第百六話・進撃の信仰(後編)
魔界のとある屋敷の庭に設けられた色取り取りの花が咲き誇る薔薇園。
薔薇の華やかな香りに包まれて、柔らかな日差しの中で少女とも大人の女とも取れる黒いドレスを着た女は、薔薇園に設けた上等で丁寧な刺繍の入った白いパラソルを立てたテーブルで、この薔薇園で取れた薔薇のお茶を楽しんでいた。
細い指は上品な所作でティーカップの取っ手に絡み付き、赤く艶かしい唇は薔薇茶に濡れて、より一層妖しい美しさを増していく。
暖かで穏やかな日差し、涼しげな風が吹き抜ける。
時折、女は組んだ足を組み替えたりするのだが、その仕草もまた艶かしい。
女の名は埜亞(ノア)。
あらゆる素性が不明のヴァンパイアで、今はとある人物の庇護の下、ゆったりとした穏やかで優雅な時間をこの屋敷と薔薇園で過ごす貴婦人である。
「あの迷い人は……、無事に辿り着けただろうか…。」
迷い人、というのは、かつて滅亡に瀕した神聖ルオゥム帝国への援軍を要請するために同盟国を駆けずり回ったが、すべてに断られ、絶望に打ちのめされた末、夢と現実の狭間に迷い込んだ騎士ラピエ=シュトーレンのことである。
「この館は外界と時間の経過が違うからなぁ…。無事に元の世界に戻って、彼の使命を果たしていると良いのだが……。さて、あちらの世界では何日くらい経ってしまったのだろうな。」
彼が帰ってしまって4日も経ってしまった、と埜亞は呟いた。
埜亞の言う通り、この屋敷は特殊な場所だった。
まるで他所と切り離された場所であるかのように、時間の流れがひどくゆっくりで、ラピエがセラエノへ辿り着き、紅龍雅が歴史の表舞台に立って神聖ルオゥム帝国皇帝を名乗るまで、屋敷の外では7ヶ月の月日が流れているというのに、この屋敷の敷地内では僅か4日しか経過していないのである。
「心配はいらないよ。彼は無事に辿り着いたさ。」
さぁ、と冷たい風が吹く。
冷たい風に埜亞が目を閉じ、再び目を開くと、テーブルの向こう側のもう一つの空いた椅子に、この世界におけるもっとも尊い貴婦人である魔王が、薔薇茶を淹れたティーカップを持ち、香りを楽しむかのように心地良さそうに目を閉じていた。
「来たか。随分と長いお出かけだったな。」
「またこれから出かけるよ。今度は、すべてが終わるまでは帰れないと思う。夫にはその旨をもう伝えているし、魔界の政(まつりごと)は彼や娘たちに任せれば事もなし。おかげで私はのんびりと羽を伸ばせるというものさ。」
ティーカップを傾け、薔薇茶を一口。
「……うまいな。」
「そうか。」
嬉しそうに褒める魔王に、埜亞は短く答えた。
「で、魔王。貴様はどこに行っていた?」
貴様がわざわざ出向くなんて珍しい、と埜亞は魔王を皮肉った。
沈黙。
魔王は何も答えず、薔薇茶の香りを楽しみ続けている。
埜亞も魔王が話し始めるまで、急かすことなく待ち続けた。
「……では答えようか、埜亞。君の弟の祝言を覗きに行っていた。」
「は…、弟ぉ?魔王、貴様ボケたか?私に弟などいるはずもなく、そもそも魔物に弟など生まれるはずもないだろう。長く生き過ぎると脳の活動が鈍ると言うのは本当のようだな。」
フン、と埜亞は足を組んだまま腕を組んで、不機嫌な様子で椅子に深く座る。
ボケたか、と罵られても魔王は動じず、素知らぬ風に澄ました顔のまま。
「間違いなく、君の弟だよ。実験体7号。」
ガンッ………ガシャーン……
テーブルを蹴り飛ばすと、埜亞は黒いドレスのスカートを翻して、激しい怒りの表情を浮かべてレイピアと抜き放つと、その鋭い切っ先を未だ笑顔のまま表情を崩さない魔王の喉に突き付けた。
魔王の白くて美しい喉に一筋の血が流れる。
「……取り消せ。例え貴様であろうと、それを口にするのは許さない。私は埜亞だ。誇り高きヴァンパイア、夜の支配者、不死王。それ以外の何者でもなく、そのような汚らわしい名前などではない!」
「埜亞、猛るのは構わないがね。君に私は殺せないよ。」
喉元を傷付けられているにも関わらず、魔王は平然とティーカップを口に運ぶ。
「知っている、貴様を殺せるのは貴様だけだ!」
それがわかっているだけに腹立たしい、と埜亞は吐き捨てた。
こくん、と喉を鳴らして魔王は薔薇茶を飲み干してしまうと、埜亞が突き付けているレイピアを払い除けて、寛ぐように深々と腰を据える。
「私は無限の住人だよ。あらゆる世界に私が存在し、あらゆる人々の中に私がいる。私を殺そうと思えば、君はいつ果てるとも知れない無限の命を滅ぼさねばならない。もしも君にそれが出来るなら……、君は私の世界を壊して、君の望む世界を作れるだろうね。」
それが魔王というものだよ、と魔王は意地悪そうに勝ち誇った顔を浮かべる。
忌々しい、と埜亞は吐き捨ててレイピアを鞘に収めた。
「だが、君をその名で呼んだのは私の落ち度。謝ろう。土下座でもしてやろうか?」
「貴様のことだ。何の抵抗もなく土下座でも何でもするんだろう。」
「まあね。お望みと在らばもっと凄いことだってしてあげるよ。」
「いらん!反省の色の見えない謝罪程、神経を逆撫でするものはない。で、貴様がわざわざ出かけるんだ。私の弟とやらは、外界で起こっている何かに関係しているのか?」
大ありだね、と魔王は頷いた。
「この世界が変わる。君の二人の弟たちがこの世界を変えるんだ。一人は人間として、自らの命を犠牲に人々に多大な影響を末永く与え続け、魔物たちからも人間からも新世界の神と呼ばれ語り継がれ続けるだろう。何せ、君が予言した女の運命を完全に変えてしまったのだから。」
人一人の運命を変えてしまうということはそういうことだよ、と魔王は言う。
「もう一人は?」
「……さてね。ただ一つだけ言えるのは、もう一人は一切の妥協を許さず、主神と人類の正義を盲目的に信じ、やがては人も魔物も、神でさえも滅ぼす旧世界の神と呼ばれるだろうね。あれは本来、私も知らない程の昔に、神も魔物も人間も恐れ、滅ぼされたはずの残骸なのだから。」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
まったく、忙しいったらありゃしねえ。
そりゃあオイラはしがない傭兵家業の老人さ。
どんなに武功を立てようと、ちょっと褒められ小銭を投げ渡されて、頭数揃えるために掻き集められて使い捨てされる、世界中でもっとも卑しくて小さな存在というのがオイラたちだ。
だから雇い主が行けって言えば、どこだって行く。
あんまり気が乗らなくったって行かなきゃならない。
「あー……、すっげぇ気が重ぇぜ…。」
ガチャガチャと荷物を纏めて、明朝の進軍準備に取り掛かる。
味方の士気は超ド低いままだし、上官は使えない連中ばかりだし…。
見込みがあんのはヒロってガキンチョと………。
あれ?
