gravity
魔界、魔王城に程近い場所に一軒の古びた屋敷がある。
すでに主のいない空き家。
今はただ懐かしさだけが、そこを訪れる者たちの胸に去来するだけ。
だがその懐かしさもすでに遠い昔。
彼女のみを残して、その屋敷の主の名を知る者はなし。
この物語は、
現魔王が長く続いた戦乱の末に玉座に座ったものの、未だ彼女を魔王と認めぬ抵抗勢力との小規模な戦が続いていた時代の、喪失と懐古の記憶である。
魔王軍初代元帥、源総次郎重綱(みなもとのそうじろうしげつな)。
魔王軍の記録に初めて記されたジパング出身者の人間である。
魔王をして、『その智謀は1000万の大軍に匹敵する』と言わしめ、魔王が玉座を得るに至る当時最大規模の戦争であった『オトズ会戦』にて最大敵勢力を討ち破り、魔王の基盤を磐石なものにしたことなど、多大な功績を残した魔王軍きっての大軍師として魔王軍創成期を記録した書物には筆頭で、その名が残されている。
また、当時はまだ政治闘争という陰鬱な戦いに疎かった魔王を陰ながら補佐し、敵勢力と通じて裏切りを打算する者、暗殺を以って魔王の首を狙う者たちや、特権を振り翳す大貴族との抗争など、政治的謀略渦巻く宮中の空気を一掃し、無秩序で無法地帯であった魔界に法を布き、幾億もの民の支持を以って、完全なる魔王独裁体制の基本骨子を確立するなど優れた政治家としての面も残されている。
もしも彼がインキュバスに転生し、魔王の補佐をし続けていたなら、今日までの教会勢力や神界との対立など存在せず、すべては彼の智略によって魔王の旗の下に統治されていたであろうと見る歴史研究家は少なくない。
しかし、歴史にもしもは存在しない。
それは魔王在位3年目の春の晩の出来事であった。
―――――――――――――――――――――――
屋敷の中には誰一人いなかった。
使用人も、誰も。
大きな屋敷はまるで巨大な牢獄のようにひっそりとしていた。
コフッ……。
コフッ……。
屋敷の奥、閉ざされた寝室の扉の向こうから渇いた咳。
扉の向こうは寝室になっていた。
ベッドの上には蒼白い顔をした男が横たわっていた。
男は魔王軍上級大将、源総次郎重綱。
総次郎は死病を病んでいた。
現在の医療技術であれば、助かったかもしれない病であったが、この当時は死病と恐れられ、誰もが感染を恐れて、彼の使用人ですら魔王軍最大の功労者を見捨てて屋敷を半ば封印する形で出て行ってしまったのである。
看病をする者はいない。
ただ一人を除いては…。
「ありがとう、シュタイナ。おかげで少し楽になった。」
「気にしないで。私にしか、あなたを看ることが出来ないんだから。」
女の名はシュタイナ=フランシェリン。
魔王軍陸戦大将として、魔王軍にその名を連ねる女性の一人であった。
人間でありながら源上級大将と共に魔王を補佐し、今日に至る繁栄を築いた総次郎と並ぶ功労者の一人なのだが、今、その身体は生ける死体、ゾンビとしての生を歩んでいた。
もっともその名はゾンビとなったその時から捨てられた。
誰もが王朝成立の功労者の一人である彼女を畏れ敬い、その名を口にすることを憚り、大将閣下、不死将軍などの敬称で彼女を呼ぶのだが、ただ2人だけは彼女の生前の名で呼び続けていた。
それは魔王と、病に臥した総次郎だけ。
その内の一人が今、彼女らの手の届かないところへ行くまいと必死になって戦っていた。
シュタイナはそんな総次郎を必死に看病した。
戦友として。
親友として。
そして、人間として生きていた頃からの恋人として。
「まったくついていないな。ルシィの留守を任されたというのに、この程度の病で歩けもしないとはな。兵はきちんと兵錬をやっているかい?諸侯たちはルシィの施政を忠実にこなしてるかい?」
「ソウジ、気になるのはわかるけど、今は心と身体をゆっくり休めないと治るものも治らないわ。みんなルシィの命令を忠実にこなして、あいつの帰りを待っているの。あなたには早く復帰してもらわないと、みんなの方が先に倒れてしまうわ。」
シュタイナは総次郎の額に置いた濡れタオルを水で洗うと、また彼の額に置き直す。
その冷たさに総次郎は気持ちの良さそうな表情を浮かべた。
魔王をルシィと呼ぶのは、彼らが魔王と旗揚げよりも前からの付き合いがあり、特にシュタイナは魔王の幼馴染であったからでもある。
今、魔王は親征を行っている。
敵は魔界制覇を成した魔王を認めぬ地方豪族が起こした反乱軍だったのだが、これはまだ人心が彼女に対してまだ懐疑的なためだという総次郎の進言により、魔王自らが出陣し、その姿を人々の前に現すことで王朝の安寧を計ると共に、圧倒的な大兵力を率いて未だ従わぬ地方豪族に対し、魔王軍の精強さを見せ付ける目的があった。
本来なら総次郎もシュタイナも、魔王に同行する立場だったのだが、若い人材の育成と、二人にはこれから内政面での活躍を期待した魔王の人事によって二人は残され、留守を任されていたのであった。
しかし、男は死病に侵され、女は一人で彼の分まで政務と看病に追われていた。
総次郎の残された時間は残り僅かだった。
―――――――――――――――――――――――
「シュタイナ!目を開けてくれ、シュタイナ!!」
激戦を極めたオトズ会戦。
大軍という心の隙間の不意を突き、敵軍は魔王軍の背後から奇襲をかけ、魔王軍本陣に無数の矢の雨を降らせた。
