
そう、とエナは頷いた。
「古い昔話さ。私がまだ人見知りの激しい若かりし頃のお話。昔、力を求めて止まない心優しい女戦士がいた。人間の女ながらそこいらの紛い物の勇者気取りとは明らかに違う本物の勇者だった。世間は彼女を勇者と認めなかったけど、私たち魔物は彼女を勇者と見ていた。……で、ある日のことひょんなきっかけで私と彼女は知り合った。仲の良い親友になれた、と今でも思っているよ」
昔を懐かしむようにエナは遠い場所を見詰めていた。
「英雄であり続けようとする彼女は本当に眩しい人だったよ。彼女は与えられた使命としてたった一人で魔王軍と戦っていたが、それは決して本心からじゃなかった。あくまで彼女は自分が抑止力となることで魔王軍の動きを止め、戦わなくても良い状況を作り出すことを目的としていた。根本的な解決にはならなくとも、停戦状態を作り出せばもしかしたら良い方向に人々が動いてくれるかもしれない……そんなことを彼女は言っていた。私はそんな彼女の心意気に胸を打たれて、一振りの剣を打って彼女に贈った」
ふう、とエナが溜め息を吐く。
大きな一つ目を閉じると思い出を一つ一つ取り出すように言葉を紡ぎ出した。
「彼女には人間の敵も多かったからね。私は通常の魔界武具ではなく人間界に準じた剣を送ったんだ。あの頃の私の全身全霊を込めて打った剣だ。彼女もそれはそれは喜んでくれたよ。お世辞かもしれないけど、この剣の力があれば魔王軍主力部隊と言えど早々手は出せなくなるって言ってくれた。私はそれが嬉しかった。だけど、それが彼女と最後に交わした言葉になった」
「……最後になった」
「ああ、最後になった。彼女はそれからすぐに殺された。卑劣な姦計に掛かってあっさりとね。彼女の破格の力を嫉んだ者たちの手によって私が打った剣を奪われ、その剣で殺され、その名は歴史からも完全に抹殺された。そしてその主犯格で彼女に贈った剣を奪った者、名をジョルジュ・ウィーヴァーと言い、後にドラゴン殺しという伝説から『サン・ジョルジュ』と呼ばれるようになった」
サン………ジョルジュ…?
サン・ジョルジュ………サン・ジョルジュ…?
サン・ジョルジュ………サン・ジョルジュの剣!!
「まさか!!」
「そうだよ、君が砕いたのは私が昔彼女に贈った剣なのさ。本当は私自身の手で砕きたかった。良かれと思い人間界の基準で打った剣が彼女を殺し、同胞であるドラゴンの命をも奪ってしまった。だからあの剣を打った者としてあれを砕くこと、それが彼女への供養になり、私の犯した過ちへのケジメになると思っていた。それを君が砕いてくれた」
エナはとても優しい目で俺を見ていた。
実際に砕いたのは俺ではない。いや、見様によっては俺の未熟さで剣の力を引き出せずに砕け散ったようにも見えなくもない。ただどんな腕前、どんな剣であろうとあの魔王なる女に傷を付けるのは困難だと思わないでもない。
「君は魔王様に殺されて剣の道に生きる志も、その身に受けた怨嗟も何もかもがリセットされた。そして私の何百年にも渡る心残りも砕いてくれた。だから助けると決めたんだよ。あの剣の持ち主が魔王城に向かったと聞いて居ても立ってもいられずに走った。私が駆け付けた時はもう魔王様は満足そうに笑顔を浮かべて玉座に座られて、君はバラバラになった身体を下々に拾われていた。きっとあのままだったら今頃は苗床として生かさず殺さずの処遇だっただろう」
君はあまりに多くの命を奪いすぎていたからね、とエナは言う。
人斬りは半年前まで俺の本質のようなものだったと自覚している。武器を持たぬ者は斬らなかったが、それもどこかで自分を正当化する言い訳みたいなものだった。奪った命がそのまま功名だったから、いつも心のどこかで人を斬りたいと思っていたぐらいだ。
「だけど傍らに転がる剣の破片を見て、私は思わず魔王様に直訴した。彼を、早雲を私にお預けください。君は私の積年の思いを晴らしてくれた。だから恩を返したいのですとね」
「……そうだったのか。こんな俺がね、まさかエナの役に立っていたなんて」
「だから、君の看病介護で恩を返したかった。そして……」
スッと立ち上がり、エナは深々と頭を下げた。
「……ありがとう。この一言があなたに言いたかった」
泣いている。
俺には想像も出来ない何百年という長い時を思い煩わせた剣が消滅した。そのことはエナにとってどれほど喜ばしいものなのだろう。だが、だからと言ってすべてが解決した訳ではない。エナの心の中には当時の記憶があり、剣の消滅は多くの出来事の内の一つでしかないのかもしれない。
「頭上げてくれよ。妙な気持ちだ。俺には剣を砕いたなんて未熟を晒しているようなものなんだが、まさかそんな俺がエナの心残りを砕いていたなんてな。世の中、わからんことばかりだけだ」
「……よくあることさ。長く生きてるとわかるよ」
「長くね……、その生きる時間を得るために死ななきゃいけなかったとはね。エナ、ありがとうは俺の言う言葉だ。命を拾ってくれただけじゃない。君は俺の人生そのものを拾ってくれた」
右手をエナに向けて伸ばす。
ブルブルと満身の力を籠めなければ、すぐにでもぽたりと落ちてしまいそうな腕だが、彼女がいなければたったこれだけの力も消えてしまっていたのだろう。
まだ大丈夫だ。
これだけの力があれば大丈夫だ。
もう戦うことは出来なくても、まだ出来ることはあるはずだ。
「早雲、無理をするな。またベッドの上に逆戻りするぞ」
「はや太」
「え?」
「俺の本当の名だ。剣客、槇村早雲は死んだ」
剣はもう握れない。
握ったところで振ることは出来ない。……だけど。
「俺に、エナの仕事を手伝わせてくれ。今はご覧の通り、何も持てないし、ろくに動けやしない。だけどすぐに動けるようになってみせる。その時はエナの手伝いをさせてくれ。これでもガキの頃から砥ぎには自信があるんだ」
エナの手伝いをすることで、これまで手に掛けた者たちの菩提を弔うことになるだなんて思ってはいない。そこまで自惚れてはいないつもりだ。だけど、もう戦えないからと言ってこのまま腐っていくつもりもなかった。
戦えなくなったからと腐ってしまう方が死者への冒涜としか思えなかった。
「強いね、早雲…いや、はや太は」
「当たり前だ。俺は天下無双まで後ちょっとというところまで近付いた男だぞ」
