始まりの“LOVELESS”
まだ薄暗い部屋の中、彼女はぼんやりとした頭でベッドの上で気だるそうに目を覚ました。
カーテンの向こうからはまだ蒼い月明かりが部屋を照らしている。ベッドの棚に置いたクリスタルの置き時計を、起き抜けで身体に妙に力の入らないまま手に取って見るとまだ深夜四時にもなってはいなかった。眠り始めてからまだ二時間も経ってはいない。
嫌な夢を見たような気がする
手に取ったクリスタルの置き時計を棚に戻すと、彼女はそっと自分の頬に手を当ててみた。
指先が濡れている。
何となく彼女はそんな予感があったのだ。どんな夢の内容だったのかは思い出せない。それでもどんな夢だったのかはすぐに予想が付いていた。それは今夜に限ったことではない。何度も何度も、彼女は思い返しているのだ。
それを何千、何万という夜に繰り返している
彼女は人間ではない。
千年という月日を生きた狐、五つ尾の“稲荷”である。
ただあまりに人間の近くで生きてきたせいなのか、他の同属とは何かが決定的に違うことを自覚している“はぐれ者”の稲荷であった。はぐれ者だからこそ出来ることもあったのだが、彼女は他の妖怪・魔物娘たちとは異なり、人間同様に金銭に対してそれなりの興味があり、また人間同様に労働によって日々の糧を得る生活を好んでいた。
それも彼女の見る夢に関係することに起因する。
「……………………情けない」
そう吐き捨てるように、彼女は喉の奥で低く呟いた。
まだ眠り足りない眼で部屋を見回してみて、ここが夢の続きではないことを確認すると彼女は宙にため息を吐く。そして『我ながら無駄に広い部屋を購入したものだ』と彼女は少し自嘲気味に笑った。
彼女の住処は駅前のマンションの最上階。
その最上階のフロアそのものが彼女の家であり、マンションと呼ぶにはあまりに規模が違いすぎるそれは、所謂セレブ御用達の“億ション”と呼ばれる物件である。別に小さな物件でも構わなかったのだが、この広い部屋を手に入れたのにはそれなりの理由があり、何よりその方が彼女にとって都合が良かったのだった。
都会の真ん中に五つ尾の稲荷がいるというだけで十分目立つ。
だから彼女は基本的に家の外では常に人間に化けて暮らしている。そのためそれが発覚しないように隣人トラブルの類は特に御法度なのであり、また彼女の家の中も質素な家具や調度品しかないとは云え、価値のわかる者が見れば重要文化財級の彼女愛用の品が多数あるために、きちんとしたセキュリティは欠かせない。
以前は稲荷らしく自ら得意とする符術で呪術結界を張っていたのだが、それよりも若干信用は劣るものの、人類が積み重ねてきた科学技術の方が何倍も手間が掛からないことを悟って、今現在ではすっかり符術による結界の類はたまにしかやらなくなっていた。
ベッドから身体を起こすと、枕元のランプの明かりを点けた。
柔らかな光がぼんやりと薄暗い室内を照らす。
どうも 眠れない
彼女はベッドの上で片膝を抱くようにして俯く。
不意に不眠から来る鈍い頭痛が襲い、彼女は憎々しげに頭を抱えていた。
ずくん、ずくん、と何か嫌なものが頭の中の血管を無理矢理流れていこうとしているかのような感覚に彼女は奥歯を噛み締めた。何か悪い病気だろうか、と一瞬考えた彼女だったがすぐにそれを頭で否定した。
彼女は千年以上も長生きした稲荷である。
これまでも何度か体調を崩したりしたことはあったが、この頭痛だけはそう云った病気ではないという自信があった。何故ならこの頭痛は夢見が悪い時に限って襲ってくるのである。彼女自身は夢の内容などこれっぽっちも覚えてはいないのだが、思い出そうとすることを拒否している彼女の心が知っている。
夢は記憶を基にして作り出されている。
その記憶を彼女は受け入れ切れていないのである。
「ほんと…………無様……」
頭痛の痛みを愚痴るように吐き捨てると、彼女は嫌な夢と鈍い頭痛ですっかり汗ばんでしまった空色のシルクのパジャマも下着も、何もかも投げ捨てるかのように脱ぐと、一糸纏わぬ裸のままで箪笥の引き出しから、寝巻き用の木綿の浴衣とお気に入りの緑色のスポーツタオルを取り出した。
本当は一度熱いシャワーでも浴びて汗を流そうかと考えていたのだが、今の彼女にはそれが面倒に思えていた。汗をよく吸い取る柔らかいスポーツタオルで顔や首、胸の谷間や腋などを丁寧に拭いていく。ふと朝の洗濯物が面倒だ、という思いが頭を掠めたが最早後の祭り。
しかし汗を拭くだけでも大分違うもの。
裸でいたことで冷たい空気に肌が触れたのが幸いしたのか、汗を拭いている内にサッパリ出来た彼女は木綿の浴衣に袖を通した。木綿特有の肌触りと夜の冷たい空気に晒された布の感触が心地良く、気付けば夢見の悪さに害されていた気分も、何かが無理矢理流れようとしているかのような頭痛はすっかり鳴りを潜めていた。これから再び寝ることを考えて、浴衣の帯を気持ち緩めに締めると彼女は何か諦めたかのような表情を浮かべて天井を仰ぐ。
「……惨め。こんな後悔を引き摺るぐらいだったら、もっと自分に正直に生きるべきだったかしら。そもそも五百年以上も昔のことをいつまでも……」
そこまで口にして、彼女は言葉に詰まった。
正直に生きたからと言ってどうだったのだろうか。
あれ以上に自分に何が出来たのだろうか。
無言のままの自問自答が続く。
だが考えてみればこの五百年、ずっとこんな夜を繰り返していたことに今更ながら気が付いた彼女は、あまりの馬鹿馬鹿しさに自問自答を打ち切ると、ベッドに腰掛けるとそのまま仰向けになって溜息を吐いた。あの時はあれしかなかった、仕方がなかったんだと自分に言い聞かせるように一応の自己解決をしてみても眠気は襲って来ない。
時計が時を刻み続けている。
小さな歯車がかみ合い回り続けるその音が、狂おしいほど静けさを囁き続けていた。
嗚呼、そういえば
あの夜もこんなやり切れない思いを抱えていた
「私は…………いつも送り出す側だったな…」
昔を思い出して寂しそうな表情を浮かべる。
いくつも繰り返してきた出会いと別れが浮かんでは消えていく。その中でもいつも最初に思い浮かべるのは、現在はもう見ることが出来ない山の上から見えていた遥か過去の景色になった田園風景。そして青空が広がる空の下、山の上の廃寺の境内で暖かな目で成長を見守ってきた幼い男女の姿を思い出していた。
懐かしさが胸にこみ上げてくる。
しかしその思い出こそが彼女の後悔であり、心に刺さったままの棘なのである。
浴衣の袖で涙を拭うのだが、拭っても拭っても涙は溢れてくる。
そして彼女ははっきりと思い出した。
さっきまで、あの頃の記憶を夢に見ていたのだと。
「…………上総之丞………綾乃…」
思い出の中の幼い男女の名を呟くが、シンと静まり返った部屋から返事は返って来ない。蒼い月明かりが照らす広い部屋はどことなく冷たくて、刻を告げる機械の音だけが無機質な静寂を五月蝿いほど主張し続けている。
彼女は天井を仰いで頭を抱えたまま、無意識にベッドの枕元へと手を伸ばしていた。
ベッドの枕元には小さな棚があり、棚の上には欧米映画のアウトローたちが持つような四角い小さな鉄製の酒瓶がある。酒瓶の中には安い銘柄のウイスキーが入れられており、彼女は眠れない時や自棄になりたい気分の時にこれを飲むことを習慣にしていた。普段彼女は酒の味には五月蝿い方なのだが、そんな気分の時は安いだけあって味は本当に悪いが手っ取り早く酔えて、無理矢理でも眠らせてくれるこういう酒の方が今の彼女にとってはありがたかった。
カシャカシャという鉄瓶の蓋が擦れながら回る音が室内に響く。
「……………あね様、起きてる?」
蓋を開けて酒瓶に口付けようとした瞬間、彼女の部屋の外から呼びかける幼い声が聞こえてきた。彼女は反射的にベッドの置き時計に目をやると、時計はいつの間にか深夜四時を大きく過ぎていたのだった。
彼女の部屋の引き戸の向こうでは、その声の主がジッと泣きじゃくりながら彼女の返事を待っている。それを察した彼女は口を付け掛けた酒瓶の蓋をそっと閉めて棚に戻すと、優しい声で引き戸の向こうで待つ人物に返事をした。
「まだ起きていたのですか、雷紅狼」
引き戸を開けるとそこには藍染めの木綿の浴衣を着た、まだあどけない八歳の小さな少年が、目に涙を溜めながら狐のぬいぐるみを抱き締めて立ち尽くしていた。“あね様”と呼ぶ彼女の姿が現れると、雷紅狼と呼ばれた少年は我慢していたものが爆発したように泣きながら彼女に縋り付いた。
「…………そう、怖い夢を見たのですね」
そう言って彼女はお腹あたりで顔を押し付けて泣く少年の頭を優しく撫でてあげた。
“あね様”と呼ぶが少年と彼女に血の繋がりはない。とある深い事情があって彼女は雷紅狼少年を引き取って育てているのだが、少年が物心付く頃には彼女はいつの間にか“あね様”になっており、彼女もまた少年の育て親として、少年の望む姉として、様々な形で深い慈愛を以って少年に接している。
「こわい……こわいよぉ……ひとり…こわい…」
「……………ッ!」
泣きじゃくりながらそう訴える少年の言葉に彼女の表情が強張った。優しく少年の頭を撫でる手も思わずビクリと動きを止めてしまい、彼女は反射的に少年を何かから守るため、覆い隠すかのようにして強く抱き締めていた。
「………あね様?」
雷紅狼の小さな呼び掛けで彼女は我に帰る。
「あ…………ご、ごめんなさいね、雷紅狼。苦しかったでしょう?」
「ううん……あね様、ありがとう。僕ね、あね様に抱っこしてもらうの好き」
まだ泣いてはいるのだが、雷紅狼の浮かべた無邪気な笑顔に彼女は救われた気持ちになった。今度は何かから守るような抱き締め方ではなく、優しく雷紅狼をあやすように抱きかかえると、それに喜んだ雷紅狼は彼女の首に腕を回して、ギュッと甘えるように頬を摺り寄せてくる。
「ありがとう、雷紅狼。では今宵は一緒に寝ましょうか。私が一緒なら、きっともう怖い夢も見ることもないでしょう。例え怖い夢に襲われたとしても、私がきっとあなたを護ってあげますからね」
「あ………あのね…あね様…」
何か言い難そうに雷紅狼はモジモジと指遊びを始める。
「どうしました?」
「あのね………あね様の尻尾……オコンちゃんと一緒に抱っこして良い…?」
