第六話・壊れた世界で僕は歌う
誰も気が付いていなかった。
誰もが記憶が始まった時から、その世界はたった2つの色で染められた鳥籠にいた。
どちらかが正しく、どちらかが間違っている。
2つの鳥籠に閉じ込められた鳥たちは互いを罵り、
やがてまるで自然の摂理がそうであるかのように
誰に命じられた訳でもないのに醜く争い始めた。
それが、何年も何十年も何百年も続いた。
鳥籠の中で歌う鳥たちは、
いつしか互いに傷付き、倒れ、何故互いに憎しみ合うのかわからないまま疲れていった。
大きな白い鳥が黒い鳥を憎めと教えたのだと
大きな白い鳥を見たこともないのに、その威を借る鳥は妄想(リアル)を撒き散らす。
大きな黒い鳥を美しいと感じた鳥たちは、
現在を耐え忍べば、きっと大きな黒い鳥が助けてくれると信じて抗う。
それは永遠の平行線。
だけどある日、真っ黒な狼が鳥籠を壊してしまった。
たった2つの色しか知らなかった鳥たちに、
知りたくもなかった外の世界を流し込んできた。
鳥籠から解き放たれた鳥たちが見たものは、
大きな白い鳥を信じる鳥たちも、
大きな黒い鳥を信じる鳥たちも、
まったく同じで、お互いを罵り合って殺し合う必要もなかったという現実が広がっていた。
あの黒い狼は行ってしまった。
まったく同一の存在だとお互いに認識出来た世界で、
『僕ら』がどうすれば良いのかを教えてくれないままに。
大きな白い鳥よりも、大きな黒い鳥よりも
あの黒い狼は優しくはなかった。
私・アドライグはロウガ王の命により、クスコ川流域に本陣を構える神聖ルオゥム帝国軍、若き日の皇帝ノエル=ルオゥム……私を知らない母の下へと馬に跨り向かっている。
朝の内にムルアケを出たというのに、気が付けばもう夕暮れだ。
補給基地としてムルアケ街道のセラエノ軍本陣の位置が絶妙な位置関係であるとはいえ、この距離を近いかと問われれば、私は遠いと答えざるを得ないであろう。
もう少しだ。
後はこのクスコ川を遡って行けば辿り着く。
「ロウガ総帥も無茶苦茶だね。僕ら二人で援軍要請に行って来いってさ。」
隣で一緒に馬を並べて走るのはリオン=ファウスト。
ロウガ王が私に命じたのは、神聖ルオゥム帝国本陣への援軍要請。
ただ私一人では不安であるとして、最近一緒に組まされていることが多いリオンに私の護衛と道中の供を命じ、たった2騎で夕闇の最前線を駆け抜ける。
「そもそも援軍要請って敵が近いってことだよね。おかしいなぁ……、セラエノの兵たちの間にも近々戦闘になるって話もなかったから、てっきりフウム残党と戦闘になるのはもっと先だと思っていたのになぁ。」
「……直属の密偵でも使ったんじゃないかな?」
リオンの疑問に、私は在り来たりな答えを出した。
在り来たりすぎて面白くないと思っていたのだが、リオンもそれで納得した。
脳裏にキリア=ミーナの顔が浮かぶ。
リオンから聞いたフウム残党軍の話から統合しても、彼らは軍としての強さは然程問題とする程度ではないようなのだが、そこにキリア=ミーナのような規格外の化け物が加わるというだけで無力な群れも、一人一人が勇気付けられ予想外な力を発揮するのだという。
数々の戦争を体験した母からの受け売り。
そのことに急に不安な気持ちになっていき、私は深い溜息を吐いて空を見上げた。
