第百二話・真夜中に交わした約束(前編)
ゆらり……
ゆらり……
心地良い苦痛の中でぼんやりとした意識のまま…
「 」はここにいる…。
何も見えない…
何も聞こえない…
臭いも感じない…
「 」はただただ、ひどく重い液体の中で身動き一つ取れずにいる…。
指はあるのか…
眼はあるのか…
何一つわからないまま、「 」は不気味な静けさに身を委ねて、終わりの日を待つ。
『これも駄目だ。』
『7号に続いて8号も駄目だったか。』
『これも空っぽだ。』
『廃棄しよう。すぐに9号の研究に取り掛かろう。』
『すべては我が王と偉大なる大司教猊下の御為に…。』
『御為に…。』
液体の外で冷たく、くぐもった声がする…。
でも理解出来ない…。
「 」は廃棄されるのか…。
どこか他人事のように「 」はその声を聞いていた…。
やがて声が聞こえなくなり、「 」は「 」に残された時間を考える…。
生まれたかった…。
どんな形でも良いから…
どんな形でも良いからこの世界を肌で感じたかった…。
こんな冷たくて、重い液体越しの世界じゃなく…
「 」は「 」の足で、一瞬でも良いから感じたかった…。
それは………「 」の記憶ではない…。
魂のない器、純粋で空っぽな入れ物が覚えている言葉にならない記憶…。
「 」ではない「 」の記憶に「 」は泣いていた…。
空っぽの器の記憶に同調し、「 」は泣いている…。
『生きたいかい?』
「 」は生まれて初めて、透き通るような美しい声を聞いた…。
やさしくて、暖かくて、「 」が存在していることを確信させてくれる声…。
美しい声は、そう声をかけたまま黙っている…。
そして、空っぽの器は頷いた…。
「 」がこの世界で、初めて「 」の意思を表した…。
『……ならば、おいで。魂のない器、形を持った純粋な命そのものよ。私はあまねく世界において、願いを叶える者。私でさえも、神さえも関知し得なかった命にどれ程の時間を与えられるかはわからないが、私が君を満たしてあげよう。君の器に魂を入れてあげよう。そうすれば、結果的に君はこの世界を、試験管越しではなく、その指で温もりを感じ、その足で世界の広さを感じるだろう。』
暖かな手に抱かれるように、「 」は冷たい液体の檻を抜け出した…。
初めて触れる熱に「 」の心は躍った…。
心などあろうはずがないのに、「 」はその本能で喜びを感じていた…。
『さぁ、空の器よ。君に魂をあげよう。君の中身を形成する魂の名は……。』
空白の「 」は初めてこの世に熱を持つ…。
「 」は名を得ることで、ただの命の塊から呪で世界に繋がれる。
「 」は初めて「俺」になった。
「俺」の名は…………………………。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「すまないな、紅帝。お疲れのところをわざわざ足を運んでくれて。」
「いや、俺の方こそ助かった。あのまま風呂で溺れてしまったんじゃカッコが悪い。」
深夜、ヒンジュルディン城の長い廊下を歩く二人の影。
一人は紅帝、紅龍雅。
もう一人は先帝、現在は副帝のノエル=ルオゥムである。
ノエルは一応の軍務が終わったために、いつか龍雅に見せることのなかった淡い青の美しいフォーマルドレスに身を包み、龍雅はノエルに言われて直垂に烏帽子という正装で廊下を歩いていた。
龍雅の言う通り、彼は皇帝専用の広い風呂でこれまでの疲れを癒していたのだが、張り詰めていた気が緩んだせいか居眠りをしてしまい、顔の半分がお湯に浸かってしまっていたにも関わらず目を覚まさなかったのだった。
偶然、龍雅を呼びに来たノエルの来訪を召使が『おそれながら』と知らせようと浴室に足を踏み入れたことにより事なきを得たが、もしも誰も気が付かなければ、それこそ洒落にならない事態となっていたであろう。
「で、この廊下はどこへ通じているんだ?」
未だ城内の構造を熟知していない龍雅は、ノエルに行き先を訪ねた。
静かな廊下には、キビキビとした小気味の良いリズムでノエルのハイヒールの音が響く。
ノエルは振り返ることなく、歩く速度をそのままに答えた。
