第三話・優しい歌が聞こえないなら歌えば良い
刃が空を切り、空を斬る音が二人の神経を削っていく。
アドライグの頬をキリアの短剣が掠り、彼女の頬に一筋の赤い線が疾る。
痛みはあった。
想像以上に深く斬られたために、一筋の赤い線からはアドライグの身のこなしに合わせて、色鮮やかな血が吹き出て空中にその跡を残した。
「はぁぁぁぁ!!」
「………シッ!」
だが、彼女はさらに前に踏み込む。
このギリギリの緊張感の中で生まれた、悪くない、という感情に導かれるままに、痛みに引くこともなく、鋭い踏み込みから繰り出される槍の一撃は、神速を誇るキリアを後一歩で捉えるところまで追い詰める。
キリアも当初浮かべていた余裕の笑顔を凍らせて、冷たく寒々しい表情を彼女はこの時初めて露わにして、殺気と緊張感の漲った目線をアドライグに向けた。
そしてキリアはアドライグとこうして斬り結んで、自分に圧倒的な有利がないことを悟ると、自分自身の持ち味を最大限に生かすべく、バックステップで避けながら距離を取る。
キリアの脚力によるバックステップで、アドライグとの距離は十分に開いた。
直感的にキリアが本気を出して来る、と薄ら寒い殺気を肌で感じたアドライグは左手に防御の剣を、右手には迎撃の槍を構える。
アドライグは理解していた。
自分の速度は、キリアに遠く及ばない。
しかしキリアの攻撃が交差する刹那の瞬間であるならば…とアドライグは腹を括り、乾坤一擲の一撃を繰り出すべく、脚を大きく広げ、腰を落とし、さらに尻尾を土台として踏ん張り、弓を引くように身体を捻って力を溜め込んだ。
キリアのスピードは凄まじいが、それは獣のような直線的な動きで、修練などではなく、天賦の才のみによって支えられた速度であることを感じ取ったアドライグは、迎撃の構えを整えた。
キリアは速度はあっても、体重は軽く、また非力な部類に入る。
それならタイミングさえ間違えなければ…、とアドライグの意識は細く鋭く、針の先のように研ぎ澄まされ、あらゆる雑音が彼女の耳から消え失せ、自身の心臓の鼓動、身体を流れる血液の流れ、爆発の時を待ち侘びる筋肉と関節の悲鳴しか感じなくなっていった。
だが、アドライグの乾坤一擲の一撃は放たれることはなかった。
「……………はぁ、やめたやめた。」
何を思ったのか、キリアは急に構えを解いて、二振りの短剣を鞘へ納めたのである。
その表情はとても残念そうで、声にも先程までの薄ら寒いものはない。
むしろ暖かく、17歳の少女らしい声だったと言えるだろう。
「………何故、来ない。」
「あー………聞こえない?」
キリアが親指で方向を指し示す。
アドライグは集中し切った意識を、徐々に解いていくと大勢の気配をやっと感じ取った。
それはキリアを追いかけて進軍するフウム王国残党軍だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
「もう良いよ、行きな。」
キリアは酷くつまらなそうにため息を吐くと、顎で村人たちが逃げた方向を指し示す。
「何故、見逃すんですか…。」
「あたしが楽しめないからさ。」
キリアは、やれやれと困ったような顔で言った。
「あたしは殺すのが好きさね。セックスしてる時よりも、酒を飲んで気持ち良くなっている時よりも、何よりも人を殺している瞬間が好きなのさ。でもね、それがあんな雑魚どもと一緒に寄って集って殺るのは趣味じゃないんだよ。」
その言葉は、アドライグにとって渡りに船だった。
キリア一人にこれだけの苦戦を強いられているというのに、これに残党軍本隊が加わればどれだけの危険があるだろうか。
とてもではないが、対処し切れない。
彼女だけでなく、彼女を頼った村人たちも、哀れ悲しきかな。
哀れなるかな冷たい鉄の牙で餌食なる。
それを思うと、アドライグは内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
だが冷静な状況分析で自分と村人たちの安全が保障され、自らも無事にこの場を撤退出来ると安堵した反面で、彼女の中に納得のいかない大きな屈辱とも言える感情が芽生えていた。
見逃すと提案したキリアにではない。
ホッとしてしまった『自分』に対して彼女はひどい怒りを覚えた。
ギリッと噛み締める奥歯の音。
剣を握る手に力が入って、彼女は感情に任せて剣を地面に叩き付けた。
叩き付けられた剣は、キィン…、という綺麗な音を立てて真っ二つに割れた。
「……あんたも残念なんだね。…まったく、うちの野郎どもはどこまでも無粋なんだか。せっかく心も濡れるような上等な睦み合いだったってのに、どこまでも邪魔をするよ。」
「あなたと……一緒にするな…!」
自分は違う。
自分は殺人を楽しんでいない、とアドライグは否定する。
「一緒さ。」
「違う!」
「………まぁ、今日童貞捨てたばかりのお嬢さんには、まだまだ自分がわからないだろうね。楽しそうだったし、あたしも楽しかった。ギリギリのところで神経削られるような瞬間を思い出すだけで、イっちゃいそうなくらいにさ。否定するなら否定しなよ。でも、自分があたしと違うって言うならさ…。」
キリアは微笑んだ。
まるで無垢な子供のように無邪気に、初めて友達が出来た時のような嬉しくて恥ずかしいような、はにかんだ笑顔をキリアはアドライグに向けた。
「何で悔しそうに剣を叩き付けたんだい?」
「…………!!」
その問いかけに弾かれるように、アドライグはキリアに背を向けて走り出した。
険しい表情のまま、荒い息で走り続けた。
何故、自分は剣を叩き付けたのか。
何故、見逃されることに怒りを覚えたのか。
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故……。
繰り返される『何故』に、アドライグの心は乱れていた。
乱れた心のまま、遠ざかる背後から迫り来る残党軍の足音を感じながら彼女は走り続けた。
アドライグは、逃げ出したかった。
キリアからではない。
残党軍からでもない。
アドライグが逃げたかったもの。
それは自分自身。
それは自分自身に生まれた、ザラリとして気持ちの悪い闇。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「ああ、助かりましたよ。」
深い森の中で、僕は夜露に濡れた身体を暖かい焚き火で乾かしていた。
古びた鉄製のカップに注がれた温められた酒の温もりが、冷えてしまってかじかんだ指に活力と感覚を甦らせてくれる。
「いや、気になさるな。俺もこの通り一人旅でございやすから、調度良うございまやした。こんな暗い森で一人で夜明かししていると、妙な気分にもなりやすしね。」
ボロボロのマントを羽織って大剣を背負った少年が、目の前の焚き火に枯れ枝を放り込む。
歳は……14、15歳くらいだろうか?
