宵闇夢怪譚【人でなしの初恋】
『彼女』との最初の出会いはTVのCMに映ったその一瞬だった。
何が僕を振り向かせたのかは今でもわからない。
でも、『彼女』の虜になるにはその一瞬だけで十分だった。
『彼女』に会いたいと十歳になったばかりの私は親にせがみ、
確か母に手を引かれて『彼女』に高鳴る鼓動の音を聴きながら会いに行ったのを覚えている。
背の高い大人たちを掻き分けて、僕は『彼女』の待つ場所へと辿り着いた。
ガラスケースの向こう側。
柔らかなライトの光を浴びている。
長方形に切り取られた微笑みの瞬間。
嗚呼、窓だ。
窓の向こうに『彼女』は僕に優しく微笑んでくれている。
その日から僕は毎日のように『彼女』の下へ通った。
少ない小遣いをやりくりし、もっともらしい理由を付けて『彼女』に会いに行った。
僕の特等席はいつしか『彼女』の前の長椅子だった。
日が暮れるまで『彼女』の下にいた。
いつまで眺めていても『彼女』は美しい。
僕の初恋の人
それは決してどこへも行かぬ一枚の油絵だった。
人間ですらない。
それよりも生物ですらないのが僕の恋だった。
それが不自然とも不気味とも感じなかったのは、きっと後になって僕が関口巽の『眩暈』や久保俊公の『匣の中の少女』などの陰鬱な幻想小説の世界をすんなりと私の中で受け入れられたことから考えれば、そういう素質があったのだろうと今は思える。
日曜日の昼下がり、あの日も僕はこうしていつもの長椅子に座って彼女の前にいた。
ガラス越しの逢引きが僕の日常。
そして見返りを求めない小さな幸せの日常だった。
彼女の名は『ヘルメル作・少女像』。
人気もなく、目玉の展示でもなかったのだが、僕は一目で彼女に恋をした。
寝ても覚めても彼女のことが頭から離れなかった。
それを恋と呼ばねば何と呼ぶだろうか…。
さすがに美術館に毎日通うことは容易ではなかったが、僕は小学生という身分を最大限に利用して、親から様々な理由を付けて小遣いをせびってはこうして美術館のいつもの長椅子に座っていた。
日曜日だというのに観客は僕一人。
後になって知ったことだが、この展覧会はあまり人気がなかったのだと言う。
シンと静まり返る美術館。
遠くで歩く監視の学芸員の足音ですら響き渡る程の静寂。
僕の目に映るのは恋した彼女の微笑み。
そして保護ガラスに映る僕の姿。
まるで彼女と並んで座っているかのような錯覚に僕は酔っていた。
恋した人と隣り合って座る幸せは何物にも変え難かったのを覚えている。
スッとガラスに誰かの姿が映った。
僕の他に誰かいたんだ、と思うと恥ずかしくて顔が真っ赤になった。
きっと僕は何とも言えないにやけた顔をしていたのだと思う。
恥ずかしくて俯いていると僕のすぐ傍に誰かが座った。
ふわりとした長いスカートが視界に映る。
「お隣、よろしいかしら?」
綺麗な声だった。
きっと彼女の声を聞けたならどんな声なのだろうと想像していた僕の耳に届いたのは、あまりにも僕の想像に符合した優しく美しい声だったのだから、驚いた僕は思わずその声の主に振り向いた。
「ごめんなさいね、驚かせてしまって。」
そう言ってその人は微笑んだ。
言葉もなかった。
僕の目の前にいるのは、紛れもない絵の中の彼女だったのだから。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
理想的だった。
思い描いていたフレームの外側にある彼女の姿。
金色の髪がまるで絹糸のように滑らかで、上品な黒のドレスは嗅いだだけで心が気持ち良くなるような得も知れぬ良い匂いが漂い、まるで絵本に出てくるようなお姫様のように彼女は暖かな微笑みで僕に話しかけてくれた。
