読切小説
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宵闇夢怪譚【剣に殉じ、恋に死す】
「いやぁ、助かりました。」
仕事上の知り合いに誘われて冬山登りにやってきたのは良いのだが、一週間は快晴が続くだろうという天気予報を嘲笑うかのような猛吹雪に見舞われ、俺・榊原 清春は一緒に登山に来ていた仲間とはぐれてしまい、そのまま冬山で凍死することを覚悟していた。
しかし、運良く民家の明かりを見付けた俺は、必死の思いでその民家の戸を叩いた。
小さく古い、それでいてしっかりした伝統的な古民家。
その古民家のずっしりとした引き戸を開けたのは、その家の主で雪奈と名乗る着物姿の女性だった。
二十代後半くらいだろうと推測出来るのだが、長く真っ直ぐに伸びた髪は真っ白で、大人の大和撫子という雰囲気と、まるで少女のような華やかな雰囲気が同居しているアンバランスさに、その白髪もまるでそれ自体が彼女の美しさを構築する一部であるような錯覚を覚える。
事情を説明すると、彼女は快く暖かな室内へ入れてくれた。
不思議なことに、これだけの古い日本家屋だというのに、まるで床暖房や断熱材を敷き詰めた最新設備の整った近代住宅にも負けないくらいの暖かさが、外の猛吹雪が嘘のようにそこにある。
あれだけの猛吹雪の轟音も聞こえない。
静かで、暖かな桃源郷。
「ささ、何もありませんが。」
そう言って、雪奈さんは囲炉裏で火にかけていた鉄鍋から、暖かな芋の味噌汁を注いでくれた。
朱塗りの雅な碗に並々と注がれた温かそうな味噌汁の香りは、寒さと空腹で消耗し切った身体に、僅かながら活力を漲らせて、冷え切った震える指先に少しずつ力を蘇らせてくれた。
「まぁ、九州の方から…。わざわざお仕事で登山に?」
「ええ、これでもフリーのライターをしてまして。今やっている仕事に少しばかり詰まってしまいまして、気分転換にと誘われたのですが…。」
ご家族は、と訪ねると、彼女は鈴が鳴るような可愛らしい笑い声を上げて、今はこの古民家に一人で暮らしているのだと楽しそうに答えた。
「そんな……、無用心な…!」
こんな山奥で一人だなんて、と心配していると、彼女はその反応が可笑しいらしく、楽しげに目を細めて、コロコロと袖で口元を隠して笑っていた。
「もう孫もいますのに、こんなお婆ちゃんを襲う好き者なんておりませんよ。」
「ま、孫!?」
失礼を承知で彼女の年齢を訪ねたのだが、彼女は笑ってはぐらかす。
それは仕方がないことなのだが、俺は文字通り、目を白黒させて驚くばかりだ。
そんな俺の様子を面白そうに見ていた雪奈さんだったが、芋の味噌汁と漬物と僅かばかりの白米を俺が平らげてしまうと、彼女は囲炉裏で燃える火のゆらゆらとした明かりの中で、静かな微笑を浮かべたまま、こう切り出したのである。
「さて、私の年齢は残念ながら憚りあって教えられませんが、お腹も満たされて、何もない山の中では娯楽もございません。娯楽の代わりではございますが、よろしければ私の昔話にお付き合いしていただけませんか。」
人と話すのも久し振りですので、とゆらゆらとした明かりの中で彼女ははにかんだ。
不思議な雰囲気だった。
雪の中で体力を失ったからか、それともこの囲炉裏の火という非日常の明かりがそうさせるのか、俺の頭はぼぅっとした靄に包まれたかのように痺れ、彼女の言葉にただ首を項垂れるように縦に振る。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


