第四話・Mother
史実に、アドライグたちの一団がどのようなルートを辿ったのかは残されていない。
しかし、彼女たちは生きようと必死だったことだけはわかる。
旧フウム王国残党軍に籍を置くキリア=ミーナが、自身の楽しみのためだけにアドライグの追跡を妨害していたことが、近年の研究で明らかとなってはいるものの、それを差し引いても残党軍に一度も捕捉されなかったアドライグ一行の退却は見事であると、歴史研究家や兵法研究家は口を揃える。
ただの素人である農民の群れを率いてアドライグは道なき道を行く。
推測ではムルアケ街道を真っ直ぐ行かず、敢えて追跡を逃れるために脇の雑木林に入り、そのまま道なき道を進んで山を越えたのではないかと言われている。
その道程は辛く、苦しいものであったであろう。
だが、彼女らは一人の脱落者も出さなかった。
そして月が変わって、3月7日。
アドライグはムルアケ街道を塞ぐようにふてぶてしく陣取り、この時点では神聖ルオゥム帝国皇帝であるノエル=ルオゥムの許可なく、着々と砦を要塞へと変貌させている学園都市セラエノ軍総帥・ロウガの下へと辿り着いた。
疲労困憊のアドライグは、そのままセラエノ軍の世話になることになる。
それが、彼女の無気力に近い人生を大きく修正していくのであった。
私はあの時、負けたのだろうな。
そんなことをぼんやりと考えながら、寝転がって空を眺めていた。
何に負けた?
キリア=ミーナに負けた。
自分に負けた。
それだけじゃない。
何に負けたのかすら、ハッキリと理解が出来ない。
ハッキリと理解は出来ないが、心の中のモヤモヤはずっと消えないままでいる。
セラエノ軍に保護されてから2日目。
情けないことに、今でも敗北感に苛まれている。
…………でだ。
ところで、何で私は寝転がっているんだろう。
…………思い出せない。
「……痛い。」
気が付けば、腹が痛い。
ズキズキと、まるで何かに殴られたかのように痛みが自己主張している。
右肘までズキズキする。
「……お、気が付いたかい?」
手にバケツを持ったリザードマンが私を見下ろしていた。
私の目線からバケツの中身は見えないのだが、彼女が歩いてきた振動でタプン、タプンという音を鳴らしているので、どうやら水が並々と溜まっているらしい。
「………アスティア、理事長?おはようございます?」
「理事長はやめてくれって言ったろ。今の私はロウガの妻、学園長夫人というだけなんだから。それにおはようの時間ではないね。君が気絶してから、もう3時間も経っている。すっかり、昼だ。」
この方は、学園都市セラエノの二大統治者の一人でアスティア理事長。
もっとも、この時代のセラエノでは理事長という地位は存在せず、私の時代ではロウガ王……いや、ロウガ学園長が最高責任者で最高権力者だから、アスティア理事長を理事長と呼ぶのも変な話である。
もっとも、元の時代では私はアスティア理事長と会話をしたことがない。
理事長として多忙を極める彼女なのだが、それ以上に剣を取る者たちにとってはまさに伝説と呼ぶに相応しい存在で、気軽に声を掛けるなんて恐れ多くて、学園都市に留学していた数年間、一度も接触はなかった。
そして色々込み合った事情があり、私はロウガ王とアスティア理事長にだけは、自分の事情、私がこの時代ではなく、20年後の世界から迷い込んでしまったらしいことを話したのだが……、話したというか話さざるを得なかったというか。
いや、あれは最悪な脅しだったというか…。
それは良いとして、私が気絶?
一体何の話……………あ。
「思い出しました。」
『おう、そのツラ見ると、まだまだ負けたの引き摺ってんな。』
ロウガ王に挑発されて、手合わせをすることになったんだっけ…。
「久々にロウガが楽しそうな顔をしていたよ。君が無事だというところを見ると、あいつも手加減をしたんだね。あいつが本気で、鎧通しをやったなら…、今頃君はこんなところではなく、傷病兵と一緒に軍医の世話になっているか、土の中でずっと眠り続けていただろうね。」
冗談抜きに、とアスティア理事長は笑って物騒なことを言った。
それこそ、冗談じゃない。
元の時代に帰る前に死んでたまるか!
