第五話・すべてはここから始まる
史書に曰く。
人類、魔物、この地上に生きるおよそすべて知的生命体はたった二人の英雄によって、その意識と認識と思考の方向性を変えられたとされている。
紅龍雅によって人間も魔物も互いに愛し合い、敵対する者同士であっても心を通わせれば、これ以上にない隣人として共存共栄出来るのだという『王道』が照らされた。
これには侵略と言う手段でしか、人々を手に入れられなかった多くの魔物国家にも強い影響を与え、後の人間と魔物とのあり方を大きく変え、
「後悔しても遅いが、もしも人間が我々に対し剣ではなく、言葉と心を用いてくれたなら、私も悪名を轟かさずに済んだのではないだろうか。」
と言う言葉を残した魔界国家の元首も存在したという。
そして、もう一人。
『王道』を残した英雄とは真逆に、『魔道』を以って人々に影響を与えた男がいた。
紅龍雅を『友愛の英雄』とするならば、その男は『殺戮の王』と呼ぶに相応しく、歴史上初めて人々に対して剥き出しの感情を要求し、偽善を嫌い、盲目的な主神信仰と盲目的な魔王信奉を嫌い、二元論に染まった時代に対して剣を抜いた反英雄として名を残す。
一見すれば暴虐、邪悪なる反逆者であると当時の多くの史書は語るのだが、男の行為は結果として後世において、現代社会に繋がる宗教から離れた新しい価値観を形成し、反魔物国家と親魔物国家間の和睦や親交など、この当時の人々には考えも付かなかったであろう時代が訪れる原因を作るのである。
それが真の平和と呼べるものであるかは不明であるが…。
そんな未来を呼び込む者。
人の身でありながら、邪悪なる王『魔王』の称号を与えられた反英雄。
異邦人、沢木狼牙。
同じく異邦人たるリザードマン、アドライグ。
二人の英雄の触れて、激動の時代を駆け抜ける。
昨夜、懐かしい夢を見た。
私は幼い子供で、真っ暗な闇の中を泣きながら歩いていた。
帰り道もわからない。
母を呼んでも返事はない。
暗闇が怖かった。
孤独が怖かった。
それは、今も変わらない…。
怖くて、悲しくて……。
泣き続けていると、暗闇の向こうから小さな灯りが私の方へと向かってくる。
息を切らせてやってきたのは、私を探しに来た母だった。
母の姿に安堵して私は抱き付いた。
………母とは別に誰かがいたような気がする。
その人は何も語らないけれど、柔らかな空気を持っていた。
そして私の髪を優しく撫でてくれて、母と一緒に手を引いてくれた。
歌っている。
母とその人が歌っている。
優しい歌。
綺麗な声。
ああ、この歌は知っている。
母が歌ってくれた子守唄だ。
そこで私の意識は途切れてしまうのだ。
優しい子守唄に抱かれながら、現実の世界へと帰っていく。
ああ、それにしても……。
この美しい歌声の主は誰だっただろうか…。
思い出せない。
「子供の頃の記憶?」
そう言ってリオン=ファウストは淹れたてのコーヒーを渡しながら疑問を口にした。
私・アドライグとリオンは何故かあの日以降、同じ組で軍事演習も食事当番も一緒にされるようになり、こうして夜の見張り番も二人一組で組まれるようになった。
「子供の頃、確かにそんな風に城…いや家を抜け出したことがある。」
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、私は昔を思い出すようにリオンに答えた。
まだ熱いコーヒーを啜ると、熱さで舌が痺れる。
猫舌というのは、こういう時に厄介なものだ。
「夢のことはここまでにしよう。私自身、答えが出ないから面白くも何ともない。それより君のことを教えてほしいな。リオンが教会騎士団ではどんなをしていたのか興味があるね。」
「……聞いても面白くないよ。」
僕は裏切り者だった、とリオンは言葉を切り出した。
