宵闇夢怪譚[楡の木]
それはワシの最期の願いでございます。
どうせ、助からぬ命。
余命幾許もないのでございましたら、どうぞワシをあの地に捨ててくだされ。
思い出の………、生まれ故郷にそびえ立つ楡の木の下に…。
あれは昭和10年の春先のことだった。
村長が殺風景な村の景観を良くしようと、中央のお役人に頼み込んで遠い異国から(確かドイツだったはず)楡の木を購入したと聞いて、異国の楡の木はどんなものなのだろうと、当時10歳のワシは心を躍らせて村を一望出来るあの丘に走った。
正直な話をすれば、期待外れも良いところだった。
村のどの楡の木よりも大きかったのだが、日本の楡の木と大して変わらなかった。
しかし、せっかく来たので木に登って、村一番に征服しておこうと思ったワシだったが、そこで不思議なものを見た。
まるで楡の木に喰われてしまったかのような様子で、木の幹に黒髪の西洋美女が絡み付いていた。
「だ、大丈夫とね!?」
眠ってるらしい黒髪の西洋人の頬を軽く叩く。
すると呻き声を上げて、西洋人は目を覚ました。
軽く周囲を見回すと、青い目を大きく見開いて、異国の言葉で慌てふためいた。
「Wo bin ich!?Warum ist ich hier!?」
「な、何言うとうとね?」
「Nein……,Ich verstehe Ihre Worter nicht.」
不謹慎な話だが、幼いながらにワシはその西洋人を美しいと感じた。
違うな、憧れ?
それとも一目惚れしてしまっていたのか…。
慌てふためいていた西洋人だったが、何やら思い付いたらしく落ち着きを取り戻し、ワシの方をじっと見詰めると、ワシの手を握り引き寄せて、目を閉じてワシの額と彼女の額を触れ合わせた。
「わ…わ…!?」
「Bewegen Sie sich nicht.」
意味はわからなかったが、多分動かないでと言ったのだと直感した。
ワシも目を閉じて、心を落ち着ける。
すると目から入る情報が遮断されると、彼女の匂いだろうか。
甘くて、胸の奥が切なくなるような良い匂いに、ワシの胸は高鳴った。
何もない村だった。
村にも綺麗な女子はいたが、恋をする対象ではなかった。
「Danke………ありがとうゴザいます。」
「ふえっ!?」
驚いた。
今まで異国の言葉しか話さなかった西洋美女が、いきなり日本語を喋り始めたのだから。
「ワタシ、アナタのGedachtnis……あぁ〜、き、キオクから言葉、学びマシタ。驚かないでクダさい。ハジメまして、テッペイ。ワタシの名前、ルスト言いマス。ドリアードのルスト。」
名乗ってもいないのに、ワシの名前を彼女・ルストは口にした。
ワシの名は日下部徹平。
ルストは、ハッキリとワシの名を口にしたのだった。
「でも教えてクダさい。ワタシ、何でこんなトコいますカ?」
屈託のない笑顔だった。
ワシ、日下部徹平が終生胸に描く光景で、唯一色褪せなかった笑顔だった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「そいたらルストは、楡の木の精やったと?」
「精、とは精霊のコトでしょうカ?似たヨウなモノですけど、テッペイにはわかり難い思いマスから、ソレで構いまセン。残念ですが、人間ではナイのは確かです。」
そんなやり取りから、ワシとルストの交流は始まった。
狭い村だったから、噂が広まると、ルストの楡の木は「お化け楡」と呼ばれるようになり、ワシ以外の子供は怖がって近付かなくなった。
ルストは子供好きで、大きな楡の木を珍しがって来る子供に声をかけたようなのだが、片言の日本語、それに木が絡み付いているような姿を見付けると、誰もが怖がってしまったのだという。