「諦めないのも一つの才能か。良いだろう、大した仕事をしている訳じゃないけど手伝ってもらおうか。正直、私も砥ぎには自信がない訳じゃない。あの時まではそこそこ名の通った武具職人だったからな。君の身体が動くようになったら競争しようじゃないか。楽しみだね」
負けるつもりはない、とエナは言った。
彼女も俺の親父と同じ、根っからの職人なのだ。元々、自分の剣は自分で手入れしたから腕に覚えはあるのだけれど、ガキの時分に技術を叩き込まれていたとは言え、所詮は素人に毛が生えた程度のものなのかもしれない。それでも職業柄、同じ技術を持つ者が側にいるというのは心に燃えるものがあるのだろう。
「これでお互いチャラにしようぜ。むしろこれからしばらく厄介になるし、エナの手伝いする以上は迷惑を掛けるかもしれない。ああ、そうだ。動けるようになったら家もどうするか考えなきゃ」
「そうだね、お互いのためにこれでチャラにしようか」
照れ臭そうにエナははにかむ。
何だろう……可愛いじゃないか。
本当に年上かと疑ってしまう。
「ところで、どうして家を?ここに住めば良いじゃないか」
「お前、それ本気で言ってるのか?半分死に掛けの怪我人とは言え、若い男女が同じ屋根の下にいるんだぞ」
「ああ……なるほど」
まだ感覚が戻ってきていなくて痺れたようになっているが下半身、具体的にいうと俺の大事な棒と玉は比較的無事だったのは確認済みだ。今は自分で触っても反応どころか触っている感触すらあるようなないようなだけど、これに感覚が戻ってきたら俺は俺自身を抑えられるかどうかわかったものじゃない。
「つまり、はや太は私を女として見ているんだ?」
「うッ!?」
「よし、今夜はそこのところを詳しく話してもらおう。それを肴に飲むのも面白そうだ」
「や、やめろ!マジやめてお願いします!!」
「居候に拒否権があると思っているのかい?あるはずがないじゃないか。やれやれ、こんなオバちゃんのどこが良いんだろうね。我ながら壊滅的に女っ気のないワーカーホリックだと自覚しているのにな」
「いや、そんなことは」
思わず否定しようとして口をつぐんだ。
今、俺は完全にこの言葉を誘われていたことに気が付いた。しかし気が付いても言いたいことの大部分は口から出てしまっているので、今更口をつぐんだところで言いたいことのほとんどが伝わってしまっている。
その証拠に、そんな俺の様子を楽しむようにエナはニヤニヤしている。
「年下はからかい甲斐があるね、本当に」
「エナ!!」
「怒ると身体に毒だぞ。ささ、そろそろ夕ご飯にしよう。とは言っても君はまだ摩り下ろした野菜スープが主食だ。固形物やガッツリした味の食事もしたいだろうが、医者から良しと言われるまで我慢してくれ」
「……………わかっているよ」
「膨れるな膨れるな。その代わりと言っては何だけど、実は例の香辛料が手に入ったんだよ。あの野菜スープもそれを入れたらきっと気に入ってもらえると思うから、それで勘弁してくれないだろうか?」
「…………美味かったら、それで良い」
「……良かったら、味見してみるかい?」
「味見出来るのか?」
貴重なものじゃないのか、と聞くとエナはそうでもないと答えた。
エナが言うにはその香辛料、割とどこにでもありふれたものらしいのだが、ここしばらく切らしていたのは彼女の仕事が忙しかったために仕入れられなかっただけなのだそうだ。
「味見してみたいな」
「わかった。じゃあ…」
エナは俯くと、大きな目で俺をまっすぐ見る。
あんまりにも真剣に見詰めているので、俺も目を逸らすことが出来ず、恥ずかしさも覚えながら同じようにまっすぐに彼女の目を見詰めた。本当に綺麗な目だ。吸い込まれそうだ、というのはこういう感覚なのだろう。
「……あの、エナ?」
「…………あのさ。実は、はや太を看病していた時、最初は本当に感謝の気持ちだけだった。でも本当のことを言うとね……段々と感謝の気持ちというより、君への愛着が湧いてきていたんだ」
「あの………エナ…さん?一体何を言ってやがりますか?」
「………しっかり、味わえよ?」
「だから何を」
身動き出来なかった
いや、身体が動かなかったという意味じゃなくてさ
気が付いたら、エナに唇を奪われていた
吐息が熱い
抱き締めるエナの汗ばんだ身体が熱くて、匂いが立ち上ってくる
有無を言わさずぬるりと舌が送り込まれ、唾液が流し込まれてくる
……………………甘い、ような気がする
………………あ、この味は
2年後、エナの工房には腕の良い砥師がいた。
特に鎌や包丁などの仕上げを得意とするその職人は、サイプロクスの信頼を得て、彼女の打つ鉄に命を吹き込んでいく。その出来栄えは実に一流の職人らしい仕上がりで、特に包丁に関しては魔王城の宮廷料理人が大金を積んでも欲する一品だという。
魔王をして曰く、「才能の使い所を間違えなければこうなる」とのこと。
今日も農具や調理器具などを求めて、エナの工房には客が絶えない。ただ少しだけ迷惑なのは、この工房の主人であるサイプロクスと雇われ砥師はライバル心が強すぎて、どちらの仕事の出来が上かを客に聞いてくるが珠に傷なのだとか。
ただし
工房では武具の作成、修理、強化はお断りしております。
職人二人そろって武具は専門外ですので。
馬鹿みたいに速く世界が縦に回転し続ける
下品なほど赤いフィルムを貼り付けたような視界
耳をつんざく身体の内部から弾ける骨の音
どうにかしようと足掻いて手を前に出すけど弱々しく空を切る
何とか態勢を立て直そうと大地を踏もうとしてもどこに地面があるのだろう
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる『ベチン』
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる『バチン』
時々目の前が真っ暗になると同時に大きな音が響く
鼓膜が破れて音はよく聞こえていない
大きな音を耳ではなく感覚で聞いている
………嗚呼、そうだった
……思い出した
俺はこの女と戦っていたんだ
故郷も両親も友人たちも何もかも捨てて、ただひたすら強くなりたくて
気が付けば当世最強などと煽てられて良い気になって
頭がぼんやりとしていr『ベキン』
また視界が真っ暗になった
何が起こっているんだろう
