第百三話・真夜中に交わした約束(後編)
『余、自ら務めて神君の御祝言を取り仕切り奉りて………。』
という文言で始まるノエル帝の独白が、ルオゥム帝国史本伝に残っている。
余、とは言わずと知れた神聖ルオゥム帝国第22代皇帝にして、後ルオゥム帝国初代皇帝となるノエル=ルオゥムその人のことを指す。
神君、とは彼女よりも遥かに早くこの世を去ってしまった神聖ルオゥム帝国第23代、前帝国最後の皇帝である紅帝、紅蓮の救世主として死後も様々な人々に影響を与え続けることになるセラエノ軍稀代の大将軍である紅龍雅のことを指している。
彼女がこの独白を残した時、すでに自らは帝位を降り、晩年の余生を二代続いて女帝となった彼女の娘とその孫に囲まれて穏やかに過ごしていた頃であったと言われている。
その時、ノエル=ルオゥムは88歳。
まるで歴史の証人の如く、彼女は嵐が吹き荒れるように群雄割拠の乱世、そして真夏の太陽の如く人々が力強く生き続けた『神』から『人間』の時代を生きた様々な英雄たちを語り残し続けていた。
紅龍雅、アルフォンスの結婚式の様子は、彼女の独白によって世に残されたのである。
『神君はお世辞にも美男とは言えず。されど戦場を駆ける姿は何よりも美しかった。余はあの姿に憧れ、あの背中に恋焦がれ、あの人の遺産を守るために生きてきたようなもの。嗚呼、今思い出しても胸が打ち震えてしまう。皇后様と神君が真紅のバージンロードをお歩きになる姿は、古今の如何なる壮麗なる詩や絵画などでは到底例えることも出来なかった…。』
深夜、月明かりに照らされたルイツェリア寺院。
霧が立ち込め、粘り気の強い闇を薄っすらと照らす月明かりは、幻想を現世に呼び起こす。
夜の静寂を切り裂くように教会の鐘は鳴り響く。
祭壇の上では、オーケストラの指揮者の如く波打つ金髪の美女が、侍従に命じて鐘を鳴らさせ、真紅のバージンロードの上を厳かに歩く東の果てから来た武人と麗しき人外の夫婦を暖かい目で見下ろしていた。
祝福は誰がために。
教会の鐘は誰がために。
その答えは明白で、この瞬間、すべてが二人を祝福していた。
参列者のいない、皇帝には相応しくないであろう厳かな結婚式。
新婦・紅龍雅は新婦・アルフォンスに自身が身重であると告げられ、俄かに動揺はしたものの、動揺はすぐに歓喜に変わり、新たな生命に心を躍らせながら、互いを支え合うように真紅のバージンロードを歩く。
「………何か思い出すな。」
「何をですか?」
楽しそうな顔をする龍雅の顔を、アルフォンスは覗き込むようにしながら訪ねた。
「俺たちがわかり合えた時も………、こうして支え合っていたっけ…。」
「あれは……あなたが態度を改めなかったから衝突したのですよ?」
紅龍雅とアルフォンス、二人の馴れ初めには諸説ある。
もっとも有名なのは、彼を極端な英雄視する視点で描かれた『天帝物語』という歴史小説で紹介された、『龍雅が自身の覇業のための人材を集めるべく、諸国をその足で放浪していた頃、大薙刀の名手としてその武名を知られたアルフォンスとの壮絶な一騎討ちの末に、彼女を覇業の伴侶とした』というエピソードである。
しかし、この歴史小説はこの時代から100年以上経って発表され、作者自身は龍雅やアルフォンスと一切面識がなく、歴史的事実を若干捻じ曲げたり、そもそも龍雅自身が皇帝になって尚、主と仰ぎ続けた学園都市セラエノの最高責任者である学園長ロウガが存在しないなど、歴史小説としては三流の位置にあるのだが痛快なストーリー展開で、講談や演劇で人気が出た結果、もっとこの時代を印象付ける物語として、人々に親しまれている。
そんな彼らの本当の馴れ初めは、セラエノ学園巨大図書館の奥にひっそりと残されていた。
僅か2冊の手書きの日記帳。
著者はアルフォンス。
その内容のほとんどは、彼女と義妹であるガーベラとの穏やかな日常を綴ったものだったのだが、その内の数ページに渡って、ガーベラとの日常とは別に紅龍雅について書かれた日付けが存在する。
「あの頃のあなたは……本当に礼儀知らずで、ロウガ様への態度も改めず、自由気ままでまるで怠け者のように、怠惰な日々を送るような人だったのですよ。お互いにわかり合うにも衝突が生まれて当然の結果でした。」