村の中でも気味が悪いから切り倒してしまおうという声も上がったのだが、中央のお偉いさんにわざわざ取り計らってもらって購入したこと、友好国から購入したものを勝手に切り倒せば国際問題になりかねないということもあり、村人は渋々と認め、誰も近寄らなくなったという話をワシは大人になって聞いた。
「テッペイ、今日は何シテ遊びマスか?」
ルストは木の精だ。
だからその場から動くことが出来ないから、ワシは色々な遊びを教えた。
お手玉、剣玉、すごろくに独楽回し。
時にはルストに西洋の歌を教えてもらった。
ワシが教えた遊びの中で、ルストは将棋をよく好んだ。
「はい、コレで詰みデスよ。」
「むむむ……、待つばい!まだワシゃ負けとらんと!!」
「はいはい、待ちマスよ〜。お姉サン、可愛い弟分のタメに飛車角抜いてアゲましょう♪」
なかなか屈辱的な思い出ではあるが、ワシはついに彼女に一糸報いることは出来ず終いだった。
その内、ルストとの日々も1年がすぎ、2年がすぎ…………。
別れの日は唐突にやって来た。
昭和19年9月のことだった。
「お別れ、ですか?」
すっかり日本語がうまくなったルストだったが、その流暢さが逆にワシの心を締め付けた。
「ワシんとこにも……アカが来たばい。」
アカとは赤紙のこと。
つまり世に言う召集令状である。
「兵隊に取られるんだ…。」
「御国の為にはしょんなか。それにワシゃ、家を継がん四男坊ばい。行かにゃ家にも村にも迷惑がかかるんが、わかっとうけん戦地に行くと。でもな…………、ワシは本当は行きたくないと。死にたくなか!!」
村の中では言えないことを、ワシはルストの木の下に蹲って叫んだ。
死にたくなかった。
出来ることなら、兵隊に行かないまま村で暮らしたかった。
「徹平………、ワタシ、いつも思うんだ。人間って、どうしてもっと素直に生きられないんだろうって。人間って、どうして幸せを幸せとして受け入れられないんだろうって。どうして…………、死んじゃうんだろうって…。」
「ルスト…。」
後ろから、頬を摺り寄せるようにルストがワシを抱き締めた。
「徹平たちから見れば、私たちの方が不思議なのかも知れない。でもワタシたちは人間みたいに無用な争いはしない。誰もが幸せを感じたいから、無駄な争いなんかしている暇がないの。何でだろうね……。何でこんな風に抱き締めてあげられないんだろうね。人間って………、不思議…。」
ルストの名を呼んで振り向こうとした時、ルストのやわらかな唇がワシの唇を奪っていた。
初めて出会った頃のような甘くて、胸の奥が切なくなるような香り。
離れ難くて、ワシらは自らの心にすべてを委ねて、目を閉じて唇を重ねた。
「…………ずっと、好いとった。」
人間、死を覚悟すると本音が出るという。
胸の奥にしまっていた思いを、ワシはルストに告げた。
取りとめもなく溢れてくる言葉。
しどろもどろに口から飛び出る支離滅裂な告白。
それでもルストは、聞いてくれた。
恥ずかしかった。
まだ19歳の田舎の純情青年にとって、一世一代の告白だった。
恥ずかしくて、ルストの顔すらまともに見れなくなって、ワシはルストの青い目から逃れるように目線を逸らし、俯き気味に顔を背けて口を閉ざしてしまった。
どれだけお互いに無言が続いただろうか。
ルストは、恥ずかしくてどうしようもなくなったワシを抱き寄せると、やわらかな胸に、ワシの顔をやさしく押し付けた。
「聞こえる……?どくん、どくんって…。徹平に告白してもらって、ワタシの鼓動、さっきから痛いくらいに高鳴ってる。嬉しいなぁ……、嬉しいなぁ。誰かに愛されるって、本当に嬉しいなぁ。」
嬉しそうに震える声がワシの耳に届いたのだが、そのワシを撫でる手は震えていた。
今思えば、彼女はワシが戦争に行かなくても良い方法を知っていたんだと思う。
ルストの宿る木の中に取り込まれれば、ワシらは離れることもない。