「僕がヴァルハリア教会に身を置いていた理由は……、教会に身を置くことによって教会の内部から変えていきたかった。理由もなく、ただ種族が違うからというだけで殺し合う世界…。そんなものに嫌気が差していたんだ。でも結果はご覧の通りだよ。僕は何も変えられなく、ただ魔物やその愛する人たちの討伐任務で団員たちの目を盗んで、ほんの一握りの人々を逃がしていただけ。」
リオンは寂しそうな笑顔を浮かべた。
彼の気持ちがわからないでもない。
私の時代でも、未だに人々は人間だ魔物だと拘っている。
私は彼らと何ら変わりはないというのに。
母が再興した後ルオゥム帝国や学園都市セラエノの影響力があるとは言え、多くの反魔物国家はその態度を強硬に保ち、親魔物国家もある意味では反魔物と同じスタンスを保ち、また多くの中立国はその時々で反魔物か親魔物かの強い影響力を受け、不安定にゆらゆらと揺れ動いている。
ああ、そうか。
私がこんなにも無気力に学園生活を送った理由。
そんな世界に嫌気が差していたのかもしれない。
でもリオンにあって、私になかったもの。
それは大なり小なり、そんな世界を変えてやるという強い心。
コーヒーを啜りながら、私はあまりの情けなさに内心、自分に溜息を吐いて、何も見えない夜の闇を諦めにも似た遠い目で眺めていた。
「逃がしてあげられるだけで、何の支援もしてあげられなかった。僕の生まれがもしも高い身分であったなら、もっとたくさんのことを出来たんじゃないかって時々考えたよ。」
「リオン、それはないと思うよ。もしも君の言う高い身分の出身であったなら…、君は彼ら同様に無意味に魔物を憎み、盲目的な信仰を何の疑いもなく受け入れて、ただ魔物を効率的に殺すためだけの機械に成り下がっていたと思う。」
少なくとも、この時代ではそうなっていたかもしれない。
私も歴史学は得意な方ではない。
ほとんどの知識はうろ覚え。
それも適当に授業を聞き流しただけの怪しい歴史だ。
だが、そんな怪しい知識でもこの時代の教会勢力の状況は知っている。
遥か昔滅んだはずのレス……レス…そう、レスカティエ教団。
あの教団の教えを頑なに死守しようと何百年もの長い間、たくさんの亜流が生まれたらしい。
これは元教会勢力側だった母からの受け売りだ。
もっともたくさん生まれた亜流は所詮亜流であったらしく、それぞれが自らを正統と言って譲らず、教会及び教団同士で対立を繰り返しては互いを異端邪教と罵り続けてきたのだという。
ヴァルハリア教会のように800年以上もの間、周辺諸国に影響を与え続けている教団は珍しい例であり、あまりに長く人々を宗教で支配しすぎたために、彼らの影響力があまりに強すぎたために、『ヴァルハリア教会圏』と呼ばれた私たちの生きる辺境地域では『人間』が腐敗した。
そう母は語っていた。
あの頃は母が何を言っていたのかわからなかった。
でも、こうしてこの時代に迷い込んで初めてわかった気がする。
『人間』の腐敗とは、神やその代行者たる宗教にすべてを委ねてしまい、罪も喜びも悲しみも何もかも、人間らしい感情そのものに恐れを抱いて、何も考えない木偶人形に人々が成り下がることを言うのだと思う。
……いや、それは私たちにも言えるのかもしれない。
そんな時代だからこそ、魔王軍や強大な力による変革に縋っている。
大乱の治まった私の時代でも……、そんな思いは確かに存在している。
「……アドライグ、大丈夫?」
考え込み、黙り込んでしまった私の顔をリオンが心配そうに覗いていた。
「ごめん、心配を掛けた。」
「…僕こそごめん。君に、リザードマンの君にこんな話を聞かせてしまって無神経だった。」
彼は何やら勘違いをしている。
それにしても当時の教会騎士だったというのが嘘のように良い男だ。
こんな男が教会領に生まれ、この様に育ったのが奇跡のように思える。
「……じゃあ、リオン。お詫びをしてもらおうかな。」
「うぅ…、お手柔らかに…。」
顔を引き攣らせるリオン。
そんな顔に、私は何故か苛めたいという欲求が沸々と湧き上がる。
