第百一話・凱旋
神聖ルオゥム帝国新皇帝・紅龍雅。
『レユアの禅譲』という当時の辺境王朝国家において初の禅譲による即位、それも公的な身分は何一つない一介の武将が皇帝に即位したという歴史的譲位は、周辺国家にどれ程の衝撃を与えたか、それは最早語るまでもないであろう。
事実、ルオゥム戦役や辺境大戦終結30年後に、辺境地域に乱立する中立地帯や勢力の衰えを見せ始めた多くの国家において、龍雅や様々な英雄たちに影響を受けた人々が、彼の皇帝に即位した事実に倣い『帝国大乱立時代』と呼ばれる宗教と無用な古い慣習からの脱却を試みる時代が訪れるのであるが、それは後の世の話。
レユアの禅譲の後、渋々皇帝即位を受け入れた龍雅は、時間を惜しむように次々と新人事を発表し、再びコクトゥの民や帝国諸侯を驚かせる。
副帝・ノエル=ルオゥムに始まり、彼は帝国の重職にセラエノの者をほとんど就けることなく、多くは神聖ルオゥム帝国の人々を用いたのである。
ほとんどの要職は先帝のノエルが無駄なく就任させていた、ということも挙げられるが、彼はセラエノ君主・ロウガと同じように支配者になることを極端に嫌っていたようで、そういったことからセラエノの者が帝国の新たな人事の対象から外れたのではないかと歴史研究家は見ている。
だが、何より人々を驚かせたのは、その新たな人事に今回の学園都市セラエノ・神聖ルオゥム帝国同盟軍が勝利を捨ててまでクスコ川から撤退をしなければならなくなった原因を作った謀叛人たちを、何と一時的とは言え最重要職に就けたことであった。
一時的、というのは彼の公的には最初で最後の勅命に関連している。
紅龍雅が出した最初で最後の勅命、それは『遷都』であった。
「遷都、と申されますか!?」
帝都コクトゥにそびえるノエル…いや、ルオゥム家の居城ヒンジュルディン城の円卓の間。
集まった諸侯は一様に驚きを隠せず、グルジア殿は思わず席を立ち上がる程狼狽していた。
「その通りだ。これはノエルも了承済みではある。」
俺の右側の椅子に深く腰かけるノエルは微笑みかけ、ゆったりとした仕草で頷いた。
私に気を使う必要はない、と目が言っているが、昨日までの君主を無視するというのは、俺にも、そして彼らにもバツが悪いものである。
遷都に未だ納得を見せない諸侯らに、俺は遷都の必要性を説いた。
防衛に向かないこと。
他の都市とも離れすぎているため、補給や交易にも支障を来たすこと。
またこの戦を乗り切るためにも、セラエノと連携を取りやすくしたいこと。
「はっきり言えば、この地は決戦の地にあらず。地理的にも、帝都の防衛機能の低さから見ても、すべて敵に有利に働く。まぁ、万が一…、この地で戦闘が始まっても良いようにそれなりの準備を命じてはおくが、遷都でもせん限り生き残ることが出来ないということだけは覚えておいてほしい。という訳だ、グルジア殿。」
「は…はっ!」
グルジア殿が姿勢を正す。
呼ばれるはずがないと思っていたのか気を抜いていたようだったが、さすが謀叛を起こしてでも帝国を救おうとした気骨の士と言おうか。