身体を動かせば、心を覆う靄も晴れるかもしれないと思って、私は敢えて見え透いた挑発に乗って、ロウガ王の提案した戦闘訓練を受けることにした。
私はロウガ王に借りた木剣。
対してロウガ王は、あろうことか素手。
それも右腕が使えぬからと、私を相手に左腕だけで相手をすると言った。
人間である義母に育てられた私には、あまりリザードマンである自覚がない。
でも、自分の身体が持つ身体能力の高さだけは自覚していた。
最初は私を侮辱していると思っていた。
老齢だと言っていたが、その思い上がりにお灸を据える必要があると武器を構えたのだが、その時、私は自分の相手の戦力を計る能力の未熟さを思い知った。
武器を構えた。
だが、踏み込めない。
素手で、しかも左腕しか使わないというのに、構えてさえいない老人に一歩も前に出ることが出来ず、ただただ時間だけがゆっくりと過ぎていき、キリア=ミーナと対決したのとは、まったく異質の緊張感を味わっていた。
そんな時間が止まった空間で、ロウガ王は私に対する最大級の侮辱を口にした。
『クックック……、ビビって足が竦んだか?ま・け・い・ぬ。』
「それで頭に血が上って……思いっ切り斬り付けたら、右の手首を取られたと思ったら、身体が宙に浮いてて……そうだ。お腹に手の平を空中で当てられて…。」
自分でも何を言ってるのか、わからない。
「ふふ、それで突っ込んで行ったか。」
何か楽しそうに微笑みながら、アスティア理事長は私の上着を器用にクルクルと丸めて、枕のように私の頭の下に敷き、バケツの水でタオルを濡らし、冷たく濡れたタオルを畳んで、私の額の上に置いた。
ぼんやりとした頭が、冷たく濡れたタオルで徐々にハッキリしてくる。
ああ、気持ち良い。
「見ていたけど、君に剣を教えたのは娘かな?」
「え、あ、はい…、わかりますか?」
娘、というのはアスティア理事長の御息女でセラエノ学園の二代目教頭で、セラエノ学園二代目学園長サクラ学園長の奥様であるマイア教頭のこと。
「ああ、重心の乗せ方から何から何までよく似ている。だが、娘に剣を教えたのもロウガだから、あしらい方も心得たものだよ。それにね、もしもロウガを本気を出させたいのだったら…。」
……あまり本気を見たくない。
嘗められて、私の本気さえ軽くかわしてしまうような老人の本気など見たいものではないのだが、やはり私もリザードマンだったのだろう。
生唾を飲んで、怖いもの見たさとも、未知への挑戦に近い思いとも取れない不思議な戦慄を覚えつつ、私はアスティア理事長の言葉を反芻するように聞き返した。
「もしも、本気に……させたかったら…。」
上擦った声。
そんな私をアスティア理事長はやさしいを目して静かに言った。
「君の命を差し出すことだろうね。」
「そんな無茶な!」
思わず身体が痛いのも忘れて、声を荒げて起き上がった。
いきなり大声を出したものだから、私は無様に蒸せて咳き込んだ。
「ど、どこの世界にそんな勝負があるって言うんですか!そもそも、殺られずに殺るというのが、実戦の鉄則でしょう!?自分の命を捧げるだなんて、そんな馬鹿げたこと…。」
「馬鹿げたことかな?」
アスティア理事長は首を捻る。
「私は昔、あいつと戦った時に、あの瞬間、死んでしまっても良いと思ったよ。ロウガの命を奪おうとした。ならば、同時に自分の命を奪われても本望だと感じたよ。」
「なっ…!?」
言葉がなかった。
元の時代で教わることのなかった、アスティア理事長の語る闘争者の心得。
命を奪おうとしているのに、命を守ろうとした私。
命を奪うのであれば、当然のように相手に差し出していたアスティア理事長。
そういえばキリア=ミーナは言っていた。
自分は何よりも殺人を犯している瞬間が大好きだと。
楽しめる殺し合いが何よりも好きなのだと言っていたじゃないか。
裏を返せば、それはいつ殺されても良い
他人の命を奪おうというのに、自分だけが生き残りたいと思っていた私。
それでは踏み込める訳がないじゃないか。
出来ていなかった。
命のやり取りの準備が…。
私が何故キリアに敗北感を感じたのか。
それを今更になって悟っていたと同時に、そうやって簡単に命のやり取りの準備が出来るアスティア理事長が、何故私の時代でも伝説として名を残したのかを思い知り、そういう準備もなしに、感情に任せて人を殺したことを恥じていた。
母なら……、何と私を諭すだろうか…。
ほんの少し。
勝手に心に壁を作って、距離を開けてしまっていた母が恋しくなった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
―――2日前、3月7日
「セラエノ軍総帥、沢木狼牙だ。同族を妻とする者として歓迎する。」
「あ……あ、ありがとうご…ございます…!」
目の前の男に、私は目線を合わせることが出来ず、跪いて震えたままで、私たちを保護してくれた礼を述べていた。
これが………辺境世界の秩序を破壊し、新たな時代を引き込んだという伝統破壊者…。
この人が………、あの悪名高い……あの、ロウガ…。
怖い…。
何故だかわからないけど、この人を前にするだけで腹の底から震えが来る。
「あー……よくわからんが、堅くなるな。取って喰ったりはしないからさ。」
「い……いえ…その……。」
私はあまり歴史は得意な方ではない。
学業としての歴史はそれなりにはこなして来たのだが、捻くれた生い立ちのせいなのか、過去に今現在との繋がりを感じることが出来なかった私は、本当に歴史の有名どころを触り程度と、母や幼い頃私の世話をしてくれた人々の思い出話程度の知識しか持ち合わせていない。
そんな私でも、この『魔王』と呼ばれた男のことは知っている。
