第百八話・偽神暗忌
「ヒロ将軍、進軍速度を落としてください!このままでは後続が、追い付けません!」
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍、ヒロ=ハイル率いる鉄鋼騎兵団が大地を翔ける。
土煙を上げながら、鉄鋼騎兵団と彼に従う多くの騎兵は、時には道なき道を、時には荒野を、ヴァルハリア教会大司教ユリアスと旧フウム王国国王フィリップ率いる本隊から離れて、敵とされた神聖ルオゥム帝国帝都コクトゥに向けて進軍していた。
「構いません。進軍速度をこのままに。脱落者を待つ必要はありません。今は一刻も早く帝都コクトゥを目指してください。兵は神速を尊ぶ、その金言通りです。この戦は、一瞬たりとも無駄にしてはいけません。進軍!」
ヒロ=ハイルの用兵は、鮮やかにして苛烈であったと後世に残されている。
それまで機能らしい機能もしていなかった騎兵たちを見事に纏め上げ、連合軍上層部には不可能な行軍速度で、今まさに帝都コクトゥに迫っていたのではあるが、この異常な行軍速度に付いて来れない未熟な騎兵は次々に脱落し、集団の最後尾から散り散りに消えていくのである。
「ヒロ将軍、帝都までの道程はまだ長うございます!どうかここは兵たちに休息を…!このままではフィリップ王や大司教猊下からお預かりした1000の騎兵が、帝都に辿り着くまでに7割も残れば良い方に…!」
ヒロは部下の進言に首を振った。
「この兵力で帝都を陥落することは不可能です。しかし、この進軍は一刻も早く帝都に辿り着くことに意味があるのです。我々が彼らの予想よりも早く辿り着けば、それだけで兵はともかく民の群れが崩れるのです。そうなれば…。」
最早戦にはならない、とヒロは振り返らずに言った。
帝都を捨てて逃げる民の群れが崩れた時、セラエノ軍も帝国軍も事態を収拾することに努めなければならず、そうなってしまえば連合軍を防ぎ切ることは出来ず、全員討ち死に、もしくは降伏という選択肢しか残されないのである。
だから、ヒロは急ぐのだが、その口調にはどこか焦りがあった。
「降伏させなければいけない。」
「何故ですか、何故ヒロ将軍はあの連中に拘るのですか!?あんな魔物どもと共にある堕落した者どもは皆殺しになって然るべきではありませんか!」
部下の叫ぶ声をヒロは無視した。
ヒロが焦るのには理由があった。
この速すぎる行軍の理由を、この当時の諸将は『出世に目が眩んでいた』や『戦利品を独り占めしたかったのでは』という憶測を自身の日記や親しい者への手紙に残しているのだが、真実は違った。
『あんなものを……認めてはならなかった…。』
老齢に達した頃、ヒロ=ハイルはこう漏らした。
ヒロの呼ぶ『あんなもの』。
それはヴァルハリア教会大司教ユリアスが『神』と呼んだ者。
その正体をヒロが知った時、その憤りは尋常ではなかった。
「認めるものか……!あんなものが…神であってたまるか…!!」
ヒロは誰にも聞こえないくらいの声で吐き捨てた。
馬蹄の音が地響きの如く鳴り響く。
行軍指揮を任されたのではない。
珍しく、ヒロは軍議で総司令官であるフィリップに食って掛かって、無理矢理行軍指揮を奪い取ったようなものなのである。
『アレ』が帝都に辿り着いたら。
『アレ』がもしも紅龍雅に追い付いてしまったら。
そう思うと、居ても経ってもいられなくなったヒロは、軍議の席でフィリップ王と争ってまで行軍の指揮を、騎兵の指揮権だけを奪い取り、こうして大地を駆け抜けるのである。
「死なせてはいけない…!あの人を…、あの人たちを絶対に死なせてはいけない…!」
降伏してほしい、とヒロは願った。
降伏してほしい、と願った対象は紅龍雅だけではない。
彼を慕う魔物たちやその部下までも考えていた。