それは私、雪奈がまだ花も恥らうような十七の時で御座いました。

長い冬が終わり、

降り積もった雪も溶けた四月のある日、

私は物珍しかった仏蘭西の船に忍び込んで、

あの頃、この国で最後の意地と誇りを賭けた大地・蝦夷へと参ったのです。


あの時代、蝦夷の地は戦場で御座いました。
多くの人が倒し、倒されて……。
年号が明治に変わって二年目の春も、新しい時代を握った人々が、古い時代を守ろうと立ち向かう人々に止めを刺さんと、剣を取り、銃を握り締めて、隊伍を組んで戦い合っていたので御座います。
人の世は、真に奇妙奇天烈ですね。
何故、ああまで血を流さねばならないのか…。
人の世の仕組みなど、素知らぬ振りで見ない振り。
私はまるで風流人のように飄々と、春の息吹きに導かれるままに、北へ、北へと向かったのです。
異国の船の窓から偶然見付けた美しい城塞を一目見ようと、港に停泊した船から夜を待って、こっそり降りると、夜の闇に紛れて近付いてみようと辻籠や辻馬車を乗り継いで行くと、城塞の近くにそれはそれは見事な桜の木が。
調度散り際だったようで、まるで雪のように美しい花吹雪に心地良くなった私は、懐より取り出した扇を広げ、小唄を歌いながら花吹雪に戯れるように一指し舞っていたところ……。
「…誰だ。」
と桜の木の裏側から、総髪の髪を後ろに撫で付けた西洋軍服の三十半ば程の長身の男が、油断ならない鋭い視線を私に向け、静かで重い声で私に声をかけられました。
役者のような涼しげな顔。
私に向ける鋭い視線を生む切れ長の目。
幾度もの死線を乗り越えてきたことを連想させる存在感には、洒落者のような雰囲気が混ざっており、殺気の篭った声にも何とも華があったと覚えております。
………ええ、町で声をかけられたなら、人間でしたらそのまま恋に落ちる。
そんな男性でした、彼は。
「………見たところ、官軍の間者には見えんな。女、名は?」
官軍の間者には見えない、と言ったにも関わらず、彼の左手は刀の鯉口を切っていました。
なかなか、疑り深い方ではありましたね。
「雪奈、と申します。桜の雪に誘われて、蝦夷までついやって来てしまった氷妖で御座います。あなた様は、あの城塞のお方で御座いましょうか。」
氷妖、と言うと彼は眉を顰めました。
が、それもほんの一瞬のこと。
役者のように整った顰め面が緩み、笑い声を上げて優しげなお顔になられました。
「如何にも、あの五稜郭の者よ。それにしても氷妖とは酔狂な。あんたが言うことが嘘か真かはわからんが、官軍に妖しがいるなんて話は聞いたことがないし、無用心に小唄を口ずさんで見付かるような間抜けでは、密偵斥候の類ではなさそうだな。」
酒は飲めるか、と彼は無愛想に言いました。
少々、と私が答えると、彼はまたぶっきら棒に酒瓶を私にそのまま渡しました。
酒瓶のずっしりとした重さと、チャポンという音から、中身はほとんど減っていないのがわかったのですが、
「もう、杯は残っていないからそのまま口を付けろ。」
と彼はやはり役者のように静かな口調で、私に命じました。
「あなた様の分は?」
「俺は、あまり飲めん。」
それだけ言うと、彼はそのまま桜の木の裏に引っ込み、木の幹に背を預けて地面に置いた四方膳の上の小さな杯を手に取り、ちびりと酒を流し込みました。
それだけの仕草でも絵になる人。
ふと気が付くと、彼の周りには四方膳が二つ並んでいました。
四方膳の上には、同じように酒の注がれた小さな杯が置かれています。
「……失礼ですが、何をなさっていたのですか?」
私の問い掛けに、彼はこちらを振り向くことのないまま答えました。
「何、遅い出世祝いさ…。…………なぁ、こっちで飲まないか。綺麗どころがいた方が、二人も喜ぶ。妾だらけだった勇さんはともかく、こっちの総司だって嫌いじゃないはずだ。」
故人の名前だろうか…。
静かで重い彼の声が、その一瞬だけ和らいだ。
「お名前をお聞きしても…?」
「俺か?俺ぁ……。」
そこまで言って彼は言葉を濁した。
「すまん、人間ってのは駄目だ。つい、肩書きで名乗っちまおうって思っちまう。もしもあんたが本当に氷妖で、この名があんたの耳にも入っていたなら、あんたの耳が穢れてしまう。俺の名はこの蝦夷まで血で穢れすぎた。だから、悪いが俺は名乗らない。どうしても俺を呼ぶ名が必要であるなら………。」
少しだけ考えて、彼は言った。
「豊玉、これなら血に塗れちゃいないはずだ。」