もうすぐ太陽が沈む。
辺境の荒野が赤く染まっていく。
ふと気が付くと、対岸に生い茂る木々の切れ目から陣が構えられているのが見えた。
旗印から見るに、あれがかつて母が戦っていたというヴァルハリア軍なのだろう。
不気味なくらいに静かだ。
「…………リオン、懐かしい?」
どこか遠い目をして、対岸のヴァルハリア軍をリオンが見ていた。
リオンは教会騎士だった。
そのことを思い出した私は、そっと彼に問いかけた。
「……懐かしくないと言えば嘘になるかな。まさかこんな形でここに帰って来るとは思っていなかったし、僕が騎士団を抜ける時にはこんな戦況になっているなんてことも考えもしなかった。」
リオンはポツポツと言葉を繋いだ。
彼が騎士団を辞めた時点では、ヴァルハリア軍はここまで追い詰められてはいなかったらしい。
しかし、クスコ川にある男が現れてから戦況は劇的に変化した。
「紅龍雅って言う将軍だよ。あの人が帝国軍に援軍に来てから、ヴァルハリアもフウムも彼の手の平で踊るように良いようにやられてね。彼と二言三言会話出来たんだけど、それがきっかけで僕は自分の在り方に疑問を持って……死んだフレイヤ先輩のように自分の殻を破りたくて騎士団を辞めたんだ。」
………今、凄い名前が聞こえた気がする。
「リオン、フレイヤ先輩というのは……、まさかヴァル=フレイヤという方じゃ…?」
「アドライグも知ってた?そっか、アドライグはセラエノの人だったね。それじゃあ、フレイヤ先輩の名前も知ってておかしくないか。」
私は何とか平静を保ちながらリオンに笑い返したのだが、内心冷や汗と激しく早鐘を打つ心臓を抑え付けるのに必死になっていた。
リオンがヴァルハリア教会騎士団だったという情報から察しておくべきだった。
まさか……、まさかあの聖騎士ヴァル=フレイヤと、このまったく頼りない自称元教会騎士というリオン=ファウストと言う人畜無害っぽい生物が、同じ時期の人物だったとかこれっぽっちも思いもしなかった…!
聖フレイヤの話なら、セラエノにいた時に散々本で読んだ。
厳格な皇帝である母とセラエノ戦役を生き残った人々の武勇伝を聞き親しんだ少女時代の私は、同じ女性として特に聖フレイヤに憧れを持ち、とにかくボロボロになるまで彼女に関する伝記を読み漁った結果、教科書の歴史はうろ覚えで非常にあやふやではあっても、聖フレイヤを当てはめることで多少の歴史の流れはほぼ正確に理解出来るようになる。
つまりだ。
そのことから導き出すに、この時代のことがようやく頭の中でまとまってきた。
この時代が前帝国末期だということはわかっていた。
だがそれは非常に曖昧で適当な認識だった。
えーっと、彼女が死去した時から計算するに………。
「この時代ってルオゥム戦役末期も末期ってことじゃないか!?」
「え、アドライグ?」
…………………ん、待てよ?
……聖フレイヤと一緒にもう一つ名前を聞いたような?
「リオン、さっきもう一人名前を挙げたよな?」
「紅将軍のこと?アドライグがセラエノ軍の人だったら確かに彼の方が有名だよね。彼に関しては僕もあまりよくわからないんだけど……いやいや、そんなことよりもさっきの『この時代』ってどういう意味?」
彼の言う紅龍雅というのは、まさかあの『紅帝』のことか?