「出来るはずだ…!あの人たちが……あの人たちがこの教会に来てくれたなら、きっと立て直せるんだ…!例え、滅んでも構わないと考えた私の故郷でも…、こんな不毛地帯になってしまった私たちのヴァルハリアを、きっと…今よりもずっと良い方向に導いてくれるはずなんだ…。活気に溢れるような、愛すべき故郷に…!だから、降伏してください…!どうか…、どうか……間に合えぇぇぇぇーっ!!!」
ヒロは馬の腹を蹴って、さらに速度を上げる。
それに伴い、彼を追って騎兵たちも速度を上げ、後方の未熟な者たちは、どんどん崩れていく。
後世、『疾風』という二つ名を以ってヒロ=ハイルは名を残す。
しかしそれは華々しい言葉と裏腹に、彼にとって最も悲痛な結果が生んだ名声であった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
後世、旧フウム王国国王フィリップは多くの史記において、『器の小さい人物』、『非常に嫉妬深く、部下の成功も許せない人物』などネガティブなイメージを連想させる文言が、何故か共通して残されている。
その中でも、もっとも彼を捉える言葉として有名なのが、『大局的に物事を見る目を持っていない』というものである。
これにはルオゥム戦役全般に渡る失態の数々、さらに先のクゥジュロ草原における戦略のなさが原因なのであるが、元々彼自身がその場凌ぎの政策や戦略しか立てられない人物である、ということが挙げられる。
しかし、それは大きな欠点ではあるが、別の視点から見れば大きな武器である。
それは『大局的な戦略眼はないが、刹那的な戦略眼は目を見張るものがある』ということ。
その刹那的な戦略眼が、まさかこの戦争を決定付けるとは、自信過剰の本人はともかく、案外連合軍の上層部はおろか兵卒に至るまで、誰一人想像し得なかったであろう。
深夜、軍議を終えた私・フィリップは、自身の帷幕の中で寛いでいた。
ヒロ=ハイルの暴挙暴言に腹を立てはしたものの、よくよく考えてみればヒロ如き若輩者に時勢の何たるかや、正義の何たるかが理解出来るはずがなかったのだという考えに至り、自らの大人気なさを少々反省していた。
だが、このような煩わしさも今宵で終わりよ。
堪え切れない心地良い笑い声を上げながら、私はブランデーのグラスを傾けた。
そういえば、勇者殿が体調を崩したとかで軍議には出席しておられなかったな…。
今は参謀として我が部下ではあるが、ハインケル殿は格だけで言えば私より上。
勇者殿に万が一のことがあってはならない。
よし、後で部下の誰かに薬を持たせて見舞おう。
「フィリップ閣下、お召しで御座いましょうか。」
「おお、ストラティオ将軍。待ち侘びたぞ。」
私の帷幕の中に入ってきたのは、長身の甲冑姿の男。
名をストラティオ=アスヒモと言う。
我がフウム王国において、『武のパブロフ』と双璧を成す『智のストラティオ』としてその名を知られた者で、今はハインケル殿の素晴らしい智略の影には隠れてはいるものの、今尚我が信頼が揺るがぬ名将である。
私はストラティオにブランデーを勧め、椅子に腰掛けるように促した。
「ストラティオ、あの小僧はどうした。」
小僧、とはヒロ=ハイルのことである。
「はっ、先程1000騎の兵を伴って先発致しました。手筈通り、後詰めにオトフリートが後1時間もすれば500騎で出ます。あの小僧の副将にはグリエルモを就けておりますので、フィリップ閣下の思惑通りに事が運ぶと思います。」
「うむ、うむ。」
気分が良い報告だった。
そろそろヒロ=ハイルが目障りだった。
聞けばあの男、教会騎士団ではあったが、その生まれは卑しい身分の者。
そんな者が不当な手柄を挙げ、この生まれながらにしての王や貴族である私たちに、不当な身分を得たからと思い上がって意見するなど、まさに天に唾を吐くが如き不遜。
「フィリップ閣下の御智略にはこのストラティオ、感嘆の溜息が出る思いで御座います。かの小僧、おそらくは臆病風に吹かれて奸賊らめを降伏させる腹積もりで御座いましょう。我々こそが、この地上で唯一絶対の正義の法の執行者。奸賊らめを生かしておく道理はありませんが、その正義の軍団の先鋒となる者が、そのような腰抜けでは、フィリップ様や大司教猊下の御威光に傷が付いてしまいましょう。」