俺は一体どうしてこんな風に何もわからなくなっているのだr『ゴキン』
……やっと思い出した
俺はこの女に殴られているんだった
最初は良い勝負だった
魔法の才能がない俺は剣一本でこの女と渡り合った
あいつらは、教会はこの女を殺ってくれと言っていた
確か『サン・ジョルジュの剣』と言ったかな
かつてドラゴンなる龍の一種を一刀の下に斬り殺したという聖なる剣を渡された
この剣ならば目の前の女も討ち果たせよう、と連中は言っていた
妙な目をしていたあいつらの期待に沿うのはあまり気が乗らなかったけど
俺が天下一であることが証明出来るなら標的は何だって良かったし
この時点ではあいつらの望みは叶えられるという確信めいたものがあった
そう、この時点では……
女は言った
「こんなに楽しいのは何百年ぶりかしら。間違いなく最強の一角ね、あなた」
あの寒気のする美しい微笑みは忘れようとしても忘れられない
それから先は本当に曖昧にしか覚えていない
まばたきしている間に間合いに入られて
最初に喰らったのは、確か右のフックだった……と思う
本当に何をされたのか、まったく見えなかった
「少しだけ、本気で遊んであげる」
たぶん手加減されていたんだと思う
思う、思うが続くのは俺の意識が途切れ途切れだからだ
ただ確かなのは女が『少しだけ』本気になった最初の一撃で顎が砕けたこと
そしてそれから俺はサンドバッグのように殴られ続けている
俺は大切に扱われていたのだと思う
何故なら女は武器も魔法も一度も使わなかったのだから
それに何が聖なる剣だ
あんな柔らかそうな肌に傷どころか
剣先が女の首筋に触れる直前で、無残なほど無様に砕け散りやがった
「ありがとう、とても良い運動になったわ」
おやすみなさい
それが最後に聞いた声
もう一度、今までのよりも一際大きな音と共に視界が真っ黒に染まった
今度は二度と明るくはならない
あの女は、美しい見た目と裏腹に『魔王』と呼ばれている
その二つ名は伊達じゃないようだ
「聞こえていたら一つだけ忠告してあげる。あなた、才能の使い所を間違えてるわ」
……………………………間違えてたまるか
…………………………うるせえよ
………………………認めてたまるか
……………………くそったれめ
そして、いくつもの昼と夜が繰り返されたある日の晩のこと
男がベッドの上で寝ている。
まるで死んでいるかのように全身に包帯を巻き付けて眠っている。決して安らかではない呼吸で上下する胸板で、辛うじて彼が生きていることが確認出来るほどだ。時折苦しそうに呻き声を漏らすのが痛々しい。
男の名は槇村 早雲と云った。
元々武人の血族ではなかったのだが、誰よりも強くなりたいという本能が強かったために、両親の期待も何もかも裏切って祖国ジパングを出奔した。特定の師を持たず、すべて我流で剣の腕を磨いていき、命のやり取りである真剣勝負を好んで挑んだ。気付けば真剣勝負五十戦無敗という偉業を成したことで海外まで知れ渡っていた剣豪の名を取って『今武蔵』、または『首斬り早雲』の異名を取っていた。
そんな彼に白羽の矢が立ったのも無理はない。
打倒魔王の旗を未だ下ろさぬ教会は、異教徒にして異民族、異人種である早雲を『勇者』として雇い入れた。現段階の教会に『勇者』として送り出せる人材がいなかったという理由も大きいが、教会にとって異民族で異教徒が犠牲になったところで何も失うものがなかったことが何より大きかった。
首尾よく魔王を打倒すれば早雲を見出した教会の手柄。
逆に返り討ちにあっても所詮武力はあっても異教徒だからで済まされる。しかしそれでも教会の手柄にするためには何か一押しをしなくてはならない。そこで彼らは早雲に教会に伝わる聖遺物の一つである『サン・ジョルジュの剣』を与えた。龍殺しの剣と伝えられていた聖遺物であり、教団の総本山に伝わる秘宝に比べれば格段に見劣りするものの、使い手によってはその他の聖遺物を遥かに凌駕する剣である。そのはずだった。
結果は今武蔵の名を以ってしても一矢も報いることが出来なかった。
剣は砕け散り、使い手も魔王によって全身を余すところなく砕かれた。
槇村 早雲は目覚めていた。
ベッドの上で身動き出来ないままに目覚めていた。しかし目覚めていたとは言っても、はっきりと意識が覚醒している訳ではない。まるで熱に浮かされているような、現実と夢の狭間を行ったり来たりするような微睡にも似た覚醒だった。
魔王に挑んでから、早くも二か月が経とうとしている。
ただ、耳だけがまず先に回復していた。
ひどい骨折や筋肉がズタズタで手足は何一つ動かせない。目も開けられないから何も見えない。頭の中も長い昏睡状態が続いていたせいで思考能力も今一つ機能してくれず、ドロドロに蕩けていくような心地よい眠りの世界へと戻りたがっている。事実早雲の意識は短い覚醒を終え、再び深い眠りの泥沼へと沈もうとしていた。
生と死の間を漂っている。
そんな危険な快楽を彼は貪っているのである。
カタッ
静かに彼の眠る部屋のドアが開いた。
眠り続ける早雲を気遣うかのような動作で現れたのは青い肌をした“一つ目の鬼女(おにめ)”だった。所謂(いわゆる)サイプロクスという種族である。巨人の末裔とも神話世界の神々の末裔とも云われる種族で、製鉄技術に長けていることで有名である。
彼女もまたその製鉄技術を生業としているのだろう。
火の側から離れてきたばかりなのだろうか、青い肌は薄っすらと汗ばんでいて、身に着けているタンクトップが豊満な上半身にピッタリと張り付いて透けている。使い込まれている丈夫そうな作業ズボンのベージュ色のカーゴパンツは、所々が火花で小さく焦げていたり煤(すす)で汚れていた。
手には料理の乗った皿が二つ。
一つは彼女自身の食事で、コッペパンと鶏肉の手羽元をじっくり煮込んだ水分の少な目のカレーが乗っている。自家製スパイスを利かせて……いるのかはわからないがその匂いは食欲中枢を刺激し、肉と野菜と穀物を手軽に摂取出来る職人には理想的な食事であった。
そしてもう一つの皿には乳白色のスープが注がれていた。
「目が覚めてる?」
彼女が早雲の些細な変化に気付く。
しかし早雲は何も答えない。まだ砕かれた顎の骨が繋がり切っていないため物理的に喋れないのもあるが、そもそも彼の場合は肉体は覚醒していても、意識がまだはっきりと目覚めていない。