驚きすぎた僕はただ口をパクパクと動かしてばかりで、きっと顔は唖然としたまますごく赤くなっていたのだと思う。
フレームで切り取られた彼女の全体像。
それが僕の目の前に現れたのだった。
「坊や、誰かと待ち合わせかしら?」
「い、いえ…。」
待ち合わせてなんかいない。
僕はいつも一人で彼女に会いに来ていた。
しばし心地の良い無言が続いた。
「…………この絵、好きなのね。」
口を開いたのは彼女の方だった。
「いつもこの絵に会いに来ているわね。そんなに好き?」
「え…………あ……は…はい……。」
ただ目の前の絵が好きだと言うだけなのに言葉がなかなか出て来なかった。
まるで彼女に告白するような、そんな不思議な居心地の悪さ。
「いつも見てたわ。一人でこの絵の前で閉館時間まで見詰めている坊やを…。坊やくらいの歳で絵画に興味を持つって素敵だなって、つい興味が湧いて声をかけちゃった。迷惑だったかしら?」
迷惑なんかじゃない。
言葉に出来なかった僕は首をブンブンと横に振った。
ただ隣に座る女の人を直視出来ず、また視線を逸らすように俯いた。
「ふふ……ありがとう。」
また心地良い無言の世界。
遠くでカツーン、という甲高い足音が響いている。
いつしか二人でガラスケース越しの『彼女』を眺めていた。
静かでゆっくりとした時間が流れている。
絵の中の彼女と瓜二つの女性とこうして同じ顔をした絵を眺めるという不思議な状況に、僕は怪談本の中で見かけた『絵馬から抜け出した平安貴族』という奇妙な話を思い出して少しだけ笑っていた。
緊張が解れてきたらしい。
「やっと笑ってくれたわね。」
「………………あ。」
初めて、まともに彼女のを見た。
絵の中の彼女と同じ顔なのに、どこかまるで違うのである。
嗚呼、血が通っている。
そう感じた。
そう感じた瞬間、心臓が止まった気がした。
初めて心が彼女に囚われた錯覚。
ずっと味わっていたいそんな感覚だった。
「…………あら、もう閉館なのね。」
気が付くと閉館を知らせる音楽が流れていた。
この美術館では一般的な『蛍の光』ではなく、静かなクラシックが流れている。
あれは確かバッハの………うん、バッハの曲だったはずだ…。
「時間を忘れさせてくれるなんて……本当に素敵な絵ね…。」
彼女はガラスケースの向こうに鎮座する『自分』の姿に想いを馳せている。
そんな物憂げな表情に釣られるように僕の視線もガラスケースの向こう側へと向けられた。
絵の中の彼女はフレームに囲まれたまま美しい微笑みを浮かべている。
それでもあれ程感じていた体温を感じなくなっていた。
今言えることは、僕の熱は間違いなくフレームの中の彼女ではなく、ガラスケースに映る僕の隣に座って微笑んでいる『彼女』に向けられているのだと幼いながらに感じ取っていた。
「また……会えますか…?」
面と向かっては言えなかった。
それでもありったけの勇気を振り絞って、僕はガラスに映る彼女に話し掛けた。
考えて見たら、『彼女』に自分から話し掛けたのはこれが最初だった。
少し驚いた風な表情を浮かべた彼女だったけど、僕の言葉が嬉しかったのだろうか、すぐに表情を緩ませると『はい。』と僕だけに聞こえるように透き通るような綺麗な声で返事をしてくれた。
たったそれだけで嬉しかった。
絵の中の『彼女』に会いに来るだけでなく、本当の熱を感じる『彼女』に会いに来る。
そんな目的が生まれて僕は叫びたくなるのをグッと堪えて奥歯を噛み締めた。
それじゃあ、と僕は長椅子から立ち上がり美術館の出口へと走った。
マナー違反も良いところだったろう。
それでも嬉しくて、じっとしていられなかった。