一瞬で気合の入った良い顔になる。
「グルジア殿以下此度謀反人として汚名を被りし諸侯諸君に命じる。おことらが中心となりて次なる都に相応しき地を割り出し、明朝の軍議までに構想を練り上げよ。おことらが被りし汚名をこれにて晴らせ。恥じることなく、大胆に模索せよ。おことらは先帝ノエルと袂を分かってでも帝国を守らんとした、まさに士と呼ぶに相応しき者たちぞ。」
「…………!!」
グルジア殿が息を飲む。
「紅帝陛下…!必ずや…、必ずやご期待にお応え致します!!」
肩を震わせながら、彼は深々と礼をしたままの姿勢で動かない。
おそらく、表情は見えないが泣いているのだろう。
「ではこの件はグルジア殿以下の諸侯たちに任せる。各々方、異論があるのなら今の内に言っておけ。」
異論はなし。
すべての諸侯は無言で承認した。
それが諦めや傍観からの無言でないことは肌で感じることが出来る。
ノエルの方を覗き見ると、彼女は微笑んで「お見事」と唇を動かす。
コンコン……
「失礼します。」
扉をノックして、入ってきたのはアルフォンスだった。
鎧を脱ぎ、ゆったりとしたサリーなる着物を身に纏い、穏やかな表情を浮かべるアルフォンスに俺は心から安堵していた。
柄にもなく緊張していたらしい。
アルフォンスの顔を見れただけで、俺はホッとしていた。
「紅帝陛下、ご報告致します。」
いつものように龍雅と呼んでほしいと言ったのだが、アルフォンスは頑なだった。
『ケジメがありますから。』
そう言って、人前では俺のことを紅帝陛下と呼ぶのだ。
そのことを思い出すと、ついつい頬が緩む。
「報告とは?」
「殿(しんがり)の200名の兵。一兵も損なうことなく無事ヒンジュルディン城へと入城なさいました。さらに喜ばしいことに指揮しておりました軍師イチゴ様、レン様リン様の双子将軍も無事でございます。」
「戻ったか!よし、アルフォンス……、軍師殿と両将軍をこれへ…!」
アルフォンスがクスッと笑った。
余程俺の表情が面白かったのだろうか。
「相変わらず紅帝陛下は子供のように良いお顔をなさいますね。そう仰ると思いまして、お三方をこちらへお呼び致しております……が、その……、イチゴ様は少々汚れていまして…。後程のお掃除が大変になるかと…。」
「アルフォンス、そのことならば気にせずとも良い。私の…いや、城の召使いに任せれば、たちどころにどんな汚れでも落とせるぞ。」
気にするな、とノエルがアルフォンスに声をかける。
それでも不安そうな顔をするアルフォンスに、俺は安心するように言った。
「ノエルもこう言っている。ここはその言葉を信用して、イチゴたちを呼んでくれないか。それなりに褒賞を与えねばならないし、彼女らも戦い疲れただろう。早く入れてやってくれ。特に軍師殿のことだ。さっさと寝倒れたいに決まっている。休ませろと喚く前に呼んでくれ。」
「畏まりました。」
アルフォンスがそう言って、部屋を出ようとすると勢い良く扉が蹴り開けられた。
この帝都攻略の際にも乱暴に開けられた跡が生々しく残っている。
その内この扉、ぶっ壊れるんじゃないか?