雷紅狼の言う“オコンちゃん”というのは、彼が大事にしている狐のぬいぐるみのことである。八歳という年齢ではあるが、その実年齢以上にやや幼稚な部分を残している雷紅狼の愛らしさに彼女は思わず頬が緩んだ。
「ええ、もちろん良いですよ」
「やったー!僕ね、あね様のモフモフも大好き!!」
「これ、このような時間に大きな声を出してはなりません」
今は、この無垢な温もりに心を委ねよう
さすれば嫌な夢も思い出さなくて良い
幼い温もりを抱き締めながら、まるで過去を振り切るように
彼女は
稲荷は
宗近は、そう思うのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――とある旧家にて
私“宗近”と“沢木 雷紅狼”と出会ったのは暗い座敷牢だった
彼が生まれたのは昭和68年の春だったと聞く。
彼の生まれた沢木家というのは九州地方に根を下ろした陰陽道の一族だった。もっとも陰陽道というには著しく邪道な部分が多く、かつて初代当主が陰陽師として一流だった一方で古流武術家としても一流だったせいか、現代では陰陽道を司るのは代々当主だけの役割となり、一族としては武術家としての性格の方が強い。
雷紅狼はそんな一族の総本家で唯一『丸に揚羽蝶』の家紋を掲げる“黒川沢木”と呼ばれる家系の長男として生まれた。それは待望の男子であり、ある意味では一族の当主として幸せな人生を約束されたようなものだった。
本家である黒川沢木と一部の家には、他家にはない独特の習慣がある。
それは黒川沢木の当主は必ず直系男子でなければならないというもの。一見容易く見える条件なのだが、黒川本家に限らず“沢木”の姓を名乗る一族には、必ず稲荷を嫁に娶らなければならないという風習が存在する。当然のことながら稲荷から人間の子、それも男子は生まれてくることはない。
そこで“御前様”と呼ばれた初代当主の奥方である九尾の狐が、当主は器量良しの人間の女子も娶るべしと提唱した。当時はまだ戦国時代ということもあり、側室側女など財力や地位さえあれば割と容易に手に出来た時代。それ故に黒川沢木に限らず、沢木一族は九州戦国時代において驚くほど勢力を増やし現代に至る。
もっとも現代での沢木家全体としてはそれぞれにばらつきがあり、かつては大きな屋敷だったという程度の名残を残す家がほとんどであり、すっかり陰陽道一族や武術家一族だったことなど忘れて、平凡な現代社会の日常生活を送る者たちばかりである。そんな中で唯一過去の栄光を残した黒川沢木に待望の男子、つまり雷紅狼が生まれたのである。
しかし、それは彼にとって最初の不幸でしかなかった。
彼の実母は稲荷と人間を同時に娶るという黒川沢木の風習を理解した上で、同時に一族の幸せのためにもう一人の妻である稲荷を敬い慕う非常によく出来た人物だった。
黒川沢木に嫁いできたのは、確か十六のことだっただろうか。明るく気さくな好人物であり、もう一人の妻である稲荷の娘たちの世話もよくしてくれて、笑いの絶えない一家だった。
雷紅狼が、生まれてくるまでは…。
彼女が十八の時、彼女にとって最初の子供、雷紅狼が生まれた。
生まれた当初こそ彼女は、初めての愛しい我が子を胸に抱き幸せで胸いっぱいだった。世間から見れば異常な風習を持つ一族の長ではあるものの、彼女にとっては最愛の男性の子供。それも一族が祝福してくれる子供だったのだから、彼女の幸福は計り知れるものではなかった。しかしそれは僅か一ヶ月も持たずにあっさりと崩れ去る。
それは雷紅狼の目が開くと同時に崩れていった。
雷紅狼の右目の瞳は、まるでルビーのように紅かったのである。
俗に云うオッド・アイと呼ばれるものである。
生物学上あり得ない話ではなく、彼女が稲荷たちと四六時中過ごしていた事実はあるものの、雷紅狼には魔物の魔力の影響などまったくなかったのである。たまたま右目だけ紅く生まれてしまった。ただそれだけなのだった。
しかし彼の実母は違った。
彼女は“それだけ”のことを、そう捉えることが出来なかった。
彼女には稲荷などの妖怪魔物に対する理解があった。
だが“自分がそういうものになってしまった”と思うのには、堪えられなかったのである。
彼女は赤ん坊だった雷紅狼を、黒川沢木でも長らく封じられていた座敷牢に閉じ込めた。
捨てた、と云った方が正確なのかもしれない。そして当主や稲荷たちの声も耳に届かず、まるで気が狂ったかのように頑なに現実を拒否するようになった。あの明るかった性格は陰に潜み、一日中ぶつぶつと何かを呟きながら部屋に閉じ籠もるようになり、あれほど愛した当主も稲荷たちにも、何もかもを正気を感じさせない金切り声を上げて拒絶するようになった。
それでも本能のどこかで我が子を忘れることは出来なかったのだろう。
誰も近寄ることを許されなかった雷紅狼を閉じ込めた座敷牢に、沢木家の使用人だけが近寄ることを許され、最低限死なないだけの食事と身の回りの世話だけを時々僅かに正気に戻った時に彼女は命じた。ただし雷紅狼に喋り掛けることも、まして外へ連れ出すようなことは固く禁じられたままだった。
雷紅狼は存在しない者とされた。
皆に生まれながらに祝福されて、母に生まれながらにして呪われた。
そんな状況を私が知ったのは、何と雷紅狼が生まれて2年も経過してしまっていた頃だった。
私のまったくの不明と言えばまさしく不明だった。
そもそも姉から送られたおよそ百年ぶりの暑中見舞いの葉書が届かなければ、私は幼子がそのような目に遭っていることなど露も知らなかっただろう。暑中見舞いに“愚妹に相談したき儀あり”という一文があり、あまりの無礼さに無視してやろうかとも思ったのだが、あの傍若無人を地で行く姉が相談したいと言うこと自体があまりにも稀なので、気になった私はおよそ40年ぶりに姉の住まいに電話をしてみることにした。
姉、というのは初代当主奥方で“御前様”と呼ばれた九尾の狐である。
黒川沢木の創始者とも言える存在で現在でも沢木一族全体でもっとも発言権の強い人物なのだが、今ではすでに黒川沢木の家を初代当主と共に退去し、悠々自適な隠居生活を温泉地近くの神社で過ごしている。見様によっては羨ましい余生だと思うのだが、その余生がすでに四百年以上も続いていることを考えれば、何とも自堕落な話にしか聞こえてこない。
『おお、久しいな愚妹よ』
「約一世紀ぶりの会話で開口一番がそれですか、姉上」
電話口でいきなりの罵り合い。
私たち姉妹の仲は決して良いとは言えない。私としてはさっさと相談したい内容を聞きたかったのだが、姉はと言うと先日ようやく黒電話からコードレス電話に買い換えただの何だのと他愛のない話ばかりで、葉書の内容にはまったく触れようともしなかった。
「……姉上、私もこれで忙しい身なのです。さっさと本題に入りたいのですが」
この頃、私は本当に忙しい時期を迎えていた。
自分で事業を始めて、稲荷でありながら忙しさと疲労が楽しく感じられていた時期だっただけに、あまり仲の良いとは言い難い姉と長々と無駄話をするというのは本当に不快に感じていた。だが後から考えれば姉の妙な口数の多さも、本当に無力だった姉の後ろめたさがそうさせていたのだろうと思う。
『う……うむ…』
歯切れの悪い声が受話器の向こうから聞こえてきた。時折“ああ”とか“うん”という単語を姉は言葉に詰まりながら言っていた。用がないのなら電話を切ろうと思っていた私だったが、姉の様子にただ事ではない事態が起こったのだと悟った。
仲が悪いのは本当だが、こういう時はやはり血の繋がった姉妹なのだろう。
「姉上……、相談したき儀というのは姉上の御力を以ってしても解決出来ないことですか?」
正直なところ、私は“そうじゃない”という回答を期待していた。
九尾の狐の能力は言ってみれば神に等しいもの。その能力を以ってすれば姉に解決出来ぬ問題などありはしないと、嫌いな姉でありながら私は心の底から姉のことを信頼していた。もしもその姉が自分の力で解決出来ない事態に見舞われたとすれば、それは本当の意味での大事件に他ならない。
『…………愚妹、否、宗近。そなたに問いたき儀がある』
しかし姉は私の質問には答えなかった。
『宗近、そなたはここ数年の沢木家の未来を視ることがあるか?』
未来を視るか、と問われて私は首を捻った。
私の両目は時折非常識なものを見てしまうことがある。多くの人はそれを“千里眼”と呼ぶものであり、私自身の未来は決して視えないのに、私以外の誰かに起こる抗いようのない未来の断片を私が望んでもいないのに視せてしまう。“抗いようがない”というのは、どんなに悪い未来であっても、私自身にそれを覆すだけの術がないからである。だから未来は私の視えた通りにしか起こらない。
「…………いいえ、このところ沢木に災いの影は視えませんでしたが?」
災いどころか沢木家に関わることを、この頃は何も視えていなかった。長い間何も視なかった時期があったので、もしかしたらここ数年の間に千里眼を失ったのかと私は思ったのだが、失っていなかった証拠に時々私には何の関わりのない未来のヴィジョンを、まるで連続写真のように断続的に視てしまうことがある。そんな時私は“別に視えなくなっても構わないのに”と自分に毒づいてしまう。
視えるものなんて、だいたいが禍いばかりなのだから。
『ふむ……視えなんだか。合点がいった』
「姉上、勝手に一人で納得なさらないでください」
『許せ、我が妹よ。だがこれで合点がいったのだ。このような事態をそなたが知っておれば、わらわに文句の一つ二つ言った上ですでに救い出しておったに決まっておるからな』
まだ、姉が何を言わんとしているのか理解出来ていなかった。
しかし姉の口ぶりから本家に何かあったのだということは察することが出来た。
「……………黒川沢木に何があったのです」
『………黒川本家に男子が生まれた』
初耳だった。
「それはおめでたきことで。して何日に生まれたのですか?」
私にとって黒川沢木の子らは特別な意味を持っている。ただの“姉の子らの末裔”という立ち位置ではない。黒川沢木の初代当主・沢木 真紅狼は私が心血注いで育てた武術と呪術の弟子であり、今から五百年前に私がもっとも心を寄せた者の一粒種でもあった。