声を掛けても反応がないということで彼女もそれを理解した。
女に名前はなかった。
ただ親しい者は彼女を『エナ』と呼ぶ。
魔王の戯れによって“傷付いた”という言葉が生温いほど傷付いた早雲を、エナは引き取り介護看病をしている。それこそ献身的という言葉が似合いすぎるほどなのだが、エナと早雲に一切の接点はなかった。一切の接点はないというのに、彼女は血に染まる早雲の包帯を一日に何度も交換し、意識なく垂れ流される糞尿の世話をする。
鍛冶仕事が忙しくて目が回りそうだった時も、エナは嫌な顔一つしなかった。
ただ何も言葉を発することはなくとも必死に肉体が死ぬことを拒否し続けて生きようとする早雲のことを、とても愛おしそうな表情を浮かべて黙々と世話をし続けているのである。
「……さすがに、まだ早いか」
そう言って苦笑いを浮かべたエナは、早雲のベッドの横の丸椅子に腰掛けた。簡素なテーブル代わりの小物入れの棚にカレーとパンの乗った皿を置くと、もう一つの乳白色のスープが注がれた皿を手に取り、木のスプーンでくるくると掻き混ぜる。
乳白色のスープはジャガイモをすり潰して牛乳で延ばしたものである。
今日はそれにニンジンやコーン、大豆といったものを柔らかく煮てペースト状にしたものを混ぜてある。あまり豊富な食材がある訳ではないのだが、それでも彼女なりに栄養を考えてのことだった。
これは早雲の病人食である。
「………………ん、調度良い」
一匙すくってエナは口に運ぶ。
味付けは塩だけ。味がきつすぎず薄すぎずという彼女にとって、ここ二か月ですっかり作り慣れた味である。コクン、と小さく喉を鳴らして口にしたスープを飲み込むと、今度はさっきよりも多めにスープを口に含んだ。そのままエナは眠り続ける早雲の顔に顔を近付ける。
大きな瞳を閉じて、エナは口付けを交わすように早雲の口にスープを流し込む
乳飲み子が眠ったままでも本能的に母の乳を吸うように、口から入ってくる栄養を早雲は何もわからぬままに貪り求め続ける。弱々しくも必死に無意識で彼は吸い付いてくるのだが、それは結果的に口移しでスープを飲ませ続けるエナの唇をも貪ることになる。そのせいかエナは顔を赤らめ、時々不意にやって来る強い吸い付きにビクリと身体を震わせていた。
ずっと、彼女はそうしている。
早雲が食事を経口摂取出来るようになって以来ずっとこうしている。
「……はぁ」
口を放すとエナからは大きな溜め息が漏れた。
薄っすらと瞼を開くと、ついさっきまで口付けていた早雲を非難するよう目でじっと見詰めていた。当然早雲としては自分がどういう状況にあるのかなど理解出来ているはずもなく、おそらく自分が介護されていることもこういう形で食事を摂っていることも夢にも思っていないはずである。
「………馬鹿ったれめ。死に掛けのくせに女を求めているとは何て破廉恥な男だろう」
もちろんそうでないことなど百も承知だ。
しかしエナは言わずには居れない。
「死なせはしないよ。そうさ、感謝を伝えられぬまま死なせはしないさ」
そう言って彼女はもう一度スープを口に含む。
何度も何度も、器の中のスープがなくなるまで彼女は口移しで飲ませ続けた。
最後はスープがなくなって
何も飲み込ませるものがなくなったというのに
まるで生命を口から吹き込むようにエナは口付ける
エナと早雲の舌には、生命の糸が繋がっている
―――――――――――――――――――――――――――――――――
夢を見ていた
鉄を叩き続ける大きな背中を見ている夢
嗚呼、あれは親父だ
貧乏なくせに忙しく野鍛冶として働き続けていた親父だ
口下手で無口で、ろくに会話もなかった親父の背中だ
武に生きようとする俺に反対し続けた俺の親父だ
鉄を叩く甲高い音が懐かしくもある
たぶんまだ生きているはずだ
俺は強くなったよ
背中を向けたままの親父に俺はそう自慢した
あいつを斬った
何人を一度に相手にして無傷で撫で斬りにした
あの戦ではこれこれこういう手柄を立てた
ずっと俺を反対し続けた親父を否定するように功を並べ続けた
しかし親父は鎚を振るうことをやめない
こちらを振り返ることなく鉄を叩き続けている
その姿が気に障った
「おい、何とか言えよ親父!俺は間違っちゃいなかった!!」
そう、俺は何も間違ってはいない。
武の道を行くことを選んだことで、故郷も何もかも捨てたが多くを得た
そんな思いを叩き付けた
不意に鉄を叩く音が止む
振り向くかと思ったが、親父は背中を向けたままだった
だが何となくその背中の向こうで親父が煙草に火を点けているような気がした
子供の頃から、ずっと見ていた見ていた仕草だった
ふうと煙草の煙を吐いて、ようやく親父は言葉を発した
「それで、何か生み出せたか?」
言葉に詰まった
何も答えることは出来なかった
キーン キーン キーン
また鉄を叩く音が響き渡る
親父は一度もこちらを見ることなく鉄を叩き始めた
キーン
一際大きな甲高い音が鳴り響いた
その音で夢から覚めた
目の前には見慣れない天井がただただ広がるばかりだった
はっきりと早雲に意識が戻ったのは半年後のことだった。
自分の身に何が起こったのかよくわかっていなかったようだが、自分の身体の状況を確かめると彼は理解してしまった。身体が異様にだるい。筋肉が削ぎ落ちてしまって異常に細くなってしまった手足。あの逞しかった身体が嘘みたいにあばら骨が浮いている。きっと鏡を見れば頬もこけた自分の顔を見ることになるだろう。肘や膝といった関節には、まるで引き千切られたかのような歪な傷が生々しく浮かんで、肉がその部分だけ異様に盛り上がっていた。
胸にも大きな杭で穿ったような傷。左手の小指と薬指が足りない。
慌てて包帯で覆われた顔を手で弄ってみると、右目が眼球ごとなくなっていた。
そこまでしてようやく本当に死に掛けていたのだと早雲は青くなった。
「……あ」
そこにエナがやってきた。
手にはあのジャガイモのスープの皿を持っている。
「…もう昼だけど、おはよう。無事で良かった」
気恥ずかしそうに、はにかんだ笑顔でエナはそう言った。
早雲は初めて出会う一つ目の種族に僅かながら動揺したが、彼女が自分を生かしてくれたのだと瞬時に悟ると、自らの内に生まれた動揺を受け入れた。それと同時に早雲はエナとは初対面だというのに、彼の知っているどこか懐かしい匂いを感じて警戒を解いた。