「人が疲れておるっちゅーに、いつまで待たせるんじゃ、こんにゃろー!!」
……気が立っている。
予想以上に待たされキレている。
「アルフォンスの嬢ちゃんがちょっと待てって言うから待ってやったが、ワシを3分も待たせるとは偉くなったものよのぉ、たっちゃん!!」
「テメエには忍耐って言葉はねえのか!!」
3分待たされたくらいでキレるな。
入ってきたのはイチゴ。
全身血塗れで、まだ血が乾いていないらしく、ポタポタと床に落としまくっていた。
「そんなことより軍師殿!無事か!?」
「ん、あー…この血じゃな?安心せい、これ全部返り血じゃ。ワシは傷一つ追っておらんから大丈夫じゃ。そんなことよりさっさと恩賞を寄こすのじゃ。まず熱い風呂を沸かせ。風呂を沸かしたら3人程、選りすぐりの美少年をワシの従者として世話をさせるのじゃ。ワシもお疲れじゃからな、背中流させたりマッサージさせたり、性的な意味で御奉仕させるから、シクヨロなのじゃ。」
良かった、いつものイチゴだ。
自分の欲望にストレートないつものイチゴだ。
「わかった、すぐに風呂を用意しよう。それと一時金と24時間の休暇を与え…ん?」
エルフの双子将軍、リンとレンが小さくなって震えている。
何かブツブツ呟いていて、目線はイチゴを恐れているようにも思える。
「軍師殿、何があった?」
双子将軍の様子を尋ねると、イチゴは「しょうがないやつらめ」と溜息を吐く。
「何、久々に働くワシを見てビビっておるだけじゃ。ああ、それとたっちゃん。教会勢力のやつら、たぶん帝都に辿り着くのに4日くらいはかかるはずじゃから、それなりのお出迎えの準備は出来るはずじゃ。」
「………お前、一体何やった?」
余程面白いものを思い出したのか、イチゴはぷふっと頬を膨らませて笑う。
「なぁに……、ちょ〜〜〜っとだけ、やさしくやさしく撫でてやっただけじゃよ♪」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「怪我人を早く収容して!軽傷の者は、救護班と共に重傷の者を運ぶ手伝いを!」
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍は、クスコ川流域まで撤退していた。
一時的とは言え、神聖ルオゥム王国最終防衛ラインであるクスコ川を越え、敵地深くまで突き進んでいたはずだが、彼らは呻き声とすすり泣く声を漏らしながら、恥を忍んで大きく後退し、かつて帝国軍が使用していた陣まで撤退していた。
「上級大将閣下、ご報告致します。」
「ご苦労様です。被害状況をお願いします。」
連合軍上級騎兵大将ヒロ=ハイルもこの混乱を収拾すべく奔走していた。
本来、最高責任者たるユリアス大司教や、旧フウム王国国王のフィリップ王こそ、その任に就かねばならなかったのだが、一目散の大撤退という混乱の最中ユリアス大司教は急激なストレスと圧倒的な恐怖に襲われて高熱を発してしまい、フィリップ王や大司教に従う高僧たちは、大司教に付き添う形で現場を放棄してしまったのである。
これに多くの将兵が不満を露わにしたのだが、上級騎兵大将ヒロ=ハイルや沈黙の天使騎士団リトル=アロンダイトなど、次世代に名を残す若い将軍たちの手腕により、その不満が暴動に発展することなく収束へと向かっていた。
後世、悪逆勇者として名高いハインケル=ゼファーはこう語った。