僕より幾らか年下なのだろう。
女性のような顔なのだが、喋り方は男らしい。
「しかし、このような夜分に珍しゅうございますな。ここは迷いの森って言いやして、まともな人は近付かぬ魔性の森でございやすぜ?」
「…え?ええええ!?迷いの森…?ヴァルハリア領の…?」
「………ええ、そうでございやすよ。失礼ですが旦那、えっと……。」
少年は何か言い辛そうに言葉を詰まらせた。
ああ、そうか。
まだ彼に名乗っていなかった。
「リオンです。リオン=ファウスト。少し前まではヴァルハリア教会騎士団に身を置いてました。」
そう言って、僕は少年に腰に下げた剣、ヴァルハリア教会で聖剣と呼ばれ尊ばれてきた魔剣ハンニバルの鞘に描かれた紋章を見せた。
「……なるほど、そうでございやしたか。いやいや、俺としたことが騎士様とは気付かず、大したもてなしも出来ませんで…。」
少年は済まなそうな口調で謝罪するのだが、どうも言葉には感情が篭っていない。
そんな彼の様子に僕は苦笑いをしていた。
「では、俺も名乗らねばならんでしょうな。俺は………雲井…ヒョットコ斎とでも呼んでくだされば良うございやす。故あって本名が名乗れないんでご勘弁を。」
「いえ、構いません。僕も事情があって……教会騎士団をやめてしまったし…。だからこんな剣を持っていても、僕はもう騎士じゃない。ただの元騎士ってだけの夢追い人になってしまったのですから…。」
そう、ヒロ団長に許しを得て、僕は教会騎士をやめてしまった。
僕自身の答えを見付けるために。
ただ目の前の消えていく命を救う、という理想のために。
それが人間であっても、魔物であっても…。
「何やら込み入った事情のようですな。で、リオンの旦那はどこから来たんで?」
「えっとですね……。色んな道に迷ってしまったのは確かなんですが、神聖ルオゥム帝国領を彷徨っていたはずなんですが…。」
「……………………………………………………ノエルばーちゃんのとこか。」
「え、今何か…?」
訊ねても少年・雲井は答えず、ブツブツと独り言を呟いていた。
何を聞いても僕の声など耳に入っていないようで、何やら深く考えているらしい。
仕方がないので、僕は温められた酒を飲んで身体を温めることにした。
……………うん、匂いがきついけど、良い味だ。
そう思うだろ、レオン…。
………………あれ?
レオン…?
おかしいな、レオンがいくら呼びかけても反応しない。
レオンとは、僕の中に住み着いているもう一人の僕だ。
いや、魔剣ハンニバルそのものと言って良いだろう。
僕が騎士団に入団した日、この剣を引き抜いてしまった時から、僕の中に住むもう一人の僕が、僕に囁き続ける者『レオン=ファウスト』である。
眠ってしまったのかな…?
いや、何故かレオンの存在を僕の中に見出せない…。
「…………おっと、こりゃあ失礼。ちょっとだけ考え込んじまったようで…。差し支えなければ、旦那にお聞きしたいんでございやすがね。リオンの旦那方はどこへ向かおうってぇんですかい?」
「僕らは………。」
………ん、僕ら?
「えっと、雲井君だったかな?何か勘違いをしていませんか?僕は……。」
弁解しようとした瞬間、彼はニタリと薄気味悪く笑った。
「お二人で御座いましょう?リオンの旦那、そしてレオンの旦那。」
「……………君は何者なんだ!?」
僕は慌てて焚き火から飛び退き、剣の柄に手を掛けた。
ザワザワと森の木々が風に揺られて、薄気味の悪い音をあたりに響かせる。
飛び退いた拍子に焚き火が揺れて、雲井と名乗る少年をユラユラと映し出す。
「………クッ…クックック…、何者か?俺ぁ俺としか言い様がねえなぁ。おい、旦那。俺ぁまだ答えを聞いちゃいねえ。旦那、あんたはどこへ向かおうってんだい。あんたの理想は、どこまで行けば辿り着けるんだい。」
「僕は……!」
救いたい。
人も、魔物も…。
でも………、果たしてそれだけなのか…?
「君は知っているのか!僕がどこを目指し、何を得るのか…!」
「知っているさ。よおっく知っている。あんたがどれだけ苦しみ、どれだけ逃げ出して、どれだけ戦い続けて、その苦難の先に得られたものは意外に大したものじゃないってとこまでよく知っているよ。」
「教えてくれ!僕はどうすれば良いんだ…!僕は……どこに行けば、こんな苦痛から解放されるんだ…!!レオンも……誰も答えてはくれない…!!あの団長でさえも、僕の答えを持っていないんだ…!!」
疲れていた。
僕は何をしたいのか。
大きな目標を持って、尊敬している人たちと袂を分かった。
だというのに、僕の迷いは大きく膨らむばかりだった。
「………俺にそれに答えることは出来ない。だが、入り口だけは示すことは出来る。そのために、俺はこんなクソ暗い森の中で、あんたを待ち続けていたんだからな。」
彼は座ったまま、僕の方を真っ直ぐ指差した。
「真っ直ぐだ。」
「ま……すぐ…?真っ直ぐに行けば……僕は…。」
「さぁね、俺に言えるのは真っ直ぐ進めってことだけ。」
このまま脇目も振らず真っ直ぐに進め、と彼は囁いた。
どこか不気味で、酷く邪悪にニタリと笑って彼は僕を真っ直ぐに指差していた。
僕が覚えているのはそこまでだ。
彼の姿が霞みが掛かったかのように薄ぼんやりと靄の中に消えていく。
ああ、そうか。
思い出した…、迷いの森には恐ろしい化け物が住み着いているって噂…。
化け物は人を馬鹿にするように惑わせる真っ黒な影のようなもの。
ニヤリと笑って、意地悪をする化け物は………彼だったのか…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
目を覚ますと、目の前には見渡す限りの空が広がっていた。
「…………空…?」
気持ちの良い風が吹いている。
耳元でザワザワと草が揺れている音を聞いて、僕の寝惚けた頭は、自分がどこかの草原に寝転がっていることを、やっと認識していた。
夢を見ていたような気がする。
(よぉ、遅い目覚めだな。)
頭の中に響き渡る、目覚めに聞きたくない最悪な声。
その声の主が、僕に寄り添う同居人ことレオン=ファウストである。
「……五月蝿いよ、レオン。ここ、どこだい?」
(寝惚けてんじゃねえよ、リオン。もうちょっと歩けば村が見えてくるって教えてやっていたのに、お前と来たら俺に逆らいやがって、さっさと野営の準備を始めちまうからぶち殺してやろうかと思っていたところだぜ、クソ!)
レオンに姿はない。
あくまで僕の意識の一つらしいのだが、その口調が僕と同じ顔をしながら、腕組みをしてガミガミと怒っているような、兄弟のようなイメージが頭に浮かんでしまって、僕は思わず笑って吹き出してしまった。
(あ、テメエ、笑ったな!?笑ったろ!殺す、今すぐ殺す!!)