「教会の礼拝堂だ。」
「れいはいどう?」
「ああ、ヴァルハリア教会の寺院が小さいながら我が城には建てられている。私自身はあまり神など当てにはしていなかったから、それ程熱心に礼拝をしていた訳ではなかったんだが……まぁ、家臣たちがなぁ…。」
ヒンジュルディン城に建立されているルイツェリア寺院。
人々の祈りの家としておよそ200年前に建てられたそれなりに歴史ある宗教建築である。
歴代の皇帝が眠るその寺院は、様々な帝国の歴史を見守ってきた。
皇帝が即位し、新たな命がそこに生まれ、そして天に帰っていく歴史の流れを。
ある時は陰謀を。
ある時は喜びを。
刻んだ歴史を黙して語らず、ルイツェリア寺院は帝国と共に時を刻んだのである。
「今はこのような状況になり、そなたの即位と共にヴァルハリアの生臭坊主どもも逃げ出してしまって、もぬけの空だがな。なに、儀式など神の代行者を名乗る者がおらずとも出来るもの。」
「何の話だ。」
「ふふふ……、そなたにはタキシードが似合わぬと言っているだけだ。」
益々わからん、と龍雅は首を捻る。
「わからねば、わからぬままで良い。どうせ礼拝堂に着けばわかるのだからな。ああ、話は変わるが………、あまり帝国の若者を悪い道に染めるなよ?先程、イチゴに労を労おうと、宛がった部屋の前まで行ったのだが……。」
途端に歯切れの悪くなるノエル。
「な、中からな……、その…。」
「ああ……、あいつが選んだ少年たちの喘ぎ声が聞こえたか。気にするな、というのも無理かもしれないが、目を瞑ってやってくれ。沢木に聞いたところによると、あいつはこの数ヶ月、アレでも禁欲的に生活してくれていたそうだ。あいつのおかげで時間稼ぎは出来たんだし、許してやってくれ。」
「それはそうなのかもしれないが……まぁ良い。そなたは私の命の恩人だし、帝国を救ってくれたのだからな…。それに私はそなたこそ帝位に相応しいと思えた。そなたがいなければ、私はクスコ川流域で………。」
首だけになっていただろう、とノエルは呟いた。
龍雅がいなければ、誰ともわからぬヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の雑兵の手にかかり、時間をかけた拷問と凌辱を以って自分は辱められて、心と身体を壊されて命を落としていただろう、と彼女は目を閉じて呟き、肩を震わせた。
「なぁ………、何故、俺なんだ?」
龍雅はノエルに疑問をぶつけた。
何故自分なのか。
何故自分に譲位したのか。
するとノエルは歩みを止めて振り返ると、微笑を湛えて跪いた。
「お、おい…。」
「……私は、ヴァルハリアが憎かった。」
ポツリ、ポツリとノエルは語り始める。
「祖父の死を辱めたヴァルハリアが憎かった。知識を独占し、偽善を以って多くの人々を死に追いやったヴァルハリアが憎かったんだ…。だから、あいつらが連合を組んで帝国を攻めて来た時、私は公然と反旗を翻した。結果はそなたもご覧の通りだった。私がそなたこそ皇帝に相応しいと言ったのはな……、私にはそなた程の覚悟がなかったからだ。私は反旗を翻したがそれまでだった。だというのに、そなたは敵は人間に非ず……敵は時代だと言った。私より更なる先を見る、そんなそなたこそ……、帝国の新たな時代を切り開くのに相応しいと考えたんだ。」
龍雅は膝を折って正座をすると、手を突いて頭を下げた。
「紅…!」
「ノエル陛下。あなたから譲られた帝位、某(それがし)にはあまりに過分では御座いますが、これまでの数々の無礼、帝国の民を生き残らせ、この戦の後に帝国を繁栄と平和に導くことで謝罪の代わりとさせていただきたく存じまする。それが………、某が陛下に思いに応えられる唯一の道に御座います。」
「……………紅帝。」
ノエルは龍雅の手を握り、顔を上げさせた。
「…私はあなたに出会えて良かった。」
手を握ったまま、深く頭を垂れる。
これまで働きに感謝し、そして龍雅の未来を託すことに謝罪する。
ただ、ノエル自身の恋心だけは胸に秘めたまま。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