『あの上層部への不満を利用することも考えたんだがな、さすがに俺も準備不足だったことを認めるぜ。突発的すぎて、利用するにしても材料が少なすぎて暴動まで発展させるには火種が少なすぎた。それよりあの女から言われていた次世代への種たちの名声を高めてやる方が得策のような気がして、敢えて静観してたって訳さ。何故今頃そんな話をしているかって。それが忘れることが出来ない、俺らしくもないミスだったって話さ。』
もしもこの時、ハインケルが無理矢理でも暴動を扇動していれば…。
彼らのすべてが死に絶えてしまった現在でも、歴史家やこの当時に思いを馳せる人々は、存在しなかった『もしも』の世界を議論し続けている。
だが、彼が示唆した通り、混乱を収束したことでヒロ=ハイル、リトル=アロンダイトなどの後世に名を残していく若者たちの名声は上がり、彼らの生涯に大きく影響を与えていくのであるが、それはまた別の話である。
「戦死者は666名。この混乱による行方不明者は150を超えました。重軽傷者を合わせると………、被害はおよそ1000以上と思われます。」
「たった一人の魔物に1000の犠牲ですか。」
報告を聞いてヒロは空を見上げた。
そして思い出す。
圧倒的有利な戦況が、たった一人のバフォメットに覆されたのである。
巨大な鎌による斬撃で次々と血の沼に沈んでいく同胞たち。
空からは矢が降り注ぎ、ヒロ自身も流れ矢を掠り負傷していた。
何より楽しそうに笑いながら同胞を斬り捨てるバフォメットに、連合軍は兵卒から王、大司教に至るまで恐怖に駆られて、みっともなく逃げ出したのである。
ヒロ=ハイルも自身の務めを果たすべく、イチゴに一騎討ちを申し込み、彼女の足止めをせんと試みたのだが、イチゴはヒロを相手にすることなく、ただアカンベーと舌を出して逃げる連合軍を追撃したのである。
結果、その猛追撃で連合軍は総崩れ。
せっかくの侵攻も台無しにし、クスコ川流域まで命辛々逃げてきたのである。
死者666名というのも、イチゴの作為であった。
本来ならもっと斬っても良かっただが、キリの良い数字になったことで、その数字の持つ不気味さで、未だ迷信の中に住むヴァルハリア兵に恐怖を与えようという狙いがあったのである。
実際に旧フウム王国残党への影響は少なかったものの、ヴァルハリア領民兵への効果は非常に高く、666名という犠牲に、
「帝国軍に魔王が味方したのだ。」
「いや、あの暴龍(ダオラ)からの報復なのだ。」
という根も葉もない噂話で持ちきりになり、凄まじい攻撃力と残虐性を併せ持つヴァルハリア領民兵は、根も葉もない噂によって完全に萎縮してしまったのである。
さらに幸運なことに天候は荒れ、雷が鳴り始めると、今度は連合軍全体が自分たちの幕舎に潜り込み、毛布を被って震えながら祈り続けるという現象に発展するのであった。
「で、大司教猊下の御容態は?」
「はっ、発熱も軽いようで、ただ今軽めのお食事をされているとのことです。」
そうですか、と言ってヒロは唇を噛んだ。
あなたは何故この状況で、悠長に食事など出来るのですか。
何故あなた方の理想のために死んでいった死者を悼むことが出来ないのですか。
ヒロの心の中は怒りに燃えていた。
静かな怒りを心に燃やして、ヒロはユリアス大司教たちへの不満を抱いたが、その直後に疑念や怒りを振り払うように、頭を振って努めて冷静になろうとした。
(何を馬鹿なことを考えたのか…。)
そう思うようにしたのだが、ヒロはあの言葉を反芻していた。
「民を守り、義と仁を以って友や部下に報いるは騎士の道に非ず…か…。」
「は、今何と仰られましたか?」
偶然鳴り響いた雷にヒロの声は掻き消され、兵士は何か命令されたと勘違いして聞き返す。