母も紅帝を語る時は、あまり歯切れが良くなかったのを覚えている。
母どころか周囲の者たち、歴史書をまとめているネフェルティータ副理事長でさえも歯切れ良く語ってはくれなかったが、時々母の重臣の一人で、15歳の時に亡くなったグルジア公だけはポツリと語ってくれた。
紅帝が如何に偉大な人物であったか。
紅帝がいなければ自分はただの反逆者として史書に名を穢したであろうと、まるで血の繋がった本当の祖父のような昔を懐かしむかのように優しい口調で、過ぎ去った遠き日をまだ幼かった私に時々教えてくれた。
さて、問題なのはそこだ。
色々教えてくれたはずなのだが、困ったことに肝心な話の内容を何一つ思い出せない。
私が『紅帝』に興味がなかったのか…。
それとも本当に記憶力が悪いのか…。
出来ることなら前者であってほしい。
遷都と宗教の自由を認めたこと以外に大きな功績はなかった……と誰かに聞いたような気がしないでもないのだが、諸侯やイチゴ卿などのこの時代を生きた人々が口を開くと、誰もが口を揃えてロウガ王の悪評を面白可笑しく誇張を交えて語ったり、戦場を体験した者はダオラ夫人の比類無き武勇を語るのでどうしても紅帝に関しては印象が薄い。
「………まぁ、何とかなるだろう。リオン、帝国の旗が見えた!」
「あ、本当だ……ってアドライグ!話を聞いてないだろ!?」
リオンが何か喚いているような気がするが、馬の蹄の音でよく聞こえない。
まぁ、大したことでもないだろう。
少しだけ若き日の母の姿を見るのが怖い気もするが、今はそうも言ってられない。
さてさて、鬼が出るか蛇が出るか…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
それは、彼女の蔵書に挟まれていた一通の手紙であった。
いや、それは手紙というよりもメモであり、遺書とも呼べるであろう。
姫様、ご機嫌麗しゅう御座います。
御留学先のセラエノにおける御活躍を耳にする度に、爺は我が事の如く嬉しく思います。
突然ではありますが、姫様にこの爺の遺言を託したく存じます。
去りし日の帝国歴15年3月14日、
爺は姫様も知る『五日間の簒奪』と呼ばれる謀叛を母君様に対し起こしたのです。
結果は歴史の流れが知る通りで御座いました。
爺が遺言として残したきことは、その時のことなのです。
爺は謀叛に際し、卑怯な謀略を用いました。
姫様の親族たるリヒャルト御老公を利用し、母君様の御一族を尽く謀殺せんと謀りました。
どうか姫様、爺のこの告白をお忘れなきよう願います。
今は私が何を申しているかはわからぬでしょう。
ですが、どうかお忘れなく。
わからなくとも忘れてはなりません。
爺は姫様こそが変えてくれると信じております。
それでは姫様の益々の御健勝を祈っております。
たまには母君様に顔を見せにお戻りください。
後ルオゥム帝国警務総監 グルジア=クラミス
―――――――――――――――――――――――――――――――――
冷や汗が出た。
今の今まで完璧に忘れていたグルジア爺の訳のわからない告白を思い出し、私は何とか平静を保っていたものの、背中は冷や汗でぐっしょり濡れてしまい、体温が急激に下がっていく不快感を感じていた。
血の気が引いていくとはまさにこのことだ。
何故、今になって急に思い出した。
「あの……使者殿、顔色が優れないようですが…?」
ここは帝国軍本陣の門前。
セラエノ軍本隊の正式な使者である私を出迎えるために現れたのは騎士・キリエ=アレイソン。
私が知るキリエは実に紳士的な好感の持てる男性だったが、この時代の彼はまさに少年そのものであり、当時から侍従として母が側に置いていたことを考えると、若い頃の母の趣味というものを思わず邪推してしまう。
「い、いえ…、少し身体が冷えてしまったようで…。」
「ああ、そうでしたか。このあたりは昼と夜の気温差が激しいので、そのせいかもしれませんね。ただ今陛下は少々軍議が重なり立て込んでおります。どうぞ帷幕の中で暖かな飲み物をご用意致しますので、謁見されるまでゆっくりとお寛ぎください。」
…未来でも私の教育係だっただけあって、この当時でも何とも隙のないおもてなし。
しかし私にはゆっくりしている暇はない。
何故なら今日は3月17日。
学園が夏休みに入った頃に一度だけ、グルジア公にあの遺書のようなメモの真偽を問いただしたことがあったのだが、もう亡くなる2年くらい前の年老いた彼は、
『覚えていてくださるだけで良いのです。私が謀叛を起こした後に、かのリヒャルト老公が陛下のお側へ参りました。それを利用して私は卑怯で卑劣な振る舞いをした。それだけのことで御座います。特に深い意味は御座いません。姫様に『爺』と今尚呼んでいただける喜びの反面、そんな卑怯な振る舞いをした自分の過去が心苦しかったのです。姫様にとって私は『良き爺』でありたいと願った上の告白であります。』
と揺り椅子に揺られながら、窓から差し込む太陽の光の中で、老人らしい枯れた、それでいて暖かな微笑みを浮かべて答えてくれた。
……まぁ、私はと言うと…。
…実は何を言っていたのかわからなくて、『ふぅん』とか『へぇ』とか、曖昧でわかったフリをした受け答えをしていたような気がする。
きっとそのせいだ。
特に重要なこととは思わず、完全に忘却の彼方へ追いやってしまったのは。
グルジア公の告白を思い返してみると、3月17日の今日は彼の起こした謀叛から3日目にあたり、2日後には何らかの形で母によって鎮静化しているという計算になる。
だが、後2日で?