「あははははは、ご、ごめんごめん。」
何故だろう。
僕はレオンが嫌いだ。
僕を、僕の理想から遠ざけようとする彼の姿勢が嫌いだ。
でも、そんなレオンの存在が心強いと思えた。
当てもない旅に、寄り添ってくれる誰かがいる。
たったそれだけで……いや、それがひどく幸運であると感じずにはいられない。
「レオン、とりあえず何かお腹に入れて君の言っていた村にでも行こうか。」
(む…、な、何だよ。やけに素直じゃねえか。気持ち悪いじゃねえかよ。)
考えてみれば、教会騎士団を辞めてしまってから僕は一人きりじゃなかった。
たった一人で飛び出したにも関わらず、いつも僕の傍にはレオンがいた。
お互いに罵り合いながら、お互いの言うことを無視しながら……。
僕にはいつも寄り添ってくれる人がいた。
「…………レオン。」
(何だ、さっきから。変なもんでも食ったか?いや、食ったら俺にも影響が…。)
頭に困惑しているレオンの姿が思い描かれる。
何か変なものか…。
食べてはいないけど、何か変な夢を見たような気がする。
そのせいなのかも知れないな。
「………ありがとう、僕と一緒にいてくれて。」
(…………よせやい。気持ち悪いぞ、お前。)
僕の旅は一人きりだ。
でも………、少なくとも孤独ではない…。
どこまでも続く青い空の下、どこまでも続くような緑の大地で、そんな小さな幸せを感じられることを、僕は口の悪い姿なき隣人に感謝していた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
リオン=ファウストが、頭の中の住人であるレオン=ファウストに導かれながら、とりあえずの旅の目的地と定めた村であるムエリタ村に辿り着くと、そこには何本ものフウム王国の紋章が入った旗が翻っていた。
(……こりゃあ、あの馬鹿のとこの別働隊だな、きっと。)
レオンがリオンに語り掛けた『あの馬鹿』というのは、リオンたちが袂を分かったヴァルハリア・旧フウム王国連合軍総司令官で、本人は未だ自分こそが正統だと主調しているが、本国に残した自身の長男に廃位された旧フウム王国前国王・フィリップ=バーントゥスクルのことである。
リオンが遭遇したのも、そんな国を追われたフィリップ王と同じように、本国で破れ居場所をなくし、自らを義勇軍と誇称して体裁を取り繕う敗残兵たちなのであるが、アドライグが遭遇した集団とは別のものである。
村に近付くのは危険だろうか、と思ったリオンだったのだが、一先ず遠ざかろうと動き始めた彼に、哨戒中であった残党軍の集団が彼の姿を見付けて声をかけた。
「そこの者、ここで何をしている!!」
「……旅の者です。旅の道すがら少しだけ休憩させてもらおうと、この村に寄らせていただきました。」
突如現れた部外者に残党兵は、不審を露わにした。
だが、リオンは見るからに温和そうで人畜無害な雰囲気を醸し出していたために、彼らも念のために簡単なボディチェックと手荷物検査をするだけで彼を解放することにした。
リオン自身もこれ以上関わるつもりもなかったので、黙って彼らのチェックを受け入れて、早々にこの場を立ち去るつもりだったのだが、リオンの手荷物を詰めた肩掛け袋の中身を調べていた兵士が、その中に入った物を見て驚きの声を上げた。
「こ、これはヴァルハリア教会騎士団の紋章ではないか…!」
「あ、それは…。」
兵士が見付けた物は、ヴァルハリア教会騎士団の紋章の刻まれた短剣。
それは騎士団を離れる際に、団長であったヒロ=ハイルが愛用をしていた短剣を労いと感謝の意味を込めて、リオンに贈った物である。
自分の代わりにリオンの旅を見守らせてほしい、という願いもヒロにはあったのだが、この時は図らずもリオンの身分を保証し、且つ疑惑の目を向けていた兵士からリオンの身を守ってくれたのである。
「……………で、では、あなたはヴァルハリア教会の関係者…!?」
「失礼致しました!お、お疲れで御座いましょう!!こちらへどうぞ。すぐにお寛ぎいただけるよう、手配致します!!」
リオンの身分がわかると、兵士たちは急に手の平を返したように馬鹿丁寧になり、ただひたすら頭を下げ続け、兵士たちを率いる指揮官は胡麻を擂るように、しきりにリオンをもてなそうと手を引くのである。
人の良いリオンは、その申し出を断ることも出来ず、彼らに付いて行くことにした。
その時も、彼らはヴァルハリア教会との関係者であるリオンを、わざわざ歩かせる訳にはいかないと馬に乗ることを勧め、指揮官は自ら下馬してリオンの乗る馬の轡(くつわ)を取る。
(馬鹿らしいじゃないか…。)
リオンの頭の中で、レオンが囁いたがレオンもまた同感であった。
ただ、心地の悪い嫌悪だけがリオンの中に広がっていた。
「いやあ、このような辺境でヴァルハリア騎士団の方にお会い出来るとは光栄の極み!」
そう言って、興奮気味に唾を飛ばすのはスキンヘッドとも自然禿げとも取れる、かなり重症な肥満ではあるものの身形だけは立派な中年の指揮官だった。
とりあえず、はぁ、と僕は生返事で返し続けるのだが、彼はそんな僕に構わず喋り続ける。
何度も断ったのだが、僕は指揮官用の豪勢な帷幕の中で接待を受けている。
クスコ川流域で戦っていた頃によく見た貴族の幕舎。
フウム王国の人々や、ヴァルハリア教会のお偉方たちが使っていた物と同じ物だ。
ヒロ団長みたいに慎ましい人って、なかなかいなかったのを思い出す。
ここにしてもそうだ。
上質なワインに、もてなしの料理も新鮮な果物や珍味が並ぶ。
ここが戦場だと一瞬忘れてしまうような料理の数々。
酷いものだ。
きっと、この村から略奪した物ばかりなのだろう。
僕は出された料理に手を付けられないまま、ただご機嫌取りをする指揮官の言葉を聞き流す。
「……おや、お気に召しませんでしたか?それでしたら、すぐに別の珍味を。」
「いえ、お気遣いなく。ここに来るまでに食事だけは済ませたので…。」
嘘を吐く。
これ以上、貴族趣味には付き合ってられない。
そうでも言わないと、僕は烈火の如く彼に不愉快を捲くし立てただろう。
「ところで、何故こんなところで駐留を?」
そう訊ねると指揮官は、ギクリという擬音が聞こえてきそうな程、顔を蒼褪める。
脂汗が額に滲んでいた。
「も、申し訳御座いません…!我々もすぐにムルアケ街道を征く同志や大司教猊下や我らがフィリップ王に馳せ参じなければと思っていたのですが、我らは同志たちに比べて兵力も五十余名程の有志ばかりな上、この地に巣食う悪魔どもめの抵抗も激しく…。恥ずかしながら、この村を拠点にして御味方の後顧の憂いを断つべく……。」
長々とした言い訳が続く。
つまり、彼らは安全な場所から傍観を決め込んでいた訳だ。
この戦争が終われば、後方支援をしていたという建前の下で、フィリップ王から恩賞を貰おうという腹積もりなのだろう。
この戦争が、連合軍の勝利で終わるとは限らないというのに…。
「そ、そうだ、リオン騎士。素晴らしいものがあるのですが、ご覧になりますか?」
「素晴らしいもの…?」
「きっとフィリップ王も気に入られると思うもので御座いますよ。」
さあさあ、と僕は背中を押されて帷幕を後にする。
気持ち悪いくらい、指揮官は上機嫌だった。
村外れに連れて来られた僕は、背筋に寒気が走った。
意気揚々と目の前の光景の説明をする、指揮官の言葉など耳に入らない。
何故、あなたは笑顔でいられるんですか…。
何故、あなたは何も考えないのですか…!
