わすれもの
私、由緒正しき日本アヌビス・犬川まどかの計画は完璧だった。
高校生活最後の夏休みを楽しく友達と過ごすため、新作の水着を購入することを決めていた私は、校則に引っ掛からないように、学校が夏休みに待ち、お小遣いでは足りない分をアルバイトで稼ごうと考えていた。
もちろん、健全なアルバイトであることを付け加えておく。
居酒屋、道路工事の警備員、新聞配達にファーストフード店での接客などなど。
この夏休みだけで、日雇いや短期のアルバイトを10個以上はこなしていた。
だが、ここで失敗していたことに私は気付かなかった。
どうやら私は何か始めると、他のことが目に入らなくなるくらい熱中してしまうらしい。
…………そう、つまり忘れていたのだ。
………当初の目的を。
ナチュラル・ハイというやつだな。
メイク魂に火を点けるどころか、労働意欲に火が点いてしまったのだ。
友達と海で楽しむために新作の水着を買うという目的は、労働とその報酬という新鮮な喜びの前に、フリ〇ザ様の前のバ〇ダックの如く掻き消され、いつしかアルバイトという新たな喜びに身を委ねて時を重ねていた。
………そして、それに気が付いたのが夏休み最後の日雇いアルバイトが終わった昨夜。
8月28日。
宿題が、驚きの白さ!!
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……
部屋に響くシャープペンシルの走る音。
考える余裕もなく、ただ真っ白なノートに参考書の丸写しで書き写していく。
今書き込んでいるものが正しいか正しくないかなど問題ではない。
要は、書き込んであればそれで良いのである。
「よし、数学終わり!次っ!!」
数学の宿題を形だけ終わらせて、次に手に取ったのは読書感想文。
………はっきり言って、読んでいる暇はない。
というか今更新しく読みたくない。
そんな訳で読書感想文には、美形の男同士がくんずほぐれずと言った淫靡なる目くるめく時間を過ごしていくという、どこにでもありふれた『超健全』な超純愛恋愛小説を題材に書くことにした。
ちなみに一言一句丸暗記する程読み込んだ私の愛読書だ。
その類の書物が本棚に入りきらず、気が付けば引越し用特大ダンボール箱6箱分にまでコレクションが膨れ上がってしまったのは、親にも言えない私の秘密。
これなら読書感想文など1時間もあれば終わる自信はある。
しかし、問題は他の教科だ…。
残した物は面倒臭い教科ばかり…。
だからと言って夏休み明けに、すだれハゲでビール腹で如何にも自堕落な見た目の油っこい中年男性教師に怒られるのは、アヌビスとしてのプライドもかかっているが、怒られて快感を見出す性癖でもないので正直言ってご免被りたい。
そこで私は、究極奥義を使うことにした。
用意するのは携帯電話。
使用するのはメール機能。
「しゅ・く・だ・い・み・せ・て…っと……。」
仲の良い同性の友人に泣き言をメールで送った。
彼女なら……、多分宿題を終わらせているだろう。
電話ではなく、敢えてメールで送ったのは相手は忙しいかもしれないという私なりの配慮だ。
(…………メールだ。………………………見ろ)
あまり時間を空けずに携帯の着ボイスが鳴った。
この着ボイス、私が好きな異世界系歴史オンラインカードゲームの『天魔無双』のおまけボイスなんだけど、ファラ=ア(わん♪)ダイトの声って最大音量でもボソボソしか聞こえないから、バイブ機能は必須。
早くレベルを上げて、私の好きな千〇繁さんが声を当ててる(わん♪)ブレイ=カルロスのおまけボイスが欲しいなぁ。
「……おっけー、か。こ・ん・ど・パフェ・お・ご・るっと…。」
これで宿題は片付いた。
他力本願の様だが、これはこれで良い。
アヌビスだからとか、プライドだとか、そんなものあんな中年教師から怒られるよりマシだ。
「……さて、身体が凝ったなぁ。」
昨日から机の上から動かなかったし…。
今日は8月30日…。
海に行こうにも人は多いだろうし、市営プールもそんなものだろう。
正直、こんな疲れている時に人込みに揉まれたくない。
何より目的だった新作水着は、バイトに明け暮れている内に忘れていたし…。
「……はぁ。しょうがない、アレを出すか。」