帝国軍本陣はまだここにあって母もまだ軍議に軍議を重ねている状況?
……間に合うのか。
…いや、間に合わせるんだ。
だが、どうやって?
フウム残党軍がセラエノ軍本隊に接近しつつあると伝えるか。
帝都は既に謀叛によって敵に寝返り、こちらのヴァルハリア軍と合流されれば非常に厄介なことに……いやいや、こんなことだけ伝えてみても無用な混乱を招くだけで、しかも運が悪く母の耳に謀叛の報がまだ届いていなければ、最悪私の方が不審者だ。
「あの、使者殿……、お加減が悪いのですか?」
「あ、気にしないでください。彼女、さっきからこの調子なんですよ。」
キリエとリオンが何か話しているが、まるで耳に入らなかった。
不味い…。
不味いぞ…?
下手したら未来が変わってしまう…!
………未来?
そうか、この手があった!!
「失礼、キリエ…殿。」
つい癖で呼び捨てにしてしまうところだった。
「か…陛下が軍議の最中だと聞きましたが、それはもしや帝都で起こった大事では?」
「な……、それをどこで…!?」
キリエと同行している兵士たちは訳のわからない顔をしている。
どうやらグルジア公の謀叛は、現段階で一部の者にしか伝わっていないらしい。
「………ということは。」
そう言って私はキリエの耳元で御老人が陛下のお側にいないかを確認した。
すると彼の顔は見る見る内に蒼褪めていく。
「やはりそうでしたか…。実は私たちはセラエノ軍ロウガ総帥の密命を帯びておりまして、詳細は直接陛下にお伝えしたいと存じます。」
別に密命ではないのだが、こうして言った方がハッタリが効く。
学生時代の悪友が教えてくれたことが、こんなところで生きるとは…。
「そ、そうでしたか…。あの、使者殿……、どうかその件は今暫しの御内密に…。近々知れ渡るとは思いますが、今は無用な動揺を招きたくないというのが陛下と総司令の御意思で御座いまして…。」
ではすぐに陛下にその旨を、と走り出そうとするキリエを私は制した。
「それには及びません。御老人、紅将軍、陛下の御三方の話に区切りが付き、御三方が揃っておられる時に、どうかお引き合わせいただけるようお願い致します。」
私の要請を受け入れて、キリエは青い顔で母の帷幕へと入って行った。
頃合を見計らって、母と私を引き合わせてくれるだろう。
そう、うろ覚えとは言え……、未来を知っているということは武器になる。
「アドライグ、今の人……もの凄い青い顔していたけど何か言ったの?」
「何、少しばかり小粋な帝国ジョークを効かせたトークをしただけだ。」
何故か不安そうな人畜無害(リオン)は放置しておいて…。
私は未来を知っているということを武器にして未来を作る。
あわよくば未来も変えてしまう。
我ながら偽者っぽいが、『予言者』として振舞うのも悪くはない。
誰もが記憶が始まった時から、その世界はたった2つの色で染められた鳥籠にいた。
どちらかが正しく、どちらかが間違っている。
2つの鳥籠に閉じ込められた鳥たちは互いを罵り、
やがてまるで自然の摂理がそうであるかのように
誰に命じられた訳でもないのに醜く争い始めた。