彼の独り立ちと更なる成長を願って離れ離れになった時期もあったが、姉の夫であることとは別に、我が子のように本当に大事な彼の一族を護るべく、私は事あるごとに陰から裏から力を貸してきた。お互いに顔を合わせる機会はめっきり減ってしまったのだが、姉のことは嫌いでも真紅狼を大事に思う心はまだ色褪せていない。
この時はまだ何か祝いの品でも送らねばと思っていたぐらいだった。
『……生まれたのは二年前の春』
「二年も前だったのですか?まったく現当主は何をしていたのですか。男子が生まれたのであれば、そのようなめでたきことを何故皆に知らせないのか…」
『どうしたもこうしたもない。わらわが知ったのもつい先日よ』
そして姉はようやく事の次第を語り出した。姉も自分の耳を疑ったと言っていたが、それは良心の呵責に耐えかねた現当主の稲荷側の妻の密告によって姉の知るところとなったのだと言う。本家の恥だとして現当主は陰陽道の技を悪用し、強力な呪術を駆使してまで秘密にしていたのだが、ただの人間である使用人ならいざ知らず、さすが本家の嫁として姉が選んだ稲荷には術が効かなかったためにすべて明るみになってしまったのである。
「しかし……それでしたら姉上が出れば万事解決するのでは?」
何と言っても九尾の狐なのだ。姉よりも足りずに劣った部分を武術や異能で補うような五つ尾の私よりも妖術妖力共に優れており、姉が問題解決に動けばそれですべてが終わりなのだと私は思っていた。
しかしそれは甘い幻想だったらしい。
『そう思うだろう?わらわもそう思っていた。だがアレはもうわらわの手には負えぬ。かの者は生きながらにして“鬼”になってしまった。生成り、というやつじゃ。平安の世では何度か遠目で見たことはあったが、まさかこれほど恐ろしいものとは思いもせなんだ』
「恐ろしい?姉上が?」
『ああ、恐ろしい。すでにわらわの手に負えぬところまで来ておるのだ。わらわは真紅狼に退屈な石生活から救われ、真紅狼のおかげで人の世を生きておる。しかしの………わらわは未だ人間の心というものを理解し切れておらぬ。特に薄氷の如く触れれば壊れてしまうようなかの娘のような者のな。理解出来ぬものほど恐ろしいものはない』
そういうものだろうか、と私は口に仕掛けたのだが、姉の言葉を心のどこかで納得して、私はすぐそこまで出掛かった言葉をやっとのことで呑み込んだ。考えてみれば何のことはない。私と違って生まれながらに九つの尾を持って生まれてきたのだ。つまり生まれながらにして圧倒的強者としての業を背負っている姉には、蜻蛉のように儚い存在である人間というものは本来脆き者たちであり、壊してしまいそうで恐ろしくて触れることの出来ない者たちなのだと姉の目には映っているのだろう。
そもそも、真紅狼のように九尾の狐と対等に接することが出来る人間など稀有なのだから。
『そこでだ、宗近。そなた、かの娘と赤子を救ってはもらえぬか?』
「私が……ですか…?」
『うむ、そなただ。姉であるわらわの目から見ても、そなた五つ尾の稲荷でありながら、どういう訳か心が人間に近く見える。普通そこまで尾が生えれば、何かしら超越者の如き心地になるものなのだがな、そなたほど俗世に塗れた稲荷はこれまで見たことはない』
姉の言い方には何か棘があるような気がする。
しかしそれは仕方がないのかもしれない。私は姉の言う通り俗世を捨て切れず、ある時は村はずれの廃寺を根城にして尼の真似事をしながら、ある時は旅の踊り巫女をしながら諸国を巡って、どの時代も様々な形で人間と共に生きてきた。そういった傾向はおよそ五百年前に出会ったとある少年以降、私の中でより強くなっているように思える。
人間とは……
心とは一体何なのだろうか…
姉は私の方が人間に近いというが、私にもまだそれがわかっていない。
「…………わかりました。私でよろしければ力を貸しましょう」
『……頼む。そなたの良いようにしてくれ。一応現当主・義盛にはわらわから此度の不手際の叱責ついでに話を付けておく。無論、あやつに嫌とは言わせぬ。よりによってそなた以外に解決出来そうな真紅狼が留守にしておる時に、ここまで悪化した事態を放置して嫁たちを不安にさせた責任、きっちり取らせておかねば他家への示しも付かぬ』
姉も、私に負けず劣らず俗世に塗れていると思う。さすがは呪術で誑かしていたとは言え、一時期は時の帝の御妃として権力を握っていただけはある。こういう時の権力の使い方は狡賢いというか、上手いと言わざるを得ない。
『………かの娘を頼む』
通話を切る直前、姉は珍しく弱々しい声で私に懇願した。
人間の心が理解出来ないと零した姉だったが、姉は姉なりに人間を理解している。私の勘違いかもしれないのだが、そんな風な気にさせるような切ない声だった。
「……簡単に言ってくれる」
姉との電話のやり取りを思い出しながら、私は心を病みし黒川沢木の人間側の妻・めぐみの枕元に立って彼女を見下ろして愚痴を零していた。ここは黒川沢木の寝室。さすが室町末期から続く総本家だけあって格式高い書院造風の和室で、調度品なども時代掛かって多少古めかしくはあるものの、非常に優れたものばかりだった。それにこれまでこの部屋で暮らしてきた女たちのまるで残留思念のような優しい息吹が感じられる。この寝室一つ取って見ても、黒川沢木に嫁いできた娘たちは大事にされてきたことがわかる。
沢木めぐみは私に見下ろされていることなど気付きもしないで、一時の安らぎを求めて眠りの世界を彷徨っていた。こうして見ている分には、彼女が心を病んでいるだなど思いもしないし、そう思うことが出来ない。きっと夢の中では彼女の望む世界が広がっているのだろう。
だが耳を澄ませば聞こえてくる。
助けて
私は人間なんだ
化け物なんかじゃない
そんな助けを求める叫び声が聞こえてくる。
誤解なきよう言っておくと、決して彼女は魑魅魍魎たちを蔑んでいるのではない。彼女は歴代の沢木の妻たちと同じく妖怪たちに対して心を開き、人間妖怪の分け隔てなく接することの出来る稀有な存在なのである。沢木の妻たちは最終的には代々姉によって選ばれるのだから、それは上辺だけの人間ではなく心の底からそういう人間なのだろう。
しかし人間の心とは杓子定規には当てはまらないのもまた真実。
「………本当に、人間という生き物はわからないものですね。人間でありながらあの子は超越者になりたいと願ったのに、あなたは人間でありたいと願う。何故同じ人間でありながら、こうも個体差が出てしまうのか……本当、不思議なもの」
理解出来ぬから恐ろしいと思う姉とは対照的に、私は理解が出来ぬからこそ、それを愛しいと思えるほどに人間という生き物に心惹かれている。
少しだけ他人と違う子を生んだ。それだけなのにこの娘は自分が人間でありたいと願うばかりに心を閉ざしてしまった。自分が人間でなくなってしまったと、そう思い込んでしまうだけの材料が黒川だけでなく沢木家には山のようにあったのだから、そこを責めても仕方がないと思う。千年もの間、人間というものをすぐ側で観察してみてわかったのは、人間と言うものはそのほとんどが“人間という器”の中でしか自分自身を全うすることが出来ないということ。
沢木めぐみの場合、自分がその器からはみ出してもいないのに、はみ出してしまったのだと思い込んでしまったに過ぎない。それなのに彼女の夫である現当主・義盛はそれを気付かせるよりも家名を護ることに異能を使ってしまったために、こんな風になるまで事態を隠し続けて悪化させてしまった。
本来彼女を救うのは千の秘術よりも、たった一つの言葉で良かったものを。
たった一言、生まれた子も彼女も何も変わらぬ人間なのだと示してやれたのなら、こんなことにはならなかっただろう。閉じ込められた子もどこにでもいる普通の子供と何ら変わらぬ暮らしも出来ただろうし、彼女もまた良き母として良き妻として“鬼”にならずに済んだであろうに。
「…………私に出来る方法…か…」
心の傷を綺麗に修復し、鬼まで堕ちた心を浄化して元通り平穏な日常を取り戻すなんて便利で都合の良い術があるのであれば、私の方が頭を下げてでも是非教えを乞いたいものだ。残念なことに私の身に付けた陰陽の術も、妖怪たちの間で長きに渡って受け継がれてきた妖術にも、そんな都合の良い便利な術は存在しない。こんな時こそグリム童話に出てくるような魔女たちの万能さが羨ましくて堪らなくなる。
私は眠る彼女の枕元に正座をすると、眠るめぐみの額に一枚の符を貼り付けた。
まだこの国に“仏教”と“漢字”が入ってくる前の時代に国津神たちが使っていたという文字がびっしりと書かれた符である。正直なところ何が書かれているのかわからず、私自身も恥ずかしながら一文字も読めないので、もはや体系的な記号としてでしか機能はしていない。それでも大まかな意味だけは我々妖怪の間にも伝わっているし、読めなくとも発音だけは親から子に伝わっていくように、代々口伝でのみ受け継がれていく。
つまり私にこの術を教えてくれた師匠筋に当たる人物も、私と同じように意味も内容もよく理解してはいない訳だった。それでも理解しておらずとも用途用法を間違わずに、きちんと間違いなく手順を踏めばこの符術は使えるということである。結局、私もまた黒川沢木初代・真紅狼へと同じように術式を伝えて、彼もまた私と同じように口伝にて現代まで術を継承していっている。
歴史は繰り返す、とはよく言ったもの。
符を貼り付けた人差し指で、私は刻み込まれた文字と記号をなぞりながら呪文を喉の奥から発する低い声で唱え続ける。この呪文は本来人間には発声することの出来ない代物で、私が心血注いで育てた真紅狼でさえ生まれ持った才能とその妻である姉の助けを以ってして、完全に会得するまでには百年以上掛かったのである。彼が自身の“人間の器”を若い内に捨て去っていなければ、果たして会得出来たかどうかは疑問が残る。おそらく彼は後世の子孫たちに、そこまでの術は教えていないだろう。彼は良くも悪くも彼の父親の性格を受け継いでいるので、あんなに苦労するものを後世に伝えていくのは、絶対に面倒臭がるに違いないと私は心のどこかで確信している。
繰り返し呪文を唱えて、指で符をなぞること数往復、符に刻まれた文字と記号がぼんやりとした蒼い光を放ち始めた。私はそこでようやく大きな溜息を吐いた。この術は使用者が本当に疲れるのだ。何故ならこれから私がやろうとしているのは、人間一人の“記憶”に強く干渉しようとしているのだから尚更である。