また明日もあの人に会う。
そう考えただけで空も飛べそうな気がしていた。
『きっと……また私に会いに来てね…。』
何故か耳元で聞こえた気がして、僕は立ち止まって振り返った。
長椅子には誰もいない。
シンと静まり返った館内で、時計の針が止まったかのような静寂が五月蝿かった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
あの頃の俺は何も知らなかった。
『彼女』は常設の絵画ではなく、ただ企画で飾られていただけ。
つまり開催期間が終われば取り払われてしまうのだ。
彼女に出会ったのもそんな展示最終日。
結局、約束は果たせないままだった。
あの人は本当に絵画から抜け出した精なのか…。
それとも何か別の物だったのか…。
今となってはどうでも良く…。
あれから本当に長い月日が経った。
一人称が『僕』から『俺』に変わり、
ただの小学生だった俺は彼女が取り払われたことを知り絶望し、
ただひたすら彼女を忘れまいと
クレヨンで クーピーで 色鉛筆で 水彩画で
ただただひたすらに記憶の中から彼女を思い描き紙に写し取っていた。
俺はただ彼女を模写し続けることに特化することを選択した。
気が付けば美術系の学校を選び、
彼女を彩っていた油絵の具を手に取って、完全なるコピーを目指していた。
その結果がこの様だ。
「くだらねぇ…『ヘルメルに魅せられた画家』なんてキャッチコピー、今時ありえねえよ。」
あれから16年経っている。
『彼女』の模写絵で大賞を獲った俺は若くして成功を修めた。
何でも失われたヘルメルの画法を俺は会得しているらしい。
パリに行ったのか、それとも誰か有名な画家に弟子入りしたのか…。
そんなことばかり聞かれたが、俺はただ忠実に『彼女』を描きたかっただけだったのに、いつの間にか道を逸れてしまって、かつて俺が通い詰めた美術館で小さいながらも個展を開いてもらえる身分になっていた。
いくつも展示された『彼女』の劣化コピー。
その中に一点だけ、本物の『ヘルメル作・少女像』を飾ってもらった。
主催者側に申し入れた俺のたった一つだけの我が侭。
主催者も最初は渋ったが、期日までに『彼女』を探し出してくれた。
「……やっと戻ってきたよ。」
ガラスケース越しに俺は彼女に語りかけた。
やっと俺はあの日の自分に帰って来れたそんな気がした。
長椅子まで再現して、自分のセンチメンタルな部分を曝け出して、『彼女』に恋して以来ずっとどんな女にも興味が持てなかった自分のアブノーマルな部分を作品にしている。
そんな自分が我ながら馬鹿馬鹿しく思える。
だけど……これでやっと全部が揃った。
「………座ってもよろしいかしら。」
嗚呼、彼女がいる。
ガラスに映る俺の背後に、あの日と何一つ変わらない『彼女』がいる。
何年も会いたかったあの柔らかな微笑みを浮かべている。
「……もう、坊やって呼べないわね。」
「俺は今でも坊やのつもりですよ…。あなたの、前では。」
あなたは誰ですか、とは聞けない。
聞いたところで正体に興味はない。
ただ心の奥底から『彼女』が愛しかった。
「ありがとう、私に会いに来てくれて…。」
「約束でしたから…。」
あの日のように、閉館の音楽が鳴り響く。
バッハのG線上のアリアが静寂を彩るように美しい旋律を奏でていく。
「今日は、もう走らないのね。」
「ええ、今日は我が侭を通しましたから。」
主催者側に俺は申し入れていた。
どうしても個展を開催する前日に『彼女』と二人きりで夜を過ごしたい。
絵画を愛してしまった男の我が侭を聞いてくれた主催者に感謝する。