自ら最強の武力を誇り、莫大な財産と豊富な人材を駆使して、学園都市セラエノを当時の統治者たちから奪い取ったという下克上の体現者。
さらにその野望は遥か彼方へと伸び、母の統治していた神聖ルオゥム帝国をも巻き込んで、当時辺境の最大反魔物勢力だったヴァルハリア教会領さえ滅ぼしたという、今尚、人間でありながら『辺境の小魔王』、そして『学園長』としてではなく、恐れと憧れを込めて『セラエノ王』と呼ぶのに相応しい大悪党。
それがセラエノ学園初代学園長・ロウガ……だと子供の頃、母の部下で国務大臣、自称伏龍丞相と名乗るバフォメットのイチゴ卿が言っていた。
『ワシらの親分じゃったあの爺様は凄かったのじゃ。セラエノ戦役の時には、並み居る教会連中を千切っては投げ、千切っては投げ……むむ?オヌシ、ガキンチョのクセに嘘だと疑っておるな?ケケケ……アドライグよ、良いことを教えてやろう。あの爺様が死んでしまってからというものな、【ロウガの噂をするとロウガが現れる】という怪談染みた噂話があるのじゃ。ほれ、今もそこに人間の皮を被った悪魔のジジイが窓の外に……。』
……………タイミング良く鳴り響いた雷鳴に、泣き叫びながらお漏らししたっけ。
いや、アレはイチゴ卿が悪いんだ。
幼い私を怖がらせ、あまつさえトラウマを植え付けるとは何と大人げないのだろう。
そのせいなのだろうか…。
この理由のわからない、気持ちの悪い震えは…。
「………すっかり怯えられてしまったな。」
ロウガと名乗る男は、ジッと私を見詰めていた。
微笑んでいるようには見えるが、それを打ち消す程、顔に刻まれた傷のせいで、その眼光は鋭く、まるで私の惰弱な内面を刺し貫くような視線は、イチゴ卿の昔話があながち間違いではないことを物語っている。
「どうした、俺の顔に何か付いているのか?」
あまりにジロジロと顔を覗いていたので、不審に思われたらしい。
「も、申し訳ありま…せん…。」
「まぁ、この顔の傷は……学園の子供たちも泣き出したくらいだしな。気になるのも仕方がない。で、お前さんもリザードマンなんだろ?出身はどこだ。」
「出身……ですか?」
私は答えに詰まった。
私は後ルオゥム帝国出身者だ。
そして、セラエノでも育った。
だが………、困ったことに、『この時代』の帝国でもセラエノでもないのだ。
「……………もしかして、お前さんもどこかの戦場から焼け出されたのか?それだったら、悪いことを聞いてしまった。考えれば、このあたりは反魔物勢力だったな。お前さんが魔物の身でこの地にいるんだ。それなりの訳があって然るべきなのを失念していたよ…。」
「そうだぞ、ロウガ。初対面の娘の、身の上を聞きたがるなんて、君も歳を取ったものだな。」
収容した村人たちの手当てが終わった、と帷幕に姿を現した女性。
同じリザードマンだと認識した時、私の目に飛び込んできた彼女の腕に深々と残る傷痕を見て、私は出会えた嬉しさのあまり、思わず我を忘れて彼女に叫んでしまった。
「アスティア理事長!!」
「…………ん?私が理事長…?」
叫んでしまってから、私は口を押さえたのだが、後の祭り。
この時代のアスティア理事長は、まだ学園長夫人ってだけだったはずなのに…。
見知った人物に出会ったことに、思わず喜んで叫んでしまった自らの未熟を恥じてしまっても、『覆水盆に帰らず』とはまさにこのことで、アスティア理事長は何が何だかわからない表情を浮かべて、私を不審そうな目で見ていた。
「………君は、何者なんだい?」
「あ…あう…ええっと……。」
何とか誤魔化そうと試みた。
実はセラエノ学園にいたことがある、と言ってみたのだが、驚くべきことにロウガ氏は学園の生徒の顔と名前をすべて覚えており、私がこの時代の学園の生徒ではないことを看破されてしまった。
他にもアレやコレやと誤魔化しを試みてみたのだが、尽く目の前の御夫妻に看破された。
しかも誤魔化せば誤魔化す程、話の内容にボロが出てしまい、ついに私の武器は途切れる。
つまり………、最早打つ手なし。
「そろそろ言い訳が苦しくなってきたようだし、さっさと自白した方が良いぞ。これでも若い頃は『沢木の紅若』って名前で傾いていたし、長いこと戦場にもいたから、捕虜の口を割らすのも慣れたもんだ。主にお前さんが嫌がるような方法でな。痛いやつ、やらしいやつ、何だかよくわからないやつ。各種方法に対応出来るから、嫌なら今すぐ喋れ。」
「安心していい。例え、君が敵方のスパイだったとしても、命を取るようなことはしない。だが………正直に話さないと…、私たちの軍師に引き渡さなければならないだろう。彼女のことだ。きっと………、嬉々として色々な拷問を試して、君から真実を語らせようとするだろうな。」
ニヤリと笑うロウガ王と済まなそうな表情を浮かべるアスティア理事長。
やはり正直に話すべきか…。
だが、その前に私は確認せずにいられなかった。
「あ、あの……、その軍師という方のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
私の記憶が確かなら……確かこの当時のセラエノ軍の筆頭軍師は、アヌビスのネフェルティータ副理事長だったはずだ。
引き渡される相手があの人なら、真実を語らなくても酷いことにはならないだろう、という打算の下で、私はアスティア理事長の言う軍師の名前を訊ねた。
「………知っているとは思えないのだが……、イチゴという名のバフォm」
「話します!話します!何でも正直に話しますから、それだけは!!」
冗談じゃない!
キリア=ミーナとの戦いで心も身体も傷付いているというのに、ここでイチゴ卿に関わってしまったら、元の時代に帰るという私の目的どころか、その瞬間にゲームオーバーになるに決まっているじゃないか!
あの……イチゴ卿だぞ…!