「その通りである。私や大司教猊下の御名に傷が付くということは、言い変えれば神の威光に傷が付くことと同様である。」
「そしてそれを憂う閣下は一計を案じなされた。……ヒロ=ハイルに不審な動きあらば、直ちに誅殺せよ。すでにグリエルモに命じて、腕の立つ者を潜り込ませてはおります。まこと、フィリップ閣下の素晴らしき秘策、我ら貴族、教主様高僧方の胸の内晴るる思いで御座います。」
そう、私はヒロ=ハイルに不審な動きあらば、直ちに誅殺せよと命じた。
そう、『不審な動き』あらばだ。
何を以って『不審な動き』とするかは、私の裁量一つである。
例え不審な動きなどなくても構わない。
何故なら、誅殺の理由などいくらでも作れるのだから。
「ふふふ、これで、あの小僧もお終いでしょうな。」
「その通りだが、若造だけではない。これにて賊軍も神敵もお終いよ。ストラティオ、この作戦の詰めとなる策を成し遂げてもらいたい。」
何なりと、とストラティオは胸に手の平を置き、片膝を突いた。
「ストラティオ、お前には別行動を取ってもらいたい。何、簡単だ。お前には簡単すぎて物足りないくらいの策を実行してもらいたいのだよ。我々本隊はこのままゆったりとした速度で、周辺地域に威厳と本来あるべき秩序を思い出させ、その勢いのまま悪徳の都コクトゥに雪崩れ込む。お前には別働隊を率いて、愚かにも神への忠誠を忘れた虫ケラの群れを滅ぼしてもらいたい。そう、自分たちが神に逆らったのを後悔しながら死んでいくように。」
「ほほぉ、死の間際に神への信仰を思い出させようとは……。お優しいフィリップ閣下、このストラティオ=アスヒモ、謹んで拝命致します。見事閣下の御意思に沿える様、一人残らず討ち果たしてご覧にいれましょう。」
「では、襲撃地点はお前に任せよう。私は、『アレ』の檻を解く。」
残ったブランデーを飲み干し、私は帷幕の明かりを消す。
この明かりのように、賊どもの命も、あの卑しい若造の命も消えるのだ。
そう考えるだけで、私の心は躍るのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
思い出すのは、見開いたままの目で睨み付けた病院の天井。
身動き一つ出来ない。
顎を破壊されて言葉を発することも出来ない。
首の骨を破壊されて、指一つ動かなくなった身体。
『生きていることが奇跡だ。』
誰が言ったのか、もう思い出せない。
だが、そんな奇跡など惨め以外の何でもなかった。
国に戻っても、廃人同様の俺に生きる場所なんてなかった。
暗い地下室。
じめじめとした光も届かぬ地下室。
食事もろくに与えられず、
糞尿を垂れ流し、
騎士であった頃とは天と地の差がある待遇。
だが、俺はあいつに壊されて、言葉すら発することも出来ない。
憎しみだけが募っていった。
憎しみだけが俺を支え続けていた。
許さない。
あいつだけは……
あいつだけは殺してやる…
『神にすべてを捧げないか?』
その言葉が、俺にとっての光だった。
『正しい世界を取り戻す。そのために、お前という犠牲が必要だ。』
恨みを晴らせるのか。
この身を焦がす憎しみを晴らせるのか。
『晴らせるとも。私たちの目的は神敵の討伐も含まれている。』
ならば捧げよう。
ならばすべてを捧げよう。
この憎しみを晴らさねば、死んでも死に切れない。
『では、お前はこれより神と一心同体になる。我々が甦らせた神には、哀れなることに、魂の入れ物と言うべき脳がなかった。脳がなければ魂が宿らず、せっかく甦った神も失敗作として破棄しなければならない。だが、もう時間がない。大司教猊下の勅命の期限が迫っているのだ。さぁ、辱められし者よ。再びお前に騎士の称号を授けよう。』
称号などいらぬ。
称号などであいつは殺せぬ!