「何もしなかったとは心外だな。アレでも沢木の御息女や奥方の代わりに兵士の訓練を受け持ったり、セラエノのことを知ろうと自分の目と耳で情報を集めたりしていたんだぞ。沢木への態度にしたって、今更媚びへつらうような相手とも思えなかったしな。」
「あの頃も……同じように言いましたね。」
「ああ、言ったかもな。そしてお前は……。」
俺に薙刀を突き付けたろ、と龍雅は悪戯っぽく笑った。
「そ、それは忘れてください…!」
思慮の浅い行動だった、とアルフォンスは恥ずかしさに顔を赤くして俯いた。
バージンロードを歩く二人。
鐘の音に思いを馳せ、少しだけ過去を思い出す。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「龍雅殿、ロウガ様に対しあのような態度は無礼でしょう!」
「あん?」
学園都市セラエノに辿り着いたばかりの頃も今も、俺は幼馴染の沢木を相手に、あいつが日の本にいた頃、若さに任せて戦場を駆け抜けていたあの頃と変わらないような口調と態度で接していた。
沢木のやつがそう望んだのだが、ある程度反発があるとは思っていた。
大方の事情を知る沢木の御息女と婿殿、それに二人の奥方たちは理解してくれてはいたが、現在の俺と沢木の年齢の開きや、沢木自身の立場から事情を知らぬ者たちが、何かしらそのことに不満や憤りを感じるであろうとは思っていたのだが、その不満を直情的に表したのがアルフォンスだった。
今思っても物騒な話だ。
「我ら砂漠の亡命者にとって大恩あるロウガ様への無礼、ロウガ様のご友人であろうと見過ごす訳には参りません!今この場にて心を改めるのでしたら良し。さもなくば……。」
さもなくばの後に続く言葉は、非常に怒気が篭っていた。
現在のように鎧を着ていなかったが、あの剛薙刀を構えて現れた時は、あまりに恐ろしくて思わず笑いが漏れてしまった。
「何が可笑しいのですか!!」
そりゃあ可笑しくもなる。
顔も雰囲気も身体付きもまったく似てもいないというのに、言うことや恩義から忠誠を尽くそうとする姿がまるで俺の初恋の人に、懐かしくなってしまうくらいそっくりなのだったから。
いや、考えてみれば沢木の周りにはそういうヤツが集まりやすいのかもしれないな。
「この…!それは私を侮辱していると受け取りますよ!!」
「ああ、悪い悪い。侮辱しているつもりはないんだ。ちょっと昔を懐かしんでいただけなんだ。」
「では、ロウガ様への態度を改めますか?」
剛薙刀の切っ先を鼻先に向けての問いかけ。
いやいや、あれは問いかけというよりも脅迫だったな。
「それは無理だ。」
と、言い終わる前だったか。
アルフォンスは鼻先で静止させていた切っ先を手加減なしに突いて来たっけ。
気が付けば身体が宙に浮いていました。
頭に血が上った私は、つい怒りに任せて彼を殺すつもりで薙刀を突いたはずでしたのに、訳のわからないまま宙を浮いていました。
本当に可笑しな話なのですが、その宙を浮いていた一瞬はとても気持ちが良かったのです。
間抜けな話ですよね。
そして直後に背中に硬い物がぶつかって来て、無防備だったから痛くて、肺から空気が一気に漏れてしまって、ぶつかって来た硬い物が地面だって気が付いた時には、すごく痛くて苦しかったことだけははっきり覚えています。
まるで魔法のような出来事に私の頭の中はパニックでした。
後になって知ったのですが、『ヤワラ』という技らしいですね。
ロウガ様に種明かししていただいて、やっと理解が出来ました。
あの頃の私は、砂漠から亡命してきたばかりだというのに、ロウガ様に住む所を与えられて、町の人たちからもやさしくしてもらえて……、それに砂漠での虐殺事件の巻き添えで母を亡くして、心にポッカリと開いた穴を塞ぐようにガーベラを引き取って、その居場所を守りたくて必死になっていました。
リザードマン自警団という職にも就けていただいたことだけでも満足でしたが、副官という身に余る地位をいただいたこともあるのでしょう。
慢心してなどいなかった、と言えば嘘になります。
「な、何が…!?」
「納得出来なきゃ、何度でもおいで。」
何が起こったのかわからない倒れた私の顔を、彼は笑って覗き込みました。
そこで初めて、私は投げ飛ばされたことに気が付いたのです。
ぼんやりとした頭で、私は龍雅に再戦を誓った気がします。
