第百話・紅蓮の救世主【メシア】後編
それはそれは奇妙な光景。
怒り心頭の老人はその荒ぶる感情のままに剣を抜き放ち、
静かな怒りを腹底に静めた青年は非武装のまま立ち塞がる。
老人の背後には狼狽する兵士と力なき民。
青年の背後にはただ死を待ち、縄を打たれた罪人たち。
相容れぬ主義主張。
相容れぬ感情。
譲れぬ者たちのぶつかり合い。
時間を少しだけ戻そう。
それはノエル帝が帝都入城を果たす少し前。
ノエル帝に先んじて、彼女の大叔父であるリヒャルト=ルオゥム老人が帝都の治安と秩序を回復するという名目の下、完全武装をした一隊を率いて先発隊として入城した。
それを見て何か不安を感じたのか、それとも継続し続けた戦闘の緊張感が感じ取ったのか。
同盟軍総司令官・紅龍雅はただ一人、入城に備えて直垂(ひたたれ)に烏帽子という正装に着替えていたのだが、着替えもそこそこに太刀も持たずに馬に跨ると、彼の補佐役であるサイガにノエル帝やアルフォンスにリヒャルトと共に先に入城する旨の伝言を頼むと大急ぎで老人の後を追った。
龍雅の不安は的中していた。
リヒャルト老人は直属の兵を用いて、この度の謀叛に参加した貴族のみならず、秘密裏に貴族の事情を知らずに兵を指揮していた100人隊長級の階級にあった者まで逮捕し、処刑を待つ謀叛貴族やその一族に紛れ込ませていた。
老人の本来の計画であったなら、兵卒やその一族まで根絶やしにする気でいた。
だが数があまりに多く、秘密裏に逮捕するには時間が足りなかったということで100人隊長級のおよそ20名を猿ぐつわで喋れぬように口を塞ぎ、処刑される謀叛貴族たちと共に葬り去られようとしていた。
ノエル帝の指示したことではない。
これは傷付けられたプライドに対するリヒャルト老人の個人的な報復である。
龍雅は単騎入城するとすぐ、おかしな動きをしている兵士を捕まえて問い詰めたのだが、彼らは意外な程何の抵抗もなく白状したのであった。
老人の直属の兵であるにも関わらず、老人の行動に疑問を持っていた。
彼らは口を揃えて言った。
「お話のわかる陛下でしたらいざ知らず、リヒャルト公はお怒りになると下々の言葉に耳をお貸しになりません。ましてや我ら帝国軍は元々平民出身者が多いのです。皇族に意見するなど、それこそ天に唾を吐くようなもの…。」
龍雅は事情がわかると、捕まえた兵士たちに礼を述べて彼らをすぐに解放した。
そして今後はノエル帝の名の下に、例え命令した相手が皇族であろうとノエル帝の意思に反した勝手な行動を慎むようにという訓戒を以って、彼らに関するこの問題を不問とし、彼は総司令官という権力を行使し、ノエル帝入城の手伝いをせよという新たな命令を与えて、城門を清める民衆や入場する帝国軍の列に戻るよう促した。
兵士たちがリヒャルト老人の実質的に指揮下から外れて、人々の列に戻った頃、龍雅の抑え込んでいた怒りが静かに彼の中で燃えていた。
その姿は、まさにロウガに近い存在であることを雄弁に物語っている。
彼の遠縁に当たる龍雅にも、やはりロウガと同じ血が流れているのだ。
反骨に次ぐ反骨の者。
あたら無駄な血を流し続ける絶対者を許せぬ激しい気性。
ただそれだけが彼らを戦に駆り立て続けた。
ただそれだけがロウガと彼を繋ぐ唯一絶対の絆であった。
龍雅は走った。
リヒャルト老人の気性なら、あの場所に行くはずだと。
警備という名目で兵を動かした男ならば…。
彼の脳漿は無数の結末を予想しては消していく。
そして残ったもっとも確率の高い結末。
リヒャルト老人ならば、ノエル帝や帝国軍が入城し終わるまでに何らかの理由を付けて、自らを捕らえ、皇族を捕らえて処刑しようとした謀反人たちに直接的な報復に行動を起こすはずだと…。
ロウガを兄のように慕い、自らの主とし続けた男の新たな舞台。
絶望の処刑場。
何も持ち得ない男が掴む夢物語である。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「若造、貴様…!!」
老人は怒りのままに剣を抜いた。
ここは………なんちゃら広場。
名前は聞いたような気がするが、ろくすっぽ覚えちゃいない。
この老人がこれからやろうとしていることを考えれば、名前などどうでも良い。
「ジジイ、ノエルがそれを望んだか。」
騒ぎを聞き付けて民衆たちが、ざわざわと集まってきた。
誰もが不安そうな顔で俺たちを見ている。
この光景を見れば、誰だってそうだ。
「ノエルだと!?貴様、この期に及んでまだ皇帝を呼び捨てするか!!貴様が臣下であろうとなかろうと容赦はせぬ!!不敬罪を適応し、今すぐその者たちと同じように首を刎ねてくれる。この……、帝国軍を腑抜けの集まりにした獅子身中の虫め!!!」