「君が何故教会領に生まれながら魔物を助けるのか…。私の推理だと、さては初恋の女性は人間じゃなかったんじゃないかな。そのあたりを私へのお詫びとして、誠心誠意包み隠さず吐いてもらおうじゃないか。」
その瞬間、ボンッという音がするくらいにリオンの顔が赤くなる。
見ていて面白い。
純粋な男は、何度弄っても飽きないものだ。
「ア、アドライグ…、ちょっと……笑顔が怖いよ…?」
「お姉さんの笑顔のどこが怖いんだい、リオン。」
最近は見張りの時間が楽しい。
時折リオンは『助けてよレオン』とか冷や汗と一緒に奇妙な独り言を呟くが、そんな少し妙なところも彼の個性として見れる私がいるのである。
セラエノにいた頃には、こんなことはなかった。
どうしてだろう…。
この時代にやって来て、心が揺れ動いてばかりだ。
それが苦痛ではない。
何より、私はこの変化を嫌だと思ってはいない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
ロウガの朝は早い。
基本的に年寄りの朝は早い、などとよく言われるものだが、ロウガの朝はまさしくその年寄りの朝らしく、とにかく早いのである。
ロウガの帷幕に設置されたお気に入りの機械時計は朝4時を指している。
どんなにアスティアとの激しい契りを結ぼうと、基本的にロウガはこの時間には顔を洗い終えて、再び伸ばし始めた顎鬚を整え、陣中見回りという名目で行う趣味の早朝散歩の準備を整えている。
そしてアスティアもそんなロウガに従うように、同じ時間には頭も身体も目覚めている。
彼と一緒に早朝散歩を楽しむのが日課になっているのであるが、その日の朝はロウガの髷を整えるべく、アスティアは優しく柔らかな眼差しで丁寧に丁寧に、ベッドに腰掛けるロウガの長い白髪に櫛を入れながら、ゆったりとした早朝の静かな時間を楽しんでいた。
昨夜も二人は身体を重ねていたのだろう。
帷幕の中にはロウガが珍しく、遥々東方から取り寄せたという香の煙が漂ってはいたものの性交特有の汗と香りに打ち消され、白い肌襦袢を羽織ったロウガはともかく、ほんのりと桜色に染まった柔肌にしっとりとした汗がランプの灯りで真珠の如く輝く一糸纏わぬアスティアの姿をもしも見た者は、きっとこのロウガ好みの簡素な帷幕を天女の舞う桃源郷と錯覚し、戦場という特殊な条件下に衰弱し切った心と脳漿を蕩けさせる香の煙と魔性なる淫靡な香りは、羽化登仙の境地へと知らず知らずの内に誘うのであろう。
「ロウガ、君はあの娘の語る未来を信じたのかい?」
魔性の桃源郷、おぼろげなランプの頼りない灯りの中、アスティアはロウガの髪を梳きながら、アドライグが語った未来世界のことを彼に尋ねた。
その中には、ロウガを『魔王』と呼ぶ未来が存在している。
「あぁ……アレかぁ…。」
ロウガは今思い出したかのような口調でぼんやりと呟いた。
「ま、予想は付いていた。」
「君が『魔王』なんて呼ばれる未来を信じる?」
ロウガはゆっくりと首を縦に振って肯定する。
予想は確信に変わった、とロウガは言った。
「アスティア、俺は何だ?」
「学園都市セラエノ軍総帥にして、セラエノ学園学園長。」
意地悪な口調でアスティアはロウガを表現した。
だがすぐに背後から優しく、そっと抱き締めて、傷だらけの尻尾をダラリと力なく下がるロウガの右腕に絡めて、ロウガの耳元に口を寄せ、少しだけ甘えた声で囁いた。
「ロウガは、私のロウガだよ。」
「ありがとう、アスティア。」
抱き締める手にそっとロウガは自分の手を重ねる。
二人の愛情の深さが伺える仕草である。
「平行世界の迷子、同一なる者というのも俺を表す言葉かもしれん。だがそれもあくまでお前にとって、もしくはネフィーや仲間たちにとっての俺を表現するものだ。」
それ以上に悪名の方が一人歩きしている、とロウガは言う。