よく覚えてはいないのですが、とにかく背中を強く打ち付けてしまって、ひどく気持ち悪くて吐きそうだった、それだけは覚えています。
「何度でも。」
ただ楽しそうな彼の顔だけは、とてもハッキリ覚えています。
ああ、この人は本当に戦うのが好きなんだ、って思いましたね。
それから、ロウガ様絡みで何度も彼と衝突しましたが、結果は思い返せば、呆れる程彼に挑戦して、挑戦した数だけ負けてしまいました。
決してとどめを刺すことのない龍雅に、私は手加減されていると気が付くと、いつしかロウガ様への忠義心からではなく、私の失ったはずのリザードマンとしての、種のプライドで戦うようになっていきました。
現在でこそ武や戦の申し子と思える彼ですが、まだセラエノに居付くようになった頃の彼は日がな一日、図書館で本を読むか、木陰で空を眺めて寝ているような態度だったので私は、ただの何の変哲もない人間に、リザードマンたるこの私が、良いようにやられ、その上手加減までされていることに我慢がならなかったのです。
本当に変な話ですよね。
私は、砂漠のオアシスで生き抜くために捨てたプライドを、彼に取り戻してもらったというのに、そのことを気付かず、手加減されたことを根に持って、何度も彼に立ち向かったのです。
それでもやっぱり、一度も勝てませんでしたけどね。
「………気が付いたら。」
「うん?」
私の隣で寄り添う彼が、不思議そうな顔をしていました。
教会の鐘の音。
あの頃、砂漠でプライドを捨てて、媚びて生きていた頃には嫌な音でした。
あぁ、今日も一日が始まり、今日も一日が終わる…。
その繰り返しを告げる鐘の音は、オアシスで生きるすべての魔物たちにとって、プライドを捨てたことを恥じ、祖先の名と魂を穢していることを自覚させられる忌むべきものでした…。
それが………、今はひどく幸福でたまらない。
「気が付いたら……、私の心にあなたが住み込んでいました…。」
彼が…、龍雅が心の中にいる。
いつまでも消えず、彼を想うだけで胸の奥が苦しくなる。
そう感じるようになる頃には、私は彼に惹かれていることを自覚せずにはいられませんでした。
「………………俺だって、そうさ。」
真っ直ぐ、私の目を見詰めて彼は言いました。
そして照れたように目を背け、ノエル様の待つ祭壇に視線を向けました。
可愛い人。
そんな子供染みたところがある彼を、心からそう思う。
「いつからか、お前が俺に挑んでくるのが楽しみだった。お前が俺に突っかかってくるのが楽しみで、わざとうつけのように振舞ったりもした………どうも俺は不器用らしいな…。戦は我ながら巧みにいくのに、お前の気を惹こうとして言葉ではなく、ぶつかり合いを望んでしまっていた。」
「お互いにロマンチックとはいきませんでしたね。でも、おかげで私はあなたの人となりを知ることが出来ました。私は……十分に会話をしましたよ。ぶつかり合うことで、私はあなたの魂を知り、あなたに種のプライドを思い出させてもらえましたから。」
これからは……、と言って口篭る。
「どうした?」
「こ………これからは……良き将軍、良き皇帝としてでなく…。」
お腹に手を当てて、これから生まれるはずの生命を愛しく撫でる。
この子は、彼の世継ぎ。
私と彼の時間を繋ぐ者。
そして…………きっとこの子は……。
「良き夫、良き父として、私たちを愛してくださいね。」
「…………何を言うかと思えば。」
少々呆れた顔を彼はしたのですが、ただ一言……、
「…任せろ。」
照れてそっぽを向いて言ってくれたその言葉が嬉しかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「紅龍雅、アルフォンス。そなたたちは病める時も健やかなる時も…。」
ノエルを立会い人として、二人の結婚式は始まった。
教会の鐘の音は止み、静寂を取り戻した教会は荘厳な雰囲気に包まれていたのだが、教会の鐘の音に誘われて、帝都の民を初め、帝国諸侯やセラエノ軍諸将が何事が起こったのだろうと教会の扉の前でざわめいていた。
「互いのことを思いやり、愛し合うことを誓……む?やはりそろそろ集まってくるとは思っていたが、察しの悪い連中だな。新帝が玉座に着いたということは皇后がいないと締りがないというのに…。深夜に教会で始めるのは結婚式だということぐらい察して静寂を保てんのか、まったく。」