月明かりに照らされたステンドグラス。
ヴァルハリア教会や神々の物語、そして帝国の歴史を描いたステンドグラスは色鮮やかな光を放って、静寂に包まれた礼拝堂を照らしていた。
「これは……また…。」
「良いだろう?200年前の骨董品だが、それなりの芸術品だと思う。」
礼拝堂の重い扉を開いて、龍雅とノエルは足を踏み入れる。
礼拝堂の冒し難い神聖な空気に、信徒ですらない龍雅も身が引き締まる思いを感じた。
「骨董など…、よく言う。」
その呟きすら、石造りの建物に染み渡るような気がしていた。
膨大な時間が築き上げた世界。
ここに多くの人々が足を踏み入れ、ここで多くの人々が去っていった。
そんな幻想的な雰囲気に、さすがの龍雅ですら気後れしてしまったのは仕方のない話だろう。
その冒し難い世界を見下ろすように、物言わぬ神の像は飾られていた。
細かい金細工が、ステンドグラス越しに煌びやかに輝き、冷たく重い石の質感が、一種不気味で近寄り難い空気に人々は畏怖し、敬い、崇めるのだろうと龍雅はぼんやりと思っている。
「あ……あれ…?」
「あ……龍……雅…。」
祭壇の前で、何かがゆらりと動いたと思い、龍雅は視線を下げた。
天窓から降り注ぐ月明かりに照らされた純白のドレス。
身を動かすたびに揺れるドレスには、小さな宝石が散りばめられており、キラキラとした輝きを纏いながら、そのドレスを身に付けた花嫁姿の女は、赤い絨毯の上を小走りに龍雅の下へと駆け寄った。
「アルフォンス、待たせたね。クソ忙しくて風呂で溺れていた新郎を連れて来たよ。」
まあ、と花嫁姿の女、アルフォンスはクスクスと笑う。
「お、おい!アルフォンス…、ノエル…!?こりゃあ、一体…。」
何が何だかわからないと龍雅は慌てた声を出す。
「うふふふ……、紅帝陛下。そなたはこと戦に関しては神がかった頭脳を発揮するが、こういうことにはニブチンなのだな。」
「お前、段々イチゴに似てきたぞ。言動とか笑い方とか。」
そうか、とノエルは楽しそうに笑う。
龍雅が困惑していると、アルフォンスが彼の着物の袖を引いた。
「あのですね……、私はこのような情勢下ですから辞退を申し入れたのですが…。」
「いーや、アルフォンス。こればかりはやってもらうぞ。私の最後の勅命として、こればっかりはやってもらわねば面白くない。紅帝、いや紅龍雅。そなたはアルフォンスを愛しているか。」
愛しているか、と面と向かって問われ、龍雅は顔を赤くした。
だが、考えるまでもなく彼はアルフォンスを心から愛していると首を縦に振る。
彼の袖を握るアルフォンスの手に、少しだけ力が入る。
「ならば察しの悪いそなたでも、ここで何をせよと私が言っているかくらいはわかっていよう。龍雅、アルフォンス。こんな情勢下であるからこそ、ここで夫婦の契りを結んでおけ。もしものことが起きてはならないが、私とていつ戦場の露と消えるのかわかったものではない。後悔は残してはならないからな。」
そう言ってノエルは二人の手を取り、重ね合わせる。
「紅帝、頼む。私の最後の勅命を受けてくれ…。生まれてくる生命のために。」
その言葉を聞くや否や、龍雅は重ね合わせた手を放し、アルフォンスの肩を強く掴んだ。
「本当か…!?本当に……。」
アルフォンスはゆっくり頷いた。
「……ノエル様にはお話しました。セラエノの軍医、それに帝国の軍医のお話でも間違いなく、後七月もすれば私のお腹も膨らみ………、きっとあなたのように元気な子が…。」
産まれます、と口を開く前に龍雅はアルフォンスの唇を塞いだ。
まるで龍雅の喜びが伝わっていくかのように、アルフォンスは夢見心地になり、目を閉じると龍雅の首に腕を回して身体を密着させた。
ただ、静かに。
ただ、お互いの温もりを感じ合うだけの口付け。
だがさすがに、二人の熱い場面に耐え切れずにノエルは咳払いを一つする。
「あー……紅帝?私はまだ返事を聞いていないぞ。」
「……………邪魔すんな。」
僅かに唇が放されて、悪態付く龍雅。