何て名前だっけなぁ…。
確かチビ助っちゅう意味の名前だったんだけどよ…?
「……もしかしてリトル=アロンダイトのことか?」
「おお、そいつだ。リトルってガキンチョだ。」
「名前が出て来ないなんてボケたんじゃないのか父さん。」
てやんでぃ、五月蝿えよ。
このローゴールト様がそう簡単にボケてたまるかってんだ。
と、義理の倅に怒鳴っても仕方がない。
「おう、フェィミヌ。」
「何だ父さん。名前で呼ぶな気持ち悪い。」
「じゃっかましい!せっかく倅らしく接してやろうって思ったのによ、ちゃかすねぃ!………あー、まぁ良いや。じゃあいつも通りに…おう、ガキ。お前(めぇ)はこの戦、どっちが勝つと思う?」
いつも眠そうな無表情のうちのガキの眉が僅かに上がる。
「今更だ。帝国だろう。」
オブラートに包むことを知らないで、うちのガキはあっけらかんと言い放った。
「まず味方はお荷物ばかりだ。フィリップのケチ親父は頭が悪いし側近連中もお零れ狙いの役立たずのクソお坊ちゃん揃いだし始末が悪い。」
「わかった、それ以上言うな。」
駄目だこいつ。
少しは口を減らすことを覚えねえと、間違いなく寿命が縮む。
「ま、お前の言う通りよ。正直に言やぁな、オイラは帝国の紅って野郎が羨ましい。」
「羨ましい?」
「ああ、羨ましいね。オイラもこれだけ長く生きてきたけどよ、皇帝とか王様になろうってやつは、大概どこぞの御大臣だったり、有力な豪族だったり、それなりに家柄も血筋も良いやつらだった。オイラみたいなはぐれ者とは違う毛色の連中だ。」
準備も終わって、酒の瓶を開けると、そのままラッパ飲みでグイッと一杯。
この一杯のために生きているみてぇなもんだ。
「ふぅー…うめぇ…。ローエル大王もイグロ大公もミャンヴァン騎士王も、やっぱり貴種の家柄で、オイラたちみたいな戦争屋はどんなに武功を立てたってあんな連中と違って歴史には名が残らねぇ。時々虚しくなるぜぇ。うちらの上官みたいな馬鹿でも、きっちり生まれて死ぬまでを記録されて名前が残るのになってさ…。」
「……飲みすぎだ父さん。」
「飲みたいんだよ。」
本当に馬鹿らしくなる。
帝国ってのは能力があれば出世出来るのか?
オイラも能力があったら、歴史に名を残した大王たちみたいに名が残るのか?
「だから羨ましくなるんだ。あの紅って野郎は、どちらかと言えばオイラたちの同族同種の戦争屋の類さ。しかも聞けばフィリップの阿呆が嫌う無位無官、それどころか出自すらわからない。そんなヤツが皇帝だ。オイラはな、そんなヤツが皇帝になったって言うのが羨ましいんだ。」
「羨んだところで俺たちの処遇は変わらないぞ。」
馬鹿王を殺って軍を乗っ取るか、とガキは言う。
まさか、と言ってもう一杯、酒を流し込んだ。
「こんな軍、乗っ取ったってクソの役にも立ちはしねえよ!」
「それは同感だ。」
「オイラはな、いい加減嫌気が差した!こんなくだらねえ戦が終わったら……、オイラは使い捨てられるだけの傭兵なんかやめてやる。でも傭兵以外の生き方を知らねえから、オイラはきっと戦場から離れられねぇだろうよ。」
「………何をする気だ?」
ガキが不思議そうな顔をした。
無表情なこいつがここまで表情を崩すなんて前代未聞だな。
「だからオイラは傭兵団を設立する!色んな戦場にガンガン出て、そこからオイラの代わりに歴史にしっかりとした足跡を残してくれる英雄をこの手で送り出してぇ!!オイラたちは使い捨ての駒じゃねえことを、世間様に殴り込むんだ。ガキ、お前にも手伝ってもらうからよ、こんなクソみたいな戦で死ぬんじゃねえぞ!!」
はいはい、と諦めたような顔でガキは言った。
そうさ、オイラたちはどう足掻いても使い捨ての兵卒。
だけどこの戦、何としてでも生き残ってやる。
それがオイラの…………このクソみたいな世界への反逆だ!