背後からの急襲に総次郎は自らも矢傷を負ったが、親友にして主君である魔王の姿と、恋人であるシュタイナの姿を矢の雨が途切れてすぐに探し続けた。
運良く、すぐに奇襲によって落馬し、倒れていたシュタイナを見付けることが出来、駆け寄り抱きかかえるが、彼はその光景に目を背けそうになった。
降り注いだ矢の一本が、シュタイナの心臓を貫いていたのである。
グッタリと力なく、段々と失われていく体温に彼は恐怖を感じていた。
シュタイナを、愛する者を失いたくないと。
「総次郎、無事か!?」
当時ルシフェルと名乗っていた魔王がやっとの思いで二人を見付け出して駆け寄るが、すでに事切れているシュタイナを見て言葉を失った。
「助けてくれよ…。シュタイナが…、シュタイナが…!」
最早外科治療は手遅れなのは目に見えていた。
それでも彼女の死を受け入れられない総次郎は、魔王に助けてくれと懇願する。
だが魔王は幼馴染のシュタイナのことを心の奥底に沈めた。
すでに彼女は一介の流浪のサキュバスという立場ではない。
何万、何十万、何百万という命を預かる王なのであった。
「総次郎……、策を…、言え。」
「ルシィ!!」
パンッ
乾いた音を発して、魔王は総次郎の頬に平手打ちをした。
一瞬だけ、時が止まる。
「シュタイナは何とかする。だが、総次郎。お前の仕事は何だ。思い出せ、お前は私の軍師だ。何百万という将兵がお前の舌一つで死に、お前の脳漿の具合如何で3人で見た夢は夢のまま散ってしまうのだ。さぁ、策を言え。私が悲しみに沈んでしまう前に!」
魔王は歯を食い縛って総次郎の胸座を掴む。
シュタイナという幼馴染を失い、悲しくて張り裂けそうな胸を、数え切れない命と3人で夢見た夢物語を無駄にしたくないという思いで、必死になって抑え込んでいた。
そして、総次郎はゆっくりと口を開いた。
「………兵を、前へ進めなさい。敵は奇襲に成功し、喜び勇んでおりますが、我が軍は大軍で被害は極小さなものでしょう。急襲に浮き足立ってはいますが半刻持ち堪えることが出来たなら、3000程の武勇に自信のある者たちを伏兵たちに向け、残る全軍、666万の兵を御身自ら率いて、奇襲成功に浮かれている敵正面を打ち破りなさい。味方は雪辱戦に燃えるでしょうが、もしも半刻経っても動揺が治まらないのあれば、その時は潔く負けを認め、領土に引き返すなり、敵の軍門に降るなり好きにすればよろしいでしょう。」
「半刻あれば十分だ。兵たちの動揺を治め、シュタイナを何とかするには十分すぎる。総次郎、シュタイナを失って辛いだろうが……、諸将に伝令を頼まれてくれるか。兵を立て直せ、半刻後に打って出ると。」
「御意に。」
涙を拭いて総次郎はシュタイナの乗っていた馬に跨ると、各将軍の下へと駆け出した。
その後姿を見詰めながら、魔王は腕の中で冷たくなったシュタイナの顔を撫で、心臓に突き刺さった矢を見詰め涙を流して呟いた。
「許してくれ……。君を人間として人生を終えさせてやれなかった私を君は怨むだろう。君の死に対し、冷たく、より多くの命と君一人の命を天秤に賭けてしまった私を…。そして……、君に生きてほしいと願う私の我侭で、世界の法則を捻じ曲げる私を許してくれ…。」
こうしてシュタイナは死に、ゾンビへと生まれ変わった。
だが通常のゾンビと違い、人間らしさと生前の聡明さは失われなかった。
魔王が直接魔力を吹き込んだからなのか。
それとも魔王がそう望んだからなのか。
今となっては、もうわからない。
―――――――――――――――――――――――
「ルシィを怨んでいるか?」
「え……、いきなりどうしたの?」
「……少し、寝ていたらしい。オトズ会戦の夢を見ていた。」
突然、ソウジにあいつを怨んでいるかと聞かれて困惑したけど、その続く言葉を聞いて私は納得がいき、そうね、と短く答えた。
「勝手に私のことを甦らせて、ゾンビになんかにして。怨まない方がどうかしていると思うわ。でも今は感謝しているの。誰もが見放したあなたの看病が出来るんだから。それとね、ソウジ。シュタイナは死んだの。今の私はシュタイナという人間の抜け殻、今は名もなきゾンビなのよ。」
ソウジの額にキスをする。
あいつは私たちが二人きりの時間を過ごせるようにという配慮をしてくれたんだと思うけど、結果的に私たちは残されて良かったと思う。
もしも陣中で発症すれば、それだけで全軍崩壊の危機を迎えかねないし、何よりあいつがこの病に罹ってしまうのだけは避けたい。
そしてシュタイナという名前は、あの日の会戦で捨てた。
私は死に、今の私は夢の残骸に縋って生きる外法の死者。
今でもシュタイナと呼ぶのは、ルシィと名乗っていたあいつとソウジだけ。
「覚えているか…。オトズ会戦に勝利したあの日の夕焼けを。あの一手をしくじったら今の魔王軍はなかった。嗚呼……、魔王軍の旗が無数に翻る大地を、太陽が朱に染めていた光景は忘れられない。本当に、美しかったなぁ…。」
「そうだったね。私は死体の身体で目を覚ましたばかりだったね。そして初めて目にした光景は、あの夕焼けと泣きながら私の目覚めを喜ぶあなたたちだった。あの光景と嬉しさは忘れられないなぁ。本当に綺麗で、私のことを失いたくないって心から願ってくれる人がこの世に2人もいたんだものね。」
「本当に…………、綺麗だったなぁ………。」
「…………ソウジ?」
ゴブッ……!!