と、ノエルは呆れて物も言えないと言わんばかりに首を振る。
この秘密の結婚式自体がノエルの仕返しであり、龍雅への憧れや恋心などの彼女なりのケジメであり、察しろということがそもそも無茶苦茶なのだが、彼女の推してしかるべしという強硬な姿勢も、当時の彼女の魅力であったのだろう。
やれやれ、と溜息を吐くノエルに、龍雅は頬を引き攣らせて笑った。
「お前な……、悪戯半分でこんなことやっておいて、よく言いやがるな?」
「そうかな…?まぁ、良い。ではさっさと終わらせて、あいつらの前にそなたらの幸せそうな姿を晒させるとしようか。さぁ、御両人。永遠の愛を誓え。神ではなく、この私に誓え。返事は『はい』か『イエス』か『喜んで』の中から選ぶことを許可しよう。」
「ふふふ、何とも傲慢な司祭様ですこと。」
イチゴの悪影響とも取れるノエルの言葉に、アルフォンスから笑いが漏れた。
史書に曰く。
ノエル=ルオゥムは、演出好きな人物として後世に伝えられている。
半ば強制的に龍雅とアルフォンスに愛を誓わせると、ノエルは祭礼用に携帯していた美しい装飾の細身のサーベルを抜き放ち、祭壇に飾られた薔薇の花を一つ宙に放り投げると一閃し、まるで花火のように薔薇の花びらが散り散りになって舞い降りる。
「今、ここにもっとも祝福すべき夫婦が生まれた!余は神聖ルオゥム帝国第22代皇帝ノエル=ルオゥムの名において、汝らを祝福し、末永く幸福な時が流れることを祈る。友として、戦友として……。」
それが合図だったのだろう。
再び教会の鐘が盛大に響き渡ると同時に、教会の扉が開かれた。
開かれた扉から集まった人々が目撃したものは、ステンドグラスを通して色鮮やかな美しい光に照らされ、赤い薔薇の花びらの雨の中に佇む純白のドレスに身を包んだアルフォンスと、ノエルに譲位されて人々が傅いた時の直垂姿のままの第23代皇帝・紅龍雅両名の神聖にして冒し難い晴れ姿であった。
深夜、突然鳴り響いた教会の鐘の意味を知った人々に、小さな波が集まって大きな波になるように喜びと感動が広がっていき、深夜の静寂は人々の歓声と二人を讃える声に溢れかえった。
皇帝万歳。
皇后万歳。
その声はアルフォンスがすでに懐妊していることをノエルが告げると、皇姫万歳とセラエノ軍諸将兵や帝国軍諸将兵、さらには帝都コクトゥの民が手を取り合い、入り乱れて喜びを分かち合った。
これは、神聖ルオゥム帝国の歴史が変わった瞬間であったと歴史家は言う。
人と魔物、ましてや本来敵対し合う者たちがあらゆる垣根を越えて、喜び合った。
そのことの意味は大きい。
後にロウガはこの出来事を知り、彼の妻であるアスティアにこう語ったと言う。
「俺が蒔こうとした種は、サクラたちによって芽を開き、龍雅たちによって花が咲いた。」
皇帝の婚礼、皇姫懐妊の報を受け、民も将兵も深夜であるにも関わらず無礼講の宴を催し、人々は飲み、歌い、笑い、龍雅とアルフォンスに影響されて暗がりで恋人たちと愛を確かめ合う。
皇帝を祝福する人々は、『レユアの禅譲』の舞台となったレユア広場に誰とも言わず集まり、戦時の緊張も忘れて、喜ばしい儀式を祝福する宴に興じていた。
誰もいなくなったルイツェリア寺院は、元の静寂を取り戻していた。
月明かりも薄くなり、ステンドグラスの光も弱まった祭壇の上に影一つ。
黒の胸元の大きく開いたドレスを身に纏った女が一人。
目は閉じてはいたものの、穏やかな表情を浮かべて大きな音を立てて手を叩いていた。
「良い式だったよ。」
ここを訪れた目的は終わった、と女は目を見開く。
開かれた赤い瞳には、禍々しくも妖しい魅力が溢れて、その瞳は遥か彼方の空に思いを馳せているようにも見えた。
女が後ろ髪を掻き揚げると、白い髪はまるで絹のベールのように舞い上がる。
「…龍雅、君は気が付いているのか。君の時間は最早蜉蝣ののように儚いということを…。いや、儚いと知っているからこそ……君は彼女を愛するのだろうか…。覚えていまい…。君は……失ったものを取り戻そうとしているに過ぎないのだから…。」
漆黒の翼が、女の背中を覆う闇のように広がる。
燭台の上の蝋燭が風にゆらりと揺れると、そこに女の姿はなかった。
ルイツェリア寺院、祈りの場所。
ただ静寂だけが、そこの主の如く鎮座し続ける。