―――――――――――――――――――――――――――――――――


「豊玉様は、生まれはどこですか?」
会話は他愛のないもので御座いました。
お互いの趣味や故郷の話。
私は豊玉様の杯にお酌をし、彼の飲み干した杯を借りて、彼にお酌をしてもらい、互いに酌をし合って、チビリチビリとお酒が進むと同時に、面白いように二人の口からは、言霊が溢れてきました。
「日野さ、武蔵の。」
「まぁ、将軍様のお膝元の。」
「ああ、そのお膝元だったさ。でも、ご覧の有様だ。江戸城は戦わずして開かれ、俺たちゃ意地と誇りだけ持って負け続け、蝦夷で共和国なんてものを作ってしまった。お雪、あんたたち妖しから見たら、俺たちゃ馬鹿みたいなものだろうな。こんな共和国ったって、明日には吹けば飛ぶように、滅んじまうような幻想だ。それでも俺たちゃ、その馬鹿な幻想に縋り付いてでも守らなきゃならねぇものがある。」
お雪、彼は私のことをそう呼んだ。
「守らなきゃいけないものとは?」
「曲げちゃいけねえ信念だ。それだけは時代が変わろうと、どうなろうと忘れちゃならねえ。お雪、あんたら妖しもそうだろう。人間であろうと、人ならざる者であろうと、そこだけは変わらないはずだ。」
彼は腰に差した刀を座ったまま抜き放つ。
幾度も血を啜ってきたような使い込まれた鋼鉄の刃が、月に照らされて、妖しく輝く。
吸い込まれそうな美しさに、私はそのまま見惚れていた。
「お雪、これは刀だ。」
「そうですね……、綺麗…。」
「和泉守兼定。俺が捨てられないものの一つだ。剣の時代が終わった。これからは銃の時代だって気付いて、髷を斬り、服装を洋装に改めて、仏蘭西などの西洋風の戦い方も見様見真似で身に付けて、負け癖の付いちまった幕軍の中でもそこそこ勝っている。だが、こいつだけは捨てられない。剣が役に立たないことを理解していても、こいつを捨てることは、親友に、仲間に、俺が殺めたすべてに背を向けることを意味するからだ。だから、俺はこれに殉じる。」
そう言って、彼は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
その言葉の深いところの意味を悟った私は、訊ねずにはいられなかった。
「無粋な問い、失礼致します。豊玉様は……。」
生き延びるつもりがないのですか、と聞くと、あたりはシンと静かになった。
長い、長い、長い沈黙。
月が雲に隠れて、あたりが闇に包み込まれた時、豊玉様の静かな声が私の耳に届いた。
「生き延びれないさ。」
静かで重い、されどその声に悲嘆の色はありませんでした。
「生き延びたところで、次の時代に俺ぁ不要な人間なのさ。」
「そんなことは…。」
わかりません、と言うと彼は柔らかな声で否定した。
「お雪、お前は良い雪女(ゆきめ)だな。それとも妖しは皆そうなのか。」
月を覆い隠した雲が晴れる。
月明かりに照らされた彼の顔は、笑っていた。
「俺ぁ鬼だ。鬼のまま生き、鬼のまま戦う。京でも会津でもそうやって戦った。言ってみれば、俺の人生は刹那の連続だった。刹那の連続が俺の人生を彩り、それだけが俺に満ち足りた瞬間を与えてくれた。ならば、何を今更命を惜しむことがある。」
「それでも……!」
大きな声を上げて、私はハッと口を押さえました。
口から出た言葉は二度と戻ることはなく、桜舞う木の下に佇むのは、真っ赤になって俯いた私と、突然そんなことを言われて面食らった顔をした豊玉様でした。
「………あんたが俺に生きて欲しい、か。」
「……お、可笑しいですよね。初対面でほんのちょっとしかお話していないのに…。」
恥ずかしさのあまり、逃げ出そうとする私の手首を、豊玉様は優しく掴んで引き寄せ、私はもたれかかるように豊玉様の腕の中にすっぽりと納まってしまいました。
そのまま、優しく慣れた手付きで私の髪を撫でながら彼は言いました。
「可笑しくないさ。」
「いえ……、しょ、初対面で…、それに…、恥ずかしい…。」
両手で顔を隠して、私は身を捩らせました。
しかし、豊玉様はそんな私を放してくれず、優しい声で語るのでした。
「可笑しくなんかないさ。誰かに生きて欲しいなんて思うのは、可笑しいことじゃない。初対面だとか、何年連れ添ったとかも関係ない。俺だってそうだった…、いや、俺だってそうなんだ…。ここにいて欲しい人たちが、ここにはいないんだから…。」
悲しそうな語尾にハッと気付きました。
豊玉様のいて欲しい方々、イサミさんやソウジさんは、思い出の中にしかいないのだと…。