アレなら新作の水着でなくても良い。
古えの押入れより出でよ、伝説の宝具・ビニールプール。
ちょっと小さいけど、気分転換には調度良いだろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「あぁー、気持ち良い!!」
ザブン、と水に浸かって私は思いっきり声を挙げた。
水を張ったビニールプールの冷たさ。
燦々と降り注ぐ真夏の太陽。
窓際に持って来た携帯ラジオから流れてくるハワイアン特集が南国気分を盛り上げてくれる。
実際にここは真夏の南国ではなく、何の変哲もない日本の一般住宅の狭い庭だけど…。
「………うん、悪くない。」
新作の水着を買えなかったのは残念ではあったけど、これはこれで悪くない。
子供の頃なら裸のまま水に浸かるのも悪くないのだが、さすがに高校生ともなると世間体やら何やらで、開放感を得ても失うものの方が多いのでそれは不味い。
結局、私は一番着慣れた水着を着て、ビニールプールで寛いでいる。
学校指定の競泳水着。
お洒落とは程遠い代物だけど、やはり着慣れているだけあって、ゆったりとリラックス出来る。
ぱちゃ…
ぱちゃ…
あ、いつの間にか尻尾を振っていた。
フサフサの尻尾も水に濡れて、墨汁を吸い込んだ筆先のようにピッタリとくっ付いている。
今なら、何か字でも書けるかな?
………さらさらさら。
尻尾だけをプールから出して、乾いたコンクリの上で筆のように走らせてみる。
人間で言うところの『お尻で文字を書く』という芸に近いかもしれない。
…友達には見せられないなぁ。
…恥ずかしいし。
ってなかなか難しい。
出来上がったものを見て、私は苦笑いを浮かべた。
苦労した割りには文字らしき文字も出来上がっちゃいなかった。
「……あはは、もし将来、宴会で何か芸をすることになっても、尻芸だけはやめておこう。」
元より尻芸をやるつもりはないけどね。
それにしても……新作の水着、欲しかったなぁ…。
いや、目的を忘れてた自分が悪いんだけど…。
競泳水着じゃ色々押さえ付けられているけど…。
今年は大胆にビキニとか着たかったなぁ。
プロポーションにはそこそこ自信があるし………、これで彼氏でもいれば…。
気になるやつがいない訳じゃないけど、まぁ、気長にやるとしますか。
「くしゅん…!」
うう……、冷えてきたかなぁ…。
水浴びって気持ち良いんだけど、身体の冷えた後が悪い。
「さて、そろそろ上がろうかなぁ。」
バスタオル、バスタオル…っと。
ハワイアンが流れるラジオも切って、爽やかな南国気分もここまで。
またいつもの日常に戻りますか……って、しまったぁぁぁー!?
「サイダー!!サイダーを冷やしてるのを忘れてたぁー!!!」
こんな調子だ。
最後の最後で絶対何かを忘れている。
それが私の悪い癖なのかもしれない。
………受験の時は気を付けよう。
身体を拭いて窓から家に上がると、私は一目散に台所の冷蔵庫へと走り、冷蔵庫の中でキンキンに冷えて私を待っていた伝統の味『三〇矢サイダー』を手に取り、蓋を開けると腰に手を当ててグイッと飲み干した。
「……ぷはぁ♪」
行儀が悪いけど、これが美味しい。
尻尾が右に左に触れるのはご愛嬌だ。
親がいれば『みっともない!』って怒られるところだけど、幸い親は旅行中。
娘のことを信用してくれて嬉しい反面、アヌビスらしくなく宿題を忘れたり、スケジュールを計画通りに消化出来なかったりと内心後ろめたさもある。
「よし、サイダー補給完了。これより冷えた身体をシャワーで温める。」
何故軍隊みたいな喋りになったのかは不明だけど、私は湯沸かし器の電源を入れると、いそいそとお風呂の準備に取り掛かった。
濡れた髪の毛も尻尾もトリートメントしないとね♪
―――――――――――――――――――――――――――――――――
シャワーから上がった私はバスローブを身体に纏い、バスタオルで自慢の長い髪を包むと、冷蔵庫でサイダーと一緒にキンキンに冷やしていたオレンジジュースの缶のふたを開け、エアコンの効いたリビングにある、ふかふかのソファーの上にゆったりと沈み込んだ。
宿題も目処が付いたし、こんなにゆったりしてても良いよね?