そう、最期の時まで…。
だが、それではワシは人間ではなくなる。
それにワシが消えてしまうことで、ワシの家族が批難される。
それがわかっていたから、ルストはきっと黙っていたんだと思う。
「徹平。」
ルストは楡の木に絡まるツタを引き千切ると、彼女の国の言葉で何やら歌いながらツタを編み、ちょうどペンダントくらいの大きさの輪っかを作ると、ワシの首に掛け、軽く触れるような口付けをした。
「これ、お守り。徹平の命を守ってください、ってお祈りとワタシの息、吹き込みました。それをどんな時でも身に付けてください。鉄砲の弾、病気、人の悪意、色んなものから徹平を守ってくれるから。」
そうするしかなかったのだろう。
ワシはルストの心の奥など気が付かずに、月並みに生きて帰ると約束するばかりだった。
思い返せば、後悔することばかりだ。
彼女のやさしさに、ワシが何をしてやれたのだろう…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「…………む。」
老人は目を覚ました。
空を見上げれば、満天の星空。
老人は朽ちた楡の木に背中を預けて、座り込んでいた。
「ああ………、何ね……、夢やったと…。」
老人は悔しそうに吐き捨てると、諦めたような笑みを浮かべた。
老人・日下部徹平の時間は残り少ない。
医者には余命幾許もないことを宣告され、徹平は最期の希望として、現在は廃村となった誰一人いない生まれ故郷の村に帰って来た。
住人は思い出だけ。
「昭和……23年……か…。」
ポツリ、と吐き捨てる言葉に徹平は涙を流す。
昭和23年、東南アジアからやっとのことで復員してきた彼を迎えたのは絶望だった。
きっと暖かく迎えてくれるはずの恋人は、この世にいなかったのである。
お前のおかげで帰って来れた、と報告に走った徹平を待っていたのは、山火事で焼けて、朽ちてしまった楡の木だった。
半狂乱になって楡の木を叩いてルストの名を叫んでも、返ってくるのは不気味な静寂だけ。
恋人がこの世にいないと認めるまでには、そこから5年もかかってしまった。
再生する様子も見せない楡の木。
そこで徹平はやっと彼女の死を受け止めることが出来たのであった。
「長かったのぉ…。お前んとこに行けるようになるまで、40年以上かかってしもうたばい。」
もう時間はないのだろう、と徹平は感じていた。
途切れ途切れの記憶。
昏睡と覚醒を繰り返すだけの日々に疲れていた。
だから彼はこの村に帰って来た。
正確には、捨ててもらった。
非人道的な仕打ちではあるが、彼がそれを望んだのだから誰も文句は言えなかった。
「ルストぉ…………、ワシぁ疲れたばい…。お前んおらん時間ち、まっこと退屈で………、温もりば感じらん人生やったと…。嫁を取れち言われて、嫁さんばもろうたけど……、お前程好いたやつぁおらんかったばい…。アホじゃなあ…、お前ん言う通りやった。何で人間ち………。」
幸せを幸せとして受け入れられないんだろう、と徹平は涙を流した。
自分の長い人生を振り返り、幸せだったはずの日々がどこか他人事のように感じて、いつも心のどこかで満たさず、何度も結婚と離婚を繰り返して、ただ一人、孤独を選んだことを悔やんだ。
ただ、彼は満たされなかった人生を嘆いていた。
泣きながら、ワシはまた意識を失っていたらしい。
時計を見れば5時を少し回ったばかり。
ああ、もうすぐ朝日が昇る。
「これが、最後ん日の出か…。」
山の向こうが白み始めた。
「ルスト……、もう一度………お前と話がしたかったと…。」
朽ちた楡の木に手を当てて、ワシは呟いた。
あの日感じた温もりはなく、ルストの木は冷たく沈黙したまま。
もしも叶うなら、あの日の温もりを。
不幸な時代ではあったが、お前がいただけで満ち足りていた幸福の日々を。
