第八十二話・胎動
「夜襲……、だと!?」
昼間の敗退を受けて、ヴァルハリアと旧フウム王国残党の首脳陣は諸将を招集し、如何にして軍中に蔓延しつつある帝国への恐れを取り除き、後退した戦局を覆すかという軍議を設けていたのだが、そこにヴァルハリア教会騎士団ヒロ=ハイルは、帝国軍とセラエノ軍が昼間の大勝に乗じて夜襲を決行してくるかもしれないと提言した。
「…馬鹿な。若輩者のそなたの心配はまさしく杞憂だ。第一、夜襲など蛮族の行為。伝統と秩序を重んじれば、夜襲の如き蛮行は卑怯者と罵られて然るべき行為だ。」
旧フウム王国側の将軍、エリオット=リッターはフィリップ王に代わりヒロ=ハイルの言葉に、夜襲などありえないと反論した。
その言葉にいずれの将軍も頷いた。
もちろんフィリップ王もヴァルハリア教会の高僧や大司教もである。
いつもであれば、ヒロもこの時点で退いていたのだが、昼間の敗戦において彼は、味方がいくら数の上で圧倒的に有利であったとしても帝国軍をあまりに舐めていたことに我慢が出来なかった。
「伝統…、確かにそうです。我々はその伝統と信仰と共に今日まで生きてきました。しかし、思い返してください。帝国は、その伝統を捨てたのです!どんな大軍とも正々堂々正面から戦うべきだと考えてきた伝統を、昼間の決戦で捨てたではありませんか!勝ち戦と思っていた戦いで、一瞬の内に約半数の兵を失った。すでにヴァルハリア領民の間には、次の瞬間にはどんな大魔法で被害を受けるのかという不安が広がっています。敵陣にバフォメットがいる限り、いつまた大魔法で攻撃されるともわからないというのも事実ですが、今は堅固な陣を敷かれてしまい帝国の守護神を名乗る魔物を討つのは実質不可能。それならば、せめて不意の攻撃に備えることで兵卒たちの動揺を抑えたいと存じます。」
ヒロの言葉は的確だった。
まずは兵士の動揺を治め、それから大打撃を受けてしまった味方の再編成を行い、然るべき時に帝国へ反撃に打って出るべきだと主張する。
軍議の末席に座るハインケルは内心、穏やかではなかった。
すでにクロコを通じて、セラエノ軍が夜襲を行うという情報を得ており、彼はその夜襲を成功させるべく、その危険性を一切指摘しないようにしていたのだが、まさか何も情報源も持たない一介の騎士団長によって看破されていようとは夢にも思っていなかった。
ハインケルの調査におけるヒロ=ハイルの評価は低かった。
それなりの人望は持っていたものの発言権は限りなく低く、穏やかな人物ではあるものの礼節を重んじる典型的な騎士道精神に忠実であり、またどちらかと言えば寡黙な人であったためか、ハインケルにとってはあまり害のない人物であるという認識であった。
ハインケルはヒロの認識を改める。
その認識は必要とあらば、彼に対し暗殺も辞さないという程、危険認識レベルを引き上げたのだった。
「………フィリップ王よ、認めようではないか。」
「大司教猊下!?」
大司教ユリアスがその重い口を開いた。
大司教は認めたのだ。
帝国やセラエノ軍の強さを。
そして改めて彼らが神の国成就の最大の障壁であると。
「私たちはあまりに驕っていたように思える。圧倒的な兵力差に安心しきり、細心の注意を怠り、それ故に私たちは神により罰を受けたのだと思えるのだ。神の国成就を成さんとすれば、より慎重にならねばならない。」
大司教ユリアスの発言にフィリップ王は畏まって従った。
実はフィリップ王自身、今のこの不利な状況を恐れていた。
それは兵の数も大きく減り、昼間の敗戦がこの先ずっと影響し、教会との理想が成就出来なくなるのではないかという不安からではなく、もしもこの敗戦の責任を取らされて連合軍総司令官の任を解かれ、ヴァルハリア教会から破門を言い渡されるのではないかという不安から来る恐れであった。