「いえ、何でもありません。引き続き死者の収容と行方不明者の捜索、及び負傷者への手当てなど問題は山積みですが、お願いします。おそらくフィリップ王のご性格ですから、2日と経たぬ内に進軍すると仰るに違いありません。今の内に兵士たちには十分な休養と食事を与えてください。」
「畏まりました!ではこれにて私も失礼致します!!」
「よろしくお願いします。」
ヒロの指示を受けて、兵士は足早にその場を後にした。
ヒロは溜息を吐くと、龍雅が彼に送った兵法書のページを捲る。
何も頭に入ってこないのだが、そのページを捲ることで心を静めようとした。
「ああ……、紅将軍…。あなたのせいだ。あなたがあのような呪いの言霊を吐くから、私は迷っているのです。どうすれば良いのです。どうすれば私は救われるのですか。どうすれば……。」
あなたに近付くことが出来るのですか。
そう呟くヒロ=ハイルの嘆きは雷鳴に掻き消されていく。
そこにはヴァルハリア騎士団長でもなく、鉄鋼騎兵団長や上級騎兵大将でもなく、まさに自らの大きな運命に翻弄される青年の、歳相応の素顔がそこにはあった。
恋にも似た慕情。
敵を尊敬してしまった不運。
青年ヒロ=ハイルの心を酌むように、冷たく激しい雨が降り始めていた。
『レユアの禅譲』という当時の辺境王朝国家において初の禅譲による即位、それも公的な身分は何一つない一介の武将が皇帝に即位したという歴史的譲位は、周辺国家にどれ程の衝撃を与えたか、それは最早語るまでもないであろう。
事実、ルオゥム戦役や辺境大戦終結30年後に、辺境地域に乱立する中立地帯や勢力の衰えを見せ始めた多くの国家において、龍雅や様々な英雄たちに影響を受けた人々が、彼の皇帝に即位した事実に倣い『帝国大乱立時代』と呼ばれる宗教と無用な古い慣習からの脱却を試みる時代が訪れるのであるが、それは後の世の話。
レユアの禅譲の後、渋々皇帝即位を受け入れた龍雅は、時間を惜しむように次々と新人事を発表し、再びコクトゥの民や帝国諸侯を驚かせる。
副帝・ノエル=ルオゥムに始まり、彼は帝国の重職にセラエノの者をほとんど就けることなく、多くは神聖ルオゥム帝国の人々を用いたのである。
ほとんどの要職は先帝のノエルが無駄なく就任させていた、ということも挙げられるが、彼はセラエノ君主・ロウガと同じように支配者になることを極端に嫌っていたようで、そういったことからセラエノの者が帝国の新たな人事の対象から外れたのではないかと歴史研究家は見ている。
だが、何より人々を驚かせたのは、その新たな人事に今回の学園都市セラエノ・神聖ルオゥム帝国同盟軍が勝利を捨ててまでクスコ川から撤退をしなければならなくなった原因を作った謀叛人たちを、何と一時的とは言え最重要職に就けたことであった。
一時的、というのは彼の公的には最初で最後の勅命に関連している。
紅龍雅が出した最初で最後の勅命、それは『遷都』であった。
「遷都、と申されますか!?」
帝都コクトゥにそびえるノエル…いや、ルオゥム家の居城ヒンジュルディン城の円卓の間。
集まった諸侯は一様に驚きを隠せず、グルジア殿は思わず席を立ち上がる程狼狽していた。
「その通りだ。これはノエルも了承済みではある。」
俺の右側の椅子に深く腰かけるノエルは微笑みかけ、ゆったりとした仕草で頷いた。
私に気を使う必要はない、と目が言っているが、昨日までの君主を無視するというのは、俺にも、そして彼らにもバツが悪いものである。
遷都に未だ納得を見せない諸侯らに、俺は遷都の必要性を説いた。
防衛に向かないこと。
他の都市とも離れすぎているため、補給や交易にも支障を来たすこと。
またこの戦を乗り切るためにも、セラエノと連携を取りやすくしたいこと。