それは唐突にやってきた。
今までにない水っぽい咳だと思った瞬間、まるで何かが破裂したようにソウジは血を吐き出した。
「ソウジ!!!」
細い管を流れるような呼吸と大量の血液がベッドを赤く染める。
慌ててソウジを抱きかかえると、彼は首を振って弱弱しい声で言った。
「……よせよ。…………せっかく、……き……綺麗な服……、着ているのに…、汚れる………、じゃ……ないか…ね。」
「馬鹿、喋らないで!!すぐ医者を連れてくるから。」
腕の中で彼は首を振る。
服の袖を掴んで、どこにも行かないでほしいと懇願した。
「最後の………、我侭…、だからさ…。」
泣きそうになりながら、震えるままに私は強く彼を抱き締めた。
咳き込むと同時、大量の血液が溢れ出す。
せめて気道だけは楽にしてあげたいと上体を起こしてあげると、彼は微笑んで私の胸に顔を押し当て、まるで母に縋る赤子のように意識を失った。
…………………
……………
………
あの日のような夕焼けが、寝室の窓から入り込んでいた。
腕越しに彼の体温が、呼吸が、鼓動が徐々に弱くなっていくのを感じていた。
やっと吐血は止まった。
しかし意識を失った彼は、徐々に冥府へと旅立っていく。
彼の死を受け止めなければならない。
でも受け入れられない私は、いつしか願っていた。
「お願い……。まだ、ソウジを連れて行かないで…!魔王軍には………、いや…、私の人生にまだソウジが必要なの!!もう少しだけ、もう少しだけ連れて行くのを待ってよ…!
お願いだから……、連れて行かないで…、みんな……!!!」
今の時代を作るために死んでいった仲間たちに私は願った。
連れて行くのは良い。
でも、それはもっと遠い未来まで待って欲しいと。
それでもゆっくりと時間だけは過ぎていく。
「…………………遅いな、ルシィは。」
「……ソウジ、ごめん。目が覚めちゃった?」
血塗れの手でソウジは、涙で濡れた私の頬をやさしく撫でる。
その温もりを放したくなくて、その手に私の手を上から被せて握った。
また、小さく咳き込む。
「…………あいつなら、あの程度の反乱をさっさと鎮めて、今日中には帰ってくると思って頑張っていたんだがな…。酷いやつだ、あいつは。あいつが来るまでは、生きてやろうかと思っていたのにな……。」
「………………!!死なせない!今度は私があなたを死なせてあげない!!あなたが自分の人生を全うして死ぬその日まで死なせないから!!!」
ソウジは、ただ黙って首を振る。
ただ黙って、私の左の手の平を開かせると、吐き出した血でジパングの文字を一字記した。
「………そっちも。」
同じように右の手の平にも。
ジパングの文字がよくわからない私は困惑したが、彼は咳き込みながら言った。
「……俺から、最後の贈り物だ。きっと………、よく……似合う。」
「やだ!最後なんて嫌だ!!ルシィが、あいつが戻ってくるまで頑張ろうよ!!そこまで頑張れたら、次の朝日を一緒に見よう。それをずっと繰り返そうよ!!!!」
ソウジは、また目を閉じると、赤子みたいに私の胸に顔を摺り寄せた。
そして、今までにない深い息を吐くと、安らいだような声で言った。
「シュタイナ……………、お前の…………幸せを………、ずっと………、願っている。ずっと………、愛して……………………………。」
その言葉は途切れ、
二度と言葉を紡ぐことはなかった。
源総次郎重綱、享年32歳。
死後、魔王軍初代元帥として諡される。
壮絶な人生を歩んだ稀代の英傑は、蒼天の彼方へと愛しい者を残して旅立った。
―――――――――――――――――――――――
ドタドタドタドタ……
半ば封印された屋敷を鎧姿の女が無遠慮に歩く。
日付は変わり、本来なら友人の家とは言え、遠慮するべき時間であった。
だが、彼女は聞いてしまった。
無二の友が重い病に臥せっていると、帰国早々に知らされたのだった。
ルシィと名乗る王は、部下であり、友であり、建国の苦労を分かち合った掛け替えのない仲間の下へと、急いだのである。
そして、彼女は男の寝室の扉を勢い良く開いた。
「総次郎!まったく水臭いじゃないか。病なら病と手紙で知らせてくれたら良かったのに。お前が病と聞けば、すぐにでも部下に任せて帰って来たものを。」
彼女の目に飛び込んで来たのは、まるで母親のようにやさしく親友を抱き締めるシュタイナの姿だった。
「おっと、すまん。お取り込み中だったか。それなら私は応接室にでもいて、待っているよ。お二人さん、ゆっくり楽しんで…………。」
ルシィが寝室を出て行こうとすると、ゆっくりとシュタイナは首を振った。
「………………ルシィ、遅かったわ。」
涙声で放ったその言葉に弾かれるように、ルシィはベッドに駆け寄った。
近付いてすぐに理解した。
真っ暗な部屋の中で、血液特有の鉄の臭いが漂い、しかもそれが尋常なものではないことを。
「総次郎!!!!」
冷たく、返事をしない親友の前にルシィはただ成す術なく、親友の名前をただ泣き叫んでいた。
やがてルシィの命を受けて、医師たちが到着。
もっとも、この場合は治療ではなく、死亡の診断を下すためにすぎないけれど。
私にはルシィの気持ちが痛い程に伝わった。
ソウジが、死んだなんて思いたくない。
それでも認めなければならない。
だからこれは彼女にとって、別れの儀式。
せめて形だけでも認めてあげないと、死んだ彼が可哀想だから…。
「……シュタイナ、すまない。君には辛いことを押し付けてしまった。」
「…気に、しないで。」
部下たちの前で泣く訳にはいかないと、別室で泣き続けた彼女はパッと見は平常に戻ったようにも見えるが、付き合いの長い私には、やはりそれはガラスの虚勢で、まるでルシィが薄氷のように壊れてしまいそうに思えた。
「ルシィ、あなた……、ジパングの言葉ってわかる?」