「黙れジジイ。テメエの濁声なんか聞くに堪えん。その口、糸で縫われたくなけりゃ少し黙っていろ!!!それともその如何にもエラそうで鬱陶しい髭を毟り取ってやろうか!!!良いか、遠くなり出した耳の垢をかっぽじってよく聞きやがれ。ノエルがこの者たちの処遇をテメエに任せたか。この者たちの首を刎ねろと命じたか。謀叛に加わった者すべてを根絶やしにせよと明言したか!してないはずだ。出来るはずがない。あいつはやさしい。皇帝という椅子に座っていながら、非常になりきれない甘い女だ。そんなあいつが、皆殺しにせよという命を発するはずがなかろう!!そんなこと、テメエの退化した脳味噌でも理解出来るはずだ!!!」
頭に来ていた。
俺が互いに一兵も損ねることなく慎重に事を運んだ無血開城を、こんな馬鹿に崩されそうになっているというのに、どうしようもなく腹が立った。
「確かに甘い女だ!だからこそ、ワシが帝国法に基きこの者たちに罰を与える!!皇族に危害を加え、あまつさえ皇帝に謀叛を起こしたこの者たちに慈悲など必要ない!!一族郎党皆殺しでは生温い。死体を辱め、死後も裏切り者という恥辱に塗れた汚名に人々は唾を吐くが如き仕打ちをせねば、法の秩序は守れぬ!!」
その通りだ。
だが…。
「正論だ。法は遵守せねば、やがて法は効果を失い、秩序は破壊されていく。だが今のテメエに正論を吐く資格はない。皇族というクソみたいな誇りにしがみ付き、尚且つ宮中の政敵もまとめて葬らんとする薄暗い思惑が見え隠れするテメエに、法の何たるかを語る資格などない!!」
縄で縛られ、猿ぐつわを咬まされた男が顔を上げる。
おそらく、この男がノエルたちの話に出て来たグルジアなる男なのだろう。
他の虜囚にはない強い光が瞳に宿っている。
なるほど、謀叛など大それたことを起こすはずだ。
この男の目に、後悔も嘆きもない。
「それに今ここでテメエがこの者らを処刑してみろ。民衆は何と思う。ノエル帝は詭弁を使って我らを騙した、と考えるぞ。民衆だけではない。兵士たちも彼女の曇りなき心に魅せられて従っているというのに、兵士たちの心も離れてしまう。最早無駄な血を流す必要などない。退け、今なら見なかったことにしてやる。この者たちの処罰はノエルが決めること。テメエの出る幕じゃない!」
「き、き、貴様…!貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様ァァァァァーッ!!」
老人の身体が怒りのあまり隆起したように見えた。
この老人、70過ぎだとは聞いていたが……。
老いて益々盛んとはこのことか。
「貴様、このワシを…!半世紀以上帝国のために戦い続けたこのワシを…!!」
「戦い続けた?何とだ?」
「知れたこと!帝国領土を狙いし、数多の辺境国家!!信仰の名の下に、魔物を尊ぶ貴様らの同胞たちとの長き戦いよ!!武器を取り、兵を率いて半世紀以上の時をワシは戦い続けた…。すべては兄のため、帝国のため、信仰のため。それだけがワシの誇りであった!!それだけでワシは満たされておったのだ!!!だが、それをそこのグルジアの若造が奪った!!!このワシを、帝国に尽くしたワシを幽閉し、絶対不可侵の皇族にまで手をかけ、伝統と秩序を崩した者を許せぬものか!!!」
「……………………クッ。」
老人の言葉に、俺は短く笑い声を漏らした。
沢木が、あんな笑いを浮かべる理由がわかる気がする。
なるほど、なるほどな…。
この世界は、あまりに馬鹿馬鹿しくて滑稽すぎる。
「クックックック……ハーッハッハッハッハ!!!」
「貴様、何がおかしい!!!」
「可笑しいさ、あまりに可笑しくて逆に愛しくなってしまう。ジジイ、テメエを支える誇りとはその程度か。敵を打ち破った?兄に尽くして、帝国のために命を捧げて戦った?その程度の覚悟と誇りなど、俺の国には路傍の石の如くいくらでも転がっていたぞ。テメエのように俺も沢木も戦ったさ。だが、テメエのようにちっぽけな誇りのためじゃない。敵を倒し、無数の血を流したその先に、次の時代が来ることを信じて戦った…。俺たちの敵はいつだって人間じゃなかった。俺たちの敵は何十年と狂い続けた時代そのものだった!!そしてあいつはまだ戦っているぞ。この世界と、極端に狂い続けたこの時代と真っ向から喧嘩をしている!」
時代だと、世界だと、と老人は狼狽するように一歩下がる。
ああ、本当に懐かしい。
あいつと駆け抜けた戦場は、いつだって楽しかった。
あいつの背中を追いかけていれば、いつか新しい時代が来る。
そう信じて追いかけていたはずなのに、いつの間にか俺も同じように乱世という厄介極まりない時代そのものを相手に戦っていた。
敗れても敗れても、この心が折れぬ限り、何度でも立ち上がった…。