「ああ……、村は誰もいなくなっち…、お前もどんどん朽ちていくんに…。ここの景色だけは変わらんばい……。お前がワシを抱き締めて、ワシがお前を抱き締めながら見た朝日は……。」
変わらない。
山の向こうから昇る朝日は、何十年経とうと美しいまま変わらない。
変わったのワシ自身。
そしてルスト……、お前が……。
『…………い。………ぺい。……………徹平。』
「ルスト!?」
声が聞こえる。
懐かしい声が聞こえて、ワシは朽ちた楡に振り返って我が目を疑った。
朽ちた楡の木が…、死んでしまった恋人が輝くような青々とした枝葉を大きく広げ、そよ風にざわざわと揺らめき、思い出のままの姿で天へと雄々しく伸びているのである。
そして、ワシを見下ろすように微笑んでいる彼女の姿。
『何だか、長い間眠っていたみたい。徹平もおじいちゃんになったね。』
「お………おお……!ルスト……ルストォォーッ!!」
ルストの足に縋るように泣きじゃくるワシを、ルストはやさしく頭を撫でた。
「ああ、やっぱりお前ばい…。お前ん手ばい…。この懐かしい香りも、温もりも、仕草も何もかもがお前ばい!」
『………来る?ワタシたちの世界に。』
ワシに時間はない。
それでも良ければ、と伝えるとルストは言った。
『行こう。ずっと、ずっと一緒にいられるよ。』
木が絡むようにワシを包む。
目を閉じれば、伸びる木のうねりはルストと同じ体温と鼓動をワシに伝えてくれる。
今、自分がルストに抱かれているのだと実感出来る。
「ルスト、手を……。」
『うん、もう放さないでね。』
何十年ぶりだろう。
こんな安らかな気持ちで目を閉じるのは…………………………。
朝日が完全に昇り切った頃、人知れず老人は息を引き取った。
その亡骸を覆い隠すように、雑草は背高く伸び、落ち葉は打ちのめされた心を暖めるように彼の身体をスッポリと覆い尽くしていた。
朽ちて折れた楡の木に縋るような姿で、永遠の眠りに就いた老人の死に顔は穏やかで、何やら良い夢を見て眠る子供のようであった。
甦った楡の木は、死に逝く老人の脳が作り出した幻だったのか。
朝と夜の狭間という、あやふやな瞬間に訪れた儚い夢だったのだろうか。
真相は闇の中。
だけど答えを必要とはしない謎。
ただ………………。
朽ちた楡の木の根元から伸びる若々しい芽だけが、
ささやかな幻想の答えを知っているのだろう。
どうせ、助からぬ命。
余命幾許もないのでございましたら、どうぞワシをあの地に捨ててくだされ。
思い出の………、生まれ故郷にそびえ立つ楡の木の下に…。
あれは昭和10年の春先のことだった。
村長が殺風景な村の景観を良くしようと、中央のお役人に頼み込んで遠い異国から(確かドイツだったはず)楡の木を購入したと聞いて、異国の楡の木はどんなものなのだろうと、当時10歳のワシは心を躍らせて村を一望出来るあの丘に走った。
正直な話をすれば、期待外れも良いところだった。
村のどの楡の木よりも大きかったのだが、日本の楡の木と大して変わらなかった。
しかし、せっかく来たので木に登って、村一番に征服しておこうと思ったワシだったが、そこで不思議なものを見た。
まるで楡の木に喰われてしまったかのような様子で、木の幹に黒髪の西洋美女が絡み付いていた。
「だ、大丈夫とね!?」
眠ってるらしい黒髪の西洋人の頬を軽く叩く。
すると呻き声を上げて、西洋人は目を覚ました。
軽く周囲を見回すと、青い目を大きく見開いて、異国の言葉で慌てふためいた。
「Wo bin ich!?Warum ist ich hier!?」
「な、何言うとうとね?」
「Nein……,Ich verstehe Ihre Worter nicht.」
不謹慎な話だが、幼いながらにワシはその西洋人を美しいと感じた。
違うな、憧れ?