殺してやる。
あいつも、
魔物も、
あいつが守ろうとするすべてを殺してやる!
『さぁ、余計な部分を切り離してやろう。内臓はいらない。お前の内臓は、これから神の内臓と同化するのだ。腕もいらぬ。そのような脆弱な腕では神に相応しくない。口も目も鼻も耳もいらぬ。すべて神がお前を満たしてくれるだろう。』
悲鳴すら出せぬ痛みだけを覚えている。
この耳が最後に聞いた音は、激痛と共に骨を鋸で断つ音。
この目が最後に見たのは、切り離された俺の四肢。
この鼻が最後に感じたのは、掻き出された臓物から放たれる吐き気を催す悪臭。
この口が最後に感じた味は、食い縛って砕けた歯の中から滲む血の味。
俺は忘れない。
この痛みを味あわせた男のことを。
貴様にも、味あわせてやる。
殺してやる……
殺してやるぞ……
ロウガ………!
「檻を外したぞ…!さぁ、この世界を正常に戻すのだ……オルファン!!」
フィリップ王の声に呼応するように、封印の解かれた幕舎から、弾かれるように姿を現すそれは、帷幕から出て初めて見る夜空に、低く、この世の者とは思えない耳障りな遠吠えを挙げた。
その姿は、筋肉のみで更生された丸い姿をした白い蛙。
その蛙の頭の上には、人の上半身が癒着したかのように不気味に乗っている。
いっそ、刺々しい外見であれば恐ろしくなかった。
いっそ、恐ろしい牙が生えていた方が恐ろしくなかった。
そう描写される怪物は、不気味な生々しい存在感を示した。
ハインケルの部下、クロコが恐れた恐怖が解き放たれたのである。
偽神オルファン。
その正体は、ロウガによって再起不能にされたフウム王国騎士オルファンが、憎しみに身を焦がし、人間を捨てることで、人間らしい原始的な狂気を手に入れた姿である。
神への信仰を忘れた化け物は、ロウガへの憎しみだけで暗愚なる王に従う。
最後の狂気が、目を覚ました瞬間であった。
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍、ヒロ=ハイル率いる鉄鋼騎兵団が大地を翔ける。
土煙を上げながら、鉄鋼騎兵団と彼に従う多くの騎兵は、時には道なき道を、時には荒野を、ヴァルハリア教会大司教ユリアスと旧フウム王国国王フィリップ率いる本隊から離れて、敵とされた神聖ルオゥム帝国帝都コクトゥに向けて進軍していた。
「構いません。進軍速度をこのままに。脱落者を待つ必要はありません。今は一刻も早く帝都コクトゥを目指してください。兵は神速を尊ぶ、その金言通りです。この戦は、一瞬たりとも無駄にしてはいけません。進軍!」
ヒロ=ハイルの用兵は、鮮やかにして苛烈であったと後世に残されている。
それまで機能らしい機能もしていなかった騎兵たちを見事に纏め上げ、連合軍上層部には不可能な行軍速度で、今まさに帝都コクトゥに迫っていたのではあるが、この異常な行軍速度に付いて来れない未熟な騎兵は次々に脱落し、集団の最後尾から散り散りに消えていくのである。
「ヒロ将軍、帝都までの道程はまだ長うございます!どうかここは兵たちに休息を…!このままではフィリップ王や大司教猊下からお預かりした1000の騎兵が、帝都に辿り着くまでに7割も残れば良い方に…!」
ヒロは部下の進言に首を振った。
「この兵力で帝都を陥落することは不可能です。しかし、この進軍は一刻も早く帝都に辿り着くことに意味があるのです。我々が彼らの予想よりも早く辿り着けば、それだけで兵はともかく民の群れが崩れるのです。そうなれば…。」
最早戦にはならない、とヒロは振り返らずに言った。
帝都を捨てて逃げる民の群れが崩れた時、セラエノ軍も帝国軍も事態を収拾することに努めなければならず、そうなってしまえば連合軍を防ぎ切ることは出来ず、全員討ち死に、もしくは降伏という選択肢しか残されないのである。
だから、ヒロは急ぐのだが、その口調にはどこか焦りがあった。
「降伏させなければいけない。」