彼女の隣に座る許可を貰って、俺は嬉しくて喋り出していた。
あなたに会えなくて寂しかったこと。
あなたに会いたくて俺はここまで来たこと。
他にも取り留めのない話を彼女はただ黙って聞いてくれた。
取り戻せない16年分を埋めたいと必死だった。
「本当に……会いたかった…!」
気が付けば感情が昂りすぎて泣いていた。
彼女の手を握り締めて、俺はまるで子供の頃に還ったかのように泣いていた。
そんな俺の手を彼女は握り返してくる。
「私も……お会いしたかった…。」
泣いている俺の頬に彼女の唇が触れる。
舌で涙を舐め取っている。
そんな仕草、近付いた彼女の香りに惑わされたのか………、気が付いた時には彼女が頬が桜色に染まった顔で、黒い宝石のような潤んだ瞳で、至近距離で真正面から俺を見詰めていた。
プルプルと柔らかそうな唇が僅かに開いた。
「…………隙間を埋めてくださいまし。」
吐息交じりのその鼻に掛かったような声に導かれるようにお互いに目を閉じた。
そのままゆっくりと、顔を近付けて唇の隙間同士を埋めていく。
想いを確かめ合うようなキスに心が蕩けていく気がした。
そして離れ難いけれど、同じようなゆっくりとした動作で唇を放す。
二人の舌には細い粘液のアーチがかかっていた。
「……あ、その…忘れる前に…。」
言いようのない高揚感に我を忘れる前に俺はやるべきことを果たそうと思っていた。
彼女に会えたなら、
もう一度彼女に会えたなら渡したかったものがあるのだ。
長椅子のすぐ傍に置いた黒いケース。
あまり大きくはないサイズのそれは一枚の油絵だ。
「開けて見ても良いですか?」
彼女へのプレゼント。
俺がこの日のためだけに描いた最高傑作。
ケースの留め金を外す彼女の顔が期待に満ちている。
しかし、ケースから絵を取り出した瞬間、彼女の表情が凍った。
「…………え。」
そこに描かれていたのは黒髪の少女の姿。
『ヘルメル作・少女像』に描かれた金髪の少女ではなく、どちらかと言えばあの少女像のように華やかではない暗い印象を持たせる儚げな黒髪の美少女の姿だった。
「……………な、何で。」
怯えたような目で『彼女』は俺を見ていた。
絵の中の『彼女』ではなく、黒髪の少女である『彼女』の姿が俺の目には映っている。
「……知ってました。あの日、俺がまた会えますかと聞いた時、ガラスケースに映ったのは虚像のあなたではなく、真実のあなたでした。だから俺は聞いたんです。また会えますか…と。」
あの日から俺が恋したのは『彼女』ではなく『あなた』でした。
目の前にいるのはフレームから抜け出した理想像じゃない。
俺が描いた姿よりいくらか成長した黒髪の少女だった。
ずっと………ガラスケース越しに見た真実の姿を、俺はあなたに恋をしていた。
だからさっきのキスも真実のあなたとしたかった
「あなたの正体が人間でもなくとも構わない。どうか……。」
俺は片膝を突いて彼女の手を取る。
「俺の傍にいてください……ずっと…。」
きゅっ、と彼女の手に力が入る。
「…………人間じゃないんだよ。……怖くないの、私が。」
取り繕わなくて良い、本当の自分を曝け出した黒髪の少女が震える声でおずおずと訊ねる。
恐ろしくはない。
ただ、彼女を再び失うことの方が何倍も恐ろしい。
「驚いた、でもそれだけです。」
まるで弾かれるように彼女が長椅子から俺に飛び掛った。
しっかりと首に腕を回し、離れないように儚げな力で抱き締めてくる。
それが愛しくて、俺は彼女の美しい髪を撫でながら抱き返していた。
人でなしの恋
結局俺は鏡に恋をしたのだろう
絵画に恋をして
ガラスケースに映った真実に心を奪われていた
『彼女』によって狂わされた恋心は、ようやく居場所を得たらしい