という文言で始まるノエル帝の独白が、ルオゥム帝国史本伝に残っている。
余、とは言わずと知れた神聖ルオゥム帝国第22代皇帝にして、後ルオゥム帝国初代皇帝となるノエル=ルオゥムその人のことを指す。
神君、とは彼女よりも遥かに早くこの世を去ってしまった神聖ルオゥム帝国第23代、前帝国最後の皇帝である紅帝、紅蓮の救世主として死後も様々な人々に影響を与え続けることになるセラエノ軍稀代の大将軍である紅龍雅のことを指している。
彼女がこの独白を残した時、すでに自らは帝位を降り、晩年の余生を二代続いて女帝となった彼女の娘とその孫に囲まれて穏やかに過ごしていた頃であったと言われている。
その時、ノエル=ルオゥムは88歳。
まるで歴史の証人の如く、彼女は嵐が吹き荒れるように群雄割拠の乱世、そして真夏の太陽の如く人々が力強く生き続けた『神』から『人間』の時代を生きた様々な英雄たちを語り残し続けていた。
紅龍雅、アルフォンスの結婚式の様子は、彼女の独白によって世に残されたのである。
『神君はお世辞にも美男とは言えず。されど戦場を駆ける姿は何よりも美しかった。余はあの姿に憧れ、あの背中に恋焦がれ、あの人の遺産を守るために生きてきたようなもの。嗚呼、今思い出しても胸が打ち震えてしまう。皇后様と神君が真紅のバージンロードをお歩きになる姿は、古今の如何なる壮麗なる詩や絵画などでは到底例えることも出来なかった…。』
深夜、月明かりに照らされたルイツェリア寺院。
霧が立ち込め、粘り気の強い闇を薄っすらと照らす月明かりは、幻想を現世に呼び起こす。
夜の静寂を切り裂くように教会の鐘は鳴り響く。
祭壇の上では、オーケストラの指揮者の如く波打つ金髪の美女が、侍従に命じて鐘を鳴らさせ、真紅のバージンロードの上を厳かに歩く東の果てから来た武人と麗しき人外の夫婦を暖かい目で見下ろしていた。
祝福は誰がために。
教会の鐘は誰がために。
その答えは明白で、この瞬間、すべてが二人を祝福していた。
参列者のいない、皇帝には相応しくないであろう厳かな結婚式。
新婦・紅龍雅は新婦・アルフォンスに自身が身重であると告げられ、俄かに動揺はしたものの、動揺はすぐに歓喜に変わり、新たな生命に心を躍らせながら、互いを支え合うように真紅のバージンロードを歩く。
「………何か思い出すな。」
「何をですか?」
楽しそうな顔をする龍雅の顔を、アルフォンスは覗き込むようにしながら訪ねた。
「俺たちがわかり合えた時も………、こうして支え合っていたっけ…。」
「あれは……あなたが態度を改めなかったから衝突したのですよ?」
紅龍雅とアルフォンス、二人の馴れ初めには諸説ある。
もっとも有名なのは、彼を極端な英雄視する視点で描かれた『天帝物語』という歴史小説で紹介された、『龍雅が自身の覇業のための人材を集めるべく、諸国をその足で放浪していた頃、大薙刀の名手としてその武名を知られたアルフォンスとの壮絶な一騎討ちの末に、彼女を覇業の伴侶とした』というエピソードである。
しかし、この歴史小説はこの時代から100年以上経って発表され、作者自身は龍雅やアルフォンスと一切面識がなく、歴史的事実を若干捻じ曲げたり、そもそも龍雅自身が皇帝になって尚、主と仰ぎ続けた学園都市セラエノの最高責任者である学園長ロウガが存在しないなど、歴史小説としては三流の位置にあるのだが痛快なストーリー展開で、講談や演劇で人気が出た結果、もっとこの時代を印象付ける物語として、人々に親しまれている。
そんな彼らの本当の馴れ初めは、セラエノ学園巨大図書館の奥にひっそりと残されていた。
僅か2冊の手書きの日記帳。
著者はアルフォンス。
その内容のほとんどは、彼女と義妹であるガーベラとの穏やかな日常を綴ったものだったのだが、その内の数ページに渡って、ガーベラとの日常とは別に紅龍雅について書かれた日付けが存在する。
「あの頃のあなたは……本当に礼儀知らずで、ロウガ様への態度も改めず、自由気ままでまるで怠け者のように、怠惰な日々を送るような人だったのですよ。お互いにわかり合うにも衝突が生まれて当然の結果でした。」
「何もしなかったとは心外だな。アレでも沢木の御息女や奥方の代わりに兵士の訓練を受け持ったり、セラエノのことを知ろうと自分の目と耳で情報を集めたりしていたんだぞ。沢木への態度にしたって、今更媚びへつらうような相手とも思えなかったしな。」