「はっきり言えば、この地は決戦の地にあらず。地理的にも、帝都の防衛機能の低さから見ても、すべて敵に有利に働く。まぁ、万が一…、この地で戦闘が始まっても良いようにそれなりの準備を命じてはおくが、遷都でもせん限り生き残ることが出来ないということだけは覚えておいてほしい。という訳だ、グルジア殿。」
「は…はっ!」
グルジア殿が姿勢を正す。
呼ばれるはずがないと思っていたのか気を抜いていたようだったが、さすが謀叛を起こしてでも帝国を救おうとした気骨の士と言おうか。
一瞬で気合の入った良い顔になる。
「グルジア殿以下此度謀反人として汚名を被りし諸侯諸君に命じる。おことらが中心となりて次なる都に相応しき地を割り出し、明朝の軍議までに構想を練り上げよ。おことらが被りし汚名をこれにて晴らせ。恥じることなく、大胆に模索せよ。おことらは先帝ノエルと袂を分かってでも帝国を守らんとした、まさに士と呼ぶに相応しき者たちぞ。」
「…………!!」
グルジア殿が息を飲む。
「紅帝陛下…!必ずや…、必ずやご期待にお応え致します!!」
肩を震わせながら、彼は深々と礼をしたままの姿勢で動かない。
おそらく、表情は見えないが泣いているのだろう。
「ではこの件はグルジア殿以下の諸侯たちに任せる。各々方、異論があるのなら今の内に言っておけ。」
異論はなし。
すべての諸侯は無言で承認した。
それが諦めや傍観からの無言でないことは肌で感じることが出来る。
ノエルの方を覗き見ると、彼女は微笑んで「お見事」と唇を動かす。
コンコン……
「失礼します。」
扉をノックして、入ってきたのはアルフォンスだった。
鎧を脱ぎ、ゆったりとしたサリーなる着物を身に纏い、穏やかな表情を浮かべるアルフォンスに俺は心から安堵していた。
柄にもなく緊張していたらしい。
アルフォンスの顔を見れただけで、俺はホッとしていた。
「紅帝陛下、ご報告致します。」
いつものように龍雅と呼んでほしいと言ったのだが、アルフォンスは頑なだった。
『ケジメがありますから。』
そう言って、人前では俺のことを紅帝陛下と呼ぶのだ。
そのことを思い出すと、ついつい頬が緩む。
「報告とは?」
「殿(しんがり)の200名の兵。一兵も損なうことなく無事ヒンジュルディン城へと入城なさいました。さらに喜ばしいことに指揮しておりました軍師イチゴ様、レン様リン様の双子将軍も無事でございます。」
「戻ったか!よし、アルフォンス……、軍師殿と両将軍をこれへ…!」
アルフォンスがクスッと笑った。
余程俺の表情が面白かったのだろうか。
「相変わらず紅帝陛下は子供のように良いお顔をなさいますね。そう仰ると思いまして、お三方をこちらへお呼び致しております……が、その……、イチゴ様は少々汚れていまして…。後程のお掃除が大変になるかと…。」
「アルフォンス、そのことならば気にせずとも良い。私の…いや、城の召使いに任せれば、たちどころにどんな汚れでも落とせるぞ。」
気にするな、とノエルがアルフォンスに声をかける。
それでも不安そうな顔をするアルフォンスに、俺は安心するように言った。
「ノエルもこう言っている。ここはその言葉を信用して、イチゴたちを呼んでくれないか。それなりに褒賞を与えねばならないし、彼女らも戦い疲れただろう。早く入れてやってくれ。特に軍師殿のことだ。さっさと寝倒れたいに決まっている。休ませろと喚く前に呼んでくれ。」
「畏まりました。」
アルフォンスがそう言って、部屋を出ようとすると勢い良く扉が蹴り開けられた。
この帝都攻略の際にも乱暴に開けられた跡が生々しく残っている。
その内この扉、ぶっ壊れるんじゃないか?