それが、何年も何十年も何百年も続いた。
鳥籠の中で歌う鳥たちは、
いつしか互いに傷付き、倒れ、何故互いに憎しみ合うのかわからないまま疲れていった。
大きな白い鳥が黒い鳥を憎めと教えたのだと
大きな白い鳥を見たこともないのに、その威を借る鳥は妄想(リアル)を撒き散らす。
大きな黒い鳥を美しいと感じた鳥たちは、
現在を耐え忍べば、きっと大きな黒い鳥が助けてくれると信じて抗う。
それは永遠の平行線。
だけどある日、真っ黒な狼が鳥籠を壊してしまった。
たった2つの色しか知らなかった鳥たちに、
知りたくもなかった外の世界を流し込んできた。
鳥籠から解き放たれた鳥たちが見たものは、
大きな白い鳥を信じる鳥たちも、
大きな黒い鳥を信じる鳥たちも、
まったく同じで、お互いを罵り合って殺し合う必要もなかったという現実が広がっていた。
あの黒い狼は行ってしまった。
まったく同一の存在だとお互いに認識出来た世界で、
『僕ら』がどうすれば良いのかを教えてくれないままに。
大きな白い鳥よりも、大きな黒い鳥よりも
あの黒い狼は優しくはなかった。
私・アドライグはロウガ王の命により、クスコ川流域に本陣を構える神聖ルオゥム帝国軍、若き日の皇帝ノエル=ルオゥム……私を知らない母の下へと馬に跨り向かっている。
朝の内にムルアケを出たというのに、気が付けばもう夕暮れだ。
補給基地としてムルアケ街道のセラエノ軍本陣の位置が絶妙な位置関係であるとはいえ、この距離を近いかと問われれば、私は遠いと答えざるを得ないであろう。
もう少しだ。
後はこのクスコ川を遡って行けば辿り着く。
「ロウガ総帥も無茶苦茶だね。僕ら二人で援軍要請に行って来いってさ。」
隣で一緒に馬を並べて走るのはリオン=ファウスト。
ロウガ王が私に命じたのは、神聖ルオゥム帝国本陣への援軍要請。
ただ私一人では不安であるとして、最近一緒に組まされていることが多いリオンに私の護衛と道中の供を命じ、たった2騎で夕闇の最前線を駆け抜ける。
「そもそも援軍要請って敵が近いってことだよね。おかしいなぁ……、セラエノの兵たちの間にも近々戦闘になるって話もなかったから、てっきりフウム残党と戦闘になるのはもっと先だと思っていたのになぁ。」
「……直属の密偵でも使ったんじゃないかな?」
リオンの疑問に、私は在り来たりな答えを出した。
在り来たりすぎて面白くないと思っていたのだが、リオンもそれで納得した。
脳裏にキリア=ミーナの顔が浮かぶ。
リオンから聞いたフウム残党軍の話から統合しても、彼らは軍としての強さは然程問題とする程度ではないようなのだが、そこにキリア=ミーナのような規格外の化け物が加わるというだけで無力な群れも、一人一人が勇気付けられ予想外な力を発揮するのだという。
数々の戦争を体験した母からの受け売り。
そのことに急に不安な気持ちになっていき、私は深い溜息を吐いて空を見上げた。
もうすぐ太陽が沈む。
辺境の荒野が赤く染まっていく。
ふと気が付くと、対岸に生い茂る木々の切れ目から陣が構えられているのが見えた。