生き残ってやるという言葉通り、ローゴールトとフェィミヌの二人はセラエノ戦役終戦までしっかりと五体満足で生き残り、ローゴールトの予想通りに生涯の大半を様々な戦場で、図太くふてぶてしく暮らすことになる。
そして彼は、彼の大いなる野望の一歩としてセラエノ戦役終戦後の帝国歴18年、ヴァルハリア歴810年に傭兵ギルドから独立し、傭兵派遣会社『老舗の戦争屋さん』を設立。
彼らしいふざけた社名ではあったが、ローゴールトたちの生涯に渡る活躍により、これまで奴隷や流民と同レベルで低かった傭兵たちの社会的な地位を引き上げ、かつて『使い捨ての命』と呼ばれ蔑まれた傭兵たちが、戦場の主役として活躍する時代を築いていくなど、このルオゥム戦役の真っ只中にいたローゴールトは知るはずもなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
『私は運が良かった。』
その古惚けた日記はその文章で幕を開けていた。
『第13次領地奪還運動に私は父に伴って参戦した。各地の友軍は奮戦し、徐々に神の敵を駆逐し、ヴェルティシア地方の勝利は揺るがないものとなるだろう。私も若輩者ではあったが、この身を危険に晒して武功を重ね、魔王軍の兵の首を37も挙げることが出来、その勝利に華を添えることに成功した。しかし、勝利は己の嗅覚を鈍らせるという先人の言葉は正しく、更なる武功を望んだ私は手勢のみで敵陣深く斬り込み孤立、全滅の憂き目に遭ってしまった。』
その後しばらく、日記は自責と後悔が書き綴られている。
余程、この日記の筆者は心を痛めていたのだろう。
その時に戦死した武将や家臣の思い出を長々と数ページに渡って書き綴っている。
やがて思い出が徐々になくなっていくと自身の覚悟の境地に入る。
多数の犠牲を払い、僅か12騎の供を連れてキブカロ山に伏せ、姿を隠してこのまま自決するか、それとも蛮勇を奮って血路を開いて、味方本陣への決死行に走るべきかという苦しい心情を綴った箇所。
それは何の前触れもなく唐突に、筆者の物語に登場する。
『魔物の群れに発見された我々は覚悟を決めた。残忍な魔物たちのことだ。我々を虫ケラを殺すように、ジワジワと足の一本ずつ落としていくように殺すに違いない。ならば騎士として潔く戦い、教えに殉じて、神の御許へ旅立とうと。すると我々の正義を神はお見逃しにならなかった。危機に瀕した我らのために遣わされた正義の使者が目の前に………………。』
「……ヴァルハリア歴749年7月14日フウム剣友党首領、エィナゲィナ王国次男オーギュスト=バーントゥスクル。やれやれ………40年程の歴史を探らせたってのに、まさか58年も遡ることになるとはな。」
オーギュスト=バーントゥスクルとは旧フウム王国国王フィリップ=バーントゥスクルの父に当たる人物で、エィナゲィナ王国国王の次男ではあったが、この日記にも残された功績によってヴェルティシア地方を与えられ、後に国王を名乗ることをヴァルハリア教会に許されて、ヴェルティシア地方にフウム王国を開いたことで歴史に大きな足跡を残した人物である。
建国は30年そこそこ前と言うことで、40年も遡れば旧フウム王国歴代国王が創ろうとしたものに確信が持てると考えていたのだが、そこからさらに18年も遡らなければならなかったというのは、ハインケル=ゼファーらしくなく予想が甘かったと言わざるを得ないだろう。
『マスター、何それ。イカレポンチの空想小説?』
彼の相棒である聖剣シンカの問いに、ハインケルは何も答えず、ただ苦笑いを浮かべて、気持ちはわかるとだけ口にした。
『続きは?』
「後は面白くもない内容だ。突然現れた神の使者なる者に魔物たちは殺され、その使者というのも力尽きて息絶えたってことが書かれているんだけどな、ここからが問題なんだ。」
ハインケルの脳内には、膨大な魔王軍の戦闘記録が事細かに記憶されている。
その記憶とその日記に残った記録を照らし合わせて、彼は言った。
「魔王軍の記録によれば、やつらの第13次レコンキスタは魔王軍の圧勝に終わっている。俺の記憶に間違いがないのはシンカ、お前も知っての通りだ。まぁ、圧勝とは言っても局地的に負け込んだ地域もなかった訳じゃない。ヴェルティシア地方のほんのごく僅かな地域では………まぁ、魔王軍に寝返ってきた新参者が威嚇目的で魔物の扮装をして戦って、残念ながら全滅している。だがな……。」
『だが…?』
「長年魔王軍内部でも疑問が残っていたんだ。その全滅したという連中なんだが、どういう訳か死体が一つも発見されなかったらしいんだ。」
それがどうして疑問なのかわからず、聖剣シンカは素っ気ない返事をした。
「……わかってねぇな。ここの連中を見ていればわかるだろう?連中は敵を滅ぼせば、ほぼ例外なく首を晒したり、死体を滅茶苦茶に弄んだり、息絶えても拷問を加えたり脳内が腐った連中だ。死体を消してしまうなんか、およそ埋葬でもしない限りはあり得ない。」
『あっ…!』
「ようやくわかったか、シンカ。あいつらがご丁寧に死体を隠してしまう理由もない。なら答えは………、クロコが恐れたあのスケッチにある!」
ハインケルの寝台の上で、疲れ切って寝息を立てるクロコをハインケルはチラリと見る。
クロコは旧フウム王国辺境部にあるキブカロ山山中に秘密裏に建造されていた研究所の存在を突き止め、潜入に成功すると研究員たちを、父フィリップの悪行を断って欲しいという新体制フウム王国国王ジャン1世の願いからハインケルの指示により全員を暗殺。
そして研究所に残された重要機密文書を入手し、クロコは休む間もなくハインケルの下へと帰って来たばかりなのである。
『……それがマスターの言ってた、……神?』
「いや、正確な表現ではないね。アレは神に等しい存在かも知れないが、アレは旧世界で特に意地汚くて往生際の悪い残骸だよ、聖剣。」
ゆらり、風が吹く。
帷幕の中を照らす蝋燭の明かりが揺れたかと思うと、ハインケルの寝台に腰をかけ、可愛い愛娘の頭を撫でるようなやさしい手付きで、クロコの頭を撫でながら音もなく姿を現したのは魔王だった。
「可愛らしい寝顔だ。娘が小さかった頃を思い出すよ。やぁ、ひねくれ者。職務ご苦労。」
「久し振りだな、ババア。」
「……気に入らない物言いだが、事実私は君よりも遥かに年上だ。認めざるを得ないだろうね。任務は順調のようだね、クソガキ。君のあくどい策略と口車で二つの国をここまで手玉に取るとは大したものだよ。」