それとも一目惚れしてしまっていたのか…。
慌てふためいていた西洋人だったが、何やら思い付いたらしく落ち着きを取り戻し、ワシの方をじっと見詰めると、ワシの手を握り引き寄せて、目を閉じてワシの額と彼女の額を触れ合わせた。
「わ…わ…!?」
「Bewegen Sie sich nicht.」
意味はわからなかったが、多分動かないでと言ったのだと直感した。
ワシも目を閉じて、心を落ち着ける。
すると目から入る情報が遮断されると、彼女の匂いだろうか。
甘くて、胸の奥が切なくなるような良い匂いに、ワシの胸は高鳴った。
何もない村だった。
村にも綺麗な女子はいたが、恋をする対象ではなかった。
「Danke………ありがとうゴザいます。」
「ふえっ!?」
驚いた。
今まで異国の言葉しか話さなかった西洋美女が、いきなり日本語を喋り始めたのだから。
「ワタシ、アナタのGedachtnis……あぁ〜、き、キオクから言葉、学びマシタ。驚かないでクダさい。ハジメまして、テッペイ。ワタシの名前、ルスト言いマス。ドリアードのルスト。」
名乗ってもいないのに、ワシの名前を彼女・ルストは口にした。
ワシの名は日下部徹平。
ルストは、ハッキリとワシの名を口にしたのだった。
「でも教えてクダさい。ワタシ、何でこんなトコいますカ?」
屈託のない笑顔だった。
ワシ、日下部徹平が終生胸に描く光景で、唯一色褪せなかった笑顔だった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「そいたらルストは、楡の木の精やったと?」
「精、とは精霊のコトでしょうカ?似たヨウなモノですけど、テッペイにはわかり難い思いマスから、ソレで構いまセン。残念ですが、人間ではナイのは確かです。」
そんなやり取りから、ワシとルストの交流は始まった。
狭い村だったから、噂が広まると、ルストの楡の木は「お化け楡」と呼ばれるようになり、ワシ以外の子供は怖がって近付かなくなった。
ルストは子供好きで、大きな楡の木を珍しがって来る子供に声をかけたようなのだが、片言の日本語、それに木が絡み付いているような姿を見付けると、誰もが怖がってしまったのだという。
村の中でも気味が悪いから切り倒してしまおうという声も上がったのだが、中央のお偉いさんにわざわざ取り計らってもらって購入したこと、友好国から購入したものを勝手に切り倒せば国際問題になりかねないということもあり、村人は渋々と認め、誰も近寄らなくなったという話をワシは大人になって聞いた。
「テッペイ、今日は何シテ遊びマスか?」
ルストは木の精だ。
だからその場から動くことが出来ないから、ワシは色々な遊びを教えた。
お手玉、剣玉、すごろくに独楽回し。
時にはルストに西洋の歌を教えてもらった。
ワシが教えた遊びの中で、ルストは将棋をよく好んだ。
「はい、コレで詰みデスよ。」
「むむむ……、待つばい!まだワシゃ負けとらんと!!」
「はいはい、待ちマスよ〜。お姉サン、可愛い弟分のタメに飛車角抜いてアゲましょう♪」
なかなか屈辱的な思い出ではあるが、ワシはついに彼女に一糸報いることは出来ず終いだった。
その内、ルストとの日々も1年がすぎ、2年がすぎ…………。
別れの日は唐突にやって来た。
昭和19年9月のことだった。
「お別れ、ですか?」
すっかり日本語がうまくなったルストだったが、その流暢さが逆にワシの心を締め付けた。
「ワシんとこにも……アカが来たばい。」
アカとは赤紙のこと。
つまり世に言う召集令状である。
「兵隊に取られるんだ…。」
「御国の為にはしょんなか。それにワシゃ、家を継がん四男坊ばい。行かにゃ家にも村にも迷惑がかかるんが、わかっとうけん戦地に行くと。でもな…………、ワシは本当は行きたくないと。死にたくなか!!」
村の中では言えないことを、ワシはルストの木の下に蹲って叫んだ。
死にたくなかった。
出来ることなら、兵隊に行かないまま村で暮らしたかった。
「徹平………、ワタシ、いつも思うんだ。人間って、どうしてもっと素直に生きられないんだろうって。人間って、どうして幸せを幸せとして受け入れられないんだろうって。どうして…………、死んじゃうんだろうって…。」