旗印から見るに、あれがかつて母が戦っていたというヴァルハリア軍なのだろう。
不気味なくらいに静かだ。
「…………リオン、懐かしい?」
どこか遠い目をして、対岸のヴァルハリア軍をリオンが見ていた。
リオンは教会騎士だった。
そのことを思い出した私は、そっと彼に問いかけた。
「……懐かしくないと言えば嘘になるかな。まさかこんな形でここに帰って来るとは思っていなかったし、僕が騎士団を抜ける時にはこんな戦況になっているなんてことも考えもしなかった。」
リオンはポツポツと言葉を繋いだ。
彼が騎士団を辞めた時点では、ヴァルハリア軍はここまで追い詰められてはいなかったらしい。
しかし、クスコ川にある男が現れてから戦況は劇的に変化した。
「紅龍雅って言う将軍だよ。あの人が帝国軍に援軍に来てから、ヴァルハリアもフウムも彼の手の平で踊るように良いようにやられてね。彼と二言三言会話出来たんだけど、それがきっかけで僕は自分の在り方に疑問を持って……死んだフレイヤ先輩のように自分の殻を破りたくて騎士団を辞めたんだ。」
………今、凄い名前が聞こえた気がする。
「リオン、フレイヤ先輩というのは……、まさかヴァル=フレイヤという方じゃ…?」
「アドライグも知ってた?そっか、アドライグはセラエノの人だったね。それじゃあ、フレイヤ先輩の名前も知ってておかしくないか。」
私は何とか平静を保ちながらリオンに笑い返したのだが、内心冷や汗と激しく早鐘を打つ心臓を抑え付けるのに必死になっていた。
リオンがヴァルハリア教会騎士団だったという情報から察しておくべきだった。
まさか……、まさかあの聖騎士ヴァル=フレイヤと、このまったく頼りない自称元教会騎士というリオン=ファウストと言う人畜無害っぽい生物が、同じ時期の人物だったとかこれっぽっちも思いもしなかった…!
聖フレイヤの話なら、セラエノにいた時に散々本で読んだ。
厳格な皇帝である母とセラエノ戦役を生き残った人々の武勇伝を聞き親しんだ少女時代の私は、同じ女性として特に聖フレイヤに憧れを持ち、とにかくボロボロになるまで彼女に関する伝記を読み漁った結果、教科書の歴史はうろ覚えで非常にあやふやではあっても、聖フレイヤを当てはめることで多少の歴史の流れはほぼ正確に理解出来るようになる。
つまりだ。
そのことから導き出すに、この時代のことがようやく頭の中でまとまってきた。
この時代が前帝国末期だということはわかっていた。
だがそれは非常に曖昧で適当な認識だった。
えーっと、彼女が死去した時から計算するに………。
「この時代ってルオゥム戦役末期も末期ってことじゃないか!?」
「え、アドライグ?」
…………………ん、待てよ?
……聖フレイヤと一緒にもう一つ名前を聞いたような?
「リオン、さっきもう一人名前を挙げたよな?」
「紅将軍のこと?アドライグがセラエノ軍の人だったら確かに彼の方が有名だよね。彼に関しては僕もあまりよくわからないんだけど……いやいや、そんなことよりもさっきの『この時代』ってどういう意味?」
彼の言う紅龍雅というのは、まさかあの『紅帝』のことか?