何が僕を振り向かせたのかは今でもわからない。
でも、『彼女』の虜になるにはその一瞬だけで十分だった。
『彼女』に会いたいと十歳になったばかりの私は親にせがみ、
確か母に手を引かれて『彼女』に高鳴る鼓動の音を聴きながら会いに行ったのを覚えている。
背の高い大人たちを掻き分けて、僕は『彼女』の待つ場所へと辿り着いた。
ガラスケースの向こう側。
柔らかなライトの光を浴びている。
長方形に切り取られた微笑みの瞬間。
嗚呼、窓だ。
窓の向こうに『彼女』は僕に優しく微笑んでくれている。
その日から僕は毎日のように『彼女』の下へ通った。
少ない小遣いをやりくりし、もっともらしい理由を付けて『彼女』に会いに行った。
僕の特等席はいつしか『彼女』の前の長椅子だった。
日が暮れるまで『彼女』の下にいた。
いつまで眺めていても『彼女』は美しい。
僕の初恋の人
それは決してどこへも行かぬ一枚の油絵だった。
人間ですらない。
それよりも生物ですらないのが僕の恋だった。
それが不自然とも不気味とも感じなかったのは、きっと後になって僕が関口巽の『眩暈』や久保俊公の『匣の中の少女』などの陰鬱な幻想小説の世界をすんなりと私の中で受け入れられたことから考えれば、そういう素質があったのだろうと今は思える。
日曜日の昼下がり、あの日も僕はこうしていつもの長椅子に座って彼女の前にいた。
ガラス越しの逢引きが僕の日常。
そして見返りを求めない小さな幸せの日常だった。
彼女の名は『ヘルメル作・少女像』。
人気もなく、目玉の展示でもなかったのだが、僕は一目で彼女に恋をした。
寝ても覚めても彼女のことが頭から離れなかった。
それを恋と呼ばねば何と呼ぶだろうか…。
さすがに美術館に毎日通うことは容易ではなかったが、僕は小学生という身分を最大限に利用して、親から様々な理由を付けて小遣いをせびってはこうして美術館のいつもの長椅子に座っていた。
日曜日だというのに観客は僕一人。
後になって知ったことだが、この展覧会はあまり人気がなかったのだと言う。
シンと静まり返る美術館。
遠くで歩く監視の学芸員の足音ですら響き渡る程の静寂。
僕の目に映るのは恋した彼女の微笑み。
そして保護ガラスに映る僕の姿。
まるで彼女と並んで座っているかのような錯覚に僕は酔っていた。
恋した人と隣り合って座る幸せは何物にも変え難かったのを覚えている。
スッとガラスに誰かの姿が映った。
僕の他に誰かいたんだ、と思うと恥ずかしくて顔が真っ赤になった。
きっと僕は何とも言えないにやけた顔をしていたのだと思う。
恥ずかしくて俯いていると僕のすぐ傍に誰かが座った。
ふわりとした長いスカートが視界に映る。
「お隣、よろしいかしら?」
綺麗な声だった。
きっと彼女の声を聞けたならどんな声なのだろうと想像していた僕の耳に届いたのは、あまりにも僕の想像に符合した優しく美しい声だったのだから、驚いた僕は思わずその声の主に振り向いた。
「ごめんなさいね、驚かせてしまって。」
そう言ってその人は微笑んだ。
言葉もなかった。
僕の目の前にいるのは、紛れもない絵の中の彼女だったのだから。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
理想的だった。
思い描いていたフレームの外側にある彼女の姿。
金色の髪がまるで絹糸のように滑らかで、上品な黒のドレスは嗅いだだけで心が気持ち良くなるような得も知れぬ良い匂いが漂い、まるで絵本に出てくるようなお姫様のように彼女は暖かな微笑みで僕に話しかけてくれた。