「あの頃も……同じように言いましたね。」
「ああ、言ったかもな。そしてお前は……。」
俺に薙刀を突き付けたろ、と龍雅は悪戯っぽく笑った。
「そ、それは忘れてください…!」
思慮の浅い行動だった、とアルフォンスは恥ずかしさに顔を赤くして俯いた。
バージンロードを歩く二人。
鐘の音に思いを馳せ、少しだけ過去を思い出す。
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「龍雅殿、ロウガ様に対しあのような態度は無礼でしょう!」
「あん?」
学園都市セラエノに辿り着いたばかりの頃も今も、俺は幼馴染の沢木を相手に、あいつが日の本にいた頃、若さに任せて戦場を駆け抜けていたあの頃と変わらないような口調と態度で接していた。
沢木のやつがそう望んだのだが、ある程度反発があるとは思っていた。
大方の事情を知る沢木の御息女と婿殿、それに二人の奥方たちは理解してくれてはいたが、現在の俺と沢木の年齢の開きや、沢木自身の立場から事情を知らぬ者たちが、何かしらそのことに不満や憤りを感じるであろうとは思っていたのだが、その不満を直情的に表したのがアルフォンスだった。
今思っても物騒な話だ。
「我ら砂漠の亡命者にとって大恩あるロウガ様への無礼、ロウガ様のご友人であろうと見過ごす訳には参りません!今この場にて心を改めるのでしたら良し。さもなくば……。」
さもなくばの後に続く言葉は、非常に怒気が篭っていた。
現在のように鎧を着ていなかったが、あの剛薙刀を構えて現れた時は、あまりに恐ろしくて思わず笑いが漏れてしまった。
「何が可笑しいのですか!!」
そりゃあ可笑しくもなる。
顔も雰囲気も身体付きもまったく似てもいないというのに、言うことや恩義から忠誠を尽くそうとする姿がまるで俺の初恋の人に、懐かしくなってしまうくらいそっくりなのだったから。
いや、考えてみれば沢木の周りにはそういうヤツが集まりやすいのかもしれないな。
「この…!それは私を侮辱していると受け取りますよ!!」
「ああ、悪い悪い。侮辱しているつもりはないんだ。ちょっと昔を懐かしんでいただけなんだ。」
「では、ロウガ様への態度を改めますか?」
剛薙刀の切っ先を鼻先に向けての問いかけ。
いやいや、あれは問いかけというよりも脅迫だったな。
「それは無理だ。」
と、言い終わる前だったか。
アルフォンスは鼻先で静止させていた切っ先を手加減なしに突いて来たっけ。
気が付けば身体が宙に浮いていました。
頭に血が上った私は、つい怒りに任せて彼を殺すつもりで薙刀を突いたはずでしたのに、訳のわからないまま宙を浮いていました。
本当に可笑しな話なのですが、その宙を浮いていた一瞬はとても気持ちが良かったのです。
間抜けな話ですよね。
そして直後に背中に硬い物がぶつかって来て、無防備だったから痛くて、肺から空気が一気に漏れてしまって、ぶつかって来た硬い物が地面だって気が付いた時には、すごく痛くて苦しかったことだけははっきり覚えています。
まるで魔法のような出来事に私の頭の中はパニックでした。
後になって知ったのですが、『ヤワラ』という技らしいですね。
ロウガ様に種明かししていただいて、やっと理解が出来ました。
あの頃の私は、砂漠から亡命してきたばかりだというのに、ロウガ様に住む所を与えられて、町の人たちからもやさしくしてもらえて……、それに砂漠での虐殺事件の巻き添えで母を亡くして、心にポッカリと開いた穴を塞ぐようにガーベラを引き取って、その居場所を守りたくて必死になっていました。
リザードマン自警団という職にも就けていただいたことだけでも満足でしたが、副官という身に余る地位をいただいたこともあるのでしょう。
慢心してなどいなかった、と言えば嘘になります。
「な、何が…!?」
「納得出来なきゃ、何度でもおいで。」
何が起こったのかわからない倒れた私の顔を、彼は笑って覗き込みました。
そこで初めて、私は投げ飛ばされたことに気が付いたのです。
ぼんやりとした頭で、私は龍雅に再戦を誓った気がします。
よく覚えてはいないのですが、とにかく背中を強く打ち付けてしまって、ひどく気持ち悪くて吐きそうだった、それだけは覚えています。
「何度でも。」