目処が付いたって言っても明日友達に写させてもらうだけだけど、そこは言いっこなし。
宿題はやっていれば良いのだ。
偉い人も言っている。
『宿題?それがどうした!』
いや、この偉い人の名言は少なくとも学校生活では役に立たないな。
新学期明けにある試験は怖いけど、一夜漬けで順位だけは保とう。
うん、そうしよう。
それにしても……、まだ何かやってない気がする。
自由研究は片付けた。
数学は形だけは自力でやった。
読書感想文もBL小説を熱く語るという構想が出来ている。
他の教科は友達の丸写し。
…………予定表とか宿題のリストの漏れはないはずだけど。
まだ私の中で忘れているものがあるような気がしてならない。
………何だっけ?
ぴんぽ〜ん
不意に我が家の呼び鈴がリビングに響いた。
宅急便でも来たのかな?
あ、それだったら待っててもらわないと…!
さすがにバスローブのままで応対したくない!!
「おーい、犬川ぁー!犬川まどか、いるかー!!」
外から聞こえてくる声。
それは………。
「あ、健介だ。」
猫山健介、私の家の隣に住む幼馴染。
相手が幼馴染だとわかった私は、リビングのインターフォンを取ると受話器の向こう、玄関で暑い思いをして待っているであろう健介に話しかけた。
『健介、どうしたの?』
「あ、犬川。淫部(いぬのべ)からメールが着てさ、お前に宿題見せろって。俺も暇だったし、別に良いかなって思って。」
淫部こと淫部さやか、私が宿題見せろとメールを送った相手。
常用漢字外の苗字が示す通り、現役バリバリの魔界出身者。
種族は私と同じアヌビス。
『さやかったら…。』
「まぁ、お前に借りてたゲームもあったし、返すついでだから…。」
さやかが気を回してくれたのかもしれない。
健介とは、俗に言う友達以上恋人未満。
脈なし、とは思えないけど……お互いに踏み出せない仲……だと思いたい。
「それにしても、お前でも宿題忘れる時があるんだな。」
『何よ、可笑しい?』
まさか、と顔の見えない健介が笑っている。
「いや、可愛いなって思って。」
…………………あ。
思い出した。
私が忘れていたこと…。
『………馬鹿、言ってるんじゃないわよ。』
「悪い悪い。それより早く入れてくれ。せっかくアイス持って来たんだ。溶けちまう。」
忘れていたものを思い出して、私は心臓がドキドキ高鳴っていた。
でも、苦しいんだけど苦しくない。
心地良くて、暖かくて、ちょっとだけ浮付いた気持ちにさせてくれる緊張感。
着替えようかと思ったけど、私はバスローブのままで玄関に向かう。
濡れた尻尾や髪の毛から、ふわっとしたシャンプーの香り。
「今、玄関の鍵……開けるね…。」
「開けてくれー。日陰って言っても暑い!」
私がやり残していたこと。
それは友達以上恋人未満を……終わらせること…。
夏の初めに考えていたっけ。
駄目でも良いから……。
私の想いを、あなたが好きだって想いを伝えたいって…。
何で忘れていたのかなぁ、って自分が可笑しくて顔が緩んでしまう。
「ごめんね、お待たせ…。」
「おう、待った……よって、犬川…。」
私の姿を見て、慌てたようにビックリした表情を浮かべる健介。
そんな彼の様子が面白くて、思わずクスって笑ってしまう。
「ごめんね、お風呂入ってたんだ。リビングで待っててくれる?」
「あ……う、うん…。」
玄関を開けた。
これ以上は、予定通りになんて……出来はしない…。
とりあえず、バスローブから着替えてこよう。
健介が好きそうな、白いワンピースに。
そして雰囲気が良かったら………。
せめて手を握るくらいまでは踏み込めたいな。
高校生活最後の夏休みを楽しく友達と過ごすため、新作の水着を購入することを決めていた私は、校則に引っ掛からないように、学校が夏休みに待ち、お小遣いでは足りない分をアルバイトで稼ごうと考えていた。
もちろん、健全なアルバイトであることを付け加えておく。
居酒屋、道路工事の警備員、新聞配達にファーストフード店での接客などなど。