「めぐみ………私の声が聞こえますね?」
「あ……………あ……」
上の空のような気の抜けた返事が返ってくる。
それも仕方がない。今の彼女は私の術で半ば無理矢理返事をしているに過ぎず、実際はまだ意識が覚醒している訳ではない。それに術は一種の強力な催眠術のようなものなので、このような状態である方が実に好ましい。
自我が薄れている時の方が、記憶に干渉しやすいものなのだから。
「……もう怖がらなくても良いのです。私があなたに掛かった呪いを解いて差し上げます。妖魔になりかけたあなたの呪いは目が覚めた時にはすっかり解け、あなたは以前と変わらぬ人間に戻っていることでしょう」
無論呪いなど掛かってはいない。
しかしそう思い込んでいる者にいくら違うと諭したところで、彼女のような強力な暗示は解けるどころか一層拗れてしまうものなのである。だから私は敢えて彼女が呪いに掛かっているのだと認め、その上で呪いを解いてあげると彼女にやさしく言い聞かせている。
一種の言葉遊びのようなものなのかもしれない。
「……にん………げ…ん……………もどる…」
閉じた瞳から、すうっと一筋の涙が零れ落ちた。
「ええ、そうです。あなたは人間に戻るのです。目が覚めた時、あなたは鬼ではなく、元通りの沢木めぐみとして目が覚めるのです。そしてあなたの子も、呪いが解けて化け物の子ではなく人間の子として……」
“あなたの子”という言葉を私が口にした瞬間、彼女の表情に一瞬にして狂気が宿った。これまで人間の色んな表情を見てきたものだが、これほど恐ろしいと感じた表情はない。もしも意識と自我がある状態であったらと思うと、私は心の底からゾッとしていた。
「いら……ない…ッ…私の子……ちが…う…ッ!……いら…な……い……いらないッ!!」
意識が覚醒していないのに彼女は身をよじって暴れようとするが、私の術が効いているためにただ小刻みに震えるだけだった。しかし暴れ回らなくてもこの心の叫びだけで十分だった。どうやら今の私には彼女に“掛けられた”呪いは解くことが出来ても、彼女が“掛けた”呪いを解くことは出来ないらしい。
「いらないッ………いらな……ッ!!」
「そう…………わかりました…」
残念だ、と私は心から悔しくなった。
今の私はきっと誰にも見られたくないほど、冷たく鋭い視線を彼女に睨んでいるに違いない。彼女が我が子に掛けた呪いを解けない私自身の未熟に、ここまで壊れてしまうまで放置されてきた彼女の哀れさに、そしてすでに生んだ我が子を愛せなくなってしまっている彼女に対して、私は色んな感情の入り混じった悔しさで思わず唇を噛んでいた。
本当はここまでするつもりはなかった。
しかし修復が出来ないのであれば、私にはこうするより他になかった。
「ならば………今度は私があなたに呪いを掛けてあげましょう。すべて、忘れなさい。あなたが我が子を受け入れられるその日まで、あの子に関する一切すべてを忘れておしまいなさい」
記憶の改竄
偽の記憶を植え付けて解決を図るのではなく、幽閉した我が子に関するすべてを私は忘れさせることにした。もう彼女は我が子を思い出して狂うこともないし、我が子を幽閉してしまったことを後悔することもない。彼女は一切を忘れてしまう。まるで積み木崩しのように、消えた記憶は空白にはなることもなく、幻想世界を彷徨った彼女にとっての“昨日”と現実世界で流れ続けていた“今日”が僅かな矛盾を伴って一つに繋がるだけ。
おそらく彼女が我が子を受け入れる日は来ないだろう。
そんな予感が私にはあった。
「………………お邪魔をしました。では、今一度眠りなさい。朝になればあなたの呪いは解かれ、悲しい夢を見た後のような訳のわからない喪失感を抱いて目覚めるでしょう」
呪符はこのまま朝まで貼り付けておくことにした。この呪符は朝日を浴びれば塵のように消えていく。そういう代物であることと朝まで術が継続されていけば、どんな些細なきっかけであろうとも閉じ込めた記憶は甦りはしない。“我が子を受け入れられるその日まで”という条件を満たさぬ限り、私の呪いは消えることはない。
彼女にとって、なんと幸せな呪いなのだろうか。
「…では座敷牢の子を救い出すとしましょう」
そう言って彼女の枕元から立ち上がる。万が一のことを考えて姉には座敷牢の破壊など、ある程度のことは許可してもらっているが、さてこの先どうしたものかと私は考えていた。こうなってしまった以上、座敷牢の少年をこのまま黒川沢木の家に置いておく訳にもいかない。他家に養子に出す当てもないし、そもそもそれでは救いに来た意味もない。
「…………………ら…………い…く……ろ……」
どうするかと悩んでいた私は、搾り出すようなめぐみの声に思わず目を見開いて彼女を凝視してしまった。同時に全身に冷たい汗が吹き出るのを感じていた。この時初めて私は姉の言葉の意味を理解したような気がする。
私は、生まれて初めて人間を恐ろしいと感じた。
きっと搾り出したのは幽閉された子供の名前なのだ。ゆっくりと薄れゆく記憶の中から彼女は我が子の名を呼んだ。きっと今の彼女は狂う寸前の頃の彼女になっているのだろう。優しく穏やかな表情を浮かべて、何度も彼女は『らいくろう』という名を繰り返した。
悩む暇があれば、さっさと立ち去るべきだった。
私はその名を聞くべきではなかったのである。もうすぐ彼女はその名も忘れてしまうだろう。だから本来はそれで終わりであるはずなのに、私ともあろう者がうっかり『らいくろう』という名を聞いてしまったのである。
彼女の口から名前を聞いてしまった以上、私は彼女の役目を引き継がねばならない
名前とは呪いの一種だ。
名付けられた者を永遠に縛り続ける鎖だ。そしてその鎖は今、私をも縛る呪いに変わってしまったのだ。薄れゆく母の最後の純粋な愛情が、まるで我が子を私に託すようにその名を口走ってしまった。
私にバトンを渡すかのように、めぐみの左手は布団から真っ直ぐ私の方へと伸びている。それが彼女が母として私に託した呪い。どんな古代の呪術であろうと、この呪いに匹敵するものを私は知らない。
「それが………あなたの子の名前なのですね…」
本当に沢木の娘たちは恐ろしいと思った。
何の面識もないというのに、彼女たちと私はどういう訳か縁が切れない。嗚呼、そうだった。そうだったのだ。初代・真紅狼をあの娘に託された時と似ているのだと私は思い至った。
あの娘も命懸けの呪いを放ったものだ。
そのおかげで、今も沢木家から放れることが出来ない。
「……わかりました。私がその子を引き取りましょう」
五百年前にも同じ約束をした。
差し出された手をしっかり握り、私はそう約束してしまったのだった。決して違えることの出来ない契約である。意識はないはずなのに私がそう約束すると、彼女はもう一度だけ我が子の名を呟いて深い眠りに堕ちていった。そして二度と『らいくろう』という名を口にすることはなかった。
初代・真紅狼も母にその名を呼んでもらうことはなかった。
その末裔・雷紅狼もまた母に名を呼んでもらうことはない。
その悲しい符合に、私はただ袖で目尻をそっと拭うことしか出来なかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
目を覚ますと、そこは沢木家の寝室ではなく自分の部屋だった。私はベッドに横たわっていて、目の前には私の尻尾とぬいぐるみを気持ち良さそうに抱き締めて安らかに眠る雷紅狼がいる。あまりに鮮明な夢だったせいで頭の中が現実に追い付かずに混乱していたが、手に取った時計を見てみるとあれから随分と時間が経っており、窓の外もカーテンの隙間からは朝の日差しが漏れていた。
「……もう、朝?」
あまり寝た気がしない。そもそも昨日の晩から何度も目が覚めたりしているものだから、眠っていたのかどうかすら怪しいものである。妖怪だから徹夜の一つや二つ平気なものではあるが、睡眠という快楽をこの数百年で覚えてしまった以上は、どうも眠れないというのは気持ちが悪い。
「…………………ちょっと悪戯しちゃおうかな」
あんな過去を思い出したせいだろうか。気持ちの中でどこかギスギスしたものを感じた私は、目の前でスヤスヤと眠る雷紅狼に軽い悪戯心が芽生えていた。あんなことがあってこの部屋で暮らし始めたのだが、今では雷紅狼を引き継いだという義務感は消え失せ、純粋に愛しい家族として接することが出来ている私がいる。
頬を軽くくすぐってみる。すると嫌がっているのか可愛い唸り声を上げて、無意識の内に雷紅狼は頬を膨らませた。そんな姿を見ていると何だか微笑ましくて、私は彼の髪を撫でながら表情を緩ませていた。
私は今、孤独じゃない
何をするにでも雷紅狼が一緒にいる。たったそれだけのことで幸せになれるのである。彼の母親から無理矢理奪ってしまったような罪悪感は残っているが、そんな背徳的な幸せを私は甘受していた。
雷紅狼の寝顔を見ていると急に眠気が襲ってきた。仕事は夜からだし、夕方までは雷紅狼ともゆっくり一緒に過ごしていられる。このまま二度寝をするのもたまには良いだろうと、私は雷紅狼からこっそり狐のぬいぐるみと私の尻尾を抜き取ると、そのまま彼の頭を私の腕枕の上に置いて抱き寄せた。小さな身体がすっぽりと私の腕に収まり、今度は雷紅狼が私の抱き枕になったかのようだ。
雷紅狼はと言うとぬいぐるみも尻尾もなくなったのに気付かず、寝惚けて私の身体に足を絡めてぎゅうぎゅうに抱き付いてくる。赤ん坊のように私の胸に顔を摺り寄せて幸せそうに眠る姿は、本能的に得られなかった母親の愛情を探しているのだろうかなどと勘繰ってしまうが、私はそういう感情も含めて彼を優しく抱き締めて目を閉じた。
今度は良い夢を見られそうだ
私が雷紅狼の温もりを求めているのか
それとも雷紅狼の方が私の温もりを求めているのか
ただわかっていることは、今の私たちは欠けたパズルのピースのようなものでお互いに歪な形に割れているのに、歪でなければ重なり合えないという親子とも姉弟とも呼べない宙ぶらりんな関係であることだけ。
ただしそこに愛情がある。
ただ、それだけの関係なのだった