散々、子供の頃にトラウマを植え付けてるわ、噂話の小魔王ロウガなんかよりもっと身近で、皇帝である母でさえも手玉に取る正真正銘の悪魔相手に、それも本人の言葉が正しいとするなら、全盛期だというバフォメットの皮を被った悪魔に私が耐えられるはずがないのだから…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
色んなことがあった一日だった。
ロウガ王に叩きのめされたり、アスティア理事長にも敵わないことを思い知ったし、何より私は自分の本当の姿を知ったような気がした。
良い気になっていたような気がする。
学園で成績優秀だとか、武術の腕に覚えがあったりして、私は優等生らしく振舞おうとしていたのかもしれない。
その結果が、これだ。
キリア=ミーナに負けた理由もわからず、ただ負けたことだけを悔しがって…。
もしも、これがロウガ王が気を使って、軽く汗を流す程度で済ませてくれていたなら、きっと今でも気が付かなかったのだと思うのではあるが……、どうしても私はロウガ王のことを好きにはなれそうにない。
ズキズキと痛む腹と右肘が、その理由だ。
「……くそぉ。サクラ学園長が言っていたことは本当だったのか。」
サクラ学園長の昔話を思い出す。
地獄の特訓から何度も生還したが、結局はほとんど自力で何かを掴んだし、ロウガ王は悪魔のような笑い声を上げて、サクラ学園長を叩きのめしてばかりだったと…。
身に染みて理解した。
今、私は深夜の見張り番をしている。
『働かざる者、食うべからず』というロウガ王の命令により、私は治療に専念してベッドの上で横になることが出来ず、兵錬を免除してもらった代わりに炊事、洗濯、傷病兵の世話などをして、今日を過ごしてきた。
武術の訓練などで身体を動かすことは得意ではあったが、炊事や洗濯などの行為は明らかにそれとは違う筋肉を使うため、私の身体は疲労を訴え続け、この見張り番も半ば座ったままで、ぼんやりと夜の海の波音のように木々がざわめく真っ黒な世界を眺めているのであった。
「……変わらないものなんだなぁ。」
どんな時代でも夜の闇は変わらないものなのだ、と私は何度も噛み締めていた。
思い出す。
子供の頃、母の目を盗んで、こっそりと夜の闇に飛び込んだことを…。
カンテラの光さえ吸い込んでしまいそうな闇を一人歩いた思い出。
徐々に不安になって、座り込んで泣き出した私を迎えに来てくれて、手を引いて城まで送り届けてくれた人は誰だっただろうか。
それだけは思い出せない。
「ああ……、綺麗…。」
溶け込みそうな暗闇から目を逸らすように空を見上げると、そこには大きな月。
まん丸なお月様。
すべてを飲み込んでしまいそうな夜の闇の中、月は薄ぼんやりとした光で、すべてが闇に飲み込まれないように、必死にこの混沌とした世界を照らし続けている。
変わらない。
どこにいても。
どんな時代でも。
月は、夜は、変わらない。
「~♪私は月…。」
気が付けば、思い出すように歌っていた。
母が歌ってくれた子守唄。
歌詞もメロディーも思い出せなくて、最初はたどたどしく口ずさんでいたけど、徐々に蘇る母の膝の上で聞いた記憶に、口から出てくる旋律は滑らかに、そして母が歌っていた美しい歌声に似せるように、私は月に歌っていた。
「~♪私は月
砂漠の夜を照らす穏やかな月
お前が迷わぬように
いつだって道を照らしてあげよう
眠れ愛しい子よ
私はいつだって、お前を見守っている…。」
幼い頃、母の膝の上の温もりが幸せだった。
そんなことを思い出しながら歌っていた。
パチパチパチパチ…
「誰だ!!」
突然近くで鳴り響いた拍手の音に、私はここまでの接近を許した驚きと、歌を聴かれてしまった恥ずかしさに、飛び起きて剣の柄に手を掛ける。
「わ、ま、待って!」
慌てた声が松明の向こうから聞こえてくる。
声の主はゆっくりと両手を挙げて歩いてきた。
徐々に松明に照らされながら現れたのは、真新しいセラエノ軍の鎧を身に付けた私より年下だと思われる青年であった。
温和な顔をして、とても兵士とは思えない。
「ご、ごめん…。綺麗な歌声が聞こえてきて…、つい…。」
「……いや、私こそ。ちょっと、驚いてしまった。」
恥ずかしさにそっぽを向いてそう言うと、彼は笑った。
「何が可笑しいのですか?」
馬鹿にされたような気がして、怒りを込めた声で訊ねる。
「あはは、ごめんごめん。何だかね…、可愛かったから。ほら、リザードマンって凛々しいイメージがあったし、そんな恥ずかしそうな表情もするんだなって。」
「そ、それは侮辱と取ってもよろしいか!?」
年下だとは思う。
でも、正直と言うか失礼と言おうか。
「で、君の名は?」
何故か、この失礼な彼に興味が湧いた。
例え興味がなくとも、名は聞いたのかもしれない。
少なくとも、この時代にいる間は……、彼とは戦友になるのだから。
「僕は、リオン。リオン=ファウスト。つい最近までは、ヴァルハリア教会の騎士をやっていた。ああ、そう身構えないで。確かに僕は教会騎士だった。でも、今は自分の意思でこの軍にいる。この世界を変える手伝いをしにね。」
リオン=ファウスト。
この名前は、私の心の奥深くに刻まれていく。
出会いはあまりに唐突ではあったけど、それがリオンと私の始まりだった。
しかし、彼女たちは生きようと必死だったことだけはわかる。
旧フウム王国残党軍に籍を置くキリア=ミーナが、自身の楽しみのためだけにアドライグの追跡を妨害していたことが、近年の研究で明らかとなってはいるものの、それを差し引いても残党軍に一度も捕捉されなかったアドライグ一行の退却は見事であると、歴史研究家や兵法研究家は口を揃える。
ただの素人である農民の群れを率いてアドライグは道なき道を行く。
推測ではムルアケ街道を真っ直ぐ行かず、敢えて追跡を逃れるために脇の雑木林に入り、そのまま道なき道を進んで山を越えたのではないかと言われている。
その道程は辛く、苦しいものであったであろう。
だが、彼女らは一人の脱落者も出さなかった。
そして月が変わって、3月7日。
アドライグはムルアケ街道を塞ぐようにふてぶてしく陣取り、この時点では神聖ルオゥム帝国皇帝であるノエル=ルオゥムの許可なく、着々と砦を要塞へと変貌させている学園都市セラエノ軍総帥・ロウガの下へと辿り着いた。
疲労困憊のアドライグは、そのままセラエノ軍の世話になることになる。
それが、彼女の無気力に近い人生を大きく修正していくのであった。
私はあの時、負けたのだろうな。
そんなことをぼんやりと考えながら、寝転がって空を眺めていた。
何に負けた?