「ジジイ、テメエにその覚悟はない。ノエルに追随してはいるものの、テメエにこの世界を相手に戦う覚悟はない。だから、死を賭して帝国という母体を守ろうとしたこのグルジアなる男を憎んだ。ノエルですら理解したこの世界の歪みを頭で理解して、心で否定している。だから無抵抗の者たちを、法に基いて罰するなどという陰湿極まりない報復に出た。」
最後まで言い終わるのを待たずにリヒャルト老人が剣を振り上げた。
なるほど、武を誇りとするだけはある。
よく鍛えられた動きだが、あくまで老人にしては…、だな。
「小僧!!」
「この世界において教会と戦うということは、世界と時代と戦うということだ。その覚悟のない者がノエルの傍にいる資格はない!あの女は、やがて辺境ではなくこの世界に名を残す皇帝だ。テメエのような者があいつの名を貶めるが如き愚行を、俺は許さない!!」
ギィン…
「…ば…馬鹿な…!?」
老人の剣を手の平で挟み込んで叩き折る。
呆気に取られて折れた剣先を見詰める老人の懐にそのまま飛び込むと、弛緩し切った左腕を取ると同時に、テコの原理で関節を逆方向に折り曲げる。
軟骨が破壊され、腕の筋が引き千切られる音。
生理的に寒気のする音が耳に届いて数瞬後、激痛を噛み殺すように老人は呻き声を上げた。
さすがは歴戦の将を名乗るだけはある。
龍雅はリヒャルト老人の腕を圧し折ると、独楽のように鋭く回転して、肘撃ちを老人の鳩尾に放ち、胸骨を粉砕し、そのまま拳を顔面の急所に二発叩き込んだ。
その動きはまるで神楽のように軽やかに。
その動きはまるで能楽のように鬼気迫るものを宿していた。
『…………貴様は私の望む世界には必要はない。去れ、旧き時代の彼方に。』
「き……きさ……、その……目…!?」
言葉にならない声で老人は驚きの声を上げた。
龍雅の瞳は紅く、これまでの彼からは想像も付かないような冷たさと絶対的な決意、そして絶対的な覇気を放って、彼のものとは思えない口調で老人の心臓の鼓動を止めに掛かった。
小さく、鋭く。
自らの肘で砕いた老人の胸に、龍雅の右の手の平が襲い掛かる。
この世界において、ロウガのみが不完全ながら可能にする技。
身体の前面に外傷を与えず、ただ衝撃のみによって内臓と背骨を破壊する技。
名を『鎧通し』。
龍雅の右の掌底が老人の心臓に触れる、まさにその刹那であった。
「双方、それまで!!」
息を切らせて、ノエル帝が馬上より叫んだ。
そしてその後を追いかけるように、彼女を取り巻く兵士たちや城門で彼女を迎え入れ祝福した民衆たちが群れを成して姿を現すと、あたりはザワザワと騒がしくなっていった。
「…………………ノエル?………あれ、俺は一体…?」
ノエル帝の存在に気が付くと、龍雅は出しかけた右腕を引っ込めた。
それと同時にリヒャルト老人が膝から崩れて、地に伏した。
リヒャルト=ルオゥム。
彼の名は帝国史において、その半生は華々しい戦果と力強い行動力に彩られている。
だが反面で、晩年は危険を顧みず、ノエル帝に『グルジア事変』と呼ばれるグルジア公の反逆をいち早く知らせた功績以外に、特筆すべき事柄もなく、程なくして帝国歴16年2月、その死が簡潔に記されるのみであった。
この死が、龍雅から受けた傷が原因だったのか。
それとも老衰であったのかはわかっていない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
大勢の兵、大勢の民衆たち、そして大勢の謀反人たちの前で私は問う。
「紅将軍、そなたは余に何をさせたいのか?」
傷付いた大叔父様を衛生兵に搬送させ、紅将軍やこの場に居合わせた者たちに何があったのかを聞き、私は命令違反を起こした大叔父様によって引き起こされた騒ぎの非を、この場にいるものすべてに詫びた。
私の態度が煮え切れず曖昧だったばかりに、紅将軍がいなければ取り返しの付かないことになってしまうところだった。
二度と大叔父様の暴走のようなことが起こらぬよう、私は民衆や兵士たち、そしてセラエノ軍の前で彼らの免罪を明言した。
「汝らの罪は大逆罪と言えるだろう。だが、余は汝らを赦す。余は神聖ルオゥム帝国皇帝ではあるが、国土はヴァルハリアを擁する山猿どもに蹂躙され、最終防衛ラインでもあったクスコ川を放棄したことで、その支配権を帝都以南のみという帝国始まって以来の失態を犯した。それでは余は汝らに見限られても文句も言えぬ。汝らはその命を以って余を諌めようとしたのだ。無駄に命を捨てることなく、ヴァルハリアの軍門に降れば、いずれ再起を計ることも出来るのだと…。だが、最早事態は余の首のみでしか解決しえなかった。グルジア公、そなたの心中を察することの出来なかった余を許してくれ。そなたの余を討つというギリギリの選択は間違っておらぬ。」
「陛下……!」
縄を解かれた謀反人たち。
私はグルジア公との和解をすることが出来た。
多くの謀反人たちとも和解が出来たのだが、私にはまだやることがあった。
紅将軍は、大叔父様に言った。