何故、貴様らはこんなことを仕出かした!
「見事なものでしょう!我々の戦果です。教会に牙剥く悪魔どもを我ら五十余名が一兵も失うことなく駆逐したのです!いやはや、我らも武勇に自信がない訳ではなかったのですが、さすがに実戦ともなると身が引き締まりますなぁ。っと、ワタクシの身体はこの通りまだまだ引き締める余地は御座いますが。」
豪快に笑う指揮官。
僕の目の前に積み重なった物は無言で虚空を見詰めたまま。
首。
それは幼い少年の物。
半ば腐敗が進み、白い頭蓋が覗いているが、最期まで泣いて抵抗した表情が凍り付いている。
まだ新しい死体。
それは若い女性の物。
慰み者にされたのだろう。
一糸纏わぬまま、四肢を弄んだように切断されて腹を割かれて死んでいる。
老若男女問わず、無念と憎悪に抱かれて折り重なっている。
ここは村外れに設置された死体置き場。
ヴァルハリア領民が行った虐殺の再現現場が、こんな小さな村で起こっていた。
積み重なった死体に、戦士はいない。
すべて、非戦闘員ばかりだった。
指揮官の彼が見せたかったのはこの死体の山だ。
考えることを放棄して、罪を勝手に神に預けた、愚かな行為の跡だ。
「そもそも大司教猊下の勅命に逆らい、魔物どもを駆逐する大戦に馳せ参じることを拒んだ愚か者で御座います。せめて見せしめくらいには役立って貰わないと勘定が合わないもの。リオン騎士もそういうおつもりで、このような辺鄙な所まで足をお運びになったので御座いましょう?いやいや、何も仰るな。わざわざ誉れ高いヴァルハリア騎士団のお手を煩わすようなこと、ワタクシがさせませぬよ。御君も正統なる後継者を失った悲しみも、この光景をご覧になられれば幾らかは晴れると言うもの。」
よく、口の回る男だ。
僕がここに辿り着いたのは偶然だ。
彼が言うように粛清のために来たのではない。
この教会の紋章だって、いつの日かヒロ団長の下へ帰るのかもしれないと思っていた。
だからこそ捨てずにいたのだが、僕は心まで教会に売った覚えはない。
魔物と人、双方が共存出来る可能性を求めて僕は旅に出た。
ヒロ団長も認めてくれた新しい可能性を求めて…。
なのに…。
なのに、こいつらは…!
こいつらは人間じゃない!
こいつらは………木偶だ!
教会の正義を傘に着て、暴力と悲劇を撒き散らす最低な木偶人形だ…!
レオン、許してくれ。
僕は君に散々説教を垂れてきた。
君の囁く言葉は、僕を狂わせると…。
でもそれは間違いだった…。
君は導こうとしてくれていたんだね。
初めて心から君に教えてほしい。
僕は、どうすれば良い。
(どうするもこうするも。リオン、それはお前が決めることだ。)
ああ、そうだね。
ありがとう、レオン。
決心が付いた。
誰かに背中を押してほしかったんだ…。
「………失礼、指揮官殿。あなたの名前を忘れてしまった。」
「はは、初対面ですからな。ワタクシは誉れある正統フウム王国の勇猛にして華麗なる少将スクラヴィア=カンゼィールで御座います。是非ともリオン騎士が御君がおわす本陣に帰参した暁には、ワタクシのことをお忘れなく。」
「ありがとう、スクラヴィア少将。僕はあなたを忘れない。」
レオン、君を汚物で汚すぞ。
ザンッ
「……………おお?」
「初めて……明確な意思を以って教会に牙を剥く相手を、僕は忘れない。」
スクラヴィアの首が舞う。
最期の息が漏れるような声を上げて、彼の首が飛び、胴体が後ろへと倒れ込み、ビクンビクンと何度も何度も跳ねるように痙攣を起こしていた。
僕の手に、抜き身の魔剣ハンニバル。
木偶人形の汚い血で汚れて尚、美しい刀身は輝きを失わない。
「き、騎士殿!御乱心あそばしたか!?」
兵士たちがぞろぞろと集まり始めた。
それぞれに困惑の色を浮かべながら、手には武器を持って、僕に向けている。
「…………ああ、レオン。これでもう誤魔化せないね。」
教会騎士団にいた頃、人知れず魔物たちや魔物を愛する人々を逃がしていた。
発覚すれば僕自身の命が危なかったけど、何とか証拠も残さずにやってきた。
ヒロ団長にはバレていたけど…。
でも、それももう終わりだ。
もう、誤魔化せない。
(感情を解き放て。抑え付けられた怒りを解放しろ。それだけが、お前の道を指し示す。)
ああ、そうだね。
馬鹿だよな、僕は…。
もっと早くそうしていれば………、死ななくて良い命は幾らでもあったかもしれないのに。
「騎士殿?ははは…、違うよ。僕はもうヴァルハリアの者なんかじゃない。あんなやつらと一緒にしないでほしい。僕はリオンだ。ヴァルハリア騎士団のリオン=ファウストじゃない。ただのリオン=ファウストだ!声なき死者の嘆きに動かされた愚か者、それだけで……いや、だからこそ戦える!」
その後、リオン=ファウストの足取りはよくわかっていない。
しかしヴァルハリア歴807年、帝国歴15年3月2日、リオンは全身に浴びた返り血が乾き切った服のまま、フラリとムルアケ街道に陣取るロウガ率いるセラエノ軍の陣に姿を現した。
誰の目から見ても明らかな疲労困憊の様子であったと当時の記録は伝える。
役者は揃い始めた。
キリア=ミーナが自由に踊り始め、
道の入り口を見付けたレオン=ファウストが剣を抜き、
未だ未完の大器であるアドライグが光を求めて彷徨い始める。
アドライグの頬をキリアの短剣が掠り、彼女の頬に一筋の赤い線が疾る。
痛みはあった。
想像以上に深く斬られたために、一筋の赤い線からはアドライグの身のこなしに合わせて、色鮮やかな血が吹き出て空中にその跡を残した。
「はぁぁぁぁ!!」
「………シッ!」
だが、彼女はさらに前に踏み込む。
このギリギリの緊張感の中で生まれた、悪くない、という感情に導かれるままに、痛みに引くこともなく、鋭い踏み込みから繰り出される槍の一撃は、神速を誇るキリアを後一歩で捉えるところまで追い詰める。
キリアも当初浮かべていた余裕の笑顔を凍らせて、冷たく寒々しい表情を彼女はこの時初めて露わにして、殺気と緊張感の漲った目線をアドライグに向けた。