ただ楽しそうな彼の顔だけは、とてもハッキリ覚えています。
ああ、この人は本当に戦うのが好きなんだ、って思いましたね。
それから、ロウガ様絡みで何度も彼と衝突しましたが、結果は思い返せば、呆れる程彼に挑戦して、挑戦した数だけ負けてしまいました。
決してとどめを刺すことのない龍雅に、私は手加減されていると気が付くと、いつしかロウガ様への忠義心からではなく、私の失ったはずのリザードマンとしての、種のプライドで戦うようになっていきました。
現在でこそ武や戦の申し子と思える彼ですが、まだセラエノに居付くようになった頃の彼は日がな一日、図書館で本を読むか、木陰で空を眺めて寝ているような態度だったので私は、ただの何の変哲もない人間に、リザードマンたるこの私が、良いようにやられ、その上手加減までされていることに我慢がならなかったのです。
本当に変な話ですよね。
私は、砂漠のオアシスで生き抜くために捨てたプライドを、彼に取り戻してもらったというのに、そのことを気付かず、手加減されたことを根に持って、何度も彼に立ち向かったのです。
それでもやっぱり、一度も勝てませんでしたけどね。
「………気が付いたら。」
「うん?」
私の隣で寄り添う彼が、不思議そうな顔をしていました。
教会の鐘の音。
あの頃、砂漠でプライドを捨てて、媚びて生きていた頃には嫌な音でした。
あぁ、今日も一日が始まり、今日も一日が終わる…。
その繰り返しを告げる鐘の音は、オアシスで生きるすべての魔物たちにとって、プライドを捨てたことを恥じ、祖先の名と魂を穢していることを自覚させられる忌むべきものでした…。
それが………、今はひどく幸福でたまらない。
「気が付いたら……、私の心にあなたが住み込んでいました…。」
彼が…、龍雅が心の中にいる。
いつまでも消えず、彼を想うだけで胸の奥が苦しくなる。
そう感じるようになる頃には、私は彼に惹かれていることを自覚せずにはいられませんでした。
「………………俺だって、そうさ。」
真っ直ぐ、私の目を見詰めて彼は言いました。
そして照れたように目を背け、ノエル様の待つ祭壇に視線を向けました。
可愛い人。
そんな子供染みたところがある彼を、心からそう思う。
「いつからか、お前が俺に挑んでくるのが楽しみだった。お前が俺に突っかかってくるのが楽しみで、わざとうつけのように振舞ったりもした………どうも俺は不器用らしいな…。戦は我ながら巧みにいくのに、お前の気を惹こうとして言葉ではなく、ぶつかり合いを望んでしまっていた。」
「お互いにロマンチックとはいきませんでしたね。でも、おかげで私はあなたの人となりを知ることが出来ました。私は……十分に会話をしましたよ。ぶつかり合うことで、私はあなたの魂を知り、あなたに種のプライドを思い出させてもらえましたから。」
これからは……、と言って口篭る。
「どうした?」
「こ………これからは……良き将軍、良き皇帝としてでなく…。」
お腹に手を当てて、これから生まれるはずの生命を愛しく撫でる。
この子は、彼の世継ぎ。
私と彼の時間を繋ぐ者。
そして…………きっとこの子は……。
「良き夫、良き父として、私たちを愛してくださいね。」
「…………何を言うかと思えば。」
少々呆れた顔を彼はしたのですが、ただ一言……、
「…任せろ。」
照れてそっぽを向いて言ってくれたその言葉が嬉しかった。
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「紅龍雅、アルフォンス。そなたたちは病める時も健やかなる時も…。」
ノエルを立会い人として、二人の結婚式は始まった。
教会の鐘の音は止み、静寂を取り戻した教会は荘厳な雰囲気に包まれていたのだが、教会の鐘の音に誘われて、帝都の民を初め、帝国諸侯やセラエノ軍諸将が何事が起こったのだろうと教会の扉の前でざわめいていた。
「互いのことを思いやり、愛し合うことを誓……む?やはりそろそろ集まってくるとは思っていたが、察しの悪い連中だな。新帝が玉座に着いたということは皇后がいないと締りがないというのに…。深夜に教会で始めるのは結婚式だということぐらい察して静寂を保てんのか、まったく。」
と、ノエルは呆れて物も言えないと言わんばかりに首を振る。