まるで『ババア』と呼ばれたことへのお返しのように、魔王は笑顔でハインケルのことを『クソガキ』呼ばわりし、その上辛辣な言葉をわざと選んで、彼の今日までの功績を褒め称えた。
「さて、悪逆勇者。君の相棒が知りたがっているぞ。この可愛らしいお嬢さんが恐怖を心の底に抑え付けて、勇気を振り絞って仕入れてきた情報の答えを教えてあげろ。そうでなければ、このお嬢さんの働きは無駄働きになってしまう。」
『マスター、私も知りたい…。』
命令されるのは面白くない、と思いながらもハインケルは渋々口を開いた。
「魔王、お前は何も語らないつもりか?」
「ああ。だって、私が調べたことではないしね。」
要するに面倒臭いんだな、とハインケルは溜息を吐いた。
「………魔王軍の記録…と言ってもこいつの時代の記録じゃない。そもそもどの時代の魔王が残した記録かもわからないくらい、古すぎる記録なんだけどな。この地上に一匹の獣が生れ落ちた。それはあらゆるものを貪欲に喰いたがる、どうしようもない食欲の塊だった…。」
東の彼方には『トン』という名で知られているらしい、とハインケルは付け加える。
「それはあらゆる物を喰った。木の実に始まり、獣の肉に辿り着くまでそう時間はかからなかった…。やがてその食指は………、人間に向き、魔物に向き…ついには神々にまで伸びた。その獣は、あらゆるものを食い、あらゆるものに恐れられ、『神喰い神』と呼ばれるようになった…。」
ここから先はお前が話せ、とハインケルは魔王を促す。
やれやれ、と魔王は面倒臭そうに口を開いた。
「私も直接見た訳じゃないからね…。だが、あれは結局『神』と呼ばれても『悪神』『邪神』の類だから、人も魔物も神さえも滅ぼされるのを恐れ、協力し合ってアレを滅ぼしたそうだ。滅ぼした、とは言っても……、それは簡単なことではなく、結局は殺し切ることは出来ず………土の中で数千年は、細々と生き永らえていたようだね。人々の争う音、アレの好んだ血の匂い、漂う死臭に突き動かされ、最後の力を振り絞って喰らい付いた。後数分長く生きていたら日記の著者も仲良く腹の中だっただろうね。それが、オーギュスト=バーントゥスクルの体験した神の答えだ。」
そこまで魔王が言い終わると、シンカは疑問をぶつけた。
『あれ?でも……確かマスターが読んでた日記だと…。』
息絶えたはず、と言うとハインケルも魔王も同時に頷いた。
そしてその疑問に解答を出したのは、ハインケルだった。
「そうだ、息絶えた。本当だったらこの話はここで終わりだったはずなのに、連中は何をとち狂ったのか、本気で自分の命を助けてくれたそれを神の使者と思い込んで、復活させようと試みるようになった。」
『待ってよ、マスター。復活を試みようとしたっていうけど、そんなの簡単に行くはずないよ。あいつらが持ってる大砲だって、40年以上かけないと改良が出来なかったのに、生物を甦らせるなんて大技、ただの人間たちが出来る訳がないじゃん!』
「そうでもないよ。」
いつの間に吸い始めたのだろうか。
魔王は煙草を上品な仕草で吸うと、天井に向けて煙を噴いた。
「ここは禁煙だぜ?むしろ臭いが残るから吸うんじゃねえよ。」
「固いことを言わないでほしいな。さて、シンカ。君の疑問への答えだが、人間は傲慢にも私や神の領域に足を踏み込もうとしているんだよ。」
ホムンクルスを知ってるかい、と魔王はハインケルに訊ねる。
「錬金術の…だっけか?」
「そうだよ。彼らはそのホムンクルスの技術を流用して、アレの復活を目論んでいる。実験体13号にして、ようやく試作品の完成を見たようだが…。7号と8号ほど立派に育った個体ではないようだね。」
「……一人は元帥館に住むあいつか。」
ハインケルは、7号と呼ばれた者の正体に心当たりがあった。
すぐさま脳裏に埜亞の姿を思い浮かべると、それを確認するように魔王に訊ねる。
「ああ、私のかつての親友が眠る屋敷に住まう者。私が命を存えさせ、生きたいと願う心のままに姿形を与えた者の一人が埜亞だ。そしてもう一人は…。」
と、そこまで言って魔王はそれ以上を語ろうとしなかった。
ハインケルやシンカにしても、それ以上を聞く気になれなかった。
特にハインケルは、自らが作り出した兵器が、どんなものであるかという正体を知ろうともしないフィリップ王やユリアス大司教たちへの不快感に囚われ、苛立ったまま押し黙ってしまったのである。
『でも……そんな化け物を…あいつらは何で神様だと勘違いしているの?』
あり得ないよ、とシンカが重い空気を裂くように魔王に問う。
シンカの問いに魔王は意外そうな顔を浮かべたが、すぐに微笑を浮かべて答えを返した。
「誰も……見たことがないからさ。主神を信仰していながら、誰もその姿を見たことがなく、神々の使いである天使でさえ、出会った者は数少ないんだよ。シンカ、ついでにハインケル。よく覚えておくと良い。主神は人間を愛している。これは嘘偽りのない真実だ。だが、アレは誰も救わないし、何も助けたりはしない。」
禁煙だと言われたにも関わらず、魔王はまた煙草に火を点けた。
その仕草は一々様になっている。
「アレはね、この盲目的に主神を信じて、袋小路になったこの時代を半ば見捨てているんだよ。」
煙草の紫煙がゆらゆらと天井へ昇っていく。
蝋燭の明かりに照らされた魔王の顔は、どこか寂しそうだった。
帝国歴15年、ヴァルハリア歴807年、文治2年3月16日早朝。
日の出と共にヴァルハリア・旧フウム王国連合軍は進軍を開始する。
あまりに重い足取りで、木々を揺らす小鳥にさえ怯えながらの進軍であった。
もしもこの時、フィリップ王がムルアケ街道優勢の情報を全軍に流していれば。
もしもこの時、ヒロ=ハイルの騎兵団が最大限に活用出来ていたなら。
歴史は、現在と大きく異なっていたであろう。
人々は征く。
それぞれの思いを胸にしまいながら。
ある者は、狂気染みた信仰を。
ある者は、ヘドロのように醜い妬みを。
ある者は、大いなる未来を。
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍は大きな亀裂を抱えたまま征く。
紅龍雅、運命の日まで後4日……。
薔薇の華やかな香りに包まれて、柔らかな日差しの中で少女とも大人の女とも取れる黒いドレスを着た女は、薔薇園に設けた上等で丁寧な刺繍の入った白いパラソルを立てたテーブルで、この薔薇園で取れた薔薇のお茶を楽しんでいた。