教会からの破門は、即フィリップ王の破滅を意味していた。
国を失い、兵を失い続け、本国においては廃位され正式な王ではない彼が未だ王と同じ待遇を受けていられるのも、ヴァルハリア教会が本国ジャン1世の即位を認めず、まだフィリップこそがフウム王国の王として教会の庇護の下で認定されているからであった。
しかし、大司教ユリアスの言葉でフィリップ王は救われた。
この度の敗戦の責任は、自らの驕りであると宣言したことにより、フィリップ王は大敗の責を負わずに済んだのである。
最高権力者が責任を認めたことで、誰も責任の擦り付け合いを出来なくなった。
故意か偶然か、諸将分裂の危機を大司教は救ったのである。
「勇者ハインケル、この危機を脱する良い策はないものか。」
大司教ユリアスはハインケルに助言を求めた。
連合軍をうまく誘導するのが彼の役目である。
そのためにいくつか策を用意していたのであるが、ヒロ=ハイルのこの軍議における急激な台頭によって、その策のいくつかを半ば封じられてしまったのである。
時間をかけて練り直さねば、とハインケルは考え、彼にしては珍しく消極的な案で大司教ユリアスに答えた。
「教会騎士団長殿と同意見です。ここは演習場ではなく戦場。あらゆる危険を想定しておく必要があるでしょう。それについては、私にも考えがございます。」
夜襲を行うセラエノ軍が侵入するであろう経路に、ヴァルハリア教会騎士団と領民兵をその武で鎮めた沈黙の天使騎士団を配置する、とハインケルは提言した。
これにはヒロ=ハイル以下教会騎士団の戦力を削いでおきたいという狙いと、沈黙の天使騎士団は敢えて動き辛い場所に配置することによって、防衛失敗した彼らと王国残党との溝をさらに深くし、連合軍からの離反の道筋にうまく運びたいという思惑があった。
養子、リトル=アロンダイトからハインケルについて報告を受けていたファラ=アロンダイトは、彼の思惑を感じ取り、誰にも気付かれぬように笑うと、その任を二つ返事で引き受けた。
後にルオゥム戦役と呼ばれ、長く語り継がれていくことになるこの戦争は、こうして動き始める。
その大軍故に無為無策であった連合軍はクスコ川侵攻戦に敗退し、これにより軍首脳陣が勢力的に衰え始め、誰もが若輩者と軽視していたヴァルハリア教会騎士団長ヒロ=ハイルの台頭を許すことになる。
これは後に、かの聖騎士ヴァル=フレイヤの再来と加護の賜物と言われ、魔王軍特殊部隊長ハインケル=ゼファーにとって、当初の混乱の内に無能な教会勢力を徐々に気付かぬうちに破滅へと導くという計画の変更を余儀なくされ、常に目を光らせているヒロの台頭のおかげで、彼は長い雌伏の時を過ごさなければならなくなったのである。
すべては一人の人間の思い通りにいかないもの。
歴史は雄弁に語る。
しかし、このハインケル=ゼファーとヒロ=ハイルの連合軍内における対立が後世、彼らやこの時代を題材とする物語において最高の見せ場になり、様々な人々に影響を与えていく、などということは彼ら本人には知り得ない事柄であった。
―――――――――――――――――――――――
夜の闇に紛れて、紅龍雅は僅か300の騎兵を引き連れ、連合軍の陣を目指す。
幸い月はなく、風が強く吹き、木々を揺らす音が馬の足音を隠してくれる。
夜襲を行うには最適な夜だった。
しかし彼らに油断はない。
常に物見を先行させ、敵の待ち伏せがないか、罠などの設置がないかという報告を聞きながらの進軍であった。
ここは自分たちの土地ではない。
土地勘がないのは同じ条件であるが、同じ条件に甘えていれば昼間の連合軍と同じ目に遭うのだと、龍雅も彼に従う傭兵たちもしっかりと理解していた。
「龍雅、良い夜ですね。」
物見が帰ってくるまで待機をしている間、アルフォンスは兜を脱ぎ、長い髪を風になびかせ、冷たい夜の風を心地良さそうに楽しんでいた。