「俺は……一体…」
「その前に自己紹介しておくよ。私はエナ、と呼ばれている。ご覧の通りの一つ目だから『1(エナ)』だ。サイプロクスという種族さ。死に掛けた君をお節介で引き取った暇人だよ。よろしくな」
「俺は…」
「知ってるよ、早雲だろ。魔王様に聞いた。なかなかすごいね。あの魔王様にたった一人で挑んだだけでなく、魔王様が直々に相手なさるということで警護の者たちを下げるなんて大変な力量だという証拠だよ。滅多にない最上級の待遇だ。君は今、魔界での話題を独占している時の人だよ」
早雲の目覚めが嬉しいのか、エナは笑顔を崩さずにベッドの側の丸椅子に座った。火の側から離れたばかりなので汗臭いかもしれない、とエナは謝るのだが早雲は気にならなかった。むしろ少し汗ばんだ一つ目の彼女が不思議と美しく思えて仕方がなかった。
「よく、喋るんだな」
サイプロクスというのは無口な連中が多い、とどこかで聞きかじっていた早雲は素直な感想を述べる。よく喋ると言われてエナも僅かに怪訝な表情を浮かべるのだが、何かに思い至ったようで早雲をたしなめるように答えた。
「ああ、喋るよ。私たちは感情表現が乏しいんじゃない。多くの仲間が山奥や人里から遠く離れて暮らすから、自然と人見知りしやすく育っちまうだけさ。それに今更可愛らしく小娘のように人見知りするほど、私は若くはないしね」
「若いじゃないか」
若くはないという言葉に早雲は反論する。
エナは見たところ自分とそう変わらないように見える。だがそう思える根拠というのが、しっとりと汗ばんで張り付いたタンクトップ越しの上半身のラインやしなやかに伸びた腕の張りのある肌だったために早雲は口をつぐんだ。意識がなかったとは言え、半年ぶりに目にする異性である。大きな胸の谷間や柔らかそうな腕といったところに目が行くのは無理もないことかもしれない。
「若くはないよ。これでも6世紀あまり生きてるしね」
「……俺の故郷で言うところの神様みたいなものか、そなた」
「私たちの始祖はそうだったかもしれないけどね。でも今を生きている身としたら神様だの魔物だのと、かなりどうでも良いかな。だって、私は私。神様でも魔物でも変わりはしないもの」
それより、と言ってエナはスープの皿を持ち上げる。
「お腹、空いてないかな?」
返事をする前に早雲の胃から空腹を訴える低い音が鳴った。
意識を失ってから目が覚めるまで彼にとっては一瞬の出来事にすぎなかったが、身体としては数ヶ月ぶりに目にした食べ物に素直な欲求を示す。自分の意思とは関係ないとは言ったものの、初めて出会った異種族とは言え美人の部類に入るエナの手前、早雲は子供のように腹を鳴らしたことに顔を赤らめた。
「自分で食べられそうかい?」
「ああ、もちろ…」
もちろん、と言いながら早雲は手を伸ばそうとした。
しかし彼の腕は彼の意思に反して、まるで鉛のように重く、ブルブルと震えながらやっとのことで少し持ち上がる程度だった。思うように持ち上がらない腕を彼は全身の力を振り絞る思いで持ち上げようとする。どうして持ち上がらないのだと気持ちばかり焦る彼にエナは優しく言った。
「………無理は、しないの」
そう微笑みかけてスープを一匙すくって、早雲の口元へ近付けた。
「……すまない」
「気にしない。もう慣れたものだよ」
行儀は悪いが早雲は横たわったままスープを啜った。
口の中に広がるスープの味は、すり潰された野菜の甘みが十二分に感じられた。目が覚めてから久しぶりの食事であるこのシンプルなスープは、早雲にとってこれまで食したどんな食べ物よりも美味しく感じられた。まるで身体全体に温もりが広がっていく。そんな甘い感覚に酔い痴れていた。
「美味しい?」
「ああ、こんな美味いものは初めてだ」
初めてだ、とは言ったものの彼は首を傾げた。
初めて飲んだスープであるはずなのに、彼はこの味をどこかで知っているような気がしてならなかった。しかし故郷のジパングを出て以来、こんな味のスープなど食べた記憶がないので、どこで食べたのだろうと思い出そうとしている。
「……どこでかな。俺、このスープを食べたことがあるかもしれない」
「どこにでもあるジャガイモのスープだよ」
「そうか……そうなのかな…?ただ知ってるんだけど、知ってるようで違うような気がするんだ。こう、同じ味なんだけど……何か俺が知ってる味とは違うような気がする」
「ああ、それなら簡単さ。実はもう一つ香辛料を入れるんだけど、うっかりその香辛料を切らしてしまってね。だから君の知ってる味とは少しばかり違うのかもしれないよ。ただ、あれは刺激が強いから、今の君にはお薦め出来ないかなぁ」
そう言いながらエナはまた一匙すくって早雲の口に差し出す。
もう一つの香辛料の出所が、恥ずかしそうに笑っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
奇妙な気分だった。
つい半年前までは自分の足で立って歩いていたというのに、今はエナの作ってくれた車椅子に乗らなければ移動することもままならないということに複雑な思いを抱いていた。もう剣客としての俺は死んでしまったようだ。指の足りないこの手は、剣を握るどころかエナが拵えてくれたスプーンですら満足に握ることも出来ない。
剣客としての俺は死んだ。
なら、ここにいる生き残った俺は何なのだろうか。
天下無双の剣客になることを夢見て、色んなものを捨てていった。
そして色んなものを得たはずなのに、気付けば何もかもなくなっていた。
目が覚めてから一週間経つが、まだ答えが見付からない。
奇妙なことと言えばもう一つ奇妙なことがあった。
俺は貧乏野鍛冶の家に生まれて、野鍛冶として生きるのが嫌で家を飛び出したというのに、俺の命を拾ってくれたエナはあろうことか野鍛冶を営む女だった。俺の聞いていたサイプロクスなる種族は、鍛冶の花形である孤高の武具職人だったはずなのだが、どうもエナはそうではないらしい。人里に近い場所に工房を置き、彼女の打つ鉄器を求めて多くの人が絶えず工房に足を運んでいるようだ。ただ彼女の下へ来る客は、誰もが武具を求めてやって来るのではない。
どう見ても武具とは縁の遠い農民ばかりなのだ。