自分は、人間と戦っていない。
世界と狂った時代と戦っているのだと…。
ならば、私はどうすれば良い。
いや、私はどうしたいのか。
「………お前に何をさせたいか。言わなくてわかっているだろう。そうやってすぐ答えを欲しがるのが、お前の悪い癖だ。頭で考えるな、感じたままの心を解き放て。すでに出ている答えを聞きたいというのは、無駄な時間でしかない。」
私の中の答え…。
それはひどくつまらないもの。
紅将軍やアルフォンスたちと共に、次の時代を生き残りたい。
アルフォンスのお腹の子供の未来を見届けたい。
そんなひどくありふれた望みが、ひどく愛しいと感じる。
そしてその未来を迎えたければ戦うしかない。
私の及ばぬ能力を彼らに頼って戦い生き延びるしかない。
「そういうことだ。」
そう言うと紅将軍は私に笑顔を向けてくれた。
きっと彼は私の想いなど気が付いていない。
彼の目には、アルフォンスしか映っていないのだ。
それでも良い。
それでも良いから、私はあなたが傍にいてほしい。
「わかった。紅将軍、戦おう。そなたの言うこの世界と。そして何百年という時間をかけて歪み続けたこの時代と。いつの日か、次の時代を担う者たちが安心して生きていける世界のために。」
それは親魔物派に乗り換えるということではない。
それでは足りないのだ。
『親魔物』などという言葉程度では彼らの理想は足りない。
あくまで私は教会と縁を切っただけ。
そうでなければ、ノエル=ルオゥムの名の下に、どれだけのわかり合えたかもしれない彼らの同胞の命を奪い、消え逝く命の灯火を見て見ぬフリをしてきたか。
命とは平等だ。
羽のように軽く、蜉蝣のように弱々しく、されど太陽の如く熱い。
そこに人間も魔物もないのだと、私は気付かされた。
忌むべき敵だったはずだったアルフォンス。
その中に宿した命を、私は心から喜んだ。
ああ、つくづく私は彼らに魅せられている。
「……さて、紅将軍。この度、大叔父様の暴走を食い止めた功績。そして度重なる帝国の危機をクスコ川にて覆してくれた褒美を与えていなかったことをすっかり忘れていた。」
「褒美?いや……、特に欲しい訳では…。」
「そう言うな。余にもケジメというものがある。」
そう……、これはケジメだ。
私に出来なかったことを、異国から来た彼は平然とやってのけた。
だから私にはこんなことしか出来ない。
こんなものでしか、感謝の気持ちを伝えられない。
私は腰の剣を外すと、鞘を持って紅将軍に突き出した。
「学園都市セラエノ・神聖ルオゥム帝国同盟軍総司令官、紅龍雅将軍。そなたの太刀には及ぶまいが、これまでの帝国の危機を救った褒美として、この剣を取らせる。ありがたく受け取るが良い。」
「いや……、別に無理はしなくても良いんだが…。」
「受け取るが良い。」
「あの……?」
「う・け・と・る・が・よ・い!!」
「はい!ありがたく頂戴致しまする!!」
と、私の気迫に負けて、紅将軍は剣の鞘に手をかけた。
「受け取ったな?」
にやり、と私は自分でもわかる程、笑った。
ああ、思い出した。
子供の頃、悪戯が成功するとこんな風に笑っていたものだな。
「ふふふふふ…。」
「……!?」
私はその場で、紅将軍に跪いた。
突然のことで彼も困惑している。
それはそうだろう。
何故なら………。
「その剣は我が帝国に代々伝わる皇帝の証たる剣なのだ。帝国の危機にただ義を感じてくれただけで我らに味方し、侵略者たちを防ぎ続けてきてくれたそなたに余……いや、私はこれ以上の感謝を伝える方法が見当たらない。国土を大きく減らし、謀叛まで招いてしまった暗愚なる皇帝は、最早皇帝に非ず。そしてこの帝都を奪還したのは私ではなく、そなたの智略があったらこそ。つまり帝都を奪還したのはそなただ。この帝都はそなたの物。私はここに…………、自ら帝位を廃位し、紅龍雅に帝位を譲ることを私の愛する臣民たちの前で宣言する!!」
紅龍雅がいくら反対しようとノエル帝の決心は揺らがず。
さらにクスコ川流域での様子が兵士たちの口から人々の耳に入るようになると、一人、また一人と彼に跪き、徐々にレユア広場に集まったすべての人々が彼の意思に反して、救国の戦士として彼を讃え、ノエル帝の一世一代の決断を称賛して、新皇帝の誕生を心から祝福した。
後に『レユアの禅譲』として語り継がれる皇帝誕生物語を、セラエノ軍も帝国軍も、そして帝都コクトゥの民たちも興奮と新たな希望に満ちて目撃したのである。
紅龍雅、諡を彼の名前から『龍帝』、もしくは『紅帝』と呼ばれる。
真紅の鎧を纏い帝国の危機に立ち向かったことから、『紅蓮の救世主(メシア)』として、神聖ルオゥム帝国最後の皇帝は長く愛されていくのである。
そして、これが紅龍雅最後の一週間の始まりでもあった。
怒り心頭の老人はその荒ぶる感情のままに剣を抜き放ち、