そしてキリアはアドライグとこうして斬り結んで、自分に圧倒的な有利がないことを悟ると、自分自身の持ち味を最大限に生かすべく、バックステップで避けながら距離を取る。
キリアの脚力によるバックステップで、アドライグとの距離は十分に開いた。
直感的にキリアが本気を出して来る、と薄ら寒い殺気を肌で感じたアドライグは左手に防御の剣を、右手には迎撃の槍を構える。
アドライグは理解していた。
自分の速度は、キリアに遠く及ばない。
しかしキリアの攻撃が交差する刹那の瞬間であるならば…とアドライグは腹を括り、乾坤一擲の一撃を繰り出すべく、脚を大きく広げ、腰を落とし、さらに尻尾を土台として踏ん張り、弓を引くように身体を捻って力を溜め込んだ。
キリアのスピードは凄まじいが、それは獣のような直線的な動きで、修練などではなく、天賦の才のみによって支えられた速度であることを感じ取ったアドライグは、迎撃の構えを整えた。
キリアは速度はあっても、体重は軽く、また非力な部類に入る。
それならタイミングさえ間違えなければ…、とアドライグの意識は細く鋭く、針の先のように研ぎ澄まされ、あらゆる雑音が彼女の耳から消え失せ、自身の心臓の鼓動、身体を流れる血液の流れ、爆発の時を待ち侘びる筋肉と関節の悲鳴しか感じなくなっていった。
だが、アドライグの乾坤一擲の一撃は放たれることはなかった。
「……………はぁ、やめたやめた。」
何を思ったのか、キリアは急に構えを解いて、二振りの短剣を鞘へ納めたのである。
その表情はとても残念そうで、声にも先程までの薄ら寒いものはない。
むしろ暖かく、17歳の少女らしい声だったと言えるだろう。
「………何故、来ない。」
「あー………聞こえない?」
キリアが親指で方向を指し示す。
アドライグは集中し切った意識を、徐々に解いていくと大勢の気配をやっと感じ取った。
それはキリアを追いかけて進軍するフウム王国残党軍だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
「もう良いよ、行きな。」
キリアは酷くつまらなそうにため息を吐くと、顎で村人たちが逃げた方向を指し示す。
「何故、見逃すんですか…。」
「あたしが楽しめないからさ。」
キリアは、やれやれと困ったような顔で言った。
「あたしは殺すのが好きさね。セックスしてる時よりも、酒を飲んで気持ち良くなっている時よりも、何よりも人を殺している瞬間が好きなのさ。でもね、それがあんな雑魚どもと一緒に寄って集って殺るのは趣味じゃないんだよ。」
その言葉は、アドライグにとって渡りに船だった。
キリア一人にこれだけの苦戦を強いられているというのに、これに残党軍本隊が加わればどれだけの危険があるだろうか。
とてもではないが、対処し切れない。
彼女だけでなく、彼女を頼った村人たちも、哀れ悲しきかな。
哀れなるかな冷たい鉄の牙で餌食なる。
それを思うと、アドライグは内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
だが冷静な状況分析で自分と村人たちの安全が保障され、自らも無事にこの場を撤退出来ると安堵した反面で、彼女の中に納得のいかない大きな屈辱とも言える感情が芽生えていた。
見逃すと提案したキリアにではない。
ホッとしてしまった『自分』に対して彼女はひどい怒りを覚えた。
ギリッと噛み締める奥歯の音。
剣を握る手に力が入って、彼女は感情に任せて剣を地面に叩き付けた。
叩き付けられた剣は、キィン…、という綺麗な音を立てて真っ二つに割れた。
「……あんたも残念なんだね。…まったく、うちの野郎どもはどこまでも無粋なんだか。せっかく心も濡れるような上等な睦み合いだったってのに、どこまでも邪魔をするよ。」
「あなたと……一緒にするな…!」
自分は違う。
自分は殺人を楽しんでいない、とアドライグは否定する。
「一緒さ。」
「違う!」
「………まぁ、今日童貞捨てたばかりのお嬢さんには、まだまだ自分がわからないだろうね。楽しそうだったし、あたしも楽しかった。ギリギリのところで神経削られるような瞬間を思い出すだけで、イっちゃいそうなくらいにさ。否定するなら否定しなよ。でも、自分があたしと違うって言うならさ…。」
キリアは微笑んだ。
まるで無垢な子供のように無邪気に、初めて友達が出来た時のような嬉しくて恥ずかしいような、はにかんだ笑顔をキリアはアドライグに向けた。
「何で悔しそうに剣を叩き付けたんだい?」
「…………!!」
その問いかけに弾かれるように、アドライグはキリアに背を向けて走り出した。
険しい表情のまま、荒い息で走り続けた。
何故、自分は剣を叩き付けたのか。
何故、見逃されることに怒りを覚えたのか。
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故……。
繰り返される『何故』に、アドライグの心は乱れていた。
乱れた心のまま、遠ざかる背後から迫り来る残党軍の足音を感じながら彼女は走り続けた。
アドライグは、逃げ出したかった。
キリアからではない。
残党軍からでもない。
アドライグが逃げたかったもの。
それは自分自身。
それは自分自身に生まれた、ザラリとして気持ちの悪い闇。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「ああ、助かりましたよ。」
深い森の中で、僕は夜露に濡れた身体を暖かい焚き火で乾かしていた。
古びた鉄製のカップに注がれた温められた酒の温もりが、冷えてしまってかじかんだ指に活力と感覚を甦らせてくれる。
「いや、気になさるな。俺もこの通り一人旅でございやすから、調度良うございまやした。こんな暗い森で一人で夜明かししていると、妙な気分にもなりやすしね。」
ボロボロのマントを羽織って大剣を背負った少年が、目の前の焚き火に枯れ枝を放り込む。
歳は……14、15歳くらいだろうか?