キリア=ミーナに負けた。
自分に負けた。
それだけじゃない。
何に負けたのかすら、ハッキリと理解が出来ない。
ハッキリと理解は出来ないが、心の中のモヤモヤはずっと消えないままでいる。
セラエノ軍に保護されてから2日目。
情けないことに、今でも敗北感に苛まれている。
…………でだ。
ところで、何で私は寝転がっているんだろう。
…………思い出せない。
「……痛い。」
気が付けば、腹が痛い。
ズキズキと、まるで何かに殴られたかのように痛みが自己主張している。
右肘までズキズキする。
「……お、気が付いたかい?」
手にバケツを持ったリザードマンが私を見下ろしていた。
私の目線からバケツの中身は見えないのだが、彼女が歩いてきた振動でタプン、タプンという音を鳴らしているので、どうやら水が並々と溜まっているらしい。
「………アスティア、理事長?おはようございます?」
「理事長はやめてくれって言ったろ。今の私はロウガの妻、学園長夫人というだけなんだから。それにおはようの時間ではないね。君が気絶してから、もう3時間も経っている。すっかり、昼だ。」
この方は、学園都市セラエノの二大統治者の一人でアスティア理事長。
もっとも、この時代のセラエノでは理事長という地位は存在せず、私の時代ではロウガ王……いや、ロウガ学園長が最高責任者で最高権力者だから、アスティア理事長を理事長と呼ぶのも変な話である。
もっとも、元の時代では私はアスティア理事長と会話をしたことがない。
理事長として多忙を極める彼女なのだが、それ以上に剣を取る者たちにとってはまさに伝説と呼ぶに相応しい存在で、気軽に声を掛けるなんて恐れ多くて、学園都市に留学していた数年間、一度も接触はなかった。
そして色々込み合った事情があり、私はロウガ王とアスティア理事長にだけは、自分の事情、私がこの時代ではなく、20年後の世界から迷い込んでしまったらしいことを話したのだが……、話したというか話さざるを得なかったというか。
いや、あれは最悪な脅しだったというか…。
それは良いとして、私が気絶?
一体何の話……………あ。
「思い出しました。」
『おう、そのツラ見ると、まだまだ負けたの引き摺ってんな。』
ロウガ王に挑発されて、手合わせをすることになったんだっけ…。
「久々にロウガが楽しそうな顔をしていたよ。君が無事だというところを見ると、あいつも手加減をしたんだね。あいつが本気で、鎧通しをやったなら…、今頃君はこんなところではなく、傷病兵と一緒に軍医の世話になっているか、土の中でずっと眠り続けていただろうね。」
冗談抜きに、とアスティア理事長は笑って物騒なことを言った。
それこそ、冗談じゃない。
元の時代に帰る前に死んでたまるか!