「ルスト…。」
後ろから、頬を摺り寄せるようにルストがワシを抱き締めた。
「徹平たちから見れば、私たちの方が不思議なのかも知れない。でもワタシたちは人間みたいに無用な争いはしない。誰もが幸せを感じたいから、無駄な争いなんかしている暇がないの。何でだろうね……。何でこんな風に抱き締めてあげられないんだろうね。人間って………、不思議…。」
ルストの名を呼んで振り向こうとした時、ルストのやわらかな唇がワシの唇を奪っていた。
初めて出会った頃のような甘くて、胸の奥が切なくなるような香り。
離れ難くて、ワシらは自らの心にすべてを委ねて、目を閉じて唇を重ねた。
「…………ずっと、好いとった。」
人間、死を覚悟すると本音が出るという。
胸の奥にしまっていた思いを、ワシはルストに告げた。
取りとめもなく溢れてくる言葉。
しどろもどろに口から飛び出る支離滅裂な告白。
それでもルストは、聞いてくれた。
恥ずかしかった。
まだ19歳の田舎の純情青年にとって、一世一代の告白だった。
恥ずかしくて、ルストの顔すらまともに見れなくなって、ワシはルストの青い目から逃れるように目線を逸らし、俯き気味に顔を背けて口を閉ざしてしまった。
どれだけお互いに無言が続いただろうか。
ルストは、恥ずかしくてどうしようもなくなったワシを抱き寄せると、やわらかな胸に、ワシの顔をやさしく押し付けた。
「聞こえる……?どくん、どくんって…。徹平に告白してもらって、ワタシの鼓動、さっきから痛いくらいに高鳴ってる。嬉しいなぁ……、嬉しいなぁ。誰かに愛されるって、本当に嬉しいなぁ。」
嬉しそうに震える声がワシの耳に届いたのだが、そのワシを撫でる手は震えていた。
今思えば、彼女はワシが戦争に行かなくても良い方法を知っていたんだと思う。
ルストの宿る木の中に取り込まれれば、ワシらは離れることもない。
そう、最期の時まで…。
だが、それではワシは人間ではなくなる。
それにワシが消えてしまうことで、ワシの家族が批難される。
それがわかっていたから、ルストはきっと黙っていたんだと思う。
「徹平。」
ルストは楡の木に絡まるツタを引き千切ると、彼女の国の言葉で何やら歌いながらツタを編み、ちょうどペンダントくらいの大きさの輪っかを作ると、ワシの首に掛け、軽く触れるような口付けをした。
「これ、お守り。徹平の命を守ってください、ってお祈りとワタシの息、吹き込みました。それをどんな時でも身に付けてください。鉄砲の弾、病気、人の悪意、色んなものから徹平を守ってくれるから。」
そうするしかなかったのだろう。
ワシはルストの心の奥など気が付かずに、月並みに生きて帰ると約束するばかりだった。
思い返せば、後悔することばかりだ。
彼女のやさしさに、ワシが何をしてやれたのだろう…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「…………む。」
老人は目を覚ました。
空を見上げれば、満天の星空。
老人は朽ちた楡の木に背中を預けて、座り込んでいた。
「ああ………、何ね……、夢やったと…。」
老人は悔しそうに吐き捨てると、諦めたような笑みを浮かべた。
老人・日下部徹平の時間は残り少ない。
医者には余命幾許もないことを宣告され、徹平は最期の希望として、現在は廃村となった誰一人いない生まれ故郷の村に帰って来た。
住人は思い出だけ。
「昭和……23年……か…。」
ポツリ、と吐き捨てる言葉に徹平は涙を流す。
昭和23年、東南アジアからやっとのことで復員してきた彼を迎えたのは絶望だった。
きっと暖かく迎えてくれるはずの恋人は、この世にいなかったのである。
お前のおかげで帰って来れた、と報告に走った徹平を待っていたのは、山火事で焼けて、朽ちてしまった楡の木だった。
半狂乱になって楡の木を叩いてルストの名を叫んでも、返ってくるのは不気味な静寂だけ。
恋人がこの世にいないと認めるまでには、そこから5年もかかってしまった。