静かな怒りを腹底に静めた青年は非武装のまま立ち塞がる。
老人の背後には狼狽する兵士と力なき民。
青年の背後にはただ死を待ち、縄を打たれた罪人たち。
相容れぬ主義主張。
相容れぬ感情。
譲れぬ者たちのぶつかり合い。
時間を少しだけ戻そう。
それはノエル帝が帝都入城を果たす少し前。
ノエル帝に先んじて、彼女の大叔父であるリヒャルト=ルオゥム老人が帝都の治安と秩序を回復するという名目の下、完全武装をした一隊を率いて先発隊として入城した。
それを見て何か不安を感じたのか、それとも継続し続けた戦闘の緊張感が感じ取ったのか。
同盟軍総司令官・紅龍雅はただ一人、入城に備えて直垂(ひたたれ)に烏帽子という正装に着替えていたのだが、着替えもそこそこに太刀も持たずに馬に跨ると、彼の補佐役であるサイガにノエル帝やアルフォンスにリヒャルトと共に先に入城する旨の伝言を頼むと大急ぎで老人の後を追った。
龍雅の不安は的中していた。
リヒャルト老人は直属の兵を用いて、この度の謀叛に参加した貴族のみならず、秘密裏に貴族の事情を知らずに兵を指揮していた100人隊長級の階級にあった者まで逮捕し、処刑を待つ謀叛貴族やその一族に紛れ込ませていた。
老人の本来の計画であったなら、兵卒やその一族まで根絶やしにする気でいた。
だが数があまりに多く、秘密裏に逮捕するには時間が足りなかったということで100人隊長級のおよそ20名を猿ぐつわで喋れぬように口を塞ぎ、処刑される謀叛貴族たちと共に葬り去られようとしていた。
ノエル帝の指示したことではない。
これは傷付けられたプライドに対するリヒャルト老人の個人的な報復である。
龍雅は単騎入城するとすぐ、おかしな動きをしている兵士を捕まえて問い詰めたのだが、彼らは意外な程何の抵抗もなく白状したのであった。
老人の直属の兵であるにも関わらず、老人の行動に疑問を持っていた。
彼らは口を揃えて言った。
「お話のわかる陛下でしたらいざ知らず、リヒャルト公はお怒りになると下々の言葉に耳をお貸しになりません。ましてや我ら帝国軍は元々平民出身者が多いのです。皇族に意見するなど、それこそ天に唾を吐くようなもの…。」
龍雅は事情がわかると、捕まえた兵士たちに礼を述べて彼らをすぐに解放した。
そして今後はノエル帝の名の下に、例え命令した相手が皇族であろうとノエル帝の意思に反した勝手な行動を慎むようにという訓戒を以って、彼らに関するこの問題を不問とし、彼は総司令官という権力を行使し、ノエル帝入城の手伝いをせよという新たな命令を与えて、城門を清める民衆や入場する帝国軍の列に戻るよう促した。
兵士たちがリヒャルト老人の実質的に指揮下から外れて、人々の列に戻った頃、龍雅の抑え込んでいた怒りが静かに彼の中で燃えていた。
その姿は、まさにロウガに近い存在であることを雄弁に物語っている。
彼の遠縁に当たる龍雅にも、やはりロウガと同じ血が流れているのだ。
反骨に次ぐ反骨の者。
あたら無駄な血を流し続ける絶対者を許せぬ激しい気性。
ただそれだけが彼らを戦に駆り立て続けた。
ただそれだけがロウガと彼を繋ぐ唯一絶対の絆であった。
龍雅は走った。
リヒャルト老人の気性なら、あの場所に行くはずだと。
警備という名目で兵を動かした男ならば…。
彼の脳漿は無数の結末を予想しては消していく。
そして残ったもっとも確率の高い結末。
リヒャルト老人ならば、ノエル帝や帝国軍が入城し終わるまでに何らかの理由を付けて、自らを捕らえ、皇族を捕らえて処刑しようとした謀反人たちに直接的な報復に行動を起こすはずだと…。
ロウガを兄のように慕い、自らの主とし続けた男の新たな舞台。
絶望の処刑場。
何も持ち得ない男が掴む夢物語である。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「若造、貴様…!!」
老人は怒りのままに剣を抜いた。
ここは………なんちゃら広場。
名前は聞いたような気がするが、ろくすっぽ覚えちゃいない。
この老人がこれからやろうとしていることを考えれば、名前などどうでも良い。
「ジジイ、ノエルがそれを望んだか。」
騒ぎを聞き付けて民衆たちが、ざわざわと集まってきた。
誰もが不安そうな顔で俺たちを見ている。
この光景を見れば、誰だってそうだ。
「ノエルだと!?貴様、この期に及んでまだ皇帝を呼び捨てするか!!貴様が臣下であろうとなかろうと容赦はせぬ!!不敬罪を適応し、今すぐその者たちと同じように首を刎ねてくれる。この……、帝国軍を腑抜けの集まりにした獅子身中の虫め!!!」