「ああ、少しなら。総次郎をスカウトした時も、他にも公文書を作る時に必要だから、余程難しい言葉でない限りはわかるよ。」
その言葉を聞いて、私はルシィに両手を差し出した。
手の平には一文字ずつの彼の血で書かれたジパングの文字。
「……これは。」
「ソウジからの…………、贈り物…。きっと似合うからって…。」
ルシィの表情が、強張った。
そしてもう少しだけ詳しく聞くと、私の手の平を眺めると震える声で言った。
「左手から書いたと言っていたね。左の文字は『朱』と言って、夕焼けのように赤い色を表す。そして右手の文字は『美』。これは美しいという意味だ。」
その直前のオトズ会戦の思い出話が甦る。
思い出をなくさないで、というメッセージなのだろうか…。
「ジパングには、ある種独特の風習があってね。名前とは呪いなんだ。その者をその者たらしめる鎖が名前であり、名前を知られると言うことは、相手に命を握られるも同然なんだよ。そして逆もまた然り。名前を与えるというのは、その者に意味を、命を与えるんだよ。」
オトズ会戦の夕焼け。
甦った私の目に飛び込んだ最初の光景。
「君は、シュタイナはあの日に死んだといつも言っていたね。だから、総次郎は与えたんだ。君が生まれた日、ゾンビとして生まれ変わってくれた記念日を祝って……。シュタイナという名前を捨てるのであれば、それも良いだろう。でも……、これは魔王としての勅命だ。」
ルシィが力強く、私を抱き寄せて泣きながら命令を下した。
「この名を捨てることは許さない。総次郎が、君のために与えた命の意味を捨てることは、あいつの思いを捨てることを意味する。受け取るんだ。ずっとその名を名乗り続けるんだ。そうすれば、あいつは甦る。何度だって私たちの胸の中に、君がその名を名乗るたびに甦るんだ。
それにしても『朱美(アケミ)』か。
あいつにしてはなかなか気が利いてる良い名前じゃないか。」
―――――――――――――――――――――――
「それから私は旦那を娶り、君はあいつの跡を継ぐように元帥に就き、まだ若かった私をよく支えてくれて、突然元帥を辞めてしまった…。」
閉店した居酒屋のカウンターに二つの影。
薄明かりの店内で昔を懐かしむように酒を酌み交わすのは、割烹着姿のゾンビの女将とアラビア風の衣装を身に纏ったサキュバス。
「ある程度彼のやりたかったことを実現しちゃったもの。魔物たちだけじゃなく、魔界に暮らす誰もがあなたの膝元で生きる以上は、安らいで生きていけるように……。それだけが彼の願いだったんだもの。だから私の役目はお終い。後はあなたの力だけで十分だった。」
アケミはグラスに注いだウィスキーをチビリと飲む。
魔王も手酌で、グラスにテキーラを注いでいた。
「……そして、放浪の旅の末に私の分身の噂を聞き、この町に流れ着いて、この店を始めたということか。なかなか、お互いに縁が切れないな。」
「切れる訳がないじゃない。彼がお互いの心の中にいる限り、私たちはいつだって3人で夢を追いかけ続けているんだって言ったのは、どこのどいつだったかしら?」
何かツマミでも作るわ、とアケミはカウンターの椅子を立とうとする。
すると魔王は、それを制止した。
「たまには私が作ろう。」
「あら、珍しい。」
「良いさ。自由だったあの頃だったら、そう珍しくもないことだったのにな。楽しかったな……。あの頃は自由で、気楽で、3人で夢物語だけを追いかけて。いつの間にか君が欠け、あいつが欠けてしまって、私は玉座なんて不自由なものに座って…。」
厨房に立つと、魔王は従業員のエプロンを借りて、冷蔵庫から材料を取り出す。
ぎこちない手付きだったが、昔を思い出すように彼女は料理を始める。
「野菜炒めと豚肉のニンニク焼きで良いかな?」
「………やっぱり、今日来てくれたのは偶然じゃなかったんだね。」
「当たり前だ。あいつの命日を忘れる程、私は権力ボケしていない。」
貧しかった時代。
3人で盗んできた野菜と豚をよく食べていたね、とアケミはグラスの中の氷をカラン、と鳴らして、ジパング式の鈴(りん)の代わりにして、目を閉じて遠い昔の総次郎の姿を偲ぶ。
そして、普段はロウガ以外飲まない日本酒を、隣の席にそっと置く。
もしもここに来ているなら、一緒に飲めるようにと。
「そうだ、覚えているか。君の部下だったインキュバスのエルミールが、何世紀も跨いでついに結婚したぞ。生涯独身貴族を名乗るつもりだったらしいが、あのムッツリスケベ。自分の嫁にするなら貞淑で、慎み深くて、身分の高い人間の貴族の娘じゃないと嫌だなんて言ってたあいつが、ホルスタウロスに負けず劣らずの巨乳を誇るホブゴブリンを嫁に迎えたんだ。やっぱりこの柔らかさには何者も勝てないだと言っていたが、あいつ、何様のつもりなんだよ。」
「嘘!?あなたの娘ですら眼中になかったあいつが!?」
しめやかな思い出と、くだらない現在の笑い話が交差する。
湿っぽい話をソウジは好きじゃなかったね、とアケミは心の中で謝り、その晩はお互いに酒に呑まれて倒れてしまうまで、思い出話と新しい話題に笑い、翌日、店を開けるのが困難になるくらいに飲み続けていた。
居酒屋フラン軒。
その名は、自らの境遇を、何処かの国の恐怖物語に登場する化け物に例えた女将の駄洒落。
そして、彼女を愛して抜いた男との思い出を忘れないために、捨てた名前を拾い上げた、やさしくて暖かな愛情の記憶に由来するという。
しかし、それは誰も知らぬこと。
あなたも、これを誰か言ってはいけないのです。
この記憶は彼女のもの。
あの愛情は彼女のもの。
だから、あなたも胸にそっとしまっておかねばならないのです。
もしも約束を破ったら。
その時は、秘密の地下室で捻じ切られるかもしれませんよ?