砂漠に生まれ育った彼女の褐色の肌と黒く艶やかな髪が、まるでアラビアンナイトの物語のような幻想的な世界にいるような錯覚を誰もに与える。
「これが戦場でなければ、もっと良かったのに。」
「そうか、俺は戦場でも構わないと思うぞ。俺たち大和の戦人(いくさびと)は戦場でなければ、この存在価値を見出せない。そのせいかな。アルフォンス、お前が傍でその武を奮う姿がこの上なく美しいと思えてしまう。」
「……そ、それでしたら…。」
消え入りそうな声でアルフォンスは嬉しいと口篭る。
そんなやり取りを傭兵たちは微笑ましく見ていた。
誰もが故郷に残してきた家族や、馴染みの娼婦、恋人たちを思い出しては、自分たちは所詮使い捨ての傭兵であっても、この戦には何が何で生き残ってやるという強い決意を新たにした。
「そ、それはそうと…、夜襲をかけるというのにこの程度の兵力しか連れて来ないとは、何か狙いがあるのですか?兵力に不安があるのでしたら、ノエル陛下に頼んで兵を借りることも出来たと思うのですけど…。」
事実、昼間の戦闘における水計の手腕、その後の混乱に乗じて追撃をかけ、連合軍からクスコ川を完全に奪い返し、3里も後退させた功によりセラエノ軍はノエル帝だけではなく、帝国軍兵卒に至るまで最前線で戦う者たちの信頼を勝ち取っていたのだが、龍雅は敢えて未だ新兵の域を出ないセラエノ軍だけで今回の夜襲を行うと決めた。
「アルフォンス、この夜襲は成功しなくても良いんだ。」
「え?」
成功しなくても良い策などあるのか。
アルフォンスは不思議そうな顔をして龍雅を見る。
「成功しなくても良いんだ。今回の夜襲は言わば威嚇。俺たちの紅蝶旗が帝国軍に翻っている間は何度でも痛い目に遭うぞ、というな。俺の狙いは持久戦なんだよ。今も出来すぎた戦果だが、時期を見て連中の長く伸び切った補給路を断ち、軍勢の維持が困難になる状況を作るのが俺の……、いや、沢木の狙いだ。だから別に今回の夜襲は成功しなくても良い。これは言ってみりゃ訓練の延長なんだから。」
彼が何故セラエノ軍だけで今回の夜襲を行うのか。
それは長期的な戦になることを見越して、魔物とは言え戦場においては未だ新兵の域を出ない味方を、ただでさえ訓練を課す時間など与えることが出来ないからこういう時に鍛えていこうという魂胆があった。
そしてこの少ない兵力で動いたのも、新月の夜の暗闇を利用して連合軍に同士討ちを誘おうとする狙いもあったのである。
「そういうこと、でしたか…と、物見が帰ってきましたよ。」
物見として先行していた者が戻ってくる。
成功しなくても良いということであったが、これはあくまで奇襲であるため、静かに行動せよ、という命令を無視して大慌てで馬を走らせてくる物見の彼に、龍雅は何か不審なものを感じ取った。
「何があった。」
物見の男は息切れをしながら言った。
「ぜ、前方に敵軍が待ち伏せしております!あちらもそれ程多くはないのですが、我が軍の奇襲を看破した上で、あちらの将が紅将軍との一騎討ちを所望しておられます!」
「ほう。」
龍雅の顔に喜びの色が浮かぶ。
「看破して尚、よもや俺に一騎討ちとは…。なるほどなるほど、わざわざ俺を指名するくらいだから、俺を討てば戦局が変わると睨んでいるようだな。それとも昼間、張り切って働きすぎたかな?まったくモテる男は辛いね。して、俺を指名するのは何処の将か。」
「ヴァルハリア教会騎士団長、ヒロ=ハイルでございます!」
この頃、ヴァルハリア教会領の近隣諸国にはそこそこ名の知られていたヒロ=ハイルではあったが、これが彼と幾度となく名勝負を繰り広げ、その勝負によってその名を才覚と武勇と共に広げていくことになるセラエノ軍大将、紅龍雅とのファーストコンタクトであった。