この夏休みだけで、日雇いや短期のアルバイトを10個以上はこなしていた。
だが、ここで失敗していたことに私は気付かなかった。
どうやら私は何か始めると、他のことが目に入らなくなるくらい熱中してしまうらしい。
…………そう、つまり忘れていたのだ。
………当初の目的を。
ナチュラル・ハイというやつだな。
メイク魂に火を点けるどころか、労働意欲に火が点いてしまったのだ。
友達と海で楽しむために新作の水着を買うという目的は、労働とその報酬という新鮮な喜びの前に、フリ〇ザ様の前のバ〇ダックの如く掻き消され、いつしかアルバイトという新たな喜びに身を委ねて時を重ねていた。
………そして、それに気が付いたのが夏休み最後の日雇いアルバイトが終わった昨夜。
8月28日。
宿題が、驚きの白さ!!
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……
部屋に響くシャープペンシルの走る音。
考える余裕もなく、ただ真っ白なノートに参考書の丸写しで書き写していく。
今書き込んでいるものが正しいか正しくないかなど問題ではない。
要は、書き込んであればそれで良いのである。
「よし、数学終わり!次っ!!」
数学の宿題を形だけ終わらせて、次に手に取ったのは読書感想文。
………はっきり言って、読んでいる暇はない。
というか今更新しく読みたくない。
そんな訳で読書感想文には、美形の男同士がくんずほぐれずと言った淫靡なる目くるめく時間を過ごしていくという、どこにでもありふれた『超健全』な超純愛恋愛小説を題材に書くことにした。
ちなみに一言一句丸暗記する程読み込んだ私の愛読書だ。
その類の書物が本棚に入りきらず、気が付けば引越し用特大ダンボール箱6箱分にまでコレクションが膨れ上がってしまったのは、親にも言えない私の秘密。
これなら読書感想文など1時間もあれば終わる自信はある。
しかし、問題は他の教科だ…。
残した物は面倒臭い教科ばかり…。
だからと言って夏休み明けに、すだれハゲでビール腹で如何にも自堕落な見た目の油っこい中年男性教師に怒られるのは、アヌビスとしてのプライドもかかっているが、怒られて快感を見出す性癖でもないので正直言ってご免被りたい。
そこで私は、究極奥義を使うことにした。
用意するのは携帯電話。
使用するのはメール機能。
「しゅ・く・だ・い・み・せ・て…っと……。」
仲の良い同性の友人に泣き言をメールで送った。
彼女なら……、多分宿題を終わらせているだろう。
電話ではなく、敢えてメールで送ったのは相手は忙しいかもしれないという私なりの配慮だ。
(…………メールだ。………………………見ろ)
あまり時間を空けずに携帯の着ボイスが鳴った。
この着ボイス、私が好きな異世界系歴史オンラインカードゲームの『天魔無双』のおまけボイスなんだけど、ファラ=ア(わん♪)ダイトの声って最大音量でもボソボソしか聞こえないから、バイブ機能は必須。
早くレベルを上げて、私の好きな千〇繁さんが声を当ててる(わん♪)ブレイ=カルロスのおまけボイスが欲しいなぁ。
「……おっけー、か。こ・ん・ど・パフェ・お・ご・るっと…。」
これで宿題は片付いた。
他力本願の様だが、これはこれで良い。
アヌビスだからとか、プライドだとか、そんなものあんな中年教師から怒られるよりマシだ。
「……さて、身体が凝ったなぁ。」
昨日から机の上から動かなかったし…。
今日は8月30日…。
海に行こうにも人は多いだろうし、市営プールもそんなものだろう。
正直、こんな疲れている時に人込みに揉まれたくない。
何より目的だった新作水着は、バイトに明け暮れている内に忘れていたし…。
「……はぁ。しょうがない、アレを出すか。」
アレなら新作の水着でなくても良い。
古えの押入れより出でよ、伝説の宝具・ビニールプール。