母も紅帝を語る時は、あまり歯切れが良くなかったのを覚えている。
母どころか周囲の者たち、歴史書をまとめているネフェルティータ副理事長でさえも歯切れ良く語ってはくれなかったが、時々母の重臣の一人で、15歳の時に亡くなったグルジア公だけはポツリと語ってくれた。
紅帝が如何に偉大な人物であったか。
紅帝がいなければ自分はただの反逆者として史書に名を穢したであろうと、まるで血の繋がった本当の祖父のような昔を懐かしむかのように優しい口調で、過ぎ去った遠き日をまだ幼かった私に時々教えてくれた。
さて、問題なのはそこだ。
色々教えてくれたはずなのだが、困ったことに肝心な話の内容を何一つ思い出せない。
私が『紅帝』に興味がなかったのか…。
それとも本当に記憶力が悪いのか…。
出来ることなら前者であってほしい。
遷都と宗教の自由を認めたこと以外に大きな功績はなかった……と誰かに聞いたような気がしないでもないのだが、諸侯やイチゴ卿などのこの時代を生きた人々が口を開くと、誰もが口を揃えてロウガ王の悪評を面白可笑しく誇張を交えて語ったり、戦場を体験した者はダオラ夫人の比類無き武勇を語るのでどうしても紅帝に関しては印象が薄い。
「………まぁ、何とかなるだろう。リオン、帝国の旗が見えた!」
「あ、本当だ……ってアドライグ!話を聞いてないだろ!?」
リオンが何か喚いているような気がするが、馬の蹄の音でよく聞こえない。
まぁ、大したことでもないだろう。
少しだけ若き日の母の姿を見るのが怖い気もするが、今はそうも言ってられない。
さてさて、鬼が出るか蛇が出るか…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
それは、彼女の蔵書に挟まれていた一通の手紙であった。
いや、それは手紙というよりもメモであり、遺書とも呼べるであろう。
姫様、ご機嫌麗しゅう御座います。
御留学先のセラエノにおける御活躍を耳にする度に、爺は我が事の如く嬉しく思います。
突然ではありますが、姫様にこの爺の遺言を託したく存じます。
去りし日の帝国歴15年3月14日、
爺は姫様も知る『五日間の簒奪』と呼ばれる謀叛を母君様に対し起こしたのです。
結果は歴史の流れが知る通りで御座いました。
爺が遺言として残したきことは、その時のことなのです。
爺は謀叛に際し、卑怯な謀略を用いました。
姫様の親族たるリヒャルト御老公を利用し、母君様の御一族を尽く謀殺せんと謀りました。
どうか姫様、爺のこの告白をお忘れなきよう願います。
今は私が何を申しているかはわからぬでしょう。
ですが、どうかお忘れなく。
わからなくとも忘れてはなりません。
爺は姫様こそが変えてくれると信じております。
それでは姫様の益々の御健勝を祈っております。
たまには母君様に顔を見せにお戻りください。
後ルオゥム帝国警務総監 グルジア=クラミス
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冷や汗が出た。
今の今まで完璧に忘れていたグルジア爺の訳のわからない告白を思い出し、私は何とか平静を保っていたものの、背中は冷や汗でぐっしょり濡れてしまい、体温が急激に下がっていく不快感を感じていた。
血の気が引いていくとはまさにこのことだ。
何故、今になって急に思い出した。
「あの……使者殿、顔色が優れないようですが…?」
ここは帝国軍本陣の門前。
セラエノ軍本隊の正式な使者である私を出迎えるために現れたのは騎士・キリエ=アレイソン。
私が知るキリエは実に紳士的な好感の持てる男性だったが、この時代の彼はまさに少年そのものであり、当時から侍従として母が側に置いていたことを考えると、若い頃の母の趣味というものを思わず邪推してしまう。
「い、いえ…、少し身体が冷えてしまったようで…。」
「ああ、そうでしたか。このあたりは昼と夜の気温差が激しいので、そのせいかもしれませんね。ただ今陛下は少々軍議が重なり立て込んでおります。どうぞ帷幕の中で暖かな飲み物をご用意致しますので、謁見されるまでゆっくりとお寛ぎください。」
…未来でも私の教育係だっただけあって、この当時でも何とも隙のないおもてなし。
しかし私にはゆっくりしている暇はない。
何故なら今日は3月17日。
学園が夏休みに入った頃に一度だけ、グルジア公にあの遺書のようなメモの真偽を問いただしたことがあったのだが、もう亡くなる2年くらい前の年老いた彼は、
『覚えていてくださるだけで良いのです。私が謀叛を起こした後に、かのリヒャルト老公が陛下のお側へ参りました。それを利用して私は卑怯で卑劣な振る舞いをした。それだけのことで御座います。特に深い意味は御座いません。姫様に『爺』と今尚呼んでいただける喜びの反面、そんな卑怯な振る舞いをした自分の過去が心苦しかったのです。姫様にとって私は『良き爺』でありたいと願った上の告白であります。』
と揺り椅子に揺られながら、窓から差し込む太陽の光の中で、老人らしい枯れた、それでいて暖かな微笑みを浮かべて答えてくれた。
……まぁ、私はと言うと…。
…実は何を言っていたのかわからなくて、『ふぅん』とか『へぇ』とか、曖昧でわかったフリをした受け答えをしていたような気がする。
きっとそのせいだ。
特に重要なこととは思わず、完全に忘却の彼方へ追いやってしまったのは。
グルジア公の告白を思い返してみると、3月17日の今日は彼の起こした謀叛から3日目にあたり、2日後には何らかの形で母によって鎮静化しているという計算になる。
だが、後2日で?