カーテンの向こうからはまだ蒼い月明かりが部屋を照らしている。ベッドの棚に置いたクリスタルの置き時計を、起き抜けで身体に妙に力の入らないまま手に取って見るとまだ深夜四時にもなってはいなかった。眠り始めてからまだ二時間も経ってはいない。
嫌な夢を見たような気がする
手に取ったクリスタルの置き時計を棚に戻すと、彼女はそっと自分の頬に手を当ててみた。
指先が濡れている。
何となく彼女はそんな予感があったのだ。どんな夢の内容だったのかは思い出せない。それでもどんな夢だったのかはすぐに予想が付いていた。それは今夜に限ったことではない。何度も何度も、彼女は思い返しているのだ。
それを何千、何万という夜に繰り返している
彼女は人間ではない。
千年という月日を生きた狐、五つ尾の“稲荷”である。
ただあまりに人間の近くで生きてきたせいなのか、他の同属とは何かが決定的に違うことを自覚している“はぐれ者”の稲荷であった。はぐれ者だからこそ出来ることもあったのだが、彼女は他の妖怪・魔物娘たちとは異なり、人間同様に金銭に対してそれなりの興味があり、また人間同様に労働によって日々の糧を得る生活を好んでいた。
それも彼女の見る夢に関係することに起因する。
「……………………情けない」
そう吐き捨てるように、彼女は喉の奥で低く呟いた。
まだ眠り足りない眼で部屋を見回してみて、ここが夢の続きではないことを確認すると彼女は宙にため息を吐く。そして『我ながら無駄に広い部屋を購入したものだ』と彼女は少し自嘲気味に笑った。
彼女の住処は駅前のマンションの最上階。
その最上階のフロアそのものが彼女の家であり、マンションと呼ぶにはあまりに規模が違いすぎるそれは、所謂セレブ御用達の“億ション”と呼ばれる物件である。別に小さな物件でも構わなかったのだが、この広い部屋を手に入れたのにはそれなりの理由があり、何よりその方が彼女にとって都合が良かったのだった。
都会の真ん中に五つ尾の稲荷がいるというだけで十分目立つ。
だから彼女は基本的に家の外では常に人間に化けて暮らしている。そのためそれが発覚しないように隣人トラブルの類は特に御法度なのであり、また彼女の家の中も質素な家具や調度品しかないとは云え、価値のわかる者が見れば重要文化財級の彼女愛用の品が多数あるために、きちんとしたセキュリティは欠かせない。
以前は稲荷らしく自ら得意とする符術で呪術結界を張っていたのだが、それよりも若干信用は劣るものの、人類が積み重ねてきた科学技術の方が何倍も手間が掛からないことを悟って、今現在ではすっかり符術による結界の類はたまにしかやらなくなっていた。
ベッドから身体を起こすと、枕元のランプの明かりを点けた。
柔らかな光がぼんやりと薄暗い室内を照らす。
どうも 眠れない
彼女はベッドの上で片膝を抱くようにして俯く。
不意に不眠から来る鈍い頭痛が襲い、彼女は憎々しげに頭を抱えていた。
ずくん、ずくん、と何か嫌なものが頭の中の血管を無理矢理流れていこうとしているかのような感覚に彼女は奥歯を噛み締めた。何か悪い病気だろうか、と一瞬考えた彼女だったがすぐにそれを頭で否定した。
彼女は千年以上も長生きした稲荷である。
これまでも何度か体調を崩したりしたことはあったが、この頭痛だけはそう云った病気ではないという自信があった。何故ならこの頭痛は夢見が悪い時に限って襲ってくるのである。彼女自身は夢の内容などこれっぽっちも覚えてはいないのだが、思い出そうとすることを拒否している彼女の心が知っている。
夢は記憶を基にして作り出されている。
その記憶を彼女は受け入れ切れていないのである。
「ほんと…………無様……」
頭痛の痛みを愚痴るように吐き捨てると、彼女は嫌な夢と鈍い頭痛ですっかり汗ばんでしまった空色のシルクのパジャマも下着も、何もかも投げ捨てるかのように脱ぐと、一糸纏わぬ裸のままで箪笥の引き出しから、寝巻き用の木綿の浴衣とお気に入りの緑色のスポーツタオルを取り出した。
本当は一度熱いシャワーでも浴びて汗を流そうかと考えていたのだが、今の彼女にはそれが面倒に思えていた。汗をよく吸い取る柔らかいスポーツタオルで顔や首、胸の谷間や腋などを丁寧に拭いていく。ふと朝の洗濯物が面倒だ、という思いが頭を掠めたが最早後の祭り。
しかし汗を拭くだけでも大分違うもの。
裸でいたことで冷たい空気に肌が触れたのが幸いしたのか、汗を拭いている内にサッパリ出来た彼女は木綿の浴衣に袖を通した。木綿特有の肌触りと夜の冷たい空気に晒された布の感触が心地良く、気付けば夢見の悪さに害されていた気分も、何かが無理矢理流れようとしているかのような頭痛はすっかり鳴りを潜めていた。これから再び寝ることを考えて、浴衣の帯を気持ち緩めに締めると彼女は何か諦めたかのような表情を浮かべて天井を仰ぐ。
「……惨め。こんな後悔を引き摺るぐらいだったら、もっと自分に正直に生きるべきだったかしら。そもそも五百年以上も昔のことをいつまでも……」
そこまで口にして、彼女は言葉に詰まった。
正直に生きたからと言ってどうだったのだろうか。
あれ以上に自分に何が出来たのだろうか。
無言のままの自問自答が続く。
だが考えてみればこの五百年、ずっとこんな夜を繰り返していたことに今更ながら気が付いた彼女は、あまりの馬鹿馬鹿しさに自問自答を打ち切ると、ベッドに腰掛けるとそのまま仰向けになって溜息を吐いた。あの時はあれしかなかった、仕方がなかったんだと自分に言い聞かせるように一応の自己解決をしてみても眠気は襲って来ない。
時計が時を刻み続けている。
小さな歯車がかみ合い回り続けるその音が、狂おしいほど静けさを囁き続けていた。
嗚呼、そういえば
あの夜もこんなやり切れない思いを抱えていた
「私は…………いつも送り出す側だったな…」
昔を思い出して寂しそうな表情を浮かべる。
いくつも繰り返してきた出会いと別れが浮かんでは消えていく。その中でもいつも最初に思い浮かべるのは、現在はもう見ることが出来ない山の上から見えていた遥か過去の景色になった田園風景。そして青空が広がる空の下、山の上の廃寺の境内で暖かな目で成長を見守ってきた幼い男女の姿を思い出していた。
懐かしさが胸にこみ上げてくる。
しかしその思い出こそが彼女の後悔であり、心に刺さったままの棘なのである。
浴衣の袖で涙を拭うのだが、拭っても拭っても涙は溢れてくる。
そして彼女ははっきりと思い出した。
さっきまで、あの頃の記憶を夢に見ていたのだと。
「…………上総之丞………綾乃…」
思い出の中の幼い男女の名を呟くが、シンと静まり返った部屋から返事は返って来ない。蒼い月明かりが照らす広い部屋はどことなく冷たくて、刻を告げる機械の音だけが無機質な静寂を五月蝿いほど主張し続けている。
彼女は天井を仰いで頭を抱えたまま、無意識にベッドの枕元へと手を伸ばしていた。
ベッドの枕元には小さな棚があり、棚の上には欧米映画のアウトローたちが持つような四角い小さな鉄製の酒瓶がある。酒瓶の中には安い銘柄のウイスキーが入れられており、彼女は眠れない時や自棄になりたい気分の時にこれを飲むことを習慣にしていた。普段彼女は酒の味には五月蝿い方なのだが、そんな気分の時は安いだけあって味は本当に悪いが手っ取り早く酔えて、無理矢理でも眠らせてくれるこういう酒の方が今の彼女にとってはありがたかった。
カシャカシャという鉄瓶の蓋が擦れながら回る音が室内に響く。
「……………あね様、起きてる?」
蓋を開けて酒瓶に口付けようとした瞬間、彼女の部屋の外から呼びかける幼い声が聞こえてきた。彼女は反射的にベッドの置き時計に目をやると、時計はいつの間にか深夜四時を大きく過ぎていたのだった。
彼女の部屋の引き戸の向こうでは、その声の主がジッと泣きじゃくりながら彼女の返事を待っている。それを察した彼女は口を付け掛けた酒瓶の蓋をそっと閉めて棚に戻すと、優しい声で引き戸の向こうで待つ人物に返事をした。
「まだ起きていたのですか、雷紅狼」
引き戸を開けるとそこには藍染めの木綿の浴衣を着た、まだあどけない八歳の小さな少年が、目に涙を溜めながら狐のぬいぐるみを抱き締めて立ち尽くしていた。“あね様”と呼ぶ彼女の姿が現れると、雷紅狼と呼ばれた少年は我慢していたものが爆発したように泣きながら彼女に縋り付いた。
「…………そう、怖い夢を見たのですね」
そう言って彼女はお腹あたりで顔を押し付けて泣く少年の頭を優しく撫でてあげた。
“あね様”と呼ぶが少年と彼女に血の繋がりはない。とある深い事情があって彼女は雷紅狼少年を引き取って育てているのだが、少年が物心付く頃には彼女はいつの間にか“あね様”になっており、彼女もまた少年の育て親として、少年の望む姉として、様々な形で深い慈愛を以って少年に接している。
「こわい……こわいよぉ……ひとり…こわい…」
「……………ッ!」
泣きじゃくりながらそう訴える少年の言葉に彼女の表情が強張った。優しく少年の頭を撫でる手も思わずビクリと動きを止めてしまい、彼女は反射的に少年を何かから守るため、覆い隠すかのようにして強く抱き締めていた。
「………あね様?」
雷紅狼の小さな呼び掛けで彼女は我に帰る。
「あ…………ご、ごめんなさいね、雷紅狼。苦しかったでしょう?」
「ううん……あね様、ありがとう。僕ね、あね様に抱っこしてもらうの好き」
まだ泣いてはいるのだが、雷紅狼の浮かべた無邪気な笑顔に彼女は救われた気持ちになった。今度は何かから守るような抱き締め方ではなく、優しく雷紅狼をあやすように抱きかかえると、それに喜んだ雷紅狼は彼女の首に腕を回して、ギュッと甘えるように頬を摺り寄せてくる。
「ありがとう、雷紅狼。では今宵は一緒に寝ましょうか。私が一緒なら、きっともう怖い夢も見ることもないでしょう。例え怖い夢に襲われたとしても、私がきっとあなたを護ってあげますからね」
「あ………あのね…あね様…」
何か言い難そうに雷紅狼はモジモジと指遊びを始める。
「どうしました?」
「あのね………あね様の尻尾……オコンちゃんと一緒に抱っこして良い…?」
雷紅狼の言う“オコンちゃん”というのは、彼が大事にしている狐のぬいぐるみのことである。八歳という年齢ではあるが、その実年齢以上にやや幼稚な部分を残している雷紅狼の愛らしさに彼女は思わず頬が緩んだ。