昼間の敗退を受けて、ヴァルハリアと旧フウム王国残党の首脳陣は諸将を招集し、如何にして軍中に蔓延しつつある帝国への恐れを取り除き、後退した戦局を覆すかという軍議を設けていたのだが、そこにヴァルハリア教会騎士団ヒロ=ハイルは、帝国軍とセラエノ軍が昼間の大勝に乗じて夜襲を決行してくるかもしれないと提言した。
「…馬鹿な。若輩者のそなたの心配はまさしく杞憂だ。第一、夜襲など蛮族の行為。伝統と秩序を重んじれば、夜襲の如き蛮行は卑怯者と罵られて然るべき行為だ。」
旧フウム王国側の将軍、エリオット=リッターはフィリップ王に代わりヒロ=ハイルの言葉に、夜襲などありえないと反論した。
その言葉にいずれの将軍も頷いた。
もちろんフィリップ王もヴァルハリア教会の高僧や大司教もである。
いつもであれば、ヒロもこの時点で退いていたのだが、昼間の敗戦において彼は、味方がいくら数の上で圧倒的に有利であったとしても帝国軍をあまりに舐めていたことに我慢が出来なかった。
「伝統…、確かにそうです。我々はその伝統と信仰と共に今日まで生きてきました。しかし、思い返してください。帝国は、その伝統を捨てたのです!どんな大軍とも正々堂々正面から戦うべきだと考えてきた伝統を、昼間の決戦で捨てたではありませんか!勝ち戦と思っていた戦いで、一瞬の内に約半数の兵を失った。すでにヴァルハリア領民の間には、次の瞬間にはどんな大魔法で被害を受けるのかという不安が広がっています。敵陣にバフォメットがいる限り、いつまた大魔法で攻撃されるともわからないというのも事実ですが、今は堅固な陣を敷かれてしまい帝国の守護神を名乗る魔物を討つのは実質不可能。それならば、せめて不意の攻撃に備えることで兵卒たちの動揺を抑えたいと存じます。」
ヒロの言葉は的確だった。
まずは兵士の動揺を治め、それから大打撃を受けてしまった味方の再編成を行い、然るべき時に帝国へ反撃に打って出るべきだと主張する。
軍議の末席に座るハインケルは内心、穏やかではなかった。
すでにクロコを通じて、セラエノ軍が夜襲を行うという情報を得ており、彼はその夜襲を成功させるべく、その危険性を一切指摘しないようにしていたのだが、まさか何も情報源も持たない一介の騎士団長によって看破されていようとは夢にも思っていなかった。
ハインケルの調査におけるヒロ=ハイルの評価は低かった。
それなりの人望は持っていたものの発言権は限りなく低く、穏やかな人物ではあるものの礼節を重んじる典型的な騎士道精神に忠実であり、またどちらかと言えば寡黙な人であったためか、ハインケルにとってはあまり害のない人物であるという認識であった。
ハインケルはヒロの認識を改める。
その認識は必要とあらば、彼に対し暗殺も辞さないという程、危険認識レベルを引き上げたのだった。
「………フィリップ王よ、認めようではないか。」
「大司教猊下!?」
大司教ユリアスがその重い口を開いた。
大司教は認めたのだ。
帝国やセラエノ軍の強さを。
そして改めて彼らが神の国成就の最大の障壁であると。
「私たちはあまりに驕っていたように思える。圧倒的な兵力差に安心しきり、細心の注意を怠り、それ故に私たちは神により罰を受けたのだと思えるのだ。神の国成就を成さんとすれば、より慎重にならねばならない。」
大司教ユリアスの発言にフィリップ王は畏まって従った。
実はフィリップ王自身、今のこの不利な状況を恐れていた。
それは兵の数も大きく減り、昼間の敗戦がこの先ずっと影響し、教会との理想が成就出来なくなるのではないかという不安からではなく、もしもこの敗戦の責任を取らされて連合軍総司令官の任を解かれ、ヴァルハリア教会から破門を言い渡されるのではないかという不安から来る恐れであった。
教会からの破門は、即フィリップ王の破滅を意味していた。