帝国軍本陣はまだここにあって母もまだ軍議に軍議を重ねている状況?
……間に合うのか。
…いや、間に合わせるんだ。
だが、どうやって?
フウム残党軍がセラエノ軍本隊に接近しつつあると伝えるか。
帝都は既に謀叛によって敵に寝返り、こちらのヴァルハリア軍と合流されれば非常に厄介なことに……いやいや、こんなことだけ伝えてみても無用な混乱を招くだけで、しかも運が悪く母の耳に謀叛の報がまだ届いていなければ、最悪私の方が不審者だ。
「あの、使者殿……、お加減が悪いのですか?」
「あ、気にしないでください。彼女、さっきからこの調子なんですよ。」
キリエとリオンが何か話しているが、まるで耳に入らなかった。
不味い…。
不味いぞ…?
下手したら未来が変わってしまう…!
………未来?
そうか、この手があった!!
「失礼、キリエ…殿。」
つい癖で呼び捨てにしてしまうところだった。
「か…陛下が軍議の最中だと聞きましたが、それはもしや帝都で起こった大事では?」
「な……、それをどこで…!?」
キリエと同行している兵士たちは訳のわからない顔をしている。
どうやらグルジア公の謀叛は、現段階で一部の者にしか伝わっていないらしい。
「………ということは。」
そう言って私はキリエの耳元で御老人が陛下のお側にいないかを確認した。
すると彼の顔は見る見る内に蒼褪めていく。
「やはりそうでしたか…。実は私たちはセラエノ軍ロウガ総帥の密命を帯びておりまして、詳細は直接陛下にお伝えしたいと存じます。」
別に密命ではないのだが、こうして言った方がハッタリが効く。
学生時代の悪友が教えてくれたことが、こんなところで生きるとは…。
「そ、そうでしたか…。あの、使者殿……、どうかその件は今暫しの御内密に…。近々知れ渡るとは思いますが、今は無用な動揺を招きたくないというのが陛下と総司令の御意思で御座いまして…。」
ではすぐに陛下にその旨を、と走り出そうとするキリエを私は制した。
「それには及びません。御老人、紅将軍、陛下の御三方の話に区切りが付き、御三方が揃っておられる時に、どうかお引き合わせいただけるようお願い致します。」
私の要請を受け入れて、キリエは青い顔で母の帷幕へと入って行った。
頃合を見計らって、母と私を引き合わせてくれるだろう。
そう、うろ覚えとは言え……、未来を知っているということは武器になる。
「アドライグ、今の人……もの凄い青い顔していたけど何か言ったの?」
「何、少しばかり小粋な帝国ジョークを効かせたトークをしただけだ。」
何故か不安そうな人畜無害(リオン)は放置しておいて…。
私は未来を知っているということを武器にして未来を作る。
あわよくば未来も変えてしまう。
我ながら偽者っぽいが、『予言者』として振舞うのも悪くはない。
12/09/16 23:40更新 / 宿利京祐
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