身体を動かせば、心を覆う靄も晴れるかもしれないと思って、私は敢えて見え透いた挑発に乗って、ロウガ王の提案した戦闘訓練を受けることにした。
私はロウガ王に借りた木剣。
対してロウガ王は、あろうことか素手。
それも右腕が使えぬからと、私を相手に左腕だけで相手をすると言った。
人間である義母に育てられた私には、あまりリザードマンである自覚がない。
でも、自分の身体が持つ身体能力の高さだけは自覚していた。
最初は私を侮辱していると思っていた。
老齢だと言っていたが、その思い上がりにお灸を据える必要があると武器を構えたのだが、その時、私は自分の相手の戦力を計る能力の未熟さを思い知った。
武器を構えた。
だが、踏み込めない。
素手で、しかも左腕しか使わないというのに、構えてさえいない老人に一歩も前に出ることが出来ず、ただただ時間だけがゆっくりと過ぎていき、キリア=ミーナと対決したのとは、まったく異質の緊張感を味わっていた。
そんな時間が止まった空間で、ロウガ王は私に対する最大級の侮辱を口にした。
『クックック……、ビビって足が竦んだか?ま・け・い・ぬ。』
「それで頭に血が上って……思いっ切り斬り付けたら、右の手首を取られたと思ったら、身体が宙に浮いてて……そうだ。お腹に手の平を空中で当てられて…。」
自分でも何を言ってるのか、わからない。
「ふふ、それで突っ込んで行ったか。」
何か楽しそうに微笑みながら、アスティア理事長は私の上着を器用にクルクルと丸めて、枕のように私の頭の下に敷き、バケツの水でタオルを濡らし、冷たく濡れたタオルを畳んで、私の額の上に置いた。
ぼんやりとした頭が、冷たく濡れたタオルで徐々にハッキリしてくる。
ああ、気持ち良い。
「見ていたけど、君に剣を教えたのは娘かな?」
「え、あ、はい…、わかりますか?」
娘、というのはアスティア理事長の御息女でセラエノ学園の二代目教頭で、セラエノ学園二代目学園長サクラ学園長の奥様であるマイア教頭のこと。
「ああ、重心の乗せ方から何から何までよく似ている。だが、娘に剣を教えたのもロウガだから、あしらい方も心得たものだよ。それにね、もしもロウガを本気を出させたいのだったら…。」
……あまり本気を見たくない。
嘗められて、私の本気さえ軽くかわしてしまうような老人の本気など見たいものではないのだが、やはり私もリザードマンだったのだろう。
生唾を飲んで、怖いもの見たさとも、未知への挑戦に近い思いとも取れない不思議な戦慄を覚えつつ、私はアスティア理事長の言葉を反芻するように聞き返した。
「もしも、本気に……させたかったら…。」
上擦った声。
そんな私をアスティア理事長はやさしいを目して静かに言った。
「君の命を差し出すことだろうね。」
「そんな無茶な!」
思わず身体が痛いのも忘れて、声を荒げて起き上がった。
いきなり大声を出したものだから、私は無様に蒸せて咳き込んだ。
「ど、どこの世界にそんな勝負があるって言うんですか!そもそも、殺られずに殺るというのが、実戦の鉄則でしょう!?自分の命を捧げるだなんて、そんな馬鹿げたこと…。」
「馬鹿げたことかな?」
アスティア理事長は首を捻る。
「私は昔、あいつと戦った時に、あの瞬間、死んでしまっても良いと思ったよ。ロウガの命を奪おうとした。ならば、同時に自分の命を奪われても本望だと感じたよ。」
「なっ…!?」
言葉がなかった。
元の時代で教わることのなかった、アスティア理事長の語る闘争者の心得。
命を奪おうとしているのに、命を守ろうとした私。
命を奪うのであれば、当然のように相手に差し出していたアスティア理事長。
そういえばキリア=ミーナは言っていた。
自分は何よりも殺人を犯している瞬間が大好きだと。
楽しめる殺し合いが何よりも好きなのだと言っていたじゃないか。
裏を返せば、それはいつ殺されても良い
他人の命を奪おうというのに、自分だけが生き残りたいと思っていた私。
それでは踏み込める訳がないじゃないか。
出来ていなかった。
命のやり取りの準備が…。
私が何故キリアに敗北感を感じたのか。
それを今更になって悟っていたと同時に、そうやって簡単に命のやり取りの準備が出来るアスティア理事長が、何故私の時代でも伝説として名を残したのかを思い知り、そういう準備もなしに、感情に任せて人を殺したことを恥じていた。
母なら……、何と私を諭すだろうか…。
ほんの少し。
勝手に心に壁を作って、距離を開けてしまっていた母が恋しくなった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
―――2日前、3月7日
「セラエノ軍総帥、沢木狼牙だ。同族を妻とする者として歓迎する。」
「あ……あ、ありがとうご…ございます…!」
目の前の男に、私は目線を合わせることが出来ず、跪いて震えたままで、私たちを保護してくれた礼を述べていた。
これが………辺境世界の秩序を破壊し、新たな時代を引き込んだという伝統破壊者…。
この人が………、あの悪名高い……あの、ロウガ…。
怖い…。
何故だかわからないけど、この人を前にするだけで腹の底から震えが来る。
「あー……よくわからんが、堅くなるな。取って喰ったりはしないからさ。」
「い……いえ…その……。」
私はあまり歴史は得意な方ではない。
学業としての歴史はそれなりにはこなして来たのだが、捻くれた生い立ちのせいなのか、過去に今現在との繋がりを感じることが出来なかった私は、本当に歴史の有名どころを触り程度と、母や幼い頃私の世話をしてくれた人々の思い出話程度の知識しか持ち合わせていない。
そんな私でも、この『魔王』と呼ばれた男のことは知っている。