僕より幾らか年下なのだろう。
女性のような顔なのだが、喋り方は男らしい。
「しかし、このような夜分に珍しゅうございますな。ここは迷いの森って言いやして、まともな人は近付かぬ魔性の森でございやすぜ?」
「…え?ええええ!?迷いの森…?ヴァルハリア領の…?」
「………ええ、そうでございやすよ。失礼ですが旦那、えっと……。」
少年は何か言い辛そうに言葉を詰まらせた。
ああ、そうか。
まだ彼に名乗っていなかった。
「リオンです。リオン=ファウスト。少し前まではヴァルハリア教会騎士団に身を置いてました。」
そう言って、僕は少年に腰に下げた剣、ヴァルハリア教会で聖剣と呼ばれ尊ばれてきた魔剣ハンニバルの鞘に描かれた紋章を見せた。
「……なるほど、そうでございやしたか。いやいや、俺としたことが騎士様とは気付かず、大したもてなしも出来ませんで…。」
少年は済まなそうな口調で謝罪するのだが、どうも言葉には感情が篭っていない。
そんな彼の様子に僕は苦笑いをしていた。
「では、俺も名乗らねばならんでしょうな。俺は………雲井…ヒョットコ斎とでも呼んでくだされば良うございやす。故あって本名が名乗れないんでご勘弁を。」
「いえ、構いません。僕も事情があって……教会騎士団をやめてしまったし…。だからこんな剣を持っていても、僕はもう騎士じゃない。ただの元騎士ってだけの夢追い人になってしまったのですから…。」
そう、ヒロ団長に許しを得て、僕は教会騎士をやめてしまった。
僕自身の答えを見付けるために。
ただ目の前の消えていく命を救う、という理想のために。
それが人間であっても、魔物であっても…。
「何やら込み入った事情のようですな。で、リオンの旦那はどこから来たんで?」
「えっとですね……。色んな道に迷ってしまったのは確かなんですが、神聖ルオゥム帝国領を彷徨っていたはずなんですが…。」
「……………………………………………………ノエルばーちゃんのとこか。」
「え、今何か…?」
訊ねても少年・雲井は答えず、ブツブツと独り言を呟いていた。
何を聞いても僕の声など耳に入っていないようで、何やら深く考えているらしい。
仕方がないので、僕は温められた酒を飲んで身体を温めることにした。
……………うん、匂いがきついけど、良い味だ。
そう思うだろ、レオン…。
………………あれ?
レオン…?
おかしいな、レオンがいくら呼びかけても反応しない。
レオンとは、僕の中に住み着いているもう一人の僕だ。
いや、魔剣ハンニバルそのものと言って良いだろう。
僕が騎士団に入団した日、この剣を引き抜いてしまった時から、僕の中に住むもう一人の僕が、僕に囁き続ける者『レオン=ファウスト』である。
眠ってしまったのかな…?
いや、何故かレオンの存在を僕の中に見出せない…。
「…………おっと、こりゃあ失礼。ちょっとだけ考え込んじまったようで…。差し支えなければ、旦那にお聞きしたいんでございやすがね。リオンの旦那方はどこへ向かおうってぇんですかい?」
「僕らは………。」
………ん、僕ら?
「えっと、雲井君だったかな?何か勘違いをしていませんか?僕は……。」
弁解しようとした瞬間、彼はニタリと薄気味悪く笑った。
「お二人で御座いましょう?リオンの旦那、そしてレオンの旦那。」
「……………君は何者なんだ!?」
僕は慌てて焚き火から飛び退き、剣の柄に手を掛けた。
ザワザワと森の木々が風に揺られて、薄気味の悪い音をあたりに響かせる。
飛び退いた拍子に焚き火が揺れて、雲井と名乗る少年をユラユラと映し出す。
「………クッ…クックック…、何者か?俺ぁ俺としか言い様がねえなぁ。おい、旦那。俺ぁまだ答えを聞いちゃいねえ。旦那、あんたはどこへ向かおうってんだい。あんたの理想は、どこまで行けば辿り着けるんだい。」
「僕は……!」
救いたい。
人も、魔物も…。
でも………、果たしてそれだけなのか…?
「君は知っているのか!僕がどこを目指し、何を得るのか…!」
「知っているさ。よおっく知っている。あんたがどれだけ苦しみ、どれだけ逃げ出して、どれだけ戦い続けて、その苦難の先に得られたものは意外に大したものじゃないってとこまでよく知っているよ。」
「教えてくれ!僕はどうすれば良いんだ…!僕は……どこに行けば、こんな苦痛から解放されるんだ…!!レオンも……誰も答えてはくれない…!!あの団長でさえも、僕の答えを持っていないんだ…!!」
疲れていた。
僕は何をしたいのか。
大きな目標を持って、尊敬している人たちと袂を分かった。
だというのに、僕の迷いは大きく膨らむばかりだった。
「………俺にそれに答えることは出来ない。だが、入り口だけは示すことは出来る。そのために、俺はこんなクソ暗い森の中で、あんたを待ち続けていたんだからな。」
彼は座ったまま、僕の方を真っ直ぐ指差した。
「真っ直ぐだ。」
「ま……すぐ…?真っ直ぐに行けば……僕は…。」
「さぁね、俺に言えるのは真っ直ぐ進めってことだけ。」
このまま脇目も振らず真っ直ぐに進め、と彼は囁いた。
どこか不気味で、酷く邪悪にニタリと笑って彼は僕を真っ直ぐに指差していた。
僕が覚えているのはそこまでだ。
彼の姿が霞みが掛かったかのように薄ぼんやりと靄の中に消えていく。
ああ、そうか。
思い出した…、迷いの森には恐ろしい化け物が住み着いているって噂…。
化け物は人を馬鹿にするように惑わせる真っ黒な影のようなもの。
ニヤリと笑って、意地悪をする化け物は………彼だったのか…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
目を覚ますと、目の前には見渡す限りの空が広がっていた。
「…………空…?」
気持ちの良い風が吹いている。
耳元でザワザワと草が揺れている音を聞いて、僕の寝惚けた頭は、自分がどこかの草原に寝転がっていることを、やっと認識していた。
夢を見ていたような気がする。
(よぉ、遅い目覚めだな。)
頭の中に響き渡る、目覚めに聞きたくない最悪な声。
その声の主が、僕に寄り添う同居人ことレオン=ファウストである。
「……五月蝿いよ、レオン。ここ、どこだい?」
(寝惚けてんじゃねえよ、リオン。もうちょっと歩けば村が見えてくるって教えてやっていたのに、お前と来たら俺に逆らいやがって、さっさと野営の準備を始めちまうからぶち殺してやろうかと思っていたところだぜ、クソ!)
レオンに姿はない。
あくまで僕の意識の一つらしいのだが、その口調が僕と同じ顔をしながら、腕組みをしてガミガミと怒っているような、兄弟のようなイメージが頭に浮かんでしまって、僕は思わず笑って吹き出してしまった。
(あ、テメエ、笑ったな!?笑ったろ!殺す、今すぐ殺す!!)