驚きすぎた僕はただ口をパクパクと動かしてばかりで、きっと顔は唖然としたまますごく赤くなっていたのだと思う。
フレームで切り取られた彼女の全体像。
それが僕の目の前に現れたのだった。
「坊や、誰かと待ち合わせかしら?」
「い、いえ…。」
待ち合わせてなんかいない。
僕はいつも一人で彼女に会いに来ていた。
しばし心地の良い無言が続いた。
「…………この絵、好きなのね。」
口を開いたのは彼女の方だった。
「いつもこの絵に会いに来ているわね。そんなに好き?」
「え…………あ……は…はい……。」
ただ目の前の絵が好きだと言うだけなのに言葉がなかなか出て来なかった。
まるで彼女に告白するような、そんな不思議な居心地の悪さ。
「いつも見てたわ。一人でこの絵の前で閉館時間まで見詰めている坊やを…。坊やくらいの歳で絵画に興味を持つって素敵だなって、つい興味が湧いて声をかけちゃった。迷惑だったかしら?」
迷惑なんかじゃない。
言葉に出来なかった僕は首をブンブンと横に振った。
ただ隣に座る女の人を直視出来ず、また視線を逸らすように俯いた。
「ふふ……ありがとう。」
また心地良い無言の世界。
遠くでカツーン、という甲高い足音が響いている。
いつしか二人でガラスケース越しの『彼女』を眺めていた。
静かでゆっくりとした時間が流れている。
絵の中の彼女と瓜二つの女性とこうして同じ顔をした絵を眺めるという不思議な状況に、僕は怪談本の中で見かけた『絵馬から抜け出した平安貴族』という奇妙な話を思い出して少しだけ笑っていた。
緊張が解れてきたらしい。
「やっと笑ってくれたわね。」
「………………あ。」
初めて、まともに彼女のを見た。
絵の中の彼女と同じ顔なのに、どこかまるで違うのである。
嗚呼、血が通っている。
そう感じた。
そう感じた瞬間、心臓が止まった気がした。
初めて心が彼女に囚われた錯覚。
ずっと味わっていたいそんな感覚だった。
「…………あら、もう閉館なのね。」
気が付くと閉館を知らせる音楽が流れていた。
この美術館では一般的な『蛍の光』ではなく、静かなクラシックが流れている。
あれは確かバッハの………うん、バッハの曲だったはずだ…。
「時間を忘れさせてくれるなんて……本当に素敵な絵ね…。」
彼女はガラスケースの向こうに鎮座する『自分』の姿に想いを馳せている。
そんな物憂げな表情に釣られるように僕の視線もガラスケースの向こう側へと向けられた。
絵の中の彼女はフレームに囲まれたまま美しい微笑みを浮かべている。
それでもあれ程感じていた体温を感じなくなっていた。
今言えることは、僕の熱は間違いなくフレームの中の彼女ではなく、ガラスケースに映る僕の隣に座って微笑んでいる『彼女』に向けられているのだと幼いながらに感じ取っていた。
「また……会えますか…?」
面と向かっては言えなかった。
それでもありったけの勇気を振り絞って、僕はガラスに映る彼女に話し掛けた。
考えて見たら、『彼女』に自分から話し掛けたのはこれが最初だった。
少し驚いた風な表情を浮かべた彼女だったけど、僕の言葉が嬉しかったのだろうか、すぐに表情を緩ませると『はい。』と僕だけに聞こえるように透き通るような綺麗な声で返事をしてくれた。
たったそれだけで嬉しかった。
絵の中の『彼女』に会いに来るだけでなく、本当の熱を感じる『彼女』に会いに来る。
そんな目的が生まれて僕は叫びたくなるのをグッと堪えて奥歯を噛み締めた。
それじゃあ、と僕は長椅子から立ち上がり美術館の出口へと走った。
マナー違反も良いところだったろう。
それでも嬉しくて、じっとしていられなかった。
また明日もあの人に会う。
そう考えただけで空も飛べそうな気がしていた。