そんな龍雅にアルフォンスが消え入りそうな声で囁いた。
「龍雅、ノエル様に無礼なことを仰っては……。」
「俺はな…、俺はこんな時勢でもアルフォンスを粗末に扱ったことはない。ましてや、無責任な関係で終わらせようなどと考えたこともない。それが、アルフォンスに勝った俺の責任であり、アルフォンスと共に歩んでいこうと誓った俺の誇りだ。」
龍雅に抱き締められ、アルフォンスは俯いた。
俯いたまま涙を流していた。
生まれて初めて、生きていて良かった。
生まれて初めて、愛されていることがどんなに喜ばしいことかを噛み締めていた。
「そうか……、ならば拒否はないと見なすぞ。」
廊下を歩いていた時のような足取りでノエルは一人祭壇へと歩き始める。
彼女を見下ろす神の石像に、何を考えていたのかはわからない。
だが、その顔は非常に満足そうであり、晴々としたものだった。
そして祭壇に辿り着くと、ノエルはまるで戦場にいた時のようにドレスのスカートを翻して振り向くと、龍雅とアルフォンスの二人へと向き合った。
「始めよう、ご両人。牧師も、参列者も、親族すらいないがそなたたちには不要だろう。そなたたちを心から祝福する私が立会人だ。そなたたちの新たな生命の無事を心から祈る私が証人となる。帝国史上、もっとも厳かで、もっとも喜ばしく、もっとも祝福される結婚式を始めよう。さあ紅帝、アルフォンス。ここまでおいで。赤い絨毯の上を一歩一歩、これから訪れるであろう幸せを祈るように。」
ノエルがパチン、と指を鳴らすと深夜にも関わらず、教会の鐘が響き渡る。
ノエルが自身の侍従であるキリエたちに命じて鳴らさせたのであった。
「龍雅…いえ、その……だ、旦那様。参りましょう。ノエル様のお気遣いに感謝して。」
勝手のわからない龍雅の手を引いて、アルフォンスはバージンロードを歩き始める。
深い愛情を互いに持ち寄って。
深い恋心を押し殺して、心からの祝福を持ち寄って。
紅龍雅、アルフォンス。
ただ二人のために鐘は鳴る。
ゆらり……
心地良い苦痛の中でぼんやりとした意識のまま…
「 」はここにいる…。
何も見えない…
何も聞こえない…
臭いも感じない…
「 」はただただ、ひどく重い液体の中で身動き一つ取れずにいる…。
指はあるのか…
眼はあるのか…
何一つわからないまま、「 」は不気味な静けさに身を委ねて、終わりの日を待つ。
『これも駄目だ。』
『7号に続いて8号も駄目だったか。』
『これも空っぽだ。』
『廃棄しよう。すぐに9号の研究に取り掛かろう。』
『すべては我が王と偉大なる大司教猊下の御為に…。』
『御為に…。』
液体の外で冷たく、くぐもった声がする…。
でも理解出来ない…。
「 」は廃棄されるのか…。
どこか他人事のように「 」はその声を聞いていた…。
やがて声が聞こえなくなり、「 」は「 」に残された時間を考える…。
生まれたかった…。
どんな形でも良いから…
どんな形でも良いからこの世界を肌で感じたかった…。
こんな冷たくて、重い液体越しの世界じゃなく…
「 」は「 」の足で、一瞬でも良いから感じたかった…。
それは………「 」の記憶ではない…。
魂のない器、純粋で空っぽな入れ物が覚えている言葉にならない記憶…。
「 」ではない「 」の記憶に「 」は泣いていた…。
空っぽの器の記憶に同調し、「 」は泣いている…。
『生きたいかい?』
「 」は生まれて初めて、透き通るような美しい声を聞いた…。
やさしくて、暖かくて、「 」が存在していることを確信させてくれる声…。
美しい声は、そう声をかけたまま黙っている…。
そして、空っぽの器は頷いた…。
「 」がこの世界で、初めて「 」の意思を表した…。
『……ならば、おいで。魂のない器、形を持った純粋な命そのものよ。私はあまねく世界において、願いを叶える者。私でさえも、神さえも関知し得なかった命にどれ程の時間を与えられるかはわからないが、私が君を満たしてあげよう。君の器に魂を入れてあげよう。そうすれば、結果的に君はこの世界を、試験管越しではなく、その指で温もりを感じ、その足で世界の広さを感じるだろう。』