すでに主のいない空き家。
今はただ懐かしさだけが、そこを訪れる者たちの胸に去来するだけ。
だがその懐かしさもすでに遠い昔。
彼女のみを残して、その屋敷の主の名を知る者はなし。
この物語は、
現魔王が長く続いた戦乱の末に玉座に座ったものの、未だ彼女を魔王と認めぬ抵抗勢力との小規模な戦が続いていた時代の、喪失と懐古の記憶である。
魔王軍初代元帥、源総次郎重綱(みなもとのそうじろうしげつな)。
魔王軍の記録に初めて記されたジパング出身者の人間である。
魔王をして、『その智謀は1000万の大軍に匹敵する』と言わしめ、魔王が玉座を得るに至る当時最大規模の戦争であった『オトズ会戦』にて最大敵勢力を討ち破り、魔王の基盤を磐石なものにしたことなど、多大な功績を残した魔王軍きっての大軍師として魔王軍創成期を記録した書物には筆頭で、その名が残されている。
また、当時はまだ政治闘争という陰鬱な戦いに疎かった魔王を陰ながら補佐し、敵勢力と通じて裏切りを打算する者、暗殺を以って魔王の首を狙う者たちや、特権を振り翳す大貴族との抗争など、政治的謀略渦巻く宮中の空気を一掃し、無秩序で無法地帯であった魔界に法を布き、幾億もの民の支持を以って、完全なる魔王独裁体制の基本骨子を確立するなど優れた政治家としての面も残されている。
もしも彼がインキュバスに転生し、魔王の補佐をし続けていたなら、今日までの教会勢力や神界との対立など存在せず、すべては彼の智略によって魔王の旗の下に統治されていたであろうと見る歴史研究家は少なくない。
しかし、歴史にもしもは存在しない。
それは魔王在位3年目の春の晩の出来事であった。
―――――――――――――――――――――――
屋敷の中には誰一人いなかった。
使用人も、誰も。
大きな屋敷はまるで巨大な牢獄のようにひっそりとしていた。
コフッ……。
コフッ……。
屋敷の奥、閉ざされた寝室の扉の向こうから渇いた咳。
扉の向こうは寝室になっていた。
ベッドの上には蒼白い顔をした男が横たわっていた。
男は魔王軍上級大将、源総次郎重綱。
総次郎は死病を病んでいた。
現在の医療技術であれば、助かったかもしれない病であったが、この当時は死病と恐れられ、誰もが感染を恐れて、彼の使用人ですら魔王軍最大の功労者を見捨てて屋敷を半ば封印する形で出て行ってしまったのである。
看病をする者はいない。
ただ一人を除いては…。
「ありがとう、シュタイナ。おかげで少し楽になった。」
「気にしないで。私にしか、あなたを看ることが出来ないんだから。」
女の名はシュタイナ=フランシェリン。
魔王軍陸戦大将として、魔王軍にその名を連ねる女性の一人であった。
人間でありながら源上級大将と共に魔王を補佐し、今日に至る繁栄を築いた総次郎と並ぶ功労者の一人なのだが、今、その身体は生ける死体、ゾンビとしての生を歩んでいた。
もっともその名はゾンビとなったその時から捨てられた。
誰もが王朝成立の功労者の一人である彼女を畏れ敬い、その名を口にすることを憚り、大将閣下、不死将軍などの敬称で彼女を呼ぶのだが、ただ2人だけは彼女の生前の名で呼び続けていた。
それは魔王と、病に臥した総次郎だけ。
その内の一人が今、彼女らの手の届かないところへ行くまいと必死になって戦っていた。
シュタイナはそんな総次郎を必死に看病した。
戦友として。
親友として。
そして、人間として生きていた頃からの恋人として。
「まったくついていないな。ルシィの留守を任されたというのに、この程度の病で歩けもしないとはな。兵はきちんと兵錬をやっているかい?諸侯たちはルシィの施政を忠実にこなしてるかい?」
「ソウジ、気になるのはわかるけど、今は心と身体をゆっくり休めないと治るものも治らないわ。みんなルシィの命令を忠実にこなして、あいつの帰りを待っているの。あなたには早く復帰してもらわないと、みんなの方が先に倒れてしまうわ。」
シュタイナは総次郎の額に置いた濡れタオルを水で洗うと、また彼の額に置き直す。
その冷たさに総次郎は気持ちの良さそうな表情を浮かべた。
魔王をルシィと呼ぶのは、彼らが魔王と旗揚げよりも前からの付き合いがあり、特にシュタイナは魔王の幼馴染であったからでもある。
今、魔王は親征を行っている。
敵は魔界制覇を成した魔王を認めぬ地方豪族が起こした反乱軍だったのだが、これはまだ人心が彼女に対してまだ懐疑的なためだという総次郎の進言により、魔王自らが出陣し、その姿を人々の前に現すことで王朝の安寧を計ると共に、圧倒的な大兵力を率いて未だ従わぬ地方豪族に対し、魔王軍の精強さを見せ付ける目的があった。
本来なら総次郎もシュタイナも、魔王に同行する立場だったのだが、若い人材の育成と、二人にはこれから内政面での活躍を期待した魔王の人事によって二人は残され、留守を任されていたのであった。
しかし、男は死病に侵され、女は一人で彼の分まで政務と看病に追われていた。
総次郎の残された時間は残り僅かだった。
―――――――――――――――――――――――
「シュタイナ!目を開けてくれ、シュタイナ!!」
激戦を極めたオトズ会戦。
大軍という心の隙間の不意を突き、敵軍は魔王軍の背後から奇襲をかけ、魔王軍本陣に無数の矢の雨を降らせた。