「反魔、教会、主神論者にとっての俺は『神敵』だ。あの娘の言う20年後ならば、俺はすでにこの世にはおるまい。インキュバスに成り損ねた、喫煙習慣が大病を引き起こした。大方そんなとこだろう。あの娘が俺と直接面識がないのも、学園長の名にサクラを挙げたのが良い証拠だ。俺はあの娘の20年後までに相当酷いことをやったのだろう。それが俺が死んだ後も敵として憎しみを忘れたくない敵対者たちや……うちのイチゴたちの口を借りて大袈裟に語りまくったんだろうな。」
辛辣な噂が一人歩きし、イチゴたちの調子に乗りに乗った馬鹿馬鹿しい程の誇張表現を加えて、ロウガは真の魔王を差し置いて、人間の身でありながらいつの間にか『魔王』にされたのだろう、と自らの未来を予想していた。
「……そうかもしれないね。」
ロウガの推測に否定し切れないアスティアは苦笑いを浮かべながら頷いた。
「ああ、そうかもしれない。」
ロウガもまた確信するように、静かに抱き締めるアスティアと手を重ねる。
「そうかもしれない。でも…。」
母のように慈愛に満ちた声で、アスティアはロウガに語り掛けた。
「未来は変わるよ。きっと本来いないはずの役者が舞台に上がっている。アドライグという娘が、君の『魔王』という最悪の未来を教えてくれた。私の役目はロウガの傍に侍り、君が『魔王』と呼ばれる未来を一つずつ潰していくことなんだと思う。」
「もしも……、お前が望まぬ未来が回避出来ないとすれば?」
優しく、それでいて力強くアスティアは答えた。
「その時は、ロウガと一緒に悪名に塗れよう。」
それが自分の運命を拾い上げたロウガへのアスティアなりの愛情。
ロウガの鋭利な守護刀であり、堅牢なる楯であり、永遠なる慈愛の楽園。
それこそがアスティアと戦い、多大な代償を払って彼女を救ったロウガに対する妻としての自分の役目であると、アスティアは心から信じている。
そんな彼女の心根を知っているロウガは彼女を安心させるように語り掛けた。
「お前に、そんなことはさせないさ。」
魔王の妻など似合わない、と言ってロウガも自らの未来を回避する努力を約束した。
その時、ロウガの頭に本拠地である学園都市セラエノに残してきた彼の第二夫人であるアヌビスのネフェルティータの声が響き、フウム王国残党軍2000の兵が接近して来ているという通信が送られてきた。
魔王軍より送られた魔道具による通信である。
ロウガ自身には返事を返す能力がない。
そのためにこの通信はネフェルティータによる一方通行で行われ、ロウガはその報告を元に間者を放ったり、クスコ川流域に陣取る神聖ルオゥム帝国軍に合流している援軍総大将・紅龍雅との連携を模索したりを考えるのである。
ネフェルティータの報告が終わり、その声が途切れるとロウガは、彼を抱き締めるアスティアの腕をゆっくりと外し、しっかりと顔を向き合わせて楽しそうな顔をして言い放った。
「アスティア、戦さを始めるぞ。」
そんなロウガの顔を見て、アスティアはどこか懐かしさを感じていた。
夏の野山を駆け回る少年のような煌く笑顔。
どこかで見たようなロウガの顔を見ていると、アスティアも何故か楽しいと感じられるような気がして、そんな自分に困ったりしたものの、爽やかな微笑を浮かべてロウガの言葉に応えた。
「ああ、始めようか。」
彼女は無意識に『ロウガ』を『カズサ』と呼んだ。
彼女の中に生きる『遥か彼方の記憶』が静かに猛っている。
それを聞いてロウガも『アスティア』を『綾乃』と呼ぶ。
遥か遠い過去に思いを馳せ、いつか夢見た時代を勝ち取るため、
ロウガとアスティアは惰性と妄信の停滞した世界へと、
二人は猛る思いのままに剣を取り、反逆の狼煙を上げるのである。
その最初の命令。
それが一つの時代を築き上げるとは誰も気付いてはいなかった。
「誰かある、至急アドライグを我が下へ呼び出せ!」