細い指は上品な所作でティーカップの取っ手に絡み付き、赤く艶かしい唇は薔薇茶に濡れて、より一層妖しい美しさを増していく。
暖かで穏やかな日差し、涼しげな風が吹き抜ける。
時折、女は組んだ足を組み替えたりするのだが、その仕草もまた艶かしい。
女の名は埜亞(ノア)。
あらゆる素性が不明のヴァンパイアで、今はとある人物の庇護の下、ゆったりとした穏やかで優雅な時間をこの屋敷と薔薇園で過ごす貴婦人である。
「あの迷い人は……、無事に辿り着けただろうか…。」
迷い人、というのは、かつて滅亡に瀕した神聖ルオゥム帝国への援軍を要請するために同盟国を駆けずり回ったが、すべてに断られ、絶望に打ちのめされた末、夢と現実の狭間に迷い込んだ騎士ラピエ=シュトーレンのことである。
「この館は外界と時間の経過が違うからなぁ…。無事に元の世界に戻って、彼の使命を果たしていると良いのだが……。さて、あちらの世界では何日くらい経ってしまったのだろうな。」
彼が帰ってしまって4日も経ってしまった、と埜亞は呟いた。
埜亞の言う通り、この屋敷は特殊な場所だった。
まるで他所と切り離された場所であるかのように、時間の流れがひどくゆっくりで、ラピエがセラエノへ辿り着き、紅龍雅が歴史の表舞台に立って神聖ルオゥム帝国皇帝を名乗るまで、屋敷の外では7ヶ月の月日が流れているというのに、この屋敷の敷地内では僅か4日しか経過していないのである。
「心配はいらないよ。彼は無事に辿り着いたさ。」
さぁ、と冷たい風が吹く。
冷たい風に埜亞が目を閉じ、再び目を開くと、テーブルの向こう側のもう一つの空いた椅子に、この世界におけるもっとも尊い貴婦人である魔王が、薔薇茶を淹れたティーカップを持ち、香りを楽しむかのように心地良さそうに目を閉じていた。
「来たか。随分と長いお出かけだったな。」
「またこれから出かけるよ。今度は、すべてが終わるまでは帰れないと思う。夫にはその旨をもう伝えているし、魔界の政(まつりごと)は彼や娘たちに任せれば事もなし。おかげで私はのんびりと羽を伸ばせるというものさ。」
ティーカップを傾け、薔薇茶を一口。
「……うまいな。」
「そうか。」
嬉しそうに褒める魔王に、埜亞は短く答えた。
「で、魔王。貴様はどこに行っていた?」
貴様がわざわざ出向くなんて珍しい、と埜亞は魔王を皮肉った。
沈黙。
魔王は何も答えず、薔薇茶の香りを楽しみ続けている。
埜亞も魔王が話し始めるまで、急かすことなく待ち続けた。
「……では答えようか、埜亞。君の弟の祝言を覗きに行っていた。」
「は…、弟ぉ?魔王、貴様ボケたか?私に弟などいるはずもなく、そもそも魔物に弟など生まれるはずもないだろう。長く生き過ぎると脳の活動が鈍ると言うのは本当のようだな。」
フン、と埜亞は足を組んだまま腕を組んで、不機嫌な様子で椅子に深く座る。
ボケたか、と罵られても魔王は動じず、素知らぬ風に澄ました顔のまま。
「間違いなく、君の弟だよ。実験体7号。」
ガンッ………ガシャーン……
テーブルを蹴り飛ばすと、埜亞は黒いドレスのスカートを翻して、激しい怒りの表情を浮かべてレイピアと抜き放つと、その鋭い切っ先を未だ笑顔のまま表情を崩さない魔王の喉に突き付けた。
魔王の白くて美しい喉に一筋の血が流れる。
「……取り消せ。例え貴様であろうと、それを口にするのは許さない。私は埜亞だ。誇り高きヴァンパイア、夜の支配者、不死王。それ以外の何者でもなく、そのような汚らわしい名前などではない!」
「埜亞、猛るのは構わないがね。君に私は殺せないよ。」
喉元を傷付けられているにも関わらず、魔王は平然とティーカップを口に運ぶ。
「知っている、貴様を殺せるのは貴様だけだ!」
それがわかっているだけに腹立たしい、と埜亞は吐き捨てた。
こくん、と喉を鳴らして魔王は薔薇茶を飲み干してしまうと、埜亞が突き付けているレイピアを払い除けて、寛ぐように深々と腰を据える。
「私は無限の住人だよ。あらゆる世界に私が存在し、あらゆる人々の中に私がいる。私を殺そうと思えば、君はいつ果てるとも知れない無限の命を滅ぼさねばならない。もしも君にそれが出来るなら……、君は私の世界を壊して、君の望む世界を作れるだろうね。」
それが魔王というものだよ、と魔王は意地悪そうに勝ち誇った顔を浮かべる。
忌々しい、と埜亞は吐き捨ててレイピアを鞘に収めた。
「だが、君をその名で呼んだのは私の落ち度。謝ろう。土下座でもしてやろうか?」
「貴様のことだ。何の抵抗もなく土下座でも何でもするんだろう。」
「まあね。お望みと在らばもっと凄いことだってしてあげるよ。」
「いらん!反省の色の見えない謝罪程、神経を逆撫でするものはない。で、貴様がわざわざ出かけるんだ。私の弟とやらは、外界で起こっている何かに関係しているのか?」
大ありだね、と魔王は頷いた。
「この世界が変わる。君の二人の弟たちがこの世界を変えるんだ。一人は人間として、自らの命を犠牲に人々に多大な影響を末永く与え続け、魔物たちからも人間からも新世界の神と呼ばれ語り継がれ続けるだろう。何せ、君が予言した女の運命を完全に変えてしまったのだから。」
人一人の運命を変えてしまうということはそういうことだよ、と魔王は言う。
「もう一人は?」
「……さてね。ただ一つだけ言えるのは、もう一人は一切の妥協を許さず、主神と人類の正義を盲目的に信じ、やがては人も魔物も、神でさえも滅ぼす旧世界の神と呼ばれるだろうね。あれは本来、私も知らない程の昔に、神も魔物も人間も恐れ、滅ぼされたはずの残骸なのだから。」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
まったく、忙しいったらありゃしねえ。
そりゃあオイラはしがない傭兵家業の老人さ。
どんなに武功を立てようと、ちょっと褒められ小銭を投げ渡されて、頭数揃えるために掻き集められて使い捨てされる、世界中でもっとも卑しくて小さな存在というのがオイラたちだ。
だから雇い主が行けって言えば、どこだって行く。
あんまり気が乗らなくったって行かなきゃならない。
「あー……、すっげぇ気が重ぇぜ…。」
ガチャガチャと荷物を纏めて、明朝の進軍準備に取り掛かる。
味方の士気は超ド低いままだし、上官は使えない連中ばかりだし…。
見込みがあんのはヒロってガキンチョと………。
あれ?