「ええ、もちろん良いですよ」
「やったー!僕ね、あね様のモフモフも大好き!!」
「これ、このような時間に大きな声を出してはなりません」
今は、この無垢な温もりに心を委ねよう
さすれば嫌な夢も思い出さなくて良い
幼い温もりを抱き締めながら、まるで過去を振り切るように
彼女は
稲荷は
宗近は、そう思うのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――とある旧家にて
私“宗近”と“沢木 雷紅狼”と出会ったのは暗い座敷牢だった
彼が生まれたのは昭和68年の春だったと聞く。
彼の生まれた沢木家というのは九州地方に根を下ろした陰陽道の一族だった。もっとも陰陽道というには著しく邪道な部分が多く、かつて初代当主が陰陽師として一流だった一方で古流武術家としても一流だったせいか、現代では陰陽道を司るのは代々当主だけの役割となり、一族としては武術家としての性格の方が強い。
雷紅狼はそんな一族の総本家で唯一『丸に揚羽蝶』の家紋を掲げる“黒川沢木”と呼ばれる家系の長男として生まれた。それは待望の男子であり、ある意味では一族の当主として幸せな人生を約束されたようなものだった。
本家である黒川沢木と一部の家には、他家にはない独特の習慣がある。
それは黒川沢木の当主は必ず直系男子でなければならないというもの。一見容易く見える条件なのだが、黒川本家に限らず“沢木”の姓を名乗る一族には、必ず稲荷を嫁に娶らなければならないという風習が存在する。当然のことながら稲荷から人間の子、それも男子は生まれてくることはない。
そこで“御前様”と呼ばれた初代当主の奥方である九尾の狐が、当主は器量良しの人間の女子も娶るべしと提唱した。当時はまだ戦国時代ということもあり、側室側女など財力や地位さえあれば割と容易に手に出来た時代。それ故に黒川沢木に限らず、沢木一族は九州戦国時代において驚くほど勢力を増やし現代に至る。
もっとも現代での沢木家全体としてはそれぞれにばらつきがあり、かつては大きな屋敷だったという程度の名残を残す家がほとんどであり、すっかり陰陽道一族や武術家一族だったことなど忘れて、平凡な現代社会の日常生活を送る者たちばかりである。そんな中で唯一過去の栄光を残した黒川沢木に待望の男子、つまり雷紅狼が生まれたのである。
しかし、それは彼にとって最初の不幸でしかなかった。
彼の実母は稲荷と人間を同時に娶るという黒川沢木の風習を理解した上で、同時に一族の幸せのためにもう一人の妻である稲荷を敬い慕う非常によく出来た人物だった。
黒川沢木に嫁いできたのは、確か十六のことだっただろうか。明るく気さくな好人物であり、もう一人の妻である稲荷の娘たちの世話もよくしてくれて、笑いの絶えない一家だった。
雷紅狼が、生まれてくるまでは…。
彼女が十八の時、彼女にとって最初の子供、雷紅狼が生まれた。
生まれた当初こそ彼女は、初めての愛しい我が子を胸に抱き幸せで胸いっぱいだった。世間から見れば異常な風習を持つ一族の長ではあるものの、彼女にとっては最愛の男性の子供。それも一族が祝福してくれる子供だったのだから、彼女の幸福は計り知れるものではなかった。しかしそれは僅か一ヶ月も持たずにあっさりと崩れ去る。
それは雷紅狼の目が開くと同時に崩れていった。
雷紅狼の右目の瞳は、まるでルビーのように紅かったのである。
俗に云うオッド・アイと呼ばれるものである。
生物学上あり得ない話ではなく、彼女が稲荷たちと四六時中過ごしていた事実はあるものの、雷紅狼には魔物の魔力の影響などまったくなかったのである。たまたま右目だけ紅く生まれてしまった。ただそれだけなのだった。
しかし彼の実母は違った。
彼女は“それだけ”のことを、そう捉えることが出来なかった。
彼女には稲荷などの妖怪魔物に対する理解があった。
だが“自分がそういうものになってしまった”と思うのには、堪えられなかったのである。
彼女は赤ん坊だった雷紅狼を、黒川沢木でも長らく封じられていた座敷牢に閉じ込めた。
捨てた、と云った方が正確なのかもしれない。そして当主や稲荷たちの声も耳に届かず、まるで気が狂ったかのように頑なに現実を拒否するようになった。あの明るかった性格は陰に潜み、一日中ぶつぶつと何かを呟きながら部屋に閉じ籠もるようになり、あれほど愛した当主も稲荷たちにも、何もかもを正気を感じさせない金切り声を上げて拒絶するようになった。
それでも本能のどこかで我が子を忘れることは出来なかったのだろう。
誰も近寄ることを許されなかった雷紅狼を閉じ込めた座敷牢に、沢木家の使用人だけが近寄ることを許され、最低限死なないだけの食事と身の回りの世話だけを時々僅かに正気に戻った時に彼女は命じた。ただし雷紅狼に喋り掛けることも、まして外へ連れ出すようなことは固く禁じられたままだった。
雷紅狼は存在しない者とされた。
皆に生まれながらに祝福されて、母に生まれながらにして呪われた。
そんな状況を私が知ったのは、何と雷紅狼が生まれて2年も経過してしまっていた頃だった。
私のまったくの不明と言えばまさしく不明だった。
そもそも姉から送られたおよそ百年ぶりの暑中見舞いの葉書が届かなければ、私は幼子がそのような目に遭っていることなど露も知らなかっただろう。暑中見舞いに“愚妹に相談したき儀あり”という一文があり、あまりの無礼さに無視してやろうかとも思ったのだが、あの傍若無人を地で行く姉が相談したいと言うこと自体があまりにも稀なので、気になった私はおよそ40年ぶりに姉の住まいに電話をしてみることにした。
姉、というのは初代当主奥方で“御前様”と呼ばれた九尾の狐である。
黒川沢木の創始者とも言える存在で現在でも沢木一族全体でもっとも発言権の強い人物なのだが、今ではすでに黒川沢木の家を初代当主と共に退去し、悠々自適な隠居生活を温泉地近くの神社で過ごしている。見様によっては羨ましい余生だと思うのだが、その余生がすでに四百年以上も続いていることを考えれば、何とも自堕落な話にしか聞こえてこない。
『おお、久しいな愚妹よ』
「約一世紀ぶりの会話で開口一番がそれですか、姉上」
電話口でいきなりの罵り合い。
私たち姉妹の仲は決して良いとは言えない。私としてはさっさと相談したい内容を聞きたかったのだが、姉はと言うと先日ようやく黒電話からコードレス電話に買い換えただの何だのと他愛のない話ばかりで、葉書の内容にはまったく触れようともしなかった。
「……姉上、私もこれで忙しい身なのです。さっさと本題に入りたいのですが」
この頃、私は本当に忙しい時期を迎えていた。
自分で事業を始めて、稲荷でありながら忙しさと疲労が楽しく感じられていた時期だっただけに、あまり仲の良いとは言い難い姉と長々と無駄話をするというのは本当に不快に感じていた。だが後から考えれば姉の妙な口数の多さも、本当に無力だった姉の後ろめたさがそうさせていたのだろうと思う。
『う……うむ…』
歯切れの悪い声が受話器の向こうから聞こえてきた。時折“ああ”とか“うん”という単語を姉は言葉に詰まりながら言っていた。用がないのなら電話を切ろうと思っていた私だったが、姉の様子にただ事ではない事態が起こったのだと悟った。
仲が悪いのは本当だが、こういう時はやはり血の繋がった姉妹なのだろう。
「姉上……、相談したき儀というのは姉上の御力を以ってしても解決出来ないことですか?」
正直なところ、私は“そうじゃない”という回答を期待していた。
九尾の狐の能力は言ってみれば神に等しいもの。その能力を以ってすれば姉に解決出来ぬ問題などありはしないと、嫌いな姉でありながら私は心の底から姉のことを信頼していた。もしもその姉が自分の力で解決出来ない事態に見舞われたとすれば、それは本当の意味での大事件に他ならない。
『…………愚妹、否、宗近。そなたに問いたき儀がある』
しかし姉は私の質問には答えなかった。
『宗近、そなたはここ数年の沢木家の未来を視ることがあるか?』
未来を視るか、と問われて私は首を捻った。
私の両目は時折非常識なものを見てしまうことがある。多くの人はそれを“千里眼”と呼ぶものであり、私自身の未来は決して視えないのに、私以外の誰かに起こる抗いようのない未来の断片を私が望んでもいないのに視せてしまう。“抗いようがない”というのは、どんなに悪い未来であっても、私自身にそれを覆すだけの術がないからである。だから未来は私の視えた通りにしか起こらない。
「…………いいえ、このところ沢木に災いの影は視えませんでしたが?」
災いどころか沢木家に関わることを、この頃は何も視えていなかった。長い間何も視なかった時期があったので、もしかしたらここ数年の間に千里眼を失ったのかと私は思ったのだが、失っていなかった証拠に時々私には何の関わりのない未来のヴィジョンを、まるで連続写真のように断続的に視てしまうことがある。そんな時私は“別に視えなくなっても構わないのに”と自分に毒づいてしまう。
視えるものなんて、だいたいが禍いばかりなのだから。
『ふむ……視えなんだか。合点がいった』
「姉上、勝手に一人で納得なさらないでください」
『許せ、我が妹よ。だがこれで合点がいったのだ。このような事態をそなたが知っておれば、わらわに文句の一つ二つ言った上ですでに救い出しておったに決まっておるからな』
まだ、姉が何を言わんとしているのか理解出来ていなかった。
しかし姉の口ぶりから本家に何かあったのだということは察することが出来た。
「……………黒川沢木に何があったのです」
『………黒川本家に男子が生まれた』
初耳だった。
「それはおめでたきことで。して何日に生まれたのですか?」
私にとって黒川沢木の子らは特別な意味を持っている。ただの“姉の子らの末裔”という立ち位置ではない。黒川沢木の初代当主・沢木 真紅狼は私が心血注いで育てた武術と呪術の弟子であり、今から五百年前に私がもっとも心を寄せた者の一粒種でもあった。
彼の独り立ちと更なる成長を願って離れ離れになった時期もあったが、姉の夫であることとは別に、我が子のように本当に大事な彼の一族を護るべく、私は事あるごとに陰から裏から力を貸してきた。お互いに顔を合わせる機会はめっきり減ってしまったのだが、姉のことは嫌いでも真紅狼を大事に思う心はまだ色褪せていない。