背後からの急襲に総次郎は自らも矢傷を負ったが、親友にして主君である魔王の姿と、恋人であるシュタイナの姿を矢の雨が途切れてすぐに探し続けた。
運良く、すぐに奇襲によって落馬し、倒れていたシュタイナを見付けることが出来、駆け寄り抱きかかえるが、彼はその光景に目を背けそうになった。
降り注いだ矢の一本が、シュタイナの心臓を貫いていたのである。
グッタリと力なく、段々と失われていく体温に彼は恐怖を感じていた。
シュタイナを、愛する者を失いたくないと。
「総次郎、無事か!?」
当時ルシフェルと名乗っていた魔王がやっとの思いで二人を見付け出して駆け寄るが、すでに事切れているシュタイナを見て言葉を失った。
「助けてくれよ…。シュタイナが…、シュタイナが…!」
最早外科治療は手遅れなのは目に見えていた。
それでも彼女の死を受け入れられない総次郎は、魔王に助けてくれと懇願する。
だが魔王は幼馴染のシュタイナのことを心の奥底に沈めた。
すでに彼女は一介の流浪のサキュバスという立場ではない。
何万、何十万、何百万という命を預かる王なのであった。
「総次郎……、策を…、言え。」
「ルシィ!!」
パンッ
乾いた音を発して、魔王は総次郎の頬に平手打ちをした。
一瞬だけ、時が止まる。
「シュタイナは何とかする。だが、総次郎。お前の仕事は何だ。思い出せ、お前は私の軍師だ。何百万という将兵がお前の舌一つで死に、お前の脳漿の具合如何で3人で見た夢は夢のまま散ってしまうのだ。さぁ、策を言え。私が悲しみに沈んでしまう前に!」
魔王は歯を食い縛って総次郎の胸座を掴む。
シュタイナという幼馴染を失い、悲しくて張り裂けそうな胸を、数え切れない命と3人で夢見た夢物語を無駄にしたくないという思いで、必死になって抑え込んでいた。
そして、総次郎はゆっくりと口を開いた。
「………兵を、前へ進めなさい。敵は奇襲に成功し、喜び勇んでおりますが、我が軍は大軍で被害は極小さなものでしょう。急襲に浮き足立ってはいますが半刻持ち堪えることが出来たなら、3000程の武勇に自信のある者たちを伏兵たちに向け、残る全軍、666万の兵を御身自ら率いて、奇襲成功に浮かれている敵正面を打ち破りなさい。味方は雪辱戦に燃えるでしょうが、もしも半刻経っても動揺が治まらないのあれば、その時は潔く負けを認め、領土に引き返すなり、敵の軍門に降るなり好きにすればよろしいでしょう。」
「半刻あれば十分だ。兵たちの動揺を治め、シュタイナを何とかするには十分すぎる。総次郎、シュタイナを失って辛いだろうが……、諸将に伝令を頼まれてくれるか。兵を立て直せ、半刻後に打って出ると。」
「御意に。」
涙を拭いて総次郎はシュタイナの乗っていた馬に跨ると、各将軍の下へと駆け出した。
その後姿を見詰めながら、魔王は腕の中で冷たくなったシュタイナの顔を撫で、心臓に突き刺さった矢を見詰め涙を流して呟いた。
「許してくれ……。君を人間として人生を終えさせてやれなかった私を君は怨むだろう。君の死に対し、冷たく、より多くの命と君一人の命を天秤に賭けてしまった私を…。そして……、君に生きてほしいと願う私の我侭で、世界の法則を捻じ曲げる私を許してくれ…。」
こうしてシュタイナは死に、ゾンビへと生まれ変わった。
だが通常のゾンビと違い、人間らしさと生前の聡明さは失われなかった。
魔王が直接魔力を吹き込んだからなのか。
それとも魔王がそう望んだからなのか。
今となっては、もうわからない。
―――――――――――――――――――――――
「ルシィを怨んでいるか?」
「え……、いきなりどうしたの?」
「……少し、寝ていたらしい。オトズ会戦の夢を見ていた。」
突然、ソウジにあいつを怨んでいるかと聞かれて困惑したけど、その続く言葉を聞いて私は納得がいき、そうね、と短く答えた。
「勝手に私のことを甦らせて、ゾンビになんかにして。怨まない方がどうかしていると思うわ。でも今は感謝しているの。誰もが見放したあなたの看病が出来るんだから。それとね、ソウジ。シュタイナは死んだの。今の私はシュタイナという人間の抜け殻、今は名もなきゾンビなのよ。」
ソウジの額にキスをする。
あいつは私たちが二人きりの時間を過ごせるようにという配慮をしてくれたんだと思うけど、結果的に私たちは残されて良かったと思う。
もしも陣中で発症すれば、それだけで全軍崩壊の危機を迎えかねないし、何よりあいつがこの病に罹ってしまうのだけは避けたい。
そしてシュタイナという名前は、あの日の会戦で捨てた。
私は死に、今の私は夢の残骸に縋って生きる外法の死者。
今でもシュタイナと呼ぶのは、ルシィと名乗っていたあいつとソウジだけ。
「覚えているか…。オトズ会戦に勝利したあの日の夕焼けを。あの一手をしくじったら今の魔王軍はなかった。嗚呼……、魔王軍の旗が無数に翻る大地を、太陽が朱に染めていた光景は忘れられない。本当に、美しかったなぁ…。」
「そうだったね。私は死体の身体で目を覚ましたばかりだったね。そして初めて目にした光景は、あの夕焼けと泣きながら私の目覚めを喜ぶあなたたちだった。あの光景と嬉しさは忘れられないなぁ。本当に綺麗で、私のことを失いたくないって心から願ってくれる人がこの世に2人もいたんだものね。」
「本当に…………、綺麗だったなぁ………。」
「…………ソウジ?」
ゴブッ……!!