「黙れジジイ。テメエの濁声なんか聞くに堪えん。その口、糸で縫われたくなけりゃ少し黙っていろ!!!それともその如何にもエラそうで鬱陶しい髭を毟り取ってやろうか!!!良いか、遠くなり出した耳の垢をかっぽじってよく聞きやがれ。ノエルがこの者たちの処遇をテメエに任せたか。この者たちの首を刎ねろと命じたか。謀叛に加わった者すべてを根絶やしにせよと明言したか!してないはずだ。出来るはずがない。あいつはやさしい。皇帝という椅子に座っていながら、非常になりきれない甘い女だ。そんなあいつが、皆殺しにせよという命を発するはずがなかろう!!そんなこと、テメエの退化した脳味噌でも理解出来るはずだ!!!」
頭に来ていた。
俺が互いに一兵も損ねることなく慎重に事を運んだ無血開城を、こんな馬鹿に崩されそうになっているというのに、どうしようもなく腹が立った。
「確かに甘い女だ!だからこそ、ワシが帝国法に基きこの者たちに罰を与える!!皇族に危害を加え、あまつさえ皇帝に謀叛を起こしたこの者たちに慈悲など必要ない!!一族郎党皆殺しでは生温い。死体を辱め、死後も裏切り者という恥辱に塗れた汚名に人々は唾を吐くが如き仕打ちをせねば、法の秩序は守れぬ!!」
その通りだ。
だが…。
「正論だ。法は遵守せねば、やがて法は効果を失い、秩序は破壊されていく。だが今のテメエに正論を吐く資格はない。皇族というクソみたいな誇りにしがみ付き、尚且つ宮中の政敵もまとめて葬らんとする薄暗い思惑が見え隠れするテメエに、法の何たるかを語る資格などない!!」
縄で縛られ、猿ぐつわを咬まされた男が顔を上げる。
おそらく、この男がノエルたちの話に出て来たグルジアなる男なのだろう。
他の虜囚にはない強い光が瞳に宿っている。
なるほど、謀叛など大それたことを起こすはずだ。
この男の目に、後悔も嘆きもない。
「それに今ここでテメエがこの者らを処刑してみろ。民衆は何と思う。ノエル帝は詭弁を使って我らを騙した、と考えるぞ。民衆だけではない。兵士たちも彼女の曇りなき心に魅せられて従っているというのに、兵士たちの心も離れてしまう。最早無駄な血を流す必要などない。退け、今なら見なかったことにしてやる。この者たちの処罰はノエルが決めること。テメエの出る幕じゃない!」
「き、き、貴様…!貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様ァァァァァーッ!!」
老人の身体が怒りのあまり隆起したように見えた。
この老人、70過ぎだとは聞いていたが……。
老いて益々盛んとはこのことか。
「貴様、このワシを…!半世紀以上帝国のために戦い続けたこのワシを…!!」
「戦い続けた?何とだ?」
「知れたこと!帝国領土を狙いし、数多の辺境国家!!信仰の名の下に、魔物を尊ぶ貴様らの同胞たちとの長き戦いよ!!武器を取り、兵を率いて半世紀以上の時をワシは戦い続けた…。すべては兄のため、帝国のため、信仰のため。それだけがワシの誇りであった!!それだけでワシは満たされておったのだ!!!だが、それをそこのグルジアの若造が奪った!!!このワシを、帝国に尽くしたワシを幽閉し、絶対不可侵の皇族にまで手をかけ、伝統と秩序を崩した者を許せぬものか!!!」
「……………………クッ。」
老人の言葉に、俺は短く笑い声を漏らした。
沢木が、あんな笑いを浮かべる理由がわかる気がする。
なるほど、なるほどな…。
この世界は、あまりに馬鹿馬鹿しくて滑稽すぎる。
「クックックック……ハーッハッハッハッハ!!!」
「貴様、何がおかしい!!!」
「可笑しいさ、あまりに可笑しくて逆に愛しくなってしまう。ジジイ、テメエを支える誇りとはその程度か。敵を打ち破った?兄に尽くして、帝国のために命を捧げて戦った?その程度の覚悟と誇りなど、俺の国には路傍の石の如くいくらでも転がっていたぞ。テメエのように俺も沢木も戦ったさ。だが、テメエのようにちっぽけな誇りのためじゃない。敵を倒し、無数の血を流したその先に、次の時代が来ることを信じて戦った…。俺たちの敵はいつだって人間じゃなかった。俺たちの敵は何十年と狂い続けた時代そのものだった!!そしてあいつはまだ戦っているぞ。この世界と、極端に狂い続けたこの時代と真っ向から喧嘩をしている!」
時代だと、世界だと、と老人は狼狽するように一歩下がる。
ああ、本当に懐かしい。
あいつと駆け抜けた戦場は、いつだって楽しかった。
あいつの背中を追いかけていれば、いつか新しい時代が来る。
そう信じて追いかけていたはずなのに、いつの間にか俺も同じように乱世という厄介極まりない時代そのものを相手に戦っていた。
敗れても敗れても、この心が折れぬ限り、何度でも立ち上がった…。
「ジジイ、テメエにその覚悟はない。ノエルに追随してはいるものの、テメエにこの世界を相手に戦う覚悟はない。だから、死を賭して帝国という母体を守ろうとしたこのグルジアなる男を憎んだ。ノエルですら理解したこの世界の歪みを頭で理解して、心で否定している。だから無抵抗の者たちを、法に基いて罰するなどという陰湿極まりない報復に出た。」