暖かな手に抱かれるように、「 」は冷たい液体の檻を抜け出した…。
初めて触れる熱に「 」の心は躍った…。
心などあろうはずがないのに、「 」はその本能で喜びを感じていた…。
『さぁ、空の器よ。君に魂をあげよう。君の中身を形成する魂の名は……。』
空白の「 」は初めてこの世に熱を持つ…。
「 」は名を得ることで、ただの命の塊から呪で世界に繋がれる。
「 」は初めて「俺」になった。
「俺」の名は…………………………。
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「すまないな、紅帝。お疲れのところをわざわざ足を運んでくれて。」
「いや、俺の方こそ助かった。あのまま風呂で溺れてしまったんじゃカッコが悪い。」
深夜、ヒンジュルディン城の長い廊下を歩く二人の影。
一人は紅帝、紅龍雅。
もう一人は先帝、現在は副帝のノエル=ルオゥムである。
ノエルは一応の軍務が終わったために、いつか龍雅に見せることのなかった淡い青の美しいフォーマルドレスに身を包み、龍雅はノエルに言われて直垂に烏帽子という正装で廊下を歩いていた。
龍雅の言う通り、彼は皇帝専用の広い風呂でこれまでの疲れを癒していたのだが、張り詰めていた気が緩んだせいか居眠りをしてしまい、顔の半分がお湯に浸かってしまっていたにも関わらず目を覚まさなかったのだった。
偶然、龍雅を呼びに来たノエルの来訪を召使が『おそれながら』と知らせようと浴室に足を踏み入れたことにより事なきを得たが、もしも誰も気が付かなければ、それこそ洒落にならない事態となっていたであろう。
「で、この廊下はどこへ通じているんだ?」
未だ城内の構造を熟知していない龍雅は、ノエルに行き先を訪ねた。
静かな廊下には、キビキビとした小気味の良いリズムでノエルのハイヒールの音が響く。
ノエルは振り返ることなく、歩く速度をそのままに答えた。
「教会の礼拝堂だ。」
「れいはいどう?」
「ああ、ヴァルハリア教会の寺院が小さいながら我が城には建てられている。私自身はあまり神など当てにはしていなかったから、それ程熱心に礼拝をしていた訳ではなかったんだが……まぁ、家臣たちがなぁ…。」
ヒンジュルディン城に建立されているルイツェリア寺院。
人々の祈りの家としておよそ200年前に建てられたそれなりに歴史ある宗教建築である。
歴代の皇帝が眠るその寺院は、様々な帝国の歴史を見守ってきた。
皇帝が即位し、新たな命がそこに生まれ、そして天に帰っていく歴史の流れを。
ある時は陰謀を。
ある時は喜びを。
刻んだ歴史を黙して語らず、ルイツェリア寺院は帝国と共に時を刻んだのである。
「今はこのような状況になり、そなたの即位と共にヴァルハリアの生臭坊主どもも逃げ出してしまって、もぬけの空だがな。なに、儀式など神の代行者を名乗る者がおらずとも出来るもの。」
「何の話だ。」
「ふふふ……、そなたにはタキシードが似合わぬと言っているだけだ。」
益々わからん、と龍雅は首を捻る。
「わからねば、わからぬままで良い。どうせ礼拝堂に着けばわかるのだからな。ああ、話は変わるが………、あまり帝国の若者を悪い道に染めるなよ?先程、イチゴに労を労おうと、宛がった部屋の前まで行ったのだが……。」
途端に歯切れの悪くなるノエル。
「な、中からな……、その…。」
「ああ……、あいつが選んだ少年たちの喘ぎ声が聞こえたか。気にするな、というのも無理かもしれないが、目を瞑ってやってくれ。沢木に聞いたところによると、あいつはこの数ヶ月、アレでも禁欲的に生活してくれていたそうだ。あいつのおかげで時間稼ぎは出来たんだし、許してやってくれ。」
「それはそうなのかもしれないが……まぁ良い。そなたは私の命の恩人だし、帝国を救ってくれたのだからな…。それに私はそなたこそ帝位に相応しいと思えた。そなたがいなければ、私はクスコ川流域で………。」
首だけになっていただろう、とノエルは呟いた。