「何故ですか、何故ヒロ将軍はあの連中に拘るのですか!?あんな魔物どもと共にある堕落した者どもは皆殺しになって然るべきではありませんか!」
部下の叫ぶ声をヒロは無視した。
ヒロが焦るのには理由があった。
この速すぎる行軍の理由を、この当時の諸将は『出世に目が眩んでいた』や『戦利品を独り占めしたかったのでは』という憶測を自身の日記や親しい者への手紙に残しているのだが、真実は違った。
『あんなものを……認めてはならなかった…。』
老齢に達した頃、ヒロ=ハイルはこう漏らした。
ヒロの呼ぶ『あんなもの』。
それはヴァルハリア教会大司教ユリアスが『神』と呼んだ者。
その正体をヒロが知った時、その憤りは尋常ではなかった。
「認めるものか……!あんなものが…神であってたまるか…!!」
ヒロは誰にも聞こえないくらいの声で吐き捨てた。
馬蹄の音が地響きの如く鳴り響く。
行軍指揮を任されたのではない。
珍しく、ヒロは軍議で総司令官であるフィリップに食って掛かって、無理矢理行軍指揮を奪い取ったようなものなのである。
『アレ』が帝都に辿り着いたら。
『アレ』がもしも紅龍雅に追い付いてしまったら。
そう思うと、居ても経ってもいられなくなったヒロは、軍議の席でフィリップ王と争ってまで行軍の指揮を、騎兵の指揮権だけを奪い取り、こうして大地を駆け抜けるのである。
「死なせてはいけない…!あの人を…、あの人たちを絶対に死なせてはいけない…!」
降伏してほしい、とヒロは願った。
降伏してほしい、と願った対象は紅龍雅だけではない。
彼を慕う魔物たちやその部下までも考えていた。
「出来るはずだ…!あの人たちが……あの人たちがこの教会に来てくれたなら、きっと立て直せるんだ…!例え、滅んでも構わないと考えた私の故郷でも…、こんな不毛地帯になってしまった私たちのヴァルハリアを、きっと…今よりもずっと良い方向に導いてくれるはずなんだ…。活気に溢れるような、愛すべき故郷に…!だから、降伏してください…!どうか…、どうか……間に合えぇぇぇぇーっ!!!」
ヒロは馬の腹を蹴って、さらに速度を上げる。
それに伴い、彼を追って騎兵たちも速度を上げ、後方の未熟な者たちは、どんどん崩れていく。
後世、『疾風』という二つ名を以ってヒロ=ハイルは名を残す。
しかしそれは華々しい言葉と裏腹に、彼にとって最も悲痛な結果が生んだ名声であった。
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後世、旧フウム王国国王フィリップは多くの史記において、『器の小さい人物』、『非常に嫉妬深く、部下の成功も許せない人物』などネガティブなイメージを連想させる文言が、何故か共通して残されている。
その中でも、もっとも彼を捉える言葉として有名なのが、『大局的に物事を見る目を持っていない』というものである。
これにはルオゥム戦役全般に渡る失態の数々、さらに先のクゥジュロ草原における戦略のなさが原因なのであるが、元々彼自身がその場凌ぎの政策や戦略しか立てられない人物である、ということが挙げられる。
しかし、それは大きな欠点ではあるが、別の視点から見れば大きな武器である。
それは『大局的な戦略眼はないが、刹那的な戦略眼は目を見張るものがある』ということ。
その刹那的な戦略眼が、まさかこの戦争を決定付けるとは、自信過剰の本人はともかく、案外連合軍の上層部はおろか兵卒に至るまで、誰一人想像し得なかったであろう。
深夜、軍議を終えた私・フィリップは、自身の帷幕の中で寛いでいた。
ヒロ=ハイルの暴挙暴言に腹を立てはしたものの、よくよく考えてみればヒロ如き若輩者に時勢の何たるかや、正義の何たるかが理解出来るはずがなかったのだという考えに至り、自らの大人気なさを少々反省していた。
だが、このような煩わしさも今宵で終わりよ。
堪え切れない心地良い笑い声を上げながら、私はブランデーのグラスを傾けた。