『きっと……また私に会いに来てね…。』
何故か耳元で聞こえた気がして、僕は立ち止まって振り返った。
長椅子には誰もいない。
シンと静まり返った館内で、時計の針が止まったかのような静寂が五月蝿かった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
あの頃の俺は何も知らなかった。
『彼女』は常設の絵画ではなく、ただ企画で飾られていただけ。
つまり開催期間が終われば取り払われてしまうのだ。
彼女に出会ったのもそんな展示最終日。
結局、約束は果たせないままだった。
あの人は本当に絵画から抜け出した精なのか…。
それとも何か別の物だったのか…。
今となってはどうでも良く…。
あれから本当に長い月日が経った。
一人称が『僕』から『俺』に変わり、
ただの小学生だった俺は彼女が取り払われたことを知り絶望し、
ただひたすら彼女を忘れまいと
クレヨンで クーピーで 色鉛筆で 水彩画で
ただただひたすらに記憶の中から彼女を思い描き紙に写し取っていた。
俺はただ彼女を模写し続けることに特化することを選択した。
気が付けば美術系の学校を選び、
彼女を彩っていた油絵の具を手に取って、完全なるコピーを目指していた。
その結果がこの様だ。
「くだらねぇ…『ヘルメルに魅せられた画家』なんてキャッチコピー、今時ありえねえよ。」
あれから16年経っている。
『彼女』の模写絵で大賞を獲った俺は若くして成功を修めた。
何でも失われたヘルメルの画法を俺は会得しているらしい。
パリに行ったのか、それとも誰か有名な画家に弟子入りしたのか…。
そんなことばかり聞かれたが、俺はただ忠実に『彼女』を描きたかっただけだったのに、いつの間にか道を逸れてしまって、かつて俺が通い詰めた美術館で小さいながらも個展を開いてもらえる身分になっていた。
いくつも展示された『彼女』の劣化コピー。
その中に一点だけ、本物の『ヘルメル作・少女像』を飾ってもらった。
主催者側に申し入れた俺のたった一つだけの我が侭。
主催者も最初は渋ったが、期日までに『彼女』を探し出してくれた。
「……やっと戻ってきたよ。」
ガラスケース越しに俺は彼女に語りかけた。
やっと俺はあの日の自分に帰って来れたそんな気がした。
長椅子まで再現して、自分のセンチメンタルな部分を曝け出して、『彼女』に恋して以来ずっとどんな女にも興味が持てなかった自分のアブノーマルな部分を作品にしている。
そんな自分が我ながら馬鹿馬鹿しく思える。
だけど……これでやっと全部が揃った。
「………座ってもよろしいかしら。」
嗚呼、彼女がいる。
ガラスに映る俺の背後に、あの日と何一つ変わらない『彼女』がいる。
何年も会いたかったあの柔らかな微笑みを浮かべている。
「……もう、坊やって呼べないわね。」
「俺は今でも坊やのつもりですよ…。あなたの、前では。」
あなたは誰ですか、とは聞けない。
聞いたところで正体に興味はない。
ただ心の奥底から『彼女』が愛しかった。
「ありがとう、私に会いに来てくれて…。」
「約束でしたから…。」
あの日のように、閉館の音楽が鳴り響く。
バッハのG線上のアリアが静寂を彩るように美しい旋律を奏でていく。
「今日は、もう走らないのね。」
「ええ、今日は我が侭を通しましたから。」
主催者側に俺は申し入れていた。
どうしても個展を開催する前日に『彼女』と二人きりで夜を過ごしたい。
絵画を愛してしまった男の我が侭を聞いてくれた主催者に感謝する。
彼女の隣に座る許可を貰って、俺は嬉しくて喋り出していた。
あなたに会えなくて寂しかったこと。