彼女の作る鉈(なた)や鎌、鍬(くわ)と言った農具ばかり求めている。そしてエナ自身も武具を積極的に作ったり、修繕したりすることはなく、専ら楽しんでいるかのように農具を次々と生み出していく。
「エナ」
太陽が傾き、日時計が工房の閉店時間を指示したので俺はエナに声を掛けた。
「もう閉店の時間だ。そろそろ身体を休めなよ」
「もうそんな時間か。後ちょっとでキリが良いから、悪いけど工房を閉める準備をやっててもらえないかな。なるべく早く終わらせるよ」
「良いよ、慌てなくて。俺、慣れてるから」
エナは振り向くことなく鉄を叩き続けている。
その姿が、まるで俺の親父のようだった。いつも真剣な表情で焼けた鉄と正面から対峙して、顔を真っ赤にしながら焼けた鉄を叩き続けていた俺の親父にそっくりだった。エナもまた真剣な表情で顔を赤くしている。
工房の来客用出入り口に閉店の札を下げて施錠すると、俺はそのまま彼女の仕事場に戻って、鉄を叩き続けるエナの背中を車椅子に座ったまま見詰めていた。子供の頃に親父の背中をそうやって見ていた時のように、一心不乱に鉄を叩くエナの美しい姿に見惚れていた。
「……なあ、エナ」
「どうした、早雲」
出来上がって立て掛けられている農具を見ながら俺は言った。
「エナは武具を作らないのか?」
「……昔は作っていた」
「今は?」
「…………早雲が欲しいなら作ってやっても良いよ」
エナの作っても良いという発言に俺はじっと自分の手を見た。
もう戦うことの出来ない身体だ。そもそも歩けるようになるまでに、後どれほどの月日を要するのだろう。小指と薬指のない左手には、もう半年前まで持っていた力強さなど感じられない。日常生活に戻れるかどうかもわからない俺に、武具など最早無用の長物でしかなかった。
それに、俺には戦う力どころかその意思すらも残ってはいなかった。
「いや、もう……いらないよ…」
「……そうか。いや、それで良いんだと思うよ。武芸者なんて、絶頂期の時はそれで良い。でも沈まぬ太陽がないように肉体にもいつか陰りがやってくる。その時、君は迫りくる死の影に怯えるのか。それとも自分より大きなものに擦り寄って恐怖を誤魔化して生きるのか。どちらにせよ、武芸者の末路なんて哀れなものさ」
「そう……かな…?」
「そうだともさ。だいたい奪うばかりで何も生み出せない」
何も 生み出せない
それは俺の親父も言っていたことだ。
「………親父も、言ってたよ」
今になって、親父の言葉の意味がようやくわかった気がした。
奪う側から奪われた側に堕ちて、初めて理解することが出来た。
「……………そっか。君の父親も言ってたんだ」
「……親父も、エナと同じ野鍛冶だった。毎日毎日、黙々と鉄を打つばかりで、まともに親父とあまり会話をした覚えはない」
「無口な人だったのか。私よりも遥かにサイプロクスっぽいな」
「故郷を捨てる前に一度だけ、初めて親父と喧嘩した。俺は親父みたいにただ鉄を打つだけの人生を送りたくない。なまじ腕力だけはあったから自惚れて、剣を取って天下に名を挙げたかった。エナの言う奪う側が眩しくて憧れていたんだ」
「……気持ちはわかるよ。生み出す側というのはいつだって地味な日陰者さ。奪う側はいつでも派手だから、華やかな花道を歩き続けていられる錯覚に陥るものだよ」
「ああ、そうなんだ。俺も華やかな世界で生きていたかった。ようやくわかったよ。こんな様になってようやくわかった。奪う側はいつだって奪う者たちに脅かされるって。俺は何も生み出していない。それどころか今まで奪った者たちに、今度は俺が奪われるかもしれない」
遅すぎる後悔だと思う。
同じように生み出された鉄だというのに、使う者が違うだけでこうまで運命が変わるものなのだ。片や“剣”という名を与えられてただ命を奪うことに執着することで天下に大きく名を挙げて虚像の栄華に酔い痴れる道具となり、片や“鍬”という名を与えられて大地を耕し種を蒔いて多くの命を生み出し、人々の生きる糧を作り続ける道具となる。どちらが有意義なのか、それは考えるまでもなかった。
だけど、俺にはその有意義な方を選べなかった。
俺は奪う側であり続けたかった。
エナのすぐ側から甲高い音と共に水煙が上がった。
「……懺悔は済んだかい?」
一応の作業が終わったのだろう。ようやくエナは作業台の上に放り投げていた厚手のタオルを引き寄せると、流れる汗を拭いながら丸椅子を持って俺の側まで歩み寄った。火に照らされて上がった体温で立ち上るエナの匂いと、胸の谷間に流れていく一筋の汗に、不謹慎ではあるが俺は思わず息を飲み込んだ。
「汗臭かったらごめんよ」
「いや、そんなことは…」
作業台から煙草を引き寄せると、彼女は火を点けぬまま咥えた。
火を点けなかったのは、俺という怪我人を気遣ってくれたのだろうか。
「私が思うに、早雲には神様の加護ってやつがあったのだと思うよ。きっと君ならきっかけがあれば自覚出来ただろうし、現にこうして恐れを知って苦悩し後悔している。でもそれだけじゃ足りなかった。私はね、早雲が魔王様と戦い半殺しにされたのは運命だったんだと思っている。剣士としても、早雲個人としても『一度殺されない限り』は殺し合いの輪廻からは逃れられなかったはずだ」
事実俺の心臓は一度止まっていた、とエナは教えてくれた。
「俺は、死んだのか」
「ああ、死んでる。今の君は虚ろうゴーストさ。君にとってはこの一週間は半年前の一瞬の出来事の続きだろうけど、一度心臓が止まったという事実がある以上、君のことはもう死んだことにして内外に触れ回っている。今頃君に依頼した教会もてんやわんやしているんじゃないかな?当代最強レベルの戦士が聖宝と共に討ち取られたとあっちゃ、しばらくは魔界に手も足も出せないだろうしね」
「俺のこと、時の人だと言っていたじゃないか」
「ああ、時の人だよ。教会にうまく騙された上に、およそ半世紀ぶりに魔王様に挑んだ挙句、善戦虚しく嬲り殺しにされた勇気ある哀れな武芸者としてね」
そう言って悪戯っぽい笑みをエナは浮かべる。
「本当はね、私は剣士剣客の類いが嫌いだ。あいつらは命をギャンブル狂みたいに簡単に賭けて、勝手に大損しては負債を命で払う。失敗した実例が何百何千とあるのに、自分には関係ないと言わんばかりに傍若無人に振る舞う。他人を犠牲にすることに何の痛みも感じない人種が、私は大嫌いだ」