何て名前だっけなぁ…。
確かチビ助っちゅう意味の名前だったんだけどよ…?
「……もしかしてリトル=アロンダイトのことか?」
「おお、そいつだ。リトルってガキンチョだ。」
「名前が出て来ないなんてボケたんじゃないのか父さん。」
てやんでぃ、五月蝿えよ。
このローゴールト様がそう簡単にボケてたまるかってんだ。
と、義理の倅に怒鳴っても仕方がない。
「おう、フェィミヌ。」
「何だ父さん。名前で呼ぶな気持ち悪い。」
「じゃっかましい!せっかく倅らしく接してやろうって思ったのによ、ちゃかすねぃ!………あー、まぁ良いや。じゃあいつも通りに…おう、ガキ。お前(めぇ)はこの戦、どっちが勝つと思う?」
いつも眠そうな無表情のうちのガキの眉が僅かに上がる。
「今更だ。帝国だろう。」
オブラートに包むことを知らないで、うちのガキはあっけらかんと言い放った。
「まず味方はお荷物ばかりだ。フィリップのケチ親父は頭が悪いし側近連中もお零れ狙いの役立たずのクソお坊ちゃん揃いだし始末が悪い。」
「わかった、それ以上言うな。」
駄目だこいつ。
少しは口を減らすことを覚えねえと、間違いなく寿命が縮む。
「ま、お前の言う通りよ。正直に言やぁな、オイラは帝国の紅って野郎が羨ましい。」
「羨ましい?」
「ああ、羨ましいね。オイラもこれだけ長く生きてきたけどよ、皇帝とか王様になろうってやつは、大概どこぞの御大臣だったり、有力な豪族だったり、それなりに家柄も血筋も良いやつらだった。オイラみたいなはぐれ者とは違う毛色の連中だ。」
準備も終わって、酒の瓶を開けると、そのままラッパ飲みでグイッと一杯。
この一杯のために生きているみてぇなもんだ。
「ふぅー…うめぇ…。ローエル大王もイグロ大公もミャンヴァン騎士王も、やっぱり貴種の家柄で、オイラたちみたいな戦争屋はどんなに武功を立てたってあんな連中と違って歴史には名が残らねぇ。時々虚しくなるぜぇ。うちらの上官みたいな馬鹿でも、きっちり生まれて死ぬまでを記録されて名前が残るのになってさ…。」
「……飲みすぎだ父さん。」
「飲みたいんだよ。」
本当に馬鹿らしくなる。
帝国ってのは能力があれば出世出来るのか?
オイラも能力があったら、歴史に名を残した大王たちみたいに名が残るのか?
「だから羨ましくなるんだ。あの紅って野郎は、どちらかと言えばオイラたちの同族同種の戦争屋の類さ。しかも聞けばフィリップの阿呆が嫌う無位無官、それどころか出自すらわからない。そんなヤツが皇帝だ。オイラはな、そんなヤツが皇帝になったって言うのが羨ましいんだ。」
「羨んだところで俺たちの処遇は変わらないぞ。」
馬鹿王を殺って軍を乗っ取るか、とガキは言う。
まさか、と言ってもう一杯、酒を流し込んだ。
「こんな軍、乗っ取ったってクソの役にも立ちはしねえよ!」
「それは同感だ。」
「オイラはな、いい加減嫌気が差した!こんなくだらねえ戦が終わったら……、オイラは使い捨てられるだけの傭兵なんかやめてやる。でも傭兵以外の生き方を知らねえから、オイラはきっと戦場から離れられねぇだろうよ。」
「………何をする気だ?」
ガキが不思議そうな顔をした。
無表情なこいつがここまで表情を崩すなんて前代未聞だな。
「だからオイラは傭兵団を設立する!色んな戦場にガンガン出て、そこからオイラの代わりに歴史にしっかりとした足跡を残してくれる英雄をこの手で送り出してぇ!!オイラたちは使い捨ての駒じゃねえことを、世間様に殴り込むんだ。ガキ、お前にも手伝ってもらうからよ、こんなクソみたいな戦で死ぬんじゃねえぞ!!」
はいはい、と諦めたような顔でガキは言った。
そうさ、オイラたちはどう足掻いても使い捨ての兵卒。
だけどこの戦、何としてでも生き残ってやる。
それがオイラの…………このクソみたいな世界への反逆だ!