あなたに会いたくて俺はここまで来たこと。
他にも取り留めのない話を彼女はただ黙って聞いてくれた。
取り戻せない16年分を埋めたいと必死だった。
「本当に……会いたかった…!」
気が付けば感情が昂りすぎて泣いていた。
彼女の手を握り締めて、俺はまるで子供の頃に還ったかのように泣いていた。
そんな俺の手を彼女は握り返してくる。
「私も……お会いしたかった…。」
泣いている俺の頬に彼女の唇が触れる。
舌で涙を舐め取っている。
そんな仕草、近付いた彼女の香りに惑わされたのか………、気が付いた時には彼女が頬が桜色に染まった顔で、黒い宝石のような潤んだ瞳で、至近距離で真正面から俺を見詰めていた。
プルプルと柔らかそうな唇が僅かに開いた。
「…………隙間を埋めてくださいまし。」
吐息交じりのその鼻に掛かったような声に導かれるようにお互いに目を閉じた。
そのままゆっくりと、顔を近付けて唇の隙間同士を埋めていく。
想いを確かめ合うようなキスに心が蕩けていく気がした。
そして離れ難いけれど、同じようなゆっくりとした動作で唇を放す。
二人の舌には細い粘液のアーチがかかっていた。
「……あ、その…忘れる前に…。」
言いようのない高揚感に我を忘れる前に俺はやるべきことを果たそうと思っていた。
彼女に会えたなら、
もう一度彼女に会えたなら渡したかったものがあるのだ。
長椅子のすぐ傍に置いた黒いケース。
あまり大きくはないサイズのそれは一枚の油絵だ。
「開けて見ても良いですか?」
彼女へのプレゼント。
俺がこの日のためだけに描いた最高傑作。
ケースの留め金を外す彼女の顔が期待に満ちている。
しかし、ケースから絵を取り出した瞬間、彼女の表情が凍った。
「…………え。」
そこに描かれていたのは黒髪の少女の姿。
『ヘルメル作・少女像』に描かれた金髪の少女ではなく、どちらかと言えばあの少女像のように華やかではない暗い印象を持たせる儚げな黒髪の美少女の姿だった。
「……………な、何で。」
怯えたような目で『彼女』は俺を見ていた。
絵の中の『彼女』ではなく、黒髪の少女である『彼女』の姿が俺の目には映っている。
「……知ってました。あの日、俺がまた会えますかと聞いた時、ガラスケースに映ったのは虚像のあなたではなく、真実のあなたでした。だから俺は聞いたんです。また会えますか…と。」
あの日から俺が恋したのは『彼女』ではなく『あなた』でした。
目の前にいるのはフレームから抜け出した理想像じゃない。
俺が描いた姿よりいくらか成長した黒髪の少女だった。
ずっと………ガラスケース越しに見た真実の姿を、俺はあなたに恋をしていた。
だからさっきのキスも真実のあなたとしたかった
「あなたの正体が人間でもなくとも構わない。どうか……。」
俺は片膝を突いて彼女の手を取る。
「俺の傍にいてください……ずっと…。」
きゅっ、と彼女の手に力が入る。
「…………人間じゃないんだよ。……怖くないの、私が。」
取り繕わなくて良い、本当の自分を曝け出した黒髪の少女が震える声でおずおずと訊ねる。
恐ろしくはない。
ただ、彼女を再び失うことの方が何倍も恐ろしい。
「驚いた、でもそれだけです。」
まるで弾かれるように彼女が長椅子から俺に飛び掛った。
しっかりと首に腕を回し、離れないように儚げな力で抱き締めてくる。
それが愛しくて、俺は彼女の美しい髪を撫でながら抱き返していた。
人でなしの恋
結局俺は鏡に恋をしたのだろう
絵画に恋をして
ガラスケースに映った真実に心を奪われていた
『彼女』によって狂わされた恋心は、ようやく居場所を得たらしい
12/11/05 23:45更新 / 宿利京祐