それは唐突にやってきた。
今までにない水っぽい咳だと思った瞬間、まるで何かが破裂したようにソウジは血を吐き出した。
「ソウジ!!!」
細い管を流れるような呼吸と大量の血液がベッドを赤く染める。
慌ててソウジを抱きかかえると、彼は首を振って弱弱しい声で言った。
「……よせよ。…………せっかく、……き……綺麗な服……、着ているのに…、汚れる………、じゃ……ないか…ね。」
「馬鹿、喋らないで!!すぐ医者を連れてくるから。」
腕の中で彼は首を振る。
服の袖を掴んで、どこにも行かないでほしいと懇願した。
「最後の………、我侭…、だからさ…。」
泣きそうになりながら、震えるままに私は強く彼を抱き締めた。
咳き込むと同時、大量の血液が溢れ出す。
せめて気道だけは楽にしてあげたいと上体を起こしてあげると、彼は微笑んで私の胸に顔を押し当て、まるで母に縋る赤子のように意識を失った。
…………………
……………
………
あの日のような夕焼けが、寝室の窓から入り込んでいた。
腕越しに彼の体温が、呼吸が、鼓動が徐々に弱くなっていくのを感じていた。
やっと吐血は止まった。
しかし意識を失った彼は、徐々に冥府へと旅立っていく。
彼の死を受け止めなければならない。
でも受け入れられない私は、いつしか願っていた。
「お願い……。まだ、ソウジを連れて行かないで…!魔王軍には………、いや…、私の人生にまだソウジが必要なの!!もう少しだけ、もう少しだけ連れて行くのを待ってよ…!
お願いだから……、連れて行かないで…、みんな……!!!」
今の時代を作るために死んでいった仲間たちに私は願った。
連れて行くのは良い。
でも、それはもっと遠い未来まで待って欲しいと。
それでもゆっくりと時間だけは過ぎていく。
「…………………遅いな、ルシィは。」
「……ソウジ、ごめん。目が覚めちゃった?」
血塗れの手でソウジは、涙で濡れた私の頬をやさしく撫でる。
その温もりを放したくなくて、その手に私の手を上から被せて握った。
また、小さく咳き込む。
「…………あいつなら、あの程度の反乱をさっさと鎮めて、今日中には帰ってくると思って頑張っていたんだがな…。酷いやつだ、あいつは。あいつが来るまでは、生きてやろうかと思っていたのにな……。」
「………………!!死なせない!今度は私があなたを死なせてあげない!!あなたが自分の人生を全うして死ぬその日まで死なせないから!!!」
ソウジは、ただ黙って首を振る。
ただ黙って、私の左の手の平を開かせると、吐き出した血でジパングの文字を一字記した。
「………そっちも。」
同じように右の手の平にも。
ジパングの文字がよくわからない私は困惑したが、彼は咳き込みながら言った。
「……俺から、最後の贈り物だ。きっと………、よく……似合う。」
「やだ!最後なんて嫌だ!!ルシィが、あいつが戻ってくるまで頑張ろうよ!!そこまで頑張れたら、次の朝日を一緒に見よう。それをずっと繰り返そうよ!!!!」
ソウジは、また目を閉じると、赤子みたいに私の胸に顔を摺り寄せた。
そして、今までにない深い息を吐くと、安らいだような声で言った。
「シュタイナ……………、お前の…………幸せを………、ずっと………、願っている。ずっと………、愛して……………………………。」
その言葉は途切れ、
二度と言葉を紡ぐことはなかった。
源総次郎重綱、享年32歳。
死後、魔王軍初代元帥として諡される。
壮絶な人生を歩んだ稀代の英傑は、蒼天の彼方へと愛しい者を残して旅立った。
―――――――――――――――――――――――
ドタドタドタドタ……
半ば封印された屋敷を鎧姿の女が無遠慮に歩く。
日付は変わり、本来なら友人の家とは言え、遠慮するべき時間であった。
だが、彼女は聞いてしまった。
無二の友が重い病に臥せっていると、帰国早々に知らされたのだった。
ルシィと名乗る王は、部下であり、友であり、建国の苦労を分かち合った掛け替えのない仲間の下へと、急いだのである。
そして、彼女は男の寝室の扉を勢い良く開いた。
「総次郎!まったく水臭いじゃないか。病なら病と手紙で知らせてくれたら良かったのに。お前が病と聞けば、すぐにでも部下に任せて帰って来たものを。」
彼女の目に飛び込んで来たのは、まるで母親のようにやさしく親友を抱き締めるシュタイナの姿だった。
「おっと、すまん。お取り込み中だったか。それなら私は応接室にでもいて、待っているよ。お二人さん、ゆっくり楽しんで…………。」
ルシィが寝室を出て行こうとすると、ゆっくりとシュタイナは首を振った。
「………………ルシィ、遅かったわ。」
涙声で放ったその言葉に弾かれるように、ルシィはベッドに駆け寄った。
近付いてすぐに理解した。
真っ暗な部屋の中で、血液特有の鉄の臭いが漂い、しかもそれが尋常なものではないことを。
「総次郎!!!!」
冷たく、返事をしない親友の前にルシィはただ成す術なく、親友の名前をただ泣き叫んでいた。
やがてルシィの命を受けて、医師たちが到着。
もっとも、この場合は治療ではなく、死亡の診断を下すためにすぎないけれど。
私にはルシィの気持ちが痛い程に伝わった。
ソウジが、死んだなんて思いたくない。
それでも認めなければならない。
だからこれは彼女にとって、別れの儀式。
せめて形だけでも認めてあげないと、死んだ彼が可哀想だから…。
「……シュタイナ、すまない。君には辛いことを押し付けてしまった。」
「…気に、しないで。」
部下たちの前で泣く訳にはいかないと、別室で泣き続けた彼女はパッと見は平常に戻ったようにも見えるが、付き合いの長い私には、やはりそれはガラスの虚勢で、まるでルシィが薄氷のように壊れてしまいそうに思えた。
「ルシィ、あなた……、ジパングの言葉ってわかる?」