この時はまだ何か祝いの品でも送らねばと思っていたぐらいだった。
『……生まれたのは二年前の春』
「二年も前だったのですか?まったく現当主は何をしていたのですか。男子が生まれたのであれば、そのようなめでたきことを何故皆に知らせないのか…」
『どうしたもこうしたもない。わらわが知ったのもつい先日よ』
そして姉はようやく事の次第を語り出した。姉も自分の耳を疑ったと言っていたが、それは良心の呵責に耐えかねた現当主の稲荷側の妻の密告によって姉の知るところとなったのだと言う。本家の恥だとして現当主は陰陽道の技を悪用し、強力な呪術を駆使してまで秘密にしていたのだが、ただの人間である使用人ならいざ知らず、さすが本家の嫁として姉が選んだ稲荷には術が効かなかったためにすべて明るみになってしまったのである。
「しかし……それでしたら姉上が出れば万事解決するのでは?」
何と言っても九尾の狐なのだ。姉よりも足りずに劣った部分を武術や異能で補うような五つ尾の私よりも妖術妖力共に優れており、姉が問題解決に動けばそれですべてが終わりなのだと私は思っていた。
しかしそれは甘い幻想だったらしい。
『そう思うだろう?わらわもそう思っていた。だがアレはもうわらわの手には負えぬ。かの者は生きながらにして“鬼”になってしまった。生成り、というやつじゃ。平安の世では何度か遠目で見たことはあったが、まさかこれほど恐ろしいものとは思いもせなんだ』
「恐ろしい?姉上が?」
『ああ、恐ろしい。すでにわらわの手に負えぬところまで来ておるのだ。わらわは真紅狼に退屈な石生活から救われ、真紅狼のおかげで人の世を生きておる。しかしの………わらわは未だ人間の心というものを理解し切れておらぬ。特に薄氷の如く触れれば壊れてしまうようなかの娘のような者のな。理解出来ぬものほど恐ろしいものはない』
そういうものだろうか、と私は口に仕掛けたのだが、姉の言葉を心のどこかで納得して、私はすぐそこまで出掛かった言葉をやっとのことで呑み込んだ。考えてみれば何のことはない。私と違って生まれながらに九つの尾を持って生まれてきたのだ。つまり生まれながらにして圧倒的強者としての業を背負っている姉には、蜻蛉のように儚い存在である人間というものは本来脆き者たちであり、壊してしまいそうで恐ろしくて触れることの出来ない者たちなのだと姉の目には映っているのだろう。
そもそも、真紅狼のように九尾の狐と対等に接することが出来る人間など稀有なのだから。
『そこでだ、宗近。そなた、かの娘と赤子を救ってはもらえぬか?』
「私が……ですか…?」
『うむ、そなただ。姉であるわらわの目から見ても、そなた五つ尾の稲荷でありながら、どういう訳か心が人間に近く見える。普通そこまで尾が生えれば、何かしら超越者の如き心地になるものなのだがな、そなたほど俗世に塗れた稲荷はこれまで見たことはない』
姉の言い方には何か棘があるような気がする。
しかしそれは仕方がないのかもしれない。私は姉の言う通り俗世を捨て切れず、ある時は村はずれの廃寺を根城にして尼の真似事をしながら、ある時は旅の踊り巫女をしながら諸国を巡って、どの時代も様々な形で人間と共に生きてきた。そういった傾向はおよそ五百年前に出会ったとある少年以降、私の中でより強くなっているように思える。
人間とは……
心とは一体何なのだろうか…
姉は私の方が人間に近いというが、私にもまだそれがわかっていない。
「…………わかりました。私でよろしければ力を貸しましょう」
『……頼む。そなたの良いようにしてくれ。一応現当主・義盛にはわらわから此度の不手際の叱責ついでに話を付けておく。無論、あやつに嫌とは言わせぬ。よりによってそなた以外に解決出来そうな真紅狼が留守にしておる時に、ここまで悪化した事態を放置して嫁たちを不安にさせた責任、きっちり取らせておかねば他家への示しも付かぬ』
姉も、私に負けず劣らず俗世に塗れていると思う。さすがは呪術で誑かしていたとは言え、一時期は時の帝の御妃として権力を握っていただけはある。こういう時の権力の使い方は狡賢いというか、上手いと言わざるを得ない。
『………かの娘を頼む』
通話を切る直前、姉は珍しく弱々しい声で私に懇願した。
人間の心が理解出来ないと零した姉だったが、姉は姉なりに人間を理解している。私の勘違いかもしれないのだが、そんな風な気にさせるような切ない声だった。
「……簡単に言ってくれる」
姉との電話のやり取りを思い出しながら、私は心を病みし黒川沢木の人間側の妻・めぐみの枕元に立って彼女を見下ろして愚痴を零していた。ここは黒川沢木の寝室。さすが室町末期から続く総本家だけあって格式高い書院造風の和室で、調度品なども時代掛かって多少古めかしくはあるものの、非常に優れたものばかりだった。それにこれまでこの部屋で暮らしてきた女たちのまるで残留思念のような優しい息吹が感じられる。この寝室一つ取って見ても、黒川沢木に嫁いできた娘たちは大事にされてきたことがわかる。
沢木めぐみは私に見下ろされていることなど気付きもしないで、一時の安らぎを求めて眠りの世界を彷徨っていた。こうして見ている分には、彼女が心を病んでいるだなど思いもしないし、そう思うことが出来ない。きっと夢の中では彼女の望む世界が広がっているのだろう。
だが耳を澄ませば聞こえてくる。
助けて
私は人間なんだ
化け物なんかじゃない
そんな助けを求める叫び声が聞こえてくる。
誤解なきよう言っておくと、決して彼女は魑魅魍魎たちを蔑んでいるのではない。彼女は歴代の沢木の妻たちと同じく妖怪たちに対して心を開き、人間妖怪の分け隔てなく接することの出来る稀有な存在なのである。沢木の妻たちは最終的には代々姉によって選ばれるのだから、それは上辺だけの人間ではなく心の底からそういう人間なのだろう。
しかし人間の心とは杓子定規には当てはまらないのもまた真実。
「………本当に、人間という生き物はわからないものですね。人間でありながらあの子は超越者になりたいと願ったのに、あなたは人間でありたいと願う。何故同じ人間でありながら、こうも個体差が出てしまうのか……本当、不思議なもの」
理解出来ぬから恐ろしいと思う姉とは対照的に、私は理解が出来ぬからこそ、それを愛しいと思えるほどに人間という生き物に心惹かれている。
少しだけ他人と違う子を生んだ。それだけなのにこの娘は自分が人間でありたいと願うばかりに心を閉ざしてしまった。自分が人間でなくなってしまったと、そう思い込んでしまうだけの材料が黒川だけでなく沢木家には山のようにあったのだから、そこを責めても仕方がないと思う。千年もの間、人間というものをすぐ側で観察してみてわかったのは、人間と言うものはそのほとんどが“人間という器”の中でしか自分自身を全うすることが出来ないということ。
沢木めぐみの場合、自分がその器からはみ出してもいないのに、はみ出してしまったのだと思い込んでしまったに過ぎない。それなのに彼女の夫である現当主・義盛はそれを気付かせるよりも家名を護ることに異能を使ってしまったために、こんな風になるまで事態を隠し続けて悪化させてしまった。
本来彼女を救うのは千の秘術よりも、たった一つの言葉で良かったものを。
たった一言、生まれた子も彼女も何も変わらぬ人間なのだと示してやれたのなら、こんなことにはならなかっただろう。閉じ込められた子もどこにでもいる普通の子供と何ら変わらぬ暮らしも出来ただろうし、彼女もまた良き母として良き妻として“鬼”にならずに済んだであろうに。
「…………私に出来る方法…か…」
心の傷を綺麗に修復し、鬼まで堕ちた心を浄化して元通り平穏な日常を取り戻すなんて便利で都合の良い術があるのであれば、私の方が頭を下げてでも是非教えを乞いたいものだ。残念なことに私の身に付けた陰陽の術も、妖怪たちの間で長きに渡って受け継がれてきた妖術にも、そんな都合の良い便利な術は存在しない。こんな時こそグリム童話に出てくるような魔女たちの万能さが羨ましくて堪らなくなる。
私は眠る彼女の枕元に正座をすると、眠るめぐみの額に一枚の符を貼り付けた。
まだこの国に“仏教”と“漢字”が入ってくる前の時代に国津神たちが使っていたという文字がびっしりと書かれた符である。正直なところ何が書かれているのかわからず、私自身も恥ずかしながら一文字も読めないので、もはや体系的な記号としてでしか機能はしていない。それでも大まかな意味だけは我々妖怪の間にも伝わっているし、読めなくとも発音だけは親から子に伝わっていくように、代々口伝でのみ受け継がれていく。
つまり私にこの術を教えてくれた師匠筋に当たる人物も、私と同じように意味も内容もよく理解してはいない訳だった。それでも理解しておらずとも用途用法を間違わずに、きちんと間違いなく手順を踏めばこの符術は使えるということである。結局、私もまた黒川沢木初代・真紅狼へと同じように術式を伝えて、彼もまた私と同じように口伝にて現代まで術を継承していっている。
歴史は繰り返す、とはよく言ったもの。
符を貼り付けた人差し指で、私は刻み込まれた文字と記号をなぞりながら呪文を喉の奥から発する低い声で唱え続ける。この呪文は本来人間には発声することの出来ない代物で、私が心血注いで育てた真紅狼でさえ生まれ持った才能とその妻である姉の助けを以ってして、完全に会得するまでには百年以上掛かったのである。彼が自身の“人間の器”を若い内に捨て去っていなければ、果たして会得出来たかどうかは疑問が残る。おそらく彼は後世の子孫たちに、そこまでの術は教えていないだろう。彼は良くも悪くも彼の父親の性格を受け継いでいるので、あんなに苦労するものを後世に伝えていくのは、絶対に面倒臭がるに違いないと私は心のどこかで確信している。
繰り返し呪文を唱えて、指で符をなぞること数往復、符に刻まれた文字と記号がぼんやりとした蒼い光を放ち始めた。私はそこでようやく大きな溜息を吐いた。この術は使用者が本当に疲れるのだ。何故ならこれから私がやろうとしているのは、人間一人の“記憶”に強く干渉しようとしているのだから尚更である。