自ら最強の武力を誇り、莫大な財産と豊富な人材を駆使して、学園都市セラエノを当時の統治者たちから奪い取ったという下克上の体現者。
さらにその野望は遥か彼方へと伸び、母の統治していた神聖ルオゥム帝国をも巻き込んで、当時辺境の最大反魔物勢力だったヴァルハリア教会領さえ滅ぼしたという、今尚、人間でありながら『辺境の小魔王』、そして『学園長』としてではなく、恐れと憧れを込めて『セラエノ王』と呼ぶのに相応しい大悪党。
それがセラエノ学園初代学園長・ロウガ……だと子供の頃、母の部下で国務大臣、自称伏龍丞相と名乗るバフォメットのイチゴ卿が言っていた。
『ワシらの親分じゃったあの爺様は凄かったのじゃ。セラエノ戦役の時には、並み居る教会連中を千切っては投げ、千切っては投げ……むむ?オヌシ、ガキンチョのクセに嘘だと疑っておるな?ケケケ……アドライグよ、良いことを教えてやろう。あの爺様が死んでしまってからというものな、【ロウガの噂をするとロウガが現れる】という怪談染みた噂話があるのじゃ。ほれ、今もそこに人間の皮を被った悪魔のジジイが窓の外に……。』
……………タイミング良く鳴り響いた雷鳴に、泣き叫びながらお漏らししたっけ。
いや、アレはイチゴ卿が悪いんだ。
幼い私を怖がらせ、あまつさえトラウマを植え付けるとは何と大人げないのだろう。
そのせいなのだろうか…。
この理由のわからない、気持ちの悪い震えは…。
「………すっかり怯えられてしまったな。」
ロウガと名乗る男は、ジッと私を見詰めていた。
微笑んでいるようには見えるが、それを打ち消す程、顔に刻まれた傷のせいで、その眼光は鋭く、まるで私の惰弱な内面を刺し貫くような視線は、イチゴ卿の昔話があながち間違いではないことを物語っている。
「どうした、俺の顔に何か付いているのか?」
あまりにジロジロと顔を覗いていたので、不審に思われたらしい。
「も、申し訳ありま…せん…。」
「まぁ、この顔の傷は……学園の子供たちも泣き出したくらいだしな。気になるのも仕方がない。で、お前さんもリザードマンなんだろ?出身はどこだ。」
「出身……ですか?」
私は答えに詰まった。
私は後ルオゥム帝国出身者だ。
そして、セラエノでも育った。
だが………、困ったことに、『この時代』の帝国でもセラエノでもないのだ。
「……………もしかして、お前さんもどこかの戦場から焼け出されたのか?それだったら、悪いことを聞いてしまった。考えれば、このあたりは反魔物勢力だったな。お前さんが魔物の身でこの地にいるんだ。それなりの訳があって然るべきなのを失念していたよ…。」
「そうだぞ、ロウガ。初対面の娘の、身の上を聞きたがるなんて、君も歳を取ったものだな。」
収容した村人たちの手当てが終わった、と帷幕に姿を現した女性。
同じリザードマンだと認識した時、私の目に飛び込んできた彼女の腕に深々と残る傷痕を見て、私は出会えた嬉しさのあまり、思わず我を忘れて彼女に叫んでしまった。
「アスティア理事長!!」
「…………ん?私が理事長…?」
叫んでしまってから、私は口を押さえたのだが、後の祭り。
この時代のアスティア理事長は、まだ学園長夫人ってだけだったはずなのに…。
見知った人物に出会ったことに、思わず喜んで叫んでしまった自らの未熟を恥じてしまっても、『覆水盆に帰らず』とはまさにこのことで、アスティア理事長は何が何だかわからない表情を浮かべて、私を不審そうな目で見ていた。
「………君は、何者なんだい?」
「あ…あう…ええっと……。」
何とか誤魔化そうと試みた。
実はセラエノ学園にいたことがある、と言ってみたのだが、驚くべきことにロウガ氏は学園の生徒の顔と名前をすべて覚えており、私がこの時代の学園の生徒ではないことを看破されてしまった。
他にもアレやコレやと誤魔化しを試みてみたのだが、尽く目の前の御夫妻に看破された。
しかも誤魔化せば誤魔化す程、話の内容にボロが出てしまい、ついに私の武器は途切れる。
つまり………、最早打つ手なし。
「そろそろ言い訳が苦しくなってきたようだし、さっさと自白した方が良いぞ。これでも若い頃は『沢木の紅若』って名前で傾いていたし、長いこと戦場にもいたから、捕虜の口を割らすのも慣れたもんだ。主にお前さんが嫌がるような方法でな。痛いやつ、やらしいやつ、何だかよくわからないやつ。各種方法に対応出来るから、嫌なら今すぐ喋れ。」
「安心していい。例え、君が敵方のスパイだったとしても、命を取るようなことはしない。だが………正直に話さないと…、私たちの軍師に引き渡さなければならないだろう。彼女のことだ。きっと………、嬉々として色々な拷問を試して、君から真実を語らせようとするだろうな。」
ニヤリと笑うロウガ王と済まなそうな表情を浮かべるアスティア理事長。
やはり正直に話すべきか…。
だが、その前に私は確認せずにいられなかった。
「あ、あの……、その軍師という方のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
私の記憶が確かなら……確かこの当時のセラエノ軍の筆頭軍師は、アヌビスのネフェルティータ副理事長だったはずだ。
引き渡される相手があの人なら、真実を語らなくても酷いことにはならないだろう、という打算の下で、私はアスティア理事長の言う軍師の名前を訊ねた。
「………知っているとは思えないのだが……、イチゴという名のバフォm」
「話します!話します!何でも正直に話しますから、それだけは!!」
冗談じゃない!
キリア=ミーナとの戦いで心も身体も傷付いているというのに、ここでイチゴ卿に関わってしまったら、元の時代に帰るという私の目的どころか、その瞬間にゲームオーバーになるに決まっているじゃないか!
あの……イチゴ卿だぞ…!