人類、魔物、この地上に生きるおよそすべて知的生命体はたった二人の英雄によって、その意識と認識と思考の方向性を変えられたとされている。
紅龍雅によって人間も魔物も互いに愛し合い、敵対する者同士であっても心を通わせれば、これ以上にない隣人として共存共栄出来るのだという『王道』が照らされた。
これには侵略と言う手段でしか、人々を手に入れられなかった多くの魔物国家にも強い影響を与え、後の人間と魔物とのあり方を大きく変え、
「後悔しても遅いが、もしも人間が我々に対し剣ではなく、言葉と心を用いてくれたなら、私も悪名を轟かさずに済んだのではないだろうか。」
と言う言葉を残した魔界国家の元首も存在したという。
そして、もう一人。
『王道』を残した英雄とは真逆に、『魔道』を以って人々に影響を与えた男がいた。
紅龍雅を『友愛の英雄』とするならば、その男は『殺戮の王』と呼ぶに相応しく、歴史上初めて人々に対して剥き出しの感情を要求し、偽善を嫌い、盲目的な主神信仰と盲目的な魔王信奉を嫌い、二元論に染まった時代に対して剣を抜いた反英雄として名を残す。
一見すれば暴虐、邪悪なる反逆者であると当時の多くの史書は語るのだが、男の行為は結果として後世において、現代社会に繋がる宗教から離れた新しい価値観を形成し、反魔物国家と親魔物国家間の和睦や親交など、この当時の人々には考えも付かなかったであろう時代が訪れる原因を作るのである。
それが真の平和と呼べるものであるかは不明であるが…。
そんな未来を呼び込む者。
人の身でありながら、邪悪なる王『魔王』の称号を与えられた反英雄。
異邦人、沢木狼牙。
同じく異邦人たるリザードマン、アドライグ。
二人の英雄の触れて、激動の時代を駆け抜ける。
昨夜、懐かしい夢を見た。
私は幼い子供で、真っ暗な闇の中を泣きながら歩いていた。
帰り道もわからない。
母を呼んでも返事はない。
暗闇が怖かった。
孤独が怖かった。
それは、今も変わらない…。
怖くて、悲しくて……。
泣き続けていると、暗闇の向こうから小さな灯りが私の方へと向かってくる。
息を切らせてやってきたのは、私を探しに来た母だった。
母の姿に安堵して私は抱き付いた。
………母とは別に誰かがいたような気がする。
その人は何も語らないけれど、柔らかな空気を持っていた。
そして私の髪を優しく撫でてくれて、母と一緒に手を引いてくれた。
歌っている。
母とその人が歌っている。
優しい歌。
綺麗な声。
ああ、この歌は知っている。
母が歌ってくれた子守唄だ。
そこで私の意識は途切れてしまうのだ。
優しい子守唄に抱かれながら、現実の世界へと帰っていく。
ああ、それにしても……。
この美しい歌声の主は誰だっただろうか…。
思い出せない。
「子供の頃の記憶?」
そう言ってリオン=ファウストは淹れたてのコーヒーを渡しながら疑問を口にした。
私・アドライグとリオンは何故かあの日以降、同じ組で軍事演習も食事当番も一緒にされるようになり、こうして夜の見張り番も二人一組で組まれるようになった。
「子供の頃、確かにそんな風に城…いや家を抜け出したことがある。」
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、私は昔を思い出すようにリオンに答えた。
まだ熱いコーヒーを啜ると、熱さで舌が痺れる。
猫舌というのは、こういう時に厄介なものだ。
「夢のことはここまでにしよう。私自身、答えが出ないから面白くも何ともない。それより君のことを教えてほしいな。リオンが教会騎士団ではどんなをしていたのか興味があるね。」
「……聞いても面白くないよ。」
僕は裏切り者だった、とリオンは言葉を切り出した。
「僕がヴァルハリア教会に身を置いていた理由は……、教会に身を置くことによって教会の内部から変えていきたかった。理由もなく、ただ種族が違うからというだけで殺し合う世界…。そんなものに嫌気が差していたんだ。でも結果はご覧の通りだよ。僕は何も変えられなく、ただ魔物やその愛する人たちの討伐任務で団員たちの目を盗んで、ほんの一握りの人々を逃がしていただけ。」