最後まで言い終わるのを待たずにリヒャルト老人が剣を振り上げた。
なるほど、武を誇りとするだけはある。
よく鍛えられた動きだが、あくまで老人にしては…、だな。
「小僧!!」
「この世界において教会と戦うということは、世界と時代と戦うということだ。その覚悟のない者がノエルの傍にいる資格はない!あの女は、やがて辺境ではなくこの世界に名を残す皇帝だ。テメエのような者があいつの名を貶めるが如き愚行を、俺は許さない!!」
ギィン…
「…ば…馬鹿な…!?」
老人の剣を手の平で挟み込んで叩き折る。
呆気に取られて折れた剣先を見詰める老人の懐にそのまま飛び込むと、弛緩し切った左腕を取ると同時に、テコの原理で関節を逆方向に折り曲げる。
軟骨が破壊され、腕の筋が引き千切られる音。
生理的に寒気のする音が耳に届いて数瞬後、激痛を噛み殺すように老人は呻き声を上げた。
さすがは歴戦の将を名乗るだけはある。
龍雅はリヒャルト老人の腕を圧し折ると、独楽のように鋭く回転して、肘撃ちを老人の鳩尾に放ち、胸骨を粉砕し、そのまま拳を顔面の急所に二発叩き込んだ。
その動きはまるで神楽のように軽やかに。
その動きはまるで能楽のように鬼気迫るものを宿していた。
『…………貴様は私の望む世界には必要はない。去れ、旧き時代の彼方に。』
「き……きさ……、その……目…!?」
言葉にならない声で老人は驚きの声を上げた。
龍雅の瞳は紅く、これまでの彼からは想像も付かないような冷たさと絶対的な決意、そして絶対的な覇気を放って、彼のものとは思えない口調で老人の心臓の鼓動を止めに掛かった。
小さく、鋭く。
自らの肘で砕いた老人の胸に、龍雅の右の手の平が襲い掛かる。
この世界において、ロウガのみが不完全ながら可能にする技。
身体の前面に外傷を与えず、ただ衝撃のみによって内臓と背骨を破壊する技。
名を『鎧通し』。
龍雅の右の掌底が老人の心臓に触れる、まさにその刹那であった。
「双方、それまで!!」
息を切らせて、ノエル帝が馬上より叫んだ。
そしてその後を追いかけるように、彼女を取り巻く兵士たちや城門で彼女を迎え入れ祝福した民衆たちが群れを成して姿を現すと、あたりはザワザワと騒がしくなっていった。
「…………………ノエル?………あれ、俺は一体…?」
ノエル帝の存在に気が付くと、龍雅は出しかけた右腕を引っ込めた。
それと同時にリヒャルト老人が膝から崩れて、地に伏した。
リヒャルト=ルオゥム。
彼の名は帝国史において、その半生は華々しい戦果と力強い行動力に彩られている。
だが反面で、晩年は危険を顧みず、ノエル帝に『グルジア事変』と呼ばれるグルジア公の反逆をいち早く知らせた功績以外に、特筆すべき事柄もなく、程なくして帝国歴16年2月、その死が簡潔に記されるのみであった。
この死が、龍雅から受けた傷が原因だったのか。
それとも老衰であったのかはわかっていない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
大勢の兵、大勢の民衆たち、そして大勢の謀反人たちの前で私は問う。
「紅将軍、そなたは余に何をさせたいのか?」
傷付いた大叔父様を衛生兵に搬送させ、紅将軍やこの場に居合わせた者たちに何があったのかを聞き、私は命令違反を起こした大叔父様によって引き起こされた騒ぎの非を、この場にいるものすべてに詫びた。
私の態度が煮え切れず曖昧だったばかりに、紅将軍がいなければ取り返しの付かないことになってしまうところだった。
二度と大叔父様の暴走のようなことが起こらぬよう、私は民衆や兵士たち、そしてセラエノ軍の前で彼らの免罪を明言した。
「汝らの罪は大逆罪と言えるだろう。だが、余は汝らを赦す。余は神聖ルオゥム帝国皇帝ではあるが、国土はヴァルハリアを擁する山猿どもに蹂躙され、最終防衛ラインでもあったクスコ川を放棄したことで、その支配権を帝都以南のみという帝国始まって以来の失態を犯した。それでは余は汝らに見限られても文句も言えぬ。汝らはその命を以って余を諌めようとしたのだ。無駄に命を捨てることなく、ヴァルハリアの軍門に降れば、いずれ再起を計ることも出来るのだと…。だが、最早事態は余の首のみでしか解決しえなかった。グルジア公、そなたの心中を察することの出来なかった余を許してくれ。そなたの余を討つというギリギリの選択は間違っておらぬ。」
「陛下……!」
縄を解かれた謀反人たち。
私はグルジア公との和解をすることが出来た。
多くの謀反人たちとも和解が出来たのだが、私にはまだやることがあった。
紅将軍は、大叔父様に言った。
自分は、人間と戦っていない。
世界と狂った時代と戦っているのだと…。
ならば、私はどうすれば良い。