龍雅がいなければ、誰ともわからぬヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の雑兵の手にかかり、時間をかけた拷問と凌辱を以って自分は辱められて、心と身体を壊されて命を落としていただろう、と彼女は目を閉じて呟き、肩を震わせた。
「なぁ………、何故、俺なんだ?」
龍雅はノエルに疑問をぶつけた。
何故自分なのか。
何故自分に譲位したのか。
するとノエルは歩みを止めて振り返ると、微笑を湛えて跪いた。
「お、おい…。」
「……私は、ヴァルハリアが憎かった。」
ポツリ、ポツリとノエルは語り始める。
「祖父の死を辱めたヴァルハリアが憎かった。知識を独占し、偽善を以って多くの人々を死に追いやったヴァルハリアが憎かったんだ…。だから、あいつらが連合を組んで帝国を攻めて来た時、私は公然と反旗を翻した。結果はそなたもご覧の通りだった。私がそなたこそ皇帝に相応しいと言ったのはな……、私にはそなた程の覚悟がなかったからだ。私は反旗を翻したがそれまでだった。だというのに、そなたは敵は人間に非ず……敵は時代だと言った。私より更なる先を見る、そんなそなたこそ……、帝国の新たな時代を切り開くのに相応しいと考えたんだ。」
龍雅は膝を折って正座をすると、手を突いて頭を下げた。
「紅…!」
「ノエル陛下。あなたから譲られた帝位、某(それがし)にはあまりに過分では御座いますが、これまでの数々の無礼、帝国の民を生き残らせ、この戦の後に帝国を繁栄と平和に導くことで謝罪の代わりとさせていただきたく存じまする。それが………、某が陛下に思いに応えられる唯一の道に御座います。」
「……………紅帝。」
ノエルは龍雅の手を握り、顔を上げさせた。
「…私はあなたに出会えて良かった。」
手を握ったまま、深く頭を垂れる。
これまで働きに感謝し、そして龍雅の未来を託すことに謝罪する。
ただ、ノエル自身の恋心だけは胸に秘めたまま。
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月明かりに照らされたステンドグラス。
ヴァルハリア教会や神々の物語、そして帝国の歴史を描いたステンドグラスは色鮮やかな光を放って、静寂に包まれた礼拝堂を照らしていた。
「これは……また…。」
「良いだろう?200年前の骨董品だが、それなりの芸術品だと思う。」
礼拝堂の重い扉を開いて、龍雅とノエルは足を踏み入れる。
礼拝堂の冒し難い神聖な空気に、信徒ですらない龍雅も身が引き締まる思いを感じた。
「骨董など…、よく言う。」
その呟きすら、石造りの建物に染み渡るような気がしていた。
膨大な時間が築き上げた世界。
ここに多くの人々が足を踏み入れ、ここで多くの人々が去っていった。
そんな幻想的な雰囲気に、さすがの龍雅ですら気後れしてしまったのは仕方のない話だろう。
その冒し難い世界を見下ろすように、物言わぬ神の像は飾られていた。
細かい金細工が、ステンドグラス越しに煌びやかに輝き、冷たく重い石の質感が、一種不気味で近寄り難い空気に人々は畏怖し、敬い、崇めるのだろうと龍雅はぼんやりと思っている。
「あ……あれ…?」
「あ……龍……雅…。」
祭壇の前で、何かがゆらりと動いたと思い、龍雅は視線を下げた。
天窓から降り注ぐ月明かりに照らされた純白のドレス。
身を動かすたびに揺れるドレスには、小さな宝石が散りばめられており、キラキラとした輝きを纏いながら、そのドレスを身に付けた花嫁姿の女は、赤い絨毯の上を小走りに龍雅の下へと駆け寄った。
「アルフォンス、待たせたね。クソ忙しくて風呂で溺れていた新郎を連れて来たよ。」
まあ、と花嫁姿の女、アルフォンスはクスクスと笑う。
「お、おい!アルフォンス…、ノエル…!?こりゃあ、一体…。」
何が何だかわからないと龍雅は慌てた声を出す。
「うふふふ……、紅帝陛下。そなたはこと戦に関しては神がかった頭脳を発揮するが、こういうことにはニブチンなのだな。」
「お前、段々イチゴに似てきたぞ。言動とか笑い方とか。」
そうか、とノエルは楽しそうに笑う。
龍雅が困惑していると、アルフォンスが彼の着物の袖を引いた。