リオンは寂しそうな笑顔を浮かべた。
彼の気持ちがわからないでもない。
私の時代でも、未だに人々は人間だ魔物だと拘っている。
私は彼らと何ら変わりはないというのに。
母が再興した後ルオゥム帝国や学園都市セラエノの影響力があるとは言え、多くの反魔物国家はその態度を強硬に保ち、親魔物国家もある意味では反魔物と同じスタンスを保ち、また多くの中立国はその時々で反魔物か親魔物かの強い影響力を受け、不安定にゆらゆらと揺れ動いている。
ああ、そうか。
私がこんなにも無気力に学園生活を送った理由。
そんな世界に嫌気が差していたのかもしれない。
でもリオンにあって、私になかったもの。
それは大なり小なり、そんな世界を変えてやるという強い心。
コーヒーを啜りながら、私はあまりの情けなさに内心、自分に溜息を吐いて、何も見えない夜の闇を諦めにも似た遠い目で眺めていた。
「逃がしてあげられるだけで、何の支援もしてあげられなかった。僕の生まれがもしも高い身分であったなら、もっとたくさんのことを出来たんじゃないかって時々考えたよ。」
「リオン、それはないと思うよ。もしも君の言う高い身分の出身であったなら…、君は彼ら同様に無意味に魔物を憎み、盲目的な信仰を何の疑いもなく受け入れて、ただ魔物を効率的に殺すためだけの機械に成り下がっていたと思う。」
少なくとも、この時代ではそうなっていたかもしれない。
私も歴史学は得意な方ではない。
ほとんどの知識はうろ覚え。
それも適当に授業を聞き流しただけの怪しい歴史だ。
だが、そんな怪しい知識でもこの時代の教会勢力の状況は知っている。
遥か昔滅んだはずのレス……レス…そう、レスカティエ教団。
あの教団の教えを頑なに死守しようと何百年もの長い間、たくさんの亜流が生まれたらしい。
これは元教会勢力側だった母からの受け売りだ。
もっともたくさん生まれた亜流は所詮亜流であったらしく、それぞれが自らを正統と言って譲らず、教会及び教団同士で対立を繰り返しては互いを異端邪教と罵り続けてきたのだという。
ヴァルハリア教会のように800年以上もの間、周辺諸国に影響を与え続けている教団は珍しい例であり、あまりに長く人々を宗教で支配しすぎたために、彼らの影響力があまりに強すぎたために、『ヴァルハリア教会圏』と呼ばれた私たちの生きる辺境地域では『人間』が腐敗した。
そう母は語っていた。
あの頃は母が何を言っていたのかわからなかった。
でも、こうしてこの時代に迷い込んで初めてわかった気がする。
『人間』の腐敗とは、神やその代行者たる宗教にすべてを委ねてしまい、罪も喜びも悲しみも何もかも、人間らしい感情そのものに恐れを抱いて、何も考えない木偶人形に人々が成り下がることを言うのだと思う。
……いや、それは私たちにも言えるのかもしれない。
そんな時代だからこそ、魔王軍や強大な力による変革に縋っている。
大乱の治まった私の時代でも……、そんな思いは確かに存在している。
「……アドライグ、大丈夫?」
考え込み、黙り込んでしまった私の顔をリオンが心配そうに覗いていた。
「ごめん、心配を掛けた。」
「…僕こそごめん。君に、リザードマンの君にこんな話を聞かせてしまって無神経だった。」
彼は何やら勘違いをしている。
それにしても当時の教会騎士だったというのが嘘のように良い男だ。
こんな男が教会領に生まれ、この様に育ったのが奇跡のように思える。
「……じゃあ、リオン。お詫びをしてもらおうかな。」
「うぅ…、お手柔らかに…。」
顔を引き攣らせるリオン。
そんな顔に、私は何故か苛めたいという欲求が沸々と湧き上がる。