「なぁ……、お雪はいつまで函館に滞在するんだ。」
「よ……予定なんて御座いません…。」
「だったら……、余程忙しくはない限り、余程の大怪我を追わない限り、俺はここに来る。だからさ、また会わないか。お前が……俺に飽きるまでで良いから…。」
今思えば、それが彼の素顔だったのかもしれません。
あの頃の私は、彼が気を使ってくれていると思っていたのですが、彼のことを知るたびに、優しさと甘えを『鬼』という言葉で隠して、刹那の時代に殉じようと強がっていた彼が、何も知らない私に見せてくれた素顔だったのでは…。
最近は、思い出すたびにそう思えるのです。

それから、刹那の逢引きを重ねました。

年上だった豊玉様は、私には非常に紳士的に接してくれて、

時々、甘い菓子や綺麗な簪(かんざし)、鮮やかな錦絵などを手土産に持ってきてくれました。

女性への細やかな気配りなどに、さぞやお持てになったのでしょう、と拗ねてみると、

豊玉様は顔を赤くして、慌てて否定したり…。

そんな心遣いや彼の素顔が嬉しかった…。

豊玉様と深い男女の仲になるまで、それほど時間がかからなかったと思います。

戦場で兵を鼓舞するという彼を慰めたかった。

素顔の少年みたいに純朴な彼が愛しかった。

色んな感情が入り混じったまま、私は彼を誘い、彼に抱かれて………。

「なぁ、お雪。」
事が終わり、彼の腕枕で幸せの余韻を味わっていると豊玉様が訊ねました。
「お前は、国に帰らなくて良いのか。」
「……あなたが望むのでしたら。」
そう言って、私は彼の胸に爪を立てました。
爪を立てて、出来た傷痕に舌を這わせ、口付ける。
彼の傍を離れたくないと思っている私に、国に帰らなくて良いのか、と訊ねる彼は何だか憎らしくて、困らせてやろうと思ったのですが、彼は私の髪を優しく撫でながら言いました。
「帰らなくても良いのなら……、ここで暮らそう。ここが嫌なら、俺と一緒に日野に行こう。姉貴たちが少々口五月蝿いかもしれないが、夫婦になる分には悪くはない連中だ。子供だって、育てるには良い環境だ。次の時代を、そうやって生きるのも悪くないかもしれない。」
初めて、生きたいと彼がハッキリと口にした瞬間でした。
それが嬉しくて嬉しくて、豊玉様の暖かな腕に抱かれながら、やがて来るであろう未来を思い描きながら、まどろみの中へと堕ちていったのを覚えています。
そしてそれが、私が彼にかけられた最後の優しい言葉。
朝日の眩しさに目を覚ますと、そこに豊玉様はおらず、ただ彼が私との逢引きの時には必ず着用していた西洋軍服が几帳面に畳まれ、大事そうに掛けられていた『誠』の文字を染め抜いた山笠模様の羽織と、彼らしい黒い着物、そして手放せないと語った和泉守兼定が、彼と一緒に部屋から消えていました。
一通の手紙に記した俳句を残して…。

『知れば迷い 知らねば迷わぬ 恋の道  豊玉』


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「あの日から、私は彼の部屋で待ち続けました。朝も、昼も、夜も……、彼が戦死したという報告を聞いても尚、五稜郭が堕ちるあの日まで、彼の部屋で待ち続けました。」
しつこい女ですよね、と彼女は笑った。
「私が蝦夷を後にしたのは、五稜郭が堕ちたからだけではありません…。娘が、あの人の子が私の中に宿っていることに気が付いたからなのです。ああ、この左で笑っているが娘です。母の私が言うのも何なのですが美人でしょう。」
時代掛かった箪笥の上に飾られた写真立てを手に取り、雪奈さんはゆらゆらとした囲炉裏の明かりの中で幸せそうな笑顔を浮かべて、俺に見せてくれたのだが、俺はその写真を見て、思わず声を上げて驚きそうになった。
雪奈さんの娘の結婚写真なのだろう。
まるで彼女の髪と同じような純白のドレスで、彼女と同じ白髪の美女が微笑んで知る。
だが、俺はその顔に驚きの声を上げそうだったのだ。
雪奈さんのような温和な顔。
その温和な顔に、俺は俺のよく知っている人物の顔を見てしまったのである。
直接の面識はない。
だが、非常に有名で、一度は歴史の書物で見る顔なのである。
「ひ…!」
土方歳三、その名を口にしそうだった俺の唇に、雪奈さんは細く美しい指を一本立てる。
「知らぬ知らぬ、言わぬが花と申します。」
そう笑顔を作る雪奈さんだったが、目が笑ってはいなかった。
まさか…。
いや、それこそ真逆だ…!
氷妖、雪女だなんて戯言だと思っていたのに…!
いや、それこそ彼女の美しさの証明に…、否、それでも…。
混乱して堂々巡りの自問自答を繰り返していると、雪奈さんは氷のように冷たく、日本刀のように鋭く、恐怖と疑問で困惑する俺に、まるで呪いをかけるように囁くのだった。
「あの方が自分の道に殉じたように、私も彼への恋に殉じようと、こうして百年以上もの間、誰の精も吸わず、ただただあの方への思いだけで、このようにゆっくりと死に向かい歩んでおります。榊原様、氷妖はですね…。一途なのですよ。その一途な思いを踏み躙るが如き野暮を嫌うのです。」
言っている意味がわかりますね、とゆらゆらとした明かりの中で彼女は言う。
それは、誰にも話さぬこと。
雪女の普遍的な物語通りなのである。
「もしも誰かに話したら…。」