「ああ、少しなら。総次郎をスカウトした時も、他にも公文書を作る時に必要だから、余程難しい言葉でない限りはわかるよ。」
その言葉を聞いて、私はルシィに両手を差し出した。
手の平には一文字ずつの彼の血で書かれたジパングの文字。
「……これは。」
「ソウジからの…………、贈り物…。きっと似合うからって…。」
ルシィの表情が、強張った。
そしてもう少しだけ詳しく聞くと、私の手の平を眺めると震える声で言った。
「左手から書いたと言っていたね。左の文字は『朱』と言って、夕焼けのように赤い色を表す。そして右手の文字は『美』。これは美しいという意味だ。」
その直前のオトズ会戦の思い出話が甦る。
思い出をなくさないで、というメッセージなのだろうか…。
「ジパングには、ある種独特の風習があってね。名前とは呪いなんだ。その者をその者たらしめる鎖が名前であり、名前を知られると言うことは、相手に命を握られるも同然なんだよ。そして逆もまた然り。名前を与えるというのは、その者に意味を、命を与えるんだよ。」
オトズ会戦の夕焼け。
甦った私の目に飛び込んだ最初の光景。
「君は、シュタイナはあの日に死んだといつも言っていたね。だから、総次郎は与えたんだ。君が生まれた日、ゾンビとして生まれ変わってくれた記念日を祝って……。シュタイナという名前を捨てるのであれば、それも良いだろう。でも……、これは魔王としての勅命だ。」
ルシィが力強く、私を抱き寄せて泣きながら命令を下した。
「この名を捨てることは許さない。総次郎が、君のために与えた命の意味を捨てることは、あいつの思いを捨てることを意味する。受け取るんだ。ずっとその名を名乗り続けるんだ。そうすれば、あいつは甦る。何度だって私たちの胸の中に、君がその名を名乗るたびに甦るんだ。
それにしても『朱美(アケミ)』か。
あいつにしてはなかなか気が利いてる良い名前じゃないか。」
―――――――――――――――――――――――
「それから私は旦那を娶り、君はあいつの跡を継ぐように元帥に就き、まだ若かった私をよく支えてくれて、突然元帥を辞めてしまった…。」
閉店した居酒屋のカウンターに二つの影。
薄明かりの店内で昔を懐かしむように酒を酌み交わすのは、割烹着姿のゾンビの女将とアラビア風の衣装を身に纏ったサキュバス。
「ある程度彼のやりたかったことを実現しちゃったもの。魔物たちだけじゃなく、魔界に暮らす誰もがあなたの膝元で生きる以上は、安らいで生きていけるように……。それだけが彼の願いだったんだもの。だから私の役目はお終い。後はあなたの力だけで十分だった。」
アケミはグラスに注いだウィスキーをチビリと飲む。
魔王も手酌で、グラスにテキーラを注いでいた。
「……そして、放浪の旅の末に私の分身の噂を聞き、この町に流れ着いて、この店を始めたということか。なかなか、お互いに縁が切れないな。」
「切れる訳がないじゃない。彼がお互いの心の中にいる限り、私たちはいつだって3人で夢を追いかけ続けているんだって言ったのは、どこのどいつだったかしら?」
何かツマミでも作るわ、とアケミはカウンターの椅子を立とうとする。
すると魔王は、それを制止した。
「たまには私が作ろう。」
「あら、珍しい。」
「良いさ。自由だったあの頃だったら、そう珍しくもないことだったのにな。楽しかったな……。あの頃は自由で、気楽で、3人で夢物語だけを追いかけて。いつの間にか君が欠け、あいつが欠けてしまって、私は玉座なんて不自由なものに座って…。」
厨房に立つと、魔王は従業員のエプロンを借りて、冷蔵庫から材料を取り出す。
ぎこちない手付きだったが、昔を思い出すように彼女は料理を始める。
「野菜炒めと豚肉のニンニク焼きで良いかな?」
「………やっぱり、今日来てくれたのは偶然じゃなかったんだね。」
「当たり前だ。あいつの命日を忘れる程、私は権力ボケしていない。」
貧しかった時代。
3人で盗んできた野菜と豚をよく食べていたね、とアケミはグラスの中の氷をカラン、と鳴らして、ジパング式の鈴(りん)の代わりにして、目を閉じて遠い昔の総次郎の姿を偲ぶ。
そして、普段はロウガ以外飲まない日本酒を、隣の席にそっと置く。
もしもここに来ているなら、一緒に飲めるようにと。
「そうだ、覚えているか。君の部下だったインキュバスのエルミールが、何世紀も跨いでついに結婚したぞ。生涯独身貴族を名乗るつもりだったらしいが、あのムッツリスケベ。自分の嫁にするなら貞淑で、慎み深くて、身分の高い人間の貴族の娘じゃないと嫌だなんて言ってたあいつが、ホルスタウロスに負けず劣らずの巨乳を誇るホブゴブリンを嫁に迎えたんだ。やっぱりこの柔らかさには何者も勝てないだと言っていたが、あいつ、何様のつもりなんだよ。」
「嘘!?あなたの娘ですら眼中になかったあいつが!?」
しめやかな思い出と、くだらない現在の笑い話が交差する。
湿っぽい話をソウジは好きじゃなかったね、とアケミは心の中で謝り、その晩はお互いに酒に呑まれて倒れてしまうまで、思い出話と新しい話題に笑い、翌日、店を開けるのが困難になるくらいに飲み続けていた。
居酒屋フラン軒。
その名は、自らの境遇を、何処かの国の恐怖物語に登場する化け物に例えた女将の駄洒落。
そして、彼女を愛して抜いた男との思い出を忘れないために、捨てた名前を拾い上げた、やさしくて暖かな愛情の記憶に由来するという。
しかし、それは誰も知らぬこと。
あなたも、これを誰か言ってはいけないのです。
この記憶は彼女のもの。
あの愛情は彼女のもの。
だから、あなたも胸にそっとしまっておかねばならないのです。
もしも約束を破ったら。
その時は、秘密の地下室で捻じ切られるかもしれませんよ?
11/04/08 20:10更新 / 宿利京祐