「人が疲れておるっちゅーに、いつまで待たせるんじゃ、こんにゃろー!!」
……気が立っている。
予想以上に待たされキレている。
「アルフォンスの嬢ちゃんがちょっと待てって言うから待ってやったが、ワシを3分も待たせるとは偉くなったものよのぉ、たっちゃん!!」
「テメエには忍耐って言葉はねえのか!!」
3分待たされたくらいでキレるな。
入ってきたのはイチゴ。
全身血塗れで、まだ血が乾いていないらしく、ポタポタと床に落としまくっていた。
「そんなことより軍師殿!無事か!?」
「ん、あー…この血じゃな?安心せい、これ全部返り血じゃ。ワシは傷一つ追っておらんから大丈夫じゃ。そんなことよりさっさと恩賞を寄こすのじゃ。まず熱い風呂を沸かせ。風呂を沸かしたら3人程、選りすぐりの美少年をワシの従者として世話をさせるのじゃ。ワシもお疲れじゃからな、背中流させたりマッサージさせたり、性的な意味で御奉仕させるから、シクヨロなのじゃ。」
良かった、いつものイチゴだ。
自分の欲望にストレートないつものイチゴだ。
「わかった、すぐに風呂を用意しよう。それと一時金と24時間の休暇を与え…ん?」
エルフの双子将軍、リンとレンが小さくなって震えている。
何かブツブツ呟いていて、目線はイチゴを恐れているようにも思える。
「軍師殿、何があった?」
双子将軍の様子を尋ねると、イチゴは「しょうがないやつらめ」と溜息を吐く。
「何、久々に働くワシを見てビビっておるだけじゃ。ああ、それとたっちゃん。教会勢力のやつら、たぶん帝都に辿り着くのに4日くらいはかかるはずじゃから、それなりのお出迎えの準備は出来るはずじゃ。」
「………お前、一体何やった?」
余程面白いものを思い出したのか、イチゴはぷふっと頬を膨らませて笑う。
「なぁに……、ちょ〜〜〜っとだけ、やさしくやさしく撫でてやっただけじゃよ♪」
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「怪我人を早く収容して!軽傷の者は、救護班と共に重傷の者を運ぶ手伝いを!」
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍は、クスコ川流域まで撤退していた。
一時的とは言え、神聖ルオゥム王国最終防衛ラインであるクスコ川を越え、敵地深くまで突き進んでいたはずだが、彼らは呻き声とすすり泣く声を漏らしながら、恥を忍んで大きく後退し、かつて帝国軍が使用していた陣まで撤退していた。
「上級大将閣下、ご報告致します。」
「ご苦労様です。被害状況をお願いします。」
連合軍上級騎兵大将ヒロ=ハイルもこの混乱を収拾すべく奔走していた。
本来、最高責任者たるユリアス大司教や、旧フウム王国国王のフィリップ王こそ、その任に就かねばならなかったのだが、一目散の大撤退という混乱の最中ユリアス大司教は急激なストレスと圧倒的な恐怖に襲われて高熱を発してしまい、フィリップ王や大司教に従う高僧たちは、大司教に付き添う形で現場を放棄してしまったのである。
これに多くの将兵が不満を露わにしたのだが、上級騎兵大将ヒロ=ハイルや沈黙の天使騎士団リトル=アロンダイトなど、次世代に名を残す若い将軍たちの手腕により、その不満が暴動に発展することなく収束へと向かっていた。
後世、悪逆勇者として名高いハインケル=ゼファーはこう語った。
『あの上層部への不満を利用することも考えたんだがな、さすがに俺も準備不足だったことを認めるぜ。突発的すぎて、利用するにしても材料が少なすぎて暴動まで発展させるには火種が少なすぎた。それよりあの女から言われていた次世代への種たちの名声を高めてやる方が得策のような気がして、敢えて静観してたって訳さ。何故今頃そんな話をしているかって。それが忘れることが出来ない、俺らしくもないミスだったって話さ。』
もしもこの時、ハインケルが無理矢理でも暴動を扇動していれば…。
彼らのすべてが死に絶えてしまった現在でも、歴史家やこの当時に思いを馳せる人々は、存在しなかった『もしも』の世界を議論し続けている。
だが、彼が示唆した通り、混乱を収束したことでヒロ=ハイル、リトル=アロンダイトなどの後世に名を残していく若者たちの名声は上がり、彼らの生涯に大きく影響を与えていくのであるが、それはまた別の話である。