「めぐみ………私の声が聞こえますね?」
「あ……………あ……」
上の空のような気の抜けた返事が返ってくる。
それも仕方がない。今の彼女は私の術で半ば無理矢理返事をしているに過ぎず、実際はまだ意識が覚醒している訳ではない。それに術は一種の強力な催眠術のようなものなので、このような状態である方が実に好ましい。
自我が薄れている時の方が、記憶に干渉しやすいものなのだから。
「……もう怖がらなくても良いのです。私があなたに掛かった呪いを解いて差し上げます。妖魔になりかけたあなたの呪いは目が覚めた時にはすっかり解け、あなたは以前と変わらぬ人間に戻っていることでしょう」
無論呪いなど掛かってはいない。
しかしそう思い込んでいる者にいくら違うと諭したところで、彼女のような強力な暗示は解けるどころか一層拗れてしまうものなのである。だから私は敢えて彼女が呪いに掛かっているのだと認め、その上で呪いを解いてあげると彼女にやさしく言い聞かせている。
一種の言葉遊びのようなものなのかもしれない。
「……にん………げ…ん……………もどる…」
閉じた瞳から、すうっと一筋の涙が零れ落ちた。
「ええ、そうです。あなたは人間に戻るのです。目が覚めた時、あなたは鬼ではなく、元通りの沢木めぐみとして目が覚めるのです。そしてあなたの子も、呪いが解けて化け物の子ではなく人間の子として……」
“あなたの子”という言葉を私が口にした瞬間、彼女の表情に一瞬にして狂気が宿った。これまで人間の色んな表情を見てきたものだが、これほど恐ろしいと感じた表情はない。もしも意識と自我がある状態であったらと思うと、私は心の底からゾッとしていた。
「いら……ない…ッ…私の子……ちが…う…ッ!……いら…な……い……いらないッ!!」
意識が覚醒していないのに彼女は身をよじって暴れようとするが、私の術が効いているためにただ小刻みに震えるだけだった。しかし暴れ回らなくてもこの心の叫びだけで十分だった。どうやら今の私には彼女に“掛けられた”呪いは解くことが出来ても、彼女が“掛けた”呪いを解くことは出来ないらしい。
「いらないッ………いらな……ッ!!」
「そう…………わかりました…」
残念だ、と私は心から悔しくなった。
今の私はきっと誰にも見られたくないほど、冷たく鋭い視線を彼女に睨んでいるに違いない。彼女が我が子に掛けた呪いを解けない私自身の未熟に、ここまで壊れてしまうまで放置されてきた彼女の哀れさに、そしてすでに生んだ我が子を愛せなくなってしまっている彼女に対して、私は色んな感情の入り混じった悔しさで思わず唇を噛んでいた。
本当はここまでするつもりはなかった。
しかし修復が出来ないのであれば、私にはこうするより他になかった。
「ならば………今度は私があなたに呪いを掛けてあげましょう。すべて、忘れなさい。あなたが我が子を受け入れられるその日まで、あの子に関する一切すべてを忘れておしまいなさい」
記憶の改竄
偽の記憶を植え付けて解決を図るのではなく、幽閉した我が子に関するすべてを私は忘れさせることにした。もう彼女は我が子を思い出して狂うこともないし、我が子を幽閉してしまったことを後悔することもない。彼女は一切を忘れてしまう。まるで積み木崩しのように、消えた記憶は空白にはなることもなく、幻想世界を彷徨った彼女にとっての“昨日”と現実世界で流れ続けていた“今日”が僅かな矛盾を伴って一つに繋がるだけ。
おそらく彼女が我が子を受け入れる日は来ないだろう。
そんな予感が私にはあった。
「………………お邪魔をしました。では、今一度眠りなさい。朝になればあなたの呪いは解かれ、悲しい夢を見た後のような訳のわからない喪失感を抱いて目覚めるでしょう」
呪符はこのまま朝まで貼り付けておくことにした。この呪符は朝日を浴びれば塵のように消えていく。そういう代物であることと朝まで術が継続されていけば、どんな些細なきっかけであろうとも閉じ込めた記憶は甦りはしない。“我が子を受け入れられるその日まで”という条件を満たさぬ限り、私の呪いは消えることはない。
彼女にとって、なんと幸せな呪いなのだろうか。
「…では座敷牢の子を救い出すとしましょう」
そう言って彼女の枕元から立ち上がる。万が一のことを考えて姉には座敷牢の破壊など、ある程度のことは許可してもらっているが、さてこの先どうしたものかと私は考えていた。こうなってしまった以上、座敷牢の少年をこのまま黒川沢木の家に置いておく訳にもいかない。他家に養子に出す当てもないし、そもそもそれでは救いに来た意味もない。
「…………………ら…………い…く……ろ……」
どうするかと悩んでいた私は、搾り出すようなめぐみの声に思わず目を見開いて彼女を凝視してしまった。同時に全身に冷たい汗が吹き出るのを感じていた。この時初めて私は姉の言葉の意味を理解したような気がする。
私は、生まれて初めて人間を恐ろしいと感じた。
きっと搾り出したのは幽閉された子供の名前なのだ。ゆっくりと薄れゆく記憶の中から彼女は我が子の名を呼んだ。きっと今の彼女は狂う寸前の頃の彼女になっているのだろう。優しく穏やかな表情を浮かべて、何度も彼女は『らいくろう』という名を繰り返した。
悩む暇があれば、さっさと立ち去るべきだった。
私はその名を聞くべきではなかったのである。もうすぐ彼女はその名も忘れてしまうだろう。だから本来はそれで終わりであるはずなのに、私ともあろう者がうっかり『らいくろう』という名を聞いてしまったのである。
彼女の口から名前を聞いてしまった以上、私は彼女の役目を引き継がねばならない
名前とは呪いの一種だ。
名付けられた者を永遠に縛り続ける鎖だ。そしてその鎖は今、私をも縛る呪いに変わってしまったのだ。薄れゆく母の最後の純粋な愛情が、まるで我が子を私に託すようにその名を口走ってしまった。
私にバトンを渡すかのように、めぐみの左手は布団から真っ直ぐ私の方へと伸びている。それが彼女が母として私に託した呪い。どんな古代の呪術であろうと、この呪いに匹敵するものを私は知らない。
「それが………あなたの子の名前なのですね…」
本当に沢木の娘たちは恐ろしいと思った。
何の面識もないというのに、彼女たちと私はどういう訳か縁が切れない。嗚呼、そうだった。そうだったのだ。初代・真紅狼をあの娘に託された時と似ているのだと私は思い至った。
あの娘も命懸けの呪いを放ったものだ。
そのおかげで、今も沢木家から放れることが出来ない。
「……わかりました。私がその子を引き取りましょう」
五百年前にも同じ約束をした。
差し出された手をしっかり握り、私はそう約束してしまったのだった。決して違えることの出来ない契約である。意識はないはずなのに私がそう約束すると、彼女はもう一度だけ我が子の名を呟いて深い眠りに堕ちていった。そして二度と『らいくろう』という名を口にすることはなかった。
初代・真紅狼も母にその名を呼んでもらうことはなかった。
その末裔・雷紅狼もまた母に名を呼んでもらうことはない。
その悲しい符合に、私はただ袖で目尻をそっと拭うことしか出来なかった。
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目を覚ますと、そこは沢木家の寝室ではなく自分の部屋だった。私はベッドに横たわっていて、目の前には私の尻尾とぬいぐるみを気持ち良さそうに抱き締めて安らかに眠る雷紅狼がいる。あまりに鮮明な夢だったせいで頭の中が現実に追い付かずに混乱していたが、手に取った時計を見てみるとあれから随分と時間が経っており、窓の外もカーテンの隙間からは朝の日差しが漏れていた。
「……もう、朝?」
あまり寝た気がしない。そもそも昨日の晩から何度も目が覚めたりしているものだから、眠っていたのかどうかすら怪しいものである。妖怪だから徹夜の一つや二つ平気なものではあるが、睡眠という快楽をこの数百年で覚えてしまった以上は、どうも眠れないというのは気持ちが悪い。
「…………………ちょっと悪戯しちゃおうかな」
あんな過去を思い出したせいだろうか。気持ちの中でどこかギスギスしたものを感じた私は、目の前でスヤスヤと眠る雷紅狼に軽い悪戯心が芽生えていた。あんなことがあってこの部屋で暮らし始めたのだが、今では雷紅狼を引き継いだという義務感は消え失せ、純粋に愛しい家族として接することが出来ている私がいる。
頬を軽くくすぐってみる。すると嫌がっているのか可愛い唸り声を上げて、無意識の内に雷紅狼は頬を膨らませた。そんな姿を見ていると何だか微笑ましくて、私は彼の髪を撫でながら表情を緩ませていた。
私は今、孤独じゃない
何をするにでも雷紅狼が一緒にいる。たったそれだけのことで幸せになれるのである。彼の母親から無理矢理奪ってしまったような罪悪感は残っているが、そんな背徳的な幸せを私は甘受していた。
雷紅狼の寝顔を見ていると急に眠気が襲ってきた。仕事は夜からだし、夕方までは雷紅狼ともゆっくり一緒に過ごしていられる。このまま二度寝をするのもたまには良いだろうと、私は雷紅狼からこっそり狐のぬいぐるみと私の尻尾を抜き取ると、そのまま彼の頭を私の腕枕の上に置いて抱き寄せた。小さな身体がすっぽりと私の腕に収まり、今度は雷紅狼が私の抱き枕になったかのようだ。
雷紅狼はと言うとぬいぐるみも尻尾もなくなったのに気付かず、寝惚けて私の身体に足を絡めてぎゅうぎゅうに抱き付いてくる。赤ん坊のように私の胸に顔を摺り寄せて幸せそうに眠る姿は、本能的に得られなかった母親の愛情を探しているのだろうかなどと勘繰ってしまうが、私はそういう感情も含めて彼を優しく抱き締めて目を閉じた。
今度は良い夢を見られそうだ
私が雷紅狼の温もりを求めているのか
それとも雷紅狼の方が私の温もりを求めているのか
ただわかっていることは、今の私たちは欠けたパズルのピースのようなものでお互いに歪な形に割れているのに、歪でなければ重なり合えないという親子とも姉弟とも呼べない宙ぶらりんな関係であることだけ。
ただしそこに愛情がある。
ただ、それだけの関係なのだった
13/11/03 02:13更新 / 宿利京祐
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