再生する様子も見せない楡の木。
そこで徹平はやっと彼女の死を受け止めることが出来たのであった。
「長かったのぉ…。お前んとこに行けるようになるまで、40年以上かかってしもうたばい。」
もう時間はないのだろう、と徹平は感じていた。
途切れ途切れの記憶。
昏睡と覚醒を繰り返すだけの日々に疲れていた。
だから彼はこの村に帰って来た。
正確には、捨ててもらった。
非人道的な仕打ちではあるが、彼がそれを望んだのだから誰も文句は言えなかった。
「ルストぉ…………、ワシぁ疲れたばい…。お前んおらん時間ち、まっこと退屈で………、温もりば感じらん人生やったと…。嫁を取れち言われて、嫁さんばもろうたけど……、お前程好いたやつぁおらんかったばい…。アホじゃなあ…、お前ん言う通りやった。何で人間ち………。」
幸せを幸せとして受け入れられないんだろう、と徹平は涙を流した。
自分の長い人生を振り返り、幸せだったはずの日々がどこか他人事のように感じて、いつも心のどこかで満たさず、何度も結婚と離婚を繰り返して、ただ一人、孤独を選んだことを悔やんだ。
ただ、彼は満たされなかった人生を嘆いていた。
泣きながら、ワシはまた意識を失っていたらしい。
時計を見れば5時を少し回ったばかり。
ああ、もうすぐ朝日が昇る。
「これが、最後ん日の出か…。」
山の向こうが白み始めた。
「ルスト……、もう一度………お前と話がしたかったと…。」
朽ちた楡の木に手を当てて、ワシは呟いた。
あの日感じた温もりはなく、ルストの木は冷たく沈黙したまま。
もしも叶うなら、あの日の温もりを。
不幸な時代ではあったが、お前がいただけで満ち足りていた幸福の日々を。
「ああ……、村は誰もいなくなっち…、お前もどんどん朽ちていくんに…。ここの景色だけは変わらんばい……。お前がワシを抱き締めて、ワシがお前を抱き締めながら見た朝日は……。」
変わらない。
山の向こうから昇る朝日は、何十年経とうと美しいまま変わらない。
変わったのワシ自身。
そしてルスト……、お前が……。
『…………い。………ぺい。……………徹平。』
「ルスト!?」
声が聞こえる。
懐かしい声が聞こえて、ワシは朽ちた楡に振り返って我が目を疑った。
朽ちた楡の木が…、死んでしまった恋人が輝くような青々とした枝葉を大きく広げ、そよ風にざわざわと揺らめき、思い出のままの姿で天へと雄々しく伸びているのである。
そして、ワシを見下ろすように微笑んでいる彼女の姿。
『何だか、長い間眠っていたみたい。徹平もおじいちゃんになったね。』
「お………おお……!ルスト……ルストォォーッ!!」
ルストの足に縋るように泣きじゃくるワシを、ルストはやさしく頭を撫でた。
「ああ、やっぱりお前ばい…。お前ん手ばい…。この懐かしい香りも、温もりも、仕草も何もかもがお前ばい!」
『………来る?ワタシたちの世界に。』
ワシに時間はない。
それでも良ければ、と伝えるとルストは言った。
『行こう。ずっと、ずっと一緒にいられるよ。』
木が絡むようにワシを包む。
目を閉じれば、伸びる木のうねりはルストと同じ体温と鼓動をワシに伝えてくれる。
今、自分がルストに抱かれているのだと実感出来る。
「ルスト、手を……。」
『うん、もう放さないでね。』
何十年ぶりだろう。
こんな安らかな気持ちで目を閉じるのは…………………………。
朝日が完全に昇り切った頃、人知れず老人は息を引き取った。
その亡骸を覆い隠すように、雑草は背高く伸び、落ち葉は打ちのめされた心を暖めるように彼の身体をスッポリと覆い尽くしていた。
朽ちて折れた楡の木に縋るような姿で、永遠の眠りに就いた老人の死に顔は穏やかで、何やら良い夢を見て眠る子供のようであった。
甦った楡の木は、死に逝く老人の脳が作り出した幻だったのか。
朝と夜の狭間という、あやふやな瞬間に訪れた儚い夢だったのだろうか。
真相は闇の中。
だけど答えを必要とはしない謎。
ただ………………。
朽ちた楡の木の根元から伸びる若々しい芽だけが、
ささやかな幻想の答えを知っているのだろう。
11/08/23 22:17更新 / 宿利京祐