この秘密の結婚式自体がノエルの仕返しであり、龍雅への憧れや恋心などの彼女なりのケジメであり、察しろということがそもそも無茶苦茶なのだが、彼女の推してしかるべしという強硬な姿勢も、当時の彼女の魅力であったのだろう。
やれやれ、と溜息を吐くノエルに、龍雅は頬を引き攣らせて笑った。
「お前な……、悪戯半分でこんなことやっておいて、よく言いやがるな?」
「そうかな…?まぁ、良い。ではさっさと終わらせて、あいつらの前にそなたらの幸せそうな姿を晒させるとしようか。さぁ、御両人。永遠の愛を誓え。神ではなく、この私に誓え。返事は『はい』か『イエス』か『喜んで』の中から選ぶことを許可しよう。」
「ふふふ、何とも傲慢な司祭様ですこと。」
イチゴの悪影響とも取れるノエルの言葉に、アルフォンスから笑いが漏れた。
史書に曰く。
ノエル=ルオゥムは、演出好きな人物として後世に伝えられている。
半ば強制的に龍雅とアルフォンスに愛を誓わせると、ノエルは祭礼用に携帯していた美しい装飾の細身のサーベルを抜き放ち、祭壇に飾られた薔薇の花を一つ宙に放り投げると一閃し、まるで花火のように薔薇の花びらが散り散りになって舞い降りる。
「今、ここにもっとも祝福すべき夫婦が生まれた!余は神聖ルオゥム帝国第22代皇帝ノエル=ルオゥムの名において、汝らを祝福し、末永く幸福な時が流れることを祈る。友として、戦友として……。」
それが合図だったのだろう。
再び教会の鐘が盛大に響き渡ると同時に、教会の扉が開かれた。
開かれた扉から集まった人々が目撃したものは、ステンドグラスを通して色鮮やかな美しい光に照らされ、赤い薔薇の花びらの雨の中に佇む純白のドレスに身を包んだアルフォンスと、ノエルに譲位されて人々が傅いた時の直垂姿のままの第23代皇帝・紅龍雅両名の神聖にして冒し難い晴れ姿であった。
深夜、突然鳴り響いた教会の鐘の意味を知った人々に、小さな波が集まって大きな波になるように喜びと感動が広がっていき、深夜の静寂は人々の歓声と二人を讃える声に溢れかえった。
皇帝万歳。
皇后万歳。
その声はアルフォンスがすでに懐妊していることをノエルが告げると、皇姫万歳とセラエノ軍諸将兵や帝国軍諸将兵、さらには帝都コクトゥの民が手を取り合い、入り乱れて喜びを分かち合った。
これは、神聖ルオゥム帝国の歴史が変わった瞬間であったと歴史家は言う。
人と魔物、ましてや本来敵対し合う者たちがあらゆる垣根を越えて、喜び合った。
そのことの意味は大きい。
後にロウガはこの出来事を知り、彼の妻であるアスティアにこう語ったと言う。
「俺が蒔こうとした種は、サクラたちによって芽を開き、龍雅たちによって花が咲いた。」
皇帝の婚礼、皇姫懐妊の報を受け、民も将兵も深夜であるにも関わらず無礼講の宴を催し、人々は飲み、歌い、笑い、龍雅とアルフォンスに影響されて暗がりで恋人たちと愛を確かめ合う。
皇帝を祝福する人々は、『レユアの禅譲』の舞台となったレユア広場に誰とも言わず集まり、戦時の緊張も忘れて、喜ばしい儀式を祝福する宴に興じていた。
誰もいなくなったルイツェリア寺院は、元の静寂を取り戻していた。
月明かりも薄くなり、ステンドグラスの光も弱まった祭壇の上に影一つ。
黒の胸元の大きく開いたドレスを身に纏った女が一人。
目は閉じてはいたものの、穏やかな表情を浮かべて大きな音を立てて手を叩いていた。
「良い式だったよ。」
ここを訪れた目的は終わった、と女は目を見開く。
開かれた赤い瞳には、禍々しくも妖しい魅力が溢れて、その瞳は遥か彼方の空に思いを馳せているようにも見えた。
女が後ろ髪を掻き揚げると、白い髪はまるで絹のベールのように舞い上がる。
「…龍雅、君は気が付いているのか。君の時間は最早蜉蝣ののように儚いということを…。いや、儚いと知っているからこそ……君は彼女を愛するのだろうか…。覚えていまい…。君は……失ったものを取り戻そうとしているに過ぎないのだから…。」
漆黒の翼が、女の背中を覆う闇のように広がる。
燭台の上の蝋燭が風にゆらりと揺れると、そこに女の姿はなかった。
ルイツェリア寺院、祈りの場所。
ただ静寂だけが、そこの主の如く鎮座し続ける。
11/09/23 00:27更新 / 宿利京祐
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