「…………ならどうして、どうして俺を引き取ってくれたんだ」
俺はエナに疑問を投げ掛けた。
俺はエナの大嫌いな人種だったはずだ。命を奪うことに何の疑問も持たなかった最低な人種で、その上エナにとってはどうでも良い他人だった。それなのにどうしてまったくの他人である俺を助けてくれたのか。本当に何の縁もゆかりもないというのに、彼女は献身的に俺を看てくれた。包帯を換え、食事を与えてくれて、挙句の果てには垂れ流される糞尿の世話までしてくれていた。今の俺にはそうまでしてくれたエナに何の恩返しも出来ない。
だからどうしてそうまでしてくれたのかが、どうしても知りたかった。
「気紛れ、って答えじゃ納得してくれないよね?」
「納得出来ない」
「じゃあ、少し長くなるけど良いかな?」
「別に、気にしない」
「……ありがとう。さて、何から話そうかな。……そうだね。結論から言ってしまうと私が早雲を引き取った理由はね、君が知らず知らずの内に私の関係者になってしまったからなんだよ」
「俺が、エナの?」
そう、とエナは頷いた。
「古い昔話さ。私がまだ人見知りの激しい若かりし頃のお話。昔、力を求めて止まない心優しい女戦士がいた。人間の女ながらそこいらの紛い物の勇者気取りとは明らかに違う本物の勇者だった。世間は彼女を勇者と認めなかったけど、私たち魔物は彼女を勇者と見ていた。……で、ある日のことひょんなきっかけで私と彼女は知り合った。仲の良い親友になれた、と今でも思っているよ」
昔を懐かしむようにエナは遠い場所を見詰めていた。
「英雄であり続けようとする彼女は本当に眩しい人だったよ。彼女は与えられた使命としてたった一人で魔王軍と戦っていたが、それは決して本心からじゃなかった。あくまで彼女は自分が抑止力となることで魔王軍の動きを止め、戦わなくても良い状況を作り出すことを目的としていた。根本的な解決にはならなくとも、停戦状態を作り出せばもしかしたら良い方向に人々が動いてくれるかもしれない……そんなことを彼女は言っていた。私はそんな彼女の心意気に胸を打たれて、一振りの剣を打って彼女に贈った」
ふう、とエナが溜め息を吐く。
大きな一つ目を閉じると思い出を一つ一つ取り出すように言葉を紡ぎ出した。
「彼女には人間の敵も多かったからね。私は通常の魔界武具ではなく人間界に準じた剣を送ったんだ。あの頃の私の全身全霊を込めて打った剣だ。彼女もそれはそれは喜んでくれたよ。お世辞かもしれないけど、この剣の力があれば魔王軍主力部隊と言えど早々手は出せなくなるって言ってくれた。私はそれが嬉しかった。だけど、それが彼女と最後に交わした言葉になった」
「……最後になった」
「ああ、最後になった。彼女はそれからすぐに殺された。卑劣な姦計に掛かってあっさりとね。彼女の破格の力を嫉んだ者たちの手によって私が打った剣を奪われ、その剣で殺され、その名は歴史からも完全に抹殺された。そしてその主犯格で彼女に贈った剣を奪った者、名をジョルジュ・ウィーヴァーと言い、後にドラゴン殺しという伝説から『サン・ジョルジュ』と呼ばれるようになった」
サン………ジョルジュ…?
サン・ジョルジュ………サン・ジョルジュ…?
サン・ジョルジュ………サン・ジョルジュの剣!!
「まさか!!」
「そうだよ、君が砕いたのは私が昔彼女に贈った剣なのさ。本当は私自身の手で砕きたかった。良かれと思い人間界の基準で打った剣が彼女を殺し、同胞であるドラゴンの命をも奪ってしまった。だからあの剣を打った者としてあれを砕くこと、それが彼女への供養になり、私の犯した過ちへのケジメになると思っていた。それを君が砕いてくれた」
エナはとても優しい目で俺を見ていた。
実際に砕いたのは俺ではない。いや、見様によっては俺の未熟さで剣の力を引き出せずに砕け散ったようにも見えなくもない。ただどんな腕前、どんな剣であろうとあの魔王なる女に傷を付けるのは困難だと思わないでもない。
「君は魔王様に殺されて剣の道に生きる志も、その身に受けた怨嗟も何もかもがリセットされた。そして私の何百年にも渡る心残りも砕いてくれた。だから助けると決めたんだよ。あの剣の持ち主が魔王城に向かったと聞いて居ても立ってもいられずに走った。私が駆け付けた時はもう魔王様は満足そうに笑顔を浮かべて玉座に座られて、君はバラバラになった身体を下々に拾われていた。きっとあのままだったら今頃は苗床として生かさず殺さずの処遇だっただろう」
君はあまりに多くの命を奪いすぎていたからね、とエナは言う。
人斬りは半年前まで俺の本質のようなものだったと自覚している。武器を持たぬ者は斬らなかったが、それもどこかで自分を正当化する言い訳みたいなものだった。奪った命がそのまま功名だったから、いつも心のどこかで人を斬りたいと思っていたぐらいだ。
「だけど傍らに転がる剣の破片を見て、私は思わず魔王様に直訴した。彼を、早雲を私にお預けください。君は私の積年の思いを晴らしてくれた。だから恩を返したいのですとね」
「……そうだったのか。こんな俺がね、まさかエナの役に立っていたなんて」
「だから、君の看病介護で恩を返したかった。そして……」
スッと立ち上がり、エナは深々と頭を下げた。
「……ありがとう。この一言があなたに言いたかった」
泣いている。
俺には想像も出来ない何百年という長い時を思い煩わせた剣が消滅した。そのことはエナにとってどれほど喜ばしいものなのだろう。だが、だからと言ってすべてが解決した訳ではない。エナの心の中には当時の記憶があり、剣の消滅は多くの出来事の内の一つでしかないのかもしれない。
「頭上げてくれよ。妙な気持ちだ。俺には剣を砕いたなんて未熟を晒しているようなものなんだが、まさかそんな俺がエナの心残りを砕いていたなんてな。世の中、わからんことばかりだけだ」
「……よくあることさ。長く生きてるとわかるよ」
「長くね……、その生きる時間を得るために死ななきゃいけなかったとはね。エナ、ありがとうは俺の言う言葉だ。命を拾ってくれただけじゃない。君は俺の人生そのものを拾ってくれた」
右手をエナに向けて伸ばす。
ブルブルと満身の力を籠めなければ、すぐにでもぽたりと落ちてしまいそうな腕だが、彼女がいなければたったこれだけの力も消えてしまっていたのだろう。
まだ大丈夫だ。
これだけの力があれば大丈夫だ。