「あのですね……、私はこのような情勢下ですから辞退を申し入れたのですが…。」
「いーや、アルフォンス。こればかりはやってもらうぞ。私の最後の勅命として、こればっかりはやってもらわねば面白くない。紅帝、いや紅龍雅。そなたはアルフォンスを愛しているか。」
愛しているか、と面と向かって問われ、龍雅は顔を赤くした。
だが、考えるまでもなく彼はアルフォンスを心から愛していると首を縦に振る。
彼の袖を握るアルフォンスの手に、少しだけ力が入る。
「ならば察しの悪いそなたでも、ここで何をせよと私が言っているかくらいはわかっていよう。龍雅、アルフォンス。こんな情勢下であるからこそ、ここで夫婦の契りを結んでおけ。もしものことが起きてはならないが、私とていつ戦場の露と消えるのかわかったものではない。後悔は残してはならないからな。」
そう言ってノエルは二人の手を取り、重ね合わせる。
「紅帝、頼む。私の最後の勅命を受けてくれ…。生まれてくる生命のために。」
その言葉を聞くや否や、龍雅は重ね合わせた手を放し、アルフォンスの肩を強く掴んだ。
「本当か…!?本当に……。」
アルフォンスはゆっくり頷いた。
「……ノエル様にはお話しました。セラエノの軍医、それに帝国の軍医のお話でも間違いなく、後七月もすれば私のお腹も膨らみ………、きっとあなたのように元気な子が…。」
産まれます、と口を開く前に龍雅はアルフォンスの唇を塞いだ。
まるで龍雅の喜びが伝わっていくかのように、アルフォンスは夢見心地になり、目を閉じると龍雅の首に腕を回して身体を密着させた。
ただ、静かに。
ただ、お互いの温もりを感じ合うだけの口付け。
だがさすがに、二人の熱い場面に耐え切れずにノエルは咳払いを一つする。
「あー……紅帝?私はまだ返事を聞いていないぞ。」
「……………邪魔すんな。」
僅かに唇が放されて、悪態付く龍雅。
そんな龍雅にアルフォンスが消え入りそうな声で囁いた。
「龍雅、ノエル様に無礼なことを仰っては……。」
「俺はな…、俺はこんな時勢でもアルフォンスを粗末に扱ったことはない。ましてや、無責任な関係で終わらせようなどと考えたこともない。それが、アルフォンスに勝った俺の責任であり、アルフォンスと共に歩んでいこうと誓った俺の誇りだ。」
龍雅に抱き締められ、アルフォンスは俯いた。
俯いたまま涙を流していた。
生まれて初めて、生きていて良かった。
生まれて初めて、愛されていることがどんなに喜ばしいことかを噛み締めていた。
「そうか……、ならば拒否はないと見なすぞ。」
廊下を歩いていた時のような足取りでノエルは一人祭壇へと歩き始める。
彼女を見下ろす神の石像に、何を考えていたのかはわからない。
だが、その顔は非常に満足そうであり、晴々としたものだった。
そして祭壇に辿り着くと、ノエルはまるで戦場にいた時のようにドレスのスカートを翻して振り向くと、龍雅とアルフォンスの二人へと向き合った。
「始めよう、ご両人。牧師も、参列者も、親族すらいないがそなたたちには不要だろう。そなたたちを心から祝福する私が立会人だ。そなたたちの新たな生命の無事を心から祈る私が証人となる。帝国史上、もっとも厳かで、もっとも喜ばしく、もっとも祝福される結婚式を始めよう。さあ紅帝、アルフォンス。ここまでおいで。赤い絨毯の上を一歩一歩、これから訪れるであろう幸せを祈るように。」
ノエルがパチン、と指を鳴らすと深夜にも関わらず、教会の鐘が響き渡る。
ノエルが自身の侍従であるキリエたちに命じて鳴らさせたのであった。
「龍雅…いえ、その……だ、旦那様。参りましょう。ノエル様のお気遣いに感謝して。」
勝手のわからない龍雅の手を引いて、アルフォンスはバージンロードを歩き始める。
深い愛情を互いに持ち寄って。
深い恋心を押し殺して、心からの祝福を持ち寄って。
紅龍雅、アルフォンス。
ただ二人のために鐘は鳴る。
11/08/14 15:06更新 / 宿利京祐
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