国を失い、兵を失い続け、本国においては廃位され正式な王ではない彼が未だ王と同じ待遇を受けていられるのも、ヴァルハリア教会が本国ジャン1世の即位を認めず、まだフィリップこそがフウム王国の王として教会の庇護の下で認定されているからであった。
しかし、大司教ユリアスの言葉でフィリップ王は救われた。
この度の敗戦の責任は、自らの驕りであると宣言したことにより、フィリップ王は大敗の責を負わずに済んだのである。
最高権力者が責任を認めたことで、誰も責任の擦り付け合いを出来なくなった。
故意か偶然か、諸将分裂の危機を大司教は救ったのである。
「勇者ハインケル、この危機を脱する良い策はないものか。」
大司教ユリアスはハインケルに助言を求めた。
連合軍をうまく誘導するのが彼の役目である。
そのためにいくつか策を用意していたのであるが、ヒロ=ハイルのこの軍議における急激な台頭によって、その策のいくつかを半ば封じられてしまったのである。
時間をかけて練り直さねば、とハインケルは考え、彼にしては珍しく消極的な案で大司教ユリアスに答えた。
「教会騎士団長殿と同意見です。ここは演習場ではなく戦場。あらゆる危険を想定しておく必要があるでしょう。それについては、私にも考えがございます。」
夜襲を行うセラエノ軍が侵入するであろう経路に、ヴァルハリア教会騎士団と領民兵をその武で鎮めた沈黙の天使騎士団を配置する、とハインケルは提言した。
これにはヒロ=ハイル以下教会騎士団の戦力を削いでおきたいという狙いと、沈黙の天使騎士団は敢えて動き辛い場所に配置することによって、防衛失敗した彼らと王国残党との溝をさらに深くし、連合軍からの離反の道筋にうまく運びたいという思惑があった。
養子、リトル=アロンダイトからハインケルについて報告を受けていたファラ=アロンダイトは、彼の思惑を感じ取り、誰にも気付かれぬように笑うと、その任を二つ返事で引き受けた。
後にルオゥム戦役と呼ばれ、長く語り継がれていくことになるこの戦争は、こうして動き始める。
その大軍故に無為無策であった連合軍はクスコ川侵攻戦に敗退し、これにより軍首脳陣が勢力的に衰え始め、誰もが若輩者と軽視していたヴァルハリア教会騎士団長ヒロ=ハイルの台頭を許すことになる。
これは後に、かの聖騎士ヴァル=フレイヤの再来と加護の賜物と言われ、魔王軍特殊部隊長ハインケル=ゼファーにとって、当初の混乱の内に無能な教会勢力を徐々に気付かぬうちに破滅へと導くという計画の変更を余儀なくされ、常に目を光らせているヒロの台頭のおかげで、彼は長い雌伏の時を過ごさなければならなくなったのである。
すべては一人の人間の思い通りにいかないもの。
歴史は雄弁に語る。
しかし、このハインケル=ゼファーとヒロ=ハイルの連合軍内における対立が後世、彼らやこの時代を題材とする物語において最高の見せ場になり、様々な人々に影響を与えていく、などということは彼ら本人には知り得ない事柄であった。
―――――――――――――――――――――――
夜の闇に紛れて、紅龍雅は僅か300の騎兵を引き連れ、連合軍の陣を目指す。
幸い月はなく、風が強く吹き、木々を揺らす音が馬の足音を隠してくれる。
夜襲を行うには最適な夜だった。
しかし彼らに油断はない。
常に物見を先行させ、敵の待ち伏せがないか、罠などの設置がないかという報告を聞きながらの進軍であった。
ここは自分たちの土地ではない。
土地勘がないのは同じ条件であるが、同じ条件に甘えていれば昼間の連合軍と同じ目に遭うのだと、龍雅も彼に従う傭兵たちもしっかりと理解していた。
「龍雅、良い夜ですね。」
物見が帰ってくるまで待機をしている間、アルフォンスは兜を脱ぎ、長い髪を風になびかせ、冷たい夜の風を心地良さそうに楽しんでいた。
砂漠に生まれ育った彼女の褐色の肌と黒く艶やかな髪が、まるでアラビアンナイトの物語のような幻想的な世界にいるような錯覚を誰もに与える。