もう戦うことは出来なくても、まだ出来ることはあるはずだ。
「早雲、無理をするな。またベッドの上に逆戻りするぞ」
「はや太」
「え?」
「俺の本当の名だ。剣客、槇村早雲は死んだ」
剣はもう握れない。
握ったところで振ることは出来ない。……だけど。
「俺に、エナの仕事を手伝わせてくれ。今はご覧の通り、何も持てないし、ろくに動けやしない。だけどすぐに動けるようになってみせる。その時はエナの手伝いをさせてくれ。これでもガキの頃から砥ぎには自信があるんだ」
エナの手伝いをすることで、これまで手に掛けた者たちの菩提を弔うことになるだなんて思ってはいない。そこまで自惚れてはいないつもりだ。だけど、もう戦えないからと言ってこのまま腐っていくつもりもなかった。
戦えなくなったからと腐ってしまう方が死者への冒涜としか思えなかった。
「強いね、早雲…いや、はや太は」
「当たり前だ。俺は天下無双まで後ちょっとというところまで近付いた男だぞ」
「諦めないのも一つの才能か。良いだろう、大した仕事をしている訳じゃないけど手伝ってもらおうか。正直、私も砥ぎには自信がない訳じゃない。あの時まではそこそこ名の通った武具職人だったからな。君の身体が動くようになったら競争しようじゃないか。楽しみだね」
負けるつもりはない、とエナは言った。
彼女も俺の親父と同じ、根っからの職人なのだ。元々、自分の剣は自分で手入れしたから腕に覚えはあるのだけれど、ガキの時分に技術を叩き込まれていたとは言え、所詮は素人に毛が生えた程度のものなのかもしれない。それでも職業柄、同じ技術を持つ者が側にいるというのは心に燃えるものがあるのだろう。
「これでお互いチャラにしようぜ。むしろこれからしばらく厄介になるし、エナの手伝いする以上は迷惑を掛けるかもしれない。ああ、そうだ。動けるようになったら家もどうするか考えなきゃ」
「そうだね、お互いのためにこれでチャラにしようか」
照れ臭そうにエナははにかむ。
何だろう……可愛いじゃないか。
本当に年上かと疑ってしまう。
「ところで、どうして家を?ここに住めば良いじゃないか」
「お前、それ本気で言ってるのか?半分死に掛けの怪我人とは言え、若い男女が同じ屋根の下にいるんだぞ」
「ああ……なるほど」
まだ感覚が戻ってきていなくて痺れたようになっているが下半身、具体的にいうと俺の大事な棒と玉は比較的無事だったのは確認済みだ。今は自分で触っても反応どころか触っている感触すらあるようなないようなだけど、これに感覚が戻ってきたら俺は俺自身を抑えられるかどうかわかったものじゃない。
「つまり、はや太は私を女として見ているんだ?」
「うッ!?」
「よし、今夜はそこのところを詳しく話してもらおう。それを肴に飲むのも面白そうだ」
「や、やめろ!マジやめてお願いします!!」
「居候に拒否権があると思っているのかい?あるはずがないじゃないか。やれやれ、こんなオバちゃんのどこが良いんだろうね。我ながら壊滅的に女っ気のないワーカーホリックだと自覚しているのにな」
「いや、そんなことは」
思わず否定しようとして口をつぐんだ。
今、俺は完全にこの言葉を誘われていたことに気が付いた。しかし気が付いても言いたいことの大部分は口から出てしまっているので、今更口をつぐんだところで言いたいことのほとんどが伝わってしまっている。
その証拠に、そんな俺の様子を楽しむようにエナはニヤニヤしている。
「年下はからかい甲斐があるね、本当に」
「エナ!!」
「怒ると身体に毒だぞ。ささ、そろそろ夕ご飯にしよう。とは言っても君はまだ摩り下ろした野菜スープが主食だ。固形物やガッツリした味の食事もしたいだろうが、医者から良しと言われるまで我慢してくれ」
「……………わかっているよ」
「膨れるな膨れるな。その代わりと言っては何だけど、実は例の香辛料が手に入ったんだよ。あの野菜スープもそれを入れたらきっと気に入ってもらえると思うから、それで勘弁してくれないだろうか?」
「…………美味かったら、それで良い」
「……良かったら、味見してみるかい?」
「味見出来るのか?」
貴重なものじゃないのか、と聞くとエナはそうでもないと答えた。
エナが言うにはその香辛料、割とどこにでもありふれたものらしいのだが、ここしばらく切らしていたのは彼女の仕事が忙しかったために仕入れられなかっただけなのだそうだ。
「味見してみたいな」
「わかった。じゃあ…」
エナは俯くと、大きな目で俺をまっすぐ見る。
あんまりにも真剣に見詰めているので、俺も目を逸らすことが出来ず、恥ずかしさも覚えながら同じようにまっすぐに彼女の目を見詰めた。本当に綺麗な目だ。吸い込まれそうだ、というのはこういう感覚なのだろう。
「……あの、エナ?」
「…………あのさ。実は、はや太を看病していた時、最初は本当に感謝の気持ちだけだった。でも本当のことを言うとね……段々と感謝の気持ちというより、君への愛着が湧いてきていたんだ」
「あの………エナ…さん?一体何を言ってやがりますか?」
「………しっかり、味わえよ?」
「だから何を」
身動き出来なかった
いや、身体が動かなかったという意味じゃなくてさ
気が付いたら、エナに唇を奪われていた
吐息が熱い
抱き締めるエナの汗ばんだ身体が熱くて、匂いが立ち上ってくる
有無を言わさずぬるりと舌が送り込まれ、唾液が流し込まれてくる
……………………甘い、ような気がする
………………あ、この味は
2年後、エナの工房には腕の良い砥師がいた。
特に鎌や包丁などの仕上げを得意とするその職人は、サイプロクスの信頼を得て、彼女の打つ鉄に命を吹き込んでいく。その出来栄えは実に一流の職人らしい仕上がりで、特に包丁に関しては魔王城の宮廷料理人が大金を積んでも欲する一品だという。
魔王をして曰く、「才能の使い所を間違えなければこうなる」とのこと。
今日も農具や調理器具などを求めて、エナの工房には客が絶えない。ただ少しだけ迷惑なのは、この工房の主人であるサイプロクスと雇われ砥師はライバル心が強すぎて、どちらの仕事の出来が上かを客に聞いてくるが珠に傷なのだとか。
ただし
工房では武具の作成、修理、強化はお断りしております。
職人二人そろって武具は専門外ですので。
14/07/27 15:22更新 / 宿利京祐