「あははははは、ご、ごめんごめん。」
何故だろう。
僕はレオンが嫌いだ。
僕を、僕の理想から遠ざけようとする彼の姿勢が嫌いだ。
でも、そんなレオンの存在が心強いと思えた。
当てもない旅に、寄り添ってくれる誰かがいる。
たったそれだけで……いや、それがひどく幸運であると感じずにはいられない。
「レオン、とりあえず何かお腹に入れて君の言っていた村にでも行こうか。」
(む…、な、何だよ。やけに素直じゃねえか。気持ち悪いじゃねえかよ。)
考えてみれば、教会騎士団を辞めてしまってから僕は一人きりじゃなかった。
たった一人で飛び出したにも関わらず、いつも僕の傍にはレオンがいた。
お互いに罵り合いながら、お互いの言うことを無視しながら……。
僕にはいつも寄り添ってくれる人がいた。
「…………レオン。」
(何だ、さっきから。変なもんでも食ったか?いや、食ったら俺にも影響が…。)
頭に困惑しているレオンの姿が思い描かれる。
何か変なものか…。
食べてはいないけど、何か変な夢を見たような気がする。
そのせいなのかも知れないな。
「………ありがとう、僕と一緒にいてくれて。」
(…………よせやい。気持ち悪いぞ、お前。)
僕の旅は一人きりだ。
でも………、少なくとも孤独ではない…。
どこまでも続く青い空の下、どこまでも続くような緑の大地で、そんな小さな幸せを感じられることを、僕は口の悪い姿なき隣人に感謝していた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
リオン=ファウストが、頭の中の住人であるレオン=ファウストに導かれながら、とりあえずの旅の目的地と定めた村であるムエリタ村に辿り着くと、そこには何本ものフウム王国の紋章が入った旗が翻っていた。
(……こりゃあ、あの馬鹿のとこの別働隊だな、きっと。)
レオンがリオンに語り掛けた『あの馬鹿』というのは、リオンたちが袂を分かったヴァルハリア・旧フウム王国連合軍総司令官で、本人は未だ自分こそが正統だと主調しているが、本国に残した自身の長男に廃位された旧フウム王国前国王・フィリップ=バーントゥスクルのことである。
リオンが遭遇したのも、そんな国を追われたフィリップ王と同じように、本国で破れ居場所をなくし、自らを義勇軍と誇称して体裁を取り繕う敗残兵たちなのであるが、アドライグが遭遇した集団とは別のものである。
村に近付くのは危険だろうか、と思ったリオンだったのだが、一先ず遠ざかろうと動き始めた彼に、哨戒中であった残党軍の集団が彼の姿を見付けて声をかけた。
「そこの者、ここで何をしている!!」
「……旅の者です。旅の道すがら少しだけ休憩させてもらおうと、この村に寄らせていただきました。」
突如現れた部外者に残党兵は、不審を露わにした。
だが、リオンは見るからに温和そうで人畜無害な雰囲気を醸し出していたために、彼らも念のために簡単なボディチェックと手荷物検査をするだけで彼を解放することにした。
リオン自身もこれ以上関わるつもりもなかったので、黙って彼らのチェックを受け入れて、早々にこの場を立ち去るつもりだったのだが、リオンの手荷物を詰めた肩掛け袋の中身を調べていた兵士が、その中に入った物を見て驚きの声を上げた。
「こ、これはヴァルハリア教会騎士団の紋章ではないか…!」
「あ、それは…。」
兵士が見付けた物は、ヴァルハリア教会騎士団の紋章の刻まれた短剣。
それは騎士団を離れる際に、団長であったヒロ=ハイルが愛用をしていた短剣を労いと感謝の意味を込めて、リオンに贈った物である。
自分の代わりにリオンの旅を見守らせてほしい、という願いもヒロにはあったのだが、この時は図らずもリオンの身分を保証し、且つ疑惑の目を向けていた兵士からリオンの身を守ってくれたのである。
「……………で、では、あなたはヴァルハリア教会の関係者…!?」
「失礼致しました!お、お疲れで御座いましょう!!こちらへどうぞ。すぐにお寛ぎいただけるよう、手配致します!!」
リオンの身分がわかると、兵士たちは急に手の平を返したように馬鹿丁寧になり、ただひたすら頭を下げ続け、兵士たちを率いる指揮官は胡麻を擂るように、しきりにリオンをもてなそうと手を引くのである。
人の良いリオンは、その申し出を断ることも出来ず、彼らに付いて行くことにした。
その時も、彼らはヴァルハリア教会との関係者であるリオンを、わざわざ歩かせる訳にはいかないと馬に乗ることを勧め、指揮官は自ら下馬してリオンの乗る馬の轡(くつわ)を取る。
(馬鹿らしいじゃないか…。)
リオンの頭の中で、レオンが囁いたがレオンもまた同感であった。
ただ、心地の悪い嫌悪だけがリオンの中に広がっていた。
「いやあ、このような辺境でヴァルハリア騎士団の方にお会い出来るとは光栄の極み!」
そう言って、興奮気味に唾を飛ばすのはスキンヘッドとも自然禿げとも取れる、かなり重症な肥満ではあるものの身形だけは立派な中年の指揮官だった。
とりあえず、はぁ、と僕は生返事で返し続けるのだが、彼はそんな僕に構わず喋り続ける。
何度も断ったのだが、僕は指揮官用の豪勢な帷幕の中で接待を受けている。
クスコ川流域で戦っていた頃によく見た貴族の幕舎。
フウム王国の人々や、ヴァルハリア教会のお偉方たちが使っていた物と同じ物だ。
ヒロ団長みたいに慎ましい人って、なかなかいなかったのを思い出す。
ここにしてもそうだ。
上質なワインに、もてなしの料理も新鮮な果物や珍味が並ぶ。
ここが戦場だと一瞬忘れてしまうような料理の数々。
酷いものだ。
きっと、この村から略奪した物ばかりなのだろう。
僕は出された料理に手を付けられないまま、ただご機嫌取りをする指揮官の言葉を聞き流す。
「……おや、お気に召しませんでしたか?それでしたら、すぐに別の珍味を。」
「いえ、お気遣いなく。ここに来るまでに食事だけは済ませたので…。」
嘘を吐く。
これ以上、貴族趣味には付き合ってられない。
そうでも言わないと、僕は烈火の如く彼に不愉快を捲くし立てただろう。
「ところで、何故こんなところで駐留を?」
そう訊ねると指揮官は、ギクリという擬音が聞こえてきそうな程、顔を蒼褪める。
脂汗が額に滲んでいた。
「も、申し訳御座いません…!我々もすぐにムルアケ街道を征く同志や大司教猊下や我らがフィリップ王に馳せ参じなければと思っていたのですが、我らは同志たちに比べて兵力も五十余名程の有志ばかりな上、この地に巣食う悪魔どもめの抵抗も激しく…。恥ずかしながら、この村を拠点にして御味方の後顧の憂いを断つべく……。」
長々とした言い訳が続く。
つまり、彼らは安全な場所から傍観を決め込んでいた訳だ。
この戦争が終われば、後方支援をしていたという建前の下で、フィリップ王から恩賞を貰おうという腹積もりなのだろう。
この戦争が、連合軍の勝利で終わるとは限らないというのに…。
「そ、そうだ、リオン騎士。素晴らしいものがあるのですが、ご覧になりますか?」
「素晴らしいもの…?」
「きっとフィリップ王も気に入られると思うもので御座いますよ。」
さあさあ、と僕は背中を押されて帷幕を後にする。
気持ち悪いくらい、指揮官は上機嫌だった。
村外れに連れて来られた僕は、背筋に寒気が走った。
意気揚々と目の前の光景の説明をする、指揮官の言葉など耳に入らない。
何故、あなたは笑顔でいられるんですか…。
何故、あなたは何も考えないのですか…!