「君が何故教会領に生まれながら魔物を助けるのか…。私の推理だと、さては初恋の女性は人間じゃなかったんじゃないかな。そのあたりを私へのお詫びとして、誠心誠意包み隠さず吐いてもらおうじゃないか。」
その瞬間、ボンッという音がするくらいにリオンの顔が赤くなる。
見ていて面白い。
純粋な男は、何度弄っても飽きないものだ。
「ア、アドライグ…、ちょっと……笑顔が怖いよ…?」
「お姉さんの笑顔のどこが怖いんだい、リオン。」
最近は見張りの時間が楽しい。
時折リオンは『助けてよレオン』とか冷や汗と一緒に奇妙な独り言を呟くが、そんな少し妙なところも彼の個性として見れる私がいるのである。
セラエノにいた頃には、こんなことはなかった。
どうしてだろう…。
この時代にやって来て、心が揺れ動いてばかりだ。
それが苦痛ではない。
何より、私はこの変化を嫌だと思ってはいない。
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ロウガの朝は早い。
基本的に年寄りの朝は早い、などとよく言われるものだが、ロウガの朝はまさしくその年寄りの朝らしく、とにかく早いのである。
ロウガの帷幕に設置されたお気に入りの機械時計は朝4時を指している。
どんなにアスティアとの激しい契りを結ぼうと、基本的にロウガはこの時間には顔を洗い終えて、再び伸ばし始めた顎鬚を整え、陣中見回りという名目で行う趣味の早朝散歩の準備を整えている。
そしてアスティアもそんなロウガに従うように、同じ時間には頭も身体も目覚めている。
彼と一緒に早朝散歩を楽しむのが日課になっているのであるが、その日の朝はロウガの髷を整えるべく、アスティアは優しく柔らかな眼差しで丁寧に丁寧に、ベッドに腰掛けるロウガの長い白髪に櫛を入れながら、ゆったりとした早朝の静かな時間を楽しんでいた。
昨夜も二人は身体を重ねていたのだろう。
帷幕の中にはロウガが珍しく、遥々東方から取り寄せたという香の煙が漂ってはいたものの性交特有の汗と香りに打ち消され、白い肌襦袢を羽織ったロウガはともかく、ほんのりと桜色に染まった柔肌にしっとりとした汗がランプの灯りで真珠の如く輝く一糸纏わぬアスティアの姿をもしも見た者は、きっとこのロウガ好みの簡素な帷幕を天女の舞う桃源郷と錯覚し、戦場という特殊な条件下に衰弱し切った心と脳漿を蕩けさせる香の煙と魔性なる淫靡な香りは、羽化登仙の境地へと知らず知らずの内に誘うのであろう。
「ロウガ、君はあの娘の語る未来を信じたのかい?」
魔性の桃源郷、おぼろげなランプの頼りない灯りの中、アスティアはロウガの髪を梳きながら、アドライグが語った未来世界のことを彼に尋ねた。
その中には、ロウガを『魔王』と呼ぶ未来が存在している。
「あぁ……アレかぁ…。」
ロウガは今思い出したかのような口調でぼんやりと呟いた。
「ま、予想は付いていた。」
「君が『魔王』なんて呼ばれる未来を信じる?」
ロウガはゆっくりと首を縦に振って肯定する。
予想は確信に変わった、とロウガは言った。
「アスティア、俺は何だ?」
「学園都市セラエノ軍総帥にして、セラエノ学園学園長。」
意地悪な口調でアスティアはロウガを表現した。
だがすぐに背後から優しく、そっと抱き締めて、傷だらけの尻尾をダラリと力なく下がるロウガの右腕に絡めて、ロウガの耳元に口を寄せ、少しだけ甘えた声で囁いた。
「ロウガは、私のロウガだよ。」
「ありがとう、アスティア。」
抱き締める手にそっとロウガは自分の手を重ねる。
二人の愛情の深さが伺える仕草である。
「平行世界の迷子、同一なる者というのも俺を表す言葉かもしれん。だがそれもあくまでお前にとって、もしくはネフィーや仲間たちにとっての俺を表現するものだ。」
それ以上に悪名の方が一人歩きしている、とロウガは言う。