そういえば、勇者殿が体調を崩したとかで軍議には出席しておられなかったな…。
今は参謀として我が部下ではあるが、ハインケル殿は格だけで言えば私より上。
勇者殿に万が一のことがあってはならない。
よし、後で部下の誰かに薬を持たせて見舞おう。
「フィリップ閣下、お召しで御座いましょうか。」
「おお、ストラティオ将軍。待ち侘びたぞ。」
私の帷幕の中に入ってきたのは、長身の甲冑姿の男。
名をストラティオ=アスヒモと言う。
我がフウム王国において、『武のパブロフ』と双璧を成す『智のストラティオ』としてその名を知られた者で、今はハインケル殿の素晴らしい智略の影には隠れてはいるものの、今尚我が信頼が揺るがぬ名将である。
私はストラティオにブランデーを勧め、椅子に腰掛けるように促した。
「ストラティオ、あの小僧はどうした。」
小僧、とはヒロ=ハイルのことである。
「はっ、先程1000騎の兵を伴って先発致しました。手筈通り、後詰めにオトフリートが後1時間もすれば500騎で出ます。あの小僧の副将にはグリエルモを就けておりますので、フィリップ閣下の思惑通りに事が運ぶと思います。」
「うむ、うむ。」
気分が良い報告だった。
そろそろヒロ=ハイルが目障りだった。
聞けばあの男、教会騎士団ではあったが、その生まれは卑しい身分の者。
そんな者が不当な手柄を挙げ、この生まれながらにしての王や貴族である私たちに、不当な身分を得たからと思い上がって意見するなど、まさに天に唾を吐くが如き不遜。
「フィリップ閣下の御智略にはこのストラティオ、感嘆の溜息が出る思いで御座います。かの小僧、おそらくは臆病風に吹かれて奸賊らめを降伏させる腹積もりで御座いましょう。我々こそが、この地上で唯一絶対の正義の法の執行者。奸賊らめを生かしておく道理はありませんが、その正義の軍団の先鋒となる者が、そのような腰抜けでは、フィリップ様や大司教猊下の御威光に傷が付いてしまいましょう。」
「その通りである。私や大司教猊下の御名に傷が付くということは、言い変えれば神の威光に傷が付くことと同様である。」
「そしてそれを憂う閣下は一計を案じなされた。……ヒロ=ハイルに不審な動きあらば、直ちに誅殺せよ。すでにグリエルモに命じて、腕の立つ者を潜り込ませてはおります。まこと、フィリップ閣下の素晴らしき秘策、我ら貴族、教主様高僧方の胸の内晴るる思いで御座います。」
そう、私はヒロ=ハイルに不審な動きあらば、直ちに誅殺せよと命じた。
そう、『不審な動き』あらばだ。
何を以って『不審な動き』とするかは、私の裁量一つである。
例え不審な動きなどなくても構わない。
何故なら、誅殺の理由などいくらでも作れるのだから。
「ふふふ、これで、あの小僧もお終いでしょうな。」
「その通りだが、若造だけではない。これにて賊軍も神敵もお終いよ。ストラティオ、この作戦の詰めとなる策を成し遂げてもらいたい。」
何なりと、とストラティオは胸に手の平を置き、片膝を突いた。
「ストラティオ、お前には別行動を取ってもらいたい。何、簡単だ。お前には簡単すぎて物足りないくらいの策を実行してもらいたいのだよ。我々本隊はこのままゆったりとした速度で、周辺地域に威厳と本来あるべき秩序を思い出させ、その勢いのまま悪徳の都コクトゥに雪崩れ込む。お前には別働隊を率いて、愚かにも神への忠誠を忘れた虫ケラの群れを滅ぼしてもらいたい。そう、自分たちが神に逆らったのを後悔しながら死んでいくように。」
「ほほぉ、死の間際に神への信仰を思い出させようとは……。お優しいフィリップ閣下、このストラティオ=アスヒモ、謹んで拝命致します。見事閣下の御意思に沿える様、一人残らず討ち果たしてご覧にいれましょう。」
「では、襲撃地点はお前に任せよう。私は、『アレ』の檻を解く。」
残ったブランデーを飲み干し、私は帷幕の明かりを消す。