その後、彼女が何を言ったのか、俺がどうやって下山して、我が家であるワンルームマンションの安いパイプベッドの上で横たわっていたのかなど、多くの記憶が欠損している。
ただ、酷く怖かった。
それだけは記憶でなく、心が覚えている。





あれから2年が経った。
あの日の怖さも薄れ、俺は締め切りの迫ったコラムの記事に、あの日雪山で聞いた昔話をパソコンに打ち込み、後は編集部にメールと一緒に送るだけという段階にして、窓から見える夜景を見下ろしながら、コーヒーを飲んで疲れを癒していた。
久々に余裕のある仕事だったせいか、少しだけ気が抜けている。
そこで、俺は同業者である志雄 京祐という男に電話を掛けた。
抜けたところのある彼に原稿の添削が出来るとは思っていないのだが、彼自身、不思議な話を集めるのが好きで、しばしば怪談話に興じることがあったので、この不思議な話を肴に一緒に飲もうかと誘いをかけた。
「……そうそう、ここで話してしまうと興醒めだから、会ってからな。」
電話口で了承を得ると、携帯電話の通話オフのボタンを押す。
彼のことだ。
山の上から街に来なければいけないから、早くても小一時間くらいだろう。
その間に、原稿の保存や酒の備蓄を確かめねば…。

ピンポーン…

その時、インターホンが鳴る。
こんな時間に誰だろう。
集金が五月蝿いNHKだろうか、と思いながらインターホンの受話器を手に取ると、インターホンの向こうから、とても柔らかくて、よく通る美しい声が返ってきた。
『あの…、隣の部屋に越して来た土北と申します。引越しのご挨拶にと、お蕎麦を持って来たのですが…。』
「あ、これはどうもご丁寧に。少しだけ待っててください。今、開けますから。」
引越し蕎麦と聞いて、俺の腹の虫が悲鳴を上げた。
現在、午後8時32分。
そういえば、今日は一日何も食べていない。
俺はインターホンの受話器を置くと、急いで玄関に向かい、ドアチェーンを解除し、鍵を回して、今時あまり見かけないような立て付けの悪い鉄のドアを開いた。
「お待たせしまし…。」
そこに立っていたのは、どこかで見たような白くて長い髪の高校生くらいの少女。
ベージュ色のタートルネックのセーターと、グレーのロングスカートを見事に着こなし、両手で生の蕎麦が詰まった竹篭を持って、そこに人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。
「初めまして、榊原さん。土北 紗雪と申します。あ、お婆様から送られたお蕎麦ですけど、良かったらこれからやって来るお友達の方とも一緒に食べませんか?味は保障します。お婆様、お料理がとても上手なんです。」

あの不思議な体験を、俺は誰にも語ることは出来ないかもしれない。

もしも語る時が来たなら、

それは俺が彼女と共に消えるその時なのかもしれない。

そう感じ取った俺は、

彼女の目を盗んでパソコンの中の、保存しかけの原稿を削除した。

これで、俺が口を開かぬ限りは…。

そう安堵して振り返ると、

紗雪と名乗る彼女が、

まるで雪奈さんが笑う時のように、

セーターの袖で口元を隠して笑っていた。



12/02/28 23:56更新 / 宿利京祐

■作者メッセージ
と言う訳で、こんばんわ。
風雲!セラエノ学園の前に、短編の乱発している宿利です。
今回もシリアス&不思議な話。
土方歳三が好きな方、ごめんなさい!
でも、どうしても使いたかったん(ずきゅーん!)たわば!?
どこから!?
どこからの狙撃!?

妙な小芝居を挟みましたが、
今回も皆様に楽しんでいただければ良いなと祈っております。
では、最後になりましたが
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
またどこかで、お会いしましょう^^ノシ

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