生き残ってやるという言葉通り、ローゴールトとフェィミヌの二人はセラエノ戦役終戦までしっかりと五体満足で生き残り、ローゴールトの予想通りに生涯の大半を様々な戦場で、図太くふてぶてしく暮らすことになる。
そして彼は、彼の大いなる野望の一歩としてセラエノ戦役終戦後の帝国歴18年、ヴァルハリア歴810年に傭兵ギルドから独立し、傭兵派遣会社『老舗の戦争屋さん』を設立。
彼らしいふざけた社名ではあったが、ローゴールトたちの生涯に渡る活躍により、これまで奴隷や流民と同レベルで低かった傭兵たちの社会的な地位を引き上げ、かつて『使い捨ての命』と呼ばれ蔑まれた傭兵たちが、戦場の主役として活躍する時代を築いていくなど、このルオゥム戦役の真っ只中にいたローゴールトは知るはずもなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
『私は運が良かった。』
その古惚けた日記はその文章で幕を開けていた。
『第13次領地奪還運動に私は父に伴って参戦した。各地の友軍は奮戦し、徐々に神の敵を駆逐し、ヴェルティシア地方の勝利は揺るがないものとなるだろう。私も若輩者ではあったが、この身を危険に晒して武功を重ね、魔王軍の兵の首を37も挙げることが出来、その勝利に華を添えることに成功した。しかし、勝利は己の嗅覚を鈍らせるという先人の言葉は正しく、更なる武功を望んだ私は手勢のみで敵陣深く斬り込み孤立、全滅の憂き目に遭ってしまった。』
その後しばらく、日記は自責と後悔が書き綴られている。
余程、この日記の筆者は心を痛めていたのだろう。
その時に戦死した武将や家臣の思い出を長々と数ページに渡って書き綴っている。
やがて思い出が徐々になくなっていくと自身の覚悟の境地に入る。
多数の犠牲を払い、僅か12騎の供を連れてキブカロ山に伏せ、姿を隠してこのまま自決するか、それとも蛮勇を奮って血路を開いて、味方本陣への決死行に走るべきかという苦しい心情を綴った箇所。
それは何の前触れもなく唐突に、筆者の物語に登場する。
『魔物の群れに発見された我々は覚悟を決めた。残忍な魔物たちのことだ。我々を虫ケラを殺すように、ジワジワと足の一本ずつ落としていくように殺すに違いない。ならば騎士として潔く戦い、教えに殉じて、神の御許へ旅立とうと。すると我々の正義を神はお見逃しにならなかった。危機に瀕した我らのために遣わされた正義の使者が目の前に………………。』
「……ヴァルハリア歴749年7月14日フウム剣友党首領、エィナゲィナ王国次男オーギュスト=バーントゥスクル。やれやれ………40年程の歴史を探らせたってのに、まさか58年も遡ることになるとはな。」
オーギュスト=バーントゥスクルとは旧フウム王国国王フィリップ=バーントゥスクルの父に当たる人物で、エィナゲィナ王国国王の次男ではあったが、この日記にも残された功績によってヴェルティシア地方を与えられ、後に国王を名乗ることをヴァルハリア教会に許されて、ヴェルティシア地方にフウム王国を開いたことで歴史に大きな足跡を残した人物である。
建国は30年そこそこ前と言うことで、40年も遡れば旧フウム王国歴代国王が創ろうとしたものに確信が持てると考えていたのだが、そこからさらに18年も遡らなければならなかったというのは、ハインケル=ゼファーらしくなく予想が甘かったと言わざるを得ないだろう。
『マスター、何それ。イカレポンチの空想小説?』
彼の相棒である聖剣シンカの問いに、ハインケルは何も答えず、ただ苦笑いを浮かべて、気持ちはわかるとだけ口にした。
『続きは?』
「後は面白くもない内容だ。突然現れた神の使者なる者に魔物たちは殺され、その使者というのも力尽きて息絶えたってことが書かれているんだけどな、ここからが問題なんだ。」
ハインケルの脳内には、膨大な魔王軍の戦闘記録が事細かに記憶されている。
その記憶とその日記に残った記録を照らし合わせて、彼は言った。
「魔王軍の記録によれば、やつらの第13次レコンキスタは魔王軍の圧勝に終わっている。俺の記憶に間違いがないのはシンカ、お前も知っての通りだ。まぁ、圧勝とは言っても局地的に負け込んだ地域もなかった訳じゃない。ヴェルティシア地方のほんのごく僅かな地域では………まぁ、魔王軍に寝返ってきた新参者が威嚇目的で魔物の扮装をして戦って、残念ながら全滅している。だがな……。」
『だが…?』
「長年魔王軍内部でも疑問が残っていたんだ。その全滅したという連中なんだが、どういう訳か死体が一つも発見されなかったらしいんだ。」
それがどうして疑問なのかわからず、聖剣シンカは素っ気ない返事をした。
「……わかってねぇな。ここの連中を見ていればわかるだろう?連中は敵を滅ぼせば、ほぼ例外なく首を晒したり、死体を滅茶苦茶に弄んだり、息絶えても拷問を加えたり脳内が腐った連中だ。死体を消してしまうなんか、およそ埋葬でもしない限りはあり得ない。」
『あっ…!』
「ようやくわかったか、シンカ。あいつらがご丁寧に死体を隠してしまう理由もない。なら答えは………、クロコが恐れたあのスケッチにある!」
ハインケルの寝台の上で、疲れ切って寝息を立てるクロコをハインケルはチラリと見る。
クロコは旧フウム王国辺境部にあるキブカロ山山中に秘密裏に建造されていた研究所の存在を突き止め、潜入に成功すると研究員たちを、父フィリップの悪行を断って欲しいという新体制フウム王国国王ジャン1世の願いからハインケルの指示により全員を暗殺。
そして研究所に残された重要機密文書を入手し、クロコは休む間もなくハインケルの下へと帰って来たばかりなのである。
『……それがマスターの言ってた、……神?』
「いや、正確な表現ではないね。アレは神に等しい存在かも知れないが、アレは旧世界で特に意地汚くて往生際の悪い残骸だよ、聖剣。」
ゆらり、風が吹く。
帷幕の中を照らす蝋燭の明かりが揺れたかと思うと、ハインケルの寝台に腰をかけ、可愛い愛娘の頭を撫でるようなやさしい手付きで、クロコの頭を撫でながら音もなく姿を現したのは魔王だった。
「可愛らしい寝顔だ。娘が小さかった頃を思い出すよ。やぁ、ひねくれ者。職務ご苦労。」
「久し振りだな、ババア。」
「……気に入らない物言いだが、事実私は君よりも遥かに年上だ。認めざるを得ないだろうね。任務は順調のようだね、クソガキ。君のあくどい策略と口車で二つの国をここまで手玉に取るとは大したものだよ。」