「戦死者は666名。この混乱による行方不明者は150を超えました。重軽傷者を合わせると………、被害はおよそ1000以上と思われます。」
「たった一人の魔物に1000の犠牲ですか。」
報告を聞いてヒロは空を見上げた。
そして思い出す。
圧倒的有利な戦況が、たった一人のバフォメットに覆されたのである。
巨大な鎌による斬撃で次々と血の沼に沈んでいく同胞たち。
空からは矢が降り注ぎ、ヒロ自身も流れ矢を掠り負傷していた。
何より楽しそうに笑いながら同胞を斬り捨てるバフォメットに、連合軍は兵卒から王、大司教に至るまで恐怖に駆られて、みっともなく逃げ出したのである。
ヒロ=ハイルも自身の務めを果たすべく、イチゴに一騎討ちを申し込み、彼女の足止めをせんと試みたのだが、イチゴはヒロを相手にすることなく、ただアカンベーと舌を出して逃げる連合軍を追撃したのである。
結果、その猛追撃で連合軍は総崩れ。
せっかくの侵攻も台無しにし、クスコ川流域まで命辛々逃げてきたのである。
死者666名というのも、イチゴの作為であった。
本来ならもっと斬っても良かっただが、キリの良い数字になったことで、その数字の持つ不気味さで、未だ迷信の中に住むヴァルハリア兵に恐怖を与えようという狙いがあったのである。
実際に旧フウム王国残党への影響は少なかったものの、ヴァルハリア領民兵への効果は非常に高く、666名という犠牲に、
「帝国軍に魔王が味方したのだ。」
「いや、あの暴龍(ダオラ)からの報復なのだ。」
という根も葉もない噂話で持ちきりになり、凄まじい攻撃力と残虐性を併せ持つヴァルハリア領民兵は、根も葉もない噂によって完全に萎縮してしまったのである。
さらに幸運なことに天候は荒れ、雷が鳴り始めると、今度は連合軍全体が自分たちの幕舎に潜り込み、毛布を被って震えながら祈り続けるという現象に発展するのであった。
「で、大司教猊下の御容態は?」
「はっ、発熱も軽いようで、ただ今軽めのお食事をされているとのことです。」
そうですか、と言ってヒロは唇を噛んだ。
あなたは何故この状況で、悠長に食事など出来るのですか。
何故あなた方の理想のために死んでいった死者を悼むことが出来ないのですか。
ヒロの心の中は怒りに燃えていた。
静かな怒りを心に燃やして、ヒロはユリアス大司教たちへの不満を抱いたが、その直後に疑念や怒りを振り払うように、頭を振って努めて冷静になろうとした。
(何を馬鹿なことを考えたのか…。)
そう思うようにしたのだが、ヒロはあの言葉を反芻していた。
「民を守り、義と仁を以って友や部下に報いるは騎士の道に非ず…か…。」
「は、今何と仰られましたか?」
偶然鳴り響いた雷にヒロの声は掻き消され、兵士は何か命令されたと勘違いして聞き返す。
「いえ、何でもありません。引き続き死者の収容と行方不明者の捜索、及び負傷者への手当てなど問題は山積みですが、お願いします。おそらくフィリップ王のご性格ですから、2日と経たぬ内に進軍すると仰るに違いありません。今の内に兵士たちには十分な休養と食事を与えてください。」
「畏まりました!ではこれにて私も失礼致します!!」
「よろしくお願いします。」
ヒロの指示を受けて、兵士は足早にその場を後にした。
ヒロは溜息を吐くと、龍雅が彼に送った兵法書のページを捲る。
何も頭に入ってこないのだが、そのページを捲ることで心を静めようとした。
「ああ……、紅将軍…。あなたのせいだ。あなたがあのような呪いの言霊を吐くから、私は迷っているのです。どうすれば良いのです。どうすれば私は救われるのですか。どうすれば……。」
あなたに近付くことが出来るのですか。
そう呟くヒロ=ハイルの嘆きは雷鳴に掻き消されていく。
そこにはヴァルハリア騎士団長でもなく、鉄鋼騎兵団長や上級騎兵大将でもなく、まさに自らの大きな運命に翻弄される青年の、歳相応の素顔がそこにはあった。
恋にも似た慕情。
敵を尊敬してしまった不運。
青年ヒロ=ハイルの心を酌むように、冷たく激しい雨が降り始めていた。
11/08/10 17:19更新 / 宿利京祐
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