「これが戦場でなければ、もっと良かったのに。」
「そうか、俺は戦場でも構わないと思うぞ。俺たち大和の戦人(いくさびと)は戦場でなければ、この存在価値を見出せない。そのせいかな。アルフォンス、お前が傍でその武を奮う姿がこの上なく美しいと思えてしまう。」
「……そ、それでしたら…。」
消え入りそうな声でアルフォンスは嬉しいと口篭る。
そんなやり取りを傭兵たちは微笑ましく見ていた。
誰もが故郷に残してきた家族や、馴染みの娼婦、恋人たちを思い出しては、自分たちは所詮使い捨ての傭兵であっても、この戦には何が何で生き残ってやるという強い決意を新たにした。
「そ、それはそうと…、夜襲をかけるというのにこの程度の兵力しか連れて来ないとは、何か狙いがあるのですか?兵力に不安があるのでしたら、ノエル陛下に頼んで兵を借りることも出来たと思うのですけど…。」
事実、昼間の戦闘における水計の手腕、その後の混乱に乗じて追撃をかけ、連合軍からクスコ川を完全に奪い返し、3里も後退させた功によりセラエノ軍はノエル帝だけではなく、帝国軍兵卒に至るまで最前線で戦う者たちの信頼を勝ち取っていたのだが、龍雅は敢えて未だ新兵の域を出ないセラエノ軍だけで今回の夜襲を行うと決めた。
「アルフォンス、この夜襲は成功しなくても良いんだ。」
「え?」
成功しなくても良い策などあるのか。
アルフォンスは不思議そうな顔をして龍雅を見る。
「成功しなくても良いんだ。今回の夜襲は言わば威嚇。俺たちの紅蝶旗が帝国軍に翻っている間は何度でも痛い目に遭うぞ、というな。俺の狙いは持久戦なんだよ。今も出来すぎた戦果だが、時期を見て連中の長く伸び切った補給路を断ち、軍勢の維持が困難になる状況を作るのが俺の……、いや、沢木の狙いだ。だから別に今回の夜襲は成功しなくても良い。これは言ってみりゃ訓練の延長なんだから。」
彼が何故セラエノ軍だけで今回の夜襲を行うのか。
それは長期的な戦になることを見越して、魔物とは言え戦場においては未だ新兵の域を出ない味方を、ただでさえ訓練を課す時間など与えることが出来ないからこういう時に鍛えていこうという魂胆があった。
そしてこの少ない兵力で動いたのも、新月の夜の暗闇を利用して連合軍に同士討ちを誘おうとする狙いもあったのである。
「そういうこと、でしたか…と、物見が帰ってきましたよ。」
物見として先行していた者が戻ってくる。
成功しなくても良いということであったが、これはあくまで奇襲であるため、静かに行動せよ、という命令を無視して大慌てで馬を走らせてくる物見の彼に、龍雅は何か不審なものを感じ取った。
「何があった。」
物見の男は息切れをしながら言った。
「ぜ、前方に敵軍が待ち伏せしております!あちらもそれ程多くはないのですが、我が軍の奇襲を看破した上で、あちらの将が紅将軍との一騎討ちを所望しておられます!」
「ほう。」
龍雅の顔に喜びの色が浮かぶ。
「看破して尚、よもや俺に一騎討ちとは…。なるほどなるほど、わざわざ俺を指名するくらいだから、俺を討てば戦局が変わると睨んでいるようだな。それとも昼間、張り切って働きすぎたかな?まったくモテる男は辛いね。して、俺を指名するのは何処の将か。」
「ヴァルハリア教会騎士団長、ヒロ=ハイルでございます!」
この頃、ヴァルハリア教会領の近隣諸国にはそこそこ名の知られていたヒロ=ハイルではあったが、これが彼と幾度となく名勝負を繰り広げ、その勝負によってその名を才覚と武勇と共に広げていくことになるセラエノ軍大将、紅龍雅とのファーストコンタクトであった。
11/03/06 01:28更新 / 宿利京祐
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