何故、貴様らはこんなことを仕出かした!
「見事なものでしょう!我々の戦果です。教会に牙剥く悪魔どもを我ら五十余名が一兵も失うことなく駆逐したのです!いやはや、我らも武勇に自信がない訳ではなかったのですが、さすがに実戦ともなると身が引き締まりますなぁ。っと、ワタクシの身体はこの通りまだまだ引き締める余地は御座いますが。」
豪快に笑う指揮官。
僕の目の前に積み重なった物は無言で虚空を見詰めたまま。
首。
それは幼い少年の物。
半ば腐敗が進み、白い頭蓋が覗いているが、最期まで泣いて抵抗した表情が凍り付いている。
まだ新しい死体。
それは若い女性の物。
慰み者にされたのだろう。
一糸纏わぬまま、四肢を弄んだように切断されて腹を割かれて死んでいる。
老若男女問わず、無念と憎悪に抱かれて折り重なっている。
ここは村外れに設置された死体置き場。
ヴァルハリア領民が行った虐殺の再現現場が、こんな小さな村で起こっていた。
積み重なった死体に、戦士はいない。
すべて、非戦闘員ばかりだった。
指揮官の彼が見せたかったのはこの死体の山だ。
考えることを放棄して、罪を勝手に神に預けた、愚かな行為の跡だ。
「そもそも大司教猊下の勅命に逆らい、魔物どもを駆逐する大戦に馳せ参じることを拒んだ愚か者で御座います。せめて見せしめくらいには役立って貰わないと勘定が合わないもの。リオン騎士もそういうおつもりで、このような辺鄙な所まで足をお運びになったので御座いましょう?いやいや、何も仰るな。わざわざ誉れ高いヴァルハリア騎士団のお手を煩わすようなこと、ワタクシがさせませぬよ。御君も正統なる後継者を失った悲しみも、この光景をご覧になられれば幾らかは晴れると言うもの。」
よく、口の回る男だ。
僕がここに辿り着いたのは偶然だ。
彼が言うように粛清のために来たのではない。
この教会の紋章だって、いつの日かヒロ団長の下へ帰るのかもしれないと思っていた。
だからこそ捨てずにいたのだが、僕は心まで教会に売った覚えはない。
魔物と人、双方が共存出来る可能性を求めて僕は旅に出た。
ヒロ団長も認めてくれた新しい可能性を求めて…。
なのに…。
なのに、こいつらは…!
こいつらは人間じゃない!
こいつらは………木偶だ!
教会の正義を傘に着て、暴力と悲劇を撒き散らす最低な木偶人形だ…!
レオン、許してくれ。
僕は君に散々説教を垂れてきた。
君の囁く言葉は、僕を狂わせると…。
でもそれは間違いだった…。
君は導こうとしてくれていたんだね。
初めて心から君に教えてほしい。
僕は、どうすれば良い。
(どうするもこうするも。リオン、それはお前が決めることだ。)
ああ、そうだね。
ありがとう、レオン。
決心が付いた。
誰かに背中を押してほしかったんだ…。
「………失礼、指揮官殿。あなたの名前を忘れてしまった。」
「はは、初対面ですからな。ワタクシは誉れある正統フウム王国の勇猛にして華麗なる少将スクラヴィア=カンゼィールで御座います。是非ともリオン騎士が御君がおわす本陣に帰参した暁には、ワタクシのことをお忘れなく。」
「ありがとう、スクラヴィア少将。僕はあなたを忘れない。」
レオン、君を汚物で汚すぞ。
ザンッ
「……………おお?」
「初めて……明確な意思を以って教会に牙を剥く相手を、僕は忘れない。」
スクラヴィアの首が舞う。
最期の息が漏れるような声を上げて、彼の首が飛び、胴体が後ろへと倒れ込み、ビクンビクンと何度も何度も跳ねるように痙攣を起こしていた。
僕の手に、抜き身の魔剣ハンニバル。
木偶人形の汚い血で汚れて尚、美しい刀身は輝きを失わない。
「き、騎士殿!御乱心あそばしたか!?」
兵士たちがぞろぞろと集まり始めた。
それぞれに困惑の色を浮かべながら、手には武器を持って、僕に向けている。
「…………ああ、レオン。これでもう誤魔化せないね。」
教会騎士団にいた頃、人知れず魔物たちや魔物を愛する人々を逃がしていた。
発覚すれば僕自身の命が危なかったけど、何とか証拠も残さずにやってきた。
ヒロ団長にはバレていたけど…。
でも、それももう終わりだ。
もう、誤魔化せない。
(感情を解き放て。抑え付けられた怒りを解放しろ。それだけが、お前の道を指し示す。)
ああ、そうだね。
馬鹿だよな、僕は…。
もっと早くそうしていれば………、死ななくて良い命は幾らでもあったかもしれないのに。
「騎士殿?ははは…、違うよ。僕はもうヴァルハリアの者なんかじゃない。あんなやつらと一緒にしないでほしい。僕はリオンだ。ヴァルハリア騎士団のリオン=ファウストじゃない。ただのリオン=ファウストだ!声なき死者の嘆きに動かされた愚か者、それだけで……いや、だからこそ戦える!」
その後、リオン=ファウストの足取りはよくわかっていない。
しかしヴァルハリア歴807年、帝国歴15年3月2日、リオンは全身に浴びた返り血が乾き切った服のまま、フラリとムルアケ街道に陣取るロウガ率いるセラエノ軍の陣に姿を現した。
誰の目から見ても明らかな疲労困憊の様子であったと当時の記録は伝える。
役者は揃い始めた。
キリア=ミーナが自由に踊り始め、
道の入り口を見付けたレオン=ファウストが剣を抜き、
未だ未完の大器であるアドライグが光を求めて彷徨い始める。
11/11/06 01:30更新 / 宿利京祐
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