まるで『ババア』と呼ばれたことへのお返しのように、魔王は笑顔でハインケルのことを『クソガキ』呼ばわりし、その上辛辣な言葉をわざと選んで、彼の今日までの功績を褒め称えた。
「さて、悪逆勇者。君の相棒が知りたがっているぞ。この可愛らしいお嬢さんが恐怖を心の底に抑え付けて、勇気を振り絞って仕入れてきた情報の答えを教えてあげろ。そうでなければ、このお嬢さんの働きは無駄働きになってしまう。」
『マスター、私も知りたい…。』
命令されるのは面白くない、と思いながらもハインケルは渋々口を開いた。
「魔王、お前は何も語らないつもりか?」
「ああ。だって、私が調べたことではないしね。」
要するに面倒臭いんだな、とハインケルは溜息を吐いた。
「………魔王軍の記録…と言ってもこいつの時代の記録じゃない。そもそもどの時代の魔王が残した記録かもわからないくらい、古すぎる記録なんだけどな。この地上に一匹の獣が生れ落ちた。それはあらゆるものを貪欲に喰いたがる、どうしようもない食欲の塊だった…。」
東の彼方には『トン』という名で知られているらしい、とハインケルは付け加える。
「それはあらゆる物を喰った。木の実に始まり、獣の肉に辿り着くまでそう時間はかからなかった…。やがてその食指は………、人間に向き、魔物に向き…ついには神々にまで伸びた。その獣は、あらゆるものを食い、あらゆるものに恐れられ、『神喰い神』と呼ばれるようになった…。」
ここから先はお前が話せ、とハインケルは魔王を促す。
やれやれ、と魔王は面倒臭そうに口を開いた。
「私も直接見た訳じゃないからね…。だが、あれは結局『神』と呼ばれても『悪神』『邪神』の類だから、人も魔物も神さえも滅ぼされるのを恐れ、協力し合ってアレを滅ぼしたそうだ。滅ぼした、とは言っても……、それは簡単なことではなく、結局は殺し切ることは出来ず………土の中で数千年は、細々と生き永らえていたようだね。人々の争う音、アレの好んだ血の匂い、漂う死臭に突き動かされ、最後の力を振り絞って喰らい付いた。後数分長く生きていたら日記の著者も仲良く腹の中だっただろうね。それが、オーギュスト=バーントゥスクルの体験した神の答えだ。」
そこまで魔王が言い終わると、シンカは疑問をぶつけた。
『あれ?でも……確かマスターが読んでた日記だと…。』
息絶えたはず、と言うとハインケルも魔王も同時に頷いた。
そしてその疑問に解答を出したのは、ハインケルだった。
「そうだ、息絶えた。本当だったらこの話はここで終わりだったはずなのに、連中は何をとち狂ったのか、本気で自分の命を助けてくれたそれを神の使者と思い込んで、復活させようと試みるようになった。」
『待ってよ、マスター。復活を試みようとしたっていうけど、そんなの簡単に行くはずないよ。あいつらが持ってる大砲だって、40年以上かけないと改良が出来なかったのに、生物を甦らせるなんて大技、ただの人間たちが出来る訳がないじゃん!』
「そうでもないよ。」
いつの間に吸い始めたのだろうか。
魔王は煙草を上品な仕草で吸うと、天井に向けて煙を噴いた。
「ここは禁煙だぜ?むしろ臭いが残るから吸うんじゃねえよ。」
「固いことを言わないでほしいな。さて、シンカ。君の疑問への答えだが、人間は傲慢にも私や神の領域に足を踏み込もうとしているんだよ。」
ホムンクルスを知ってるかい、と魔王はハインケルに訊ねる。
「錬金術の…だっけか?」
「そうだよ。彼らはそのホムンクルスの技術を流用して、アレの復活を目論んでいる。実験体13号にして、ようやく試作品の完成を見たようだが…。7号と8号ほど立派に育った個体ではないようだね。」
「……一人は元帥館に住むあいつか。」
ハインケルは、7号と呼ばれた者の正体に心当たりがあった。
すぐさま脳裏に埜亞の姿を思い浮かべると、それを確認するように魔王に訊ねる。
「ああ、私のかつての親友が眠る屋敷に住まう者。私が命を存えさせ、生きたいと願う心のままに姿形を与えた者の一人が埜亞だ。そしてもう一人は…。」
と、そこまで言って魔王はそれ以上を語ろうとしなかった。
ハインケルやシンカにしても、それ以上を聞く気になれなかった。
特にハインケルは、自らが作り出した兵器が、どんなものであるかという正体を知ろうともしないフィリップ王やユリアス大司教たちへの不快感に囚われ、苛立ったまま押し黙ってしまったのである。
『でも……そんな化け物を…あいつらは何で神様だと勘違いしているの?』
あり得ないよ、とシンカが重い空気を裂くように魔王に問う。
シンカの問いに魔王は意外そうな顔を浮かべたが、すぐに微笑を浮かべて答えを返した。
「誰も……見たことがないからさ。主神を信仰していながら、誰もその姿を見たことがなく、神々の使いである天使でさえ、出会った者は数少ないんだよ。シンカ、ついでにハインケル。よく覚えておくと良い。主神は人間を愛している。これは嘘偽りのない真実だ。だが、アレは誰も救わないし、何も助けたりはしない。」
禁煙だと言われたにも関わらず、魔王はまた煙草に火を点けた。
その仕草は一々様になっている。
「アレはね、この盲目的に主神を信じて、袋小路になったこの時代を半ば見捨てているんだよ。」
煙草の紫煙がゆらゆらと天井へ昇っていく。
蝋燭の明かりに照らされた魔王の顔は、どこか寂しそうだった。
帝国歴15年、ヴァルハリア歴807年、文治2年3月16日早朝。
日の出と共にヴァルハリア・旧フウム王国連合軍は進軍を開始する。
あまりに重い足取りで、木々を揺らす小鳥にさえ怯えながらの進軍であった。
もしもこの時、フィリップ王がムルアケ街道優勢の情報を全軍に流していれば。
もしもこの時、ヒロ=ハイルの騎兵団が最大限に活用出来ていたなら。
歴史は、現在と大きく異なっていたであろう。
人々は征く。
それぞれの思いを胸にしまいながら。
ある者は、狂気染みた信仰を。
ある者は、ヘドロのように醜い妬みを。
ある者は、大いなる未来を。
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍は大きな亀裂を抱えたまま征く。
紅龍雅、運命の日まで後4日……。
11/11/05 22:32更新 / 宿利京祐
戻る
次へ