この明かりのように、賊どもの命も、あの卑しい若造の命も消えるのだ。
そう考えるだけで、私の心は躍るのであった。
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思い出すのは、見開いたままの目で睨み付けた病院の天井。
身動き一つ出来ない。
顎を破壊されて言葉を発することも出来ない。
首の骨を破壊されて、指一つ動かなくなった身体。
『生きていることが奇跡だ。』
誰が言ったのか、もう思い出せない。
だが、そんな奇跡など惨め以外の何でもなかった。
国に戻っても、廃人同様の俺に生きる場所なんてなかった。
暗い地下室。
じめじめとした光も届かぬ地下室。
食事もろくに与えられず、
糞尿を垂れ流し、
騎士であった頃とは天と地の差がある待遇。
だが、俺はあいつに壊されて、言葉すら発することも出来ない。
憎しみだけが募っていった。
憎しみだけが俺を支え続けていた。
許さない。
あいつだけは……
あいつだけは殺してやる…
『神にすべてを捧げないか?』
その言葉が、俺にとっての光だった。
『正しい世界を取り戻す。そのために、お前という犠牲が必要だ。』
恨みを晴らせるのか。
この身を焦がす憎しみを晴らせるのか。
『晴らせるとも。私たちの目的は神敵の討伐も含まれている。』
ならば捧げよう。
ならばすべてを捧げよう。
この憎しみを晴らさねば、死んでも死に切れない。
『では、お前はこれより神と一心同体になる。我々が甦らせた神には、哀れなることに、魂の入れ物と言うべき脳がなかった。脳がなければ魂が宿らず、せっかく甦った神も失敗作として破棄しなければならない。だが、もう時間がない。大司教猊下の勅命の期限が迫っているのだ。さぁ、辱められし者よ。再びお前に騎士の称号を授けよう。』
称号などいらぬ。
称号などであいつは殺せぬ!
殺してやる。
あいつも、
魔物も、
あいつが守ろうとするすべてを殺してやる!
『さぁ、余計な部分を切り離してやろう。内臓はいらない。お前の内臓は、これから神の内臓と同化するのだ。腕もいらぬ。そのような脆弱な腕では神に相応しくない。口も目も鼻も耳もいらぬ。すべて神がお前を満たしてくれるだろう。』
悲鳴すら出せぬ痛みだけを覚えている。
この耳が最後に聞いた音は、激痛と共に骨を鋸で断つ音。
この目が最後に見たのは、切り離された俺の四肢。
この鼻が最後に感じたのは、掻き出された臓物から放たれる吐き気を催す悪臭。
この口が最後に感じた味は、食い縛って砕けた歯の中から滲む血の味。
俺は忘れない。
この痛みを味あわせた男のことを。
貴様にも、味あわせてやる。
殺してやる……
殺してやるぞ……
ロウガ………!
「檻を外したぞ…!さぁ、この世界を正常に戻すのだ……オルファン!!」
フィリップ王の声に呼応するように、封印の解かれた幕舎から、弾かれるように姿を現すそれは、帷幕から出て初めて見る夜空に、低く、この世の者とは思えない耳障りな遠吠えを挙げた。
その姿は、筋肉のみで更生された丸い姿をした白い蛙。
その蛙の頭の上には、人の上半身が癒着したかのように不気味に乗っている。
いっそ、刺々しい外見であれば恐ろしくなかった。
いっそ、恐ろしい牙が生えていた方が恐ろしくなかった。
そう描写される怪物は、不気味な生々しい存在感を示した。
ハインケルの部下、クロコが恐れた恐怖が解き放たれたのである。
偽神オルファン。
その正体は、ロウガによって再起不能にされたフウム王国騎士オルファンが、憎しみに身を焦がし、人間を捨てることで、人間らしい原始的な狂気を手に入れた姿である。
神への信仰を忘れた化け物は、ロウガへの憎しみだけで暗愚なる王に従う。
最後の狂気が、目を覚ました瞬間であった。
13/05/06 21:46更新 / 宿利京祐
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