ちょっと小さいけど、気分転換には調度良いだろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「あぁー、気持ち良い!!」
ザブン、と水に浸かって私は思いっきり声を挙げた。
水を張ったビニールプールの冷たさ。
燦々と降り注ぐ真夏の太陽。
窓際に持って来た携帯ラジオから流れてくるハワイアン特集が南国気分を盛り上げてくれる。
実際にここは真夏の南国ではなく、何の変哲もない日本の一般住宅の狭い庭だけど…。
「………うん、悪くない。」
新作の水着を買えなかったのは残念ではあったけど、これはこれで悪くない。
子供の頃なら裸のまま水に浸かるのも悪くないのだが、さすがに高校生ともなると世間体やら何やらで、開放感を得ても失うものの方が多いのでそれは不味い。
結局、私は一番着慣れた水着を着て、ビニールプールで寛いでいる。
学校指定の競泳水着。
お洒落とは程遠い代物だけど、やはり着慣れているだけあって、ゆったりとリラックス出来る。
ぱちゃ…
ぱちゃ…
あ、いつの間にか尻尾を振っていた。
フサフサの尻尾も水に濡れて、墨汁を吸い込んだ筆先のようにピッタリとくっ付いている。
今なら、何か字でも書けるかな?
………さらさらさら。
尻尾だけをプールから出して、乾いたコンクリの上で筆のように走らせてみる。
人間で言うところの『お尻で文字を書く』という芸に近いかもしれない。
…友達には見せられないなぁ。
…恥ずかしいし。
ってなかなか難しい。
出来上がったものを見て、私は苦笑いを浮かべた。
苦労した割りには文字らしき文字も出来上がっちゃいなかった。
「……あはは、もし将来、宴会で何か芸をすることになっても、尻芸だけはやめておこう。」
元より尻芸をやるつもりはないけどね。
それにしても……新作の水着、欲しかったなぁ…。
いや、目的を忘れてた自分が悪いんだけど…。
競泳水着じゃ色々押さえ付けられているけど…。
今年は大胆にビキニとか着たかったなぁ。
プロポーションにはそこそこ自信があるし………、これで彼氏でもいれば…。
気になるやつがいない訳じゃないけど、まぁ、気長にやるとしますか。
「くしゅん…!」
うう……、冷えてきたかなぁ…。
水浴びって気持ち良いんだけど、身体の冷えた後が悪い。
「さて、そろそろ上がろうかなぁ。」
バスタオル、バスタオル…っと。
ハワイアンが流れるラジオも切って、爽やかな南国気分もここまで。
またいつもの日常に戻りますか……って、しまったぁぁぁー!?
「サイダー!!サイダーを冷やしてるのを忘れてたぁー!!!」
こんな調子だ。
最後の最後で絶対何かを忘れている。
それが私の悪い癖なのかもしれない。
………受験の時は気を付けよう。
身体を拭いて窓から家に上がると、私は一目散に台所の冷蔵庫へと走り、冷蔵庫の中でキンキンに冷えて私を待っていた伝統の味『三〇矢サイダー』を手に取り、蓋を開けると腰に手を当ててグイッと飲み干した。
「……ぷはぁ♪」
行儀が悪いけど、これが美味しい。
尻尾が右に左に触れるのはご愛嬌だ。
親がいれば『みっともない!』って怒られるところだけど、幸い親は旅行中。
娘のことを信用してくれて嬉しい反面、アヌビスらしくなく宿題を忘れたり、スケジュールを計画通りに消化出来なかったりと内心後ろめたさもある。
「よし、サイダー補給完了。これより冷えた身体をシャワーで温める。」
何故軍隊みたいな喋りになったのかは不明だけど、私は湯沸かし器の電源を入れると、いそいそとお風呂の準備に取り掛かった。
濡れた髪の毛も尻尾もトリートメントしないとね♪
―――――――――――――――――――――――――――――――――
シャワーから上がった私はバスローブを身体に纏い、バスタオルで自慢の長い髪を包むと、冷蔵庫でサイダーと一緒にキンキンに冷やしていたオレンジジュースの缶のふたを開け、エアコンの効いたリビングにある、ふかふかのソファーの上にゆったりと沈み込んだ。
宿題も目処が付いたし、こんなにゆったりしてても良いよね?