散々、子供の頃にトラウマを植え付けてるわ、噂話の小魔王ロウガなんかよりもっと身近で、皇帝である母でさえも手玉に取る正真正銘の悪魔相手に、それも本人の言葉が正しいとするなら、全盛期だというバフォメットの皮を被った悪魔に私が耐えられるはずがないのだから…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
色んなことがあった一日だった。
ロウガ王に叩きのめされたり、アスティア理事長にも敵わないことを思い知ったし、何より私は自分の本当の姿を知ったような気がした。
良い気になっていたような気がする。
学園で成績優秀だとか、武術の腕に覚えがあったりして、私は優等生らしく振舞おうとしていたのかもしれない。
その結果が、これだ。
キリア=ミーナに負けた理由もわからず、ただ負けたことだけを悔しがって…。
もしも、これがロウガ王が気を使って、軽く汗を流す程度で済ませてくれていたなら、きっと今でも気が付かなかったのだと思うのではあるが……、どうしても私はロウガ王のことを好きにはなれそうにない。
ズキズキと痛む腹と右肘が、その理由だ。
「……くそぉ。サクラ学園長が言っていたことは本当だったのか。」
サクラ学園長の昔話を思い出す。
地獄の特訓から何度も生還したが、結局はほとんど自力で何かを掴んだし、ロウガ王は悪魔のような笑い声を上げて、サクラ学園長を叩きのめしてばかりだったと…。
身に染みて理解した。
今、私は深夜の見張り番をしている。
『働かざる者、食うべからず』というロウガ王の命令により、私は治療に専念してベッドの上で横になることが出来ず、兵錬を免除してもらった代わりに炊事、洗濯、傷病兵の世話などをして、今日を過ごしてきた。
武術の訓練などで身体を動かすことは得意ではあったが、炊事や洗濯などの行為は明らかにそれとは違う筋肉を使うため、私の身体は疲労を訴え続け、この見張り番も半ば座ったままで、ぼんやりと夜の海の波音のように木々がざわめく真っ黒な世界を眺めているのであった。
「……変わらないものなんだなぁ。」
どんな時代でも夜の闇は変わらないものなのだ、と私は何度も噛み締めていた。
思い出す。
子供の頃、母の目を盗んで、こっそりと夜の闇に飛び込んだことを…。
カンテラの光さえ吸い込んでしまいそうな闇を一人歩いた思い出。
徐々に不安になって、座り込んで泣き出した私を迎えに来てくれて、手を引いて城まで送り届けてくれた人は誰だっただろうか。
それだけは思い出せない。
「ああ……、綺麗…。」
溶け込みそうな暗闇から目を逸らすように空を見上げると、そこには大きな月。
まん丸なお月様。
すべてを飲み込んでしまいそうな夜の闇の中、月は薄ぼんやりとした光で、すべてが闇に飲み込まれないように、必死にこの混沌とした世界を照らし続けている。
変わらない。
どこにいても。
どんな時代でも。
月は、夜は、変わらない。
「~♪私は月…。」
気が付けば、思い出すように歌っていた。
母が歌ってくれた子守唄。
歌詞もメロディーも思い出せなくて、最初はたどたどしく口ずさんでいたけど、徐々に蘇る母の膝の上で聞いた記憶に、口から出てくる旋律は滑らかに、そして母が歌っていた美しい歌声に似せるように、私は月に歌っていた。
「~♪私は月
砂漠の夜を照らす穏やかな月
お前が迷わぬように
いつだって道を照らしてあげよう
眠れ愛しい子よ
私はいつだって、お前を見守っている…。」
幼い頃、母の膝の上の温もりが幸せだった。
そんなことを思い出しながら歌っていた。
パチパチパチパチ…
「誰だ!!」
突然近くで鳴り響いた拍手の音に、私はここまでの接近を許した驚きと、歌を聴かれてしまった恥ずかしさに、飛び起きて剣の柄に手を掛ける。
「わ、ま、待って!」
慌てた声が松明の向こうから聞こえてくる。
声の主はゆっくりと両手を挙げて歩いてきた。
徐々に松明に照らされながら現れたのは、真新しいセラエノ軍の鎧を身に付けた私より年下だと思われる青年であった。
温和な顔をして、とても兵士とは思えない。
「ご、ごめん…。綺麗な歌声が聞こえてきて…、つい…。」
「……いや、私こそ。ちょっと、驚いてしまった。」
恥ずかしさにそっぽを向いてそう言うと、彼は笑った。
「何が可笑しいのですか?」
馬鹿にされたような気がして、怒りを込めた声で訊ねる。
「あはは、ごめんごめん。何だかね…、可愛かったから。ほら、リザードマンって凛々しいイメージがあったし、そんな恥ずかしそうな表情もするんだなって。」
「そ、それは侮辱と取ってもよろしいか!?」
年下だとは思う。
でも、正直と言うか失礼と言おうか。
「で、君の名は?」
何故か、この失礼な彼に興味が湧いた。
例え興味がなくとも、名は聞いたのかもしれない。
少なくとも、この時代にいる間は……、彼とは戦友になるのだから。
「僕は、リオン。リオン=ファウスト。つい最近までは、ヴァルハリア教会の騎士をやっていた。ああ、そう身構えないで。確かに僕は教会騎士だった。でも、今は自分の意思でこの軍にいる。この世界を変える手伝いをしにね。」
リオン=ファウスト。
この名前は、私の心の奥深くに刻まれていく。
出会いはあまりに唐突ではあったけど、それがリオンと私の始まりだった。
11/12/21 23:06更新 / 宿利京祐
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