「反魔、教会、主神論者にとっての俺は『神敵』だ。あの娘の言う20年後ならば、俺はすでにこの世にはおるまい。インキュバスに成り損ねた、喫煙習慣が大病を引き起こした。大方そんなとこだろう。あの娘が俺と直接面識がないのも、学園長の名にサクラを挙げたのが良い証拠だ。俺はあの娘の20年後までに相当酷いことをやったのだろう。それが俺が死んだ後も敵として憎しみを忘れたくない敵対者たちや……うちのイチゴたちの口を借りて大袈裟に語りまくったんだろうな。」
辛辣な噂が一人歩きし、イチゴたちの調子に乗りに乗った馬鹿馬鹿しい程の誇張表現を加えて、ロウガは真の魔王を差し置いて、人間の身でありながらいつの間にか『魔王』にされたのだろう、と自らの未来を予想していた。
「……そうかもしれないね。」
ロウガの推測に否定し切れないアスティアは苦笑いを浮かべながら頷いた。
「ああ、そうかもしれない。」
ロウガもまた確信するように、静かに抱き締めるアスティアと手を重ねる。
「そうかもしれない。でも…。」
母のように慈愛に満ちた声で、アスティアはロウガに語り掛けた。
「未来は変わるよ。きっと本来いないはずの役者が舞台に上がっている。アドライグという娘が、君の『魔王』という最悪の未来を教えてくれた。私の役目はロウガの傍に侍り、君が『魔王』と呼ばれる未来を一つずつ潰していくことなんだと思う。」
「もしも……、お前が望まぬ未来が回避出来ないとすれば?」
優しく、それでいて力強くアスティアは答えた。
「その時は、ロウガと一緒に悪名に塗れよう。」
それが自分の運命を拾い上げたロウガへのアスティアなりの愛情。
ロウガの鋭利な守護刀であり、堅牢なる楯であり、永遠なる慈愛の楽園。
それこそがアスティアと戦い、多大な代償を払って彼女を救ったロウガに対する妻としての自分の役目であると、アスティアは心から信じている。
そんな彼女の心根を知っているロウガは彼女を安心させるように語り掛けた。
「お前に、そんなことはさせないさ。」
魔王の妻など似合わない、と言ってロウガも自らの未来を回避する努力を約束した。
その時、ロウガの頭に本拠地である学園都市セラエノに残してきた彼の第二夫人であるアヌビスのネフェルティータの声が響き、フウム王国残党軍2000の兵が接近して来ているという通信が送られてきた。
魔王軍より送られた魔道具による通信である。
ロウガ自身には返事を返す能力がない。
そのためにこの通信はネフェルティータによる一方通行で行われ、ロウガはその報告を元に間者を放ったり、クスコ川流域に陣取る神聖ルオゥム帝国軍に合流している援軍総大将・紅龍雅との連携を模索したりを考えるのである。
ネフェルティータの報告が終わり、その声が途切れるとロウガは、彼を抱き締めるアスティアの腕をゆっくりと外し、しっかりと顔を向き合わせて楽しそうな顔をして言い放った。
「アスティア、戦さを始めるぞ。」
そんなロウガの顔を見て、アスティアはどこか懐かしさを感じていた。
夏の野山を駆け回る少年のような煌く笑顔。
どこかで見たようなロウガの顔を見ていると、アスティアも何故か楽しいと感じられるような気がして、そんな自分に困ったりしたものの、爽やかな微笑を浮かべてロウガの言葉に応えた。
「ああ、始めようか。」
彼女は無意識に『ロウガ』を『カズサ』と呼んだ。
彼女の中に生きる『遥か彼方の記憶』が静かに猛っている。
それを聞いてロウガも『アスティア』を『綾乃』と呼ぶ。
遥か遠い過去に思いを馳せ、いつか夢見た時代を勝ち取るため、
ロウガとアスティアは惰性と妄信の停滞した世界へと、
二人は猛る思いのままに剣を取り、反逆の狼煙を上げるのである。
その最初の命令。
それが一つの時代を築き上げるとは誰も気付いてはいなかった。
「誰かある、至急アドライグを我が下へ呼び出せ!」
12/08/02 23:14更新 / 宿利京祐
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