目処が付いたって言っても明日友達に写させてもらうだけだけど、そこは言いっこなし。
宿題はやっていれば良いのだ。
偉い人も言っている。
『宿題?それがどうした!』
いや、この偉い人の名言は少なくとも学校生活では役に立たないな。
新学期明けにある試験は怖いけど、一夜漬けで順位だけは保とう。
うん、そうしよう。
それにしても……、まだ何かやってない気がする。
自由研究は片付けた。
数学は形だけは自力でやった。
読書感想文もBL小説を熱く語るという構想が出来ている。
他の教科は友達の丸写し。
…………予定表とか宿題のリストの漏れはないはずだけど。
まだ私の中で忘れているものがあるような気がしてならない。
………何だっけ?
ぴんぽ〜ん
不意に我が家の呼び鈴がリビングに響いた。
宅急便でも来たのかな?
あ、それだったら待っててもらわないと…!
さすがにバスローブのままで応対したくない!!
「おーい、犬川ぁー!犬川まどか、いるかー!!」
外から聞こえてくる声。
それは………。
「あ、健介だ。」
猫山健介、私の家の隣に住む幼馴染。
相手が幼馴染だとわかった私は、リビングのインターフォンを取ると受話器の向こう、玄関で暑い思いをして待っているであろう健介に話しかけた。
『健介、どうしたの?』
「あ、犬川。淫部(いぬのべ)からメールが着てさ、お前に宿題見せろって。俺も暇だったし、別に良いかなって思って。」
淫部こと淫部さやか、私が宿題見せろとメールを送った相手。
常用漢字外の苗字が示す通り、現役バリバリの魔界出身者。
種族は私と同じアヌビス。
『さやかったら…。』
「まぁ、お前に借りてたゲームもあったし、返すついでだから…。」
さやかが気を回してくれたのかもしれない。
健介とは、俗に言う友達以上恋人未満。
脈なし、とは思えないけど……お互いに踏み出せない仲……だと思いたい。
「それにしても、お前でも宿題忘れる時があるんだな。」
『何よ、可笑しい?』
まさか、と顔の見えない健介が笑っている。
「いや、可愛いなって思って。」
…………………あ。
思い出した。
私が忘れていたこと…。
『………馬鹿、言ってるんじゃないわよ。』
「悪い悪い。それより早く入れてくれ。せっかくアイス持って来たんだ。溶けちまう。」
忘れていたものを思い出して、私は心臓がドキドキ高鳴っていた。
でも、苦しいんだけど苦しくない。
心地良くて、暖かくて、ちょっとだけ浮付いた気持ちにさせてくれる緊張感。
着替えようかと思ったけど、私はバスローブのままで玄関に向かう。
濡れた尻尾や髪の毛から、ふわっとしたシャンプーの香り。
「今、玄関の鍵……開けるね…。」
「開けてくれー。日陰って言っても暑い!」
私がやり残していたこと。
それは友達以上恋人未満を……終わらせること…。
夏の初めに考えていたっけ。
駄目でも良いから……。
私の想いを、あなたが好きだって想いを伝えたいって…。
何で忘れていたのかなぁ、って自分が可笑しくて顔が緩んでしまう。
「ごめんね、お待たせ…。」
「おう、待った……よって、犬川…。」
私の姿を見て、慌てたようにビックリした表情を浮かべる健介。
そんな彼の様子が面白くて、思わずクスって笑ってしまう。
「ごめんね、お風呂入ってたんだ。リビングで待っててくれる?」
「あ……う、うん…。」
玄関を開けた。
これ以上は、予定通りになんて……出来はしない…。
とりあえず、バスローブから着替えてこよう。
健介が好きそうな、白いワンピースに。
そして雰囲気が良かったら………。
せめて手を握るくらいまでは踏み込めたいな。
12/07/22 21:53更新 / 宿利京祐