いや、私はどうしたいのか。
「………お前に何をさせたいか。言わなくてわかっているだろう。そうやってすぐ答えを欲しがるのが、お前の悪い癖だ。頭で考えるな、感じたままの心を解き放て。すでに出ている答えを聞きたいというのは、無駄な時間でしかない。」
私の中の答え…。
それはひどくつまらないもの。
紅将軍やアルフォンスたちと共に、次の時代を生き残りたい。
アルフォンスのお腹の子供の未来を見届けたい。
そんなひどくありふれた望みが、ひどく愛しいと感じる。
そしてその未来を迎えたければ戦うしかない。
私の及ばぬ能力を彼らに頼って戦い生き延びるしかない。
「そういうことだ。」
そう言うと紅将軍は私に笑顔を向けてくれた。
きっと彼は私の想いなど気が付いていない。
彼の目には、アルフォンスしか映っていないのだ。
それでも良い。
それでも良いから、私はあなたが傍にいてほしい。
「わかった。紅将軍、戦おう。そなたの言うこの世界と。そして何百年という時間をかけて歪み続けたこの時代と。いつの日か、次の時代を担う者たちが安心して生きていける世界のために。」
それは親魔物派に乗り換えるということではない。
それでは足りないのだ。
『親魔物』などという言葉程度では彼らの理想は足りない。
あくまで私は教会と縁を切っただけ。
そうでなければ、ノエル=ルオゥムの名の下に、どれだけのわかり合えたかもしれない彼らの同胞の命を奪い、消え逝く命の灯火を見て見ぬフリをしてきたか。
命とは平等だ。
羽のように軽く、蜉蝣のように弱々しく、されど太陽の如く熱い。
そこに人間も魔物もないのだと、私は気付かされた。
忌むべき敵だったはずだったアルフォンス。
その中に宿した命を、私は心から喜んだ。
ああ、つくづく私は彼らに魅せられている。
「……さて、紅将軍。この度、大叔父様の暴走を食い止めた功績。そして度重なる帝国の危機をクスコ川にて覆してくれた褒美を与えていなかったことをすっかり忘れていた。」
「褒美?いや……、特に欲しい訳では…。」
「そう言うな。余にもケジメというものがある。」
そう……、これはケジメだ。
私に出来なかったことを、異国から来た彼は平然とやってのけた。
だから私にはこんなことしか出来ない。
こんなものでしか、感謝の気持ちを伝えられない。
私は腰の剣を外すと、鞘を持って紅将軍に突き出した。
「学園都市セラエノ・神聖ルオゥム帝国同盟軍総司令官、紅龍雅将軍。そなたの太刀には及ぶまいが、これまでの帝国の危機を救った褒美として、この剣を取らせる。ありがたく受け取るが良い。」
「いや……、別に無理はしなくても良いんだが…。」
「受け取るが良い。」
「あの……?」
「う・け・と・る・が・よ・い!!」
「はい!ありがたく頂戴致しまする!!」
と、私の気迫に負けて、紅将軍は剣の鞘に手をかけた。
「受け取ったな?」
にやり、と私は自分でもわかる程、笑った。
ああ、思い出した。
子供の頃、悪戯が成功するとこんな風に笑っていたものだな。
「ふふふふふ…。」
「……!?」
私はその場で、紅将軍に跪いた。
突然のことで彼も困惑している。
それはそうだろう。
何故なら………。
「その剣は我が帝国に代々伝わる皇帝の証たる剣なのだ。帝国の危機にただ義を感じてくれただけで我らに味方し、侵略者たちを防ぎ続けてきてくれたそなたに余……いや、私はこれ以上の感謝を伝える方法が見当たらない。国土を大きく減らし、謀叛まで招いてしまった暗愚なる皇帝は、最早皇帝に非ず。そしてこの帝都を奪還したのは私ではなく、そなたの智略があったらこそ。つまり帝都を奪還したのはそなただ。この帝都はそなたの物。私はここに…………、自ら帝位を廃位し、紅龍雅に帝位を譲ることを私の愛する臣民たちの前で宣言する!!」
紅龍雅がいくら反対しようとノエル帝の決心は揺らがず。
さらにクスコ川流域での様子が兵士たちの口から人々の耳に入るようになると、一人、また一人と彼に跪き、徐々にレユア広場に集まったすべての人々が彼の意思に反して、救国の戦士として彼を讃え、ノエル帝の一世一代の決断を称賛して、新皇帝の誕生を心から祝福した。
後に『レユアの禅譲』として語り継がれる皇帝誕生物語を、セラエノ軍も帝国軍も、そして帝都コクトゥの民たちも興奮と新たな希望に満ちて目撃したのである。
紅龍雅、諡を彼の名前から『龍帝』、もしくは『紅帝』と呼ばれる。
真紅の鎧を纏い帝国の危機に立ち向かったことから、『紅蓮の救世主(メシア)』として、神聖ルオゥム帝国最後の皇帝は長く愛されていくのである。
そして、これが紅龍雅最後の一週間の始まりでもあった。
11/06/24 01:24更新 / 宿利京祐
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